ぶつぞうな日々 part III

仏像は人と人とを結び、過去と現在と未来を結ぶ。大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【埼玉】天洲寺の聖徳太子像

聖徳太子孝養像 1247年、慶禅の作 (写真は天洲寺で無料配布された資料より)

聖徳山天洲寺(埼玉県行田市)
聖徳太子孝養像
1247年 慶禅の作
像高140.9cm 檜の寄木造 玉眼 重文

 寛元5年(1247)、鎌倉幕府の重鎮だった大江広元の四男、毛利季光が、亡くなった両親兄弟および源実朝や北条泰時らの極楽往生を願って奉納。胎内墨書銘から、鎌倉の地で、大仏師法橋慶禅によって造られたことがわかる。
 慶禅という仏師については、他の作例は見つかっていない。だが、眉をひそめた複雑なご尊顔の表現や、太い体躯に刻む衣文を見ると、運慶に近いものを感じた。興福寺北円堂の無着世親像を想起する一方で、それより激しい強さを感じた。
 鎌倉で造立後この地にまつられるようになった経緯はわかっていないそうだ。
 そんなミステリアスな聖徳太子像。強く厳しい表情の奥に、私はなぜか、聡明さと優しさを感じた。

 この孝養像は聖徳太子のご命日とされる2月22日にご開帳される。朝10時に到着すると、すでに屋台が並んでおり、ささら獅子舞が始まった。獅子舞の伴奏である笛の音が聞こえてくる堂内で、聖徳太子像を間近で拝観させていただいた。この時間はまだ参拝者がほとんどおらず、ゆったりと拝観できた。11時と14時に法要があり、その間は拝観できない。法要の直後は混み合うらしい。

 聖徳太子ゆかりのお札二つを拝受した。一つは大工道具を使って南無阿弥陀仏の文字を表す、番匠要具名号。大阪の四天王寺に行くと、いつも番匠名号の幟が立っていて、その古い歴史とデザインに憧れていた。埼玉の奥地で、摂津を思い出すことになるとは。聖徳太子信仰の広がりを改めて実感する。もう一つは仏具や楽器を用いた仏具楽器名号。聖徳太子信仰と阿弥陀信仰の関係について論文あれば読みたいなぁ


【拝観案内】
聖徳山天洲寺
〒361-0011 埼玉県行田市大字荒木1614
TEL 048-557-1002
秩父鉄道秩父本線 武州荒木駅 のすぐそば

【信濃仏】諏訪湖面に反射するお日様を身に纏う小坂観音院の十一面観音さま(長野県岡谷市)

小坂観音院(長野県岡谷市)
お彼岸の朝、十一面観音さまが諏訪湖面に反射するお日様を身に纏う

端正な十一面観音さまがお日様の光を纏う

 諏訪湖の西岸の高台に建つ小坂観音院。彼岸の朝、正面にそびえる八ヶ岳の向こうから上る朝日が湖面に反射し、山門をくぐって、ご本尊十一面観音菩薩さまを眩しく照らし出す。
 この神秘の瞬間が出現するためには、晴れていて、かつ、諏訪湖の湖面が穏やかでなければならない。
果たして2026年9月23日の朝、この二つの条件が揃い、朝日を全身に受けられた神々しい観音さまを拝むことができた。

 この観音さまは、かつて諏訪湖で漁夫の網にかかり、魚籠(びく)の上に載せて持ち帰ったものと伝わる。そして、湖岸の景勝地にお堂を建てて祀ったのが寺の起源という。いつの頃の話なのかはわからないが、人々の信仰の篤さが偲ばれる。
 そんな伝承を背負って現在の観音院にまつられるのは、室町時代の木造の十一面観音菩薩坐像である。胎内銘から、永正3年(1506)、大檀那を諏訪頼満として造立されたことがわかっており、岡谷市の有形文化財に指定されている。
 外陣から目視で見た限りだが、像高は50-60センチほどだろうか。大きな頭部が前に傾き、お身体全体が四角っぽく、量感がある。衣は厚めで、衣文は流麗にしっかりと刻む。院派と言い切れるほどの自信はないが、腕の確かな仏師の作で間違いない。南北朝から室町ぐらいのこういう感じの観音坐像は他でもいくつか拝観したように思う。例えば、奈良国立博物館所蔵の十一面観音坐像。頭が前に傾く感じや、身体の四角っぽい形どりと似ている。長野県では、下伊那郡松川町に、同じぐらいの大きさの十一面観音菩薩坐像(南北朝時代)がおられる。

 観音院の十一面観音坐像の左右には、毘沙門天像と不動明王像が立ち、睨みを効かせる。諏訪大社の辺りでは、毘沙門天と不動明王を脇侍とする例が他にもある。

私が現地に到着したのは朝6時過ぎ。湖面を反射した朝日はまず、正面左手の毘沙門天を照らしていた。そして、朝日は少しずつ右手に移動。6時20分頃から数分間にかけて、十一面観音さまをまっすぐに照らし出したのだった。
 山門を通過した光が一直線にお堂の中央に差し込む。眩しい。強い朝日を身に纏われた観音さまのなんと眩しいことか。なんと神々しいことか。奇跡のような数分間だった。(↓このすぐ下の写真2枚、彩度の加工は一切なし! 観音様に真っ直ぐに日光が差し込むのがおわかりいただけるだろうか!)

諏訪湖に反射したお日様が観音様を照らす
お日様の光が観音様へ差し込む
諏訪湖に反射する日の光が山門をくぐって観音様を照らす

お堂は1715年の建て替えか

 誰がこのような仕掛けをつくったのか。残念ながら、堂宇の建立について詳しい資料は残っていないそうだ。播磨の浄土寺における重源上人のような稀代のプロデューサーが諏訪にいたのだろうか。
 この小坂観音院はかつて諏訪大社上社の社坊であり、その後、諏訪藩の祈願所であった。お堂には今も、諏訪大社上社と同じ神紋が掲げられる。梶の三つの葉を四本足の幹(根?)が支える紋様である。
 そして、嘉禎4年(1238)の古文書に名前が記されることから、それ以前の古くから堂宇はあったと推測される。江戸時代寛永21年(1644)に、後の高島藩二代藩主 諏訪忠恒により修造。正徳5年(1715)、第四代藩主 諏訪忠虎により造営された際の棟札がある。

 境内の一段と高いところに、諏訪御寮人(井上靖『風林火山』では由布姫、新田次郎『武田信玄』では湖衣姫)の供養塔がある。諏訪頼重の娘で、武田信玄の側室となり、武田勝頼の生母となった女性である。この一文に戦国時代の波瀾万丈が詰まっている。諏訪御寮人は小坂観音院で療養したと伝わる。

 小坂観音院は無住となっており、昌福寺(岡谷市)の住職が兼務する。昌福寺は諏訪神仏プロジェクトで公開されたので、私を含めその際に参拝された方も多いのでは。 

お願い

 大変おこがましいことだが、最後に一点お願いがある。今回の彼岸の二つの太陽のイベントは、お寺としての観音院のイベントではなく、観音院檀徒会の皆様がボランティアで対応されたものである。お檀家の皆さまがお堂の開け閉めを行い、集まった地区の皆さまが観音さまの神々しさに手を合わせるだけのものである。お堂が開くのは、朝日の差し込むわずかな時間だけ。朝7時前にはお堂とお厨子の扉を閉め、撤収を完了されていた。寺主催のご開帳とは異なり、法要や祈祷や稚児行列、出し物、出店など、一切ない。お檀家の皆様の志で行われる小規模な会である点にご配慮いただきたい。
駐車場も少ししかないので、もし来年行かれる方がおられたら、事前に小坂公民館にお問い合わせされるようせつにお願いしたい。

【展覧会】【仏像エッセー】「南武蔵の平安仏」展で影向寺のおじさんを想う

影向寺とおじさん
〜「南武蔵の平安仏」展によせて〜


特別展「南武蔵の平安仏」
横浜市歴史博物館
2026/10/31-12/13

影向寺のおじさんと語り合いたいこのポスター

 丸山尚一さんなどの書物を読んで、人知れず日本各地にまつられる地方仏を知り、お寺様にお電話して拝観の可否を伺う。仏像歴の長くなってしまった私だが、今でも緊張する瞬間である。

 思い返すと、最初にそんな拝観のお伺いをした丸山仏が、影向寺(神奈川県川崎市)の平安仏、薬師三尊だった。もう20年ぐらい前のことだろうか。お正月三が日にご開帳が行われていると伺い、家族みんなで出かけたのだった。お電話で応対してくださった女性の「お気をつけてお出かけください」という一言が心に染みた。そうして訪ねてみると、大きな平安の一木造りの薬師如来さまに心奪われた。忘れられない思い出である。

 それ以来、ほぼ毎年、お正月に影向寺に伺い、薬師三尊さまのおられる収蔵庫をお参りしている。二天像と十二神将像もおられる、濃密な仏像空間にふれるのがお正月の恒例となっている。
 仏像だけでなく、毎年同じおじさんとおしゃべりするのも楽しみだった。ご開帳期間中、収蔵庫の番をされているおじさんである。自動車の営業マンだったおじさんはおしゃべり好きだった。現役時代、仕事が忙しくて、奥さんを大切にしてあげられなかったこと。影向寺のお墓に眠られる奥さんへの罪滅ぼしの気持ちもあって、毎年のこのお役目を引き受けておられること。毎年毎年同じ話を伺った。
 そのおじさんとも、ここ数年会えなくなってしまった。お元気でおられるのだろうか。それとも…。

 今、横浜市歴史博物館で、「南武蔵の平安仏」という展覧会が開催されている。会場では、影向寺の薬師三尊を間近で拝むことができる。最新の研究成果を踏まえた、わかりやすい展示解説も素晴らしい。
 毎年お参りしているのに、薬師様と左脇侍のお顔がそっくりであることに初めて気づいた。斜め横から写真を撮ろうとした際、この二つの尊像が同じ遺伝子を引き継ぐ きょうだい のように感じた。展示解説には、薬師様と左脇侍は同時期に造られ、右脇侍は少し遅れての造立ではないかとあり、納得した。

 今回の展覧会のこと、おじさんと共有したい。来年のお正月、もしまたおじさんに会えたら、たくさんおしゃべりしたい。おじさん、展覧会のポスター、薬師様の横顔がものすごくお優しくて、あったかいですよー!

