ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【兵庫】薬仙寺の観音様ご開帳に伺ったら、薬師如来が平安! しかも、法然上人のご霊跡で、近くの元祖教会に石碑が!

1) 薬仙寺(兵庫県神戸市)

 浄土門時宗の薬仙寺で毎年8月8日と9日に十一面観音像がご開帳されると伺い、お参りした。四万六千日と呼ばれる観音様のお祭りである。
 神戸の薬仙寺は行基創建と伝わる古刹。行基が開き、平清盛が修築した大輪田泊(おおわだのとまり)に近い。ご本尊の薬師如来坐像は平安中期だろうか、古い感じで驚いた。そして、法然上人が讃岐配流の際に滞留されたご霊跡でもあった。

薬仙寺本堂の前に四万六千日の幟が立つ

薬師如来坐像

像高88.7cm 桧の一木造り 重文
薬師如来坐像がおられるとは聞いていた。しかし、内陣中央に坐すこのご本尊を仰ぎ見て、一瞬にしてぶったまげた。襟が立っているし、螺髪は一つ一つが尖ってる。薬仙寺リーフレットを読むと、「肉どりがたっぷりした重厚な作風で貞観彫刻の要素が多い」とあった。やはり、そうですよね。襟が立ってる如来像はやんちゃな番長さんという感じで、大好き。そして、肉髻と地髪の境目が曖昧な感じも気になった。

重厚感ある薬師如来さま
襟が立って、お耳が外にはねている!

十一面観音菩薩立像

像高86.3cm 桧の寄木造り 

 大和長谷寺の観音像を造るにあたり、試し彫りした像だとの伝承がある。長谷試十一面観世音と呼ばれる由縁である。伝承はさておき、弘安元年(1278)11月の銘がある、見事な鎌倉仏である。丸く若々しいご尊顔、全身のプロポーション、美しく流れるような衣文。もう全身の美しさが完璧すぎて、言葉が出ない。四万六千日のご開帳が毎年8月8日と9日に行われる。
 山本勉先生から教えていただいたのだが、寿福寺(神戸市北区)の薬師如来像(建治元年〔1275〕)・阿弥陀如来像(建治4年)と銘記の形式、像の作風・品質構造が酷似することから、同じ仏師の作と考えられているとのこと。(参考資料『日本彫刻史基礎資料集成』鎌倉時代造像銘記篇:薬師如来像は12巻、阿弥陀如来像・十一面観音菩薩像は13巻)。ご教授大変ありがたく、ここで共有する。自分もっと勉強しなければ。

 なお、薬仙寺は沿革は以下のとおり。謂れの多い古刹である。
天平18年(746)行基創建と伝わる古刹。法相宗から9世紀に天台宗へ転じる。
・建永2年(1207)、法然上人が讃岐に配流の際、滞留され、源平合戦の戦死者や近くの和田岬沖水難死者の供養をされた。その時の名号を刻んだ大きな石碑が今も近くの元祖教会に残る。
・元弘3年(1333)、後醍醐天皇隠岐より還幸の途中体調を崩し、薬師如来が出現した当寺の霊水を献納したところ、たちまち快復された。その井戸が本堂前に残る。
・延文元年(1356)、住僧の真如は、時衆国阿が当寺で念仏修行したとき弟子となり、名を直阿と改め、当寺を時宗に改宗して中興開基となる。
文久元年(1861)、イギリス初代公使オールコック一行が兵庫港視察時に薬仙寺に宿泊
・昭和20年3月17日未明の神戸大空襲で経蔵一棟のみ残して、焼失。戦後檀信徒の浄財により復興。
・平成7年1月17日の阪神・淡路大震災により、本堂半壊するほか、客殿庫裏、地蔵堂、経蔵が全壊。檀信徒7割も被災。平成12年に復興。
・1998年、戦災・震災のモニュメントが本堂横に設置される。



2) 元祖教会(兵庫県神戸市)

 兵庫県の海沿いには、法然上人が建永の法難で讃岐に配流された際に立ち寄ったと伝わる場所が多く、できる限りお参りしたいと思っている。薬仙寺とここ元祖教会もその一つ。
 法然上人が源平合戦犠牲者のために祈り、世の大平のために念仏百万遍を修された。その時に自ら書かれた六字名号を石碑にしたものが、元祖教会本尊として堂内にまつられる。石碑は普通、外にあるものだ。それを堂内にこうしてまつるからには、非常に大きな信仰心があったに違いない。
 ただ、訪れててみると、お堂がかなり傷んでいるようで驚いた。調べた限りでは、石碑自体は江戸時代の再建。この辺りは太平洋戦争末期の空襲で大きな被害があり、このお堂もその後に再建されたという。これからもお守りするためにどうしたらよいのだろう。

元祖教会を外から見る。ビニールシートで屋根が覆われている
元祖教会堂内に石碑がまつられる

 なお、『円光大師法然上人御霊跡 巡拝の栞』には、以下のように、記される。
> 建永三年法然上人七十五歳の建永三年二月十七日讃岐国へ御 下向の砌、経が島の和田岬の元千僧寺旧跡の当所に留錫せられ、 源平の戦乱を偲んで亡魂の菩提を弔い、かつは世の不安をとり 除いて泰平を祈らんがために、阿弥陀経を読誦、 念佛百万遍を修し、水陸無遮の御回向を修せられ、もって末永く供養の記 念にと自ら六字名号を書いて石に刻まれたのである。その後、ここに詣でる人、後を絶たずといわれた。
> 当所は天保十五年十一月中興の再建にて、御名号石を御本尊 として御安置し、今なお多くの庶民信仰を集め、日々灯明が絶 えない。
> しかるに、太平洋戦争により、本堂その他の建物はことごと焼失したが、その火の海の中にあっても、御名号石だけは少しも変わることなく立ち残ったのである。
> 昭和二十七年六月中旬、御堂が再建され、御堂前のお水鉢の水は、霊験あらたかな法水として、法然上人のお徳と、お念仏 教化に浴される人多く、老若男女共々に参詣者が今も絶えない。

【参考資料】

・薬仙寺 
薬仙寺 - 新纂浄土宗大辞典
・元祖教会 
元祖教会 - 新纂浄土宗大辞典