ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【群馬】徳川発祥の地、太田市世良田、長楽寺で大きな三世仏を拝む

長楽寺(群馬県太田市世良田)三仏堂の三世仏

 群馬県太田市世良田。東関最初禅窟であり、兼学の寺として栄えた長楽寺は、徳川氏発祥の地でもある。その広い境内に坐しておられる、大きな三世仏を訪ねた。

長楽寺三仏堂内陣に丈六の三世仏

 釈迦如来(過去)、阿弥陀如来(現在)、弥勒菩薩(未来)の三世仏。像高2m超の大きな丈六仏がゆったりと坐していらっしゃった。

 三仏堂内、向かって右から
釈迦如来(過去)像高2.20m
阿弥陀如来(現在)像高2.53m
弥勒菩薩(未来)像高2.24m
(県指定文化財

向かって一番右、釈迦如来坐像
中央、阿弥陀如来坐像。頭部が大きめで、おおらかな印象
一番左、弥勒菩薩坐像。釈迦如来像と似て、キリリとした正統派の印象

 数年前、群馬県立歴史博物館「大新田氏」展で、新田氏のふるさとである太田市に興味をもった。その文化財を調べる中で出会ったのが、こちらの世良田の丈六仏である。

 事前にお電話で拝観のお願いをして訪れると、住職様がお堂を開けて待っていてくださった。

 おそれおおく、ありがたい。

三仏はいずれも寄木造り玉眼の漆塗金泥仕上げの坐像で、昭和59年から60年の三仏堂修理の際、釈迦如来の胎内から寛文10年(1670)の銘札が見つかっている。

 現在の三仏堂は三代目のお堂で、慶安4年(1651)3代将軍徳川家光の命により再建された。住職様によると、その建立に合わせて、釈迦如来像と弥勒菩薩が造られたのではないかとのこと。

太田市のホームページより

 また、中尊の阿弥陀如来だけ漆の成分が違うことも調査でわかったそうで、阿弥陀様だけさらに200年ほど遡る可能性があるのだという。二代目の三仏堂から引き継いだお像ではないかとのことだった。

 近くでよく見ると、釈迦如来様と弥勒菩薩様はきりりとした正統派の印象なのに対し、阿弥陀如来様は頭部が大きめで、衣文の流れなども大らかなように感じた。

 阿弥陀如来様は元々大きな台座に坐しておられたと考えら、下から見上げた時のバランスを考えて頭部が大きめになっていたのだろう。つまり、二代目の三仏堂は三代目のそれよりも規模が大きかったと考えられる。

この角度から見ると確かに、阿弥陀様は天井ぎりぎりな感じで座っておられる!

 それにしても、熊谷の平戸の大仏といい、江戸時代の大きなお仏像は、拝観者を大きく包み込んでくれるようだ。あたたかな包容力に身を委ねて、じっくり見上げたい。

 三仏堂は基本的に非公開だが、時々ボランティアの方の案内により公開しているのだそう。次はそうした機会を利用して、もっとゆっくり世良田を散策したい!

Everything will be all right! という阿弥陀様のサイン♡

【拝観案内】

世良田山長楽寺天台宗
新田氏の祖新田義重の子、徳川(新田)義季が、臨済宗開祖栄西の高弟栄朝を開山として、承久3年(1221)に創建した「東関最初禅窟」。約6万坪の境内に塔頭寺院が並ぶ、三宗兼学の寺として栄え、室町時代初期には日本五山十刹の第7位となるも、新田氏の衰退とともに荒廃。天正18年(1590)関東の地を与えられた徳川家康は、祖先開基の寺である長楽寺の再興を天海大僧正に当たらせる。天海により臨済宗から天台宗に改宗。世良田東照宮が境内に建立され、明治初めまでその別当寺だった。広い境内と豊富な文化財からその歴史が偲ばれる。
三仏堂は普段は閉まっており、時々ボランティアの方の案内により公開。
公式HP  世良田山 長楽寺 | 天台宗準別格大寺

長楽寺三仏堂(県指定文化財

【参考資料】

太田市文化財課サイト
長楽寺の概要と関連する指定文化財一覧 - 太田市ホームページ(文化財課) ←長楽寺の豊富な文化財の数々はこちらから
長楽寺三仏堂三尊仏 - 太田市ホームページ(文化財課) ←三世仏に関する説明はこちらから。上記の銘文の表はこのサイトより引用
〇境内の看板

【滋賀】正福寺(甲賀市)秘仏十一面観音菩薩立像〜霊木を感じる〜


正福寺(滋賀県甲賀市臨済宗妙心寺派

滋賀県甲賀市の正福寺。聖徳太子開基と伝え、平安以降は天台宗寺院として栄えた。1572年元亀・天正の乱で七堂伽藍を焼失するも、江戸時代初期、寛文年間に、実堂大和尚により臨済宗妙心寺派として再興。
令和の今、正福寺の禅寺らしい静謐な境内に、天台宗だった頃の貴重な平安仏が残る。特に、秘仏十一面観音菩薩立像は、霊木から現れたかのような尊いお姿で、とてつもなく引き込まれてしまった。木の中にみほとけを感じられた時代にのみ彫り出すことができる尊像だと思う。可愛らしくも、神々しい。神々しいのに、可愛らしい。私にはとんでもなく魅力的なのだ。毎年8月10日午前中に拝観できる。2022年に続き、2023年もお参りしてきたので、少し追記のうえ、再投稿する(2023.8.12)

ご本尊十一面観音菩薩立像(秘仏

像高126cm/平安/重文
ふっくらとした穏やかなご尊顔。浅い衣文。正面にから拝すると細身で、胸の辺りに木芯のようなものが見える。頭頂とその下に一列に並ぶ化仏まで一木で彫り出していると伺った。平安後期の作とされながらも、古様で、霊木を活かしたように感じる。隠れ里のような場所の静かな古寺には、厨子の中に霊力を閉じ込めているような秘仏がおられるものだ。
千日会の8月10日午前中にご開帳だが、膝から下は隠れて見えない。33年に一度の本開帳の時のみ全身を拝めるのだそうだ。10年後ぐらいに中開帳があるかもとお寺様はおっしゃっていた。機会があればまた拝観したい。

釈迦如来坐像

像高140cm/平安/重文
穏やかで気品あふれる。お身体は思いのほかどっしり。寄木造り。彫眼。定印を結ぶ。足元の衣文は同心円上に流れる。後補は少ない。

地蔵菩薩坐像

像高159cm/平安/市指定
寄木造り。彫眼。左手に錫杖、右手に宝珠。
秘仏十一面観音の両脇に、これだけの大きさの立派な釈迦如来坐像と地蔵菩薩坐像がおられる。みほとけの力があふれる本堂をぜひお参りいただきたい。


金剛力士

像高約197.6cm/平安/県指定


平安後期の仁王さん。欅の一木造りで内刳りなし。像高197.6cm。平安の仁王さんは珍しいと思うのだが、それでも県下3番目の古さとは。近年の保存修理を経て、2022年に仁王門に戻られ、2023年に文化財指定が市指定から県指定へ変更された。

以下は2022年拝観時のTwitter投稿

【京都】東福寺の仏像~近畿文化会の臨地講座にて非公開の仏像を拝む~

 2022年2月、近畿文化会の臨地講座「東福寺の仏像」に参加。時折雪の舞い散る中、龍谷大学の神田政章先生の解説のもと、東福寺に残る多くの仏像を拝観させていただいた。「京都冬の旅」で公開中だった法堂と三門に加えて、普段非公開の光明宝殿、国宝龍吟庵、永明院、南明院などを参拝。平安以降の仏像や頂相など、多様な尊像を拝ませていただいた。

