『院政期の仏像ー定朝から運慶へー』京都国立博物館特別展図録(平成3年)を読む!
先日拝観させていただいた西念寺(木津川市)の薬師如来坐像(拝観ログはこちら)が掲載されていると知り、古書をネット購入した。平安時代、院政期の珠玉の仏像を時代に沿って紹介する展覧会の図録である。
ページをパラパラめくった瞬間、名作揃いの仏像のラインアップに仰天した。そして、院派、円派、奈良仏師の流れが学べるマニアックさに感動する。
例えば、冒頭に登場するのが、平等院の雲中供養菩薩。そう聞くと、「ふーん、なーんだ、知ってますよ、平安後期の傑作でしょ! 常識だし、大好きー」と思うのが一般的な反応ではなかろうか。
ところが、そんなざっくりな解説は本書には存在しない! 雲中供養菩薩のうち、南1号には定朝の作風を受け継ぐ弟子覚助(定朝の実子とみられる)の作風が見られ、繊細で安定感のある北25号には長勢(覚助の兄弟弟子)の作風が見出せる、というオタク紛いの解説が、あっけらかんと書いてある。「平安後期」という括りで納得してわかった気になっていた我が身を深く反省したのだった。
康慶、運慶、快慶あたりの系譜は知ったつもりでいたが、定朝以降の院政期の系譜と細かな作風の違いについて私は勉強不足であった。大いに反省すると同時に、静かな知的興奮を覚えながら拝読した。平成3年の図録であるので、それ以降の研究成果が反映されていない点に注意は必要だが、それでも、とても勉強になる一冊である。そして、掲載される仏像の写真はどれも美しい。
素晴らしい仏像ばかりなのだが、特に、福井県小浜市の羽賀寺の千手観音菩薩立像と毘沙門天立像および明通寺の不動明王立像に言及したい。もともと小浜の天満神社(雲月京)の神宮寺であった松林寺に三尊としてまつられていたが、神仏分離のため明治初年に現在のお寺に遷されたのだそう。こういう流転の仏像が好きでたまらない。先日お参りしたばかりで感動もひとしお。
【本書の主な内容】
以下、本書の主な内容を紹介する。下記の引用部分は各章の頭に掲載されていた文章である。そして、文中に♡がついているのは私が特に拝観希望の尊像である(お会いできる日を夢みている!)
目次
仏師系図(p13)
天皇・上皇と仏師の活躍時期(※p13-14より転載)
後三条天皇(在位1068-1072)
ー覚助(1067-1077) (※法橋叙位ー没)
ー長勢(1065-1091)
白河上皇(院政1086-1129)
ー院助(1077-1108)
ー頼助(1103-1119)
ー円勢(1083-1134)
鳥羽上皇(院政1129-1156)
ー院覚(1130-?)
ー康助(1116-?)
ー長円(1105-1150)
ー賢円(1114-?)
後鳥羽上皇(院政1158-1192 一時中断あり)
ー院尊(1154-1198)
ー康朝(1154-?)
ー康慶(1177-?)
ー明円(?-1200)
I 定朝の後継仏師ー覚助・長勢ー
仏像の和様を大成したとされる定朝が天喜5年(1057)没すると、その子息と推定される覚助と、覚助の兄弟弟子の長勢が後継者となる。二人は法成寺の復興、円宗寺や法勝寺の造仏などで協力するが、その作風は早くから異なっていたと考えられる。
上記の雲中供養菩薩像のほか、現在東京国立博物館の常設によくお出ましになる雲中菩薩像と国分寺(兵庫県)の雲中供養菩薩像が掲載される。さらに、広隆寺(京都市)の秘仏本尊薬師如来像の脇侍である日光菩薩立像と十二神将の迷企羅、安底羅、因達羅を長勢の作として紹介。いずれも顔が小ぶりで、体部が細身である点に長勢の作風をみると説明。浄瑠璃寺の四天王像も全員お出ましであった(※ちなみに、今は一部が博物館寄託なので、四天王全員がお揃いのところを私は拝見したことがない)。
明治初めまで祇園社(現在の八坂神社)の本地仏として境内観慶寺の本尊としてまつられていた、大蓮寺(京都)の薬師如来立像(♡ 大蓮寺HPによると秘仏)は、定朝作の平等院阿弥陀如来に似た面貌など、定朝様を正統に受け継ぐことから、覚助の作と推定。西念寺(京都府京田辺)の十一面観音立像(♡)は、もともと近くの白山神社の本地仏で、こちらも定朝様を忠実に受け継いだ覚助の作風(※長らく京都国立博物館預かりとなっていたが、2015年以降、法雲寺にまつられている。詳しくは友人カルマさんのひたすら仏像拝観をぜひ)。さらに、大将軍八神社の神像2躯もこの章で紹介。
II 円勢主導の時代ー院助・円勢・頼助ー
長勢の弟子円勢は法勝寺や尊勝寺の造仏に活躍し、定朝のスタイルからは少し離れた軟らかみのある作風を確立したが、覚助の子息院助は年少で、かつ早世したこともあり、その作風はよく判らない。院助の弟の頼助は奈良に下り、興福寺の造仏に従事し、奈良仏師の祖となる。
