ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

笠間の弥勒仏立像(茨城県笠間の六体仏の一つ)

茨城県茨城県
笠間市
弥勒教会・弥勒仏立像
鎌倉幕府御家人だった宇都宮氏の一族、笠間時朝(かさまときとも)が造立した「笠間六体仏」のうち、現存する三つの像の一つ。
重要文化財。1247年造立。像高175センチ。寄木造り。漆箔。玉願嵌入。台座と後背も造立当初のまま。肉髻は低い。
像内に時朝と等身大の像であることを示す銘があるとのこと。
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「衲衣の衣文は複雑で、この時代に流行した中国宋朝の様式と鎌倉彫刻の様式が確立された13世紀後半の一典型を示す」(茨城県文化財サイトより)
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衣紋の流れかたから、興福寺北円堂の無着世親像を思い出す一方で、下腹部から足元に同心円状に流れる衣紋が独特と感じた。私としては、肉髻が低いのが残念。玉眼が理知的に光っていた。

毎年4月8日の花祭りの日に公開される。収蔵庫の横に小さな誕生釈迦仏が安置され、甘茶をかけることができる。
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収蔵庫を臨む。
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今年は日曜日にあたるためか、参拝者が途切れることがなかった。

収蔵庫の脇に白山神社あり。また、周辺は畑が広がるのどかの場所。
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(弥勒仏立像の写真は堂外から撮影したものをトリミング)

伊豆の平安仏と"牧野仏"(龍音寺、国清寺、かんなみほとけの里)

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2018年3月31日。午後から半日かけて、伊豆の平安仏と"牧野仏"をめぐってきました。

1) 沼津市大平の龍音寺

 平安中期とされる一木の聖観音立像。専任の住職がいなかった龍音寺に40年前、現在の住職が入られた。お寺におられたのは、虫食いなどの破損部分を石膏で補い、ペンキを塗られた観音立像。住職は平安仏に違いないと見抜き、紆余曲折を経て修復を実現。修復前の写真を見せていただいた直後に、修復後の現在のお姿を拝ませていただいたが、その差に呆然とした。今は大変美しく優しいお姿である。市指定文化財
 修復先はなかなか決まらず、最終的には辻本干也先生の工房預かりで格安で修復していただいたとのこと。修復内容に関する詳しい資料は残っていない。衣の表現等に様々な時代の様式が混ざっているため、時代鑑定は難しい。しかし、複数の専門家の意見は、平安中期ということでほぼ一致するとのこと。
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(写真は龍音寺ホームページより)
 堂内にこの観音さまを描いた切画がある。龍音寺の観音さまが大好きだった女性が病気のご主人の平癒を願って四国をめぐる途中、切画家の風祭竜二さんと知り合う。ご主人は回復したが、今度は女性が重い病気になったため、ご自身の生命保険を使って、観音さまの切画を依頼。このため、切画の観音さまのお顔はこの女性に少し似ているのそうだ。
 以上、副住職にていねいにご解説いただいた。観音さまと多くの人がご縁を結ばれることを願う。

2) 伊豆の国市 国清寺仏殿

 牧野隆夫さんが修復された"牧野仏" 。古い他の仏像の断片を用いて修復されていたいびつな像をいかに発見し、修復したのかは、牧野さんの新刊『伊豆の仏像修復記』に詳しい。クラウドファンディング自費出版されたこの本がちょうど昨日自宅に届いた。読後まもないこともあり感動もひとしお。
 修復前のお姿
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 修復中
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(造立当初の部材はこれだけ)
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(不足部材を補う)
(↑修復前と修復中の写真は牧野隆夫『仏像再興』より)

 修復後(現在のお姿)
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(↑筆者撮影)
なお、国清寺の仏殿の拝観については、隣の高岩院に事前に連絡を。本などに載っている国清寺の電話番号は通じません。

