ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【京都】東福寺の仏像~近畿文化会の臨地講座にて非公開の仏像を拝む~

 2022年2月、近畿文化会の臨地講座「東福寺の仏像」に参加。時折雪の舞い散る中、龍谷大学の神田政章先生の解説のもと、東福寺に残る多くの仏像を拝観させていただいた。「京都冬の旅」で公開中だった法堂と三門に加えて、普段非公開の光明宝殿、国宝龍吟庵、永明院、南明院などを参拝。平安以降の仏像や頂相など、多様な尊像を拝ませていただいた。

 「東福寺に仏像? 紅葉ではなく?」と思う方もおられるかと。東福寺といえば、通天橋の紅葉。そして、明兆の涅槃図や堂本印象の天井の蒼雲龍図が有名だ。

 しかし、実は、仏像の宝庫だったのである! その理由として、創建時の東福寺が禅、真言、天台の三宗兼学の道場だったこと、また、法性寺や万寿寺、三聖寺の仏像が残ることを神田先生は指摘された。度重なる火災で失われた宝物も多いが、残されたものも多いのだった。

 以下、神田先生が近畿文化会の会報に寄せられた論文と当日の解説内容をぎゅぎゅっとまとめて、自らの復習としたい。

東福寺とは】

 京都五山の一つ。臨済宗東福寺派大本山。嘉禎2年(1236)、摂政九条(藤原)道家が法性寺の寺地に新たに寺院の建立を発願。寺号は南都の東大寺興福寺からそれぞれ一字を取り、大寺の造営を目指した。寛元元年(1243)、円爾弁円(聖一国師 1302-80)を開山に迎え、建長7年(1255)に仏殿が落慶。五丈の釈迦如来像を中尊とし、二丈五尺の観音・弥勒菩薩像を脇侍とする。その大きさから「新大仏」と呼ばれた。文永10年(1273)大伽藍が完成。禅僧だけなく、天台・真言僧もおく、三宗兼学の道場として栄えた。
 14世紀に3度にわたり火災があり、創建時の伽藍は灰燼に帰すが、貞和3年(1347)に前関白の一条経通が仏殿を再興。さらに足利義持豊臣秀吉徳川家康などによって伽藍は堅持された。明治14年に仏殿と法堂が焼失。昭和9年に、仏殿と法堂を兼ねた現在の本堂が完成。

【本堂(法堂)】

・釈迦如来及び迦葉・阿難尊者立像
 重要文化財 釈迦263.5cm、迦葉189.0cm、阿難193.08cm
 旧塔頭の三聖寺(さんしょうじ)仏殿の本尊で、明治の復興時に東福寺へ。釈迦如来立像は宋風で、泉涌寺塔頭戒光寺の釈迦如来立像(重文 540cm)と類似する。ゆったりと伸ばした左手の表現など戒光寺像のほうが宋風が顕著で、東福寺像は幾分和様化が認められる。
・四天王立像(鎌倉時代
 多聞天は他の三像よりも古く、鎌倉前期に遡る慶派の優品。四天王像は修理中で拝観できず、残念。
・仏手(木造漆箔 全長216.5cm
 罹災した東福寺大仏の片手。法堂の端に安置

伽藍神像4躯 像高1m余 立像で筆と巻子をもつ感応使者像は像内墨書から嘉吉元年(1441)、四条高倉に仏所を構える定祐の作と判明。
梵天と帝釈の椅像 院派の作風を示す南北朝の作
愛染明王
・堂本印象による天井の蒼雲龍図(実は泣き龍だそう)と、毎年涅槃会(3/14-16)に掲げられる明兆の涅槃図が有名。

普段は本堂の右手に安置される仏手。旧本尊釈迦如来坐像の左手で、膝の上で与願印を結んでいた。写真は東福寺展(2023年東京国立博物館)にて撮影

【愛染堂】

愛染明王像 未調査だが鎌倉時代とみられるとのこと。堂外からの拝観だったが、堂内照明によりよく見えた。

【三門】

 元応元年の罹災後に再建。禅宗の三門として最古。扁額「妙雲閣」は足利義持の揮毫で、応永32年(1425)の墨書あり。楼上の中央に宝冠釈迦如来坐像、その左右に善財童子と月蓋長者、十六羅漢像が並ぶ。天井や梁、柱には画僧吉山明兆(きっそんみんちょう)(1352‐1431)とその弟子らにより迦陵頻伽や宝相華文が描かれる。
・釈迦如来坐像 像高150.4cm 南北朝時代の院派の作風だが、肉付きや衣の厚みが増し、院吉や院広など14世紀の院派仏師の作風とは異なることから、三門再建時15世紀の作とみられる。等身大の十六羅漢像は釈迦如来像と一具の可能性も考えられ、それであれば十六羅漢が一具として伝わる我が国最古の例。善財童子と月蓋長者は本来観音菩薩の脇侍であるので、この釈迦如来像が観音菩薩とみなされていた時期があると考えられる。

