ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【静岡県】【牧野仏】霊山寺 平安の秘仏大内観音ご開帳

霊山寺(静岡県静岡市清水区)
大内観音さま

 霊山寺ご本尊千手観音菩薩さまについに拝顔がかなった。毎年3月の祭事の際でさえ閉まっていた厨子の扉が、5/31(日)12-15時のみ開かれた。
 平安初期の密教仏を思わせる、霊力を秘めたようなご尊顔。側面はよく見えないものの、一木造りの体躯は量感がありそう。しかし、衣文の彫りはさほど激しくない。静岡県の資料には12世紀前半とあったが、もう少し古く、平安中期に近いように感じたが、どうなのだろう。像高107.0cmの尊像はとてつもなく大きな存在感を放っていた。

 今回のご開帳は仁王像の修復を記念して行われたもの。私が10年ほど前に訪れた際、仁王さんはぼろぼろで、瀕死の状態だった。牧野隆夫先生の工房で修理され、昨年静岡市の博物館で展示後、仁王門に戻された。展覧会でその迫力に感動したのだが、現地でお会いすると、この仁王さんには展示室が窮屈すぎたのだと気づいた。山腹の山門では、元気に回復したお姿を誇らしげに見せびらかしているではないか。山の中で、気宇壮大に動き回るのが似合っているのだ! 汗をかいて、ゼーゼー言いながら山道を登ってきた私を仁王さんは盛大に笑い飛ばしたのだった。

 秘仏千手観音菩薩、二十八部衆、そして悲願の仁王像の修復に携われた牧野隆夫先生に心からの敬意と感謝を申し上げたい。そして、今回ご開帳の機会をくださった関係者の皆さまに感謝を。ありがとうございました





※堂内撮影は可能だったが、秘仏本尊さまは撮影不可だった。
※以下は9年前の参拝記録 m(_ _)m
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【神奈川】津久井観音霊場その3 〜善勝寺に敬服 & 大通寺 春日堂 中野堂の小さなお堂に大きな愛〜

 津久井観音霊場(2026/5/1-5/23ご開帳)が素晴らしすぎて、ご開帳最終日も巡礼に出かけた。午前中は古刹の善勝寺と神仏習合(蔵王権現信仰)の場であった慈眼寺を中心に、午後は私の大好きな”公民館の仏像”である中野堂とやはり神仏習合の名残のある春日堂を中心に計画を立てて、巡った。
 まず敬服してしまったのが善勝寺。調布の深大寺の孔雀文磬(2026年、重要文化財に指定)が去年までこの寺で長らく大切に保存されてきたことを忘れてはいけない。ご本尊毘沙門天立像がかなりの美仏なのだが、文化財の観点から磬を深大寺に里帰りさせた住職さまのご決断もとんでもなくかっこいい!
 また、当ブログでは、「小さなお堂に愛がいっぱい」シリーズとして、これまで向龍寺と久保沢観音堂をエントリーしていたが、ここに大通寺、春日堂および中野堂を加えたい。特に、大通寺はいろいろ衝撃的であり、参拝のご縁に感謝しきれない。
 津久井観音霊場2026年午年ご開帳では、3日間かけて巡礼し、合計30札所を参拝した。立派な堂宇を構える古刹から、ご開帳という大イベントに手弁当で対応された地元管理の小堂まで、その札所は実に多様であった。そこには、神仏分離、火災、そしてダム湖建設など、人々の歴史が刻まれている。旧津久井郡4町に限定した、地元密着の写しの観音霊場の魅力ははかりしれない。お参りさせていただけたことに心からの感謝を申し上げたい。南無観世音菩薩。合掌

20 慈眼寺(高野山真言宗/旧相模湖町)

 慈眼寺は頼源阿闍梨により天正年間(1573-93)に開山。旧津久井群与瀬村、相模川北岸にあった蔵王社の別当寺だった。里人ヤヨとキヨが相模川に放った魚取りの網に神像がかかり、この地にまつったとの伝承がある。『新編相模国風土記』には、室町時代、享禄年間(1528-1532)の銘が台座に残るご神像に関する記載がある。明治の初めの神仏分離により、慈眼寺と与瀬神社とに分かれる。慈眼寺の山号金峰山に蔵王信仰の名残をみる。
 現在の慈恩寺は目の前に中央高速が走り、その先に相模湖を見下ろす。ご本尊は薬師如来坐像で柔らかなご表情をされていた。その左右に彩色の弘法大師像と不動三尊。新たに造立された蔵王権現像2躯もまつるところが粋である。津久井観音霊場秘仏は聖観音菩薩立像。内陣にて小さなお厨子の扉が開き、間近で拝観させていただいた。


19 長福寺(臨済宗建長寺派/旧相模湖町)

 平成2年に焼失し、平成5年に再建。ご本尊地蔵菩薩立像もその際に勧請され、白木の素地が初々しい。津久井観音霊場は聖観音菩薩立像で、ご本尊様の前に置かれていた。境内の天神社には小さな天神様と牛のお像。

18 善勝寺(高野山真言宗/旧相模湖町)

 旧津久井郡では普門寺、顕鏡寺に並ぶ古刹。本尊毘沙門天立像は弘法大師御作の伝承があるが、鎌倉仏かと見紛うほどの美仏である。伺うと、江戸時代中期の作だという。彩色された丸顔の吉祥天・善膩師童子を脇侍とする。不動明王像、弘法大師像も。脇壇の小さな深沙大将像が気になった。本堂内、正面左の位牌堂に阿弥陀如来さまがおられる。津久井観音霊場のご開帳秘仏は十一面観音菩薩坐像。
 正面右手の間には、両界曼荼羅図の前に何やら展示があり、驚いた。去年、深大寺(東京調布)で拝見した鎌倉時代の孔雀文磬に関する展示だった。相模原のお寺から里帰りされたと聞いていたのだが、なんと、その譲り元がここ善勝寺なのだという。「武州深大寺」「深沙王堂」「文永四年丁卯」の銘があり、深大寺の創建に関わる深沙王堂の磬として文永4年(1267)に制作されたものだとわかる。昨年春に深大寺で公開された後、今年、重要文化財に指定。5/17まで新指定文化財展(京都文博)に展示されていた。善勝寺では、磬のレプリカが、新聞記事と一緒に展示されていた。
善勝寺に伝わった経緯は不明だというが、戦時供出の危機を守り抜き、元の場所へ譲渡された善勝寺の決断の尊さを忘れずにいたい。深大寺は何度もお参りしているので、きっとまたこの孔雀文磬(深沙王堂磬)にお会いする機会があるだろう。その度に全勝寺と住職様を思い出すことになりそうだ。

※写真は以下の調布市のサイトから。ぜひお読みいただきたい
深大寺「銅孔雀文磬(どうくじゃくもんけい)」の重要文化財(美術工芸品)指定 | 調布市

17 大通寺(臨済宗南禅寺派/旧相模湖町)

 ぼろぼろのお堂の奥、真ん中に聖観音菩薩坐像がまつられる。五色の糸は如来立像とつながる。観音様に糸を結びにくかったからだろうか。狭い堂内には、薬師如来と十二神将十王像(十一躯おられた!)もおられる。小像とはいえ、十二神将が勢揃いなのは見逃せない。ぜひご覧くださいと言われた涅槃図はかなり腕の良い絵師によるものかと思われる。壁にかけられた涅槃図は大きな額のようなものに入っているのだが、さらにその上にカーテンがかかる。住宅用のカーテンレールが取り付けられ、そこにやはり住宅用と思われる布地のカーテンを設ける。手作り感満載である。そこに強い信仰と愛を感じてしまう。
 また、今回のご開帳のため、廃業した床屋さんの駐車スペースを使えるようにしてくださったという。駐車場の手書き案内にも愛しか感じない。本当にありがたい。
 無住のお寺様で、ご開帳を行なってくださったことに心からの感謝を申し上げたい。心配なのはお堂の老朽化である。津久井観音ガイドブックによると、八王子長房町の長泉寺が兼務されているそうだが、大通寺をこの場所で守り続けてほしい。



01 雲居寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 札所の1番、雲居寺。うんごうじ、と読む。第21世大雲禅無和尚が安永年間に呼びかけて始まったのが、この津久井観音霊場である。山門から広い境内を抜けて本堂に上がると、雲居寺本尊、地蔵菩薩様が迎えてくださった。右手に錫杖をもつ坐像である。津久井観音秘仏は十一面観音菩薩坐像で、内陣の正面右手の高い位置にまつられていた。回向柱の記述から「知足十一面観音」と呼ばれているようだ。そのいわれを聞きたかったが、団体さんが入ってこられたので断念。帰り際に、山門の横の巨大な観音立像を見上げると、十一面観音にして四臂であられた。

02 春日堂(旧津久井町)