おじさんはいつもこの角度で薬師三尊を見ていた

【展覧会】多武峰妙楽寺の襖絵が150年ぶり再会〜大英博物館日本美術コレクション百花繚乱 海を越えた江戸絵画〜

東京都美術館開館100周年記念
「大英博物館日本美術コレクション 
百花繚乱〜海を越えた江戸絵画」
2026/7/25-10/18 東京都美術館
(9/4鑑賞記録)

 確か去年だったと思う。偶然目にした青森のローカルニュース映像に衝撃を受けた。青森県中泊町の旧家にある襖絵が大英博物館所蔵のそれと一連の作品であると判明したという。画面に映るのは豪華絢爛な狩野派の画。そして、なにより感嘆したのは、150年前に離散したこの二つの作品を結びつけた研究者の慧眼だった。その短い映像を私は何度も繰り返し観た。

 ここまで気になるのであれば、現地に行って実物を拝見しなければなるまい。いや、しかし、どちらも遠い。そう逡巡するうち、日々の忙しさにかまけ、その存在を忘れかけた頃(忘れるんかい!)、とんでもないニュースが飛び込んできた!

 当該襖絵がイギリスから里帰りし、東京都美術館の特別展に出展されるというではないか。しかも、青森の襖絵も一緒に展示されているいう。

 もう、これは、行かなければ…! 行かないという選択肢はない。

 というわけで、ちょっと出遅れたが、一瞬の閑を絞り出し、やっとこの展覧会に行くことができた!

 行ってみると、想像した以上に感動ポイントが満載だった! 

1) この一連の襖絵は、もともと奈良の多武峰妙楽寺という神仏習合の寺院にあった。戦国時代に荒廃した寺を立て直すべく、1612年、徳川家康が賢盛法印を妙楽寺のトップ、初代学頭に指名する。この襖絵はその学頭の屋敷、竹林坊に収められたものだった。しかし、明治初めになると、神仏分離によって妙楽寺は談山神社に変わり、学頭屋敷は破壊され、襖が流出してしまう(仏像愛好家の宿命として、旧妙楽寺の仏像のお姿が脳裏を横切ってしまうのだが、その話はまたの機会に) 

2) 時は移り、1922年、 一連の襖絵のうち春を描いた4枚《春景花鳥図襖》が東京美術倶楽部で競売にかけられる。購入したのは、青森県中泊の宮越家第9代当主宮越正治だった。正治が妻イハの数え33歳の誕生祝として建てた自宅離れ、詩夢庵(しむあん)を飾るためだった。購入の翌年、関東大震災があり、美術商のあった近辺は大火に包まれたという。妻への愛があったからこそ、そして、青森に移動したからこそ、生き残った襖絵だとも言える。

3) 2023年、この宮越家の襖絵の写真が狩野派の研究者山下善也氏のもとにメールで届いた。それを見た山下氏は、1987年、自身が28歳のとき、東京国立博物館の特別展で観た大英博物館所蔵の襖絵と似ていると直感する。当時の図録を引っ張り出して見比べたとういう。それが《秋冬花鳥図襖》だった。山下氏はロンドンへ飛び、この作品と再会。鳥の飛ぶ方向など、二つの絵が繋がること、引手金具がまったく同じであることなどから、宮越家の作品と一連のものであることを確認した。

4) ロンドンに渡った《秋冬花鳥図襖》の裏側には、《琴棋書画仙人図襖》が描かれていた。これは1930年代に切り離され、1951年からシアトル美術館の所蔵となっている。なんとこの作品もシアトルから里帰りし、本展覧会で展示されている。中国の文人が重要視した四つの教養、琴、囲碁、書、絵画がモチーフとなっており、四季の美しさを描いた上記二作品《秋冬花鳥図襖》《春景花鳥図襖》とは趣きが異なるのも見どころ。右端には仙人である張果老が瓢箪から駒を取り出すシーンがあり、この襖の左右には仙人を描いた絵が続いていたと推測されるのだという。その絵はどこかに現存するのだろうか。今後の発見に期待したい。

5) そして、宮腰家の《春景花鳥図襖》の裏側には《名所風俗図(清見寺・三保松原)襖》が描かれる。賢盛法印が家康から学頭に指名された駿府の風景を描いたものである。家康の威光を示す意図もあったのだろう。個人的には、絢爛豪華な花鳥図と文人画より、こちらの柔らかく牧歌的なタッチに癒される。

6) 談山神社の古い資料に、学頭屋敷の間取りが記される。「花鳥の間」と呼ばれる部屋に《秋冬花鳥図襖》《春景花鳥図襖》が、その隣の「富士の間」に、《名所風俗図(清見寺・三保松原)襖》が収められたとみられる。この展覧会では、当時の配置を再現する形で、これら一連の襖絵が展示される。

7) 気になる襖絵の作者は誰かという点である。山下氏によると、狩野永徳の弟 宗秀の弟子、狩野宗眼重信だと考えられている。静岡県美術館の重信の作 《帝鑑図・咸陽宮図屏風》と点苔の描き方などが同じなのだという。

 奈良の多武峰から青森、ロンドン、シアトルへ流れた狩野派の名作が今、150年ぶりに東京で再会しているのである。時空を越えたこの同窓会に立ち会える幸せ。今なら東京都美術館でその幸せを感じられる!

(大阪中之島美術館に巡回予定。期間は2026/10/31-2027/1/31)

【信濃仏】越後からご遷座された阿弥陀三尊さま(長野県東御市・観音寺)


 仏像は京都や奈良の大寺院だけにあるのではない。小さな町の小さなお堂で地域の人々が管理されている仏像のなんと多いことか。そんなお仏像にまたお会いした。

 長野県の旧北御牧村、現在の東御市大日向に、浄土宗の観音寺がある。大きな本堂の横、昭和52年に建設された立派な収蔵庫に、鎌倉時代初期の阿弥陀三尊像をまつる。住職様はおらず、地元の檀家様17軒で管理されているという。
 東御市役所を通じて事前にお願いし、収蔵庫の阿弥陀三尊像を拝観させていただいた。越後から遷座された、ドラマチックな来歴のみほとけだった。

阿弥陀三尊さま

東御市に残る鎌倉時代の阿弥陀三尊像

 中尊の阿弥陀如来さまは像高89.5cmの坐像。親指と人差し指を捻り、来迎印を結ぶ。脇侍の観音菩薩さま(像高60cm)は跪坐し、優しく微笑みながら蓮台(現状では亡失)を捧げ持つ。勢至菩薩さま(像高61cm)は右膝を立てて坐し、胸の前で合掌する。材は桧材で(カヤとする資料もある)、中尊が寄木造り、両脇侍が一木割り矧ぎ。表面の仕上げや両肘から先は後補。
 三尊ともお顔が穏やかで、螺髪の大きな粒や観音勢至のさほど高さのない髻など、平安後期の特徴も見られる。しかし、頬に張りがあり、特に脇侍像の顔が角ばっていることや、胸部の肉付けにかなりの厚みがあることなどから、鎌倉時代前期の制作と考えられるという。
 正面から拝する阿弥陀さまは肉髻の膨らみが大きく、螺髪の粒も大きく、平安の名残を感じた。しかし、背面に回り込んで見上げると、なんと、後頭部の螺髪が逆V字となっており、やはり鎌倉初期の造像なのだろう。やはり近くで観察しないとわからないことも多いものだ。
 台座と光背は後補だろうか。小諸藩主菩提寺の本尊だったためか、とても立派である。

阿弥陀さまの後頭部、螺髪が逆V字


越後三島の藩主菩提寺から信州へ

 この阿弥陀三尊は、彫刻史における価値もさることながら、その来歴も興味深い。以下、時系列に整理してみたい。

<鎌倉時代>
・新潟県長岡市、寛益寺(かんにゃくじ)の伝承によると、この阿弥陀三尊は、仇討ちで有名な曽我兄弟(五郎と十郎)の末弟、曽我禅師坊の護持仏だった。曽我禅師坊は越後の国上で出家したが、鎌倉幕府に見つかり、殺されてしまう。ゆかりの人々が寛益寺に遺骨を埋葬し(その墓と伝わるものが現存し、長岡市指定遺跡となっている)、阿弥陀三尊は寛益寺奥院であった、曼荼羅寺の本尊としてまつられた。(寛益寺HPより)
 ↓
・観音寺でいただいた資料には、曽我禅師坊については記載がないものの、「越後国三島郡板下谷(現在の新潟県長岡市)の古刹曼陀羅寺の本尊だった」旨が明記されており、寛益寺の伝承と一致する。また、曽我兄弟の仇討ちは建久4年(1993)なので、阿弥陀三尊が鎌倉前期の制作とされる点とも大きくは乖離はしない
 ↓
<江戸時代>
・明暦2年(1657)、越後長岡藩牧野氏から分家し、三島郡与坂一万の藩主となった牧野康成が、藩主の菩提寺として曼荼羅山聲香院泰安寺(浄土宗)を開基し、その本尊として曼陀羅寺本尊をお迎えした
 ↓
・元禄15年(1702)与坂松野氏は三代牧野康重のときに信州小諸一万五千石に移封となる。小諸城に入城する際、三島の泰安寺も小諸城下に移り、ご本尊阿弥陀三尊も一緒にご遷座された。牧野氏は明治初めの廃藩まで十代に渡り小諸を治める
 ↓
<明治>
・明治4年(1871) 廃藩置県が施行。小諸藩の廃藩に伴い、泰安寺も廃寺となり、ご本尊阿弥陀三尊は、泰安寺の仏具等とともに、小諸の光岳寺へ移された。阿弥陀三尊は光岳寺の隠居寺であった大日向の観音寺に迎えられた
 ↓
<昭和>
・小諸光岳寺に移された仏具のうち、青銅製のもの数点が、太平洋戦争の際、戦時供出されてしまう
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・昭和21年、文化省の倉田文作技官が観音寺の阿弥陀三尊を調査。文化財に相応しい旨の内示があったが、無住で資力に乏しい観音寺では保管設備もままならなず、文化財の話は立ち消えとなる
 ↓
・昭和51年に長野県宝(県指定文化財)に指定。長野県の助成を受け、翌年、観音寺の本堂横に収蔵庫が建設され、現在に至る

