ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【京都】檀王法林寺で四天王立像を拝む

王法林寺(京都府京都市
参拝日=2020年9月初め

 2020年2月、大阪府和歌山県の県境、岬町にある興善寺をお参りした際、京都の檀王法林寺の楼門の四天王立像が明治まで興善寺におられたものだと教えていただいた。すぐにお参りしなければと思いつつ、コロナのため6か月余り経ってやっと拝観できた。
 檀王法林寺は京都の三条大橋のすぐそばに位置する。賑やかな一角にありながら、境内は静かで、保育園、児童館、子ども図書館もあり、和やかな空気が漂っていた。この地域では「だんのうさん」と親しまれているそうだ。


 楼門には、噂どおり、巨大な四天王が構えていた。これが興善寺の旧蔵の四天王だ。明治21年、檀王法林寺の楼門新築に伴い、檀王法林寺22世譲誉上人が購入したという。
 昭和53年の京都国立博物館の調査によると、四天王像の中で最も古式である広目天像は、興善寺の大日如来坐像(保安元年1120)銘のものと共通することから、平安時代後期の作と考えられている。興善寺の大きな胎蔵界大日如来を思い出す。他の四天王立像は鎌倉後期から南北朝多聞天の胎内の墨書には慈覚大師御作とあるが、定かではない。この時期に像高2mを超える巨像は珍しいそうだ。
 四天王像は平成8年から10年に修理が行われ、その際の願文は奉納者の干支別に四天王像の胎内に奉納された。

 興善寺を参拝したことを檀王法林寺のご住職にお話しすると、「よくお参りくださいました」とおっしゃってくださり、『第二十七世晋山記念 檀王法林寺縁起』という貴重な冊子をいただいた。檀王法林寺の歴史がわかりやすくまとめられており、勉強になる。

 心残りは、コロナのため、本堂の拝観ができなかったこと。定朝様の阿弥陀如来坐像(81.2cm 京都市指定文化財はいつか必ずお参りさせていただかねば。永久2年(1114)、白河法王の御願により建立された蓮華蔵院の旧仏と伝わる。蓮華蔵院は法勝寺の西に創建された同名寺院に比定される。その後、檀王法林寺の前身となる悟真寺を経て、檀王法林寺に伝わる。ヒノキに漆箔仕上げ。現在は本堂西側に安置。

 また、十一面観音立像(275cm 平安)もお参りしたい。この観音像は大和長谷寺の観音像と同木同作で仏師春日の作と伝わるそうだ。もとは大和竹林寺の本尊だったが、建仁寺内興雲院に供養されていたものを、明和8年(1771)に檀王法林寺12世良妙上人が譲り受け、安永5年(1776)に別堂を建てて安置した。現在の観音堂昭和12年(1937)の再建。

 末筆ではあるが、温かく受け入れてくださり、ご説明くださったお寺様に感謝申し上げたい。ありがとうございました。檀王法林寺は沖縄との関わりが深いそうで、時間が許せば、袋中上人のお話ももっと伺いたかった。またお参りさせていただく幸運に恵まれますように。

参考
〇檀王法林寺 檀王法林寺ホームページ 日本最古の招き猫伝説
〇興善寺ホームページ 鳳樹山興善寺
〇興善寺参拝記録 【大阪府】興善寺(岬町)に寄進して、仏像拝みにいきましょう! - ぶつぞうな日々 part III

【滋賀】善明寺(東近江市)〜阿弥陀様ご開扉は毎年2時間のみ〜

 滋賀の丈六阿弥陀如来坐像を巡礼するという活動を私一人で細々と続けている。今回は毎年1日のみ、しかも2時間しか開扉されない難関にチャレンジ。

善明寺(滋賀県東近江市横溝)
10月第3日曜11-13時頃ご開帳
阿弥陀如来坐像 277.2cm 平安(写真右側)
阿弥陀如来坐像 133.2cm 平安 胎内墨書により長承2年(1133)仏師河内講師僧快俊の作と判明。40名超の結縁交名も

善明寺の阿弥陀如来坐像。右が丈六坐像で、左はその半分の大きさ

 毎年10月第3日曜に彦根から住職が来られて法要がある。法要が終わった11時頃から2時間ほど一般向けに公開していただける。大きな収蔵庫に、丈六と半丈六の阿弥陀如来坐像が二尊並んでまつられる。

 間近で拝観できるので、必然的に丈六阿弥陀如来坐像は下から見上げることになる。阿弥陀様のお慈悲を体現したかのような気品のある大きさで、参拝者を優しく包み込んでくださる。もうただただ幸せである。
 同行された大沼芳幸先生いわく、「これだけの大きさの像を破綻なくまとめている。寄木造りにより仏像の大量生産が始まると、像の表現が形式化してくることがあるが、そうなる以前の作例ではないか」。つまり絶賛である。

 半丈六の阿弥陀如来坐像はまず、この垂れ目なところがたまらない。お参りする私もつい微笑んでしまう。このフレンドリーな阿弥陀様は彫刻史上重要な存在でもある。胎内墨書から造立年度や仏師名が判明し、また多くの結縁交名が見つかったことから、この地域の基準作されている。
 大沼先生に伺ったところ、現状の阿弥陀来迎印は後補で、元は別の如来像だったらしい。しかし、この優しさは阿弥陀様にふさわしいと私は思う。

 私は善明寺の二尊を「ダブルの阿弥陀さま!!」と興奮気味に呼んでいたが、仏友さんは「大小並んで、トトロみたい」と。確かに…! もはやトトロにしか見えなくなってしまった。
 メイちゃんになったつもりで、来年以降また大小のトトロ如来様をお参りできるよう願っている。


【拝観案内】
善明寺(臨済宗永源寺派
東近江市横溝町1659
10月第3日曜日11-13時頃にご開扉
www.higashiomi.net

阿弥陀様の写真は当日配布資料より

【東京】早稲田で谷崎潤一郎・志賀直哉・富岡重憲旧蔵の平安仏を拝む

 奈良の古仏が大好きなので、會津八一先生を尊敬しているのだが、早稲田大学にある會津八一記念博物館には行ったことがなかった。その八一博物館で今、千葉の下総龍角寺の白鳳仏薬師如来坐像が拝めると聞き、初めて行ってみたら、その横の菩薩立像が素晴らしくて驚いた。

 平安時代11世紀の作とされるこんなにも厳かな木彫仏が、あんなにもごちゃごちゃとした早稲田におられたとは。しかも、奈良に多い板光背ではないか。えーえー? ええっーーー?? 一瞬にして奈良にワープしたような感覚になってしまった…!

早稲田大学會津八一記念博物館にて

 露出展示され、間近で拝めるのもありがたい。厳かなご尊顔。穏やかな垂髪。わずかに右腰を上げ、左膝をかがめた姿勢がたまらない。控えめに彫り出した臂釧。左の太腿にかかるハート型の衣文も私にとってチャームポイント。そして、むき出した木目を眺めていると、驚きで興奮した心も穏やかになった。

板光背は当初のものなのか
威厳ある横顔
右腰を上げ、左膝を突き出す
大好きです♡

 いったいどこのお寺におられたのだろう。室生寺十一面観音や、法輪寺の十一面観音や弥勒菩薩霊山寺薬師三尊などを思い出しながら、家に帰り、改めて写真を見直した。菩薩像の横に掲示されていた展示解説によると、谷崎潤一郎が奈良で購入した仏像だった。やはり奈良のお寺におられたのだろうか。奈良の新薬師寺の近く、高畑の志賀直哉の家に戦前まで安置されていたそうだ。私が愛してやまない流転の仏像の一つだった。

1927 谷崎潤一郎が奈良の森田一善堂で購入

1934志賀直哉へ譲渡され、奈良・高畑の自宅に安置

戦後の混乱期に流出

1954 大倉亀(誰だ?)