 明和3年(1494)、南都の奈良大炊介・縫殿の兄弟が春日神社を勧請。寛文5年(1665)、法印大内昇氏が開基となり、春日社の境内に春日堂を創建。明治初めの神仏分離により、春日堂は廃止となり、春日大明神の本地仏(不空検索観音)と貴船大明神の本地仏(不動明王)は焼却。住吉大明神の本地仏(聖観音菩薩)は焼却を免れ、大内泰智が長竹の三明院(さんみょういん)へ遷座し、津久井観音札所として引き継がれた。しばらくの間、ご開帳は近くの三明院で行われてきたが、138年を経た平成20年、元の堂地に復元遷座。現在の春日堂でのご開帳は、平成26年(2014)以来、今回が二度目となる(2020年の半開帳はコロナで中止)。
 長い階段を上り、春日神社の境内に入ると、氏子の皆様が迎えてくださった。春日神社の建物に卍の印など神仏習合の痕跡があることなど、ご説明くださる。地元のお茶などでのご接待もありがたい。ちょっと心配なのは、ご開帳の仏様が菩薩像ではなく、如来立像のお姿をされていたこと。聖観音さまと伝わっているのであれば、それはもう聖観音さまに違いないのだが。。。このお堂の歴史と氏子の皆様の温かさを知った私は、その辺りは指摘できず。。。今になって、忸怩たる思いが残る



03 中野堂(旧津久井町)

 飯綱神社の別当だった金原山賢太郎が元禄15(1702)に邸宅内に堂を建て、十一面観音菩薩を勧請し、同家代々の守護仏とした。明治初めの神仏分離令により、金原氏(後に築井と改正)が神職を務めることとなったため、十一面観音菩薩を現在地(根小屋1072)に清水山中野堂としてまつり、中野地域の守護仏とした。
 中野堂は、大正から昭和にかけて、地域の集会所として、また、繭の乾燥所や火の番の番小屋としても使われた。現在のお堂は昭和46年に再建されたもので、南根小屋集会所内の中央に併設される。
 私が訪れると、地区の皆様が温かく迎えてくださった。修験道在家札所だったこの3番札所は今、自治会館となり、集落の信仰を繋いでいる。つまり、当ブログの大好きな「公民館の仏像」に認定させていただく! 現地でいただいた手作りの資料によると、十一面観音菩薩立像は像高28cmで、脇侍が不動明王と毘沙門天とある。その画像も印刷されている。しかし、写真のとおり、脇侍は不動明王の脇侍である制咜迦童子と矜羯羅童子に見えた。


04 湘南寺(臨済宗建長寺派/旧城山町)

 本尊薬師如来坐像。同じ厨子の中に日光菩薩月光菩薩立像と十二神将がすべて収まる。その正面右手に大きな釈迦如来立像と地蔵菩薩立像。これらすべて近年の修理で彩色金箔が施される。本尊の正面左手に阿弥陀如来立像と観音菩薩勢至菩薩像。こちらは古色仕上げ。内陣が格子で遮られており、格子越しに外陣からの拝観。
 津久井観音霊場のご開帳秘仏は、その格子の上、高いところに安置。小さな十一面観音菩薩坐像。

06 宝泉寺(高野山真言宗/旧城山町)

 札所秘仏の十一面観音菩薩立像を本堂横の大きな建物の一階でご開帳。普段はこの建物の二階のお厨子の中におられるのだと伺った。鎌倉時代の板碑1基と南北朝時代の板碑2基も公開。



最後に

 津久井観音霊場巡礼3部作はこれにて終了。たくさんの出会いに感謝。旧津久井郡の地域の力に感謝。南無観世音菩薩。合掌

小さな観音さまに大きなありがとうを申し上げたい

津久井観音霊場巡礼の記録

・津久井観音霊場巡礼その1
butsuzodiary.hateblo.jp

・津久井観音霊場巡礼その2
butsuzodiary.hateblo.jp

【神奈川】津久井観音霊場その2 〜観音様をお守りする公民館に敬意を♡ そして、展覧会でお会いした薬師如来さまが優しい♡〜

 津久井観音霊場(旧津久井群内43か所)は午年が本開帳。2026年のご開帳期間は5月10日から23日まで。短すぎて、全札所を巡るのはとても無理。やむを得ず、初日は文化財指定のあるお像を中心に駆け足で13札所を巡った。そして、今回、二度目の巡礼では、旧藤野町を中心にゆっくりペースで8札所を参拝した。
 とにかく感動したのが、当ブログが大好きな「公民館の仏像」である。27番 向龍寺(旧藤野町)と05番 久保沢観音堂(旧城山町)は、観音様と地元の皆さまとの絆が近くて、美しくて、とにかく羨ましい。
 そして、「相模川流域のみほとけ」展でお会いした尊像にまたしてもお会いできた。43番 福寿院、室町時代の院派の薬師如来さまである。お寺ではまったく印象が異なって驚いた。静かに衆生のそばにおられる、みほとけであられた。
 なお、当ブログ調べでは、津久井観音霊場において、この展覧会にお出ましだった仏像6躯と1組にお会いできる。顕鏡寺、正覚寺、井原寺、安養寺、光明寺、祥泉寺、福寿院である。

21 御岳山観福寺(高野山真言宗/旧藤野町)

 ご開帳秘仏である千手観音菩薩さまは観福寺ご本尊でもある。像高36.8cmの寄木造りで、江戸時代中期から伝わる。通称、矢部の観音様。お厨子の中に、小さな木造の不動明王立像と毘沙門天立像(いずれも江戸時代)とともにまつられている。このお厨子は普段は閉まっており、午年のこの時期のみご開帳される。同じ壇上に、御前立の千手観音菩薩立像と毘沙門天立像(鋳造)、不動明王立像(木造)もおられる。左右の脇壇には、それぞれ金剛界大日如来と弘法大師坐像。お寺の案内書によると、弘法大師像に大仏師横山式部作の銘がある。ざっくり調べた限りでは、この仏師名では仏師関連は出てこない(川崎の枡形山に土塁を築いた戦国時代の豪族横山式部少将弘成の名前がヒットするのみ)

23 福王寺(臨済宗建長寺派/旧藤野町)

 十一面観音菩薩坐像。小さな不動明王立像と毘沙門天立像が脇侍。地蔵菩薩坐像もまつられる。境内に藤野観音堂(津久井観音22番)と天満社がある。

22 藤野観音堂(臨済宗建長寺派/旧藤野町)

 津久井観音霊場の札所だった三徳山清袋寺が昭和28年に福王寺に合併。聖観音菩薩様が藤野観音堂に引き継がれた。福王寺(津久井観音23番)内に小さなお堂があり、そこに聖観音菩薩坐像がまつられる。その横に不動明王坐像もおられる。お堂の前に立つ回向柱は実際に触れて、ご開帳秘仏さまとご縁を結ぶものなのだが、こちらは写真のとおり、こんな感じなので、畏れ多くて触れられない。



25 増珠寺(曹洞宗/旧藤野町)

 ご本尊は延命地蔵菩薩坐像。脇侍として掌善童子・掌悪童子像を従える。その前に津久井観音秘仏の小さな聖観音菩薩坐像がまつられていた。25番はもともと勝瀬地区の鳳凰寺だったが、相模湖建設の際にお寺と勝瀬の住民が揃って海老名に移転。増珠寺が現在の25番札所となっている。

27 向龍寺(高野山真言宗/旧藤野町)

 明治6年(1873)向龍寺が廃寺となったあと、残った観音堂も老朽化したため、馬本地区の尽力により「馬本生活改善センター」を建設。その中に向龍寺本尊十一面観音菩薩坐像をまつる。ご開帳の際には、馬本地区の住民が交代で参拝者の対応にあたる。
 この十一面観音さまは頭頂化仏や手首から先を失っていたが、近年修理が施され、面目を一新。今回が修理後初のご開帳である。修理の経過を記したファイルを見せていただいた。ご尊顔や胸の辺りはクリーニングによって金色が蘇り、頭頂化仏さまや持物が新たに制作され、見違えるような美しさである。お堂の立替の経緯などから、当ブログとして、大好きな「公民館の仏像」に認定。地区の皆様の信仰と献身に心からの敬意を表したい。大切な観音様をお参りさせていただき、ありがとうございました。 なお、十一面観音様の他に、顔面を失った破損した菩薩立像がそっと佇んでおられた。



28 蓮乗院(高野山真言宗/旧藤野町)

 如意輪観音菩薩坐像。忍性ゆかりのお寺と聞き訪れたが、その形跡は見つけられず、残念。密教の様々な曼荼羅が広い堂内に所狭しと展示されている。密教仏に関心ある方にお勧め。

43 福寿院(高野山真言宗/旧藤野町)

 津久井観音秘仏さまは聖観音菩薩立像。堂内、向かって右のお部屋に安置。堂内正面、奥の内陣に、本尊阿弥陀如来坐像。その左に不動明王立像がおられ、そのさらに左に薬師如来坐像。右手の高い場所に上人像をまつる(開祖真清と伺ったが、福寿院HP記載の第15世 真政和尚が正しいか?)。薬師如来像は室町時代、院派の作とされ、福寿院で最古のお像とみられる。「相模川流域のみほとけ」展(神奈川県歴博2020年)にお出ましだった。お寺では、お厨子の中におられ、少し離れた場所からの拝観となるので、院派らしい四角っぽい体部の木取りなどは確認できない。しかし、お寺でお会いする薬師さまはとてもリラックスされていて、穏やかでおられた。静かに衆生の安寧を祈っておられるようだった。

05 久保沢観音堂(臨済宗建長寺派/旧城山町)

 公民館の半分のほどのスペースが観音堂となっており、そこに西国、坂東、秩父の百観音の写しがまつられる。高遠の石工が明治時代に刻んだ石仏が、壇上に所狭しと並び、胸を打つ。各霊場の最終番の像の光背に、造立年代と経過を示す銘文が刻まれる。その銘から、明治11年(1878)に桂昌寺の住職山本渓山が発願、明治27年(1894)に完成し、同年4月渓山和尚によって発願供養されたことが明らかになっている。像を手がけた像のは長野県高遠の石工 北原祥重(七兵衛)。毎月10月、おくんちと言って、9のつく日にご開帳されており、私は一度お参りしたことがある。近くの大正寺(今回のご開帳から津久井観音霊場に参加)から住職が来られ、法要がある。女性の皆様によるご詠歌も感動する。津久井観音霊場のご開帳のときには、さらに、壇上の高いところにあるお厨子が開き、小さな聖観音菩薩立像さまもご開帳となる。現在は金ピカのお姿であるが、この聖観音さまが案外一番古いのではないかと思ったりもする。そして、はい、もちろん、当ブログとして、大好きな「公民館の仏像」に認定。観音堂をお守りされる皆様に心からの敬意を表したい。10月のご開帳日にまたお参りさせていただくかもしれない。お堂の前に徳本上人名号塔もある。

【神奈川】津久井観音霊場巡礼の感動! そして、「相模川流域のみほとけ」展のお像との再会!!