 「東福寺に仏像? 紅葉ではなく?」と思う方もおられるかと。東福寺といえば、通天橋の紅葉。そして、明兆の涅槃図や堂本印象の天井の蒼雲龍図が有名だ。

 しかし、実は、仏像の宝庫だったのである! その理由として、創建時の東福寺が禅、真言、天台の三宗兼学の道場だったこと、また、法性寺や万寿寺、三聖寺の仏像が残ることを神田先生は指摘された。度重なる火災で失われた宝物も多いが、残されたものも多いのだった。

 以下、神田先生が近畿文化会の会報に寄せられた論文と当日の解説内容をぎゅぎゅっとまとめて、自らの復習としたい。

東福寺とは】

 京都五山の一つ。臨済宗東福寺派大本山。嘉禎2年(1236)、摂政九条(藤原)道家が法性寺の寺地に新たに寺院の建立を発願。寺号は南都の東大寺興福寺からそれぞれ一字を取り、大寺の造営を目指した。寛元元年(1243)、円爾弁円(聖一国師 1302-80)を開山に迎え、建長7年(1255)に仏殿が落慶。五丈の釈迦如来像を中尊とし、二丈五尺の観音・弥勒菩薩像を脇侍とする。その大きさから「新大仏」と呼ばれた。文永10年(1273)大伽藍が完成。禅僧だけなく、天台・真言僧もおく、三宗兼学の道場として栄えた。
 14世紀に3度にわたり火災があり、創建時の伽藍は灰燼に帰すが、貞和3年(1347)に前関白の一条経通が仏殿を再興。さらに足利義持豊臣秀吉徳川家康などによって伽藍は堅持された。明治14年に仏殿と法堂が焼失。昭和9年に、仏殿と法堂を兼ねた現在の本堂が完成。

【本堂(法堂)】

・釈迦如来及び迦葉・阿難尊者立像
 重要文化財 釈迦263.5cm、迦葉189.0cm、阿難193.08cm
 旧塔頭の三聖寺(さんしょうじ)仏殿の本尊で、明治の復興時に東福寺へ。釈迦如来立像は宋風で、泉涌寺塔頭戒光寺の釈迦如来立像(重文 540cm)と類似する。ゆったりと伸ばした左手の表現など戒光寺像のほうが宋風が顕著で、東福寺像は幾分和様化が認められる。
・四天王立像(鎌倉時代
 多聞天は他の三像よりも古く、鎌倉前期に遡る慶派の優品。四天王像は修理中で拝観できず、残念。
・仏手(木造漆箔 全長216.5cm
 罹災した東福寺大仏の片手。法堂の端に安置

伽藍神像4躯 像高1m余 立像で筆と巻子をもつ感応使者像は像内墨書から嘉吉元年(1441)、四条高倉に仏所を構える定祐の作と判明。
梵天と帝釈の椅像 院派の作風を示す南北朝の作
愛染明王
・堂本印象による天井の蒼雲龍図(実は泣き龍だそう)と、毎年涅槃会(3/14-16)に掲げられる明兆の涅槃図が有名。

普段は本堂の右手に安置される仏手。旧本尊釈迦如来坐像の左手で、膝の上で与願印を結んでいた。写真は東福寺展(2023年東京国立博物館)にて撮影

【愛染堂】

愛染明王像 未調査だが鎌倉時代とみられるとのこと。堂外からの拝観だったが、堂内照明によりよく見えた。

【三門】

 元応元年の罹災後に再建。禅宗の三門として最古。扁額「妙雲閣」は足利義持の揮毫で、応永32年(1425)の墨書あり。楼上の中央に宝冠釈迦如来坐像、その左右に善財童子と月蓋長者、十六羅漢像が並ぶ。天井や梁、柱には画僧吉山明兆(きっそんみんちょう)(1352‐1431)とその弟子らにより迦陵頻伽や宝相華文が描かれる。
・釈迦如来坐像 像高150.4cm 南北朝時代の院派の作風だが、肉付きや衣の厚みが増し、院吉や院広など14世紀の院派仏師の作風とは異なることから、三門再建時15世紀の作とみられる。等身大の十六羅漢像は釈迦如来像と一具の可能性も考えられ、それであれば十六羅漢が一具として伝わる我が国最古の例。善財童子と月蓋長者は本来観音菩薩の脇侍であるので、この釈迦如来像が観音菩薩とみなされていた時期があると考えられる。

【光明宝殿】

光明宝殿には、東福寺の伽藍伝来、旧法性寺関連、万寿寺伝来および三聖寺(さんしょうじ)伝来の仏像が安置される。

万寿寺と三聖寺の歴史] 
六条御堂(白河天皇が永長元年(1096)、皇女郁芳門院の追善のために創建。鎌倉時代法然の弟子、湛空→十地覚空が住持)→正嘉年間(1257-59)に十地覚空と弟子の東山湛照が東福寺円爾弁円に帰依して臨済宗に改宗し、万寿禅寺となる→室町時代京都五山→永享6年(1413)火災、天正年間に三聖寺(十地覚空と東山湛照が開基)の隣地に移転→明治6年(1873)に三聖寺が万寿寺に合併

阿弥陀如来坐像 像高283.0cm 重要文化財 
 白河天皇が皇女郁芳門院の追善のために建立した六条御堂の本尊とする説と、永万元年(1165)に九条忠通の追善のために建立された法性寺浄光明院の本尊とする説がある。平等院阿弥陀如来坐像(国宝 像高277.2cm 天喜元年1053)と同じく、丈六で弥陀定印を結び、結跏趺坐する。平等院像より伏し目で、肉取りがやや単調で総じて硬い。像内の全面に漆箔あり。院政期の像内漆箔の例として、保延5年(1139)頃の鳥羽上皇ゆかりの安楽寿院の阿弥陀如来坐像(重要文化財 像高87.6cm)がある。

金剛力士像 重要文化財 像高 阿形203.0cm 吽形207.3cm
 万寿寺伝来の像。木造彩色で玉眼嵌入。阿吽の左右が通常の配置と異なる(東大寺南大門と同じ)。

・二天王立像 重要文化財 像高 阿形336.8cm、吽形332.5cm
 三聖寺の二天門に伝わり、明徳2年(1391)焼失したものの再興像とされる。『東福寺誌』は天文11年(1542)に仏師康秀が三聖寺中門に持国天増長天を制作したと伝えるが、室町彫刻特有の鈍重さを感じさせない躍動感ある力強い彫技から、鎌倉時代に遡る可能性も十分検討に値する。

地蔵菩薩坐像 重要文化財 像高85.2cm
 仏殿に伝わったが、詳しい伝来は不明。鎌倉前期の様式だが、総じて保守的な作風をみせ、慶派とは別の系統の仏師によるとみられる。

・僧形坐像 重要文化財 像高82.8cm
 ほかの肖像彫刻とともに禅堂に伝わる。合掌して坐す僧形像。鎌倉前期。

・傅大士(ふだいし)及び二童子像 鎌倉~南北朝
 京都の大報恩寺に伝わる応永25年(1418)院隆作の像(重要文化財 像高各約70cm)より古く、傅大士の最古級の作例とみられる。