1960 壺中居

1972 富岡重憲(日本重化学工業創始者)が購入

1979 富岡重憲の私邸を改装した大田区山王の財団法人富岡美術館へ

2004早稲田大学會津八一記念博物館へ

 そういうわけで、これから時々早稲田に行くことになりそうだ!

【拝観案内】
早稲田大学會津八一記念博物館www.waseda.jp

【大阪】千日会でご開帳の観音様を拝む~大阪編2 如願寺と四天王寺~


 大阪の千日会のご開帳めぐり、大林寺の次は大阪市の如願寺と四天王寺をご紹介したい。

如願寺(大阪府大阪市平野区

 坂東武者の私(笑)にとって、かなり不思議な地名、喜連瓜破(キレウリワリ)。その駅の近くに如願寺はあった。喜連(キレ)は『古事記伝』にも登場する古い地名だそうで、如願寺は元々は聖徳太子が喜連寺として創建したのが始まりだという。一時は大伽藍を構えるもの、次第に堂宇は縮小。弘仁年間に弘法大師空海が再興して如願寺と改め、脇侍不動明王毘沙門天を自作安置したと伝わる。
 そんな由緒正しい古刹を訪ねるとなんと、ロシア人の副住職、慈真さまが迎えてくださった。日本語が堪能で、昔の日本人のように気配りされる、お優しい方だった。お話を伺うと、副住職はウラジオストク出身で、現地の大学で日本文化を学んだあと、大阪の大学に留学。ウラジオストクに戻って、日本語通訳などの仕事をしていたとき、ツアーガイドとして訪れた如願寺住職の娘さんと出会い、恋に落ちてしまい、仁和寺で修業し、現在に至るのだそうだ。ウラジオストクでは空海について研究したのだそう。人生とはどこまでが偶然で、どこからが必然なのか、不思議なものだ。義父である住職はウクライナカラーのマスクをされ、副住職の質問に優しく応じておられた。副住職の奥様はご本尊十一面観音様を版画で描き、参拝者に蓮茶をふるまう。如願寺ファミリーの温かさが伝わってきて、一瞬にしてファンになってしまった。

 そんな如願寺の仏像をご紹介する。内陣に上げていただき、厨子の前まで進んで拝観させていただいた。

如願寺内陣

ご本尊 聖観音菩薩立像

 ケヤキの一木造り。平安前期の末頃の作とされ、総高205cm。大阪府指定有形文化財
 本堂内陣中央、お厨子の近くに進むと、膝下に緩やかな翻波式衣文が見えた。その上に控えめな渦文。下腹部に流れる衣文も美しい。解説によると、右手の指端と腕の関節から手掌までの部分が後補であるが、それ以外は当初のまま。脇侍は毘沙門と不動明王の立像。
 8月9日と10日の千日会の日のみ開扉される。開扉時間は朝9時から夜19時までと長い。私は夕方に伺ったが、もしまた次にお参りできるのなら、日が落ちた夜の時間帯に照明による光の荘厳のもとでお参りしたい。

ご本尊聖観音菩薩さま

地蔵菩薩立像

 寄木造りだが、体部の根幹はほぼ一木造り。平安時代後期12世紀後半。大阪市指定有形文化財
 丸顔で、なで肩。衣文は浅く上品で、全体的に穏やかな印象ながら、腹帯を締め、錫杖を持ってしっかりと立つ。

厨子の前で見上げる地蔵菩薩様は神秘的だった

四天王寺の千日会

 如願寺と合わせて、四天王寺も参拝。千日会の際、聖霊院にて、聖徳太子本地仏救世観音で秘仏の「試みの観音」像がご開帳。8月9日と10日、9-17時。ご開帳の観音様は小さめで、外陣から拝観のためかなり距離があり、坐像のシルエットが伺えるのみだった。なぜか千日会のときに鬼大師のお札が授与される。列に並んで、ありがたく拝受した。せっかくなので、金堂と講堂も参拝。昭和の空襲後の再建ながら、聖徳太子の息遣いが感じられる空間は居心地がよい。

【拝観案内】

〇霊峰山如願寺(真言宗御室派
住所 〒547-0027 大阪市平野区喜連6-1-38
電話 06-6709-2510
摂津国三十三ヶ所第32番札所
摂津国八十八箇所第37番札所

〇総本山四天王寺
住所 〒543-0051 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
電話 06-6771-0066

【大阪】千日会でご開帳の観音様を拝む~大阪編1 大林寺(松原市)~

千日詣のご開帳!

 四万六千日をご存知だろうか。その日に観音様をお参りすると、四万六日分お参りしたのと同じご利益があると言われており、特別なご法要や観音様の尊像のご開帳が行われる。東京都内だと主に7月9~10日に行われており、特に、護国寺の夜の法要とご本尊如意輪観音菩薩のご開帳は感動的だ。浅草寺でのほおずき市は毎年ニュースになる夏の風物詩だが、それが四万六千日のお祭りであることを知っている人はどれぐらいいるのだろう。
 四万六千日のお祭りは、東京以外では8月9~10日が多い。夏のせいなのか、夜にご開帳を行う例もみられ、特に、三重県鈴鹿市の林光寺のご開帳は8月9日夜11時から明け1時頃までの限定である。一部の説によると、9日から10日に変わる時間帯が観音様のお力が最も強いのだとか。

 関西では、千日会とか千日詣などと呼ぶことが多いようで、その日にお参りすることのご利益はその名の通り千日分。関東よりだいぶ控えであるのが、いずれにしても観音様の功徳が大きいという点に変わりない。
 そして、仏像ファンが見逃せないのは、関東でも関西でも、この日に一部のお寺で普段非公開の観音菩薩の尊像がご開帳となるという点だ! 
 というわけで、今年は関西に出かけてみた。少し調べてみたところ7月にご開帳を行っているところもあるようだが、やはりメインは8月9日と10日のようだった。大阪府滋賀県のお寺8か寺をお参りしたので、まずは大阪府からご紹介したい。