 津久井観音霊場は神奈川県旧津久井郡に43の札所をもつ。前回の中開帳がコロナ禍で途中で中断されてから6年。午年の今年、ついに12年に一度の本開帳が始まった。ご開帳期間は2026年5月10日から5月23日の2週間のみ。初日に13札所を巡礼した。相模川上流域、鎌倉と甲斐のルートにあたるこの地に古い仏像が残る。先の大戦の時は鎌倉の仏像が文化財として疎開した場所である。戦後はダム建設により、移転したお寺もある。とてもドラマティックな地域の歴史に触れつつ、観音様を巡ることができる。
 私は初日に13札所を巡礼。2020年の伝説の展覧会「相模川流域のみほとけ」展(神奈川県立歴史博物館)でお会いした尊像のうち、なんと6件(5躯と1組)に再会できた。それ以外にも文化財指定のお像二つを拝むことができた。
 この感動を取り急ぎお伝えしたい。

24 浄禅寺(臨済宗建長寺派/旧藤野町)

 ご本尊様は像高12.7cmの十一面観音菩薩坐像。室町時代前期、一木造りのなんと法衣垂下像である。この小さな観音さまが、一回り大きな十一面観音菩薩様のお像の胎内に収まる。この鞘仏さまは像高32.1cm、宝永6年(1709)の作。胎内仏さまはお体にお籠もりのままでおられるそうで、心の目で拝んできた。お寺のご本尊が観音霊場の観音様でもある。市指定文化財。なお、浄光寺にも鞘仏の中に室町頃の阿弥陀如来像を収めた例がある。
 閻魔王坐像(慶長3年(1598)か)は法量大きめの立派なお像。

14 顕鏡寺(高野山真言宗/旧相模湖町)

 脇壇の阿弥陀如来坐像は像高85.4cm、平安後期の作。現状は全身が黒く塗られているが、上品で温和なご尊顔、浅い衣文など、定朝様の特徴を残す。近くにあった末寺の常楽寺が明治初めに廃寺となり、顕鏡寺に移座。「新編相模国風土記稿」の常楽寺の記述にある「本尊阿弥陀」がこの像と考えられる。2020年「相模川流域のみほとけ」展(神奈川歴博)でお会いした時にも見惚れたが、お寺でお会いすると、阿弥陀さまがとてもリラックスされていて、自然で、さらに美しさを増していた。弥陀の定印を結ぶ。人差し指を少し曲げているところが私はたまらない。

15 正覚寺(臨済宗建長寺派/旧相模湖町)

 ご本尊の聖観音菩薩立像が津久井観音霊場のご開帳秘仏でもある。像高71.3cm。「相模原流域のみほとけ」に秘仏ながら出展されており、その図録によると、「やや開いた切れ長の目、しっかりとした肉取りの頬、バランスのとれたプロポーション」から、鎌倉時代13-14世紀の作例と記載されている。衣が軽く、若々しいので、素人(私)の印象としては鎌倉でも早い時期かと。構造は耳後ろを通る線で前後に割矧ぎ、内刳りのうえ割首。玉眼。「新編相模国風土記稿」の正覚寺の条には「本尊正観音」とあり、この頃には聖観音として祀られていたことがわかるが、頭髪部に頭上面の跡があることから、元は十一面観音だった。体部に近年の補修があるそうだが、どこだったのだろう。

13 宝珠庵(臨済宗建長寺派/旧相模湖町)

 小さな十一面観音菩薩様の立像。お寺の旧境内は現在の津久井湖の湖底にある。十一面観音さまは霊場HPには正覚寺燈楼堂(回向の鐘)内に安置とあるが、実際に訪れてみると、正覚寺本堂内でご開帳されていた。像高は1尺だろうか、小さく、気品に満ちた可愛らしいお姿に胸が熱くなる。正覚寺本堂の前に、15番正覚寺と13番宝珠庵の回向柱が並び立つ。

30 井原寺(曹洞宗/旧津久井町)

 鎌倉時代の聖観音菩薩立像が霊場秘仏。境内の小さなお堂に安置。実は毎年1月にもひっそりとご開帳されており、私は数年前にお参りして以来の再訪。お厨子の前まで進み、下からご尊顔を仰ぎみる。

32 光明寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 大きな本堂の上で小さな観音様がご開帳。
 本堂の奥に、光明寺ご本尊の地蔵菩薩坐像。法衣垂下像。像高67.4cm。
鎌倉来迎寺地蔵菩薩像(永徳4年 1384) や埼玉法光寺地蔵菩薩像(至徳3年 1386)と同じ特徴をもつ。いずれも宅磨浄宏の作例と考えられることから、本像も鎌倉で活躍した宅磨派の造像か。法衣の垂下が足りてないのは気になるものの、凛々しく美しいお姿にただ見惚れるしかなかった。

33 来迎寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 ご本尊聖観音菩薩立像がご開帳秘。500-600年前の制作と見られるとお寺の案内にある。9番観音寺さまの兼務寺。

34 宗安寺(高野山真言宗/旧津久井町)

 12年前のご開帳の直前に観音霊場入りし、その際には観音菩薩像の安置が間に合わず、本尊釈迦如来さまを例外的に観音霊場本尊とした。その後、十一面観音菩薩立像を奉安。今回のご開帳では、堂内の正面左脇に安置された十一面観音さまを拝むことができた。経緯はよくわからないのだが、小さな弁財天、大黒天、恵比寿様の三尊を無償でいただいた。当家玄関にありがたくまつらせていただいている。

31 安養寺(高野山真言宗/旧津久井町)

 霊場秘仏本尊は千手観音菩薩立像。いろいろな特徴が入り混じった独特のお姿は幾たびかの後補によるのだろうか。
 正面左に見覚えのあるお像がおられた。「相模川流域のみほとけ」展で強烈な印象のあった摩利支天騎猪像である。お堂でお会いするとその魅力はさらに爆発! とにかくチャーミングである。安養寺は顕鏡寺の兼務寺で、このお像は普段は顕鏡寺に安置されているのだと伺った。


12 祥泉寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 ご開帳秘仏は小さな聖観音菩薩坐像。内陣にたくさんの仏像が祀られる。特に、熊野三所権現本地仏である三尊に注目した。中央の大きめのお像が阿弥陀如来立像(像高33.0cm)で、左右に薬師如来立像(27.2cm)および千手観音菩薩立像(30.8cm)をまつる。それぞれ熊野本宮、新宮および那智の本地仏さまで、もとは境内の鎮守熊野神社に安置されていた。室町時代16世紀の作で、市指定文化財。祥泉寺の山号は熊野山なので、もともとは神仏習合の場所だったのだろうか。

09 観音寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 津久井湖を見下ろす見晴らしのよい高台に観音堂がある。山門(市指定文化財)の横から急な石の階段を登るロケーションと古いお堂が素敵なので、ご開帳の機会に堂内を拝観できることを楽しみにしていた。しかし、今回のご開帳では、観音堂は閉じられていて、下の方にある本堂にご開帳秘仏のみを移してのご開帳となっていた。上まで登るが大変だという配慮からだった。観音堂への階段も危険なので閉鎖。安全第一なので、やむなし。

08 友林寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 ご開帳秘仏は聖観音菩薩坐像。壇上にさりげなく祀られる聖観音菩薩立像はなんと鉄仏さま。14世紀、鎌倉時代後期から南北朝時代の作と考えられる。像高36.4cm。市指定。

11 長成寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 お寺のご本尊様である如意輪観音菩薩坐像が津久井観音霊場のご開帳秘仏でもある。なんとこのご本尊さまには胎内仏さまがおられる。このご開帳期間のみ、胎内から取り出され、鞘仏さまのお膝の上でご開帳となる。ご開帳最終日の夕方、法要をお行い、再び胎内に戻されるのだと伺った。