3) 伊豆の国市 国清寺毘沙門堂の仁王像

 牧野さんが仏像修復の道に入るきっかけとなった仁王像。国清寺の仏殿から1.5キロ登山のうえやっと参拝。運慶の関わりが指摘され、県指定文化財
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(↑筆者撮影)

4) 函南町 かんなみほとけの里美術館

 桑原薬師堂に安置されていた仏像群を展示する施設。
 

4-1)阿弥陀如来坐像と観音勢至菩薩立像(実慶)

 牧野さんらが桑原薬師堂を調査された際、両脇侍から実慶の銘が発見された。脇侍の観音像は、左腕の肘から先が失われていたが、それが近年見つかり、奈良の文化財保存修理所で手術を受けて戻られた。今年の3月に戻られたばかりのタイミングで拝観できた。
 左腕をめぐる経緯は以下のとおり。
 桑原薬師堂の仏像群を美術館に移したあと、薬師堂内を掃除したところ、昭和11年の新聞にくるまれた仏像の腕(「腕A」)が出てきた。調べてみると、それは薬師堂におられた江戸時代の勢至菩薩立像に本来付いていたであろう左腕だった。胸の前で合掌する来迎の勢至菩薩である。
 一方、「腕A」が発見された時点で、この江戸期の勢至菩薩には別の腕(「腕B」)が付いていた。この「腕B」をよく見ると、実慶の阿弥陀三尊の観音立像の左腕だと判明した。小指、人差し指が失われていたが、実慶の勢至菩薩と左右対称の形だったのである。
 つまり、
1) 江戸期の勢至菩薩に付いていた左腕(「腕B 」)は、実は本来は、実慶の観音菩薩の左腕だった
b) 昭和11年の新聞にくるまれていた左腕(腕A)は、本来、江戸期の勢至菩薩の腕だった
ということになる。
 今回、実慶の観音の修復が完了し、やっと本来の形に戻った。つまり、「腕A 」は江戸期の勢至菩薩に、「腕B」は実慶の観音菩薩に、それぞれ付け直されたのである。
 なお、観音さまにこの左腕を付ける際に、人差し指と小指を新調したそう。
 仏像拝観をしていると、こういう面白い話に出会え、感動し興奮する。だから、仏像めぐりを止められないのだろう。

4-2) 薬師如来坐像(平安)

 桑原薬師堂で秘仏だった薬師如来坐像は大きな木材を使った一木造りで、この上ない安定感があった。県指定文化財
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(写真は美術館のホームページより)

4-3) その他の仏像(牧野仏)

 十二神将地蔵菩薩毘沙門天および観音菩薩の15像は牧野さんが修復。
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(↑写真は牧野隆夫『仏像再興』より)

(後日談)山本勉先生の講座で復習!

 上記の仏像めぐりをしたのが、牧野先生の『伊豆の仏像修復記』が届いた翌日だった。その後3か月ほどして、清泉女子大学の山本勉先生がかんなみの里の仏像群について講演されると聞き、聴講してきた。大学のコミュニティ講座にしてはハイレベルな内容に驚愕した。その時の記録は以下のとおり。
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千祥寺所有の如来形像(千葉県館山市立博物館にて)

館山市立博物館

拝観日=2018年3月3日

千祥寺所蔵の木造如来形坐像
千葉県指定文化財
10世紀末、73センチ、ヒノキの一木造り
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木造如来形坐像は、薄く閉じた、つり上がり気味の両目が印象的。口元は小さく閉じる。一宮の安房神社に伝来か。
博物館預かりとなったのを機に、1987年に修復を行い、両手先を付け足した。腕の感じから、宝生如来の形に補作することにしたそう。
五智如来の一尊かと推測するが、安房神社五智如来がまつられていたかどうかはまったくわかっていないとのこと。
平安初期の量感豊かな印象を残しつつ、穏やかな和様彫刻へと向かう感じもあり、大変魅力的。