【永明院(ようめいいん)】

・円鑑禅師坐像 重要文化財 像高70.3cm
 丸顔で目じりを下げる。量感豊かな貫禄ある姿。像内の経巻の包み紙に正和5年(1316)の墨書があることから、円鑑禅師の七回忌にあわせた造像と推定。
・大道和尚坐像 重要文化財 像高74.8cm
 円鑑禅師像の左隣に安置。大道順空(1292-1370)は東福寺第28世で、明兆の師。寄木の木彫像に塑土を盛りつける。やや目じりを挙げて、「へ」の字に口を結ぶ。
・釈迦如来坐像 重要文化財 像高53.5cm
 円鑑禅師像の右隣に安置。宝冠釈迦如来坐像。像底の銘文より元享4年(1324)に西園寺大仏師法印性慶が永明庵本尊として造立したことが判明。性慶の他の作例として、志那神社(滋賀県草津市志那町)普賢菩薩坐像(建武元年、像高44.5c)など、三例が知られる。端正な表情で、頭体の比例は整い、なで肩で力みがなく、衣の折り畳みを装飾的に随所に表すなど、作風はまとまりのよい洗練さをみせる。

【南明院(なんめいいん)】

・本尊釈迦如来坐像 東福寺大仏の化仏の一つだったとされる。大正時代に火災に遭い、化仏の一つを譲り受け、本尊とした。その際の修復により現状は金ぴか。大きな化仏から、今はなき東福寺大仏の威容を想像する機会がいただけてありがたかった。

東福寺旧本尊の光背化仏だったとみられる釈迦如来坐像。今は塔頭南明院のご本尊である尊像の向こうに、焼け残った旧本尊の左手を仰ぐ。写真は東福寺展(東京国立博物館2023年)にて
南明院ご本尊。写真は東福寺展(東京国立博物館2023年)にて撮影

【龍吟庵】

・無関普門(大明国師1212-91)像

【同聚院】

※閉堂中のため、解説のみ
康尚の不動明王坐像(重要文化財 像高265.1cm)
左耳前に垂れる辮髪に結節がないのは、智証大師円珍請来の図像と一致。頭上に頂蓮ではなく沙髻を表し、腰にベルト状のものを着ける。

六波羅門】

 大きな三門のすぐそばの小さな門。この一見何でもない小さな門が六波羅探題のものを移築したと聞き、京都の奥深さに坂東武者の私は恐れ入った。

 最後に、今回の行き先に入っていなかった、東福寺塔頭の勝林寺の諸仏像を私はお勧めしたい。毎年紅葉の時期に公開があり、特に、夜間拝観がお勧めである。

参考文献

『近畿文化』855号(2021年2月)神田政章「東福寺の仏像」

達身寺クラファンに協力しませんか

達身寺クラファンに協力して
達身寺を自分の心に留めませんか

readyfor.jp

 数多くの仏像をおまつりする丹波正倉院、達身寺様(兵庫県丹波市)が、茅葺き屋根の修復費1600万円のうち、800万円をクラウドファンディングで募っています。all or nothing 方式のため、今月中にあと160万集まらなければ、成立しない状況です。

 しみじみ思うのですが、法隆寺聖林寺など超有名なお寺はあっという間に目標額を達成されるのに対し、それほど知られていないお寺は苦戦されることがあります。無名なお寺にとんでもない仏像や仏画などの文化財が伝えられていることを忘れてはいませんか。忘れてしまってよいのでしょうか。

 まずは達身寺さんのクラウドファンディングのサイトをのぞいてみてください。見事な仏像群の写真をご覧ください。一緒に協力しませんか。一人が100万寄付するよりも、多くの人が少しずつ参加して達身寺様を心に留めることに意味があると私は思うのです。


※過去参拝時のツィートです

【滋賀】岩間寺秘仏本尊千手観音ご開帳

岩間寺開山1300年記念
秘仏本尊千手観音ご開帳
2022/10/15-12/4

ご開帳のパンフと御朱印。写真右、散華の写真はお前立像

 岩間寺では、お寺の創建とご本尊を以下のように伝える。
「養老六年元正天皇の病気平癒祈願 を成満した泰澄は、同年、加賀白山を開く途上、霊地を求め岩間山を訪れた折、桂の大樹より千手陀羅尼を感得し、その桂の木で等身の千手観音像を刻み、元正天皇の御念持仏をその胎内に納め祀りご本尊とした」
 現在の秘仏元正天皇ご念持仏と伝わる15センチほどの金銅仏である。泰澄が刻んだという、桂の等身大の木彫仏は現存しない。創建時とされる養老6年は722年。元正天皇天武天皇9年(680)生まれで、天皇在位は715年から724年。いずれにしても、古いいわれのある尊像に違いない。
 小さな千手観音立像であるが、ほどよく照明が当たり、しっかりとお姿を拝むことができた。双眼鏡・単眼鏡は持っていったほうがよい。元正天皇ご念持仏を間近で拝めるとは、なんたる幸せだろう。
 本尊脇侍の婆藪仙人、吉祥天、そして前立観音様の並びも好き。本堂内の十一面観音立像、地蔵菩薩立像、そして不動堂の薬師如来坐像など、文化財クラスの平安仏が特に能書きもなくまつられているので、行かれる方はどうかお見逃しなきよう。(お時間あれば、以下の過去記事をご参考になさってくださいませ)

【追記】36歳で天皇即位したプリンセスの物語をいつかディズニー映画で拝見したいものだ。その際、きっとこの金銅仏が守護神のように活躍するに違いない。さながらラプンツェルにとってのパスカルのように、女帝の冒険を支えるお供であってほしい...(実は私はかなりのディズニーファンでもあるw)

元正天皇を調べていたら、ラプンツェルを思い出してしまった。ディズニー映画『塔の上のラプンツェル(Tangled)』は仏像ファンに限らずご覧いただきたい名作です

【関連する過去記事】
butsuzodiary.hateblo.jp


【拝観案内】
岩間寺正法寺
大津市石山内畑町82
TEL 077-534-2412
JR琵琶湖線 「石山」 下車 バス 15分 中千町下車徒歩50分
京滋バイパス石山ICから約20分
https://iwama-dera.or.jp/

【滋賀】成菩提院の秘仏本尊十一面観音さま、15年ぶりのご開帳

寂照院成菩提院(滋賀県米原市柏原)
寺宝展 2022/11/3-13

秘仏十一面観音立像(寺宝展ポスターより)
寺宝展開催中のお堂。歴代住職の肖像画が展示されているのが見える

 成菩提院中興開山第一世 貞舜(じょうしゅん)法印の600年御遠忌にあたり、秘仏ご本尊十一面観音菩薩が15年ぶりのご開帳。
 秘仏の十一面観菩薩様は立像で、大きな宮殿の中に不動明王毘沙門天の三尊でまつられる。事前に写真で拝見した時の印象よりもスレンダーで、ややシャープな感じ。平安後期から鎌倉への過渡期の特徴との説明に納得。穏やかなご尊顔で、頭上に十一面の化仏と立像を配する。右足をやや踏み出し、穏やかに腰をひねる。
 十一面観音様の向かって右に不動明王、左に毘沙門天不動明王は束ねた髪を左肩にたらし、両目を大きく見開き、上歯で下唇をかむ。頭上に蓮台あり。毘沙門天は大きく見開いた両眼に惹かれる。不動明王室町時代毘沙門天鎌倉時代の作。お厨子の中の3躯いずれも米原市指定文化財

秘仏三尊の絵が入口横に架けられていた。毘沙門天不動明王の立ち位置は実際にはこの逆だったが、三尊のサイズ感などがよくわかる

 また、聖徳太子1400回忌として絹本著色聖徳太子(重文)も公開。太子16歳の孝養像だが、右手に蓮華、左手に柄香炉を持つ独特なお姿。
戦国武将関連の資料も多く、石田三成十三ヶ条成菩提院村掟書(市指定文化財)などを展示。
 米原は遠いので諦めていたのだが、名古屋から在来線で1時間で行けると知り、急きょお参りした。伊吹山を見上げ、揺れるすすきも眺めてきた。


【拝観案内】
寂照院成菩提院
滋賀県米原市柏原1692
0749-57-1109
成菩提院 | 長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト

【京都】檀王法林寺で四天王立像を拝む

王法林寺(京都府京都市
参拝日=2020年9月初め

 2020年2月、大阪府和歌山県の県境、岬町にある興善寺をお参りした際、京都の檀王法林寺の楼門の四天王立像が明治まで興善寺におられたものだと教えていただいた。すぐにお参りしなければと思いつつ、コロナのため6か月余り経ってやっと拝観できた。
 檀王法林寺は京都の三条大橋のすぐそばに位置する。賑やかな一角にありながら、境内は静かで、保育園、児童館、子ども図書館もあり、和やかな空気が漂っていた。この地域では「だんのうさん」と親しまれているそうだ。


 楼門には、噂どおり、巨大な四天王が構えていた。これが興善寺の旧蔵の四天王だ。明治21年、檀王法林寺の楼門新築に伴い、檀王法林寺22世譲誉上人が購入したという。
 昭和53年の京都国立博物館の調査によると、四天王像の中で最も古式である広目天像は、興善寺の大日如来坐像(保安元年1120)銘のものと共通することから、平安時代後期の作と考えられている。興善寺の大きな胎蔵界大日如来を思い出す。他の四天王立像は鎌倉後期から南北朝多聞天の胎内の墨書には慈覚大師御作とあるが、定かではない。この時期に像高2mを超える巨像は珍しいそうだ。
 四天王像は平成8年から10年に修理が行われ、その際の願文は奉納者の干支別に四天王像の胎内に奉納された。

 興善寺を参拝したことを檀王法林寺のご住職にお話しすると、「よくお参りくださいました」とおっしゃってくださり、『第二十七世晋山記念 檀王法林寺縁起』という貴重な冊子をいただいた。檀王法林寺の歴史がわかりやすくまとめられており、勉強になる。

 心残りは、コロナのため、本堂の拝観ができなかったこと。定朝様の阿弥陀如来坐像(81.2cm 京都市指定文化財はいつか必ずお参りさせていただかねば。永久2年(1114)、白河法王の御願により建立された蓮華蔵院の旧仏と伝わる。蓮華蔵院は法勝寺の西に創建された同名寺院に比定される。その後、檀王法林寺の前身となる悟真寺を経て、檀王法林寺に伝わる。ヒノキに漆箔仕上げ。現在は本堂西側に安置。

 また、十一面観音立像(275cm 平安)もお参りしたい。この観音像は大和長谷寺の観音像と同木同作で仏師春日の作と伝わるそうだ。もとは大和竹林寺の本尊だったが、建仁寺内興雲院に供養されていたものを、明和8年(1771)に檀王法林寺12世良妙上人が譲り受け、安永5年(1776)に別堂を建てて安置した。現在の観音堂昭和12年(1937)の再建。

 末筆ではあるが、温かく受け入れてくださり、ご説明くださったお寺様に感謝申し上げたい。ありがとうございました。檀王法林寺は沖縄との関わりが深いそうで、時間が許せば、袋中上人のお話ももっと伺いたかった。またお参りさせていただく幸運に恵まれますように。

参考
〇檀王法林寺 檀王法林寺ホームページ 日本最古の招き猫伝説
〇興善寺ホームページ 鳳樹山興善寺
〇興善寺参拝記録 【大阪府】興善寺(岬町)に寄進して、仏像拝みにいきましょう! - ぶつぞうな日々 part III

【滋賀】善明寺(東近江市)〜阿弥陀様ご開扉は毎年2時間のみ〜

 滋賀の丈六阿弥陀如来坐像を巡礼するという活動を私一人で細々と続けている。今回は毎年1日のみ、しかも2時間しか開扉されない難関にチャレンジ。

善明寺(滋賀県東近江市横溝)
10月第3日曜11-13時頃ご開帳
阿弥陀如来坐像 277.2cm 平安(写真右側)
阿弥陀如来坐像 133.2cm 平安 胎内墨書により長承2年(1133)仏師河内講師僧快俊の作と判明。40名超の結縁交名も

善明寺の阿弥陀如来坐像。右が丈六坐像で、左はその半分の大きさ

 毎年10月第3日曜に彦根から住職が来られて法要がある。法要が終わった11時頃から2時間ほど一般向けに公開していただける。大きな収蔵庫に、丈六と半丈六の阿弥陀如来坐像が二尊並んでまつられる。

 間近で拝観できるので、必然的に丈六阿弥陀如来坐像は下から見上げることになる。阿弥陀様のお慈悲を体現したかのような気品のある大きさで、参拝者を優しく包み込んでくださる。もうただただ幸せである。
 同行された大沼芳幸先生いわく、「これだけの大きさの像を破綻なくまとめている。寄木造りにより仏像の大量生産が始まると、像の表現が形式化してくることがあるが、そうなる以前の作例ではないか」。つまり絶賛である。

 半丈六の阿弥陀如来坐像はまず、この垂れ目なところがたまらない。お参りする私もつい微笑んでしまう。このフレンドリーな阿弥陀様は彫刻史上重要な存在でもある。胎内墨書から造立年度や仏師名が判明し、また多くの結縁交名が見つかったことから、この地域の基準作されている。
 大沼先生に伺ったところ、現状の阿弥陀来迎印は後補で、元は別の如来像だったらしい。しかし、この優しさは阿弥陀様にふさわしいと私は思う。

 私は善明寺の二尊を「ダブルの阿弥陀さま!!」と興奮気味に呼んでいたが、仏友さんは「大小並んで、トトロみたい」と。確かに…! もはやトトロにしか見えなくなってしまった。
 メイちゃんになったつもりで、来年以降また大小のトトロ如来様をお参りできるよう願っている。


【拝観案内】
善明寺(臨済宗永源寺派
東近江市横溝町1659
10月第3日曜日11-13時頃にご開扉
www.higashiomi.net

阿弥陀様の写真は当日配布資料より

【東京】早稲田で谷崎潤一郎・志賀直哉・富岡重憲旧蔵の平安仏を拝む

 奈良の古仏が大好きなので、會津八一先生を尊敬しているのだが、早稲田大学にある會津八一記念博物館には行ったことがなかった。その八一博物館で今、千葉の下総龍角寺の白鳳仏薬師如来坐像が拝めると聞き、初めて行ってみたら、その横の菩薩立像が素晴らしくて驚いた。

 平安時代11世紀の作とされるこんなにも厳かな木彫仏が、あんなにもごちゃごちゃとした早稲田におられたとは。しかも、奈良に多い板光背ではないか。えーえー? ええっーーー?? 一瞬にして奈良にワープしたような感覚になってしまった…!

早稲田大学會津八一記念博物館にて

 露出展示され、間近で拝めるのもありがたい。厳かなご尊顔。穏やかな垂髪。わずかに右腰を上げ、左膝をかがめた姿勢がたまらない。控えめに彫り出した臂釧。左の太腿にかかるハート型の衣文も私にとってチャームポイント。そして、むき出した木目を眺めていると、驚きで興奮した心も穏やかになった。

板光背は当初のものなのか
威厳ある横顔
右腰を上げ、左膝を突き出す
大好きです♡

 いったいどこのお寺におられたのだろう。室生寺十一面観音や、法輪寺の十一面観音や弥勒菩薩霊山寺薬師三尊などを思い出しながら、家に帰り、改めて写真を見直した。菩薩像の横に掲示されていた展示解説によると、谷崎潤一郎が奈良で購入した仏像だった。やはり奈良のお寺におられたのだろうか。奈良の新薬師寺の近く、高畑の志賀直哉の家に戦前まで安置されていたそうだ。私が愛してやまない流転の仏像の一つだった。

1927 谷崎潤一郎が奈良の森田一善堂で購入

1934志賀直哉へ譲渡され、奈良・高畑の自宅に安置

戦後の混乱期に流出

1954 大倉亀(誰だ?)