大林寺(大阪府松原市

 千日会8月9日の8-17時頃に十一面観音立像がご開帳。別日でも予約拝観に対応してくださるそうだが、せっかくなので千日会の日にお参りさせていただいた。

十一面観音菩薩立像

 ヒノキの一木造り。像高171.5cm。平安時代10世紀末から11世紀初めの作と考えられる。大阪府指定文化財

大林寺(大阪府松原市)の木造十一面観音菩薩立像。10世紀末から11世紀初めの奈良系仏師によるものと考えられる。等身大を越える見事なお像

 まずお堂に入ってお像を見上げた時の感動は言葉にできない。「わー、大阪にこんな立派な古像が!? わー、わー、どうしましょう!」となってしまった。
 落ち着いて、松原市教育委員会の解説を読むと、なおのこと感動する。短くまとめると以下の内容が書いてあった。
 本像は明治6年(1873)に廃寺となった永興寺(布忍寺)の本尊だった。平安初期の一木造り像のような豊かな量感がありながら、身体の抑揚は抑えられ、衣文の彫りは浅く規則的で総じて穏やか。大腿部に浅い翻波式衣文と両膝の間も渦巻状の衣文があり、平安初期の彫像の伝統を引き継ぐ一方、直立して動きの少ない落ち着いた造形や量感をあまり強調しない胸や腹、彫りの浅い衣文は、平安初期の彫刻が和様化し後期へ進む過程の中でとらえることができる。特に深い面奥に比して丸い面貌に浅く目鼻立ちを刻む点や、長身で量感をあまり強調しない体躯、古様の渦巻状の衣文を見せる特徴は、10世紀彫刻のなかでも「奈良系仏像」と称される一群と共通する(※以上は松原市教育委員会の解説より←PDFが開きます)。
 なお、お寺のパンフによると、永興寺は堀河天皇の御願により寛治3年(1089)に永興律師により建立。ご本尊十一面観音立像とともに大般若経等も大林寺に移されて、今も伝えられている。永興寺の創建をめぐっては法華経持者の不思議な伝説があるので、簡単に紹介したい。永興律師の弟子の一人が諸国行脚の途中、熊野の山中で亡くなった。その肉体は髑髏になっても、舌だけは朽ちることなく、法華経の読経を続けいてたという。弟子が律師の夢枕に立ち、こう言った。「出家の時、法華経1万部を誦せんと願を起こす。命限りあって望みをはたさず、よって死後も舌、朽ちず誦すること3年、ついに願望成就す、願わくば遺骨を拾って故郷にうつし、一宇の梵舎を建立し給え」と。永興律師が弟子の故郷である河内に金堂を建てて観音菩薩を安じ、堂下に弟子の遺骨を収めたのが永興寺だという。髑髏の舌が読経するこの話は『日本霊異記』や『今昔物語』に書かれるものだという。

阿弥陀如来不動明王

 なお、大林寺は今は融通念仏宗で、本尊は阿弥陀三尊の立像である。阿弥陀如来立像は南北朝時代のもの。来迎のお姿が美しい。本堂にまつられる不動明王坐像は室町時代

融通念仏宗大林寺のご本尊は南北朝阿弥陀如来立像
来迎の阿弥陀三尊
不動明王坐像は室町と伺った


 最後になるが、私は融通念仏宗に敬意の念を抱いている。融通念仏宗のお寺をお参りするたび、総本山大念仏寺で5月に開催される二十五菩薩のお練供養、万部おねりの話をしてしまう。今回も、万部おねりがなぜ好きなのかという話を早口でまくし立ててしまった。お寺様は優しく耳を傾けてくださった。ご回在などについて当方の質問に答えてくださった。ちょっとした裏話を教えていただき、二十五菩薩のクリアファイルもいただいてしまった。ファンとして認定された証だと勝手に解釈している。

【拝観案内】

布忍山大林寺
融通念仏宗第五番 大林寺 河内西国霊場会
住所 〒580-0025 大阪府松原市北新町1-10-5 地図https://goo.gl/maps/aBPGC95tc7tiBQsY7
電話 0723-31-0718

【参考資料】

1) 松原市文化財サイト:松原市指定有形文化財 大林寺 木造十一面観音立像/松原市
2) 四万六千日と千日詣の定義は地域や寺によって微妙に変わるようで、冒頭の私の説明はいくつかお寺を巡った経験からのざっくりした感覚にすぎない。一方、コトバンクには次のような説明があるが、日本全国を網羅した説明とはなっておらず、満足のいく説明だとは思えない。どこかに定義づける論文はないのだろうか!?
四万六千日(しまんろくせんにち)とは? 意味や使い方 - コトバンク
千日参り(せんにちまいり)とは? 意味や使い方 - コトバンク
3) 「お練供養? 万部おねり?」と思われた方はぜひ、こちらを流し読みください。
butsuzodiary.hateblo.jp



 

【展覧会】琉球展で琉球国王菩提寺の仏像を拝む

沖縄復帰50年記念
特別展「琉球
東京会場
2022年5月3日(火・祝)~6月26日(日)
東京国立博物館 平成館


 あまり話題になっていないようだが、東京国立博物館琉球」展にて、琉球の王、尚(しょう)家の菩提寺だった円覚寺の仏像が展示されている。鎌倉の臨済宗の古刹からその名をとり、首里城近くにあった円覚寺は、沖縄戦で破壊され、廃寺に。瓦礫の中から市民が拾い出した仏像とその残欠が沖縄県立博物館・美術館に収められている。そうした仏像や残欠の一部に加えて、近年再建された円覚寺総門の仁王像が今、東京の上野で展示中である。琉球と仏教との関わりを伝える貴重な資料ではなかろうか!? 

円覚寺の釈迦如来および文殊普賢菩薩坐像。写真は @vietnamcat さんが2019年九州国立博物館文化財よ、永遠に」展にて撮影。ご本人様より許可を得て転載。「琉球」展でも同様の配置で展示されていた。

釈迦如来及び文殊菩薩普賢菩薩坐像/獅子と象(沖縄県立博物館・美術館)

寛文10年(1670) 吉野右京 
木造 漆箔 玉眼(文殊
 旧円覚寺仏殿の本尊。沖縄戦の瓦礫の中から回収し、沖縄県立博物館で保管されてきた。寛文10年(1670)、京都仏師 吉野右京の作。釈迦如来普賢菩薩は頭部を丸ごと失っているが、文殊菩薩には精悍な御顔が残り、造立当初の精巧な彫技がしのばれる。
 破損する前の写真(鎌倉芳太郎 撮影)を見ると、釈迦如来の両脇侍の普賢菩薩文殊菩薩には蓮台があり、それぞれ象と獅子に乗っていた。この象と獅子も一緒に展示されているが、こちらも御顔を欠く。

羅漢立像(沖縄県立博物館・美術館)

木造 彩色 清時代
 像高50cmに満たない小さな羅漢立像が3躯お出まし。康熙35年(1690)、福州(福建省)から請来され、円覚寺山門の上屋に安置されていた。バラエティに富んだ表情やポーズが印象的。
 琉球王の菩提寺には、中国の仏像と上記の日本の京都仏師による仏像の両方がまつられていた。交易による琉球の豊かな文化を伝える貴重な資料であり、それが戦災を経て現存することの意義は大きい。

仁王像残欠(沖縄県立博物館・美術館)

当初材は室町時代15-16世紀、後補材は第二尚氏時代18-19世紀
 
 円覚寺に安置されていた仁王像は沖縄戦で破壊。阿吽像の13の破片が戦後まもなく市民によって収集され、沖縄県立博物館の開館当初からの所有となった。本展では、左腕部、体幹部正面左腕部、左足部と左脚部を展示。
 調査により当初材はカヤで、後補材はマキであることが判明した。カヤが琉球に自生しないことなどから、京都の院派仏師の作とみられる。
 琉球王国が滅んだ明治以降も、阿形像が「ニオーブトゥキ」、吽形像が「マカーブトゥキ」と呼ばれ、親しまれていた。ブトゥキは仏という意味だという。

模造復元 旧円覚寺仁王像(阿吽形)(沖縄県立博物館・美術館)

製作者 岡田靖[(一社)木文研]、菅浦誠
令和2年

 沖縄県による「琉球王国文化遺産集積・再興事業」により、上記の13の仁王像残欠への調査と長老への聞き取りをもとに復元された仁王像。
法住寺(石川県)の仁王像(享徳2年(1453)、京仏師の院勝・院超の作)、安土城下、摠見寺(滋賀県)の仁王像(1467年、仏師因幡院朝)など、同時代の京都の院派仏師による仁王像が参考にされた。