 こうした来歴を振り返るとき、越後にあった阿弥陀三尊が信州に移り、令和の今まで継承されていることに私は改めて感じ入る。多くの方々の信仰とご苦労に思いをはせる。
 歴史の証人であり信仰の対象である阿弥陀三尊が今後も末長く伝えられますように。そう願いつつ、これを書いている。
 今回、拝観の機会をいただいたことに心からの感謝を申し上げる。

参考文献

1) 東御市の文化財サイト 東御市(とうみし)|木造阿弥陀三尊像|人と自然にやさしい 豊かな暮らしを実感できるまち とうみ
2) 『定本 信州の仏像』しなのき書房 2008年
3) 寛益寺サイト 曽我禅師坊の墓 https://kannyakuji.com/treasure.html
4) こもろ観光局サイトより 牧野康重について 牧野康重「小諸城主(藩主)牧野家初代」 | 信州・小諸|詩情あふれる高原の城下町|こもろ観光局

【信濃仏】【四万六千日】高山寺(長野県小川村)聖観音菩薩さまご開帳と山居上人と

高山寺(長野県小川村)
聖観音菩薩立像 
四万六千日ご開帳(2026年8月10日午前8時〜午後8時)

左に見えるのが三重塔
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高山寺 四万六千日ご開帳!

遠いけど行く価値あり!

 高山寺観音堂の秘仏聖観音菩薩さまは平安仏にして秘仏。お会いできるのは、年に一度、8月10日の四万六千日のご開帳のときのみ。高山寺があるのは、長野県でも北の方。小川村という聞いたことない地名だ。地図で見ると、長野の善光寺よりだいぶ西の山の中のようだ。長野インターチェンジから車で50分。安曇野インターから75分。つまりは、中央高速利用民にはとても遠い…。が、行くしかない… 。秘仏の観音様を拝むべく、市街地を離れた山上のお寺様に参上せねばならない(サンジョウにサンジョ-!..すみません、初っ端からダジャレで...)。
 カーナビ先生の仰せのとおり、安曇野インターで降りて一般道を進む。遠い。大町の市街地を抜けたあたりで山の中で入る。どんどん標高が高くなり、だんだん心細くなってきた頃、、、立派な三重塔が見えた。1195年に源頼朝が寄進したという高山寺の三重塔(県宝)である。朝早くに諏訪湖近くから出発し、高山寺に到着したのは午前10時過ぎだった。境内ではマルシェ「さんきょ市」が始まり、小さなお子さんたちの姿も見られた。昼過ぎには紙芝居やオープンマイク(楽しそう!)、夕方からはアコースティックギターのライブや盆踊りも予定されているという。朝の高山寺は、楽しい夏の一日が始まる予感で満ちていた。まるで天空のオアシスのようだ。

高山寺観音堂

秘仏聖観音菩薩さま

 天空のオアシスでのんびりしたいところだが、私はとにかく秘仏の聖観音菩薩さまに拝顔しなければならない。天空の余韻に浸る間もなく、ストイックに観音堂を目指した。観音堂は本堂の裏手、一段と高い場所にたつ、小川村指定文化財の建物である。
 聖観音菩薩様は、この観音堂の本尊として、内陣中央のお厨子の中で微笑んでおられた。お厨子は目線より高いところにあるものの、観音様は明るい照明の光を受け、神々しいお姿をあらわされていらっしっゃった。
 像高52.5cmの小さなお姿。神聖でありながら、とにかく可愛らしい。脚部に衣がかかる。が、それ以外の衣文はほぼ見えない。彫り出しがないのか、それとも超絶浅い衣文なのか。照明の反射でよく見えないのか...? そして、ちょっと膝から下が少し斜めに傾いているように見えるのが不思議だった。木材を生かした素朴な彫り方なのだろう。一方、ご尊顔はしっかりと表情がある。私には優しく微笑んでおられるように見えた。
 お寺のHPによると、桧の一木造りで、内刳りなし。彫眼。宝髻を彫り出し、地髪はまばら彫り(私には髪の毛の一本一本まではよく見えなかったが、そのような調査記録があるのだろう)。制作年代は藤原中期と推定され、小川村の重要文化財に指定。
 素朴な小像に気品があふれている。はるばる出かけてきて、本当に良かった。脇侍は毘沙門天像と不動明王像で、こちらも気になる。
 なお、ご開帳日は堂内撮影厳禁。小川村のサイトにもお寺様のサイトにも観音様のお写真は掲載されていない。よって、ここにも掲載・転載ができないことが残念である。多くの方々にご開帳日にお参りいただき、観音様のお姿を自らの目と心に焼き付けていただきたい。

観音堂内部。中央お厨子の扉が開き、聖観音様を拝む。山居上人の千体仏に埋め尽くされる堂内。(写真は『定本信州の仏像』より)

弾誓派 山居上人による千体仏

 特筆すべきは、この観音様の厨子の背後の壁面と左右の柱を埋め尽くす、小さな千体仏である。観音像935躯、地蔵像43躯の合計987躯で、その大きさや印相から5種類に分類されるという。像高は12.0cm〜21.4cm。作者は、弾誓派の木食聖、山居上人(法阿)である。
 山居上人は1665年に松本で生まれた。13歳のときに奉公先の子供が亡くなる事故に遭遇したことから、松本の念来寺の空幻明阿上人の弟子となり出家。22歳の時、高山寺に近い虫倉山で木食行に入った。弾誓派の修行僧たちは作仏聖として多くの仏像を制作しており、山居上人も小さな仏像を多く残している。1698(元禄11)年、ここ高山寺観音堂の修復に尽力した山居上人は、1703(元禄16)年には仏像一万体彫刻の大願を成就。つまり、観音堂の千体仏は山居上人の遺作のごく一部でしかない。今でも高山寺近くの鬼無里には、山居仏が60体ほど残り、その仏像自体がが「さんきょさん」と呼ばれている。近隣のお寺のお仏壇に今も山居上人のお仏像がまつられていることもあるそうで、羨ましい限りだ。(ちなみに、荒彫りの小さな仏像をたくさん作った善光寺大幸という仏師も活躍している。大幸の作が山居の初期の作と推定されていた時期もあった。この大幸さんの仏像がまたインパクト大なので、いつか別途記事にしたい)
 さらに、観音堂の須弥壇の裏側に、三尺ほどの阿弥陀如来立像がまつられていた。元禄7年(1694)、高山寺三重塔再興のため、山居上人が自ら造立し、勧進のための結縁本尊としたとされるお像だ。小さな千体仏とは異なり、しっかりとした造像である。そして、とても優しく微笑んでおられる。この阿弥陀様の優しい眼差しに山居上人のお人柄が滲み出ているように思えてならない。山居上人は、高山寺の秀栄とその本寺である専照寺の知栄から依頼を受けて、三重塔の再興に尽力した。自分のお寺でもないのに勧進・復興に協力する。木食し、念仏し、庶民のために仏を彫る。弾誓派のこの精神を私はロックンロールだと思う。
 山居上人は晩年は山を下りて大町市の弾誓寺の住職となり、そこで1724年に即身成仏なされた。高山寺をお参りのおりには、弾誓寺もぜひお参りされたい。弾誓寺の聖観音菩薩立像は私の大好きな信濃仏であり、仏像愛好家には全力で拝観をお勧めしたいところではあるのだが、それと同時に、弾誓派の信仰と作仏聖としての営みについてももっと知られるべきだと私は思う。現代を生きる私たちが学べることがきっとあるはずだ。

山居上人による阿弥陀如来立像。観音堂須弥壇の裏側にまつられる。この写真よりずっと優しい目をされていた。(写真は長野市立歴史博物館だよりNo119より)
大好きな弾誓派の系譜も上げておく。山居上人は一番右下に記載される(出典は長野市立歴史博物館だよりNo.119)

まとめ

 以上、短くまとめると、「平安の観音様にお会いできて感動」、そして、「山居上人がかっこいい」ということになる。私はできれば再訪し、今度は三重塔の山居上人のお仏像を拝みたいのだが、そんな幸せな機会に恵まれるだろうか。

【拝観案内】

宝珠山高山寺(長野県小川村/真言宗豊山派)
住所 〒381-3301 長野県上水内郡小川村稲丘7119
長野ICより 32km  約50分
安曇野ICから 54km 約75分
行きは安曇野ICで降りて一般道を通ったが、帰りは長野ICから高速道路を利用した。混雑状況によるだろうが、案外長野ICからが早くて楽だった。
四万六千日のご開帳は2026年8月10日は朝8時から夜8時まで。平日なので、お勤めのある方もお参りしやすいようにとの住職の配慮による。