狭い館内に仏像がもう一つ、不動明王坐像が展示されていた。南房総市文化財。1588年、里見義康の銘あり。

※千祥寺の如来形坐像の展示時期については、事前に博物館にお問い合わせください。

館山市立博物館
住所:〒294-0036 千葉県館山市館山351-2 城山公園内
電話:0470-23-5212

千葉県富津市 東明寺の薬師如来と十二神将

富津市 東明寺

参拝日=2018年3月3日

東明寺は718年の創建と伝わる。以前は海岸に位置して東足寺と称したが、1742年の大津波の後に現在地に移転したという。内房線上総湊駅から1キロほど。浦賀水道の向こうは三浦半島という地域に立つ、真言宗智山派のお寺である。

<ご本尊薬師さま!>

ご本尊の薬師如来立像は、2013年「仏像半島」展(千葉市立美術館)のメインビジュアルを務めたほどの存在感あるお姿。仏像ファンならこのポスターに見覚えあるはず。
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中尊の薬師如来立像は県指定文化財。カヤの一木造りで、像高2.16メートル。

お顔に特徴がある。
正面から拝むと、まるびたお顔に優しい目。幼子のように見える。
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しかし、真横から拝むと、一瞬にして理知的でシャープなお顔に変身する。
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お体も量感がある。また、間近で見ると、細かい亀裂の線が幾つも入っており、一木造りであることを実感する。一木造りの温かみが伝わる。
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(写真は「仏像半島」展の図録より※)


十二神将!>

十二神将は、薬師さまの裏側の戸棚のようなスペースに、二段に分かれて安置されていた。横須賀の曹源寺の十二神将と並び評される、鎌倉時代後期の作。十二神将さまのようにアクティブであるはずのほとけさまが、ガラスケースのような戸棚にしまわれているのは悲しい。
「仏像半島」展のときのように、薬師様の周りに円陣を組んで、スタンバイさせてあげられないものか。今にも出陣しそうな躍動感ある十二神将なのだから。
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(2013年「仏像半島」展の会場写真。公式サイト
より)

<その他の仏像>

・お前立ち薬師如来立像
 ご本尊薬師のすぐ横に、破損仏が立つ。ご本尊さまより100年ほど新しい前立像だが、傷みが激しい。像の近くにいき、横からのぞき込むと、お顔とお体の正面が板一枚のように残っているだけだった。背中もなにもない。びっくりした。正面が穏やかな表情なだけに、戦慄が走った。

・お前立ち薬師の後ろの厨子地蔵尊
 秘仏で、今回開扉なし。ただ、「仏像半島」展には出展。

薬師如来のお顔の写真は、仏像半島展の図録の写真からお顔の部分だけ切り取ったもの。


【参拝案内】
医王山東明寺(真言宗智山派
〒299-1607千葉県富津市湊220
上総湊駅より1キロ

千葉市市原市・日光寺 桜の巨木の聖観音立像

千葉県市原市 
日光寺 
木造聖観音立像
県指定 像高3.32メートル
彫眼、桜、一木造。大きな内ぐりがあり、観音像の背面より覗くことができる。両腕は肩ではぎ付けし、左肘から先をさらにはぎ付ける。
発見当初は平安末期(12世紀後期)とされていたが、昭和61年の修理に伴う調査の結果、10世紀後期の作と推定されるに至る。
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(↑ざっくりと空洞が! 霊木の木の洞を利用したとも考えられる)
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(↑瓔珞(ようらく)や臂釧(ひせん)を金具で別に付けるのではなく、このように彫り出すのは古様なのだそう)

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(↑観音様の後ろの棚に、新しい十王像と奪衣婆さま。古い像が盗難にあったのだと聞いた)
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(↑観音様のおられる収蔵庫はこんな階段を登ったところにある)
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(↑馬頭観音さまだろうか)

※写真はすべて筆者撮影

【参拝案内】
日光寺
住所:千葉県市原市風戸81
要予約

西尾市吉良町、金蓮寺の阿弥陀三尊(脇侍さまはいつの作?)