【参考資料】

1) TakaさんTwitter


2) 「旧円覚寺仁王像復元制作に関する研究」
園原 謙 長谷洋一 岡田 靖 上江洲安亨 大山幹成 門叶冬樹 園部凌也 山田千里 本多貴之 宮腰哲雄『沖縄県立博物館・美術館,博物館紀要』第11号別刷 2018年3月30日
→こちらからPDFで読める
https://okimu.jp/userfiles/files/011008.pdf

3) 「〈資料紹介〉仏像彫刻」『沖縄県立博物館紀要』第16号, 43-70, 1990
→こちらからPDFで読める
https://okimu.jp/userfiles/files/page/museum/issue/bulletin/kiyou16/16-4.pdf
1990年の文献なので、釈迦三尊は修理前の写真が掲載されている。

【滋賀県】【東京】常楽寺聖観音菩薩立像@東京長浜観音堂

東京長浜観音堂にて
常楽寺聖観音菩薩立像 2022/6/12まで

長浜市指定文化財
木造 古色 彫眼 像高101.8cm
平安後期、12世紀

 滋賀県長浜市湖北町山本山の中腹に建つ常楽寺より、聖観音立像が東京長浜観音堂にお出ましである。常楽寺の本尊は薬師如来。この観音像は普段は本尊さまの後ろの須弥壇の上、厨子内に安置されている。美しい12世紀の観音像を都内で拝める貴重な機会だ。

[解説書より]
 左手で蓮華を取り、右手でその茎を支える。腰を軽く左に曲げる。髻頂にかすかに金箔痕。右顎に下地痕。
 衣は衣文線を刻まず、平滑で簡素に仕上げる。肩は丸く、身体の奥行きは薄い。
 檜と思われる針葉樹による一木造り。木芯は像後方にわずかに外す。内刳りなし。

[感想]
 明るい照明のもと、お像の全体を良く拝見できる。ガラスケースの反射はなし。静かにゆっくり観音さまを見上げられる環境に感謝。
 そして、「木芯は像後方にわずかに外す」という解説にドキドキしてしまう。そのことに何か意味があるのだろうか。
 また、今回、この小さな都心の観音堂で、仏像好きの友人二人と遭遇。ありがたいし、楽しい! 仏像と東京人だけでなく、人と人とを結ぶ場所にもなっていることを、長浜市さんはご存知か。
 常楽寺は年4回の法要時のみ公開。観音祭りの際にも公開されていないらしい。お寺のパンフによると、南北朝時代のクールな毘沙門天立像もおられるようだ。いつかお寺をお参りできるだろうか。

【読書録】 『院政期の仏像ー定朝から運慶へー』(京都国立博物館 平成3年)に学ぶ

院政期の仏像ー定朝から運慶へー』京都国立博物館特別展図録(平成3年)を読む!

表紙は安楽寿院の阿弥陀如来坐像

 先日拝観させていただいた西念寺木津川市)の薬師如来坐像(拝観ログはこちら)が掲載されていると知り、古書をネット購入した。平安時代院政期の珠玉の仏像を時代に沿って紹介する展覧会の図録である。
 ページをパラパラめくった瞬間、名作揃いの仏像のラインアップに仰天した。そして、院派円派、奈良仏師の流れが学べるマニアックさに感動する。
 例えば、冒頭に登場するのが、平等院の雲中供養菩薩。そう聞くと、「ふーん、なーんだ、知ってますよ、平安後期の傑作でしょ! 常識だし、大好きー」と思うのが一般的な反応ではなかろうか。
 ところが、そんなざっくりな解説は本書には存在しない! 雲中供養菩薩のうち、南1号には定朝の作風を受け継ぐ弟子覚助(定朝の実子とみられる)の作風が見られ、繊細で安定感のある北25号には長勢(覚助の兄弟弟子)の作風が見出せる、というオタク紛いの解説が、あっけらかんと書いてある。「平安後期」という括りで納得してわかった気になっていた我が身を深く反省したのだった。
 康慶、運慶、快慶あたりの系譜は知ったつもりでいたが、定朝以降の院政期の系譜と細かな作風の違いについて私は勉強不足であった。大いに反省すると同時に、静かな知的興奮を覚えながら拝読した。平成3年の図録であるので、それ以降の研究成果が反映されていない点に注意は必要だが、それでも、とても勉強になる一冊である。そして、掲載される仏像の写真はどれも美しい。
 素晴らしい仏像ばかりなのだが、特に、福井県小浜市の羽賀寺の千手観音菩薩立像と毘沙門天立像および明通寺の不動明王立像に言及したい。もともと小浜の天満神社(雲月京)の神宮寺であった松林寺に三尊としてまつられていたが、神仏分離のため明治初年に現在のお寺に遷されたのだそう。こういう流転の仏像が好きでたまらない。先日お参りしたばかりで感動もひとしお。

図録の冒頭に掲載される雲中供養菩薩
小浜の松林寺にまつられていた三尊(現在羽賀寺と明通寺が所蔵)

【本書の主な内容】

 以下、本書の主な内容を紹介する。下記の引用部分は各章の頭に掲載されていた文章である。そして、文中に♡がついているのは私が特に拝観希望の尊像である(お会いできる日を夢みている!)

目次

シンプルな目次がパワフル

仏師系図(p13)

P13掲載の仏師系図

天皇上皇と仏師の活躍時期(※p13-14より転載)

後三条天皇(在位1068-1072)
ー覚助(1067-1077) (※法橋叙位ー没)
ー長勢(1065-1091)
白河上皇院政1086-1129)
ー院助(1077-1108)
ー頼助(1103-1119)
ー円勢(1083-1134)
鳥羽上皇院政1129-1156)
ー院覚(1130-?)
ー康助(1116-?)
ー長円(1105-1150)
ー賢円(1114-?)
後鳥羽上皇院政1158-1192 一時中断あり)
ー院尊(1154-1198)
ー康朝(1154-?)
ー康慶(1177-?)
ー明円(?-1200)

I 定朝の後継仏師ー覚助・長勢ー

 仏像の和様を大成したとされる定朝が天喜5年(1057)没すると、その子息と推定される覚助と、覚助の兄弟弟子の長勢が後継者となる。二人は法成寺の復興、円宗寺や法勝寺の造仏などで協力するが、その作風は早くから異なっていたと考えられる。

 上記の雲中供養菩薩像のほか、現在東京国立博物館の常設によくお出ましになる雲中菩薩像と国分寺兵庫県)の雲中供養菩薩像が掲載される。さらに、広隆寺京都市)の秘仏本尊薬師如来像の脇侍である日光菩薩立像と十二神将の迷企羅、安底羅、因達羅を長勢の作として紹介。いずれも顔が小ぶりで、体部が細身である点に長勢の作風をみると説明。浄瑠璃寺の四天王像も全員お出ましであった(※ちなみに、今は一部が博物館寄託なので、四天王全員がお揃いのところを私は拝見したことがない)。
 明治初めまで祇園社(現在の八坂神社)の本地仏として境内観慶寺の本尊としてまつられていた、大蓮寺(京都)の薬師如来立像(♡ 大蓮寺HPによると秘仏)は、定朝作の平等院阿弥陀如来に似た面貌など、定朝様を正統に受け継ぐことから、覚助の作と推定。西念寺京都府京田辺)の十一面観音立像(♡)は、もともと近くの白山神社本地仏で、こちらも定朝様を忠実に受け継いだ覚助の作風(※長らく京都国立博物館預かりとなっていたが、2015年以降、法雲寺にまつられている。詳しくは友人カルマさんのひたすら仏像拝観をぜひ)。さらに、大将軍八神社の神像2躯もこの章で紹介。