【参考文献】

・高山寺HP  北アルプス天空の寺 小川村高山寺
・小川村HP  文化財一覧 - 小川村
・『定本 信州の仏像』しなのき書房 2008年
・長野市立博物館 博物館だより 第119号 (2021年9月発行)「信州ゆかりの作仏聖-弾誓派から円空・木喰へ-」 ※弾誓派のガイドブックともいうべき内容で、オススメ! この内容で無料とはありがたすぎ。長野市立博物館さまに感謝 (私の当時のTwitter投稿))
・鬼無里ふるさと資料館  山居上人について https://kinasa.sakura.ne.jp/kinasa.jp/wp/wp-content/uploads/2019/12/folk_illust_sankyo.pdf(←PDFが開きます) 

【静岡県】【牧野仏】霊山寺 平安の秘仏大内観音ご開帳

霊山寺(静岡県静岡市清水区)
大内観音さま

 霊山寺ご本尊千手観音菩薩さまについに拝顔がかなった。毎年3月の祭事の際でさえ閉まっていた厨子の扉が、5/31(日)12-15時のみ開かれた。
 平安初期の密教仏を思わせる、霊力を秘めたようなご尊顔。側面はよく見えないものの、一木造りの体躯は量感がありそう。しかし、衣文の彫りはさほど激しくない。静岡県の資料には12世紀前半とあったが、もう少し古く、平安中期に近いように感じたが、どうなのだろう。像高107.0cmの尊像はとてつもなく大きな存在感を放っていた。

 今回のご開帳は仁王像の修復を記念して行われたもの。私が10年ほど前に訪れた際、仁王さんはぼろぼろで、瀕死の状態だった。牧野隆夫先生の工房で修理され、昨年静岡市の博物館で展示後、仁王門に戻された。展覧会でその迫力に感動したのだが、現地でお会いすると、この仁王さんには展示室が窮屈すぎたのだと気づいた。山腹の山門では、元気に回復したお姿を誇らしげに見せびらかしているではないか。山の中で、気宇壮大に動き回るのが似合っているのだ! 汗をかいて、ゼーゼー言いながら山道を登ってきた私を仁王さんは盛大に笑い飛ばしたのだった。

 秘仏千手観音菩薩、二十八部衆、そして悲願の仁王像の修復に携われた牧野隆夫先生に心からの敬意と感謝を申し上げたい。そして、今回ご開帳の機会をくださった関係者の皆さまに感謝を。ありがとうございました





※堂内撮影は可能だったが、秘仏本尊さまは撮影不可だった。
※以下は9年前の参拝記録 m(_ _)m
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【神奈川】津久井観音霊場その3 〜善勝寺に敬服 & 大通寺 春日堂 中野堂の小さなお堂に大きな愛〜

 津久井観音霊場(2026/5/1-5/23ご開帳)が素晴らしすぎて、ご開帳最終日も巡礼に出かけた。午前中は古刹の善勝寺と神仏習合(蔵王権現信仰)の場であった慈眼寺を中心に、午後は私の大好きな”公民館の仏像”である中野堂とやはり神仏習合の名残のある春日堂を中心に計画を立てて、巡った。
 まず敬服してしまったのが善勝寺。調布の深大寺の孔雀文磬(2026年、重要文化財に指定)が去年までこの寺で長らく大切に保存されてきたことを忘れてはいけない。ご本尊毘沙門天立像がかなりの美仏なのだが、文化財の観点から磬を深大寺に里帰りさせた住職さまのご決断もとんでもなくかっこいい!
 また、当ブログでは、「小さなお堂に愛がいっぱい」シリーズとして、これまで向龍寺と久保沢観音堂をエントリーしていたが、ここに大通寺、春日堂および中野堂を加えたい。特に、大通寺はいろいろ衝撃的であり、参拝のご縁に感謝しきれない。
 津久井観音霊場2026年午年ご開帳では、3日間かけて巡礼し、合計30札所を参拝した。立派な堂宇を構える古刹から、ご開帳という大イベントに手弁当で対応された地元管理の小堂まで、その札所は実に多様であった。そこには、神仏分離、火災、そしてダム湖建設など、人々の歴史が刻まれている。旧津久井郡4町に限定した、地元密着の写しの観音霊場の魅力ははかりしれない。お参りさせていただけたことに心からの感謝を申し上げたい。南無観世音菩薩。合掌

20 慈眼寺(高野山真言宗/旧相模湖町)

 慈眼寺は頼源阿闍梨により天正年間(1573-93)に開山。旧津久井群与瀬村、相模川北岸にあった蔵王社の別当寺だった。里人ヤヨとキヨが相模川に放った魚取りの網に神像がかかり、この地にまつったとの伝承がある。『新編相模国風土記』には、室町時代、享禄年間(1528-1532)の銘が台座に残るご神像に関する記載がある。明治の初めの神仏分離により、慈眼寺と与瀬神社とに分かれる。慈眼寺の山号金峰山に蔵王信仰の名残をみる。
 現在の慈恩寺は目の前に中央高速が走り、その先に相模湖を見下ろす。ご本尊は薬師如来坐像で柔らかなご表情をされていた。その左右に彩色の弘法大師像と不動三尊。新たに造立された蔵王権現像2躯もまつるところが粋である。津久井観音霊場秘仏は聖観音菩薩立像。内陣にて小さなお厨子の扉が開き、間近で拝観させていただいた。


19 長福寺(臨済宗建長寺派/旧相模湖町)

 平成2年に焼失し、平成5年に再建。ご本尊地蔵菩薩立像もその際に勧請され、白木の素地が初々しい。津久井観音霊場は聖観音菩薩立像で、ご本尊様の前に置かれていた。境内の天神社には小さな天神様と牛のお像。

18 善勝寺(高野山真言宗/旧相模湖町)

 旧津久井郡では普門寺、顕鏡寺に並ぶ古刹。本尊毘沙門天立像は弘法大師御作の伝承があるが、鎌倉仏かと見紛うほどの美仏である。伺うと、江戸時代中期の作だという。彩色された丸顔の吉祥天・善膩師童子を脇侍とする。不動明王像、弘法大師像も。脇壇の小さな深沙大将像が気になった。本堂内、正面左の位牌堂に阿弥陀如来さまがおられる。津久井観音霊場のご開帳秘仏は十一面観音菩薩坐像。
 正面右手の間には、両界曼荼羅図の前に何やら展示があり、驚いた。去年、深大寺(東京調布)で拝見した鎌倉時代の孔雀文磬に関する展示だった。相模原のお寺から里帰りされたと聞いていたのだが、なんと、その譲り元がここ善勝寺なのだという。「武州深大寺」「深沙王堂」「文永四年丁卯」の銘があり、深大寺の創建に関わる深沙王堂の磬として文永4年(1267)に制作されたものだとわかる。昨年春に深大寺で公開された後、今年、重要文化財に指定。5/17まで新指定文化財展(京都文博)に展示されていた。善勝寺では、磬のレプリカが、新聞記事と一緒に展示されていた。
善勝寺に伝わった経緯は不明だというが、戦時供出の危機を守り抜き、元の場所へ譲渡された善勝寺の決断の尊さを忘れずにいたい。深大寺は何度もお参りしているので、きっとまたこの孔雀文磬(深沙王堂磬)にお会いする機会があるだろう。その度に全勝寺と住職様を思い出すことになりそうだ。

※写真は以下の調布市のサイトから。ぜひお読みいただきたい
深大寺「銅孔雀文磬(どうくじゃくもんけい)」の重要文化財(美術工芸品)指定 | 調布市

17 大通寺(臨済宗南禅寺派/旧相模湖町)

 ぼろぼろのお堂の奥、真ん中に聖観音菩薩坐像がまつられる。五色の糸は如来立像とつながる。観音様に糸を結びにくかったからだろうか。狭い堂内には、薬師如来と十二神将、十王像(十一躯おられた!)もおられる。小像とはいえ、十二神将が勢揃いなのは見逃せない。ぜひご覧くださいと言われた涅槃図はかなり腕の良い絵師によるものかと思われる。壁にかけられた涅槃図は大きな額のようなものに入っているのだが、さらにその上にカーテンがかかる。住宅用のカーテンレールが取り付けられ、そこにやはり住宅用と思われる布地のカーテンを設ける。手作り感満載である。そこに強い信仰と愛を感じてしまう。
 また、今回のご開帳のため、廃業した床屋さんの駐車スペースを使えるようにしてくださったという。駐車場の手書き案内にも愛しか感じない。本当にありがたい。
 無住のお寺様で、ご開帳を行なってくださったことに心からの感謝を申し上げたい。心配なのはお堂の老朽化である。津久井観音ガイドブックによると、八王子長房町の長泉寺が兼務されているそうだが、大通寺をこの場所で守り続けてほしい。



01 雲居寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 札所の1番、雲居寺。うんごうじ、と読む。第21世大雲禅無和尚が安永年間に呼びかけて始まったのが、この津久井観音霊場である。山門から広い境内を抜けて本堂に上がると、雲居寺本尊、地蔵菩薩様が迎えてくださった。右手に錫杖をもつ坐像である。津久井観音秘仏は十一面観音菩薩坐像で、内陣の正面右手の高い位置にまつられていた。回向柱の記述から「知足十一面観音」と呼ばれているようだ。そのいわれを聞きたかったが、団体さんが入ってこられたので断念。帰り際に、山門の横の巨大な観音立像を見上げると、十一面観音にして四臂であられた。

02 春日堂(旧津久井町)

