ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【京都府】正覚院(宇治市)〜平安の聖観音像と鎌倉後期円派の毘沙門天像だけではない〜

京都浄土宗寺院特別大公開2025
10/12(日)13-15時公開
正覚院(宇治市

1) 正覚院とは

十劫山正覚院長楽寺は、もともと木幡山麓に創建された浄明寺であったが、応仁の乱で焼失し、衰退。安土桃山時代、文禄3年(1594)に、木幡の豪族野田清玄が再建、僧離垢誉(りくよ)を中興とする。
平安の観音像(市指定)と鎌倉時代後期、円派の仏師、朝円による毘沙門天像(府指定)をお目当てにお参りしたのだが、本堂のご本尊阿弥陀如来立像の平成の修理にまつわるお話に感動したし、本堂に隠元さまと独湛さまという黄檗宗の禅僧の文字が掲げられるのもよかった。

2) 本堂

2-1) ご本尊阿弥陀如来立像

正覚院ご本尊阿弥陀如来さまの中に古い願文が

 本堂のご本尊阿弥陀如来立像は江戸時代の作とされる。法然上人800年大遠忌を機に、平成24年(2012)4月12日から8月9日にかけて修理したところ、胎内から写経や願文等が確認され、さらに光背には江戸中期のご本尊修復に関する記述が発見された。

ご本尊躯内封入物
阿弥陀経写経と願文 
 いずれも焼け跡があり、年号の記載がない。願主は(脱)心、同、壽清比丘尼。正覚院には安土桃山時代以降34代の住職の記録が残るが、その中に、この名前の記録がないため、応仁の乱で寺が焼ける前の御歴代の可能性がある。仏師名は聖比丘⚪︎心(⚪︎の文字は判読不明だが、怒に似た文字)。一人三銭を万人講にて一万人から集めたという記述もあるという。3銭とは150〜300円程度(修復時2012年の資料による)とのこと。経済史に疎い私でも、一万人もの多く庶民の皆様が少額ずつ寄進して造立された尊いお像だということはわかる。
・新たな願文
 「明暦三年(1657)霜月十八日開眼、願主業蓮正誉」と記載される。
・その他(愛宕山の火防札、イチョウの葉、南天の葉)
 愛宕のお札は今も火災避けのパワーがあると信じられている。また、イチョウの葉は古来より火災の際に水を吹くと言われ、また南天には難を転じるの意味もある。

 正覚院さま作成資料を読むと、これらの胎内納入物から、住職様が以下のような私的考察をされていることがわかる。

 ーー正覚院の創建、再建当時の詳細は不明であるが、応仁の乱による焼失より前、または、1594年の再興より前に、浄土宗寺院として阿弥陀如来さまをお迎えしていたしても不思議ではない。大切なご本尊が火災で焼けてしまったので、新たに造立した阿弥陀如来様(現在のご本尊様)に、古い願文(焼け跡が残るも、焼け残った)と新しい願文の両方収めたのではないか。さらに、愛宕の火防札やイチョウ南天の葉も胎内に収めたところに、「大切なご本尊を失った悲しみ、また新たなご本尊様に対する強い願い、思いが感じられる(正覚院資料原文ママ)」ーー

 このご考察はしごく妥当なものだと私には感じられる。これら願文は、宇治市歴史資料館と相談のうえ、裏打ち保存し、ご本尊様の胎内に戻したのだそう。ご本尊様の心臓ともいうべき大切な文書が、修理を経てまた胎内におられることに感銘を受ける。数百年後の修理の際、人々はそれどう受け止めるのだろう。
 今回の修復により、ご本尊はきれいに金を貼り直し、今は金色に輝いておられる。お寺様の「これであと200年はだいじょうぶ」とのお言葉が心に沁みた。阿弥陀様の信仰はこうして受け継がれていくのだろう。

正覚院様で作成された資料の一部

2-2) 隠元の名号額

隠元禅師の六字名号

 なんとびっくりなことに、黄檗宗開祖、隠元隆琦による南無阿弥陀仏の名号額が掲げられる。黄檗宗本山万福寺に近いからなのか。

2-3) 独湛の寺号額

独湛による正覚院の寺号額

 こちらもびっくりなことに、本堂前の寺号学は、黄檗山第四代住持、独湛性螢によるもの。ほとんど知られていないとは思うが、独湛は中将姫と當麻曼荼羅を愛し、念仏独湛と言われた僧侶。もっと注目されるべきだと私は思う。浜松の初山宝林寺の寺宝のほか、「日本大和州当麻寺化人織造藕糸西方聖境図説」の全編公開など、独湛の展覧会をお願いしたい!

3) 観音堂

 文化財の仏像が2躯、山門横の観音堂に安置されている。

3-1) 聖観音菩薩立像


像高102.8cm、一木造りで彫眼。平安後期の作として、宇治市文化財に指定。堂外からの拝観で、観音様がお厨子の中におられるため、お姿はとても見えにくい。比叡山横川の聖観音さまと同じく、胸の前で蓮華の蕾を掲げるポーズを取る。両手の肘から先は後補とのことだが、 そのポーズには無理がない感じがする。また、説明書きには、「寄木造全盛時代の一木造として、全面に鑿目がみられる点は、霊木化現仏風の特色と解することもできる」とある。だが、双眼鏡で目を凝らしても、残念ながら、鑿目は見えなかった。いつか明るい照明で拝みたい。

3-2) 毘沙門天立像


像高125.4cm。寄木造り。玉眼。当初の彩色がよく残る。お厨子に入っていないので、観音像よりもかなり見えやすい。見事な盛り上げ彩色や切金も見える。
右足枘の銘から、三条仏師の法印朝円の作と判明。「三条仏師とは、平安時代中頃に定朝の弟子長勢が京の三条に始めた仏所の門流に属することを示し、京風の優美な作風に特色がある」(正覚院資料より)
京都府教育委員会の資料には、朝円について、以下のような記載がある。

足枘にみる法印朝円は、定朝の弟子長勢の流れを汲むいわゆる三条仏所に繋がる円派仏師で、正和4年(1315)、日吉社の神輿造替に際して、木仏師として法眼良雲、法眼性慶等を指揮して「三条法印朝円」の名で参加している(『実衡公記』正和4年2月24日条)。同名ながら三条高倉に住房を構え安元3年(1166)に大覚寺五大明王像を作成した明円の直弟子の朝円とは別人で、鎌倉時代の三条仏所には約一世紀を隔てて二人の朝円が存在したことになる。明円の跡を継ぐ三条円派仏師のうち、これまで作例の知られてなかった鎌倉時代後期の法印朝円の作が確認されたことの意義は大きい。

また、左足枘には「神主 泉八右エ門」とあり、本像は、正覚院の近くにあった田中神社の旧蔵とも考えられるが、詳細は不明だという。田中神社は明治42年、木幡の許波多神社に合祀されている。

【拝観案内】

京都浄土宗公開時に拝観。
正覚院 京都府宇治市木幡正中20(六地蔵駅近く)
https://shougakuin-kyoto.com/

【参考資料】

a) 正覚院さまでいただいた資料「法然上人八百年大遠忌記念本尊阿弥陀如来修復」(平成24年8月盆、住職 寺川孟寛)
b) 『京都の文化財 第20集』京都府教育委員会、平成15年(2003)
https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/wp-content/uploads/2022/05/bunkazai20.pdf
c) 『文化財保護No.20 守り育てようみんなの文化財京都府教育委員会 
https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/wp-content/uploads/2022/05/mamori20.pdf
d) 独湛性瑩に関する過去の投稿
https://x.com/hphiyodori/status/1725626052972880159
https://x.com/hphiyodori/status/1725616309646536901



※写真 毘沙門天像のカラー写真は上記参考資料c)の表紙より。それ以外は筆者が現地で撮影。聖観音菩薩像は境内説明看板を撮影。私が参拝した公開時、観音堂内は撮影禁止、本堂内は撮影可能ということだったので、念のため、その旨付記しておく。

【神奈川】白山神社の毘沙門天立像(鎌倉市今泉)

 白山神社鎌倉市今泉)にて、9月の第一日曜日の祭礼の際、短時間だけ毘沙門天さまのお厨子が開く。

秘仏毘沙門天立像

 行基の作で、源頼朝が京都の鞍馬寺から譲り受けたと伝わる。像高160cm。県指定有形文化財
 着衣を薄く粗めに彫り出し、身体全体の動きも穏やかなので、地方の作という感じがしたが、どうなのだろう。
 9月第一日曜日、午後2時頃から神事がある。神事の終わりに、「それでは毘沙門天さまのご開帳です。皆さまどうぞ」とアナウンスがある。
 お前立像の等身大の毘沙門天立像と少し小さめの両脇侍像がずりずりっと引き出され、その後ろの秘仏毘沙門天立像の扉が開く。
 一人一人順番に奥に進んで、間近で拝観できる。だが、「拝むと目が潰れるという言い伝えもあります」という、注意事項も小声で伝えられる。そのせいか知らないが、堂内の20-30人ぐらいが一通り拝観を済ませると、すぐに扉は閉じられた。
 秘仏毘沙門天さまを拝めたのは、15:00頃からわずか15分程度だった。

【お前立】毘沙門天および両脇侍像

 お前立の毘沙門天も等身大の大きさがある。腰を捻り、精悍なお姿である。両脇侍像はもっと小さめだが、よくできた造形。市指定文化財室町時代ということになっているらしい。

破損仏三躯

 毘沙門天のような天部像、観音立像と如来像のように見える破損仏が一体ずつ。いずれも市指定文化財

【拝観案内】

白山神社
鎌倉市今泉3-13-20
大船駅からバスあり

【静岡】韮山奈古谷、800年の信仰をつなぐ毘沙門天さま、ご開帳はなんと「たいやきくん」以来!

国清寺毘沙門堂伊豆の国市奈古谷/臨済宗円覚寺派
2025/9/14
毘沙門天さま50年に一度のご開帳

はじめに: 奈古谷の国清寺とは

 運慶仏で有名な願成就院のある旧韮山町(現在の伊豆の国市)に、国清寺はある。仏殿の釈迦如来坐像は鎌倉時代の凛々しいお像で、市の指定文化財。仁王門の金剛力士像は鎌倉時代で県指定。そして、数えきれないほどたくさんの仏像の破片・欠片が残る。それらの一部を上原美術館でご覧になった方も多いのでは。

 これほどの古仏がおられるのに、あまり知名度は高くない。寺名の読み方も資料によって「コクセイジ」と「コクショウジ」があり、難しい。

 そんな国清寺で、毘沙門堂の本尊秘仏毘沙門天さまが50年ぶりにご開帳されるという。釈迦如来像の修復を手がけられた牧野先生から教えていただき、お参りしてきた。

 伺ってみるとなんと、たくさんの人の集まるご開帳だった。知名度が低いなんて、私の思い込みに過ぎなかったようだ! 50年ぶりのご開帳の賑わいと楽しさをここに記したい。





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およげ!たいやきくん」以来のご開帳に行かねば!