II 円勢主導の時代ー院助・円勢・頼助ー

長勢の弟子円勢は法勝寺や尊勝寺の造仏に活躍し、定朝のスタイルからは少し離れた軟らかみのある作風を確立したが、覚助の子息院助は年少で、かつ早世したこともあり、その作風はよく判らない。院助の弟の頼助は奈良に下り、興福寺の造仏に従事し、奈良仏師の祖となる。

 宇治白川金色院に伝来した地蔵院(京都)の阿弥陀如来立像(♡)と観音菩薩跪坐像、即成院(京都)供養菩薩坐像(観音、左2、左12)、像高30.3cmの石部神社(滋賀)薬師如来坐像仁和寺の円勢・長円作の国宝薬師如来坐像に似る)、高田寺(京都)薬師如来坐像(♡)。さらに、東北から平泉中尊寺金堂(岩手)の観音菩薩立像と地蔵菩薩立像、瑠璃光院(岩手)大日如来坐像も。

III 院・円二派と奈良仏師の鼎立ー院覚・長円・賢円・康助ー

長円・賢円の兄弟は、鳥羽や白河における夥しい造仏をこなし、その軟らかな作風が迎えられて円派の全盛時代を築く。院覚ははじめ院関係の仕事がなかったが、のち待賢門院などの造仏に活躍し、定朝に忠実な作風を旨とした。一方康助は奈良から再び京都への進出を図っている。

 醍醐寺(京都)の上醍醐薬師堂にまつられていた吉祥天立像は大治5年(1130)の作で、あまり動きがなく、面長な顔で目や口を中央に寄せた相好は定朝仏とはかなり異なり、宋風にもとづくものか、と説明。同じく醍醐寺炎魔天騎牛像(※本書では閻魔天ではなく炎魔天と表記)は待賢門院の出産時の本尊とされる。宇治白川金色院の鎮守白山神社(京都)の本地仏である十一面観音立像(♡)。長岳寺(奈良)観音菩薩半跏像(玉眼使用の最古例で、康助の作という説もある)、峰定寺(京都)の千手観音坐像(♡ 円派か)と不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像など。旧中川寺成身院にまつられた西念寺(京都)の薬師如来坐像(本稿冒頭で言及)も。法隆寺(奈良)阿弥陀如来坐像(♡)は胸前で両手の一・二指を捻ずる説法印。以前よりお会いしたくてたまらない安楽寿院(京都)の阿弥陀如来坐像(♡)は「面長となる顔や数多く配された衣文などに、定朝仏の直模ではない独自性が見られ、この時期の円派仏師の作風を窺うまたとない遺品」と紹介。

VI 院派の勢力挽回ー院尊・明円ー

平重衡の兵火により焼失した奈良の東大寺興福寺の復興と、後白河院の御所法住寺殿周辺の造寺造仏に焦点が移った。院尊はこの時期の造仏界の第一人者となり、京都では明円がこれに続いた。奈良仏師の動きはともかく、京都にあっては院派・円派はそれぞれの伝統的作風を遵守した。

 旧中川寺(奈良)の十輪院持仏堂の旧仏で、川端龍子が所蔵していた毘沙門天立像三十三間堂から千手観音菩薩立像の39号と160号。先に言及した羽賀寺の千手観音(長寛3年1165)・毘沙門天(治承2年1178)、明通寺の不動明王像(12世紀後半)も本章に掲載。七寺(愛知)勢至菩薩坐像。大覚寺(京都)五大明王像(明円 作)は、円派仏師の伝統である丸みのある優美なつくりで、同時期の運慶の大日如来坐像(円成寺)と好対照。長講堂(京都)勢至菩薩半跏像、慈恩寺(山形)の両腕を欠いた来迎の菩薩跪坐像など。さらに、専定寺(京都)阿弥陀如来坐像(♡ もともと蓮華王院阿弥陀堂本尊で、後白河上皇念持仏。像内内刳り面に漆箔)、法道寺(大阪)阿弥陀如来坐像(♡ 八角裳懸座。衣を台座の周囲に沿って垂らす裳懸座の形式は院政期の仏画によく見られ、仏像でも少なくなかったはずだが、現存遺例はわずか)、檀王法林寺(京都)阿弥陀如来坐像(♡ 丸顔で穏やかな相好と小さな手足に円勢の作風が感じられるが、硬い衣文から時代は下り12世紀の円派仏師の作か)とヒヨドリ垂涎の如来像が続く。

V 奈良仏師の活躍ー康慶・運慶ー

頼助以来奈良に本拠を移した奈良仏師の作風は、院派・円派のそれから大幅に異なるものではなかったが、康慶の代に至り、奈良時代平安時代前期の古典を学ぶことで、飛躍的に清新な作風を確立した。運慶もそれに倣い、かつ東大寺興福寺の復興や鎌倉御家人の造仏などに携わることで、稀に見るダイナミックな作風を打ち立てた。

 運慶の円成寺(奈良)大日如来坐像、康慶の瑞林寺(静岡)地蔵菩薩坐像、快慶の八葉蓮華寺(大阪)の阿弥陀如来立像、運慶の六波羅蜜寺(京都)地蔵菩薩坐像、クリーブランド美術館の菩薩半跏像、横蔵寺(岐阜)大日如来坐像(筑前講師作)、慈眼寺(兵庫)釈迦如来坐像、清水寺(京都)観音・勢至菩薩立像など。

(追記 本稿に関連する過去の記事)

1) 山本勉先生の清泉女子大での講義「院派仏師~近世まで生きのびたもうひとつの老舗ブランド~」(2019年)の受講記録
定朝から江戸時代の院達まで、院派の歴史をたどる講義。コミュニティ講座とは思えない充実の内容。壮大なる2時間の講義録です!
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2) 木津川の西念寺薬師如来坐像と同じく旧中川寺伝来の毘沙門天立像について
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3) 八角裳懸座について(大阪府堺・法道寺の阿弥陀如来坐像への言及あり。いまだに拝顔ならずなのであります)
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【展覧会】【福井県】あるお寺のほとけさま(県立若狭歴史博物館)

福井県立若狭歴史博物館
「あるお寺のほとけさま
秘仏観音像と伝来の古仏ー」
2022/4/24-5/29

小浜市某寺の秘仏観音さまのうるわしきお姿(展覧会ポスター)

 由緒ある古刹に古仏が住まわれる福井県小浜市。小さなお寺やお堂も点在し、そこにも古仏が潜んでおられるのだという。

 そんな小さなお寺の一つから、平安仏を中心とする諸像をまとめて紹介する展覧会が若狭歴博で開催されている。

 セキュリティへの配慮からであろうか、お寺の名前はあくまで明かされない。代わりに、「あるお寺のほとけさま」という可愛らしい題名がつけられた。そして、それに食いついてしまったのが、こちらの仏像大好きおねえさんである。小浜市某寺からお出ましの仏像全13躯を堪能した。もはや、総出開帳である。

 ポスターに大きく掲載される美しい尊像は、本堂の宮殿型厨子にまつられる平安の秘仏本尊だ。展示解説によると、柔和な表情の檀像で、幼児のように頭部と足が大きい一方、いかり肩で肘が長く、均整を無視した古様の姿。裳の衣文は単調なのに対し、条帛と天衣の衣文は密に彫られ、変化をつけている。平安初期の作とみられるのだそうだ。見れば見るほど惹かれる、不思議なお像だった。

 秘仏の両脇侍は江戸時代の毘沙門天立像と不動明王立像。お寺では、秘仏本尊とともに、同じ宮殿型厨子内に安置される。厨子と同時に造立されたものとみられる。某寺の現在の宗派について説明はなかったが、この三尊形式が天台系である点には留意しておきたい。

 さらに、展示の大半を占めるのは、大小十数躯の朽ちた平安仏である。これらは本堂奥の壇上にまつられる客仏なのだという。

 それにしても、寺名を伏せて、博物館ですべての仏像の出開帳を行ってしまうとは! それを実現させた関係各位の突破力に脱帽である!!


