明王院(広島県福山市)
秘仏十一面観世音菩薩さまご開帳
2024/11/1-11/4
- 1) 序文~穏やかな照明のもと秘仏観音様にお会いする~
- 2) 明王院のみほとけ!
- 2-1) 本堂
- 2-2) 五重塔
- 2-3) 護摩堂
- 2-4) 書院
- 3) 拝観順路
- 4) 感想まとめ
- 【参考文献】
- 【参拝案内】
1) 序文~穏やかな照明のもと秘仏観音様にお会いする~
秘仏十一面観音菩薩さま33年ぶりのご開帳にお参りした。
穏やかな照明のもと、お厨子の近くで憧れの観音さまにお会いできた。泣いた。写真で拝見していた印象の何百倍も神々しい。ありがたくて、ありがたくて、ありがたい。
お腹から下の衣文は平安前期に特有の深いもの。膝下には明らかな翻波式衣文。その一方、この時期だとご尊顔が厳しかったりするのだが、明王院の観音様は伏目で、慈愛に満ちている。ただ見惚れる。
照明の当て方が愛に満ちていた。お厨子の下から小さなスポットライトが二つ。さらに、内陣と外陣の境の壁の上から大きなライトが二つ。観音様が美しく見えるように工夫したに違いない。
春日厨子も美しい。脇侍の毘沙門天と不動明王の立像の穏やかな佇まいもよい。つまりは極楽のような空間だった。
昨年、五重塔の弥勒菩薩坐像の頭部から、釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩の三尊のハンコを押した紙がたくさん見つかった。ご結縁の方々が奉納した、いわゆる印仏である。今回のご開帳では、これと同じデザインのハンコが作られており、一般参拝者も押すことができた。私はもちろん参加。
明王院の五重塔は中世の方々が少額寄進して建てたという銘が残る。その皆様の思いを後世に伝えるため、私の少額のお納めが少しでもお役に立ちますよう。
2-1) 本堂
秘仏十一面観音菩薩立像(重文)
33年に一度ご開帳の秘仏。一木造り。像高149.2cm。本体と共木で造られた蓮肉部を含む総高は171.7cm。一木造りの木取りは、両腕内側の天衣遊離部を含め、右手上膊の半ばまでと、左手首までを含む。蓮華座に立つ左足の親指が上に向いているが、これも一材から彫出されているというから、驚きだ。着衣の衣文は深く、美しく、複雑に流れる。膝から下には、はっきりとした翻波式を刻む。
観音様はお厨子の中におられるため、側面と背面は見えない。展覧会図録に掲載の写真を拝見すると、どっしりと量感がある。特に、背面の美しさに魅了された。背面にも翻波式衣文がある。
こうした平安前期の特徴があると、ご尊顔は厳しく強烈な印象があってもおかしくない。しかし、この明王院の十一面観音様のご尊顔は森厳でありながら、慈しみに満ちている。私はそう感じた。照明はお顔に特に白めに当てているので、それが観音様の見え方に大きく影響を与えているとは思う。お顔だけ白く浮かび上がっているように見えた。そのためなのかどうなのか、ご尊顔は伏し目がちで、厳しめでありながら、なぜかお優しい。ご一緒に参拝した女性数名から、「なんて優しいお顔なの...」というため息も聞こえてきた。
この厳しくも優しくも見えるご尊顔は、この観音様の大きな特徴の一つなのではないか。「ふくやまの仏さま」展図録(2024年)では、このご尊顔について、かなり主観的な文章が掲載されており、その思いを強くした。以下に引用する(同図録p124上段より)。
>引用始め>この観音像の最大の魅力は、柔らかく、慈愛に満ちており、それでいて芯の通った強さを感じさせる面貌にあります。まっすぐ正面を見据える眼差しは、祈りを捧げるものを包み込む慈悲を湛え、引き結んだ唇は、弱い心を打ち滅ぼし、正しい道へと導こうとする強い意志を表出しています。<引用終わり
図録といえば、寸法だったり制作年代だったり、サイエンスベースで記述するものだ。それなのに、上記のようにお像の"意志"にまで踏み込んだ書き方をしている。筆者の先生も観音様のご尊顔に強く魅了された証であろう。
2-2) 五重塔
弥勒菩薩坐像および両脇侍坐像(県指定)
明王院の国宝五重塔に弥勒菩薩坐像、不動明王坐像、愛染明王坐像の三尊がまつられる。五重塔の伏鉢(貞和4年 1348)には、兜率天上詣の願望を遂げ、弥勒菩薩と縁を結ぶため、一文勧進の小資を募って建立されたことを示す銘がある。明王院の門前に流れる芦田川の中州、草戸千軒の民衆が、少額を寄進したことを伺わせる貴重な銘文である。(同伏鉢のレプリカが、福山駅近く、広島県立歴史博物館<ふくやま草戸千軒ミュージアム>で展示されている。草戸千軒の街並み復元もあるので、明王院と合わせて訪問するのも悪くない!)