1960 壺中居

1972 富岡重憲(日本重化学工業創始者)が購入

1979 富岡重憲の私邸を改装した大田区山王の財団法人富岡美術館へ

2004早稲田大学會津八一記念博物館へ

 そういうわけで、これから時々早稲田に行くことになりそうだ!

【拝観案内】
早稲田大学會津八一記念博物館www.waseda.jp

【大阪】千日会でご開帳の観音様を拝む~大阪編2 如願寺と四天王寺~


 大阪の千日会のご開帳めぐり、大林寺の次は大阪市の如願寺と四天王寺をご紹介したい。

如願寺(大阪府大阪市平野区

 坂東武者の私(笑)にとって、かなり不思議な地名、喜連瓜破(キレウリワリ)。その駅の近くに如願寺はあった。喜連(キレ)は『古事記伝』にも登場する古い地名だそうで、如願寺は元々は聖徳太子が喜連寺として創建したのが始まりだという。一時は大伽藍を構えるもの、次第に堂宇は縮小。弘仁年間に弘法大師空海が再興して如願寺と改め、脇侍不動明王毘沙門天を自作安置したと伝わる。
 そんな由緒正しい古刹を訪ねるとなんと、ロシア人の副住職、慈真さまが迎えてくださった。日本語が堪能で、昔の日本人のように気配りされる、お優しい方だった。お話を伺うと、副住職はウラジオストク出身で、現地の大学で日本文化を学んだあと、大阪の大学に留学。ウラジオストクに戻って、日本語通訳などの仕事をしていたとき、ツアーガイドとして訪れた如願寺住職の娘さんと出会い、恋に落ちてしまい、仁和寺で修業し、現在に至るのだそうだ。ウラジオストクでは空海について研究したのだそう。人生とはどこまでが偶然で、どこからが必然なのか、不思議なものだ。義父である住職はウクライナカラーのマスクをされ、副住職の質問に優しく応じておられた。副住職の奥様はご本尊十一面観音様を版画で描き、参拝者に蓮茶をふるまう。如願寺ファミリーの温かさが伝わってきて、一瞬にしてファンになってしまった。

 そんな如願寺の仏像をご紹介する。内陣に上げていただき、厨子の前まで進んで拝観させていただいた。

如願寺内陣

ご本尊 聖観音菩薩立像

 ケヤキの一木造り。平安前期の末頃の作とされ、総高205cm。大阪府指定有形文化財
 本堂内陣中央、お厨子の近くに進むと、膝下に緩やかな翻波式衣文が見えた。その上に控えめな渦文。下腹部に流れる衣文も美しい。解説によると、右手の指端と腕の関節から手掌までの部分が後補であるが、それ以外は当初のまま。脇侍は毘沙門と不動明王の立像。
 8月9日と10日の千日会の日のみ開扉される。開扉時間は朝9時から夜19時までと長い。私は夕方に伺ったが、もしまた次にお参りできるのなら、日が落ちた夜の時間帯に照明による光の荘厳のもとでお参りしたい。

ご本尊聖観音菩薩さま

地蔵菩薩立像

 寄木造りだが、体部の根幹はほぼ一木造り。平安時代後期12世紀後半。大阪市指定有形文化財
 丸顔で、なで肩。衣文は浅く上品で、全体的に穏やかな印象ながら、腹帯を締め、錫杖を持ってしっかりと立つ。

厨子の前で見上げる地蔵菩薩様は神秘的だった

四天王寺の千日会

 如願寺と合わせて、四天王寺も参拝。千日会の際、聖霊院にて、聖徳太子本地仏救世観音で秘仏の「試みの観音」像がご開帳。8月9日と10日、9-17時。ご開帳の観音様は小さめで、外陣から拝観のためかなり距離があり、坐像のシルエットが伺えるのみだった。なぜか千日会のときに鬼大師のお札が授与される。列に並んで、ありがたく拝受した。せっかくなので、金堂と講堂も参拝。昭和の空襲後の再建ながら、聖徳太子の息遣いが感じられる空間は居心地がよい。

【拝観案内】

〇霊峰山如願寺(真言宗御室派
住所 〒547-0027 大阪市平野区喜連6-1-38
電話 06-6709-2510
摂津国三十三ヶ所第32番札所
摂津国八十八箇所第37番札所

〇総本山四天王寺
住所 〒543-0051 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
電話 06-6771-0066

【大阪】千日会でご開帳の観音様を拝む~大阪編1 大林寺(松原市)~

千日詣のご開帳!

 四万六千日をご存知だろうか。その日に観音様をお参りすると、四万六日分お参りしたのと同じご利益があると言われており、特別なご法要や観音様の尊像のご開帳が行われる。東京都内だと主に7月9~10日に行われており、特に、護国寺の夜の法要とご本尊如意輪観音菩薩のご開帳は感動的だ。浅草寺でのほおずき市は毎年ニュースになる夏の風物詩だが、それが四万六千日のお祭りであることを知っている人はどれぐらいいるのだろう。
 四万六千日のお祭りは、東京以外では8月9~10日が多い。夏のせいなのか、夜にご開帳を行う例もみられ、特に、三重県鈴鹿市の林光寺のご開帳は8月9日夜11時から明け1時頃までの限定である。一部の説によると、9日から10日に変わる時間帯が観音様のお力が最も強いのだとか。

 関西では、千日会とか千日詣などと呼ぶことが多いようで、その日にお参りすることのご利益はその名の通り千日分。関東よりだいぶ控えであるのが、いずれにしても観音様の功徳が大きいという点に変わりない。
 そして、仏像ファンが見逃せないのは、関東でも関西でも、この日に一部のお寺で普段非公開の観音菩薩の尊像がご開帳となるという点だ! 
 というわけで、今年は関西に出かけてみた。少し調べてみたところ7月にご開帳を行っているところもあるようだが、やはりメインは8月9日と10日のようだった。大阪府滋賀県のお寺8か寺をお参りしたので、まずは大阪府からご紹介したい。