 以上、ご開帳期間が短いので、大急ぎでこれを書いた。ブログ「ぶつぞうな日々」史上初、読み返さないまま(5/16土曜の朝8時現在)で公開する。できる限り正しい情報をお伝えしようと努めたが、行き届かない点はもちろん、誤字脱字もあるかと思うので、どうかご容赦のほどお願いします。午年であちこちご開帳があり、どこにお参りしようかお迷いの皆様に届きますように。古仏とお会いし、心で向き合う瞬間の感動がありますように。

【群馬】【栃木】待ち焦がれた正法寺(太田市)ご開帳に感動、そして、佐野・足利・千代田町でたくさんの出会い

感動のご開帳 正法寺聖観音菩薩像 本堂にまつられる模刻像のみ撮影可能だった

 待ち焦がれた正法寺(群馬県太田市)のご開帳。振り返れば、7年前、正法寺の聖観音菩薩立像の模刻像を県立歴史博物館で拝見し、恋に落ちてしまった。正法寺さまにお電話すると、午年の4月18日のみご開帳しているとのこと。12年に一度、たった一日しか拝顔できないという事実に打ちのめされた。3年前、正法寺を訪れた。つまり、下見である。そして、ついに迎えた今年が午年、2026年。新年を迎え、正法寺に改めてお電話すると、4月18日9時から16時のご開帳を予定しているとのこと。やはりこの一日のみのご開帳だとおっしゃる。救いは土曜日だったこと。仕事を休まずに済むし、お友達と一緒にお参りする約束もできた。
 そして、ついに迎えたご開帳の日。熊谷駅で朝早く集合し、まずは佐野市と足利市を駆け巡ってから、太田市へ。感動のご開帳を経て、最後に群馬県千代田町のお寺様2か寺をお参りした。短くまとめると、正法寺と円福寺(太田市)のご開帳が最高に美しくて感動したし、明治初めに廃寺となった樺崎寺(足利市)の巨大さを痛感したし、黄檗宗彫像群(千代田町)の経緯が泣けた。とにかく最高な一日を過ごすことができた。お世話になった皆様に深く深く感謝を申し上げる。ありがとうございました。
 仏像は人と人を結び、過去と現在と未来を結ぶことを改めて認識。仏像という存在の尊さに心からの敬意と感謝を申し上げたい。

○西光院(栃木県佐野市)

 真言宗豊山派

・金剛界大日如来坐像

 平安11世紀 像高90.0cm 桧の一木造り 県指定
 一時期聖観音として信仰されていたが、現在の智拳印を結ぶ形に戻された。境内の檀信徒会館にまつられる。地方仏師の作とされる平安仏に強くひかれた。

・銅造地蔵菩薩坐像

 像高21.8cm  永禄2年1559  市指定  秘仏のため拝観できず。お正月三が日ご開帳とのこと。
・地蔵堂は廃寺になった超願寺から移築されたもの。格天井の野鳥の絵が好き。地蔵菩薩の厨子も立派。
・本堂の本尊は江戸時代の阿弥陀如来坐像。安貞の襖絵。格天井も素敵 

西光院(佐野市)11世紀頃の制作とされる大日如来坐像

○正善寺(栃木県足利市)

 天台宗

・本尊阿弥陀如来坐像

 定朝様 97.0cm 鎌倉中期 県指定
 住職様いわく、さまざまな偶然のお導きにより、日光山輪王寺より昭和51年に勧請。輪王寺の三仏に倣って、千手観音像と愛染明王像を脇侍として新造。美しい三尊にみとれた。

正善寺(足利市)阿弥陀如来坐像 日光から勧請された奇跡に感謝

○鑁阿寺(栃木県足利市)

 真言宗
 ・大日如来像のご開帳は来年。日程は未定だが、5/3-5当たりは必ず開くのではないかとのこと。
 ・仁王像は鎌倉時代。県指定。山門をガードしておられる。フェンス越しだが拝観可能。
 ・本堂は国宝。建久7年(1196)足利義兼が持仏堂として設けるも雷火で焼失。現在の本堂は足利尊氏の父、貞氏が正安元年(1299)に再建 。当時最新の建築様式であった禅宗様建築をいち早く採用したもの。
 ・多宝塔も足利義兼の創建だが、現在の建物は桂昌院の再建。県指定

○樺崎八幡宮と樺崎寺跡浄土庭園(栃木県足利市)

 足利義兼ゆかりの樺崎寺の跡。光得寺の仏像を拝観する前に立ち寄ることができた。樺崎寺と鑁阿寺の歴史について、もっと学ばなければ。

○光得寺(栃木県足利市)

 臨済宗妙心寺派

・善光寺式阿弥陀如来立像 観音菩薩立像 聖観音菩薩立像

 本堂にまつられる。市指定。樺崎寺伝来

・五輪塔19基

 足利氏と足利氏重鎮 高氏の供養塔 市指定 樺崎寺伝来

・地蔵菩薩坐像

 鎌倉初期のバリバリ慶派なのだが、お豆腐が大好きという伝承も。樺崎寺伝来。市指定。境外墓地内、建て替えられたばかりの小さなお堂にまつられる。ちなみに、Google地図にその場所は載っていない(2026年4月現在)が、私はあえてGoogleさんに申請はしないでおく。

樺崎寺伝来。修理を経て、光得寺境外の小堂にまつられる

○脇屋山正法寺(群馬県太田市)

 高野山真言宗。本尊の聖観音菩薩さまが午年4月18日にのみ開扉。高崎の県立歴史博物館でレプリカを拝観して以来、待ち焦がれたご開帳だった。

・聖観音菩薩立像

 ご本尊のご開帳 総高155cm 桧の寄木造り県指定
 私が訪れると、小さなお堂の中、観音様の御前で僧侶がお経をあげていた。静かな読経のなか、参拝の老若男女が次々とやってきて、首を垂れる。足の心配のある方には参拝者同士が手助けする。彫刻としての美しさだけではない。ご開帳という場そのものの美しさにふれられたことに感謝。とにかく感謝。
 博物館でお会いした観音様は衣文等に平安後期の穏やかさを残しつつ、鎌倉初期の写実性も感じられた。しかし、お寺でお会いした観音様は多くの人々が自然と手を合わせざるをえない崇高さと親しみがあった。多くの人がこられていたが、混み合うわけでもなく、静かに祈る空気が境内全域に満ちていた。私はそうした空気感をとても美しいと思った。

12年に一度のご開帳日に拝顔できたことに感謝

・仁王像

 江戸時代、七条仏師康佑の作。吉備文化財修復所により応急処置を受けた牧野仏でもある。市指定 

○円福寺(群馬県太田市)

・千手観音菩薩坐像

 40-50cmほどの小さな千手観音様の坐像。暗がりでよく見えなかったが、かなりの古像である可能性はあるのでは。文化財の指定なし。こちらも静かな祈りに満ちたご開帳だった。正法寺と同じく、午年4月18日のみのご開帳。なお、隣の十二神社からは神像群が見つかっており、そのうち5躯が市指定文化財となっている。この辺りは新田荘だったところで、もっと学びを深めたいと思い続けている。再訪しなければ。

○宝林寺(群馬県千代田町)

・黄檗宗彫像群 県指定 江戸時代

 康佑は正法寺のイケメン仁王像を作った七条仏師。だが、同時に黄檗宗の仏像群でも腕をふるっている。康佑といえば静岡県浜松市の宝林寺の黄檗宗仏像群が有名だが、ここ群馬にも康佑の黄檗宗の彫像群がまつられる。釈迦如来および阿難尊者迦葉尊者像、韋駄天像、達磨大師像頭部、弥勒菩薩像(布袋)、華光菩薩像、緊那羅王菩薩像の8躯が県指定文化財。徳川綱吉が館林城主だった当時に創建された廣済寺にまつられていた。天和3年(1683)、館林城の廃城とともに廣済寺も廃寺となり、宝林寺に移された。
 韋駄天像については、2023年7月から2025年3月にかけて吉備文化財修復所により保存修理を実施。今後順次修復される予定で、次は華光菩薩像が修理に入る。牧野先生にエールを!

○光恩寺(群馬県千代田町)

・阿弥陀三尊(県指定 鎌倉) 阿弥陀如来は定朝様の玉眼!!

・地蔵菩薩板碑(県指定)

 一日の締めは定朝様で玉眼の阿弥陀さま。私は四度目の拝観となる。夕方の時間帯、西側のすりガラスから優しい夕陽が差し込み、私にとって史上最高に美しい阿弥陀三尊に感嘆した。

写真は『目の眼』「ほっとけない仏たち62」より

【参考文献】
・北口英雄『とちぎの仏像』(随想舎2023)
・各市町村の文化財ページ

【院政期】【円派】系図を作ってみた

院政期の仏像が好き!

 定朝の没後、鎌倉時代に入るまでの頃の仏像がとても気になる。院政期と呼ばれるこの時代、定朝の継承と乖離の中で、新たな造形が生まれ、院派、円派、慶派の三派が育っていく。仏師の研究をするうえで、こんなにおもしろい時代があるだろうか
 特に、昨春、京都の鳥羽で安楽寿院の阿弥陀如来坐像北向不動尊の不動明王像を拝観して以来、さらに興味が増した。
 いや、正確に言うと、ひたすらに悩んでいる
 まずもって、この阿弥陀さまとお不動さま、同じ院政期の像でありながら、まったくもって印象が異なる。安楽寿院像は1139年に建立された鳥羽上皇の墓所塔本尊として円派の長円の工房で作られたと考えられる。一方、北向不動尊は奈良派の康助の作(1155年)とされる。同じ時代にあって、こんなにも表現が異なっていることに興奮する。
 さらに、同じ円派でも、長円、賢円の作とされるこの安楽寿院の像はお顔が細長く、円勢の手になる丸顔でずんぐりむっくりの仁和寺薬師如来坐像とでは、だいぶ印象が異なる。
 つまり、いろいろ違っていて、悩んでしまうのである。
とても楽しい悩みなのではある。が、どうもわからない。釈然としない。

突然に円派が理解できた(ような気がした!)

