ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【受講】山本勉氏「院派仏師~近世まで生きのびたもうひとつの老舗ブランド~」2019年1月26日

 2019年1月26日、清泉女子大学の一般向け一日講座で山本勉先生の講義を受講しました。タイトルは「院派仏師~近世まで生きのびたもうひとつの老舗ブランド~」。
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 「もうひとつの老舗ブランド」という言葉の裏に、運慶や快慶の活躍した慶派だけではなく、院派も注目すべき仏師の系譜だという思いを感じます。私のわずかな仏像めぐりの経験の中でも、院派仏師の名前は近畿(京都の法金剛院や蓮華王院、六道珍皇寺など)のみならず、関東(横浜称名寺や浜松方広寺など)でも耳にしました。しかも、その時代も平安末から江戸まで長期間に及びます。
 とはいえ、これまで院派についてまとめて学ぶ機会がなかったので、この講座を聴講することにしました。濃密な2時間でした!
 復習を兼ねて、受講内容を以下のとおりまとめした。※注意!)私の理解不足や聞き間違いなどにより、大小問わず間違いがあるかと思うので、その旨申し添えます。間違いがありましたら、お知らせいただけますとうれしいです。

山本勉氏「院派仏師」受講メモ

1 仏師と定朝流

 講義ではまず、「仏師」という言葉の変遷について説明があった。
 奈良時代までは、「司馬鞍作首止利仏師」(法隆寺金堂釈迦三尊像銘記、623年)、興福寺西金堂を手がけた「仏師将軍万福」(造仏所作物帳、734年)など、「仏師」とは、工人組織の長を指す言葉だったと考えられ、官僚組織に属していた。両者は渡来系一族の出身だったことも特徴である。奈良時代末頃には「仏師武蔵村主多利丸」(日本霊異記)など、民間にも「仏師」の使用例が見られるが、いずれも俗名に過ぎなかった。
 平安時代前期に入ると、仏師は僧名となり、僧籍を持つ者に限られるようになる。「仏師明定」(830年、叡岳要記)、「仏師妙広」(833年、知恩院本瑜伽師地論 奥書)、「仏師仁算」(863年、叡岳要記)などの例があり、当初は寺院に属したと見られる。
 平安中期10世紀に至って、康尚(こうじょう)が初めて独立した仏師工房を立ち上げる。康尚は998年、土佐講師(講師とは地方の僧官。必ずしもその地方に在住したわけではない)に任命されたあと、藤原道長のために浄妙寺三昧堂普賢菩薩像(1005年)のほか、法性寺五大堂五大明王像(1006年)を造立した。法性寺の不動明王坐像は京都の同聚院に現存する。
 康尚を引き継いた定朝(?~1057年)は、藤原道長、頼道親子のために法成寺や平等院の造仏を行うなかで、法橋、法眼という僧綱(そうごう)を得た。僧綱とは、仏教行政を統括するために国家が任命する僧官を指し、学識や年臈(受戒してからの年数)を積んだ僧の高い位として貞観6年(864年)に制定されたもの。上から法印(ほういん)、法眼(ほうげん)、法橋(ほっきょう)がある。仏師に僧綱が付与されたのは前例のない破格のことだった。
 定朝は、法橋として法成寺の諸仏を造り(法成寺の金堂大日如来、五大堂五大明王、薬師堂七仏薬師。1022~1023年)、法眼となってから平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像(1053年)を造った。天皇家の出身ではない道長にとって、法成寺には摂関家の神聖化を強調する役割があった。仏師である定朝に僧綱を与えた背景として、摂関家が仏像と寺の権威強化を狙ったと考えられる。

2 院派の創始

 康尚と定朝のあと、仏師の系図は覚助と長勢を経て三つに分かれ、奈良仏師、院派、円派の三派が成立する。

       | ーー頼助ー康助(奈良仏師)
定朝ーー覚助ー
   |    | ーーー院助ー院覚(院派)
   |    
   |
   | ー長勢ーーー円勢ー長円(円派)

 定朝の子、覚助は法橋(1067年)、法眼(1070年)となり、1077年に没した後、そのグループは奈良仏師と院派とに分かれた。
 一方、定朝の弟子だった長勢は法橋(1065年)、法眼(1070年)、法印(1077年)と進み、1091年に没した後、その派閥は円勢、長円へと引き継がれ、円派となる。長勢の遺作に京都・広隆寺の日光月光菩薩十二神将がある(※スライドで写真が提示されたのだが、広隆寺宝物館の入り口付近におられる像だったように思う...薬師如来秘仏のはず)。
 なお、これまでは奈良仏師が定朝の直系とされ、院派と円派は傍系とされることが多かったが、院助の系統(院派)を定朝嫡流(直系)とした武笠朗の研究(『週刊朝日百科国宝の美』25彫刻9所収2010年)は注目に値する。

 定朝の仕事はこれら三派にどのように引き継がれたのか。院派は摂関家藤原氏)に関係する平安京と周辺の寺院の造仏を引き継ぎ、奈良仏師は摂関家の氏寺である興福寺を担った。円派は、院政政権の樹立(白河上皇1086年~)によって大きな権力を持ち始めた宮廷関係の仕事を手掛けた。初期の円派(円勢、長円)の隆盛にはそうした背景がある。(ちなみに、円勢と長円の作として仁和寺の国宝薬師如来坐像がある)