<序文>

この記事は、来迎阿弥陀三尊にお会いした感動を叫ぼうと書き始めた筆者が、書いてる途中で「制作年代に二つの説がある」ことに気づき、あたふたする様子を書き残したものです。しばらく下書きフォルダーに放置していた文章を書き直し、引用文書の画像も添付しました。自分の不出来をさらすようで正直恥ずかしいのですが、実は、このようにあたふたするのも仏像の楽しさだと思い、ここに掲載することにしました。市と県の文化財サイトで制作年代の説明が異なるのです! 詳しくご存知の方がおられましたら、教えてください。この阿弥陀三尊像は誰がいつ造ったのでしょう!?
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

吉良町の金蓮寺さま!>

西尾市吉良(きら)町の阿弥陀さまめぐり。海蔵寺に続く2か寺目は金蓮寺(こんれんじ)です。

金蓮寺の創建は鎌倉幕府の成立の頃。1186年、源頼朝の命により、三河守護の安達盛長が建立した三河七御堂(しちみどう)のひとつと伝えられます。『東海美仏散歩』で拝見して以来お会いしたかった憧れの阿弥陀三尊さまは、国宝の弥陀堂の中におられました。

<来迎の阿弥陀三尊!>

金蓮寺(曹洞宗、愛知県西尾市吉良町
阿弥陀三尊
寄木造、玉眼、県指定文化財
阿弥陀80センチ、観音79.4センチ、勢至80.4センチ
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なんとも麗しい来迎の阿弥陀三尊。中尊さまは上品下生の来迎印を結んでおられます。観音菩薩さまは両手で蓮の花を差し出し、勢至菩薩さまは合掌。両菩薩さまが腰をかがめて、死者を極楽へと迎え入れます。

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来迎像はやはりこのアングルから。観音勢至菩薩が腰をかがめて救いにきてくださる様子に胸が震えます。

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勢至菩薩さま側からだとこんな感じ。ますます胸が高鳴ります!

そばで拝見しますと、思った以上に両菩薩さまは肉付きがよいのです。鎌倉初期の阿弥陀仏と言えば、快慶さんが美しいお像をたくさん作られています。しかし、金蓮寺の三尊は快慶の阿弥陀さまたちとは少し違う感じを受けました。素人考えではありますが、快慶流であれば、もう少し繊細で華奢な感じに仕上げるのではないかと思いました。特に腰回りはかなりふくよかです。
もちもちとした量感豊かなお姿から、鎌倉市の光触寺の頬焼阿弥陀さまを思い出しました。運慶流の阿弥陀とも言われる三尺の立像です。似ているように思えるのは、どちらもお肌が黒いせいもあるかもしれません。でも、あえて二者択一とするなら、快慶風といえより、運慶風なのかなあと思いました。(このパラグラフを書いたことを後悔することになるのですが、その理由は本記事の後半に記しています)

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(参考画像 鎌倉市の光触寺の頬焼阿弥陀如来さま。写真は2018年金沢文庫運慶展図録より)

金蓮寺の阿弥陀三尊さまは、平成19年から20年にかけて修復されたそうです。江戸時代の修理の際に塗られた塗膜が除去され、みずみずしいお姿が現れました。観音菩薩さまの両肘より先や台座の最下部など、欠損部分も補われました。お姿が黒っぽく見えるのは、このときの修理により黒漆層が露出したためだそうです。元々は漆箔で、螺髪は群青、台座の蓮弁は緑に彩色されていたとのこと。目を閉じて、造立当時の華やかなお姿を想像してみました。 

<いつ造立されたのですかっ!?>

と、ここまで書いたところで、制作年代について衝撃の事実を発見しました!

西尾市のサイトでは、三尊とも鎌倉時代と明記しています。それを頼りにお寺で拝観し、妄想膨らませてここまで書いてきました。
西尾市文化財サイト↓
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しかし、愛知県のサイトを見たところ、観音勢至菩薩は江戸初期の再興像だと書いてあるではありませんか!! 