 そんななか、先日、お昼に二子玉川でハワイアンバーガーをいただきながら、山本勉先生の『日本仏像史講義』を読み返していたところ、円派と呼ばれる作品の違いと類似点がすっと理解できた(ような気がした)。円派は「耽美」と評されることがあるが、それもすっと腑に落ちるように感じた。あー、なるほど、こんな感じが円派の耽美なのね...と。
 若い頃、アメリカのCNNをつけっぱなしにして過ごしていた時期があった。テレビの中のみなさんが早口で英語を話されていて、私の英語力はで理解できないこともあった。しかし、ある日突然、人気ニュースキャスターのWolf Blitzerがゆっくり話しているように感じられた瞬間があった。突然に聞き取れるようになったのである。
 二子玉川の事象は、これに似た感覚だった。これまで仏像を拝観し、本などで学んできたことの積み重ねが、この一瞬を生み出したのだろうか。
 この”アハ体験”を記念して、再度『院政期の仏像』を読み返してみた。そして、我ながら唐突ではあるが、円派の系図をまとめてみた。この偉大な2冊をもとに、とりあえず現状で自分が理解していることを可視化しようとした次第である。

唐突に系図をつくる!

 とはいえ、専門家の皆様にも未解明の部分があると思うし、そもそも、私の理解はまったく足りていない! 自分がわかっていないことは、わかっていることの何百万倍以上もある。つまりは、この系図はあくまで私個人の理解と整理のためであり、その正確性は保証できないことをここに堂々と断言する(ドヤ顔w)。武笠朗先生の円派仏師の論文も一度読んでいるのだが、まだ咀嚼しきれておらず、この系図にはまったく生かされていないことも、素直に白状する(汗)。つまりは、もっと勉強したい(がんばる!!!)。将来の自分が、この系図を見直して、「あー、ここも、あそこも、間違っているじゃないかー!」と、今の自分に喝を入れられるようになりたい。それを楽しみにしつつ、今はここに私の恥をそっと置いておく。

康尚と定朝の時代の造像状況

 まずは、院政期の前、定朝とその父、康尚の時代の造像を確認したい。


院政期の円派の系図

 定朝のもとから院派、円派、慶派に分かれていくのだが、目下の私の関心事である、院政期の円派の流れを系図にしてみた。恥を忍んで公開する

 なお、この系図はMSWORDの家系図テンプレートを使用した。

【参考文献】
1) 山本勉『仏像 日本仏像史講義』平凡社2013年
2) 特別展覧会『院政期の仏像ー定朝から運慶へー』京都国立博物館 1991年

【展覧会】仏像愛好家が古代ローマ彫刻を観る! ファルネーゼのアトラス(大阪市美術館)

「天空のアトラス イタリア館の至宝」展

大阪市立美術館
(2025/10/25-2026/1/12)

ファルネーゼのアトラス

西暦2世紀(紀元150年頃)
大理石
像高193cm
ナポリ国立考古学博物館蔵

重い天球を背負い続けて1800年

>

衣文が気になってしまうのは仏像愛好家の習性か
< 

 ギリシャ神話に登場する巨人アトラスは、オリュンポスの神々との戦いに敗れ、最高神ゼウスから見せしめとして天球を背負うよう命じられた。その悲しい姿が令和の今とても美しかった。

 1546年頃、ローマのカラカラ浴場跡で発見され、名門貴族アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の所有に。その後、同家の宮殿に長く置かれたことから、「ファルネーゼのアトラス」と呼ばれる。1786年、ブルボン家支配下ナポリに移動。現在はナポリ国立博物館の所蔵となっている。ヘレニズム時代の彫刻をローマ時代に模刻したものとみられ、制作時期は紀元150年頃だという。発掘時に残っていたのは天球と胴体、顔の一部で、手足などは16世紀の補作。当初部分と補作の境目などつい探してしまったのだが、それは仏像愛好家の習性か(笑) そして、なぜか慶派と比べてしまう(苦笑)

 このアトラスさま、今も裸で、重い重い天球を背負い続けている。さらに、極東の地、日本に来て、多くの人々の目にさらされていた! ちょっとかわいそう。だけど、私はお会いできて嬉しかった! ご出身地であるローマのカラカラ浴場跡をダーリンと二人で訪ねた日のことも思い出した。だいぶ前の旅の記憶ではある。だが、とてつもなく長い歴史を重ねたアトラス様には、ほんの昨日のことのようだね、と笑われそう。

小童寺の来迎図 たくさんの菩薩さまのお出ましにときめく

 なお、大阪市美の企画展示「尊きものー神仏の美術」(2025/11/8-12/21)では、浄厳院「阿弥陀聖衆来迎図」(平安11-12世紀 重文)と小童寺「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(鎌倉14世紀 重文)がとてもよかった。浄厳院の来迎図は平安の和らぎがあり、一目拝見して私はとろけてしまった。小童寺の来迎図では、二十五菩薩菩薩が山の向こうからぞろぞろとお出ましになる。菩薩それぞれがいきいきと描かれ、来迎への憧れを加速させる。来迎図の隣の部屋には、神戸の古刹、太山寺の羅漢像2幅(14世紀)も。アトラス像はイタリアに帰ってしまうが、大阪市美の仏画はまた拝観の機会がありますように

【長野】信濃の佐久から千曲へ平安鎌倉仏を巡る

信濃の平安鎌倉仏を巡ろう
〜佐久から上田平をぶっちぎり〜

知る人ぞ知る信濃の平安鎌倉の隠れ仏を巡る旅。お寺さまおよび役所や公民館の皆さまに大変お世話になった。8月初めの日曜日で、檀家寺さまは大変お忙しい時期。ご縁をつないでくださった皆様に心からの感謝を申し上げる。

安養寺(佐久市臨済宗妙心寺派

・説法印阿弥陀如来坐像および両脇侍立像
 鎌倉時代寛元年間(1243-47)頃 県宝
(『國華』1547号武笠先生の論文に、先月参拝した山形市・慈光明院の説法印阿弥陀如来坐像および寒河江市慈恩寺の脇侍立像との近似性が論じられる)
・法燈国師像 県宝 像高127.4cm 南北朝時代

安養寺の説法印阿弥陀如来と両脇侍像
法燈国師

正法寺佐久市根々井)

地蔵菩薩半跏像 鎌倉前期 県宝
・本尊十一面観音立像、雨宝童子、難陀竜王など

静謐な強さ 正法寺地蔵菩薩さま

観龍寺(千曲市

千手観音菩薩坐像
・十一面観音菩薩立像
二十八部衆 など
平安後期と思われる千手観音坐像があまりに美しい。聖観音菩薩立像と不動明王像が盗難にあい、戻ってきていない。詳しい拝観記録はこちら→【信濃仏】観龍寺(千曲市)で”隠れ仏”を拝む - ぶつぞうな日々 part III

某公民館の仏像群

・鎌倉仏という文化財指定なのだが、もっと古様な気がして、うーむうーむと唸り続けた
文化財指定のない菩薩立像が見事な鎌倉仏にしか見えなくて、さらに、うーむうーむと唸る
・お寺は盛衰を繰り返し、これら仏像群は現在は別の地区のお寺の所蔵となっているが、元のお寺のあった地区の公民館に今もまつられ、地区の皆さまに大切に守られている。尊い仕事をされている皆さまに心からの敬意を表したい
・ぼろぼろになった昔のお堂も合わせて参拝

昔こどもが肩に乗って遊んだという仁王像も素敵

長野県立歴史館「安曇野-知られざる里山の祈り-」

仁科盛家の家族が造立した覚音寺千手観音立像と多聞天立像(安曇野市
妙海の最初の作とされる光久寺日光月光菩薩立像(安曇野市
1203 年滋野一族による真光寺阿弥陀如来および両菩薩像(松本市
観松院の銅造菩薩半跏像(松川村)など。
正福寺の不動明王立像(安曇野市)は初めて拝見したが、写真から想像していたより大きく、身体のひねりが独特で驚いた。
このように松本平の仏像が展示されていた。廃仏毀釈が激しかった地域でありながら、このように古仏が残ることに、心の平安を覚える。
展覧会では、千曲市営の霊園で永代供養墓の需要増を例に挙げ、最近の墓仕舞いや供養の変化にまで言及。古代の仏像から令和の信仰まで辿る意欲的な構成だった。

大法寺(青木村

十一面観音菩薩立像、普賢菩薩立像、文殊菩薩立像、国宝見返りの塔

【群馬】筑波山無量寿寺(前橋市)

2020.1.11 の拝観記録

筑波山無量寿寺(群馬県前橋市

十一面観音菩薩立像

71.5cm  平安 市指定有形文化財
筑波山知足院中禅寺で祀られていたとされる十一面観音立像を拝ませていただいた。住職のお話によると、徳川第五代将軍綱吉の命により知足院の住職をしていた隆光が江戸の護国寺に移る際、江戸に持っていき、さらに、隆光が隠居する際に、弟子の賢光(この寺の住職)に渡したと考えられているのだとか。
切金も隆光の時代のものではないかとのこと。切金の下に鉈彫りの跡があるそうだが、私の目ではよくわからなかった。

地蔵菩薩立像

185cm  鎌倉か 市指定
赤城山信仰に基づくお像ではないかとのこと。

千手観音菩薩立像と聖観音菩薩立像

文化財未指定だが、近年専門家の調査が入ったのだそう。筑波山知足院にあった六観音廃仏毀釈の際に焼かれたのだが、実はその時のお像ではないかと住職は話された。確かに焦げた痕跡がある。その辺りの事情は今後の調査結果を待つしかないが、いずれにしても、よくぞこれまで残ってくださった。お会いできたことに感動する。


基本的に個人拝観はお断りされているお寺様であるが、お電話でお話しするなかで、今回の拝観をお許しいただいた。 

午年! 観音さまのご開帳ラッシュイヤー!!