【光明宝殿】

光明宝殿には、東福寺の伽藍伝来、旧法性寺関連、万寿寺伝来および三聖寺(さんしょうじ)伝来の仏像が安置される。

万寿寺と三聖寺の歴史] 
六条御堂(白河天皇が永長元年(1096)、皇女郁芳門院の追善のために創建。鎌倉時代法然の弟子、湛空→十地覚空が住持)→正嘉年間(1257-59)に十地覚空と弟子の東山湛照が東福寺円爾弁円に帰依して臨済宗に改宗し、万寿禅寺となる→室町時代京都五山→永享6年(1413)火災、天正年間に三聖寺(十地覚空と東山湛照が開基)の隣地に移転→明治6年(1873)に三聖寺が万寿寺に合併

阿弥陀如来坐像 像高283.0cm 重要文化財 
 白河天皇が皇女郁芳門院の追善のために建立した六条御堂の本尊とする説と、永万元年(1165)に九条忠通の追善のために建立された法性寺浄光明院の本尊とする説がある。平等院阿弥陀如来坐像(国宝 像高277.2cm 天喜元年1053)と同じく、丈六で弥陀定印を結び、結跏趺坐する。平等院像より伏し目で、肉取りがやや単調で総じて硬い。像内の全面に漆箔あり。院政期の像内漆箔の例として、保延5年(1139)頃の鳥羽上皇ゆかりの安楽寿院の阿弥陀如来坐像(重要文化財 像高87.6cm)がある。

金剛力士像 重要文化財 像高 阿形203.0cm 吽形207.3cm
 万寿寺伝来の像。木造彩色で玉眼嵌入。阿吽の左右が通常の配置と異なる(東大寺南大門と同じ)。

・二天王立像 重要文化財 像高 阿形336.8cm、吽形332.5cm
 三聖寺の二天門に伝わり、明徳2年(1391)焼失したものの再興像とされる。『東福寺誌』は天文11年(1542)に仏師康秀が三聖寺中門に持国天増長天を制作したと伝えるが、室町彫刻特有の鈍重さを感じさせない躍動感ある力強い彫技から、鎌倉時代に遡る可能性も十分検討に値する。

地蔵菩薩坐像 重要文化財 像高85.2cm
 仏殿に伝わったが、詳しい伝来は不明。鎌倉前期の様式だが、総じて保守的な作風をみせ、慶派とは別の系統の仏師によるとみられる。

・僧形坐像 重要文化財 像高82.8cm
 ほかの肖像彫刻とともに禅堂に伝わる。合掌して坐す僧形像。鎌倉前期。

・傅大士(ふだいし)及び二童子像 鎌倉~南北朝
 京都の大報恩寺に伝わる応永25年(1418)院隆作の像(重要文化財 像高各約70cm)より古く、傅大士の最古級の作例とみられる。

【永明院(ようめいいん)】

・円鑑禅師坐像 重要文化財 像高70.3cm
 丸顔で目じりを下げる。量感豊かな貫禄ある姿。像内の経巻の包み紙に正和5年(1316)の墨書があることから、円鑑禅師の七回忌にあわせた造像と推定。
・大道和尚坐像 重要文化財 像高74.8cm
 円鑑禅師像の左隣に安置。大道順空(1292-1370)は東福寺第28世で、明兆の師。寄木の木彫像に塑土を盛りつける。やや目じりを挙げて、「へ」の字に口を結ぶ。
・釈迦如来坐像 重要文化財 像高53.5cm
 円鑑禅師像の右隣に安置。宝冠釈迦如来坐像。像底の銘文より元享4年(1324)に西園寺大仏師法印性慶が永明庵本尊として造立したことが判明。性慶の他の作例として、志那神社(滋賀県草津市志那町)普賢菩薩坐像(建武元年、像高44.5c)など、三例が知られる。端正な表情で、頭体の比例は整い、なで肩で力みがなく、衣の折り畳みを装飾的に随所に表すなど、作風はまとまりのよい洗練さをみせる。

【南明院(なんめいいん)】

・本尊釈迦如来坐像 東福寺大仏の化仏の一つだったとされる。大正時代に火災に遭い、化仏の一つを譲り受け、本尊とした。その際の修復により現状は金ぴか。大きな化仏から、今はなき東福寺大仏の威容を想像する機会がいただけてありがたかった。

東福寺旧本尊の光背化仏だったとみられる釈迦如来坐像。今は塔頭南明院のご本尊である尊像の向こうに、焼け残った旧本尊の左手を仰ぐ。写真は東福寺展(東京国立博物館2023年)にて
南明院ご本尊。写真は東福寺展(東京国立博物館2023年)にて撮影

【龍吟庵】

・無関普門(大明国師1212-91)像

【同聚院】

※閉堂中のため、解説のみ
康尚の不動明王坐像(重要文化財 像高265.1cm)
左耳前に垂れる辮髪に結節がないのは、智証大師円珍請来の図像と一致。頭上に頂蓮ではなく沙髻を表し、腰にベルト状のものを着ける。

六波羅門】

 大きな三門のすぐそばの小さな門。この一見何でもない小さな門が六波羅探題のものを移築したと聞き、京都の奥深さに坂東武者の私は恐れ入った。

 最後に、今回の行き先に入っていなかった、東福寺塔頭の勝林寺の諸仏像を私はお勧めしたい。毎年紅葉の時期に公開があり、特に、夜間拝観がお勧めである。

参考文献

『近畿文化』855号(2021年2月)神田政章「東福寺の仏像」