 牧野先生の著書を読んで国清寺をお参りしたのが7年前。仏殿から文覚上人ゆかりの山道を登った仁王門の先に毘沙門堂があるのは知っていたが、その堂内に上げていただくのは、今回が初めて。

 50年ぶり、令和7年(2025)のご開帳は、9/14(日)の一日のみ。一般に、秘仏は、7年や33年に一度など、開扉の周期が決まっていることが多い。それでも、実際には、晋山式や堂宇の改修、展覧会への出展などで、特別に拝観できる機会もなくはない。しかし、この伊豆の国市奈古谷の毘沙門天さまは、前回のご開帳が昭和50年(1975)だったというから、かなり”ガチでマジな”秘仏ということになる。

 1975年といえば、年末に名曲「およげ! たいやきくん」が発売された年である。令和のよい子たちは知らないかもしれないが、店のおじさんと喧嘩して海に飛び込む「たいやきくん」は昭和のよい子たちのヒーローだった。子門真人の歌声は優しさと悲哀に満ち、その髪型はなぜかモジャモジャだった。このレコードジャケットを一目見れば、50年という時の長さを実感していただけるのではないか。「だんご三兄弟」(1999年)でもだいぶ前なのに、こちとら「たいやきくん」である。気が遠くなるほどの時を経て、やっと毘沙門天さまはご開帳されのである! (だんご三兄弟のヒットを機に「中開帳」とはならなかったらしいw  ←当たり前か^^)

 そう、これはもう、行かなければならない。そもそも牧野先生に教えていただいたご開帳なのだから、行かない選択肢はない。海に飛び込んだ「たいやきくん」のように、自由に泳いで、伊豆へ参上せねばらない!

さて、たどり着けるのか!?

左上の⭐️に車を停め、地図右下の毘沙門堂まで徒歩で往復した!


 さて、ご開帳当日、私は朝早くに、勢いよく自宅を飛び出した。友人の運転する車に乗せていただき、朝9時前に国清寺観音堂の前に到着。毘沙門堂はここから2キロほど山道を登った中腹にある。山道とはいっても、舗装された道で、歩きやすいことは知っている。だが、この日は毘沙門堂の近くの臨時駐車場まで車で行き、そこから歩くつもりだった。

 が、ここで問題発生。観音堂前にて、トランシーバーを握りしめた交通案内員の方2名に行手を阻まれたのである。毘沙門堂までの山道は車が行き交うことができない。「もうすぐ上から車が一台降りてくるので、それまであと2-3分待ってほしい」とのこと。トランシーバーで上の係の方と連絡を取りあっておられるようだ。朝からお疲れ様です、という気持ちで、とりあえず車内で待った…。そして、待った…。そして…、さらに、待った…。

 10分間が静かに経過したところで、案内員の方が、「あのー、上の駐車場がもう満杯なんで。そっちの駐車場に停めて、そこからシャトルバスに乗ってください」と。ががーん。折しも、ワゴン車1台とセダンのタクシー1台が山上から降りてきた。どうやらこの2台が”シャトルバス”らしい。そして、指定された「そっちの駐車場」(仏殿前の公民館そば)に行くと、もうすでにシャトルバスを待つ人の列ができていた…。これでは乗車できるまでに30分ほどかかりそうだ…。

 とういわけで、はからずも毘沙門堂の手前2キロの地点で出遅れてしまった! 

 なにせ50年に一度のご開帳である。多少の問題の発生は想定しなければ。むしろ、それを喜んで受け入れるのが、参拝者としての正しい作法である。

 だが、しかし。私には、国清寺の次に、別のお寺様で拝観のお約束があった。できれば遅滞なく毘沙門堂まで到達したい….。しかも、事前情報によると、10時30分から法要があり、一時的に拝観できなくなってしまうという…。その前にたどり着かなければならない!

 そういうわけで、シャトルバスを待つより歩いた方が早いだろうと判断。蒸し暑い中、山道を歩き始めた。初めて海に泳ぎ出した「たいやきくん」のように、一歩を踏み出したのである。「たいやきくん」は「♪おなかのあんこは重いけど」と歌ったが、拙者はお腹の贅肉が重い(苦笑)。でも、秘仏毘沙門天さまにお会いするため、先に進まなければ!

 前に来た時は、誰ともすれ違わなかった静かな坂道。今日は友人と一緒がありがたく、心強い。そして、朝早いというのに、多くの参拝者の方々もどんどん坂を登っていくから驚いた。家族連れも多く、まさに老若男女が次々と集まってくる。道沿いには、御仏のお姿や種字が刻まれた巨石が並ぶ。韮山の古来からの信仰が偲ばれる。

胸アツ仁王門!

ご開帳の日はゆっくり撮影できなかったので、7年前に撮影した仁王さまをコラージュしてみた

 毘沙門堂に至る石段の途中に仁王門がある。その門いっぱいに金剛力士像が立つ。この仁王さまに再会できて、やっと少しほっとした。ここから毘沙門堂まではもうすぐだ。

 仁王像は両目が飛び出し、元気いっぱい。屈強ながら、威圧感がなく、私のような粗忽者も両手で迎えてくださるような温かみがある。鎌倉時代永慶3年(1310)の銘があるという。阿形206.4cm、吽形204.8cm。県指定文化財

 先月お参りした、信濃の仏師妙海による仁王さま(長野県松本市波田)を思い出した。こちらも頑強な憤怒のお姿であるのに、不思議とぬくもりがある。友達になりたくなるような優しさがある。妙海の仁王さまは元亨2年(1322)の銘があり、国清寺毘沙門堂の仁王さまと制作年代は近い。地域は異なるものの、同じ時代の雰囲気というのがあるのだろうか。多分関係ないだろう(苦笑)。詳しいことはわからなくても、このように、あれこれ想いを馳せる瞬間は幸せだ。

 ここ奈古谷の仁王門では、天井近くにスプリンクラーが付いていることを付記しておきたい。悪から衆生を護る仁王さまと、その仁王さまを火災から守ろうする衆生。その関係性が胸アツなのである。全国に数ある仁王門の中でも、特に印象に残る、大好きな空間である!

 この仁王さまはかつて、東京藝大で修復を受けている。当時藝大生だった牧野先生が仏像修復の道に進むきっかけとなったお像であり、その辺りの経緯は、先生の著書『仏像再興〜仏像修復をめぐる日々〜』につづられる。まだお読みでない方はぜひぜひお読みいただきたい。

ご縁をつなぐ毘沙門天さま

 仁王門からさらに石段を上り、ようやく毘沙門堂にたどり着いた! 毘沙門堂の前はお参りの人たちであふれていた!

 50年ぶりのご開帳であるのに、いや、50年ぶりだからこそ、このように参拝者を呼び寄せるだろうか。毘沙門堂の歴史は古く、9世紀、東海の巨刹「安養浄土院」(別名 奈古谷寺)が起源とされる。古代山岳密教系の寺院がこの地にあったと考えられている。ご本尊の秘仏毘沙門天像は寺伝では、平安時代、天台の僧、慈覚大師円仁の作。この地に配流された源頼朝に文覚上人が源氏再興を進言した土地とされる。大願成就を成し得た源頼朝が瑞夢をえて、文覚上人に多聞堂(=毘沙門堂)建立を命じたとも伝わる。800年余りのち、令和に入ると、今回のご開帳に向けてクラウドファンディングで資金を集め、お堂の整備をしたそうだ。

 つまりは、平安から令和にかけて、御仏(みほとけ)と衆生とのご縁が続いているのである。ご開帳の参拝者が続々とやってくるのを見ると、ご縁が今まさに繋がっていく、その現場に立ち会えたように感じた。地域の信仰。それは大きな力であり、外野の私にはとても眩しく、羨ましい。仏像愛好家のお友達も多数、遠方から来られていた。たくさんの人が集まり、過去から現在、未来へとつながるご縁。その中心に毘沙門天さまがおられるのである!

ついに秘仏毘沙門天さまを拝む!

 さて、毘沙門堂につくと、そこはもうたくさんの人! まずはお堂の前で受付を済ませる。ご開帳の柱に触れて、今回のご結縁に感謝を申し上げると、早速、堂内へ上がらせていただいた!

 毘沙門天さまは、堂内奥の中央に立っておられた!

 ついに、ついに、毘沙門天さまにお会いできたー!

秘仏毘沙門天さま! 撮影OKなのだが、緊張で手元がぶれてしまった

 素人(私)の目視では、像高は130cmぐらい? 50年ぶりに光を浴びられ、いささか眩しそう…? お像の動きは穏やかななのだが、今にもお厨子を飛び出して、闘いに向かわれそうな臨場感もあった。長年にわたり毘沙門天さまに蓄えられた何かが、50年ぶりのご開帳で一気に放出されたのだろうか!?

 彫り口は浅めだが、腰回りなど体部に厚みがある。噂通り、平安に遡る古像かな…? いや、鎌倉? 地方の作? 後補の部分も多い感じで、素人には諸々判断しがたい難しいお像でもあった。この「???」を解消したいので、ぜひ専門家の調査をお願いしたい! 

 思えば、1週間前にも、鎌倉市今泉の白山神社で、年に一度だけお姿を拝める秘仏毘沙門天立像にお会いしたばかり。言い伝えでは、行基の作で、源頼朝が京都の鞍馬寺で譲り受けたものだという。だが、実際には、平安後期から鎌倉の地方作という感じだった。頼朝や北条氏のゆかりの二つの土地で、ひょっとすると同じ頃に毘沙門天立像が制作されたのだろうか....? 二つの像の関連性はわからない。だが、わからないことが多い分、興味もそそられるのである。

仏殿の釈迦如来坐像

 毘沙門堂を出たあと、麓にある仏殿へ向かった。帰りこそシャトルバスをと思ったが、またしても人が並んでいて長時間待たされそうだったので、下りも歩くことにした。そのおかげで、帰り道でもまた、仏友さんと出くわした。さりげない会話がうれしい。こういうことがあるから、ご開帳は本当に楽しい。

 帰り道は気持ちに余裕もあったせいか、あっという間に下山。無事に仏殿に到着した。

 大きな仏殿の中央に、釈迦如来さまが正面を向いて坐しておられる。像高84.0cm。桧材による割り矧ぎ造り。この釈迦如来坐像は、後世の修理で別の部材を付け足されて太っちょになり、しかも、緑色になっていたのだが、平成に入って牧野先生が修復。当初部分だけに戻し、不足部分を新たに新調して付け足すことで、鎌倉仏の凛々しさが蘇った。その経緯も上記著書に詳しく書かれているので、ぜひお読みいただきたい。修理前や修理途中のカラー写真も豊富で、臨場感があり、手に汗握るレポートとなっている。