 午年は観音さまのご開帳ラッシュイヤー! 以下、気になるところのメモ書きです(※今年開かないところも混じってますこと予めお詫びします)

1) 正法寺群馬県太田市
ご本尊聖観音菩薩さま 
12年に一度、午年の4月18日のみのご開帳
ついにやってきた午年! 今年も4/18のみで、9-16時頃を予定とのこと
像高155cm
桧の寄木づくり 
平安末から鎌倉初 
県指定
正法寺聖観音像 - 太田市ホームページ(文化財課)
ちなみに、仁王像は1658年、京都の七条仏師康祐の作で、かなりのイケメン系。市指定。康祐は浜松宝林寺の二十四神像の作者でもあり、興味深い。

正法寺ご本尊聖観音菩薩さま
秘仏ご本尊さまは本堂裏の小さなお堂にまつられる お会いできるだろうか


2) 七沢観音寺(神奈川県厚木市
午年ご開帳
2026/2/1-5/31
ご本尊馬頭観音菩薩さま
丈六の大勢至菩薩坐像 
この勢至菩薩坐像は弾誓派の丈六の作例で、個人的に大注目。弾誓さま追っかけ活動が未熟のため、まだ拝顔できていない。この機会にお参りできれば

七沢観音寺様のご開帳は2-5月


3) 仲仙寺(長野県伊那市)のご開帳は2031年
ご本尊十一面観音菩薩さま、通称、羽広観音さまは、馬の信仰があるので、午年のご開帳を期待。だが、しかし! ホームページには、次回ご開帳は2031年とあり、気が遠くなる!!
ちなみに、こちらの仁王像も京都の七条仏師康忠の作だが、制作年は1501年と正法寺像よりかなり遡る。本堂内の持国天多聞天鎌倉時代の作で市指定。かなり距離はあるが、堂外から拝観可能。

仲仙寺


4) 大経寺(埼玉県八潮市
ご本尊千手観音立像(円空さんの作)が子年と午年にご開帳。大きな立像で、私の個人的調べでは展覧会の出展はない。癒されたい方にお勧め。私は12年前の4月のご開帳の時に拝顔。今年も春にご開帳あるのかなぁ

大きな円空仏のニコニコ笑顔


まだあるけど、今日のところはここまで。


何はともあれ、とにかく、ともかく、実に、実に困ってしまうのが、正法寺さま! ご本尊聖観音菩薩立像のレプリカを7年前に高崎の博物館で拝見。その美しさに魅了された。すぐにお寺様にお問い合わせしたが、あくまで午年のこの1日のみしか開けないとのこと。3年前にお堂の前まで行ってみたが、当然ながら、閉まっていた。やっと午年を迎えたので、改めてお電話したところ、やはり今年も4月18日のみとのこと。1日のみは厳しい! お参りしに伺いたいなぁ。行けるかなぁ。この日は他にも開くところがたくさんありそうだが、仏像愛好家の皆さまはどうされるのでしょう。

【滋賀】恋に落ちて、黄金の稲穂に歌ってしまった、仏性寺阿弥陀さま(野洲)

 何年か前、初めてお会いし、一瞬で恋に落ちた阿弥陀如来さま。久しぶりにお会いしたら、またしても一瞬にして恋の炎が燃え上がってしまった。隠れたまま静かに息づいていた炎に油が注がれたようだ。
 どこが好きなのかポイントを絞って説明することはできる。でも、そんなものをいくら連ねても、この気持ちは伝えられない。そう考えながらお寺を出て、自転車のペダルを踏んでいたら、スガシカオの名曲が思い出された。

♪だってそうだろう
♪誰かを好きになるのに理由なんていらない

 秋の近江、田んぼ沿いの道。こみあげる恋心をこの歌にのせて叫ぶ。稲穂が夕陽を浴びて、黄金色に輝いていた。

2022年秋

♡大好きな仏性寺の阿弥陀如来さま♡
恋心を爆発させながら自転車をこいだ道 夕日の向こうに阿弥陀さまは必ずおられる
阿弥陀さまを好きになるのに理由なんていらない by スガシカオ

youtu.be

2025年の感謝状 信濃仏のみなさまへ

 仏像は人と人とをつなぎ、過去と現在と未来をつなぐ。2025年はその信念をさらに強めた一年だった。
 訪れた寺社は195か所。展覧会も含めると、少なくとも1500超の尊像に拝顔できたのではないだろうか。
 出会えた尊像と出会えた人々に心からの感謝を申し上げたい。

 ありがとうございました!

 みうらじゅん賞を見習って、特に思い入れの強い出会いにヒヨドリ感謝状を捧げたい。

2025年度 感謝状 信濃仏の皆さまへ!!

 何度も長野に通った一年だった。塩田平、佐久、小諸、松本平、諏訪、そして伊那谷。調べれば調べるほど、通えば通うほど、どんどん古仏と出会ってしまう。それが長野県だった。
 善光寺諏訪大社を抱く信濃には、明治初めの神仏分離を経てなお、古来の信仰が息づく。   
 仏像のお住まいは、お寺だけではない。無住のお堂や公民館にも。里人が大切にまつるみほとけのお像にたくさんお会いした。

・バラバラの部材を地元の彫刻家の手で修復し、平安後期の穏やかなお姿を取り戻した、伊那谷阿弥陀如来さま。

円満坊の阿弥陀如来さま(松川町

butsuzodiary.hateblo.jp

・杏の里におられる優美な千手観音さま

  このお堂では盗難被害にあった観音像が戻られることが悲願となっている。

杏の里にこんなにも優美な観音さまが

butsuzodiary.hateblo.jp

・とある集落の公民館

 お堂は老朽化しても、地元の集会所で観音さまを守り続ける人々に出会った。ぼろぼろのお堂には、今も、数十年前の賞状が貼られていた。子供の頃は仁王さんに上って遊んだそうだ。おじさまたちのその目は少年に戻っていた。

公民館で里人とともに暮らす観音さま



・覚音寺の尊像復興を祈願

 4月の長野北部の地震のあと、すぐに覚音寺にご連絡させていただいた。被災した持国天さまにお見舞いにも伺った。一早い修復完了を願っている。



善光寺仏師妙海!

 2025年は私にとって、再びの妙海イヤーとなった。3件6体の妙海仏を堪能。松本市波田の仁王像は子どもの味方。福満寺の日光菩薩月光菩薩像は妙海最晩年の深みあるお像。千曲市の展覧会にも展示があった

福満寺は仏像の宝庫

butsuzodiary.hateblo.jp



 長い年月を経て、今、こうして、みほとけに出会える奇跡。
 そう、これは当然ではない。奇跡なのだ。
信濃にフォーカスすることで得られるこの実感。信濃以外の地方仏をめぐる同好の皆様にもご理解いただけるのではないだろうか。

 もし叶うなら、これからも信濃仏にお会いしにいきたい。まだまだお会いできていない尊像がたくさんおられるので!

【信濃仏】円満坊の円満なる阿弥陀如来さま♡(長野県松川町)

1) はじめに

 信濃伊那谷、福与村の福沢地区に、俗に円満坊と呼ばれる閻魔堂があるーーー。江戸時代中期の文書にそう記録が残る。
 その円満坊の片隅に、仏像の破片が入った麻袋があった。これを戦後に泰阜村出身の彫刻家倉沢興世が修復。
 令和の今、この穏やかな平安の阿弥陀如来さまは、小さなお堂に静かにまつられる。

 閻魔堂を「えんまん(円満)」と読み替えた洒落心。そして、バラバラの像を修復した地元の皆さまのご功績。

 それだけで胸がいっぱい。もう言うことなし。以下の補足説明は蛇足なので、忙しい方はこれ以上読まなくて大丈夫(笑) 専門的な解説は文末に掲げた町作成の解説リーフレット(PDF)をぜひお読みください

2) 「俗に円満坊と云う焔魔堂」

俗に円満坊と云う焔魔堂

 さて、ここからは蛇足。上記まとめだけでは拙ブログは終われないのだ(すみません)
 まずは、お堂の名称のだじゃれに突っ込んでみたい。
 「福與村 福澤」、「一真言宗 俗二圓満坊卜云焔魔堂」。江戸時代中期、『信濃州伊奈郡神社佛閣』にそう記載される。
 つまり、このお堂は、本名が閻魔(えんま)堂で、愛称が円満(えんまん)坊だというのである。
 「えんま(閻魔)」に「ん」を付けて、「えんまん(円満)」。

 まさかの親父ギャグ?