大林寺(大阪府松原市

 千日会8月9日の8-17時頃に十一面観音立像がご開帳。別日でも予約拝観に対応してくださるそうだが、せっかくなので千日会の日にお参りさせていただいた。

十一面観音菩薩立像

 ヒノキの一木造り。像高171.5cm。平安時代10世紀末から11世紀初めの作と考えられる。大阪府指定文化財

大林寺(大阪府松原市)の木造十一面観音菩薩立像。10世紀末から11世紀初めの奈良系仏師によるものと考えられる。等身大を越える見事なお像

 まずお堂に入ってお像を見上げた時の感動は言葉にできない。「わー、大阪にこんな立派な古像が!? わー、わー、どうしましょう!」となってしまった。
 落ち着いて、松原市教育委員会の解説を読むと、なおのこと感動する。短くまとめると以下の内容が書いてあった。
 本像は明治6年(1873)に廃寺となった永興寺(布忍寺)の本尊だった。平安初期の一木造り像のような豊かな量感がありながら、身体の抑揚は抑えられ、衣文の彫りは浅く規則的で総じて穏やか。大腿部に浅い翻波式衣文と両膝の間も渦巻状の衣文があり、平安初期の彫像の伝統を引き継ぐ一方、直立して動きの少ない落ち着いた造形や量感をあまり強調しない胸や腹、彫りの浅い衣文は、平安初期の彫刻が和様化し後期へ進む過程の中でとらえることができる。特に深い面奥に比して丸い面貌に浅く目鼻立ちを刻む点や、長身で量感をあまり強調しない体躯、古様の渦巻状の衣文を見せる特徴は、10世紀彫刻のなかでも「奈良系仏像」と称される一群と共通する(※以上は松原市教育委員会の解説より←PDFが開きます)。
 なお、お寺のパンフによると、永興寺は堀河天皇の御願により寛治3年(1089)に永興律師により建立。ご本尊十一面観音立像とともに大般若経等も大林寺に移されて、今も伝えられている。永興寺の創建をめぐっては法華経持者の不思議な伝説があるので、簡単に紹介したい。永興律師の弟子の一人が諸国行脚の途中、熊野の山中で亡くなった。その肉体は髑髏になっても、舌だけは朽ちることなく、法華経の読経を続けいてたという。弟子が律師の夢枕に立ち、こう言った。「出家の時、法華経1万部を誦せんと願を起こす。命限りあって望みをはたさず、よって死後も舌、朽ちず誦すること3年、ついに願望成就す、願わくば遺骨を拾って故郷にうつし、一宇の梵舎を建立し給え」と。永興律師が弟子の故郷である河内に金堂を建てて観音菩薩を安じ、堂下に弟子の遺骨を収めたのが永興寺だという。髑髏の舌が読経するこの話は『日本霊異記』や『今昔物語』に書かれるものだという。

阿弥陀如来不動明王

 なお、大林寺は今は融通念仏宗で、本尊は阿弥陀三尊の立像である。阿弥陀如来立像は南北朝時代のもの。来迎のお姿が美しい。本堂にまつられる不動明王坐像は室町時代

融通念仏宗大林寺のご本尊は南北朝阿弥陀如来立像
来迎の阿弥陀三尊
不動明王坐像は室町と伺った


 最後になるが、私は融通念仏宗に敬意の念を抱いている。融通念仏宗のお寺をお参りするたび、総本山大念仏寺で5月に開催される二十五菩薩のお練供養、万部おねりの話をしてしまう。今回も、万部おねりがなぜ好きなのかという話を早口でまくし立ててしまった。お寺様は優しく耳を傾けてくださった。ご回在などについて当方の質問に答えてくださった。ちょっとした裏話を教えていただき、二十五菩薩のクリアファイルもいただいてしまった。ファンとして認定された証だと勝手に解釈している。

【拝観案内】

布忍山大林寺
融通念仏宗第五番 大林寺 河内西国霊場会
住所 〒580-0025 大阪府松原市北新町1-10-5 地図https://goo.gl/maps/aBPGC95tc7tiBQsY7
電話 0723-31-0718

【参考資料】

1) 松原市文化財サイト:松原市指定有形文化財 大林寺 木造十一面観音立像/松原市
2) 四万六千日と千日詣の定義は地域や寺によって微妙に変わるようで、冒頭の私の説明はいくつかお寺を巡った経験からのざっくりした感覚にすぎない。一方、コトバンクには次のような説明があるが、日本全国を網羅した説明とはなっておらず、満足のいく説明だとは思えない。どこかに定義づける論文はないのだろうか!?
四万六千日(しまんろくせんにち)とは? 意味や使い方 - コトバンク
千日参り(せんにちまいり)とは? 意味や使い方 - コトバンク
3) 「お練供養? 万部おねり?」と思われた方はぜひ、こちらを流し読みください。
butsuzodiary.hateblo.jp



 

【展覧会】琉球展で琉球国王菩提寺の仏像を拝む

沖縄復帰50年記念
特別展「琉球
東京会場
2022年5月3日(火・祝)~6月26日(日)
東京国立博物館 平成館


 あまり話題になっていないようだが、東京国立博物館琉球」展にて、琉球の王、尚(しょう)家の菩提寺だった円覚寺の仏像が展示されている。鎌倉の臨済宗の古刹からその名をとり、首里城近くにあった円覚寺は、沖縄戦で破壊され、廃寺に。瓦礫の中から市民が拾い出した仏像とその残欠が沖縄県立博物館・美術館に収められている。そうした仏像や残欠の一部に加えて、近年再建された円覚寺総門の仁王像が今、東京の上野で展示中である。琉球と仏教との関わりを伝える貴重な資料ではなかろうか!? 

円覚寺の釈迦如来および文殊普賢菩薩坐像。写真は @vietnamcat さんが2019年九州国立博物館文化財よ、永遠に」展にて撮影。ご本人様より許可を得て転載。「琉球」展でも同様の配置で展示されていた。

釈迦如来及び文殊菩薩普賢菩薩坐像/獅子と象(沖縄県立博物館・美術館)

寛文10年(1670) 吉野右京 
木造 漆箔 玉眼(文殊
 旧円覚寺仏殿の本尊。沖縄戦の瓦礫の中から回収し、沖縄県立博物館で保管されてきた。寛文10年(1670)、京都仏師 吉野右京の作。釈迦如来普賢菩薩は頭部を丸ごと失っているが、文殊菩薩には精悍な御顔が残り、造立当初の精巧な彫技がしのばれる。
 破損する前の写真(鎌倉芳太郎 撮影)を見ると、釈迦如来の両脇侍の普賢菩薩文殊菩薩には蓮台があり、それぞれ象と獅子に乗っていた。この象と獅子も一緒に展示されているが、こちらも御顔を欠く。

羅漢立像(沖縄県立博物館・美術館)

木造 彩色 清時代
 像高50cmに満たない小さな羅漢立像が3躯お出まし。康熙35年(1690)、福州(福建省)から請来され、円覚寺山門の上屋に安置されていた。バラエティに富んだ表情やポーズが印象的。
 琉球王の菩提寺には、中国の仏像と上記の日本の京都仏師による仏像の両方がまつられていた。交易による琉球の豊かな文化を伝える貴重な資料であり、それが戦災を経て現存することの意義は大きい。

仁王像残欠(沖縄県立博物館・美術館)

当初材は室町時代15-16世紀、後補材は第二尚氏時代18-19世紀
 
 円覚寺に安置されていた仁王像は沖縄戦で破壊。阿吽像の13の破片が戦後まもなく市民によって収集され、沖縄県立博物館の開館当初からの所有となった。本展では、左腕部、体幹部正面左腕部、左足部と左脚部を展示。
 調査により当初材はカヤで、後補材はマキであることが判明した。カヤが琉球に自生しないことなどから、京都の院派仏師の作とみられる。
 琉球王国が滅んだ明治以降も、阿形像が「ニオーブトゥキ」、吽形像が「マカーブトゥキ」と呼ばれ、親しまれていた。ブトゥキは仏という意味だという。

模造復元 旧円覚寺仁王像(阿吽形)(沖縄県立博物館・美術館)

製作者 岡田靖[(一社)木文研]、菅浦誠
令和2年

 沖縄県による「琉球王国文化遺産集積・再興事業」により、上記の13の仁王像残欠への調査と長老への聞き取りをもとに復元された仁王像。
法住寺(石川県)の仁王像(享徳2年(1453)、京仏師の院勝・院超の作)、安土城下、摠見寺(滋賀県)の仁王像(1467年、仏師因幡院朝)など、同時代の京都の院派仏師による仁王像が参考にされた。

【参考資料】

1) TakaさんTwitter


2) 「旧円覚寺仁王像復元制作に関する研究」
園原 謙 長谷洋一 岡田 靖 上江洲安亨 大山幹成 門叶冬樹 園部凌也 山田千里 本多貴之 宮腰哲雄『沖縄県立博物館・美術館,博物館紀要』第11号別刷 2018年3月30日
→こちらからPDFで読める
https://okimu.jp/userfiles/files/011008.pdf