※ 展示室の写真は若狭歴博公式FBをご覧ください→https://www.facebook.com/100063749281820/posts/379163417551965/?d=n

※ 図録なし。展示リストを貼っておく。

出展リスト

【京都府】西念寺(木津川市鹿背山)〜中川寺の薬師如来坐像を拝む〜

鹿山 医王院 西念寺京都府木津川市鹿背山)


 木津川市の特別公開で、中川廃寺(奈良市中ノ川)の平安後期の薬師如来坐像を拝観。優美なお姿に心が癒される。鹿背山の静かなお寺の佇まいと、住職様の穏やかなお話に、さらに癒される。特別公開中(2022/5/3-5)とはいえ、他に拝観者はおらず、おかげで静かにのんびりお参りできた。とてもありがたく、感謝申し上げる。そして、中川寺についてもっと学びたくなった。

薬師如来坐像

中川寺成身院におられたとされる薬師如来坐像

 西念寺薬師堂の大きなお厨子にまつられる。穏やかな平安後期の作で、京都府指定文化財。像高50.7cm。桧の割り矧ぎ造り。
江戸期の『東大寺雑集録』に、「薬師は木津鹿背山にこれ在る由、薬師の仏足裏に中川山と書付けるの由、村老申し伝えて云う」とあることから、文明10年(1478)に焼失した中川寺の成身院(じょうしんいん)の本尊だったと考えられる。

日光菩薩月光菩薩立像

西念寺薬師堂内

 薬師如来の脇侍としておなじ厨子に安置。像高は日光菩薩が46.3cm、月光菩薩が45.6cm。月光菩薩の台座底面に永正11年(1514)とある。室町ながら、気品のある立ち姿が好印象。

本堂のご本尊阿弥陀如来坐像

西念寺ご本尊阿弥陀如来坐像

 台座に延宝5年(1677)と墨書があり、その当時の作だという。外陣から拝観した限りでは平安仏かと見紛う美しさだった!

裏堂の阿弥陀如来

裏堂の阿弥陀如来

 本堂の向かって右奥に、法然上人、善導上人とともに阿弥陀如来坐像がまつられている。面相部のみが平安後期のもので、体部は江戸時代のもの。本尊よりさらに遠目からの拝観であったが、頭部だけ色が黒っぽく、明らかに作風が異なるように思った。資料には面相部のみ平安と書いてあるが、肉髻の豊かな盛り上がりも平安後期風では? 法然上人と善導上人は江戸時代の作。

「鹿山寺略縁起」版木 享保5年(1720)

 鹿3頭を射止めた猟師に出会った行基さんが殺傷はいかんと説くも、聞いてもらえない。すると、行基さんはなんとその鹿をことごとく食べてしまう。そして、近くの川で口をすすぐと、生きた鹿3頭を口から吐き出した…というストーリーの版木が本堂で展示されていた。大智寺にこの縁起の絵巻があるそうで、そのコピーも一緒に展示。わかりやすい物語に行基さんの偉大さが凝縮されている! 

追記 川端龍子旧蔵の毘沙門天立像も中川寺におられた

 なお、中川寺の遺物として、川端龍子旧蔵の毘沙門天立像もある。中川寺の十輪院に伝来した。平安時代・応保2年(1162)頃の作。像高102.5。木造に彩色・截金。玉眼。現在は東京国立博物館の所蔵のため、割と頻繁にお目にかかっている。詳しくは、以下のサイトをご参照ください。
bunka.nii.ac.jp

【拝観案内】

鹿山医王院西念寺西山浄土宗
〒619-0211 京都府木津川市鹿背山鹿曲田65
0774-72-0175
薬師如来坐像については春か秋に時々公開があるようだ。木津川市の情報をチェックするのがよろしいかと…

【滋賀】繖山 桑実寺ご開帳と桑実寺縁起絵巻

繖山 桑実寺(きぬがさやま くわのみでら)(滋賀県近江八幡市安土町
ご本尊薬師如来ご開帳
2022/4/8-5/10春季 11/1-11/30秋季

桑実寺秘仏本尊薬師如来坐像
桑実寺本堂は重文

桑実寺薬師如来様ご開帳

 12年に一度のご開帳の薬師如来様にお会いするため、沢沿いの急な石の階段をのぼる。山門までまあそこそこの石段があり、そのあとさらに果てしなく石段が続く。息を切らし石段をのぼりきると、重文の本堂が姿を現す。
 堂内に入ると、須弥壇中央のお厨子が開いており、秘仏薬師如来坐像が鎮座されていた。お前立の薬師如来坐像もおられ、その両脇に小さな十二神将が左右一列にお並びだった。桑実寺縁起絵巻のレプリカも展示。
 広い堂内に座り、外の朗らかな空気を感じながら、内陣を見上げる。お香がゆらゆらと上るその向こうに秘仏薬師如来様は座っておられた。他に参拝者はほとんどいない。静かな時間が過ぎていった。
 秘仏薬師如来坐像文化財未指定のようで、制作年代は調べたがわからなかった。肉髻部分に螺髪がないように見えるのが気になった。もともとこういう特殊な形なのか、それとも、いつしか螺髪が抜けてしまったのか…?

桑実寺縁起絵巻

 ご開帳の後はよろよろと石段を下り、安土城考古博物館へ。「桑実寺縁起絵巻」原画(土佐光茂 室町時代 重文)が展示中だった。
 天智天皇の皇女が疫病にかかり、琵琶湖に光が放たれる夢をみる。天智天皇がお堂を建て法会を修すると、薬師如来が出現する、というストーリーである。二巻からなる桑実寺縁起の概略は次のとおり。

 桑の木の実の一つが桑実山(繖山)になった。さらに時は流れ、大津に都のあった天智天皇の時代、都に疫病が流行し、皇女の阿閇皇女(あべのひみこ)も病に倒れてしまう。皇女は琵琶湖が瑠璃色に光る夢をみる。それを聞いた天智天皇は、琵琶湖の底の竜宮城にいる生身の薬師如来が疫病を調伏する瑞夢だとして、法要を修する。すると、本当に薬師如来が湖上に影向し、その光で皇女や人々の病を治してしまう。薬師如来帝釈天の化身である白水牛に乗って湖上をわたり、岸辺で梵天の化身である岩駒に乗り換え、桑実山に飛び移った。次の天武天皇がお堂を建てて薬師如来を安置した。