弥勒菩薩、不動、愛染とも、造立時期は五重塔建立の貞和4年(1348)頃。どの像も一木割矧ぎで、玉眼嵌入。
この弥勒菩薩坐像は実に興味深い。2022年度から2023年にかけて保存修理が行われ、頭部内の空洞に紙状の納入品が納められていることが判明したのである。紙縒(こより)でつながれた印仏2点と、折紙の書状(断片・印仏含む)1点だった。印仏は地蔵菩薩、釈迦如来、薬師如来の三尊を一つの版とし、紙の表と裏に捺印され、紙縒で閉じられていた。一文寄進によるご結縁の証として、弥勒菩薩坐像の頭部に納入されたと考えられる。
今回のご開帳では、この印仏のデザインを模ったハンコが用意されており、それを参拝者が押すことができた。令和の印仏として、五重塔に納めていただけるという。印仏に憧れていたので、一瞬の迷いもなく、志納のうえ、この印仏に参加させていただいた。ありがたい!
なお、明王院五重塔の弥勒菩薩から印仏が見つかったというニュースは昨年拝見していたのだが、その際、五重塔なのだから弥勒菩薩ではなく、大日如来なのではないか、と素朴な疑問を感じた。今回の旅で、五重塔が兜率天におられる弥勒菩薩との結縁を願って建立されたことを知り、なるほどと思った。
これに関連して驚いたことがある。33年前、1991年の展覧会図録を拝見すると、この弥勒菩薩坐像が、なんとなんと、胎蔵界の大日如来坐像として掲載されていたのである! 当時の写真を見ると、今のように宝塔をお持ちではない。さらに、明王院公式ホームページの文化財欄にも、まだ大日如来として掲載されている。むむむ、つまりは、わりと最近まで胎蔵界大日如来として認識されており、その後の研究によって弥勒菩薩坐像と特定されたのだろう。
調べてみると、2016年に福山市教育委員会が大日如来から弥勒菩薩へと名称変更したことがわかった。
濱田宣先生の論文によると、その理由は三つある。
i) 掌上に柄穴が確認され、弥勒菩薩の持つ宝塔があった可能性が高いと考えられること、
ii) 五重塔屋根上の伏鉢印刻銘に弥勒菩薩と結縁するために同塔を建立したとあること、および、
iii)五重塔内四天柱に描かれた三十六の尊像に弥勒菩薩を加えることによって金剛界三十七尊が揃うこと。
とてもとても興味深い。お像の尊名が変わったのは、研究の進歩によるもの。敬意を表したい。
さらに、もう一点付記すると、五重塔の弥勒菩薩、不動明王、愛染明王は、「各像に共通する文様表現と五重塔内荘厳画との類似から、三躯共に南北朝時代の五重塔 建立当初(1348年)頃の制作であるとされた」とのこと。1348年の状況をこうして解明していく仕事に敬服する。
2-3) 護摩堂
2-4) 書院
4) 感想まとめ
実はいろいろあって、11/1と11/2の二日連続でお参りしてしまった。どちらも大雨の中での拝観だった。特に、11/2は福山より西側の大雨の影響で、午前中は新幹線がストップ。私もそれに巻き込まれて福山を脱出できなくなり、ありがたいご縁により11/2も明王院にお参りすることになったのだった。当日はいろいろハラハラしたし、大変だった。が、今これを書きながら振り返ると、すべてが何かのお導きだったような気がしてくる。33年に一度、4日間のみのご開帳。そのうち2日も通ってしまった。本当にありがたい。
また、印仏という作善に憧れていたので、令和の印仏に参加できたこともありがたい。
この秘仏の観音様はなんと11/12からふくやま美術館「ふくやまの仏たち」展にお出ましになる。五重塔の三尊(上記の印仏が初公開)、護摩堂の不動明王と矜羯羅制吒迦二組など、明王院の仏像が美術館に集結する。秘仏観音様は、お堂とは別の照明のもと、お堂とはまた別の見え方になるのではないだろうか。お寺のご開帳と、展覧会、その両方に行かれる方も多いのでは。私は展覧会に行く予定は確保できていない。展覧会の様子を漏れ聞くことを楽しみにしている。
【参考文献】
・「ふくやまの仏さまー国宝明王院本堂本尊三十三年ぶり特別公開記念ー」展覧会図録(ふくやま美術館/2024年)
・「明王院ーその歴史と文化ー」展覧会図録(広島県立歴史博物館/1991年)
・「五重塔三尊仏《弥勒菩薩・不動明王・愛染明王》-各尊像の仏像史上の位置付けと西大寺流律宗との関連性-」徳島文理大学文学部 教授 濱田 宣 明王院五重塔ご本尊弥勒菩薩解体中に見つかった「印仏」に関する講演 - 明王院を愛する会 福山市 国宝明王院
・TBSニュース「675年前の仏像内にあった紙 描かれていたのは3体の仏 民衆の願いの表れか 広島・福山市の国宝・五重塔の本尊」
newsdig.tbs.co.jp
【参拝案内】
明王院
住所 広島県福山市草戸町1473
公式サイト 国宝 明王院 オフィシャルホームページ