 この日、なんとも幸運なことに、仏殿で牧野先生にお会いできた。ご自身が修復された釈迦如来坐像を見上げる牧野先生の瞳は美しすぎて、言葉で表しきれないほどだ。

 仏像は過去と現在と未来をつなぎ、みほとけと衆生とをつなぐ、尊い存在だと私は思う。だからこそ、仏像修復の仕事は貴重だし、もっと注目され、敬意を払われるべきだと思う。

最後に 50年後はシャトルバスで(笑)

 最後に、繰り返しになるが、奈古谷の毘沙門天さまについて、専門家の調査が行われますように。これからも末長く信仰が続きますように。令和7年の私はそう祈るのみ。

 次のご開帳も50年後なのだろうか。その時、どんな世の中になっているのだろう。たいやきくん、だんご三兄弟に匹敵するヒット曲は生まれているのだろうか。私は100歳超えてヨボヨボなはずなので、今度こそシャトルバスに乗りたい! (^o^)/

【拝観案内】

国清寺 
仏殿 釈迦如来坐像(県指定)の拝観については、高岩院さまに事前連絡が望ましい
毘沙門堂仁王門の仁王像(県指定)はいつでも拝観可能

【愛知】瀧山寺本尊薬師如来さまご開帳(岡崎市)

瀧山寺(愛知県岡崎市
秘仏ご本尊薬師如来さまご開帳
2025/4/27-5/11

 仏像好きな方にとっては常識なのだが、瀧山寺はとんでもなくすごい。あえて平易な言葉を使いたい。とんでもなく、すごいからだ。収蔵庫には、源頼朝にかかわる運慶仏(重文)がおられ、本堂は鎌倉時代の個性的な十二神将(重文)でぎっしり埋め尽くされている。来迎会の菩薩面5面も鎌倉時代の美しいものが残っている。個人的には、本堂の毘沙門天立像、収蔵庫の十一面観音菩薩立像や天台大師坐像など、平安仏もたまらない。修正会の鬼祭りもとんでもない。三人の鬼さんが動き回り、本堂の前で炎がボーボーと燃えまくる。

 そんな由緒あるお寺であるのに、ご本尊薬師如来様の情報がまったくなかった。50年に一度開扉される秘仏であり、瀧山寺には、写真一枚すらなかったのだという。あるのは、前回の晋山ご開帳の時に絵描きさんにかいてもらったというイラストだけ。文化財としての調査もされておらず、よって、文化財指定もない。

 つまりは、事前情報がない。ご開帳期間も2週間しかない。そんな訳で、わざわざ岡崎まで行くべきかどうか、だいぶ迷った。

 が、思い切って、最終日にお参りしてきた。

 お堂に入って、お厨子の前に進み、初めて秘仏ご本尊様にお会いした。

 その瞬間、あー、来てよかったーと思った。

 あきらかに平安時代の中期から後期の作であろう。
 ご尊顔からお腹の辺りまでたっぷりと量感がある。優しくて穏やかな表情だった。

 私は、蟹薬師 願興寺(岐阜県御嵩町)の秘仏ご本尊様を思い出した。雰囲気が似ているように思ったのは、私だけだろうか? 願興寺も瀧山寺も天台宗の古刹である。薬師如来坐像の天台様式というものがあるのだろうか? 特に、ご尊顔の雰囲気と全体にふっくりした感じが似ていると感じた。

 蟹薬師様とは異なるのは、腰から下、両足を組んだ辺りで、立体感が薄れることだ。瀧山寺の薬師様は、脚の部分が薄いのである。下腹部から半円状に衣文が広がるのだが、その彫り方もとても薄い。この二尊の相似がとても興味深いと思った。

 もう一点、気になったのは、お腹の中心辺りに一本、ヒビが入ること。天養院(神奈川県三浦市薬師如来坐像のそれを思い出した。瀧山寺像が案外一木造りだったりしたら、どうしましょう。

 ガイドさんの話によると、これから専門家に調査していただくそうだ。どんな結果になるのか楽しみでしかたない!


※上記は拝観翌日に書いた感想文である。この時点で、ご本尊様の写真は公開されていなかった。前回、晋山のご開帳の際に描いたスケッチのみがあるのみだった(お寺リーフレットに掲載されていた)。
※本日(25/8/11)、そろそろご本尊様の写真が出回っていなかと思い、探してみると、、、なんと!!! 写真が掲載されていた!!!! 天台系の薬師如来が気になるので、この写真がとても勉強になります!!!
50年に一度、ご本尊・薬師如来坐像のご開扉が執り行われた「瀧山寺」を訪ねる | 特集 「一隅を照らす」 | いろり - 人と語らうコミュニティサイト -

【信濃仏】観龍寺(千曲市)で”隠れ仏”を拝む

気高く優美なお姿に言葉がでない

古仏の宝庫、信濃の"隠れ仏"

 このところ長野の仏像を追いかけている。
 調べれば調べるほど、平安から鎌倉時代の仏像の多く、驚いている。
 白洲正子や丸山尚一が絶賛した古仏だけではない。
 令和のSNSにも上がっていない、”隠れ仏”も多いようだ。

ご縁繋がりで拝観

 そんな"隠れ仏"をまつるお寺様の一つ、長野県千曲市の観龍寺をお参りさせていただいた。静かなあんずの里に、静かに平安仏や鎌倉仏が伝わる
観龍寺の仏像群は県と市の文化財の指定を受けているので、厳密にいうと、”隠れ仏”ではない。しかし、ネット検索程度では詳細は出てこない。堂内の仏像を参拝したというブログもX投稿も見当たらない。グーグル地図には場所は載っているが、「千曲市森」以降の番地の番号は掲載されていない。
 長野県立歴史館の近くなので、実は以前から、展覧会に合わせて拝観の機会を伺っていたのだが、そもそも歴史館自体に行く機会に巡り会えずにいた。
 そんなおり、今年7月から同館で「安曇野〜知られざる里山の祈り〜」展が始まった。私が勝手に応援中の覚音寺(大町市)から、千手観音・多聞天立像(全期)と胎蔵界曼荼羅図(後期)がお出まし。私が大好きな光久寺の妙海の日光菩薩・月光菩薩像もお出ましだということが判明。
 これは重い腰を上げて、観龍寺の拝観に向けてがんばらねばならない! 改めて調べると、観龍寺のクラウドファンディングのサイトがみつかった。4年前に、お堂の屋根の修理のため資金を募っていたのである(該当サイトはこちら)。観龍寺は専従の住職様がおられず、地元の方々が管理されているという。ただ、他のお寺の住職が兼務されているそうで、その兼務住職の顔写真と文章がクラファンサイトに掲載されていた。そして、私はその兼務住職様のお顔に見覚えがあった。今年1月に、愛染明王像をお参りさせていただいたお寺さまではないか! このお寺様にご連絡したところ、観龍寺の管理をされている方をご紹介くださり、観龍寺をお参りさせていただけることとなった。ご縁の繋がりに心から感謝。

観龍寺とは

山号は洗淵山。真言宗智山派信濃三十三観音の6番札所。平安時代延暦年間(782~806)に坂上田村麻呂の妻であった三善高子の創建と伝わる。

千手観音菩薩坐像

 堂内須弥壇の中央に坐す、観龍寺ご本尊様である。
 なんと榧の一木造り像高94センチ。長野県指定文化財(県宝)。
お堂に上がると、気高く、優美なお姿が目の中に飛び込んできた。一人で見上げていたのなら、感動で咽び泣いていたと思う。丸顔で穏やかな尊容。院政期の特徴をもつその優美さ。なんなのだろう、この美しさは。見た目の美しさだけではない。内面に秘めた力を感じる。私のような凡夫の汚れや罪を、その尊さでもって、洗い流してくださるかのようだ。
 それと同時に、仏像愛好家としては、「ここは京都!?」と叫びたくもなった。みやこぶり(という言葉は嫌いだが)のする、いかにも平安貴族が好みそうなお像が、京都周辺ならともかく、長野県のこれほど静かな集落におられるとは。仏像の中でも、手が込み、費用を要するであろう千手観音坐像である。そんなお像がなぜこの地に残るのか。調べてみると、現在の千曲市の域内には、平安時代以降、御厨・荘園や公領があって活発な開発が進み、中央政権とのつながりが密接であったという。平安後期には源盛清(みなもとのもりきよ)が信濃国村上郷(坂城町)へ配流。養子の為国から村上氏と名乗り、信濃で屈指の勢力を誇るようになる。この千手観音さまは、そんな時代の息吹を今に伝える貴重な存在でもあられるのだ。

観龍寺ご本尊千手観音菩薩さま
側面観の美しさ

 脇侍は毘沙門天立像と不動明王立像(いずれも市指定文化財)。毘沙門天立像室町時代の作、玉眼と彩色は江戸時代。
不動明王立像毘沙門天立像と同じ100センチ余りの大きさで、制作年代も同じとみられるが、平成12年(2000)に盗難に遭い、所在不明となっている。

二十八部衆

 観龍寺には、千手観音の眷属、二十八部衆もおられる。二十八部衆といえば、京都の三十三間堂鎌倉時代の等身大のお像をご存知の方も多いだろう。観龍寺の二十八部衆は40〜50センチほどの小像で、28体のうち25体が現存する。さらに、二十八部衆と合わせてまつられる風神雷神のうち、雷神像も残る。鎌倉時代のものがほとんどで、室町や江戸時代のものある。様々な時代のお像が混在するのは、当初の像が壊れたり失われるたびに補強されてきたためだろうか。堂内のガラスケースの中に安置されており、目を凝らして拝観した。観龍寺は田村麻呂ゆかりのお寺なので、京都の清水寺を模して二十八部衆が造立された可能性を妄想する(京都清水寺二十八部衆についてはこちら)。



十一面観音菩薩立像

 須弥壇の正面右に大きなお像が立っておられる。ご本尊とはうってかわって、こちらは平安時代の地方仏の面目躍如といった感じ。おそるべし、観龍寺! 像高174.9センチ。桧材の一木造り。素地で彫眼。県宝


聖観音菩薩立像

 像高98.5センチ。檜の一木造り。県宝。不動明王立像と同じく、平成12年に盗まれ、所在不明となっている。写真で拝見する限り、仏師が木の中に観音様の姿をみて彫り出したかのようなお姿だ。とても魅力的なお像である。

 管理されている方と話したが、当時はまさかお寺で盗難があるとは思いもよらなかったとおっしゃっていた。まさにそのとおりだと思う。信じがたいことが起こるものだ。早く発見されて、またお堂に戻られることを願う。
 なお、今の観龍寺は防犯システム完備で、盗人の侵入は不可能なので、その点をここに大声で叫んでおく。

盗まれた仏像がみつかりますように!