 いやいや、そんな単純なものではないと私は思う。

 閻魔様といえば、地獄で裁判を司るとても恐ろしい存在。おたおたしていると地獄行きを命じられてしまう。そんなのは嫌だ。だからこそ、なんとかしたくなるのが人情というもの。
 閻魔を円満と呼び変えることで、恐怖を希望に塗り替えようという意図が透けて見える!

 ユーモアがありつつ、なんだかせつない!!

 そんなとんでもない文字変換をやってのけた、当時の人々の心意気に感服せざるをえない。

3) 円満なる阿弥陀如来さま♡

 この円満坊は今も、伊那谷の中央、松川町にある。天竜川の東の山腹に健在なのである。
 円満坊の内部には舞台があるそうで、江戸時代には素人歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台として使われていた。幕末安永の頃に焼失したあと、再建。現在は、松川町、福沢自治会の集会所として使用されている。
 そして、さらに驚くのは、この円満坊に、平安後期の円満なる表情の阿弥陀如来さまが伝わることだ。

円満坊の円満な阿弥陀さま

 この阿弥陀さま、その穏やかな美しさとは裏腹に、厳しい経験をされている。

 かつて、この円満坊の舞台の一角には、バラバラになった仏像が麻の袋に入れられた状態で置かれていたという。昭和の終戦後、萩野仲三郎、丸尾彰三郎らによって文化財調査が行われると、破損した状態ではあるが優れた仏像だと評価される。さらに、昭和33年、下伊那史編纂会の依頼に応じて文部省文化財保護委員会 倉田文作が訪れ、「製作年代は、手法様式よりみて平安時代藤原後期、いわゆる藤原時代の優れたものとして特に注目される」との見解が示される。そして、昭和44年、地元福沢部落によって、円満坊本尊阿弥陀如来修理復元委員会が結成され、町教育委員会の指導協力のもと地元出身の彫刻家倉沢興世に修理復元を依頼。円満坊境内の高台に、耐震耐火コンクリート造りの阿弥陀堂を建て、修復された阿弥陀如来像を安置した。かなりの規模の一大事業である。なんとドラマチックだろう。関わられた皆様に敬意と感謝を伝えたい!

 この阿弥陀如来さま、穏やかで上品なお姿である。丸顔に、小さな両目や口、鼻。薄い体躯に、浅く流れる衣文。像高は84.5cm松川町の資料によると、像の構造は、「頭体幹部を正中線と両耳中央から体側を通る線で矧ぎ合わせた四材から彫り出し、内刳りを施し、割り首を行っています。この根幹材に左肩外側材、両足部材を矧ぎたし、左手は袖口上面と手先矧付けとし、右手は肩、臂、手首で矧いでいると思われます」。さらに、補修の状況について、同資料は以下のように続ける。「現在、表面は胡粉の上に墨を塗っていますが、これは江戸時代の補修といわれます。螺髪に一部が欠損し、鼻が木屎漆の盛り上げによる補修を受けているほか、肉髻珠、白毫珠、両耳朵、右手第一指、第二・三・四・五指半先、左手先、左袖口上面、右膝奥、裳先、像底地付廻りが後補(昭和44年)のものに変わっています」

 これら経緯あってのこの美しい阿弥陀如来さま。2025年に出会えた奇跡に感謝したい。

4) 十一面観音菩薩坐像(応安寺伝来)と十王像

 円満坊の境内、阿弥陀堂のすぐ横にもう一つ、小さなお堂がある。2025年に改修工事が終わったばかりで、まだ木の香りが残るお堂には、南北朝時代の十一面観音菩薩坐像と十王像、地蔵菩薩像や不動明王像がまつられている。

円満坊の境内、観音堂の内部
応安寺伝来の十一面観音さま

【拝観案内】

 松川町文化財課へお問い合わせください。
 当方は学芸員様に鍵を開けていただき、拝観させていただいた。本当にありがとうございました m(_ _)m

【近くのおすすめ】

 ・松川町資料館に華厳寺の毘沙門天立像(平安 120cm 寄木造り 町指定有形文化財)が寄託されている。公開時期については館に問い合わせを。
 ・松川町 清泰寺「木造閻魔王と十王一具」は町指定文化財。拝観は事前問い合わせが望ましい。境内に巨大な徳本上人名号塔もある

華厳寺毘沙門天立像
伊那谷最大級の閻魔さま

【展覧会】関西3館で国宝展 2025春!

※2025年5月26日のメモを掲載※

奈良国立博物館の真骨頂と呼びたい! ありがとう超国宝展!


 大阪関西万博2025に合わせて、日本の古美術の粋を集めた展覧会が、大阪市立美術館奈良国立博物館京都国立博物館の関西3館で開催中。

 私は一つのテーマを掘り下げた企画展が好き。特定の仏師や地域に限定した仏像展は特に好き。料理で言えば、一つのテーマをフルコースで味わいたいのである。その像がなぜ、その時代に、その地域でつくられ、信仰されてきたのか。そんなことが考えられるようになるからだ。

 一方、国宝展は、メインディッシュだけを並べるもの。貴重な機会ではあるが、消化不良となりがち。しかも、国宝というだけで、大勢の人が押し寄せ、人と人の頭の間から作品を拝見することになる。

 まあ、そうは言ってもね。
 やってしまいました、国宝展の3館制覇。
 奈良は前期と後期とも鑑賞。

以下、短く感想を。

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奈良国立博物館「超 国宝―祈りのかがやき―」

百済観音菩薩様がまさかの露出展示かつ360度展示。人混みの中、静かに泣いた。百済観音さま、唯一無二のお像!! この素晴らしさ、言葉にできない!! 
明治の終わりから昭和の初めにかけて、奈良国立博物館に展示されていた期間があり、その際に和辻哲郎が拝観し、「百済観音」と称して紹介した…。そんな解説も泣ける。

百済観音さまの展示風景(画像は美術手帖より)

唐招提寺礼堂の清凉寺式釈迦如来立像(〜5/18)。礼堂は常時公開されおらず、なかなか拝観できないお像かと。この一室は、優填(うてん)王の話から釈迦如来像を考えるものとなっている。その丁寧な解説から、唐招提寺像と本家清凉寺像との関係も理解できた。奈良の西大寺清凉寺式釈迦如来立像は、叡尊一門が本家清凉寺像のパワーにあやかろうと、そのそばで彫り上げたという。唐招提寺清凉寺式釈迦如来立像も、その影響のもとで造られたもので、柔らかな表情や素地に切金など、西大寺像に似る。解説にはなかったかもしれないが、思い返すと、鎌倉極楽寺茨城県鉾田市の福泉寺の清凉寺式釈迦如来立像も西大寺唐招提寺の像と同じ雰囲気だ。どちらも叡尊の弟子、忍性のお寺。
後期は唐招提寺像に代わり、本家の清凉寺像を展示。清凉寺本堂より明るい照明を受け、間近で拝観できる。そして、後期には、なんと西大寺叡尊坐像も同じお部屋にお出まし。泣けます。閉館後の夜、叡尊さんは清凉寺の釈迦如来像の前でお祈りされてるに違いない。

唐招提寺清凉寺式釈迦如来立像 気品ある立ち姿に惹かれる(画像は唐招提寺HPより)

・後期に私の大好きな法華寺阿弥陀来迎図がお出まし! 法華寺の狭い展示室で拝見した時も感動したが、奈良博の広い壁面を使った展示を拝見し、さらに感動。赤い衣を纏い正面を向く阿弥陀さま。斜めにこちらに背を向ける観音菩薩勢至菩薩。幡を掲げる童子。来迎図好きな私が特に特に好きで好きでたまらない来迎図。

法華寺の国宝阿弥陀来迎図 今回の展示で拝見しもっと好きになった (画像は法華寺HPより)

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大阪市立美術館「日本国宝展」

・獅子窟寺薬師如来坐像! 久しぶりに拝観できた! ガラスケースありだが、360度! もう美しくて、凛々しくて、ため息しかでない!! そして、お世話になっている勝林寺のご本尊様とそっくりであることを再確認した。佐々木香輔さま撮影の写真がこれまたとんでもなくすばらしく、お小遣いはたいてクリアファイルを購入。

・新薬師寺本尊薬師如来像の光背化仏
国宝展とうたっていながら、ご本尊様ではなく、その光背の化仏だけの展示。でも、おかげで、化仏の表情の違いなど、解説読みながらじっくり拝見できた。結果よし! 

最後に、漢委奴国王の金印の列に並ぼうとしたところ、「今、お並びいただいても、閉館時間になりますと打ち切りです。ご覧いただけない可能性がありますので、ご了承の上でお並びください」と言われる。びっくり。さっさと撤収し、再び獅子窟寺薬師如来像へ。閉館までの時間をじっくり拝見して過ごした。これもまたよし。

会場を出て気づいた。大倉の普賢菩薩像、拝んでない! 金印の待ち列のところにおられたのかな!?