3) 「〈資料紹介〉仏像彫刻」『沖縄県立博物館紀要』第16号, 43-70, 1990
→こちらからPDFで読める
https://okimu.jp/userfiles/files/page/museum/issue/bulletin/kiyou16/16-4.pdf
1990年の文献なので、釈迦三尊は修理前の写真が掲載されている。

【滋賀県】【東京】常楽寺聖観音菩薩立像@東京長浜観音堂

東京長浜観音堂にて
常楽寺聖観音菩薩立像 2022/6/12まで

長浜市指定文化財
木造 古色 彫眼 像高101.8cm
平安後期、12世紀

 滋賀県長浜市湖北町山本山の中腹に建つ常楽寺より、聖観音立像が東京長浜観音堂にお出ましである。常楽寺の本尊は薬師如来。この観音像は普段は本尊さまの後ろの須弥壇の上、厨子内に安置されている。美しい12世紀の観音像を都内で拝める貴重な機会だ。

[解説書より]
 左手で蓮華を取り、右手でその茎を支える。腰を軽く左に曲げる。髻頂にかすかに金箔痕。右顎に下地痕。
 衣は衣文線を刻まず、平滑で簡素に仕上げる。肩は丸く、身体の奥行きは薄い。
 檜と思われる針葉樹による一木造り。木芯は像後方にわずかに外す。内刳りなし。

[感想]
 明るい照明のもと、お像の全体を良く拝見できる。ガラスケースの反射はなし。静かにゆっくり観音さまを見上げられる環境に感謝。
 そして、「木芯は像後方にわずかに外す」という解説にドキドキしてしまう。そのことに何か意味があるのだろうか。
 また、今回、この小さな都心の観音堂で、仏像好きの友人二人と遭遇。ありがたいし、楽しい! 仏像と東京人だけでなく、人と人とを結ぶ場所にもなっていることを、長浜市さんはご存知か。
 常楽寺は年4回の法要時のみ公開。観音祭りの際にも公開されていないらしい。お寺のパンフによると、南北朝時代のクールな毘沙門天立像もおられるようだ。いつかお寺をお参りできるだろうか。

【読書録】 『院政期の仏像ー定朝から運慶へー』(京都国立博物館 平成3年)に学ぶ

院政期の仏像ー定朝から運慶へー』京都国立博物館特別展図録(平成3年)を読む!

表紙は安楽寿院の阿弥陀如来坐像

 先日拝観させていただいた西念寺木津川市)の薬師如来坐像(拝観ログはこちら)が掲載されていると知り、古書をネット購入した。平安時代院政期の珠玉の仏像を時代に沿って紹介する展覧会の図録である。
 ページをパラパラめくった瞬間、名作揃いの仏像のラインアップに仰天した。そして、院派円派、奈良仏師の流れが学べるマニアックさに感動する。
 例えば、冒頭に登場するのが、平等院の雲中供養菩薩。そう聞くと、「ふーん、なーんだ、知ってますよ、平安後期の傑作でしょ! 常識だし、大好きー」と思うのが一般的な反応ではなかろうか。
 ところが、そんなざっくりな解説は本書には存在しない! 雲中供養菩薩のうち、南1号には定朝の作風を受け継ぐ弟子覚助(定朝の実子とみられる)の作風が見られ、繊細で安定感のある北25号には長勢(覚助の兄弟弟子)の作風が見出せる、というオタク紛いの解説が、あっけらかんと書いてある。「平安後期」という括りで納得してわかった気になっていた我が身を深く反省したのだった。
 康慶、運慶、快慶あたりの系譜は知ったつもりでいたが、定朝以降の院政期の系譜と細かな作風の違いについて私は勉強不足であった。大いに反省すると同時に、静かな知的興奮を覚えながら拝読した。平成3年の図録であるので、それ以降の研究成果が反映されていない点に注意は必要だが、それでも、とても勉強になる一冊である。そして、掲載される仏像の写真はどれも美しい。
 素晴らしい仏像ばかりなのだが、特に、福井県小浜市の羽賀寺の千手観音菩薩立像と毘沙門天立像および明通寺の不動明王立像に言及したい。もともと小浜の天満神社(雲月京)の神宮寺であった松林寺に三尊としてまつられていたが、神仏分離のため明治初年に現在のお寺に遷されたのだそう。こういう流転の仏像が好きでたまらない。先日お参りしたばかりで感動もひとしお。

図録の冒頭に掲載される雲中供養菩薩
小浜の松林寺にまつられていた三尊(現在羽賀寺と明通寺が所蔵)

【本書の主な内容】

 以下、本書の主な内容を紹介する。下記の引用部分は各章の頭に掲載されていた文章である。そして、文中に♡がついているのは私が特に拝観希望の尊像である(お会いできる日を夢みている!)

目次

シンプルな目次がパワフル

仏師系図(p13)

P13掲載の仏師系図

天皇上皇と仏師の活躍時期(※p13-14より転載)

後三条天皇(在位1068-1072)
ー覚助(1067-1077) (※法橋叙位ー没)
ー長勢(1065-1091)
白河上皇院政1086-1129)
ー院助(1077-1108)
ー頼助(1103-1119)
ー円勢(1083-1134)
鳥羽上皇院政1129-1156)
ー院覚(1130-?)
ー康助(1116-?)
ー長円(1105-1150)
ー賢円(1114-?)
後鳥羽上皇院政1158-1192 一時中断あり)
ー院尊(1154-1198)
ー康朝(1154-?)
ー康慶(1177-?)
ー明円(?-1200)

I 定朝の後継仏師ー覚助・長勢ー

 仏像の和様を大成したとされる定朝が天喜5年(1057)没すると、その子息と推定される覚助と、覚助の兄弟弟子の長勢が後継者となる。二人は法成寺の復興、円宗寺や法勝寺の造仏などで協力するが、その作風は早くから異なっていたと考えられる。

 上記の雲中供養菩薩像のほか、現在東京国立博物館の常設によくお出ましになる雲中菩薩像と国分寺兵庫県)の雲中供養菩薩像が掲載される。さらに、広隆寺京都市)の秘仏本尊薬師如来像の脇侍である日光菩薩立像と十二神将の迷企羅、安底羅、因達羅を長勢の作として紹介。いずれも顔が小ぶりで、体部が細身である点に長勢の作風をみると説明。浄瑠璃寺の四天王像も全員お出ましであった(※ちなみに、今は一部が博物館寄託なので、四天王全員がお揃いのところを私は拝見したことがない)。
 明治初めまで祇園社(現在の八坂神社)の本地仏として境内観慶寺の本尊としてまつられていた、大蓮寺(京都)の薬師如来立像(♡ 大蓮寺HPによると秘仏)は、定朝作の平等院阿弥陀如来に似た面貌など、定朝様を正統に受け継ぐことから、覚助の作と推定。西念寺京都府京田辺)の十一面観音立像(♡)は、もともと近くの白山神社本地仏で、こちらも定朝様を忠実に受け継いだ覚助の作風(※長らく京都国立博物館預かりとなっていたが、2015年以降、法雲寺にまつられている。詳しくは友人カルマさんのひたすら仏像拝観をぜひ)。さらに、大将軍八神社の神像2躯もこの章で紹介。

II 円勢主導の時代ー院助・円勢・頼助ー

長勢の弟子円勢は法勝寺や尊勝寺の造仏に活躍し、定朝のスタイルからは少し離れた軟らかみのある作風を確立したが、覚助の子息院助は年少で、かつ早世したこともあり、その作風はよく判らない。院助の弟の頼助は奈良に下り、興福寺の造仏に従事し、奈良仏師の祖となる。