 上述のとおり、聖観音菩薩立像と不動明王立像が平成12年に盗難に遭い、いまだ見つかっていない。
 観龍寺の仏像群の歴史的・美術的価値を考えると相当大きな損失である。しかし、それ以上に大きいのは、先祖代々みほとけに護られ、その御像をお守りしてきた地域の方々の損失である。精神的支柱を奪われた、その喪失感ははかりしれない。いつか必ず見つかりますように。そう強く願っている。
 こちらの千曲市のサイトをご覧のうえ、何かご存知のかたは情報提供をお願いします!!
www.city.chikuma.lg.jp

【拝観案内】

観龍寺
住所 長野県千曲市
拝観には管理者の方への事前連絡が必要。
長雲寺(千曲市稲荷山 TEL 026-272-3730)が兼務住職をされている。
なお、この長雲寺には、寛文13年(1673)七条仏師、久七による愛染明王像(重要文化財)のほか、本堂には五大明王もおられるので、ぜひ合わせて拝観を! 久七は東寺金堂薬師三尊を造立した康正の弟子とみられる。

『香薬師像の右手』感想とまとめ

<2016年12月15日の拙稿の再投稿です>

貴田正子『香薬師像の右手 失われたみほとけの行方』を読みました。なかなか奥深いミステリーなので、自分の理解のためにまとめつつ、感想を書きました。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


新薬師寺の香薬師如来像は三度の盗難に遭い、もう70年余り行方知らずだ。最近、この像の右手首から先だけが発見され、その経緯をまとめたのがこの本である。

綿密で地道な取材ぶりに頭が下がる。

しかし、右手が見つかった経緯だけを手っ取り早く知ろうとして読むと、少しつらい。枝葉末節があちらこちらに太く広がっている。どれも感動的な話だ。しかし、右手をめぐる謎解きは複雑でわかりにくい。

しかも、右手は"発見"されたとはいえ、”大人の事情"はオブラートに包まれたまま。最後の肝け心なところで、修験者である著者の夫の自慢話が出てきて、煙に巻かれた感が否めない。前半の香薬師像の由緒に関わる部分が感動的なのだけに残念だ。



少し愚痴ってしまった...。しかし、落ち着いて考えると、知る人ぞ知る存在だった右手があやうく記憶の闇に消え去る寸前、著者が光を当ててくれたと言えるだろう! 


そんな香薬師像の由緒とこれまでの経緯を著書から拾い出し、以下のとおり、まとめてみた。(読解力不足で間違いがあったら、ご指摘ください。訂正します)

※写真は2枚とも、この本に掲載のものです。

~~~~~

香薬師像の由緒


新薬師寺の寺伝によると、白鳳を代表する香薬師像は、光明皇后の念持仏だった。聖武天皇の病気平癒を願った光明皇后が、天平19年(西暦747年)、新薬師寺を創建。丈六七仏薬師が横一列に並ぶ巨大な金堂の中尊に胎内仏として、香薬師像がおさめられたと伝わる。つまり、香薬師像は現在のご本尊の薬師坐像(平安初期)よりも古く、新薬師寺の根幹をなす大変重要な仏様であることが推察できる。
創建からわずか33年後の宝亀11年(780年)、新薬師寺の巨大伽藍が雷による火災で消失してしまう。木造の七仏薬師も焼けてしまうのだが、銅像の香薬師像だけは胎内から救い出され、それ以来、新薬師寺で大切にお守りされてきた。しかし…。


~~~~~~

三度の盗難

明治23年=1回目の盗難


ずっと時代が下った明治23年。香薬師像が盗まれてしまう。このときは、ほどなく近くの神社で発見される。右手首から先が切り離された状態で打ち捨てられていたそうだ。右手をつなぐ修理が行われ、お像は再び新薬師寺に安置される。

明治44年=2回目の盗難

ところが、明治44年、香薬師像は再び窃盗犯の手に落ちてしまう。右手と両足が切断された痛ましいお姿ではあったが、大阪・住吉の田畑で発見された。右手は再度、お像に接続され、見つからなかった両足は木製のものを作って補われた。
昭和17年、竹林薫風と水島弘一がそれぞれ、お像を石膏で型取りする。この頃までに右手は古傷のためか脱落していたようで、三度目の盗難の前に右手だけが盗まれることがあったため、水島が銅で右手と両足を補作し、お像本体に取りつけた。盗まれた右手は近くに捨てられているのが見つかり、その後、お寺で保管されていたらしい。

昭和18年=3回目の盗難

昭和18年、香薬師像が三度目の盗難に遭う。肝心なのは、このとき、元々の右手部分は盗まれず、寺に残されたという点だ。しかも、現在の新薬師寺住職にはその事実が伝えられていなかった。香薬師像は今も見つかっていない。

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昭和25年?=右手が佐佐木家へ

昭和25年、文芸春秋の佐佐木茂策が、水島の型取りした石膏を使って、香薬師のコピー像3体を自費制作。新たに鋳造された1体は新薬師寺に、1体は奈良の観音院に譲り、1体は自らの手元に置いて、亡き妻、佐佐木ふさの供養とした。
どうやら、この際に、右手が佐佐木に渡ったらしいのだか、その辺りは明らかになっていない。
佐佐木は右手の土台を作り、丁寧に木箱におさめて保管していた。右手の価値を理解し、かつ財力のある人でなければできないことだと私は思う。

昭和37年=久野・水野両氏が右手を目撃

昭和37年2月、佐佐木家に仏像調査に訪れた久野健と水野敬三郎が、佐佐木の後妻から右手を見せてもらう。この時に水野が撮影した写真が最近になって、右手の身元確認に大きな役割を果たすことになるのだが、右手の存在はこの後、口外されることなく、50年余りの年月が過ぎ去ってしまう。

平成12年=右手が佐佐木家から東慶寺へ


平成27年=右手が東慶寺から新薬師寺

平成27年5月、著者と新薬師寺住職が鎌倉市東慶寺を訪れ、右手が保管されていることを確認。平成12年、佐佐木茂策の墓のある東慶寺に遺族が預けたのだという。あくまでも東慶寺は預かっているだけで、所有者は佐佐木家なので、東慶寺は佐佐木家の間で念書を交わすことを希望。27年10月になって、遂に右手が新薬師寺にお戻りになった。

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以上、簡単にまとめたつもりだが、なかなかややこしい。香薬師像とその右手が複雑な歴史をたどったことがわかる。

なお、佐佐木茂策が大切にした香薬師コピー像は現在、東慶寺に譲渡されており、私も東慶寺で拝したことがある。観音院に渡ったコピー像は三共製薬会長を経て、今は奈良国立博物館に。数年前の『白鳳』展で拝んだ方も多いだろう。

最後に、いまだ解けない謎―――香薬師如来さまは今どこにおられるのだろう? この疑問を宇宙の闇に投げかけ、そっと溜息をつく。

仏像修復家、牧野隆夫先生のマジックとは

仏像は過去と現在と未来をつなぐ尊い存在
仏像修復家の仕事はとても重要で、もっと世に認知され、評価されるべきものと思っています。

あることがきっかけで、牧野隆夫先生が私たちの先日の山形オフ会にご参加くださることになりました。牧野先生と参加者の皆様をお繋ぎする役割を果たせたこと、身に余る光栄に存じます。牧野先生、幹事様、参加者の皆様に心からお礼申し上げます。

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牧野先生が修理された仏像をお参りすると、お寺や管理者の皆様が一拝観者の私を温かく迎えてくださることが多いです。この現象を私は”牧野マジック”と名づけました。先生が修理の過程で地域を巻き込み、人々とともに悩み、喜びながら、仕事をされたからだと思っています。こうした温度感の恩恵は部外者の私にも及ぶのです。職人としての力量はもちろん、お人柄の力が大きいのだと思います。

静岡の平安の千手観音像(中野観音堂)を修理されたときには、管理者(別当)様の生産されるお茶に「千年千手」と名づけ、その販売に一役買いました。熊谷の愛染明王(宝乗院)の修理後、元のお堂に運ぶ際には、地元のお子さんたちにも一緒に引っ張ってもらったそうです。いずれも次の世代へお像を引き継ぐための仕掛けなのです。

今回、先生とご一緒させていただくなかで、マジックの理由を垣間見ることができたように思います。お話の一言一言が心に残っています。もっともっとたくさんお話を伺いたかったです。

牧野先生が携われた静岡の千手観音菩薩さまと埼玉県熊谷の愛染明王さま

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牧野先生が関わられた平泉寺(山形市)で、ご住職が、「みほとけに手を合わせて祈るとき、そのお仏像に関わってきたたくさんの方たちのことも思ってください」とおっしゃいました。平泉寺の長い歴史の中で、牧野先生は紛れもなくその重要なお一人です。

平泉寺大日堂に安置される仏頭。千歳大仏の再興が悲願

牧野先生が関わられた仏像は平泉寺だけではなく、伊豆や東北に数多くあります。先生は「仏像は修理して、それで終わりではない。その後も拝んでくれる人がいることが大切」とおっしゃいました。高齢化過疎化で管理が難しくなっている古仏が日本には多く、そのことを前提とされたお言葉だったと思います。そして、各地で仏像の拝観を続ける私たち仏像愛好家への感謝と励ましの言葉でもあると思います。

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これからも古仏が大切にされ、古仏に守られる世であってほしいと願います。私も力ある限り、牧野先生が関わられた“牧野仏“をはじめ、人とともにある古仏を訪ねていきたいです。

#仏像 #牧野隆夫 #仏像再興

Special Thanks to:
牧野隆夫さま 
仏像リンクさま 
山形オフ会参加者の皆様

【参考資料】
牧野先生のご著書では、この2冊が特にお勧めです! これを読んで、牧野先生が修復に関わられた"牧野仏"にお会いしにいきましょう!

