京都浄土宗寺院特別大公開2025
10/12(日)13-15時公開
正覚院(宇治市)
1) 正覚院とは
十劫山正覚院長楽寺は、もともと木幡山麓に創建された浄明寺であったが、応仁の乱で焼失し、衰退。安土桃山時代、文禄3年(1594)に、木幡の豪族野田清玄が再建、僧離垢誉(りくよ)を中興とする。
平安の観音像(市指定)と鎌倉時代後期、円派の仏師、朝円による毘沙門天像(府指定)をお目当てにお参りしたのだが、本堂のご本尊阿弥陀如来立像の平成の修理にまつわるお話に感動したし、本堂に隠元さまと独湛さまという黄檗宗の禅僧の文字が掲げられるのもよかった。
2) 本堂
2-1) ご本尊阿弥陀如来立像

本堂のご本尊阿弥陀如来立像は江戸時代の作とされる。法然上人800年大遠忌を機に、平成24年(2012)4月12日から8月9日にかけて修理したところ、胎内から写経や願文等が確認され、さらに光背には江戸中期のご本尊修復に関する記述が発見された。
ご本尊躯内封入物
・阿弥陀経写経と願文
いずれも焼け跡があり、年号の記載がない。願主は(脱)心、同、壽清比丘尼。正覚院には安土桃山時代以降34代の住職の記録が残るが、その中に、この名前の記録がないため、応仁の乱で寺が焼ける前の御歴代の可能性がある。仏師名は聖比丘⚪︎心(⚪︎の文字は判読不明だが、怒に似た文字)。一人三銭を万人講にて一万人から集めたという記述もあるという。3銭とは150〜300円程度(修復時2012年の資料による)とのこと。経済史に疎い私でも、一万人もの多く庶民の皆様が少額ずつ寄進して造立された尊いお像だということはわかる。
・新たな願文
「明暦三年(1657)霜月十八日開眼、願主業蓮正誉」と記載される。
・その他(愛宕山の火防札、イチョウの葉、南天の葉)
愛宕のお札は今も火災避けのパワーがあると信じられている。また、イチョウの葉は古来より火災の際に水を吹くと言われ、また南天には難を転じるの意味もある。
正覚院さま作成資料を読むと、これらの胎内納入物から、住職様が以下のような私的考察をされていることがわかる。
ーー正覚院の創建、再建当時の詳細は不明であるが、応仁の乱による焼失より前、または、1594年の再興より前に、浄土宗寺院として阿弥陀如来さまをお迎えしていたしても不思議ではない。大切なご本尊が火災で焼けてしまったので、新たに造立した阿弥陀如来様(現在のご本尊様)に、古い願文(焼け跡が残るも、焼け残った)と新しい願文の両方収めたのではないか。さらに、愛宕の火防札やイチョウと南天の葉も胎内に収めたところに、「大切なご本尊を失った悲しみ、また新たなご本尊様に対する強い願い、思いが感じられる(正覚院資料原文ママ)」ーー
このご考察はしごく妥当なものだと私には感じられる。これら願文は、宇治市歴史資料館と相談のうえ、裏打ち保存し、ご本尊様の胎内に戻したのだそう。ご本尊様の心臓ともいうべき大切な文書が、修理を経てまた胎内におられることに感銘を受ける。数百年後の修理の際、人々はそれどう受け止めるのだろう。
今回の修復により、ご本尊はきれいに金を貼り直し、今は金色に輝いておられる。お寺様の「これであと200年はだいじょうぶ」とのお言葉が心に沁みた。阿弥陀様の信仰はこうして受け継がれていくのだろう。

3) 観音堂
3-1) 聖観音菩薩立像

像高102.8cm、一木造りで彫眼。平安後期の作として、宇治市の文化財に指定。堂外からの拝観で、観音様がお厨子の中におられるため、お姿はとても見えにくい。比叡山横川の聖観音さまと同じく、胸の前で蓮華の蕾を掲げるポーズを取る。両手の肘から先は後補とのことだが、 そのポーズには無理がない感じがする。また、説明書きには、「寄木造全盛時代の一木造として、全面に鑿目がみられる点は、霊木化現仏風の特色と解することもできる」とある。だが、双眼鏡で目を凝らしても、残念ながら、鑿目は見えなかった。いつか明るい照明で拝みたい。
3-2) 毘沙門天立像

像高125.4cm。寄木造り。玉眼。当初の彩色がよく残る。お厨子に入っていないので、観音像よりもかなり見えやすい。見事な盛り上げ彩色や切金も見える。
右足枘の銘から、三条仏師の法印朝円の作と判明。「三条仏師とは、平安時代中頃に定朝の弟子長勢が京の三条に始めた仏所の門流に属することを示し、京風の優美な作風に特色がある」(正覚院資料より)
京都府教育委員会の資料には、朝円について、以下のような記載がある。
足枘にみる法印朝円は、定朝の弟子長勢の流れを汲むいわゆる三条仏所に繋がる円派仏師で、正和4年(1315)、日吉社の神輿造替に際して、木仏師として法眼良雲、法眼性慶等を指揮して「三条法印朝円」の名で参加している(『実衡公記』正和4年2月24日条)。同名ながら三条高倉に住房を構え安元3年(1166)に大覚寺五大明王像を作成した明円の直弟子の朝円とは別人で、鎌倉時代の三条仏所には約一世紀を隔てて二人の朝円が存在したことになる。明円の跡を継ぐ三条円派仏師のうち、これまで作例の知られてなかった鎌倉時代後期の法印朝円の作が確認されたことの意義は大きい。
また、左足枘には「神主 泉八右エ門」とあり、本像は、正覚院の近くにあった田中神社の旧蔵とも考えられるが、詳細は不明だという。田中神社は明治42年、木幡の許波多神社に合祀されている。
【拝観案内】
京都浄土宗公開時に拝観。
正覚院 京都府宇治市木幡正中20(六地蔵駅近く)
https://shougakuin-kyoto.com/
【参考資料】
a) 正覚院さまでいただいた資料「法然上人八百年大遠忌記念本尊阿弥陀如来修復」(平成24年8月盆、住職 寺川孟寛)
b) 『京都の文化財 第20集』京都府教育委員会、平成15年(2003)
https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/wp-content/uploads/2022/05/bunkazai20.pdf
c) 『文化財保護No.20 守り育てようみんなの文化財』京都府教育委員会
https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/wp-content/uploads/2022/05/mamori20.pdf
d) 独湛性瑩に関する過去の投稿
https://x.com/hphiyodori/status/1725626052972880159
https://x.com/hphiyodori/status/1725616309646536901
※写真 毘沙門天像のカラー写真は上記参考資料c)の表紙より。それ以外は筆者が現地で撮影。聖観音菩薩像は境内説明看板を撮影。私が参拝した公開時、観音堂内は撮影禁止、本堂内は撮影可能ということだったので、念のため、その旨付記しておく。

































