 明和3年(1494)、南都の奈良大炊介・縫殿の兄弟が春日神社を勧請。寛文5年(1665)、法印大内昇氏が開基となり、春日社の境内に春日堂を創建。明治初めの神仏分離により、春日堂は廃止となり、春日大明神の本地仏(不空検索観音)と貴船大明神の本地仏(不動明王)は焼却。住吉大明神の本地仏(聖観音菩薩)は焼却を免れ、大内泰智が長竹の三明院(さんみょういん)へ遷座し、津久井観音札所として引き継がれた。しばらくの間、ご開帳は近くの三明院で行われてきたが、138年を経た平成20年、元の堂地に復元遷座。現在の春日堂でのご開帳は、平成26年(2014)以来、今回が二度目となる(2020年の半開帳はコロナで中止)。
 長い階段を上り、春日神社の境内に入ると、氏子の皆様が迎えてくださった。春日神社の建物に卍の印など神仏習合の痕跡があることなど、ご説明くださる。地元のお茶などでのご接待もありがたい。ちょっと心配なのは、ご開帳の仏様が菩薩像ではなく、如来立像のお姿をされていたこと。聖観音さまと伝わっているのであれば、それはもう聖観音さまに違いないのだが。。。このお堂の歴史と氏子の皆様の温かさを知った私は、その辺りは指摘できず。。。今になって、忸怩たる思いが残る



03 中野堂(旧津久井町)

 飯綱神社の別当だった金原山賢太郎が元禄15(1702)に邸宅内に堂を建て、十一面観音菩薩を勧請し、同家代々の守護仏とした。明治初めの神仏分離令により、金原氏(後に築井と改正)が神職を務めることとなったため、十一面観音菩薩を現在地(根小屋1072)に清水山中野堂としてまつり、中野地域の守護仏とした。
 中野堂は、大正から昭和にかけて、地域の集会所として、また、繭の乾燥所や火の番の番小屋としても使われた。現在のお堂は昭和46年に再建されたもので、南根小屋集会所内の中央に併設される。
 私が訪れると、地区の皆様が温かく迎えてくださった。修験道在家札所だったこの3番札所は今、自治会館となり、集落の信仰を繋いでいる。つまり、当ブログの大好きな「公民館の仏像」に認定させていただく! 現地でいただいた手作りの資料によると、十一面観音菩薩立像は像高28cmで、脇侍が不動明王と毘沙門天とある。その画像も印刷されている。しかし、写真のとおり、脇侍は不動明王の脇侍である制咜迦童子と矜羯羅童子に見えた。


04 湘南寺(臨済宗建長寺派/旧城山町)

 本尊薬師如来坐像。同じ厨子の中に日光菩薩月光菩薩立像と十二神将がすべて収まる。その正面右手に大きな釈迦如来立像と地蔵菩薩立像。これらすべて近年の修理で彩色金箔が施される。本尊の正面左手に阿弥陀如来立像と観音菩薩勢至菩薩像。こちらは古色仕上げ。内陣が格子で遮られており、格子越しに外陣からの拝観。
 津久井観音霊場のご開帳秘仏は、その格子の上、高いところに安置。小さな十一面観音菩薩坐像。

06 宝泉寺(高野山真言宗/旧城山町)

 札所秘仏の十一面観音菩薩立像を本堂横の大きな建物の一階でご開帳。普段はこの建物の二階のお厨子の中におられるのだと伺った。鎌倉時代の板碑1基と南北朝時代の板碑2基も公開。



最後に

 津久井観音霊場巡礼3部作はこれにて終了。たくさんの出会いに感謝。旧津久井郡の地域の力に感謝。南無観世音菩薩。合掌

小さな観音さまに大きなありがとうを申し上げたい

津久井観音霊場巡礼の記録

・津久井観音霊場巡礼その1
butsuzodiary.hateblo.jp

・津久井観音霊場巡礼その2
butsuzodiary.hateblo.jp

【神奈川】津久井観音霊場その2 〜観音様をお守りする公民館に敬意を♡ そして、展覧会でお会いした薬師如来さまが優しい♡〜

 津久井観音霊場(旧津久井群内43か所)は午年が本開帳。2026年のご開帳期間は5月10日から23日まで。短すぎて、全札所を巡るのはとても無理。やむを得ず、初日は文化財指定のあるお像を中心に駆け足で13札所を巡った。そして、今回、二度目の巡礼では、旧藤野町を中心にゆっくりペースで8札所を参拝した。
 とにかく感動したのが、当ブログが大好きな「公民館の仏像」である。27番 向龍寺(旧藤野町)と05番 久保沢観音堂(旧城山町)は、観音様と地元の皆さまとの絆が近くて、美しくて、とにかく羨ましい。
 そして、「相模川流域のみほとけ」展でお会いした尊像にまたしてもお会いできた。43番 福寿院、室町時代の院派の薬師如来さまである。お寺ではまったく印象が異なって驚いた。静かに衆生のそばにおられる、みほとけであられた。
 なお、当ブログ調べでは、津久井観音霊場において、この展覧会にお出ましだった仏像6躯と1組にお会いできる。顕鏡寺、正覚寺、井原寺、安養寺、光明寺、祥泉寺、福寿院である。

21 御岳山観福寺(高野山真言宗/旧藤野町)

 ご開帳秘仏である千手観音菩薩さまは観福寺ご本尊でもある。像高36.8cmの寄木造りで、江戸時代中期から伝わる。通称、矢部の観音様。お厨子の中に、小さな木造の不動明王立像と毘沙門天立像(いずれも江戸時代)とともにまつられている。このお厨子は普段は閉まっており、午年のこの時期のみご開帳される。同じ壇上に、御前立の千手観音菩薩立像と毘沙門天立像(鋳造)、不動明王立像(木造)もおられる。左右の脇壇には、それぞれ金剛界大日如来と弘法大師坐像。お寺の案内書によると、弘法大師像に大仏師横山式部作の銘がある。ざっくり調べた限りでは、この仏師名では仏師関連は出てこない(川崎の枡形山に土塁を築いた戦国時代の豪族横山式部少将弘成の名前がヒットするのみ)

23 福王寺(臨済宗建長寺派/旧藤野町)

 十一面観音菩薩坐像。小さな不動明王立像と毘沙門天立像が脇侍。地蔵菩薩坐像もまつられる。境内に藤野観音堂(津久井観音22番)と天満社がある。

22 藤野観音堂(臨済宗建長寺派/旧藤野町)

 津久井観音霊場の札所だった三徳山清袋寺が昭和28年に福王寺に合併。聖観音菩薩様が藤野観音堂に引き継がれた。福王寺(津久井観音23番)内に小さなお堂があり、そこに聖観音菩薩坐像がまつられる。その横に不動明王坐像もおられる。お堂の前に立つ回向柱は実際に触れて、ご開帳秘仏さまとご縁を結ぶものなのだが、こちらは写真のとおり、こんな感じなので、畏れ多くて触れられない。



25 増珠寺(曹洞宗/旧藤野町)

 ご本尊は延命地蔵菩薩坐像。脇侍として掌善童子・掌悪童子像を従える。その前に津久井観音秘仏の小さな聖観音菩薩坐像がまつられていた。25番はもともと勝瀬地区の鳳凰寺だったが、相模湖建設の際にお寺と勝瀬の住民が揃って海老名に移転。増珠寺が現在の25番札所となっている。

27 向龍寺(高野山真言宗/旧藤野町)

 明治6年(1873)向龍寺が廃寺となったあと、残った観音堂も老朽化したため、馬本地区の尽力により「馬本生活改善センター」を建設。その中に向龍寺本尊十一面観音菩薩坐像をまつる。ご開帳の際には、馬本地区の住民が交代で参拝者の対応にあたる。
 この十一面観音さまは頭頂化仏や手首から先を失っていたが、近年修理が施され、面目を一新。今回が修理後初のご開帳である。修理の経過を記したファイルを見せていただいた。ご尊顔や胸の辺りはクリーニングによって金色が蘇り、頭頂化仏さまや持物が新たに制作され、見違えるような美しさである。お堂の立替の経緯などから、当ブログとして、大好きな「公民館の仏像」に認定。地区の皆様の信仰と献身に心からの敬意を表したい。大切な観音様をお参りさせていただき、ありがとうございました。 なお、十一面観音様の他に、顔面を失った破損した菩薩立像がそっと佇んでおられた。



28 蓮乗院(高野山真言宗/旧藤野町)

 如意輪観音菩薩坐像。忍性ゆかりのお寺と聞き訪れたが、その形跡は見つけられず、残念。密教の様々な曼荼羅が広い堂内に所狭しと展示されている。密教仏に関心ある方にお勧め。

43 福寿院(高野山真言宗/旧藤野町)

 津久井観音秘仏さまは聖観音菩薩立像。堂内、向かって右のお部屋に安置。堂内正面、奥の内陣に、本尊阿弥陀如来坐像。その左に不動明王立像がおられ、そのさらに左に薬師如来坐像。右手の高い場所に上人像をまつる(開祖真清と伺ったが、福寿院HP記載の第15世 真政和尚が正しいか?)。薬師如来像は室町時代、院派の作とされ、福寿院で最古のお像とみられる。「相模川流域のみほとけ」展(神奈川県歴博2020年)にお出ましだった。お寺では、お厨子の中におられ、少し離れた場所からの拝観となるので、院派らしい四角っぽい体部の木取りなどは確認できない。しかし、お寺でお会いする薬師さまはとてもリラックスされていて、穏やかでおられた。静かに衆生の安寧を祈っておられるようだった。

05 久保沢観音堂(臨済宗建長寺派/旧城山町)

 公民館の半分のほどのスペースが観音堂となっており、そこに西国、坂東、秩父の百観音の写しがまつられる。高遠の石工が明治時代に刻んだ石仏が、壇上に所狭しと並び、胸を打つ。各霊場の最終番の像の光背に、造立年代と経過を示す銘文が刻まれる。その銘から、明治11年(1878)に桂昌寺の住職山本渓山が発願、明治27年(1894)に完成し、同年4月渓山和尚によって発願供養されたことが明らかになっている。像を手がけた像のは長野県高遠の石工 北原祥重(七兵衛)。毎月10月、おくんちと言って、9のつく日にご開帳されており、私は一度お参りしたことがある。近くの大正寺(今回のご開帳から津久井観音霊場に参加)から住職が来られ、法要がある。女性の皆様によるご詠歌も感動する。津久井観音霊場のご開帳のときには、さらに、壇上の高いところにあるお厨子が開き、小さな聖観音菩薩立像さまもご開帳となる。現在は金ピカのお姿であるが、この聖観音さまが案外一番古いのではないかと思ったりもする。そして、はい、もちろん、当ブログとして、大好きな「公民館の仏像」に認定。観音堂をお守りされる皆様に心からの敬意を表したい。10月のご開帳日にまたお参りさせていただくかもしれない。お堂の前に徳本上人名号塔もある。

【神奈川】津久井観音霊場巡礼の感動! そして、「相模川流域のみほとけ」展のお像との再会!!