仏像再興 仏像修復をめぐる日々山と渓谷社 2016年

伊豆の仏像 修復記 ‐人と自然に護られた 仏と関わる日々‐ 静岡学術出版 2018年





【参考サイト】
はらぺこヒヨドリの牧野仏参拝記
・中野観音堂静岡県静岡市
butsuzodiary.hateblo.jp
・宝乗院愛染堂(埼玉県熊谷市
butsuzodiary.hateblo.jp
・国清寺(静岡県韮山)とかんなみミュージアム
butsuzodiary.hateblo.jp
・平戸のおおぼとけ(埼玉県熊谷市) まだ修復前の参拝記録です。修復後のレポートもしなければ!
butsuzodiary.hateblo.jp

【福井】辻観音堂の聖観音菩薩さま(勝山市)

観音堂福井県勝山市
聖観音菩薩立像

観音堂聖観音菩薩さま
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小さな堂内に今も信仰が息づく

平泉寺白山神社御開帳に合わせて、辻観音堂も開いており、聖観音菩薩様の尊いお姿を拝む。
平安時代後期、檜の一木造り。像高103.1cm。福井県指定文化財
比叡山横川の観音様と同様、蓮の花の蕾を左手に掲げる。天台系の香りが漂う、気品ある穏やかなお姿である。

白山の三峰に住まわれる神々とその本地仏は以下のとおり。
観音堂聖観音菩薩さまは別山本地仏と考えられる。

御前峰(ごぜんがみね)=本社=伊弉冊尊・十一面観音菩薩
大汝峰(おおなんじがみね)= 超南知社(おおなむちしゃ)=大己貴尊・阿弥陀如来
別山(べっさん)=別山社=天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)・聖観音菩薩

白山平泉寺は中世の頃、越前馬場として48社、36堂、6000坊を擁していた。辻観音堂は、このうち36堂の一つであった。
文治2年(1186)、源義経が奥州平泉に落ち延びる途中、辻観音堂に投宿し、平泉寺衆徒らと終夜管弦を奏したことが『義経記』に残る。これが史実であれば、義経と弁慶もこの観音菩薩様を拝んだのかも。
天正2年(1574)、一向一揆の兵火により辻観音堂は焼失する。しかし、ご本尊である聖観音菩薩像は他の仏像とともに地中に埋められたという。天正11年(1583)になって、平泉寺の再興を支えた顕海僧正により、地中から掘り出されたと伝わる。それ以来、平泉寺にまつられることとなり、厄除けの観音様として大いに信仰を集めたという。
明治初め、神仏分離令に伴い廃仏毀釈の嵐が吹き荒れると、この聖観音菩薩像はひそかに顕海寺に移された。明治32年(1899)、「もとの観音堂跡地に戻りたい」との観音様の夢告により、現在の場所に草堂を建てて、観音像をおまつりした。戦国時代の兵火から300年余りを経て、元の場所にお戻りになられたことになる。

現在、辻観音堂は、近くにお住まいの方により管理されていると聞いた。平泉寺白山神社の御開帳は多くの人で賑わっていたが、その期間でも辻観音堂は静かだった。私は白山神社に参拝前と参拝後、つまり一日に二度、辻観音堂をお参りした。夕方4時頃にお参りすると、世話役のおじいさまが一人、観音様の前で般若心経を唱えておられた。そのお背中が尊く、そして、愛おしくもあった。辻観音堂とご本尊聖観音菩薩さまがこれからも末長くこの地でおまつりされますように。至心合掌

【参拝案内】
観音堂
福井県勝山市平泉寺町平泉寺67−6
要予約

【参考資料】
福井県文化財サイト(辻観音堂聖観音菩薩立像)

【信濃仏】仏師善光寺妙海の最後の日光・月光菩薩像@福満寺(麻績村)

善光寺住妙海と名乗る仏師

 仏師妙海をご存知だろうか。鎌倉時代の終わり頃、彗星のように突如として信濃に現れ、40代という若さで亡くなったかもしれない、伝説の仏師である…。(←プロジェクトX の感じで書き始めてみるw) 

 長野県麻績村、福満寺の日光・月光菩薩立像は、1332年、善光寺住妙海と名乗る仏師の40代にして最後の作。妙海は長野県内に5件、9躯の仏像を残し、そのすべてに仏師名と制作年度が記される(注1)。


文保元

1317

日光・月光菩薩立像

光久寺(安曇野市

県宝

元享2

1322

金剛力士

波田地区仁王門(松本市

県宝

元享3

1323

十一面観音菩薩立像

上島区(辰野町

重文

元享3

1323

日光・月光菩薩立像

光輪寺(朝日村

県宝

元徳4 正慶元

1332

日光・月光菩薩立像

福満寺(麻績村

重文

 上記のように、全9躯のうち、日光月光菩薩立像が3組を占める。どれも三尺ほどの素地仕上げ。高い髻に、左右の眉がつながる、いわゆる、連眉が特徴。

仏師が老いると仏像も老いる?

 恥ずかしながら告白すると、私は、安曇野の光久寺の日光菩薩・月光菩薩像がとにかく愛らしくて、大好きなのである。仏像なのに、こんなにかわいらしくていいのーー(♡♡)と叫びたくなる。それほどに愛らしい。若かりし日の妙海さんが、あふれでる若さを存分に注ぎ込んで彫り上げたに違いない。お像に若々しさが満ちている。

光久寺のかわいすぎる妙海仏♡

 一方、今回拝観したこちら福満寺の日光月光さまは、記録に残る限り、妙海の最後の作。最後と言っても、その時の妙海はまだ40代で、そんなにお爺さんではない。(注3)

福満寺の日光菩薩立像 この静謐さ
妙海の最後の作、福満寺の日光・月光菩薩立像

 しかし、福満寺のお像は、15年前の光久寺のそれと比べると、明らかに静かで、落ち着いている。はっちゃけたような元気さも、ほとばしるような若さもない。仏師が歳をとるにつれて、仏像も歳をとるーーー。そんなこともあるのだろう。よくみると、光久寺像のような見事な毛彫もない。

 かといって、福満寺のお像が劣るわけでは決してない。福満寺の菩薩像は、元気と若さでは光久寺に及ばないが、その巧みな彫技が確かに残っている。いや、むしろ円熟みを増して、慈悲深く、独特の魅力を放っている。
 正直なところ、私は光久寺の妙海仏への想いが強いがために、福満寺に着くまでは、福満寺の妙海仏に失望してしまったらどうしよう…という気持ちが、わずかながらあった。期待200%、不安2%という感じだった(動揺が激しすぎて、百分率がおかしい…w)。尊敬する武笠先生も、光久寺の日光月光菩薩像や波田の仁王像のような愛くるしさこそ、妙海の本領発揮だというようなことを書かれている(注2)。

 しかし、福満寺さまで、妙海仏に拝顔した瞬間、そんな不安は一気に消え去った。さっきまで光久寺のお像がかわいくて、かわいくて最高、と思っていた私が、福満寺のお堂に入った瞬間、ああーー、この妙海の菩薩像も、とんでもなく素敵ではないかーーー(!!!)と思ってしまった。うれしさ500%!(百分率の勉強やりなおそう...w)

 つまりは、宋風な表現に落ち着きと気品がプラスされた、妙海さまの技に、私は感嘆したのだった!! 妙海さま、あなたの仏像に私は夢中です!

双子のようなそっくりさんなのに、衣の表現は変えてくるところも好き

虎屋といえば羊羹、妙海といえば日光・月光菩薩

 福満寺の日光・月光菩薩像は、福満寺の薬師如来坐像に比して小さめなため、千手観音菩薩坐像(現在、客殿安置)の両脇侍として造立されたのではないか、という説があるのだそうだ。

 しかし、それについては、私は首を傾げざるをえない。以下、妙海ファンの妄想も混じってくるが、聞いてほしい。

 前述のように、妙海による仏像9躯のうち6躯が日光・月光菩薩の立像なのである。妙海が薬師如来信仰と関わりがあったと考えてもよいのではないか? 

 ちなみに、福王寺(長野県佐久市)の菩薩像の一体は妙海だった可能性が指摘される。平安後期の地方作とされる阿弥陀如来(大好きな阿弥陀さま)の脇侍として、後から造立されたのだとされるが、それもなぜか「伝月光菩薩」である(お寺では、正面右側に安置されていてわかりにくかったが、こちらが伝月光菩薩らしい。しかも、頭部などに後の補修が入っていて、妙海仏とはわかりにくい。が、衣の薄いヒラヒラに妙海が垣間見える)。とにかく、虎屋と言えば羊羹、妙海といえば薬師如来の両脇侍、日光・月光菩薩なのだ(たぶん)

 なにより、福満寺の薬師如来は平安後期に遡る古像だ。それにふさわしい脇侍像の造立にあたり、薬師信仰と関わりがあって腕も確かな妙海が抜擢されたのではないか。

 また、銘の残る妙海の日光・月光菩薩立像3組がどれも三尺であることを考えると、福満寺像だけ薬師以外の脇侍だったとは考えにくくはないか…?

 さらに、あえて妙海ファンの妄想を進めて吐露すると、おそらく病気で身体が弱った妙海が、体力の衰えをそれまでの彫技で補いつつ、制作したのではないだろうか。細かい毛彫がなされなかったのも、身体がしんどかったためではなかったか。しかし、自身の体調のつらさがあったからこそ、この深い慈悲に満ちた表情を木に写し出せたのではないだろうか。その根底に、薬師信仰があったに違いない…。弱っているからこそ、深い信心でなしうるものがきっとある。その一例が福満寺のこの菩薩像ではないか。

 長々と書いてしまった。まだ、言いたいことや疑問はあるが、書き出すとと取り留めなくなくなりそうだ…。


 そこで、結論。
 若々しくて愛らしい光久寺像が大好き! そして、福満寺の円熟した菩薩像も大好き! どちらも良さがあって、本当に大好き!
 日本の仏像史上に燦然と輝く仏師妙海さまを今後もお慕いしていくことをここに誓う! (プロジェクトX風に始まった本稿だが、なぜか選手宣誓で閉めることに…笑) 
まだ拝観できていない妙海の仏像は長野県朝日村の日光・月光菩薩立像のみとなった! 拝観できるのだろうか!?

【拝観案内】

福満寺(長野県麻績村
住所 長野県東筑摩郡麻績村山寺

・縁起

嘉祥2年(849)、慈覚大師円仁が東国を巡る際、巨大な一本の霊木から薬師如来、日光月光菩薩、四天王、十二神将を彫り出し、一宇建立してまつったのが始まりとされる。

・仏像の宝庫

福満寺は仏像の宝庫で、収蔵庫には平安後期の薬師如来坐像を中心に、たくさんの仏像が安置される。妙海さまで興奮してしまって、ここでは書けなかったが、平安仏がこれまた素晴らしい。薬師如来坐像の他にも、千手観音の脇侍である不動明王立像と毘沙門天立像が平安後期、四天王のうち3躯が平安で1躯が鎌倉仏。拝観時間をたっぷり取って予定を組まれるのがよろしいかと。
なお、客殿の千手観音菩薩坐像は5月3日の祭礼の際に拝観できると伺った。平安時代の作だが、後補部分が多いとかで、村指定文化財だという。
薬師如来坐像 平安後期 147.0cm 桂 寄木造り  重文
日光菩薩立像 鎌倉時代 妙海 114.7cm 重文
月光菩薩立像 鎌倉時代 妙海 115.5cm 重文
不動明王立像 平安後期 159.5cm 桧 寄木造り 重文
毘沙門天立像 平安後期 169.0cm 桧 寄木造り 重文
四天王立像 平安3体、鎌倉1体 村指定
賓頭盧尊者坐像 村指定
十二神将
仁王像 村指定
千手観音菩薩坐像 平安後期 106.5cm 村指定(客殿秘仏で5月3日に公開)

【注と写真】

注1) 妙海の製作年度の表は、伊藤羊子「仏師 善光寺妙海はなぜ注目されるのか」『めくるめく信州仏像巡礼』の表を少しだけアレンジした。
注2) 詳しくは武笠朗「妙海」『鎌倉時代仏師列伝』(吉川弘文館)をぜひぜひお読みください。私はこの武笠先生の章を読んで以来、武笠先生のファン。
注3) 麻績村文化財サイトには妙海48歳の作とあるが、本稿ではあえて「40代」とした。理由はお像の銘記によって微妙に妙海の年齢が異なるから。光久寺像に文保元年(1317)34歳とある一方で、波田辰野町の像には元享3年(1323)34歳と記載される。まさか永遠の34歳のなのか(笑)。光久寺像が正しければ、1284年生まれとなり福満寺像は48歳の作となる。しかし、波田と辰野の銘記が正しければ、1290年生まれとなり、福満寺像は43歳の作となる。詳しくは、上記注2)に記載の武笠先生の章をご参照ください

