ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【展覧会】琉球展で琉球国王菩提寺の仏像を拝む

沖縄復帰50年記念
特別展「琉球
東京会場
2022年5月3日(火・祝)~6月26日(日)
東京国立博物館 平成館


 あまり話題になっていないようだが、東京国立博物館琉球」展にて、琉球の王、尚(しょう)家の菩提寺だった円覚寺の仏像が展示されている。鎌倉の臨済宗の古刹からその名をとり、首里城近くにあった円覚寺は、沖縄戦で破壊され、廃寺に。瓦礫の中から市民が拾い出した仏像とその残欠が沖縄県立博物館・美術館に収められている。そうした仏像や残欠の一部に加えて、近年再建された円覚寺総門の仁王像が今、東京の上野で展示中である。琉球と仏教との関わりを伝える貴重な資料ではなかろうか!? 

円覚寺の釈迦如来および文殊普賢菩薩坐像。写真は @vietnamcat さんが2019年九州国立博物館文化財よ、永遠に」展にて撮影。ご本人様より許可を得て転載。「琉球」展でも同様の配置で展示されていた。

釈迦如来及び文殊菩薩普賢菩薩坐像/獅子と象(沖縄県立博物館・美術館)

寛文10年(1670) 吉野右京 
木造 漆箔 玉眼(文殊
 旧円覚寺仏殿の本尊。沖縄戦の瓦礫の中から回収し、沖縄県立博物館で保管されてきた。寛文10年(1670)、京都仏師 吉野右京の作。釈迦如来普賢菩薩は頭部を丸ごと失っているが、文殊菩薩には精悍な御顔が残り、造立当初の精巧な彫技がしのばれる。
 破損する前の写真(鎌倉芳太郎 撮影)を見ると、釈迦如来の両脇侍の普賢菩薩文殊菩薩には蓮台があり、それぞれ象と獅子に乗っていた。この象と獅子も一緒に展示されているが、こちらも御顔を欠く。

羅漢立像(沖縄県立博物館・美術館)

木造 彩色 清時代
 像高50cmに満たない小さな羅漢立像が3躯お出まし。康熙35年(1690)、福州(福建省)から請来され、円覚寺山門の上屋に安置されていた。バラエティに富んだ表情やポーズが印象的。
 琉球王の菩提寺には、中国の仏像と上記の日本の京都仏師による仏像の両方がまつられていた。交易による琉球の豊かな文化を伝える貴重な資料であり、それが戦災を経て現存することの意義は大きい。

仁王像残欠(沖縄県立博物館・美術館)

当初材は室町時代15-16世紀、後補材は第二尚氏時代18-19世紀
 
 円覚寺に安置されていた仁王像は沖縄戦で破壊。阿吽像の13の破片が戦後まもなく市民によって収集され、沖縄県立博物館の開館当初からの所有となった。本展では、左腕部、体幹部正面左腕部、左足部と左脚部を展示。
 調査により当初材はカヤで、後補材はマキであることが判明した。カヤが琉球に自生しないことなどから、京都の院派仏師の作とみられる。
 琉球王国が滅んだ明治以降も、阿形像が「ニオーブトゥキ」、吽形像が「マカーブトゥキ」と呼ばれ、親しまれていた。ブトゥキは仏という意味だという。

模造復元 旧円覚寺仁王像(阿吽形)(沖縄県立博物館・美術館)

製作者 岡田靖[(一社)木文研]、菅浦誠
令和2年

 沖縄県による「琉球王国文化遺産集積・再興事業」により、上記の13の仁王像残欠への調査と長老への聞き取りをもとに復元された仁王像。
法住寺(石川県)の仁王像(享徳2年(1453)、京仏師の院勝・院超の作)、安土城下、摠見寺(滋賀県)の仁王像(1467年、仏師因幡院朝)など、同時代の京都の院派仏師による仁王像が参考にされた。

【参考資料】

1) TakaさんTwitter


2) 「旧円覚寺仁王像復元制作に関する研究」
園原 謙 長谷洋一 岡田 靖 上江洲安亨 大山幹成 門叶冬樹 園部凌也 山田千里 本多貴之 宮腰哲雄『沖縄県立博物館・美術館,博物館紀要』第11号別刷 2018年3月30日
→こちらからPDFで読める
https://okimu.jp/userfiles/files/011008.pdf

3) 「〈資料紹介〉仏像彫刻」『沖縄県立博物館紀要』第16号, 43-70, 1990
→こちらからPDFで読める
https://okimu.jp/userfiles/files/page/museum/issue/bulletin/kiyou16/16-4.pdf
1990年の文献なので、釈迦三尊は修理前の写真が掲載されている。