 津久井観音霊場は神奈川県旧津久井郡に43の札所をもつ。前回の中開帳がコロナ禍で途中で中断されてから6年。午年の今年、ついに12年に一度の本開帳が始まった。ご開帳期間は2026年5月10日から5月23日の2週間のみ。初日に13札所を巡礼した。相模川上流域、鎌倉と甲斐のルートにあたるこの地に古い仏像が残る。先の大戦の時は鎌倉の仏像が文化財として疎開した場所である。戦後はダム建設により、移転したお寺もある。とてもドラマティックな地域の歴史に触れつつ、観音様を巡ることができる。
 私は初日に13札所を巡礼。2020年の伝説の展覧会「相模川流域のみほとけ」展(神奈川県立歴史博物館)でお会いした尊像のうち、なんと6件(5躯と1組)に再会できた。それ以外にも文化財指定のお像二つを拝むことができた。
 この感動を取り急ぎお伝えしたい。

24 浄禅寺(臨済宗建長寺派/旧藤野町)

 ご本尊様は像高12.7cmの十一面観音菩薩坐像。室町時代前期、一木造りのなんと法衣垂下像である。この小さな観音さまが、一回り大きな十一面観音菩薩様のお像の胎内に収まる。この鞘仏さまは像高32.1cm、宝永6年(1709)の作。胎内仏さまはお体にお籠もりのままでおられるそうで、心の目で拝んできた。お寺のご本尊が観音霊場の観音様でもある。市指定文化財。なお、浄光寺にも鞘仏の中に室町頃の阿弥陀如来像を収めた例がある。
 閻魔王坐像(慶長3年(1598)か)は法量大きめの立派なお像。

14 顕鏡寺(高野山真言宗/旧相模湖町)

 脇壇の阿弥陀如来坐像は像高85.4cm、平安後期の作。現状は全身が黒く塗られているが、上品で温和なご尊顔、浅い衣文など、定朝様の特徴を残す。近くにあった末寺の常楽寺が明治初めに廃寺となり、顕鏡寺に移座。「新編相模国風土記稿」の常楽寺の記述にある「本尊阿弥陀」がこの像と考えられる。2020年「相模川流域のみほとけ」展(神奈川歴博)でお会いした時にも見惚れたが、お寺でお会いすると、阿弥陀さまがとてもリラックスされていて、自然で、さらに美しさを増していた。弥陀の定印を結ぶ。人差し指を少し曲げているところが私はたまらない。

15 正覚寺(臨済宗建長寺派/旧相模湖町)

 ご本尊の聖観音菩薩立像が津久井観音霊場のご開帳秘仏でもある。像高71.3cm。「相模原流域のみほとけ」に秘仏ながら出展されており、その図録によると、「やや開いた切れ長の目、しっかりとした肉取りの頬、バランスのとれたプロポーション」から、鎌倉時代13-14世紀の作例と記載されている。衣が軽く、若々しいので、素人(私)の印象としては鎌倉でも早い時期かと。構造は耳後ろを通る線で前後に割矧ぎ、内刳りのうえ割首。玉眼。「新編相模国風土記稿」の正覚寺の条には「本尊正観音」とあり、この頃には聖観音として祀られていたことがわかるが、頭髪部に頭上面の跡があることから、元は十一面観音だった。体部に近年の補修があるそうだが、どこだったのだろう。

13 宝珠庵(臨済宗建長寺派/旧相模湖町)

 小さな十一面観音菩薩様の立像。お寺の旧境内は現在の津久井湖の湖底にある。十一面観音さまは霊場HPには正覚寺燈楼堂(回向の鐘)内に安置とあるが、実際に訪れてみると、正覚寺本堂内でご開帳されていた。像高は1尺だろうか、小さく、気品に満ちた可愛らしいお姿に胸が熱くなる。正覚寺本堂の前に、15番正覚寺と13番宝珠庵の回向柱が並び立つ。

30 井原寺(曹洞宗/旧津久井町)

 鎌倉時代の聖観音菩薩立像が霊場秘仏。境内の小さなお堂に安置。実は毎年1月にもひっそりとご開帳されており、私は数年前にお参りして以来の再訪。お厨子の前まで進み、下からご尊顔を仰ぎみる。

32 光明寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 大きな本堂の上で小さな観音様がご開帳。
 本堂の奥に、光明寺ご本尊の地蔵菩薩坐像。法衣垂下像。像高67.4cm。
鎌倉来迎寺地蔵菩薩像(永徳4年 1384) や埼玉法光寺地蔵菩薩像(至徳3年 1386)と同じ特徴をもつ。いずれも宅磨浄宏の作例と考えられることから、本像も鎌倉で活躍した宅磨派の造像か。法衣の垂下が足りてないのは気になるものの、凛々しく美しいお姿にただ見惚れるしかなかった。

33 来迎寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 ご本尊聖観音菩薩立像がご開帳秘。500-600年前の制作と見られるとお寺の案内にある。9番観音寺さまの兼務寺。

34 宗安寺(高野山真言宗/旧津久井町)

 12年前のご開帳の直前に観音霊場入りし、その際には観音菩薩像の安置が間に合わず、本尊釈迦如来さまを例外的に観音霊場本尊とした。その後、十一面観音菩薩立像を奉安。今回のご開帳では、堂内の正面左脇に安置された十一面観音さまを拝むことができた。経緯はよくわからないのだが、小さな弁財天、大黒天、恵比寿様の三尊を無償でいただいた。当家玄関にありがたくまつらせていただいている。

31 安養寺(高野山真言宗/旧津久井町)

 霊場秘仏本尊は千手観音菩薩立像。いろいろな特徴が入り混じった独特のお姿は幾たびかの後補によるのだろうか。
 正面左に見覚えのあるお像がおられた。「相模川流域のみほとけ」展で強烈な印象のあった摩利支天騎猪像である。お堂でお会いするとその魅力はさらに爆発! とにかくチャーミングである。安養寺は顕鏡寺の兼務寺で、このお像は普段は顕鏡寺に安置されているのだと伺った。


12 祥泉寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 ご開帳秘仏は小さな聖観音菩薩坐像。内陣にたくさんの仏像が祀られる。特に、熊野三所権現本地仏である三尊に注目した。中央の大きめのお像が阿弥陀如来立像(像高33.0cm)で、左右に薬師如来立像(27.2cm)および千手観音菩薩立像(30.8cm)をまつる。それぞれ熊野本宮、新宮および那智の本地仏さまで、もとは境内の鎮守熊野神社に安置されていた。室町時代16世紀の作で、市指定文化財。祥泉寺の山号は熊野山なので、もともとは神仏習合の場所だったのだろうか。

09 観音寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 津久井湖を見下ろす見晴らしのよい高台に観音堂がある。山門(市指定文化財)の横から急な石の階段を登るロケーションと古いお堂が素敵なので、ご開帳の機会に堂内を拝観できることを楽しみにしていた。しかし、今回のご開帳では、観音堂は閉じられていて、下の方にある本堂にご開帳秘仏のみを移してのご開帳となっていた。上まで登るが大変だという配慮からだった。観音堂への階段も危険なので閉鎖。安全第一なので、やむなし。

08 友林寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 ご開帳秘仏は聖観音菩薩坐像。壇上にさりげなく祀られる聖観音菩薩立像はなんと鉄仏さま。14世紀、鎌倉時代後期から南北朝時代の作と考えられる。像高36.4cm。市指定。

11 長成寺(臨済宗建長寺派/旧津久井町)

 お寺のご本尊様である如意輪観音菩薩坐像が津久井観音霊場のご開帳秘仏でもある。なんとこのご本尊さまには胎内仏さまがおられる。このご開帳期間のみ、胎内から取り出され、鞘仏さまのお膝の上でご開帳となる。ご開帳最終日の夕方、法要をお行い、再び胎内に戻されるのだと伺った。

 以上、ご開帳期間が短いので、大急ぎでこれを書いた。ブログ「ぶつぞうな日々」史上初、読み返さないまま(5/16土曜の朝8時現在)で公開する。できる限り正しい情報をお伝えしようと努めたが、行き届かない点はもちろん、誤字脱字もあるかと思うので、どうかご容赦のほどお願いします。午年であちこちご開帳があり、どこにお参りしようかお迷いの皆様に届きますように。古仏とお会いし、心で向き合う瞬間の感動がありますように。