※写真※ 月光菩薩立像の全身像は友人もぐじ氏が撮影したものを承諾を得てお借りした。それ以外はすべて不肖ヒヨドリの撮影。

【参考文献】

・『めくるめく信州仏像巡礼』 武笠朗 (監修) 長野県信濃美術館 (編集) 2015年
・『鎌倉時代仏師列伝』山本 勉 (著), 武笠 朗 (著)  吉川弘文館 2023年
・『善光寺御開帳記念"いのり”のかたち 善光寺信仰展 』長野県信濃美術館2009年特別展図録
麻績村文化財サイト 彫刻|麻績村
・まるきょう氏 信州の福満寺(善光寺妙海仏を訪ねて) - 和顔愛語 古寺と古仏を訪ねて (仏像への接し方も写真も素敵だわぁと思ったら、お友達のブログだった!)
・ソゾタケ氏 光久寺(長野県安曇野市)—妙海による最初期の日光・月光菩薩像 – 祇是未在 (写真が最高)
・拙稿 【信濃仏】光久寺(安曇野市)若き妙海の日光月光菩薩像はかわいらしい双子のようだった! - ぶつぞうな日々 part III
・拙稿 【信濃仏】福王寺(佐久市)の力強い阿弥陀さまと雨ごい邪鬼の毘沙門天さま - ぶつぞうな日々 part III

【信濃仏】「ハッケン!上田の仏像」展@上田市立美術館に大興奮

「ハッケン!上田の仏像」展
上田市立美術館(長野県上田市
2025/1/11-3/9

これは行かなければ!!! となるチラシ
入り口からこんな感じでずるくないですかー

長野県上田市で仏像の特別展が始まった。実にマニアック。平成28年から実施された上田市による仏像悉皆調査の成果を盛り込んだ、仏像愛好家垂涎の展覧会である!

飛鳥時代後期の菩薩立像/長福寺(上田市

会場入ってすぐの小さなスペースに、飛鳥時代後期の菩薩立像(長福寺)がおられる。長野県屈指の古像へのリスペクトを感じる。飛鳥周辺で制作され、天武・持統天皇の時代の仏教拡大の政策のもと、7世紀後半に北信濃にもたらされたのではないか、と展示解説にあった。ある本によると、この金銅仏とよく似たお像が愛知県西尾市の修法寺におられるそうだ。このような仏像が日本各地に運ばれ、仏のみ教えを広める役割を担われたのだろうか。

聖観音菩薩立像/清水寺長野市松代)

2022年に清水寺で筆者が撮影。展覧会場では違って見えるのが不思議

そして、次の一室には、平安時代の仏像が並ぶ。なんとその真ん中に、清水寺長野市松代)の観音菩薩立像が! 平安前期のお像は強力な印象のものも少なくないが、このお像は特にパンチがある。それなのに、お寺でお会いしたときよりも、ものすごく繊細で、艶っぽくも感じられたから、不思議だ。展覧会場の照明がお寺のそれよりも繊細なためだろう。お寺では見ることができない、お背中も間近で拝見。ぞくぞくした。これは必見!

普賢菩薩立像/大法寺(青木村

大法寺(長野県青木村)の普賢菩薩立像。眼をはっきりと彫り出さないところが私はとても気になる。閉じたような、不思議な両目。照明の違いのためか、お寺より細かい点もよく見える。それなのに、いや、そのせいか、私はまたしても、この不思議な両目に惹きつけられたのだった。
私の大法寺拝観記録(2018年)はこちら(↓)。同じ仏師による思われる十一面観音立像は本展にはお出ましではない
【信濃仏】大法寺(青木村)~瞳を閉じた十一面観音さまは何を感じ取ろうとされているのだろう~ - ぶつぞうな日々 part III

十一面観音菩薩立像/実相院(上田市真田町

美しい実相院の十一面観音さま 写真は展覧会のサイトより

そして、前からお会いしたかった、実相院(上田市真田町)の十一面観音菩薩立像!! 四阿山白山信仰の霊山とされ、この十一面観音さまは山家神社とその別当である白山寺に本地仏としてまつられていた。明治初めの神仏分離の際に、白山寺が廃寺となり、実相院に遷座されたという。お身体全体や衣文は平安後期の穏やかさがあるが、お顔の表情は厳しい。本地仏の観音さまは厳しめのことが多いように思うのだが、なぜだろう。そして、その言葉にできない何かに惹きつけられるのはなぜだろう。白山の本地仏は十一面観音坐像が多いように思うが、立像である点も気になる。こんなに魅力的でありがたい観音さまに、ありえないくらいの近さでお会いできる。ずっと見つめていたい観音さまだった。

大日如来坐像/前山寺(上田市前山)

“発見”された大日如来さま 写真は展覧会のサイトより

実相院の十一面観音さまのあと、呼吸を整え直す暇もなく、鎌倉時代の仏像の展示が始まる。
鎌倉仏の最初に現れるのが、前山寺(上田市前山)の金剛界大日如来坐像。これがもうびっくり。一眼で鎌倉仏とわかるのだが、それにしては、頬が丸く張り出して、童顔のようで、かわいらしい! 一瞬にして魅了される! こんなことがあってよいのか!? よくない!
さらに、驚くのが、松山寺本堂のご本尊でありながら、昨年11月、上田市文化財に指定されたばかりだという。なんてことだ! 長年にわたる信仰の対象について、令和になってやっと、その文化的歴史的価値が認められたことになる。展覧会のタイトル「ハッケン!」にはこのお像のことが含まれるのだろう。こんなことがあってよいのか!? よくない!! 非常によろしくなくて、素晴らしすぎる!! 仏像調査に敬意を評したいし、私もその内容を学びたくなるではないか!! (展覧会図録がまだできていないそうで、予約したので、早く読みたい!)
前山寺の今年はじめのインスタグラムには、「間もなく開基700年を迎える前山寺のほんの一時をお預かりする山主も苦渋の決断、厳重な移動を迎えるその瞬間も不安と心配でいっぱい」と吐露されていた。ご出展を決断されたお寺様に心からの感謝を申し上げたい。本当にありがとうございます! たくさん「!」を連発してしまった私をお許しください。

他にも、わぁわぁと心の中で叫びながら拝観したお像がおられた。京都広隆寺秘仏薬師如来さまを想起させる神畑薬師堂の薬師如来立像や、そばで拝見するとぬめっとしていかにも生身信仰の芳泉寺の阿弥陀如来立像など。できれば会期中に再訪したい…


展覧会公式サイト
www.santomyuze.com

【番外編】 パレスチナ・ガザの画家三人展 1/18まで 相模原のフクヤマ画廊にて

パレスチナ・ガザの画家三人展
2025/1/7-1/18
フクヤマ画廊(神奈川県相模原市
http://www.fgallery.com/info/gaza_3.PDF

大学で国際政治を学んだのに、私は世界の平和のために何もできていない。半径2メール以内の笑顔を守ろうとするだけで精一杯。いや、それさえもままならない…。そんな自分に罪悪感があるが、現状どうにもならず…

そんななか、いとうせいこう氏のSNS投稿で、パレスチナ・ガザのアーティストの作品展が開催されると知り、出かけてきた。
企画・主催はPHAP(パレスチナのハート アートプロジェクトとフクヤマ画廊。PHAP代表で現代美術家の上條陽子 氏は、2001年からレバノンパレスチナ難民キャンプで絵画指導を行ってきた。2019年には、ガザのアーティスト3人の作品を日本に輸送。さらに、渡航VISAという難問もクリアして3人を日本に招聘。同年2月に日本各地で作品展を開催した。

今回の作品展は、この時に日本に渡ったこの3人の作品で構成される。アーティストの名は、ソヘイル・セレイム(Sohail Salem)、モハメド・アル・ハワジリ(Mohammad Al-Hawajri)、そしてライエッド・イサ(Raeed Issa)。彼らの血の通った作品をこの目で観て、感じることができる。

パレスチナのガザでは、この3人を含め、アーティスト7人で画廊エルチカが運営されていた。しかし、2023年10月に始まった戦火により、画廊が破壊され、作品や画材すべてが失われてしまった。唯一戦禍を逃れたのが、これら日本に残る作品なのだという。作家本人の希望により、日本のフクヤマ画廊で最後の販売展示が行われ、残った作品のすべてはドバイに渡るそうだ。

つまりは、今回の戦禍前の彼らの作品を日本で観られる最後の機会なのである。ニュースで観るガザの映像は瓦礫ばかりで、色が感じられない。それがつらい。しかし、3人の作品を間近で観ることで、一人ひとりに色があり、特徴があることを感じることができる(一人一人に個性があるなんて、当たり前のことなのだが、、、その理解と共感こそが平和への第一歩ではないかという思いで、あえて書いておく)

ソヘイルとライエッドは今もガザで暮らす。アルハワジリはドバイへ逃げられたが、家族親族24名を亡くした。
彼らの生活を支えるため、日本で少しでも多く作品が購入されるよう願っている。私は資金不足で購入できないので、わずかでも展覧会の宣伝になることを願ってこれを書いている。フクヤマ画廊はJRと京王線橋本駅の近く。18日まで無休で開催されているので、ご興味あるかたはぜひ。

If I must die, you must live to tell my story... (Refaat Alareer) 武器や暴力の前で人は無力である。だけど、言葉とアートの力を私は信じたい。



【参考】
上條陽子氏の活動を紹介するNHKの番組
⚪︎NHK WORLD Direct Talk
Paintings for Peace in Gaza: Kamijo Yoko / Artist
www3.nhk.or.jp
(上記リンクから視聴可能)

⚪︎NHK日曜美術館「壁を越える〜パレスチナ・ガザの画家と上條陽子の挑戦〜」
初回放送日:2021年6月6日
www.nhk.jp

⚪︎Al-Hawajiri
Al-Hawajri - Home

⚪︎Sohail Salem
https://www.facebook.com/sohail.salem.3

⚪︎Raed Issa
https://www.facebook.com/raed.issa.73

【米国ハワイ】オアフ島の平等院は歴史も自然も感動に満ちている!

序文 人生初ハワイで平等院へ!