 「桑実寺縁起絵巻」は六角定頼を頼って桑実寺に身を寄せた足利義晴が天文元年(1532)、発願・制作した。絵は土佐光茂(とさみつもち)、詞書は後奈良天皇、青蓮院宮尊鎮法親王(しょうれんいんのみやそんちんほっしんのう)、三条西実隆(さんじょうにしさねたか)。

桑実寺縁起絵巻より白馬に乗られた薬師如来

 会期中3回展示替えがあり、私が訪れた第1期には、下巻第一段の薬師如来が琵琶湖を渡る壮大なシーンが展示されていた。薬師如来は湖上では水牛(帝釈天の化身)に乗り、湖岸に着いてからは岩駒(梵天の化身)に乗って繖山へ移動する。この薬師如来のスピーディーな移動シーンもさることながら、繖山の麓の田園風景が美しかった。博物館を出ると、絵巻に描かれたのと同じ場所で田植えの準備が行われていた。変わらないことの強さを感じる。
 最後に、ディズニープリンセス好きとしてあえて追記したいのは、薬師如来様が乗られる岩駒、つまり、お馬さんが白馬にしか見えないこと。白馬の王子様がまさかの薬師如来様だったとは。

※桑実寺縁起絵巻の公開は以下の特別展にて
安土城考古博物館
「戦国時代の近江・京都―六角氏だってすごかった!!―」
2022年4月23日~6月5日

※参考資料
滋賀文化財教室シリーズ〔227〕「桑実寺縁起絵巻」滋賀県立近代美術館 主任学芸員 國賀由美子(こちらからPDFで読めます→
http://www.shiga-bunkazai.jp/download/kyoshitsu/k227.pdf

※桑実寺縁起絵巻の上記の写真は以下のサイトよりお借りしました
土佐派と住吉派 - 福高寿禄会

【仏像エッセー】『鎌倉殿と13人』と仏像シリーズvol3.

岡崎義実阿弥陀三尊?】

 突然だが、『横浜の仏像』展の図録を愛読されている方は多いと思う。私は特に、山本勉先生のコラム「證菩提寺の仏像物語」(p66-68)が好きで、時々読み返す。この3ページの中で特に好きなのが、證菩提寺の収蔵庫の阿弥陀三尊に関する部分。
 あの平安末期の美しい阿弥陀様は、もともと岡崎義実源頼朝の父、義朝の菩提を弔うため、鎌倉亀谷の義朝の旧宅に御堂を建てて祀ったものではないか、というくだりである。安元元年(1175)頃の作とされ、優美な中にも新時代の息吹が伺える見事な尊像だという。

 そんなおり、2/27放送の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を観ていたら、岡崎義実がその御堂の話をするシーンが出てきたので、一気に胸が高鳴った。正確には、こんなセリフだった。「わしは義朝様のお館があった亀谷に御堂を建てて、ずっと義朝様の御霊を祀ってきた」

 これを聞いた瞬間、證菩提寺阿弥陀三尊が思い出されて、頭から離れなくなってしまった。大河ドラマでは毎回最後に、ドラマにゆかりの場所が紹介されるコーナーがある。ひょっとしたら證菩提寺阿弥陀様が紹介されるかも…と、期待して待っていたのだが、結果は…。亀谷の地に現在建つ寿福寺が紹介されただけで終わってしまった…。證菩提寺の「しょ」の字も、阿弥陀様の「あ」の字も、(ましてやキリークさえも)出てこなかった!

 證菩提寺阿弥陀三尊はまだ一般的ではないということなのだろうか。みんなで『横浜の仏像』展図録を愛読しよう!
(2022年3月4日)

阿弥陀如来坐像の写真は『横浜の仏像』展図録より

【展覧会】【奈良】大安寺のすべてが最高!!

「大安寺のすべて」展
奈良国立博物館
前期 2022.4.23-5.22 後期 2022.5.24-6/19

大安寺のすべて展 右から楊柳観音聖観音不空羂索観音

大安寺はTemple of Great Peace!

 大安寺(奈良市)は奈良時代の木彫仏の宝庫で、行くたびに長居をしてしまう。その仏像群を360拝観できてしまう「大安寺のすべて」展が奈良国立博物館で開催中。

 大安寺で一番有名な仏像は憤怒相の楊柳観音立像だろう。このお像はアメリカの同時多発テロの翌年、2003年、イラク戦争開始直後にニューヨークのジャパンソサエティで展示されたことがある。当時の住職は戦争反対のお立場から出陳を躊躇したが、最終的に以下の文章を添えて楊柳観音様を送り出したのだそうだ。

 「この仏像の憤怒の表情は、大義がいかなるものであれ、愚かしい戦争を怒るものである。その悲劇を憤り、嘆くものである。仏の怒りと悲しみをあえてお伝えするべく、開陳を認めた。大安寺住職 河野良文」(西山厚『仏教発見!』より)

 19年経った今、ウクライナのニュースが毎日伝えられる中で、大安寺展が開催される。複雑な思いを抱きつつ、会場に向かった。展覧会タイトルにふと目をやると、大安寺の英語訳が Temple of Great Peace となっていた。なるほど、大安寺はその名の通り、平和を祈る寺なのだ。

第一会場 大安寺の木彫仏が勢ぞろい!

 大安寺の収蔵庫の木彫仏がすべてお出まし。楊柳観音立像、不空羂索観音聖観音立像、四天王立像の7躯(すべて重文)である。いずれも奈良時代の特徴を有しながらも、それぞれ個性的で、いくら見つめても飽きることがない。木の力強さと、そこに緻密に彫り出された装飾の華麗さ。楊柳観音は今日も怒っておられたし、不空羂索観音は今日もにこやかに笑っておられ、聖観音は何かを話しかけてきそうだった(つまり、大好き)。
 特に私のごひいきは不空羂索観音立像。展示解説によると、8本の腕は後補で、額に三番目の眼がなく、鹿皮(ろくひ)を身に着けないことから、必ずしも不空羂索観音とは限らない。木彫像ではあるが、穏やかな表情や柔らかな衣の襞の表現は乾漆像に通ずるという。天平の乾漆像が好きなので、こういう解説を読むと興奮してしまう。
 聖観音菩薩立像は威厳のあるご尊顔に、肩の張った体つき、装飾性に富んだ胸飾りの意匠が特徴。唐招提寺の木彫群と共通するものだという。
 大安寺収蔵庫の四天王像は作風の違いから造立当初の組み合わせのものとは考えられないという。しかし、それがなんだ、四人おそろいでかっこいいし、絶対に四人仲良しだと私は信じている。特に、かっこいいのは多聞天

 大安寺には奈良時代の木彫仏がこれ以外にも2躯おられる。本堂のご本尊十一面観音立像と嗎堂の馬頭観音立像である(いずれも重文)。それぞれ毎年11月と3月にのみ公開される秘仏である。
 本展では、十一面観音立像が前期展示となっており、お寺とは異なり、明るい照明のもと360度から拝観できた。胸から下の体部の見事な彫刻表現を間近で拝見すると、胸の装飾など、収蔵庫の諸像と共通する特徴があることがわかった。頭部が後補のため、お寺で拝観した時は違和感があったが、大安寺展でよく拝観すると、収蔵庫の諸像と同じ頃に遡る古像であることが実感できた。そして、今回気づいたのだが、台座も見事であった。
 後期には、本堂の十一面観音と交代で、嘶堂の馬頭観音がお出まし予定。そして、普段3月のみ公開のこの馬頭観音は現在、特別にお寺で公開中とのことである。後期に行けそうにない人は早めに大安寺で拝観するのがよいだろう!