愛知県のサイト
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愛知県のサイトから、以下、肝心のポイントを引用します。
「両脇侍像は、特に服装において鎌倉時代的な要素を示しながらも、形式化が進んでおり、江戸時代初め頃の復古的な作例と考えられる。
一方、台座は三組とも鎌倉時代のものと認められ、当初から三尊像として制作されたことは間違いない。のち、両脇侍の本体が失われ、現脇侍が補作されたと考えられる。
平成21年(2009)に両脇侍像が追加指定された」

つまり、鎌倉時代に三尊そろって造立されたものの、脇侍の観音勢至両菩薩は傷んだため、江戸時代初期に、元々の像のお姿をまねて新たに作り直した、という説を愛知県は採っておられるのです。

まさか…。そう思って、あらためて金蓮寺さまのリーフレットを読み直してみました。
このリーフレットでは、三尊像について、まず、「江戸時代の修理の際に塗られた塗膜が取り除かれたことで、像の印象が一新され、阿弥陀三尊像の瑞々しい表情がよみがえ」ったことを指摘し、さらに、制作年代については、「三尊像の台座の蓮肉部分及び光背は鎌倉時代の製作との評価で専門家の見解は一致していますが、三尊像本体の年代は弥陀堂と同時期の鎌倉時代とする意見と、やや時代が下るとの指摘もあり一致をみていません」と書いています。
つまり、鎌倉時代という説とやや時代が下るという説の二つが明記されています。脇侍だけ新しいという記述はありません。
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(↑金蓮寺リーフレットより)


まとめますと、

西尾市サイト=三尊とも鎌倉時代

愛知県サイト=阿弥陀は鎌倉、両脇侍は江戸初期

金蓮寺リーフレット=「鎌倉説」と「それよりやや時代が下る説」を併記(ただし、本尊と脇侍の制作時期が異なるかどうかには言及なし)

ということになります。

さらに、冒頭で言及した書籍『東海美仏散歩』を見直すと「平安時代」と書いてありました。これはさすがに誤植だと思います。そして、この本のブレーンだった方が運営する仏像ワンダーランドさんのサイトには、愛知県のサイトと同じく、脇侍は江戸とありました。
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(↑『東海美仏散歩』はなぜ平安時代と記述したのか…)

愛知県サイトの記述を冷静になって何度も読み返しますと、快慶風だの運慶風だのと、わくわくしながら書いていた自分はなんとも間抜けに思えてきます。運慶の頃ではないとしても、慶派の影響を受けた仏師の作だろうと思いこんでいました。どんなに時代が下っても、鎌倉後期ぐらいかと。

そして、二つの説を明記したお寺のリーフレットがとても誠実なように思えてきます。

文献によって制作年代が違うとは。しかも、市と県で違うとは……! 
三尊そろって鎌倉なのか、脇侍だけが江戸初期の作り直しなのか…。今後、新たな資料の発見などにより、さらに研究が進むことを願います。

なお、余談となりますが、東京の調布市に江戸時代初期の観音三十三身像(調布市指定文化財)が伝わります。鎌倉時代の慶派を模したことが一目でわかります。鎌倉時代の仏師を見本に江戸時代の仏師が鑿をふるったことでしょう。江戸の仏師に思いをはせ、感動したことを思い出しました。
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(↑参考画像 調布市、西光寺の観音三十三身像の一部。毎月18日にご開帳なので、お近くの方はぜひ!)

もし金蓮寺の観音菩薩勢至菩薩が江戸時代初期の作り直しだったとしたら…。きっと鎌倉時代の仏像を必死で勉強したのでしょう。それも尊いと思います。

<かわいらしいご朱印!>

最後に、金蓮寺のご朱印をご紹介します。ご高齢のご住職が書いてくださいました。
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なんともかわいらしい。もうありがたすぎて泣けてきます。「国宝みだ堂」と書いてあるようです。「国」の文字が赤ちゃんの顔みたいで、私も思わず微笑んでしまいます。


最後の最後に一言だけ。造立年代の謎は引きずっていますが、この阿弥陀三尊に胸が高鳴ることに変わりはありません! 