宇治白川金色院に伝来した地蔵院(京都)の阿弥陀如来立像(♡)と観音菩薩跪坐像、即成院(京都)供養菩薩坐像(観音、左2、左12)、像高30.3cmの石部神社(滋賀)薬師如来坐像(仁和寺の円勢・長円作の国宝薬師如来坐像に似る)、高田寺(京都)薬師如来坐像(♡)。さらに、東北から平泉中尊寺金堂(岩手)の観音菩薩立像と地蔵菩薩立像、瑠璃光院(岩手)大日如来坐像も。
III 院・円二派と奈良仏師の鼎立ー院覚・長円・賢円・康助ー
長円・賢円の兄弟は、鳥羽や白河における夥しい造仏をこなし、その軟らかな作風が迎えられて円派の全盛時代を築く。院覚ははじめ院関係の仕事がなかったが、のち待賢門院などの造仏に活躍し、定朝に忠実な作風を旨とした。一方康助は奈良から再び京都への進出を図っている。
醍醐寺(京都)の上醍醐薬師堂にまつられていた吉祥天立像は大治5年(1130)の作で、あまり動きがなく、面長な顔で目や口を中央に寄せた相好は定朝仏とはかなり異なり、宋風にもとづくものか、と説明。同じく醍醐寺の炎魔天騎牛像(※本書では閻魔天ではなく炎魔天と表記)は待賢門院の出産時の本尊とされる。宇治白川金色院の鎮守白山神社(京都)の本地仏である十一面観音立像(♡)。長岳寺(奈良)観音菩薩半跏像(玉眼使用の最古例で、康助の作という説もある)、峰定寺(京都)の千手観音坐像(♡ 円派か)と不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像など。旧中川寺成身院にまつられた西念寺(京都)の薬師如来坐像(本稿冒頭で言及)も。法隆寺(奈良)阿弥陀如来坐像(♡)は胸前で両手の一・二指を捻ずる説法印。以前よりお会いしたくてたまらない安楽寿院(京都)の阿弥陀如来坐像(♡)は「面長となる顔や数多く配された衣文などに、定朝仏の直模ではない独自性が見られ、この時期の円派仏師の作風を窺うまたとない遺品」と紹介。
VI 院派の勢力挽回ー院尊・明円ー
平重衡の兵火により焼失した奈良の東大寺・興福寺の復興と、後白河院の御所法住寺殿周辺の造寺造仏に焦点が移った。院尊はこの時期の造仏界の第一人者となり、京都では明円がこれに続いた。奈良仏師の動きはともかく、京都にあっては院派・円派はそれぞれの伝統的作風を遵守した。
旧中川寺(奈良)の十輪院持仏堂の旧仏で、川端龍子が所蔵していた毘沙門天立像。三十三間堂から千手観音菩薩立像の39号と160号。先に言及した羽賀寺の千手観音(長寛3年1165)・毘沙門天(治承2年1178)、明通寺の不動明王像(12世紀後半)も本章に掲載。七寺(愛知)勢至菩薩坐像。大覚寺(京都)五大明王像(明円 作)は、円派仏師の伝統である丸みのある優美なつくりで、同時期の運慶の大日如来坐像(円成寺)と好対照。長講堂(京都)勢至菩薩半跏像、慈恩寺(山形)の両腕を欠いた来迎の菩薩跪坐像など。さらに、専定寺(京都)阿弥陀如来坐像(♡ もともと蓮華王院阿弥陀堂本尊で、後白河上皇念持仏。像内内刳り面に漆箔)、法道寺(大阪)阿弥陀如来坐像(♡ 八角裳懸座。衣を台座の周囲に沿って垂らす裳懸座の形式は院政期の仏画によく見られ、仏像でも少なくなかったはずだが、現存遺例はわずか)、檀王法林寺(京都)阿弥陀如来坐像(♡ 丸顔で穏やかな相好と小さな手足に円勢の作風が感じられるが、硬い衣文から時代は下り12世紀の円派仏師の作か)とヒヨドリ垂涎の如来像が続く。
V 奈良仏師の活躍ー康慶・運慶ー
頼助以来奈良に本拠を移した奈良仏師の作風は、院派・円派のそれから大幅に異なるものではなかったが、康慶の代に至り、奈良時代や平安時代前期の古典を学ぶことで、飛躍的に清新な作風を確立した。運慶もそれに倣い、かつ東大寺・興福寺の復興や鎌倉御家人の造仏などに携わることで、稀に見るダイナミックな作風を打ち立てた。
運慶の円成寺(奈良)大日如来坐像、康慶の瑞林寺(静岡)地蔵菩薩坐像、快慶の八葉蓮華寺(大阪)の阿弥陀如来立像、運慶の六波羅蜜寺(京都)地蔵菩薩坐像、クリーブランド美術館の菩薩半跏像、横蔵寺(岐阜)大日如来坐像(筑前講師作)、慈眼寺(兵庫)釈迦如来坐像、清水寺(京都)観音・勢至菩薩立像など。
(追記 本稿に関連する過去の記事)
1) 山本勉先生の清泉女子大での講義「院派仏師~近世まで生きのびたもうひとつの老舗ブランド~」(2019年)の受講記録
定朝から江戸時代の院達まで、院派の歴史をたどる講義。コミュニティ講座とは思えない充実の内容。壮大なる2時間の講義録です!
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2) 木津川の西念寺の薬師如来坐像と同じく旧中川寺伝来の毘沙門天立像について
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3) 八角裳懸座について(大阪府堺・法道寺の阿弥陀如来坐像への言及あり。いまだに拝顔ならずなのであります)
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