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京都国立博物館「日本、美のるつぼ 異文化交流の軌跡」

古来から海外とのつながりの中で日本美術を考えるもの。とてもよいテーマで、展示数も多い。だが、仏像の数は少なく、しかも初見の像はない。萬福寺の羅睺羅尊者像が撮影可能。羅睺羅尊者が腹を切り開いて、自分の中に仏がいると示す。その強烈なインパクトが人気の像なのだが、私には強烈すぎ。なにより、悲しすぎる。腹を割って話すという言葉があるが、実際に切り開かないと、理解してもらえないのか。言葉だけでわかりあえないのか。国宝展の片隅で、人と人とのコミュニケーションについて考えてしまった。
(ちなみに、明治古都館の公開もよかった)


【追記】
2025年の年の瀬、一年間の展覧会を振り返ると、奈良の超国宝展が飛び抜けて素晴らしかったと思う。今年5月の短いメモ書きをここに残しておきたい。2025.12.29 ヒヨドリ

※参考サイト※
法隆寺百済観音の画像
「超 国宝-祈りのかがやき-」(奈良国立博物館)開幕。これまでにない国宝展|美術手帖

唐招提寺釈迦如来立像の画像
礼堂 | 伽藍と名宝 | 唐招提寺

法華寺阿弥陀来迎図の画像
https://hokkejimonzeki.or.jp/about/treasure/

【京都府】正覚院(宇治市)〜平安の聖観音像と鎌倉後期円派の毘沙門天像だけではない〜

京都浄土宗寺院特別大公開2025
10/12(日)13-15時公開
正覚院(宇治市

1) 正覚院とは

十劫山正覚院長楽寺は、もともと木幡山麓に創建された浄明寺であったが、応仁の乱で焼失し、衰退。安土桃山時代、文禄3年(1594)に、木幡の豪族野田清玄が再建、僧離垢誉(りくよ)を中興とする。
平安の観音像(市指定)と鎌倉時代後期、円派の仏師、朝円による毘沙門天像(府指定)をお目当てにお参りしたのだが、本堂のご本尊阿弥陀如来立像の平成の修理にまつわるお話に感動したし、本堂に隠元さまと独湛さまという黄檗宗の禅僧の文字が掲げられるのもよかった。

2) 本堂

2-1) ご本尊阿弥陀如来立像

正覚院ご本尊阿弥陀如来さまの中に古い願文が

 本堂のご本尊阿弥陀如来立像は江戸時代の作とされる。法然上人800年大遠忌を機に、平成24年(2012)4月12日から8月9日にかけて修理したところ、胎内から写経や願文等が確認され、さらに光背には江戸中期のご本尊修復に関する記述が発見された。

ご本尊躯内封入物
阿弥陀経写経と願文 
 いずれも焼け跡があり、年号の記載がない。願主は(脱)心、同、壽清比丘尼。正覚院には安土桃山時代以降34代の住職の記録が残るが、その中に、この名前の記録がないため、応仁の乱で寺が焼ける前の御歴代の可能性がある。仏師名は聖比丘⚪︎心(⚪︎の文字は判読不明だが、怒に似た文字)。一人三銭を万人講にて一万人から集めたという記述もあるという。3銭とは150〜300円程度(修復時2012年の資料による)とのこと。経済史に疎い私でも、一万人もの多く庶民の皆様が少額ずつ寄進して造立された尊いお像だということはわかる。
・新たな願文
 「明暦三年(1657)霜月十八日開眼、願主業蓮正誉」と記載される。
・その他(愛宕山の火防札、イチョウの葉、南天の葉)
 愛宕のお札は今も火災避けのパワーがあると信じられている。また、イチョウの葉は古来より火災の際に水を吹くと言われ、また南天には難を転じるの意味もある。

 正覚院さま作成資料を読むと、これらの胎内納入物から、住職様が以下のような私的考察をされていることがわかる。

 ーー正覚院の創建、再建当時の詳細は不明であるが、応仁の乱による焼失より前、または、1594年の再興より前に、浄土宗寺院として阿弥陀如来さまをお迎えしていたしても不思議ではない。大切なご本尊が火災で焼けてしまったので、新たに造立した阿弥陀如来様(現在のご本尊様)に、古い願文(焼け跡が残るも、焼け残った)と新しい願文の両方収めたのではないか。さらに、愛宕の火防札やイチョウ南天の葉も胎内に収めたところに、「大切なご本尊を失った悲しみ、また新たなご本尊様に対する強い願い、思いが感じられる(正覚院資料原文ママ)」ーー

 このご考察はしごく妥当なものだと私には感じられる。これら願文は、宇治市歴史資料館と相談のうえ、裏打ち保存し、ご本尊様の胎内に戻したのだそう。ご本尊様の心臓ともいうべき大切な文書が、修理を経てまた胎内におられることに感銘を受ける。数百年後の修理の際、人々はそれどう受け止めるのだろう。
 今回の修復により、ご本尊はきれいに金を貼り直し、今は金色に輝いておられる。お寺様の「これであと200年はだいじょうぶ」とのお言葉が心に沁みた。阿弥陀様の信仰はこうして受け継がれていくのだろう。

正覚院様で作成された資料の一部

2-2) 隠元の名号額

隠元禅師の六字名号

 なんとびっくりなことに、黄檗宗開祖、隠元隆琦による南無阿弥陀仏の名号額が掲げられる。黄檗宗本山万福寺に近いからなのか。

2-3) 独湛の寺号額

独湛による正覚院の寺号額

 こちらもびっくりなことに、本堂前の寺号学は、黄檗山第四代住持、独湛性螢によるもの。ほとんど知られていないとは思うが、独湛は中将姫と當麻曼荼羅を愛し、念仏独湛と言われた僧侶。もっと注目されるべきだと私は思う。浜松の初山宝林寺の寺宝のほか、「日本大和州当麻寺化人織造藕糸西方聖境図説」の全編公開など、独湛の展覧会をお願いしたい!

3) 観音堂

 文化財の仏像が2躯、山門横の観音堂に安置されている。

3-1) 聖観音菩薩立像


像高102.8cm、一木造りで彫眼。平安後期の作として、宇治市文化財に指定。堂外からの拝観で、観音様がお厨子の中におられるため、お姿はとても見えにくい。比叡山横川の聖観音さまと同じく、胸の前で蓮華の蕾を掲げるポーズを取る。両手の肘から先は後補とのことだが、 そのポーズには無理がない感じがする。また、説明書きには、「寄木造全盛時代の一木造として、全面に鑿目がみられる点は、霊木化現仏風の特色と解することもできる」とある。だが、双眼鏡で目を凝らしても、残念ながら、鑿目は見えなかった。いつか明るい照明で拝みたい。

3-2) 毘沙門天立像


像高125.4cm。寄木造り。玉眼。当初の彩色がよく残る。お厨子に入っていないので、観音像よりもかなり見えやすい。見事な盛り上げ彩色や切金も見える。
右足枘の銘から、三条仏師の法印朝円の作と判明。「三条仏師とは、平安時代中頃に定朝の弟子長勢が京の三条に始めた仏所の門流に属することを示し、京風の優美な作風に特色がある」(正覚院資料より)
京都府教育委員会の資料には、朝円について、以下のような記載がある。

足枘にみる法印朝円は、定朝の弟子長勢の流れを汲むいわゆる三条仏所に繋がる円派仏師で、正和4年(1315)、日吉社の神輿造替に際して、木仏師として法眼良雲、法眼性慶等を指揮して「三条法印朝円」の名で参加している(『実衡公記』正和4年2月24日条)。同名ながら三条高倉に住房を構え安元3年(1166)に大覚寺五大明王像を作成した明円の直弟子の朝円とは別人で、鎌倉時代の三条仏所には約一世紀を隔てて二人の朝円が存在したことになる。明円の跡を継ぐ三条円派仏師のうち、これまで作例の知られてなかった鎌倉時代後期の法印朝円の作が確認されたことの意義は大きい。

また、左足枘には「神主 泉八右エ門」とあり、本像は、正覚院の近くにあった田中神社の旧蔵とも考えられるが、詳細は不明だという。田中神社は明治42年、木幡の許波多神社に合祀されている。

【拝観案内】

京都浄土宗公開時に拝観。
正覚院 京都府宇治市木幡正中20(六地蔵駅近く)
https://shougakuin-kyoto.com/

【参考資料】

a) 正覚院さまでいただいた資料「法然上人八百年大遠忌記念本尊阿弥陀如来修復」(平成24年8月盆、住職 寺川孟寛)
b) 『京都の文化財 第20集』京都府教育委員会、平成15年(2003)
https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/wp-content/uploads/2022/05/bunkazai20.pdf
c) 『文化財保護No.20 守り育てようみんなの文化財京都府教育委員会 
https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/wp-content/uploads/2022/05/mamori20.pdf
d) 独湛性瑩に関する過去の投稿
https://x.com/hphiyodori/status/1725626052972880159
https://x.com/hphiyodori/status/1725616309646536901



※写真 毘沙門天像のカラー写真は上記参考資料c)の表紙より。それ以外は筆者が現地で撮影。聖観音菩薩像は境内説明看板を撮影。私が参拝した公開時、観音堂内は撮影禁止、本堂内は撮影可能ということだったので、念のため、その旨付記しておく。