吉良の「きらきら阿弥陀めぐり」は専長寺へと続きます。専長寺の阿弥陀さま、びっくりするほど素晴らしかったです!

【参拝案内】
青龍山金蓮寺
〒444-0523 西尾市吉良町饗庭七度ケ入1
堂内の拝観は要予約
Google マップ

2018年2月の仏像拝観リスト

2018年2月16日。ついに葛井寺の千手観音さまにお会いできました。天平仏はなぜにこれほど初々しいのでしょう! 胸や腕や背中が若々しく、とにかく美しい!! もう千本の腕がなくても美しすぎました。合掌手は希望をつかもうとしていました(そのように見えました!)
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天平仏、万歳!

また、2月は、仏友さんと一緒に、愛知県をめぐりました。
豊橋市普門寺、やっとお参りできました 四天王の邪鬼はなんと鉈彫り。抱っこしてきました。スキンシップで仏像愛がますます燃え上がりました。八角裳懸座の阿弥陀さまも素敵でした。
滝山寺の鬼まつり。松明30本ほどが本堂の周辺に飛び交います。鬼さんは優しいのですが、とにかく真っ暗闇の中、多くの松明が飛び回り、本堂内部が下陣にまで入り込みます。堂内には鎌倉仏をはじめ、秘仏薬師さまや十二神将など、仏像がひしめき合っています。
吉良の金蓮寺、専長寺の阿弥陀さま素晴らしすぎました。
名古屋の七寺の観音勢至は1170年代に造られたのですが、慶派の特徴があり、藤末鎌初好きにはたまらない仏像が残されていました。

…と、書き出すと止まらなくなります。

そういうわけで、2018年2月の仏像拝観リストは以下のとおりです。

2018年

2月16日(金)
仁和寺と御室派のみほとけ」展(3回目)
葛井寺の国宝千手観音坐像と仁和寺の国宝薬師如来坐像

2月17日(土)
海蔵寺浄土宗西山深草派、愛知県西尾市吉良町
阿弥陀如来坐像(県指定)
鎌倉初期 95.5センチ、一木割矧造、彫眼
外陣より拝観。暗くて遠く、お姿はよく拝めず。堂内にあった写真はこんな感じでした。
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②金蓮寺(曹洞宗、愛知県西尾市吉良町
国宝弥陀堂
阿弥陀如来坐像及び両脇侍像(県文)
阿弥陀如来 80.0 観音79.4 勢至80.4
寄木造、玉眼、来迎像!
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③専長寺(浄土宗西山深草派、愛知県西尾市吉良町
阿弥陀如来坐像 重文、鎌倉
阿弥陀如来立像 市指定(快慶風)

④法住寺(曹洞宗 愛知県豊川市 御縁日)
千手観音立像(重文)平安末期 167.0
一木造・彫眼

⑤普門寺(高野山真言宗 愛知県豊橋市
平安時代の邪鬼「抱き邪鬼体験」
阿弥陀如来坐像(重文)平安後期 140.6
伝釈迦如来坐像(重文)平安後期 薬師如来と推定 139.0
四天王立像(重文)平安後期 170.3~178.8
不動明王及び二童子立像(県文)162.2
邪鬼は鉈彫り
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⑥瀧山寺(天台宗 愛知県岡崎市
鬼まつり

2月18日(日)
①麟慶寺(臨済宗妙心寺派 愛知県春日井市
大日如来坐像(県文)平安中期 79.5
一木造

②圓福寺(天台宗 愛知県春日井市 御縁日)
三十三応現神像 室町前期 70~80
不動明王立像(市文)室町 112.0
毘沙門天立像(市文)室町 117.5
仁王像(市文)室町 275 270