 宇治白川金色院に伝来した地蔵院(京都)の阿弥陀如来立像(♡)と観音菩薩跪坐像、即成院(京都)供養菩薩坐像(観音、左2、左12)、像高30.3cmの石部神社(滋賀)薬師如来坐像仁和寺の円勢・長円作の国宝薬師如来坐像に似る)、高田寺(京都)薬師如来坐像(♡)。さらに、東北から平泉中尊寺金堂(岩手)の観音菩薩立像と地蔵菩薩立像、瑠璃光院(岩手)大日如来坐像も。

III 院・円二派と奈良仏師の鼎立ー院覚・長円・賢円・康助ー

長円・賢円の兄弟は、鳥羽や白河における夥しい造仏をこなし、その軟らかな作風が迎えられて円派の全盛時代を築く。院覚ははじめ院関係の仕事がなかったが、のち待賢門院などの造仏に活躍し、定朝に忠実な作風を旨とした。一方康助は奈良から再び京都への進出を図っている。

 醍醐寺(京都)の上醍醐薬師堂にまつられていた吉祥天立像は大治5年(1130)の作で、あまり動きがなく、面長な顔で目や口を中央に寄せた相好は定朝仏とはかなり異なり、宋風にもとづくものか、と説明。同じく醍醐寺炎魔天騎牛像(※本書では閻魔天ではなく炎魔天と表記)は待賢門院の出産時の本尊とされる。宇治白川金色院の鎮守白山神社(京都)の本地仏である十一面観音立像(♡)。長岳寺(奈良)観音菩薩半跏像(玉眼使用の最古例で、康助の作という説もある)、峰定寺(京都)の千手観音坐像(♡ 円派か)と不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像など。旧中川寺成身院にまつられた西念寺(京都)の薬師如来坐像(本稿冒頭で言及)も。法隆寺(奈良)阿弥陀如来坐像(♡)は胸前で両手の一・二指を捻ずる説法印。以前よりお会いしたくてたまらない安楽寿院(京都)の阿弥陀如来坐像(♡)は「面長となる顔や数多く配された衣文などに、定朝仏の直模ではない独自性が見られ、この時期の円派仏師の作風を窺うまたとない遺品」と紹介。

VI 院派の勢力挽回ー院尊・明円ー

平重衡の兵火により焼失した奈良の東大寺興福寺の復興と、後白河院の御所法住寺殿周辺の造寺造仏に焦点が移った。院尊はこの時期の造仏界の第一人者となり、京都では明円がこれに続いた。奈良仏師の動きはともかく、京都にあっては院派・円派はそれぞれの伝統的作風を遵守した。

 旧中川寺(奈良)の十輪院持仏堂の旧仏で、川端龍子が所蔵していた毘沙門天立像三十三間堂から千手観音菩薩立像の39号と160号。先に言及した羽賀寺の千手観音(長寛3年1165)・毘沙門天(治承2年1178)、明通寺の不動明王像(12世紀後半)も本章に掲載。七寺(愛知)勢至菩薩坐像。大覚寺(京都)五大明王像(明円 作)は、円派仏師の伝統である丸みのある優美なつくりで、同時期の運慶の大日如来坐像(円成寺)と好対照。長講堂(京都)勢至菩薩半跏像、慈恩寺(山形)の両腕を欠いた来迎の菩薩跪坐像など。さらに、専定寺(京都)阿弥陀如来坐像(♡ もともと蓮華王院阿弥陀堂本尊で、後白河上皇念持仏。像内内刳り面に漆箔)、法道寺(大阪)阿弥陀如来坐像(♡ 八角裳懸座。衣を台座の周囲に沿って垂らす裳懸座の形式は院政期の仏画によく見られ、仏像でも少なくなかったはずだが、現存遺例はわずか)、檀王法林寺(京都)阿弥陀如来坐像(♡ 丸顔で穏やかな相好と小さな手足に円勢の作風が感じられるが、硬い衣文から時代は下り12世紀の円派仏師の作か)とヒヨドリ垂涎の如来像が続く。

V 奈良仏師の活躍ー康慶・運慶ー

頼助以来奈良に本拠を移した奈良仏師の作風は、院派・円派のそれから大幅に異なるものではなかったが、康慶の代に至り、奈良時代平安時代前期の古典を学ぶことで、飛躍的に清新な作風を確立した。運慶もそれに倣い、かつ東大寺興福寺の復興や鎌倉御家人の造仏などに携わることで、稀に見るダイナミックな作風を打ち立てた。

 運慶の円成寺(奈良)大日如来坐像、康慶の瑞林寺(静岡)地蔵菩薩坐像、快慶の八葉蓮華寺(大阪)の阿弥陀如来立像、運慶の六波羅蜜寺(京都)地蔵菩薩坐像、クリーブランド美術館の菩薩半跏像、横蔵寺(岐阜)大日如来坐像(筑前講師作)、慈眼寺(兵庫)釈迦如来坐像、清水寺(京都)観音・勢至菩薩立像など。

(追記 本稿に関連する過去の記事)

1) 山本勉先生の清泉女子大での講義「院派仏師~近世まで生きのびたもうひとつの老舗ブランド~」(2019年)の受講記録
定朝から江戸時代の院達まで、院派の歴史をたどる講義。コミュニティ講座とは思えない充実の内容。壮大なる2時間の講義録です!
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2) 木津川の西念寺薬師如来坐像と同じく旧中川寺伝来の毘沙門天立像について
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3) 八角裳懸座について(大阪府堺・法道寺の阿弥陀如来坐像への言及あり。いまだに拝顔ならずなのであります)
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【展覧会】【福井県】あるお寺のほとけさま(県立若狭歴史博物館)

福井県立若狭歴史博物館
「あるお寺のほとけさま
秘仏観音像と伝来の古仏ー」
2022/4/24-5/29

小浜市某寺の秘仏観音さまのうるわしきお姿(展覧会ポスター)

 由緒ある古刹に古仏が住まわれる福井県小浜市。小さなお寺やお堂も点在し、そこにも古仏が潜んでおられるのだという。

 そんな小さなお寺の一つから、平安仏を中心とする諸像をまとめて紹介する展覧会が若狭歴博で開催されている。

 セキュリティへの配慮からであろうか、お寺の名前はあくまで明かされない。代わりに、「あるお寺のほとけさま」という可愛らしい題名がつけられた。そして、それに食いついてしまったのが、こちらの仏像大好きおねえさんである。小浜市某寺からお出ましの仏像全13躯を堪能した。もはや、総出開帳である。

 ポスターに大きく掲載される美しい尊像は、本堂の宮殿型厨子にまつられる平安の秘仏本尊だ。展示解説によると、柔和な表情の檀像で、幼児のように頭部と足が大きい一方、いかり肩で肘が長く、均整を無視した古様の姿。裳の衣文は単調なのに対し、条帛と天衣の衣文は密に彫られ、変化をつけている。平安初期の作とみられるのだそうだ。見れば見るほど惹かれる、不思議なお像だった。

 秘仏の両脇侍は江戸時代の毘沙門天立像と不動明王立像。お寺では、秘仏本尊とともに、同じ宮殿型厨子内に安置される。厨子と同時に造立されたものとみられる。某寺の現在の宗派について説明はなかったが、この三尊形式が天台系である点には留意しておきたい。

 さらに、展示の大半を占めるのは、大小十数躯の朽ちた平安仏である。これらは本堂奥の壇上にまつられる客仏なのだという。

 それにしても、寺名を伏せて、博物館ですべての仏像の出開帳を行ってしまうとは! それを実現させた関係各位の突破力に脱帽である!!


※ 展示室の写真は若狭歴博公式FBをご覧ください→https://www.facebook.com/100063749281820/posts/379163417551965/?d=n

※ 図録なし。展示リストを貼っておく。

出展リスト