ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【群馬】徳川発祥の地、太田市世良田、長楽寺で大きな三世仏を拝む

長楽寺(群馬県太田市世良田)三仏堂の三世仏

 群馬県太田市世良田。東関最初禅窟であり、兼学の寺として栄えた長楽寺は、徳川氏発祥の地でもある。その広い境内に坐しておられる、大きな三世仏を訪ねた。

長楽寺三仏堂内陣に丈六の三世仏

 釈迦如来(過去)、阿弥陀如来(現在)、弥勒菩薩(未来)の三世仏。像高2m超の大きな丈六仏がゆったりと坐していらっしゃった。

 三仏堂内、向かって右から
釈迦如来(過去)像高2.20m
阿弥陀如来(現在)像高2.53m
弥勒菩薩(未来)像高2.24m
(県指定文化財

向かって一番右、釈迦如来坐像
中央、阿弥陀如来坐像。頭部が大きめで、おおらかな印象
一番左、弥勒菩薩坐像。釈迦如来像と似て、キリリとした正統派の印象

 数年前、群馬県立歴史博物館「大新田氏」展で、新田氏のふるさとである太田市に興味をもった。その文化財を調べる中で出会ったのが、こちらの世良田の丈六仏である。

 事前にお電話で拝観のお願いをして訪れると、住職様がお堂を開けて待っていてくださった。

 おそれおおく、ありがたい。

三仏はいずれも寄木造り玉眼の漆塗金泥仕上げの坐像で、昭和59年から60年の三仏堂修理の際、釈迦如来の胎内から寛文10年(1670)の銘札が見つかっている。

 現在の三仏堂は三代目のお堂で、慶安4年(1651)3代将軍徳川家光の命により再建された。住職様によると、その建立に合わせて、釈迦如来像と弥勒菩薩が造られたのではないかとのこと。

太田市のホームページより

 また、中尊の阿弥陀如来だけ漆の成分が違うことも調査でわかったそうで、阿弥陀様だけさらに200年ほど遡る可能性があるのだという。二代目の三仏堂から引き継いだお像ではないかとのことだった。

 近くでよく見ると、釈迦如来様と弥勒菩薩様はきりりとした正統派の印象なのに対し、阿弥陀如来様は頭部が大きめで、衣文の流れなども大らかなように感じた。

 阿弥陀如来様は元々大きな台座に坐しておられたと考えら、下から見上げた時のバランスを考えて頭部が大きめになっていたのだろう。つまり、二代目の三仏堂は三代目のそれよりも規模が大きかったと考えられる。

この角度から見ると確かに、阿弥陀様は天井ぎりぎりな感じで座っておられる!

 それにしても、熊谷の平戸の大仏といい、江戸時代の大きなお仏像は、拝観者を大きく包み込んでくれるようだ。あたたかな包容力に身を委ねて、じっくり見上げたい。

 三仏堂は基本的に非公開だが、時々ボランティアの方の案内により公開しているのだそう。次はそうした機会を利用して、もっとゆっくり世良田を散策したい!

Everything will be all right! という阿弥陀様のサイン♡

【拝観案内】

世良田山長楽寺天台宗
新田氏の祖新田義重の子、徳川(新田)義季が、臨済宗開祖栄西の高弟栄朝を開山として、承久3年(1221)に創建した「東関最初禅窟」。約6万坪の境内に塔頭寺院が並ぶ、三宗兼学の寺として栄え、室町時代初期には日本五山十刹の第7位となるも、新田氏の衰退とともに荒廃。天正18年(1590)関東の地を与えられた徳川家康は、祖先開基の寺である長楽寺の再興を天海大僧正に当たらせる。天海により臨済宗から天台宗に改宗。世良田東照宮が境内に建立され、明治初めまでその別当寺だった。広い境内と豊富な文化財からその歴史が偲ばれる。
三仏堂は普段は閉まっており、時々ボランティアの方の案内により公開。
公式HP  世良田山 長楽寺 | 天台宗準別格大寺

長楽寺三仏堂(県指定文化財

【参考資料】

太田市文化財課サイト
長楽寺の概要と関連する指定文化財一覧 - 太田市ホームページ(文化財課) ←長楽寺の豊富な文化財の数々はこちらから
長楽寺三仏堂三尊仏 - 太田市ホームページ(文化財課) ←三世仏に関する説明はこちらから。上記の銘文の表はこのサイトより引用
〇境内の看板