※十一面観音立像(鎌倉 110.5)は秘仏のため拝めず。
八百比丘尼が亡くなったとされる洞窟あり。圓福寺では、八百比丘尼はこの地で生まれたとの伝承あり。

③密蔵院(天台宗 愛知県春日井市
本堂を下陣からお参り。収蔵庫の拝観は不可。

④龍照院(真言宗智山派 愛知県海部郡蟹江町 御縁日)
十一面観音立像(重文)平安末期 172.7
大日如来坐像

⑤観聴寺(西山浄土宗 名古屋市熱田区
鉄造地蔵菩薩立像2体(県文)室町 152.7 160.0

⑥雲心寺(浄土宗鎮西派 名古屋市熱田区
阿弥陀如来坐像(市文)江戸 約240
将軍地蔵騎馬像

⑦七寺(真言宗智山派 名古屋市中区 御縁日)
観音菩薩坐像(重文)平安後期 137.8
勢至菩薩坐像(重文)平安後期 137.8
銅製大日如来坐像 慶長年間 約270

2月24日(土)
びわ湖長浜KANNON HOUSE
 余呉町国安の十一面観音立像
 室町時代 木造 古色 彫眼 像高110.8㎝ 長浜市指定文化財

仁和寺と御室派のみほとけ」展(4回目)

以上

海老名市・龍峰寺の長身かつ清水寺式の千手観音立像

 神奈川県西部、海老名駅から徒歩15分ほど。巨大なすべり台のある清水寺公園に隣接して、龍峰寺(りゅうほうじ)はあります。1340年、開山円光大照禅師によって創建された、臨済宗建長寺派のお寺です。

 このお寺の千手観音さまにお会いしてきました。毎年1月1日と3月17日にご開帳です。

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192センチ。榧の一木造りで、42本の腕には桧を使用。なんと、頭上に2本の腕を掲げた清水寺式の千手観音立像! 重要文化財

奈良時代に遡る古いお寺に伝来

 実はこの観音さま、龍峰寺の創建より古いお像かもしれません。観音さまは元々、清水寺(せいすいじ)というお寺に伝わりました。清水寺は、相模国分尼寺にゆかりのある湧河寺を前身とし、源頼朝が1186年に千手観音像とともに復興。その後、1341年に円光大照禅師によって再建され、1699年に現在の地に移築されました。龍峰寺は清水寺以外にもいくつか末寺がありましたが、明治の初めにすべて廃寺となり、清水寺観音堂だけが龍峰寺の一部として残りました。清水寺観音堂(水堂)は1989 年に解体修理がなされ、今は龍峰寺の仏殿として使われています。

 龍峰寺の周辺の地名は国分。奈良時代相模国分寺と国分尼寺が建てられ、古くから仏教文化が栄えたことが伺えます。また、湧河寺、清水寺、水堂という名前から、水と関係の深い場所であることも推測できます。

 そんな地域に残された観音さまは現在、水堂の後ろに建てられた収蔵庫に大切に安置されています。
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平安と鎌倉の特徴が混在

 改めて、観音さまのお姿を見てましょう。まず、2メートルという長身で、しかも、清水寺式。頭上に伸びる腕。しびれます!
そして、仏像好きな方であれば、ご尊顔と下半身との表現の違いが気になるのではないでしょうか。
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 丸みのあるご尊顔は頬に張りがあり、玉眼をはめています。鎌倉時代の特徴を示します。
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 一方、このお像は榧の一木造りで、下半身の衣紋は鑿のあとが立った激しい表現になっています。翻波式衣紋など、平安前期の特徴を表しています。
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 この二つの特徴から、古い像が鎌倉時代に補修されたか、または、旧本尊に倣って新たに再興された像なのではないか、と言われています。つまり、制作年代は専門家の間でも議論が残っています。謎に満ちた観音さまです。

 今回のご開帳では、堂の外からしか拝観できていません。いつか間近で背面や横のお姿を拝ませていただければと思います。制作年代のミステリーに思いを馳せながら、観音さまの周りをぐるぐる回らせていただく機会を待ちたく存じます。