【群馬】【栃木】待ち焦がれた正法寺(太田市)ご開帳に感動、そして、佐野・足利・千代田町でたくさんの出会い

感動のご開帳 正法寺聖観音菩薩像 本堂にまつられる模刻像のみ撮影可能だった

 待ち焦がれた正法寺(群馬県太田市)のご開帳。振り返れば、7年前、正法寺の聖観音菩薩立像の模刻像を県立歴史博物館で拝見し、恋に落ちてしまった。正法寺さまにお電話すると、午年の4月18日のみご開帳しているとのこと。12年に一度、たった一日しか拝顔できないという事実に打ちのめされた。3年前、正法寺を訪れた。つまり、下見である。そして、ついに迎えた今年が午年、2026年。新年を迎え、正法寺に改めてお電話すると、4月18日9時から16時のご開帳を予定しているとのこと。やはりこの一日のみのご開帳だとおっしゃる。救いは土曜日だったこと。仕事を休まずに済むし、お友達と一緒にお参りする約束もできた。
 そして、ついに迎えたご開帳の日。熊谷駅で朝早く集合し、まずは佐野市と足利市を駆け巡ってから、太田市へ。感動のご開帳を経て、最後に群馬県千代田町のお寺様2か寺をお参りした。短くまとめると、正法寺と円福寺(太田市)のご開帳が最高に美しくて感動したし、明治初めに廃寺となった樺崎寺(足利市)の巨大さを痛感したし、黄檗宗彫像群(千代田町)の経緯が泣けた。とにかく最高な一日を過ごすことができた。お世話になった皆様に深く深く感謝を申し上げる。ありがとうございました。
 仏像は人と人を結び、過去と現在と未来を結ぶことを改めて認識。仏像という存在の尊さに心からの敬意と感謝を申し上げたい。

○西光院(栃木県佐野市)

 真言宗豊山派

・金剛界大日如来坐像

 平安11世紀 像高90.0cm 桧の一木造り 県指定
 一時期聖観音として信仰されていたが、現在の智拳印を結ぶ形に戻された。境内の檀信徒会館にまつられる。地方仏師の作とされる平安仏に強くひかれた。

・銅造地蔵菩薩坐像

 像高21.8cm  永禄2年1559  市指定  秘仏のため拝観できず。お正月三が日ご開帳とのこと。
・地蔵堂は廃寺になった超願寺から移築されたもの。格天井の野鳥の絵が好き。地蔵菩薩の厨子も立派。
・本堂の本尊は江戸時代の阿弥陀如来坐像。安貞の襖絵。格天井も素敵 

西光院(佐野市)11世紀頃の制作とされる大日如来坐像

○正善寺(栃木県足利市)

 天台宗

・本尊阿弥陀如来坐像

 定朝様 97.0cm 鎌倉中期 県指定
 住職様いわく、さまざまな偶然のお導きにより、日光山輪王寺より昭和51年に勧請。輪王寺の三仏に倣って、千手観音像と愛染明王像を脇侍として新造。美しい三尊にみとれた。

正善寺(足利市)阿弥陀如来坐像 日光から勧請された奇跡に感謝

○鑁阿寺(栃木県足利市)

 真言宗
 ・大日如来像のご開帳は来年。日程は未定だが、5/3-5当たりは必ず開くのではないかとのこと。
 ・仁王像は鎌倉時代。県指定。山門をガードしておられる。フェンス越しだが拝観可能。
 ・本堂は国宝。建久7年(1196)足利義兼が持仏堂として設けるも雷火で焼失。現在の本堂は足利尊氏の父、貞氏が正安元年(1299)に再建 。当時最新の建築様式であった禅宗様建築をいち早く採用したもの。
 ・多宝塔も足利義兼の創建だが、現在の建物は桂昌院の再建。県指定

○樺崎八幡宮と樺崎寺跡浄土庭園(栃木県足利市)

 足利義兼ゆかりの樺崎寺の跡。光得寺の仏像を拝観する前に立ち寄ることができた。樺崎寺と鑁阿寺の歴史について、もっと学ばなければ。

○光得寺(栃木県足利市)

 臨済宗妙心寺派

・善光寺式阿弥陀如来立像 観音菩薩立像 聖観音菩薩立像

 本堂にまつられる。市指定。樺崎寺伝来

・五輪塔19基

 足利氏と足利氏重鎮 高氏の供養塔 市指定 樺崎寺伝来

・地蔵菩薩坐像

 鎌倉初期のバリバリ慶派なのだが、お豆腐が大好きという伝承も。樺崎寺伝来。市指定。境外墓地内、建て替えられたばかりの小さなお堂にまつられる。ちなみに、Google地図にその場所は載っていない(2026年4月現在)が、私はあえてGoogleさんに申請はしないでおく。

樺崎寺伝来。修理を経て、光得寺境外の小堂にまつられる

○脇屋山正法寺(群馬県太田市)

 高野山真言宗。本尊の聖観音菩薩さまが午年4月18日にのみ開扉。高崎の県立歴史博物館でレプリカを拝観して以来、待ち焦がれたご開帳だった。

・聖観音菩薩立像

 ご本尊のご開帳 総高155cm 桧の寄木造り県指定
 私が訪れると、小さなお堂の中、観音様の御前で僧侶がお経をあげていた。静かな読経のなか、参拝の老若男女が次々とやってきて、首を垂れる。足の心配のある方には参拝者同士が手助けする。彫刻としての美しさだけではない。ご開帳という場そのものの美しさにふれられたことに感謝。とにかく感謝。
 博物館でお会いした観音様は衣文等に平安後期の穏やかさを残しつつ、鎌倉初期の写実性も感じられた。しかし、お寺でお会いした観音様は多くの人々が自然と手を合わせざるをえない崇高さと親しみがあった。多くの人がこられていたが、混み合うわけでもなく、静かに祈る空気が境内全域に満ちていた。私はそうした空気感をとても美しいと思った。

12年に一度のご開帳日に拝顔できたことに感謝

・仁王像

 江戸時代、七条仏師康佑の作。吉備文化財修復所により応急処置を受けた牧野仏でもある。市指定 

○円福寺(群馬県太田市)

・千手観音菩薩坐像

 40-50cmほどの小さな千手観音様の坐像。暗がりでよく見えなかったが、かなりの古像である可能性はあるのでは。文化財の指定なし。こちらも静かな祈りに満ちたご開帳だった。正法寺と同じく、午年4月18日のみのご開帳。なお、隣の十二神社からは神像群が見つかっており、そのうち5躯が市指定文化財となっている。この辺りは新田荘だったところで、もっと学びを深めたいと思い続けている。再訪しなければ。

○宝林寺(群馬県千代田町)

・黄檗宗彫像群 県指定 江戸時代

 康佑は正法寺のイケメン仁王像を作った七条仏師。だが、同時に黄檗宗の仏像群でも腕をふるっている。康佑といえば静岡県浜松市の宝林寺の黄檗宗仏像群が有名だが、ここ群馬にも康佑の黄檗宗の彫像群がまつられる。釈迦如来および阿難尊者迦葉尊者像、韋駄天像、達磨大師像頭部、弥勒菩薩像(布袋)、華光菩薩像、緊那羅王菩薩像の8躯が県指定文化財。徳川綱吉が館林城主だった当時に創建された廣済寺にまつられていた。天和3年(1683)、館林城の廃城とともに廣済寺も廃寺となり、宝林寺に移された。
 韋駄天像については、2023年7月から2025年3月にかけて吉備文化財修復所により保存修理を実施。今後順次修復される予定で、次は華光菩薩像が修理に入る。牧野先生にエールを!

○光恩寺(群馬県千代田町)

・阿弥陀三尊(県指定 鎌倉) 阿弥陀如来は定朝様の玉眼!!

・地蔵菩薩板碑(県指定)

 一日の締めは定朝様で玉眼の阿弥陀さま。私は四度目の拝観となる。夕方の時間帯、西側のすりガラスから優しい夕陽が差し込み、私にとって史上最高に美しい阿弥陀三尊に感嘆した。

写真は『目の眼』「ほっとけない仏たち62」より

【参考文献】
・北口英雄『とちぎの仏像』(随想舎2023)
・各市町村の文化財ページ

【院政期】【円派】系図を作ってみた

院政期の仏像が好き!

 定朝の没後、鎌倉時代に入るまでの頃の仏像がとても気になる。院政期と呼ばれるこの時代、定朝の継承と乖離の中で、新たな造形が生まれ、院派、円派、慶派の三派が育っていく。仏師の研究をするうえで、こんなにおもしろい時代があるだろうか。
 特に、昨春、京都の鳥羽で安楽寿院の阿弥陀如来坐像と北向不動尊の不動明王像を拝観して以来、さらに興味が増した。
 いや、正確に言うと、ひたすらに悩んでいる。
 まずもって、この阿弥陀さまとお不動さま、同じ院政期の像でありながら、まったくもって印象が異なる。安楽寿院像は1139年に建立された鳥羽上皇の墓所塔本尊として円派の長円の工房で作られたと考えられる。一方、北向不動尊は奈良派の康助の作(1155年)とされる。同じ時代にあって、こんなにも表現が異なっていることに興奮する。
 さらに、同じ円派でも、長円、賢円の作とされるこの安楽寿院の像はお顔が細長く、円勢の手になる丸顔でずんぐりむっくりの仁和寺薬師如来坐像とでは、だいぶ印象が異なる。
 つまり、いろいろ違っていて、悩んでしまうのである。
とても楽しい悩みなのではある。が、どうもわからない。釈然としない。

突然に円派が理解できた(ような気がした!)