大安寺ご本尊十一面観音立像
大安寺嗎堂 馬頭観音立像

第二会場 行教律師像と最後の四天王像二組に大興奮!

行教律師坐像(神応寺/重文)

行教律師坐像(京都府八幡市・神應寺)

 私のお勧めは、石清水八幡宮を勧請した大安寺の僧、行教律師坐像。八幡神像だったという説もある、迫力のお姿である。
 普段は、京都府八幡市、男山の麓の神應寺に安置されている。石清水八幡宮の開山堂から明治初めに遷された。頭に烏帽子を付けて破壊を免れたという話も。
 神應寺では、本尊薬師如来の脇に客仏のような形でまつられており、お像まで少し距離がある。しかし、展覧会ではガラスケースなしで、間近で拝めた。間近で拝見すると、お寺で感じた以上にイキッテルお像だった! 大きな目や鼻や口。少し傾げた首。膝の辺りの衣文は釘で引っ掻いたような表現。背中は後方に倒れ気味。迫力半端ない! 箱根の万巻上人と双璧と言ってしまおう! 

宝誌和尚像(京都・西往寺/重文)

 お顔が真ん中から裂けて、その中から十一面観音が現れる、特異なお姿の一木像。伊豆河津の南禅寺伝来と解説に明記されていたのが印象的だった。

虚空蔵菩薩坐像(奈良・北僧坊/重文)

 大和郡山の矢田寺の塔頭北僧坊の虚空蔵菩薩坐像は9世紀の木彫像。前にどこかでお会いしているかもしれないが、今回は特に印象に残った。額安寺旧蔵で現在文化庁所有の8世紀の虚空蔵菩薩坐像(重文)や細見美術館の板絵着色の虚空蔵菩薩(重文 前期展示のみ)とともに展示されているので、比べてみるのも楽しい。

四天王像(大分・永興寺と香川・鷲峰寺/いずれも重文)

 今回初めて知ったのだが、興福寺北円堂(5/8まで公開中)の四天王は大安寺旧蔵で、それを模刻した像がいくつか存在するそうだ。その例として、大分県日田市・永興寺と香川県・鷲峰寺から四天王像が出陳。折しも興福寺北円堂が公開中だったので、本家の四天王像をじっくりと拝見してから大安寺展に向かった。すると確かに真似っこしているのがよくわかった! 本家の四天王像一組と模刻の四天王像二組を見比べるという贅沢。特に、両腕をクロスさせた持国天像に惹かれたことを書き残しておきたい。
永興寺(大分県日田市)の四天王像 鎌倉時代、元享2年(1322)、南都仏師、康俊、康成、俊慶の作。持国天の腕のポーズの真似かたがかわいらしくて、つい微笑んでしまう私がいた。
鷲峰寺(香川県)の四天王像 鎌倉時代14世紀の作。北円堂の像より細身で、身体の動きは抑制されている。しかし、髪型や甲の形、邪鬼までよく似せており、愛らしく感じてしまった。

興福寺北円堂の四天王(北円堂拝観時に配布される資料です)

 なお、この興福寺北円堂の四天王像は791年の作。大安寺に伝来したが、1285年に経玄が興福寺勧学院を創建する際にこの四天王像を修復し、文殊菩薩騎獅像及び侍者立像(康円作で、現在東京国立博物館所蔵)とともにまつった。この四天王像は出陳されていないが、写真パネルが展示されているので、模刻像との比較に役立つ。ただ、北円堂は5/8まで公開中なので、せっかくなら北円堂で四天王像を目に焼き付けてから、大安寺展に向かうのがよいだろう。

【大安寺さんが好きすぎて、過去にこんなことも書いてました】

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【仏像エッセー】『鎌倉殿と13人』と仏像シリーズ vol.2

『鎌倉殿と13人』と仏像シリーズ vol.2

 今年の大河ドラマの登場人物ゆかりの仏像シリーズの第2段として、東京都府中市・善明寺の鉄仏さまをご紹介したい。(どこまで連載できるのかについては、書いてる本人にも不明だが…w)

 先日訪れた府中の大国魂神社のすぐ近く、善明寺に、畠山重忠ゆかりの阿弥陀如来像2躯(重要文化財)がおられる。いずれも鉄造の阿弥陀さまの坐像と立像で、善明寺の金仏堂に安置される。
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 府中市立ふるさと府中歴史館のパネル展示によると、大きな坐像は重忠の死から48年後、その菩提心を伝えるため、僧 明蓮によって建長5 年(1253)に造立された。
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 小さな立像は、重忠と恋仲だった恋ヶ窪(現在の国分寺市)の遊女、夙妻太夫(あさづまだゆう)の死を悼んで、重忠が造立したという伝承がある。
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 この善明寺の阿弥陀如来像2躯は、毎年11月3日に東京文化財ウィークの一環として一般公開される。公開といっても堂内には入れず、お像からは距離があるので、いつか間近で拝観させていただけないかと密かに願っている。(素人の見た目では、立像は髪際がカーブしてるように見え、重忠存命時より少し後のようにも思えるので、その辺りをじっくり拝見したい…!)

 なお、11月3日には同じ府中市内で、新田義貞ゆかりの阿弥陀如来立像(重文)も公開される。
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 畠山重忠鎌倉幕府創建に、新田義貞はその崩壊に尽力したのだが、二人とも鎌倉の北の地の出身であり、現在の府中市付近を通って鎌倉に向かったのだろう。その足跡の証人が阿弥陀如来像なのだ。仏像って、本当に素敵!
(2022年1月23日記)


参考文献
○『畠山重忠辞典』(深谷市教育委員会 編、2020年、全42ページ)
http://www.city.fukaya.saitama.jp/.../1491186726389.html
○ふるさと府中歴史館の展示(添付写真2-4枚目)

【東京】【多摩の仏像】大国魂神社(旧六所宮)本地堂の木彫仏~神仏習合の時代を伝える穏やかな尊像~

大国魂神社宝物殿(東京都府中市
木彫仏5躯
重要美術品

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写真は大国魂神社宝物殿サイトより

 上原美術館本地仏薬師如来を拝観してから、本地仏への思いが募り…。身近なところで本地仏にお会いできるところはないかなぁ…と思った瞬間、思い出したのがこちら。
 東京都府中市大国魂神社神社の宝物殿におられる、40センチに満たない小さな仏像!
 平安後期のこの穏やかな佇まい。そして、清らかさ。若かりし頃に一度拝観しているのだが、その時は良さがわからなかった。なぜか今、私の胸を熱くする。
 左から二つ目の菩薩像の足元を見ると、蓮台まで一木で彫り出していることがわかる。
 一番左の像は天部像とされているが、甲冑を着て胸元でリボンを結ぶあたり、神奈川県大磯町の六所神社男神像と似てると思った。
 大国魂神社は明治初めまで武蔵総社六所宮と呼ばれ、これらの尊像はその本地堂にまつられていた。神仏習合の時代を今に伝える尊像なのである。
 大国魂神社宝物殿は土日祝日に開館しているので、今後は頻繁にお会いしに行くことにしよう。 

【参考資料】
1) 大国魂神社宝物殿のサイト(※上記写真は本サイトより)
www.ookunitamajinja.or.jp

2) 六所神社(神奈川県大磯町)の神像について
butsuzodiary.hateblo.jp

【拝観案内】
大国魂神社宝物殿(土日祝日等に開館)
京王線府中駅およびJR府中本町駅より徒歩8分ほど