 ちょっとした用事で、人生初のハワイに出かけてきた。日本の古い仏像と二十五菩薩来迎会の追っかけである、この不肖者が、なんと、南の島へ。南都(奈良)にはよく行くけど、南の島はあまり行かない。人生何が起こるかわからないものである。

 ところが、現地に行ってみると、ハワイの雰囲気が思いのほか居心地がよく、自分に合っていた。まずお日さまが明るい。アメリカ合衆国の一州でありつつ、ハワイ独自の言語や文化が大切にされる。移民受け入れの歴史により育まれたのであろう、多文化社会の豊かさも感じる。日系人やアジア系の方も多く、米国本土より親近感もある。さらに、体格のよい方が多いので、自分が痩せていると錯覚してしまうというオマケも付いてくる(笑)

 短い滞在ではあったが、そんな心地よさのなか、半日余りの時間を無理やり空けて、ハワイのお寺と仏像を巡ってきた。

 まずは、前から気になっていた平等院へ。
 オアフ島コオラウ山脈を背景にした鳳凰堂が美しくて、息をのんだ。
 最初の日系移民のハワイ到着から100年を記念して、1968年に建立。
 慣れない土地でご苦労されたであろう日系移民の皆様にとって、平等院がアイコニックな存在だったのだろう。日本仏教の宗派が一丸となって建立に関わり、今も宗派を問わず礼拝の対象となっている。
胸が熱くなる。

 

コオラウ山脈の麓という最高の立地

 (序文が長くなってしまった…。ここからやっと本文)

 不肖ヒヨドリ、ハワイには、海やサーフィンのイメージしかなかった。(日本でいうところのサムライとフジヤマと同じレベルw)。しかし、まぁ、昔の教科書に、真夏の海のサンタクロースの写真が載っていたような気がするし、ディズニー映画『リロ&スティッチ』も大好きなのだから、しかたない。まぁ、しかたない。。。
 しかし、ここハワイの平等院に着いて、オアフ島はもっと奥深い自然に恵まれた場所なのだと知った。海だけではない。山がすごいのだと。それを一瞬にして体感したのである。
 まずはこの写真をご覧いただきたい。この平等院へのアプローチ。なんですか、この奥に見える緑色の絶壁は。これがオアフ島の中央に走るコオラウ山脈なのだ。島の東に面して、絶壁のような山肌が続く。

入場料を支払って振り返るとこの景色。このアプローチからすでに美しい
近づいてみてもやはり美しい!
あー、宇治にそっくりだけど違う! そして、美しい!

 私は宇治の平等院が大好きで、鳳凰堂の前で「はぁ〜♡」とつぶやきながら、写真を撮り続ける人間だ。なので、ハワイの平等院はがっかりするのではないか、と若干の心配をしていた。
 ところが、どっこいしょ! そんな心配は現地に着いて一瞬にして吹き飛んだ。
 いやいやいや、これは美しいではないか! 宇治とはまた別の美しさではないか!
 まぁ、あえて難を言えば、ハワイ鳳凰堂の建物はコンクリート造りである。宇治は国宝の木造建築で温かみがあり、しかも、平成の修理の際、創建時と同じ丹土(につち)と呼ばれる赤色顔料で塗り直している。その差は歴然である。
 しかし、その弱点を大きくカバーし、さらに、ハワイらしい魅力を加味しているのが、この立地ではないか。オアフ島の東に面して絶壁のように立つコオラウ山脈。その大きな緑色の背景と、熱帯の空気が、この鳳凰堂を際立たせる。ハワイは海だけでなく、山が抜群に美しいと知ったのだった。
 平等院のレプリカ建設のため、この最高の立地が選ばれたこと。その英断に賛辞を送りたい。藤原道長・頼道親子も称賛しているのに違いない! 

9フィートの丈六阿弥陀如来さま

あたたかみを感じる阿弥陀如来さま!

 鳳凰堂の中央に坐すのは9フィートの阿弥陀如来さま。つまりは丈六仏である。本家平等院阿弥陀如来さまが像高277.2cmなので、同じ大きさにしたのだろう。重さ2トン。
 宇治の阿弥陀如来坐像は天喜元年(1053)、仏師定朝の作。「仏の本様」としてのちの仏像の模範となった。いわずとしれた、国宝である。
 ハワイの阿弥陀如来さまは、日本の彫刻家Masuzo Inuiが製作したミニチュアの原型をもとに、Jokei Sagawaが腕をふるい彫りあげた。漆の上に金箔を貼る、いわゆる漆箔であることも本家と同じ。台座の蓮弁の並べ方や天蓋の感じも似ている。本家への限りない敬意が感じられる。そして、丸顔で、温かみのある阿弥陀さまだ。
 定朝を真似しつつも、どことなく南国感があるのは、阿弥陀さまが毎日拝まれる中でハワイの地に馴染んだからに違いない。これはあくまで私の主観だが、私はそう信じている。(東京多摩地域で平成初期に造立された高幡不動の不動三尊は、京都の仏師が制作したもので、最初はお堂の中で浮いて見えた。しかし、毎日何度も護摩を焚かれているうちに、地元に馴染み、今は完全に多摩の男らしくなっている。法隆寺金堂におられた勢至菩薩像もフランスのギメ美術館で長年暮らすうちに欧風になった、と私は思う)

台座の蓮弁の並べ方や天蓋の感じも本家に似せている!
ふわっと浮いたような阿弥陀さま。壁面には各宗派の御紋が並ぶ

多様な信仰が尊重される

 鳳凰堂の銘文には、この平等院を建てるに辺り、日本仏教が宗派をこえて協力したことが刻まれる。日蓮宗曹洞宗真言宗真宗東本願寺派、本派本願寺西本願寺派のことをハワイでは本派と呼ぶ)および浄土宗の名前が読み取れる。

 敬意を込めて、この銘文を書き写すと、以下のようになる。

BYODO-IN

THIS REPLICA OF BYODO-IN, UJI, JAPAN
COMMEMORATES THE 100TH ANNIVERSARY OF THE
ARRIVAL OF HAWAII’S FIRST JAPANESE IMMIGRANTS.

DEDICATED JUNE 7, 1968 BY

BISHOP KANJITSU IIJIMA   NICHIREN MISSION OF HAWAII

BISHOP TETSUEI KATODA  SHINGON MISSION OF HAWAII

BISHOP ZENKYO KOMAGATA SOTO MISSION OF HAWAII

BISHOP RYOICHI SHIRAYAMA HIGASHI HONGWANJI MISSION OF HAWAII
BISHOP KANMO IMAMURA  HONPA HONGAWANJI MISSION OF HAWAII
BISHOP KYODO FUJIHANA   JODO MISSION OF HAWAII

 なお、この感動的な銘文のまわりに、拝観マナーを呼びかける注意書きが貼られていた。特に、堂内で靴を脱ぐという文化がない人たちもたくさん来られるので、係の方々が絶えずお声がけされていた。こうした地道な努力により、信仰の多様性は維持されるのだろう。さすがハワイ!

感動的な銘文のまわり、拝観マナーを呼びかける注意書き。嫌いではない!

 写真、一番上のプレートには、Out of resepct for those who revere this temple, please remove your shoes.と書かれている。「弊寺院の信者への敬意として、どうか靴をお脱ぎください」。このように互いに敬意を払い合うという姿勢に学びたい。「なに靴履いたまま入ってきてんの! あほか!」と、頭ごなしに怒鳴るのではない。インバウンドでイラついている日本人が見習いたい一文だ。

 さらに、堂内には、上記宗派の御紋に加えて、出雲大社天理教の御紋、キリスト教の十字架まで掲げられている。お互いの信仰を認め、尊重し合う証だ。

堂内に掲げられる各宗派の御紋

 ハワイの平等院はValley of the Templesという私営墓地の一角にある。アメリカの映画やドラマで観るような、広い芝生に小さな墓石が並ぶエリアもあれば、日本式の長方形の墓石が並ぶエリアもある。ここにも多様性が表れている。
 コオラウ山脈の自然も美しいが、そうした寛容さと多様性も私は美しいと思った。

 こうして振り返ると、ハワイ平等院は素晴らしいところばかりだ。足りないものといえば、ただ一つ、雲中供養菩薩だけ(笑)。本家宇治平等院鳳凰堂の壁には、52体もの雲中供養菩薩が音楽を奏で、舞っておられる。私がイーロン・マスクほどの富豪であれば、仏師の村上清さんに発注して、奉納するのになぁ。。

日本の方にこそ行っていだたきたい!

ハワイの平等院は、欧米人向け島内観光ツアーにはほぼ必ず組み込まれるらしい。アメリカのドラマ『LOST』など、ロケ地になってもいて、観光地として有名なのだそうだ。
 しかし、肝心の日本人観光客で訪れる人は少ないと聞いた。本家が京都宇治にあるのに、なぜハワイまで行ってわざわざレプリカを観に行く必要があるのか。そう思われているのだろう。

 いやいやいや…。

 私は言いたい。もっと日本からお参りにいきませんか、と。

 オアフ島大自然を全身で感じながら、日系移民の皆様に想いを馳せようではないですか!

 そして、私は日系移民の歴史と仏教の関係について、学びたくなっている。

【拝観案内】

Byodo-in Temple Hawaii

住所 47-200 Kahekili Highway, Kaneohe, HI 96744, USA
行き方 アラモアナからTheBus 65番で約80分。バス停降りて、Valley of the Temples Memorial Park内を歩くと到着。バスは1時間に1本程度なので、レンタカー等の利用が便利らしい(そうガイドブックに書いてあるw)。ちなみに私は、公共バスでのんびり行きたかったのだが、あまり時間がなく、心配性の相棒の希望もあって、ハワイ在住のガイド、テリー岡本さんを予約。道中楽しくおしゃべりしながら、安全かつ迅速に移動でき、平等院に加えてハレイワまで移動できた。
公式サイトThe Byodo-In Temple
なお、ショップでお願いすると、御朱印もいただける。"Goshuin"とか"Goshuin Stamp"で通じる。日本語がネイティブでない方が書かれた日本語の文字がたまらなく好き。

【参考資料】

⚪︎Byodo-in Temple Hawaii Wikipedia
Byodo-In (Hawaii) - Wikipedia
⚪︎Valley of the Temples Memorial Park Wikipedia
Valley of the Temples Memorial Park - Wikipedia
⚪︎ハワイの日系移民の歴史をぱぱっと学べるサイト→hawaii.jpハワイの日系移民の歴史があって今のハワイがある | hawaii.jp
⚪︎ドラマLOST 第1シーズン第6話で、ハワイ平等院がロケ地として使われている。チラッと見たところ、夜のシーンで、なぜか韓国人夫婦が韓国語で会話するシーンだった。いやー、本家は日本でございますよーと叫びたい(笑)
https://www.disneyplus.com/ja-jp/play/e59feff8-d2dc-4ea3-a152-de49d80bede2

【信濃仏】西念寺(長野県佐久市)〜浅間山の南におられる穏やかな阿弥陀如来さま〜

西念寺(長野県佐久市
ご本尊阿弥陀如来様 

※2022年7月の拝観記録です

西念寺ご本尊阿弥陀如来坐像(長野県宝)