 平安後期の院派の系譜は次のとおり。

院助ーー院覚ーーー院朝
       |
       | ー院尊

院助(1077法橋、1105法眼)
院覚(1130法橋、1132法眼)
院朝(1161以前に法印、桓武平氏の一党、院覚の猶子?)
院尊(1178以前に法印、1198没)

 この時期にどのような仏像が造られたのか。
醍醐寺閻魔天像(待賢門院御仏、93.9センチ)は院覚周辺の作と推定される(※サントリー美術館醍醐寺展で感動したお像だ!)。
〇確実なところでは、京都・法金剛院の阿弥陀如来坐像(待賢門院発願、1130年に供養、224センチ)が院覚の作。
〇また、後白河上皇の時代、1164年に供養された京都・妙法院蓮華王院(三十三間堂)の千手観音菩薩像は、奈良仏師康助の主宰のもと、三派仏師が参加したと考えられる。

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法金剛院の阿弥陀如来坐像(写真は法金剛院さま公式サイトより)

3 南都復興と院派

 1180年、南都炎上により、大仏を始め東大寺興福寺の堂宇が焼失する。南都の復興が開始される時点で優位に立っていたのが院派だと考えられる。興福寺の講堂と金堂(中金堂)の造像を院尊が独占しようとしたところ、1181年6月、円派の明円と奈良仏師嫡流成朝が訴え出て、同年7月、以下のような分担により造像が開始された。
興福寺 金堂=明円(円派)、講堂=院尊(院派)、食堂=成朝(奈良仏師)、南円堂=康慶
 院尊が南都で優位だった背景として、造興福寺長官である藤原兼光が院派仏師と姻戚関係にあったことが関係するのではないか。東大寺大仏の復興において、鋳造を手掛けたのは宋出身の陳和卿だが、頭部の原型を手掛けたのは院尊ではなかったか。この頃までは院尊が南都復興の中心だったのではないか。
 また、院尊が手掛けたと考えられる像に以下がある。
〇京都・長講堂の阿弥陀如来と両脇侍像(1183~1185頃。阿弥陀174.2cm、左脇侍96.9cm、右脇侍95.1cm)
後白河院の六条洞院の仏堂にあったが、文治4年(1188年)に六条殿焼亡。再興時に院尊が安置した。

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長講堂の阿弥陀三尊(写真はhitabutsuさんのブログより)

4 鎌倉時代の院派

鎌倉前期
1198 院尊没
1199 院実が法印に(※運慶が法印になったのは1203年)
1207 最勝四天王院供養。院賢の舞楽面(現存する=東大寺最勝四天王院遺物)
1215 後鳥羽院逆修(本尊仏師は院実、湛慶、院賢、快慶。つまりは、院派仏師の中に慶派仏師が紛れ込んで仕事をしていた...)
1221 承久の乱

鎌倉中期
1223 院範(いんぱん) 宝積寺(京都府大山崎町)十一面観音立像(182.2cm)※やさしく眠っているような表情。保守的な表現
1252 院智(いんち) 仁和寺京都市)悉達太子坐像(53.6cm)※昨年の仁和寺展に出展
1266 院恵・院承・院継ら 蓮華王院本堂供養 ※1249年の焼亡による再建(中尊は1254年、湛慶による)
 蓮華王院千体仏の造像においては、以下のように院派が最も人数が多い。作風の観点からは、慶派は新様式をとりいれ、院派は保守的。円派はその中間の作風である。
 慶派=仏師4人、像数22
 院派=仏師12人、像数104
 円派=仏師4人、増数43 

鎌倉後期 1(地方や奈良へ)
1268 院快 釈迦・阿弥陀(山口 二尊院
1269 院快・院静・院禅 阿弥陀如来(滋賀 来迎寺)
1270 院豪・院快・院静・院禅 阿弥陀如来(島根 清泰寺)など
1277 院恵・院道 聖徳太子(奈良 達磨寺)
1289 院湛 奈良秋篠寺の仏像4躯(伎芸天など、頭部は乾漆のもの)

鎌倉後期 2(真言律宗とのかかわり)(東国へ)
1308 院保・院吉・院興 釈迦如来立像(横浜・称名寺)※金沢文庫で時々展示される清涼寺式のもの
1319 院えん(「えん」はさんずい+宛)・院吉・院教など 十一面観音(京都の法金剛院)

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法金剛院の十一面観音坐像(写真はお寺のサイトより)
1332 院誉 十一面観音(慶珊寺 神奈川)

5 南北朝時代の院派

足利将軍家の仏師、院吉・院広

1352 院吉・院広・院遵 釈迦如来および両脇侍像(浜松 方広寺

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方広寺の釈迦三尊(写真は方広寺のサイトより)

6 その他の院派

別系統の「覚」字をもつ院派の仏師
1451 覚伝 愛染明王像(京都・西正寺)
1543 覚継・覚吉 足利義殖像(冬持院昭堂)など

江戸時代の「院吉末裔」院達
1653~1673の事績の知られる藤原種次(=吉野右京)と1677~1696の事績の知られる院達は同一人物らしい。湛海(1629~1716)の助作もつとめる。
1689年の小野篁・冥官・獄卒像(京都・六道珍皇寺)が代表作。篁像が220センチ、冥官・獄卒像は140センチ。

以上