 そんななか、先日、お昼に二子玉川でハワイアンバーガーをいただきながら、山本勉先生の『日本仏像史講義』を読み返していたところ、円派と呼ばれる作品の違いと類似点がすっと理解できた(ような気がした)。円派は「耽美」と評されることがあるが、それもすっと腑に落ちるように感じた。あー、なるほど、こんな感じが円派の耽美なのね...と。
 若い頃、アメリカのCNNをつけっぱなしにして過ごしていた時期があった。テレビの中のみなさんが早口で英語を話されていて、私の英語力はで理解できないこともあった。しかし、ある日突然、人気ニュースキャスターのWolf Blitzerがゆっくり話しているように感じられた瞬間があった。突然に聞き取れるようになったのである。
 二子玉川の事象は、これに似た感覚だった。これまで仏像を拝観し、本などで学んできたことの積み重ねが、この一瞬を生み出したのだろうか。
 この”アハ体験”を記念して、再度『院政期の仏像』を読み返してみた。そして、我ながら唐突ではあるが、円派の系図をまとめてみた。この偉大な2冊をもとに、とりあえず現状で自分が理解していることを可視化しようとした次第である。

唐突に系図をつくる!

 とはいえ、専門家の皆様にも未解明の部分があると思うし、そもそも、私の理解はまったく足りていない! 自分がわかっていないことは、わかっていることの何百万倍以上もある。つまりは、この系図はあくまで私個人の理解と整理のためであり、その正確性は保証できないことをここに堂々と断言する(ドヤ顔w)。武笠朗先生の円派仏師の論文も一度読んでいるのだが、まだ咀嚼しきれておらず、この系図にはまったく生かされていないことも、素直に白状する(汗)。つまりは、もっと勉強したい(がんばる!!!)。将来の自分が、この系図を見直して、「あー、ここも、あそこも、間違っているじゃないかー!」と、今の自分に喝を入れられるようになりたい。それを楽しみにしつつ、今はここに私の恥をそっと置いておく。

康尚と定朝の時代の造像状況

 まずは、院政期の前、定朝とその父、康尚の時代の造像を確認したい。


院政期の円派の系図

 定朝のもとから院派、円派、慶派に分かれていくのだが、目下の私の関心事である、院政期の円派の流れを系図にしてみた。恥を忍んで公開する

 なお、この系図はMSWORDの家系図テンプレートを使用した。

【参考文献】
1) 山本勉『仏像 日本仏像史講義』平凡社2013年
2) 特別展覧会『院政期の仏像ー定朝から運慶へー』京都国立博物館 1991年

【展覧会】仏像愛好家が古代ローマ彫刻を観る! ファルネーゼのアトラス(大阪市美術館)

「天空のアトラス イタリア館の至宝」展

大阪市立美術館
(2025/10/25-2026/1/12)

ファルネーゼのアトラス

西暦2世紀(紀元150年頃)
大理石
像高193cm
ナポリ国立考古学博物館蔵

重い天球を背負い続けて1800年

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衣文が気になってしまうのは仏像愛好家の習性か
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 ギリシャ神話に登場する巨人アトラスは、オリュンポスの神々との戦いに敗れ、最高神ゼウスから見せしめとして天球を背負うよう命じられた。その悲しい姿が令和の今とても美しかった。

 1546年頃、ローマのカラカラ浴場跡で発見され、名門貴族アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の所有に。その後、同家の宮殿に長く置かれたことから、「ファルネーゼのアトラス」と呼ばれる。1786年、ブルボン家の支配下でナポリに移動。現在はナポリ国立博物館の所蔵となっている。ヘレニズム時代の彫刻をローマ時代に模刻したものとみられ、制作時期は紀元150年頃だという。発掘時に残っていたのは天球と胴体、顔の一部で、手足などは16世紀の補作。当初部分と補作の境目などつい探してしまったのだが、それは仏像愛好家の習性か(笑) そして、なぜか慶派と比べてしまう(苦笑)

 このアトラスさま、今も裸で、重い重い天球を背負い続けている。さらに、極東の地、日本に来て、多くの人々の目にさらされていた! ちょっとかわいそう。だけど、私はお会いできて嬉しかった! ご出身地であるローマのカラカラ浴場跡をダーリンと二人で訪ねた日のことも思い出した。だいぶ前の旅の記憶ではある。だが、とてつもなく長い歴史を重ねたアトラス様には、ほんの昨日のことのようだね、と笑われそう。

小童寺の来迎図 たくさんの菩薩さまのお出ましにときめく

 なお、大阪市美の企画展示「尊きものー神仏の美術」(2025/11/8-12/21)では、浄厳院「阿弥陀聖衆来迎図」(平安11-12世紀 重文)と小童寺「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(鎌倉14世紀 重文)がとてもよかった。浄厳院の来迎図は平安の和らぎがあり、一目拝見して私はとろけてしまった。小童寺の来迎図では、二十五菩薩菩薩が山の向こうからぞろぞろとお出ましになる。菩薩それぞれがいきいきと描かれ、来迎への憧れを加速させる。来迎図の隣の部屋には、神戸の古刹、太山寺の羅漢像2幅(14世紀)も。アトラス像はイタリアに帰ってしまうが、大阪市美の仏画はまた拝観の機会がありますように

【長野】信濃の佐久から千曲へ平安鎌倉仏を巡る

信濃の平安鎌倉仏を巡ろう
〜佐久から上田平をぶっちぎり〜

知る人ぞ知る信濃の平安鎌倉の隠れ仏を巡る旅。お寺さまおよび役所や公民館の皆さまに大変お世話になった。8月初めの日曜日で、檀家寺さまは大変お忙しい時期。ご縁をつないでくださった皆様に心からの感謝を申し上げる。

安養寺(佐久市/臨済宗妙心寺派)

・説法印阿弥陀如来坐像および両脇侍立像
 鎌倉時代寛元年間(1243-47)頃 県宝
(『國華』1547号武笠先生の論文に、先月参拝した山形市・慈光明院の説法印阿弥陀如来坐像および寒河江市・慈恩寺の脇侍立像との近似性が論じられる)
・法燈国師像 県宝 像高127.4cm 南北朝時代

安養寺の説法印阿弥陀如来と両脇侍像
法燈国師像

正法寺(佐久市根々井)

・地蔵菩薩半跏像 鎌倉前期 県宝
・本尊十一面観音立像、雨宝童子、難陀竜王など

静謐な強さ 正法寺地蔵菩薩さま

観龍寺(千曲市)

・千手観音菩薩坐像
・十一面観音菩薩立像
・二十八部衆 など
平安後期と思われる千手観音坐像があまりに美しい。聖観音菩薩立像と不動明王像が盗難にあい、戻ってきていない。詳しい拝観記録はこちら→【信濃仏】観龍寺(千曲市)で”隠れ仏”を拝む - ぶつぞうな日々 part III

某公民館の仏像群

・鎌倉仏という文化財指定なのだが、もっと古様な気がして、うーむうーむと唸り続けた
・文化財指定のない菩薩立像が見事な鎌倉仏にしか見えなくて、さらに、うーむうーむと唸る
・お寺は盛衰を繰り返し、これら仏像群は現在は別の地区のお寺の所蔵となっているが、元のお寺のあった地区の公民館に今もまつられ、地区の皆さまに大切に守られている。尊い仕事をされている皆さまに心からの敬意を表したい
・ぼろぼろになった昔のお堂も合わせて参拝

昔こどもが肩に乗って遊んだという仁王像も素敵

長野県立歴史館「安曇野-知られざる里山の祈り-」

仁科盛家の家族が造立した覚音寺千手観音立像と多聞天立像(安曇野市)
妙海の最初の作とされる光久寺日光月光菩薩立像(安曇野市)
1203 年滋野一族による真光寺阿弥陀如来および両菩薩像(松本市)
観松院の銅造菩薩半跏像(松川村)など。
正福寺の不動明王立像(安曇野市)は初めて拝見したが、写真から想像していたより大きく、身体のひねりが独特で驚いた。
このように松本平の仏像が展示されていた。廃仏毀釈が激しかった地域でありながら、このように古仏が残ることに、心の平安を覚える。
展覧会では、千曲市営の霊園で永代供養墓の需要増を例に挙げ、最近の墓仕舞いや供養の変化にまで言及。古代の仏像から令和の信仰まで辿る意欲的な構成だった。

大法寺(青木村)

十一面観音菩薩立像、普賢菩薩立像、文殊菩薩立像、国宝見返りの塔

【群馬】筑波山無量寿寺(前橋市)

2020.1.11 の拝観記録

筑波山無量寿寺(群馬県前橋市)

十一面観音菩薩立像

71.5cm  平安 市指定有形文化財
筑波山知足院中禅寺で祀られていたとされる十一面観音立像を拝ませていただいた。住職のお話によると、徳川第五代将軍綱吉の命により知足院の住職をしていた隆光が江戸の護国寺に移る際、江戸に持っていき、さらに、隆光が隠居する際に、弟子の賢光(この寺の住職)に渡したと考えられているのだとか。
切金も隆光の時代のものではないかとのこと。切金の下に鉈彫りの跡があるそうだが、私の目ではよくわからなかった。

地蔵菩薩立像

185cm  鎌倉か 市指定
赤城山信仰に基づくお像ではないかとのこと。

千手観音菩薩立像と聖観音菩薩立像

文化財未指定だが、近年専門家の調査が入ったのだそう。筑波山知足院にあった六観音は廃仏毀釈の際に焼かれたのだが、実はその時のお像ではないかと住職は話された。確かに焦げた痕跡がある。その辺りの事情は今後の調査結果を待つしかないが、いずれにしても、よくぞこれまで残ってくださった。お会いできたことに感動する。


基本的に個人拝観はお断りされているお寺様であるが、お電話でお話しするなかで、今回の拝観をお許しいただいた。