 浅間山の南で、穏やかで気品あふれる阿弥陀如来様を拝した。佐久市岩村田西念寺のご本尊様は平安後期に遡る定朝様。像高130.3cm。桧の寄木造。肩の力を抜いてゆったりと座るお姿。お椀をひっくり返したのような、ぽっくりとした肉髻。ざくざくと刻む螺髪。切長の半眼。肩や腕の辺りの薄い衣文。そのすべてを前に、自分の身体の中の嫌な塊が溶けていくのを感じた。


平安後期らしい穏やかさ
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客仏の阿弥陀如来さまと

 新型コロナがあり、戦争があり、街では殺傷事件が起こる。得体の知れない不穏や不安がそこかしこに漂っていないだろうか。大好きな奈良で起きた事件の衝撃も私には大きかった。そんな2022年7月、平安時代のみほとけに拝顔できた。ただそのことに感謝する。

客仏 阿弥陀如来坐像


 内陣須弥壇に客仏としてまつられる阿弥陀如来さま。佐久市根々井のお寺様のご本尊だったと伺った。ご本尊としての風格が感じられる。

客仏 阿弥陀如来立像


 こちらは浅科の長念寺のご本尊だった阿弥陀如来さま。廃寺となり、西念寺でおまつりされることになった。

徳本上人名号塔


 境内に文化13年の徳本上人名号塔も残る。後方の銘文をはこんな感じだろうか。

維時文化十三年丙子年八月當山十六世西誉代

徳本上人
御開眼畢於當寺
三日御化益供養塔
施主
渡邊武左衛門原斎?建立

 文化13年、つまり、徳本上人が亡くなられる2年前に建立。徳本上人が西念寺に立ち寄った記録はないが、徳本上人から許可を得て建立されたようだと伺った。

【山梨】瑜伽寺(笛吹市)〜十二神将を拝観後悩み続けています〜

瑜伽寺(山梨県笛吹市

 無碍山瑜伽寺という美しい名前のお寺様で、古仏を拝観させていただいた。ありがたく心から感謝。そして、十二神将像について悩み始めてしまった。

塑像残欠(どろ仏様)(県指定文化財

 瑜伽寺は霊亀元年(715年)創建と伝わり、塑像の残欠が多く残る。塑像の作例が奈良時代に多いことを考えると、創建時の本尊(薬師如来?)だった可能性は十分にある。
 残欠のうち大きめのものは、東京国立博物館に寄託。しかし、私が瑜伽寺をお参りした日は、近くの山梨県立博物館「奈良大和路のみほとけ」展で特別展示されていた。小さな残欠は瑜伽寺の収蔵庫に保管されており、同じ日に大小の塑像残欠を拝観させていただ句ことができた。
 これら塑像の残欠は、今では「どろ仏(ぼとけ)」様と呼ばれているそうだ。欠けらになってもなお、そのような愛称で呼ばれることに胸が熱くなる。よく見ると、残欠の一部に金箔が残っている。欠けらになっても、1300年経っても、みほとけであり続けていることに感動する。

木造如来形坐像(県指定文化財

瑜伽寺木造如来形坐像(写真は『甲斐百八霊場』平成17年改訂版より)

 収蔵庫に安置される木彫仏。檜の一木造り。像高84.5cm。量感ある体躯は平安前期の特徴を示す。塑像の初代薬師如来を引き継ぐ、二代目の本尊だった可能性があると伺った。つまりは、薬師如来だった可能性があるのだが、なぜか、だいにっちゃん(大日如来)と呼ばれていた時期があるのだとか。
 指を曲げた独特な両手はいずれも後補。玉眼は近年の修理で取り除かれている。
 つまりは、いろいろなご経験をされているお像である。私がお像の言葉がわかるなら、これまでのあれこれを夜通し伺いたい。そんな風に思わされる、謎多き尊像である。

木造十二神将(県指定文化財

 薬師堂に安置。檜材。子神と辰神は寄木造りで、他の10躯は一木割矧ぎ造り。
 実は、この十二神将について、私はひどく悩んでいる。塩山にある放光寺仁王像との類似性から成朝の作かも、と言われてきたらしい。が、帰ってから調べてみると、最近は成朝説が否定されていたりするようなのだ。
 さらに、よく見ると、大倉薬師堂様に特徴的な巳神像タイプ(右腕を下ろして立つ)と戌神像タイプ(髪の毛が巻毛)もおられる。お寺ではそれぞれ別の尊像の名前がついており、私の悩みをさらに強める。そもそも成朝の作であれば、制作年代は北条義時が大倉薬師堂を建てる前だったことになり、制作年代がおかしいのでは。それとも、大倉薬師堂より前に、その様式は存在していたのか?
 詳しい方、教えてください!!

雨乞いの破損仏

 収蔵庫の中に木彫の破損仏が二体。自立できる感じではなく、壁にもたれかかって立っておられる。雨乞いの儀式でいじめられたお像である。
 この辺りでは、雨が降らないのは神仏がさぼっているからだと考え、お像を水につけたり、火で炙ったり、叩いたりして神仏にはっぱをかけ、しっかり働いてもらって雨を降らせてもらおうとしたのだという。強請祈願と呼ばれるこの風習、長野県佐久市上田市辺りでも聞いたことがある。神仏とのこういう距離感に私は惹かれる。

【拝観案内】

無碍山瑜伽寺
〒1406−0823 笛吹市八代町永井1543
公式サイト 臨済宗のご葬儀・法事なら山梨県笛吹市の「瑜伽寺」

【参考資料】

参考 『甲斐百八霊場 改訂版』平成17年、テレビ山梨、監修 清雲俊元(放光寺長老)
参考 「成朝―鎌倉時代仏師列伝 外伝―」山本勉 成朝―鎌倉時代仏師列伝 外伝― 山本 勉|吉川弘文館『本郷』Web編集部
参考 せきどよしおさん瑜伽寺の如来形坐像と十二神将像 - butsuzoutanbou ページ!

2024年感謝状 一年間の出会いに感謝申し上げます

2024年は仕事もプライベートも怒涛の一年だった。みほとけのお像にお会いする時間は例年にも増して貴重で、かけがいのないものとなった。どのお像との出会いも感動と感謝に満ちていた。2024年を振り返り、特に5つの感謝状をここに捧げたい。

【感謝状 〜ああ、福山の秘仏十一面観音さま!〜】

明王院広島県福知山市
33年に一度だけご開帳される十一面観音菩薩様にお会いした感動は言葉に尽くせない。11月初めの雨の日、たどり着いたお堂にのぼると、穏やかな照明のなか、美しい立ち姿が目に入ってきた。厳しくもあり、ひたすらかわいらしくもあり。これほど尊く気高い存在はそうありえない。五重塔弥勒菩薩像の歴史とそれを紐解いた研究成果も素晴らしい。ブログを書くのも楽しかった。
ここに心より感謝申し上げます
butsuzodiary.hateblo.jp

【感謝状 〜公民館の片隅にびっくりの薬師如来さま〜】

事前に写真を拝見せず、拝観に伺う…。そんなやんちゃなことをしてしまったら、なんと、公民館の片隅にその薬師如来さまは立っておられた…! これは鎌倉時代? しかも、元々おられたお堂も判明し、現地へ向かうことに! なんという偶然の巡り合わせだろう! 公民館の仏像は庶民に愛された証なのと思う(この話は長くなるので、また別の機会に)
ここに心より感謝申し上げます
butsuzodiary.hateblo.jp

【感謝状 〜悲しい私に奇跡の出会い〜】


父を亡くした悲しみで身体中の細胞が埋め尽くされていた頃、とある外出先の公園に私はいた。そして、ふと思い出した。その近くに、前からお会いしたいと思っていた阿弥陀如来さまがおられることを。思い切ってお電話してみると、夕方なら時間あるのでどうぞ、とのこと。電話したのは朝の9時半だった。いつもなら一日の予定はパンパンだが、その日は悲しくてそれどころではなく、午後の予定は入れていなかった。夕方までカフェで時間をつぶし、お寺様へ向かった。
阿弥陀如来さまは、極楽浄土におられるようだった。まさに當麻曼荼羅を彷彿とさせるその光景に息を呑んだ。父はきっと阿弥陀如来さまのおそばにいる。そう確認して帰宅した。
それから数日経ち、なんとそのお寺様からお手紙をいただいた。そこには、「大切な人を亡くし、つらい思いを抱えた方のために、できる限りお寺を開けてお参りいただけるようにしていますので、ぜひまたお参りください」とあった。驚いた。そして、泣いた。父のことは何も伝えていなかったからだ。
私は単に仏像が好きなだけの人間。しかし、そのおかげで、思いもかけない出会いと感動に巡り逢えることがある。
ここに心より感謝申し上げます

【感謝状 〜大切なのは目に見えない思いやりと敬意〜】


仏友さんに連れて行っていただいた丹波のお寺様が感動に満ちていた。お堂に入ってまず目に飛び込んでくるのが、平安時代、一木造りの虚空菩薩立像。像高165.8cmの古びた佇まいに惹きつけられた。奈良国立博物館の観音像が立ち並ぶ一室に紛れ込んでも、まったく違和感ない感じ。もう少し時代のくだる大日如来坐像の気高さにも感嘆。
しかし、何より感動したのが、友人とお寺様とのおしゃべりから垣間見える両者の関係である。友人はひたすらお寺様を尊敬し、さりげない心配りを見せる。お寺様は友人がお参りに来ることを喜んでくださる。友人もお寺様もどちらも尊敬せずにはいられない!!
お寺で仏像が見えにくいと文句をいう人が時々いるらしい。合掌すらせず、写真だけバシャバシャと撮って去っていく人を見たこともある。それは寂しく、貧しい行動だと私は思う。
仏像を“見る”だけで満足なのか。それとも、過去と現在と未来をつなぐ仏像に敬意を払えているのか。これまで仏像に護られ、仏像をお守りされてきた方々への敬意は。そんな大切なことを改めて教えていただいた。
ここに心から感謝申し上げます

【感謝状 〜国外流出した平安仏に手を合わせる〜】


大日如来坐像(米国ハワイ州ホノルル美術館)
ちょっとした用事がありハワイに行ってきた。まさか自分の人生でハワイと接点ができるとは思っていなかった。短い滞在であったが、なんとか時間をやりくりして、ホノルル美術館へ。日本の仏像が何体か展示されていた。
特に、この大日如来坐像は、平安時代でも古いものと思われ、激しく惹かれた。ガラスケースなしで、撮影可能。ホノルル美術館のアイコン的存在である中国の遊戯坐の観音像が展示室奥の中央にどーんとおられるのだが、この大日如来像はそのすぐ横にこじんまりとした感じで置かれている。しかし、日本の仏像が大好きな私には、その観音像が霞んで見えるほどの感動だった。
おそらく明治初め、廃仏毀釈の頃に国外へ流出したのだろう。今はこうして日本と世界とを結ぶ親善大使の役割を担われている。
ここに心から感謝申し上げます