【追記】2020年10月「相模川流域のみほとけ」展に出陳され、間近で拝観できました。しかも、榧の一木であることや聖林寺十一面観音立像との類似から、奈良後期から平安前期に遡る可能性が指摘されていました。年代順に仏像が展示されたのですが、この龍峰寺像は展覧会の最初にどどーんとお出ましです。間近で拝観し、さらに好きになりました。→【展覧会】「相模川流域のみほとけ」神奈川県立歴史博物館は必見 - ぶつぞうな日々 part III


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 3月17日は観音さまのお祭りで、次々に参拝者が訪れていました。余興と少しの出店もあり、ご近所の皆様が楽しみにされている様子が伝わってきました。春のお花も咲いて、穏やかな空気が満ちていました。
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他の文化財

 山門の仁王像と観音堂(水堂)が海老名市の文化財に指定されています。
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(柵とガラスに阻まれ、撮影は困難でした)

 水堂には、千手観音立像を模した小さめのお像がまつられていました。室町時代の作だそうです。

 なお、龍峰寺本堂は水堂の横に建てられています。本尊は釈迦如来坐像と迦葉・阿難像とのことですが、お参りはできませんでした。

【参拝案内】

龍峰寺
〒243-0406 神奈川県海老名市国分北2丁目13-40
小田急相鉄線海老名駅より徒歩15分
相鉄線の線路沿いにしばらく歩いて踏切を渡ると、清水寺公園の入り口の看板がある。公園方面に急な坂道を登る。清水寺公園の奥に山門が見える。
公開は1月1日と3月17日。
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(↑住宅地を見下ろす高台にお寺はあります。丹沢の山々が遠くに見えました)

島根県出雲市・万福寺(大寺薬師)さま~展覧会の留守を守る四菩薩像と優しい世話役さま~

参拝記録2017年11月3日

「島根の仏像」展に4時間半ほど滞在したあと、電車で東に移動し、出雲市・万福寺の大寺薬師収蔵庫へ。
展覧会には、この万福寺から重文の薬師如来坐像と四天王像がお出ましでした。スーパー戦隊ゴレンジャーのような迫力満点の5つのお像が出展中となると、収蔵庫はガラガラかと思ったのですが、じつはなんと、それ以外にも平安前期の重要文化財の菩薩立像が4躯もおられると聞きました。
もうこれは現地に行くしかない(!)と思い、収蔵庫でお留守番されている菩薩さまにお会いしてきました。
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(↑観音菩薩さま)
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(↑月光菩薩さま)
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(↑日光菩薩さま)

静謐な仏様の佇まい。私は特に、木の節が残る観音菩薩像に鳥肌が立ちました。平安前期の作だそうですので、手の形は後補かと思います。
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(堂内の向かって一番右にお立ちになられる観音菩薩さま。木の節が残っています。ご神木が来迎像になられたかのよう)

展覧会にお出ましのお像の場所には、パネル写真が置かれていました。卒業写真の撮影の日に欠席した人みたいで、微笑ましかったです。
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この収蔵庫は大寺薬師奉賛会が管理されており、拝観には事前にお願いする必要があります。私も事前に電話でお願いし、世話役の方に開けていただきました。世話役の方がお優しくて観音さまのようでした。
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大寺薬師奉讃会はご近所の各地区から、毎年役員が選ばれるのだそうです。役員の主な仕事は毎年4月に大寺薬師で開催されるお祭りの運営だそうです。今回ご案内くださったOさまは、「自宅がお寺から近いので、自分が拝観希望者への対応を行っている」とおっしゃっていました。いくら近いとはいえ、ランダムにやってくるであろう拝観希望者に個別に対応されるのはかなりのご苦労かと思いました。地域の方々にお守りされている無住のお寺は、こうした個人の方の尊い献身によって成り立つのだと再認識いたしました。

Oさまへの尊敬と感謝を申し上げます。ありがとうございました。

【参拝案内】
万福寺(大寺薬師)
〒693-0074 島根県出雲市東林木町
大寺薬師奉讃会管理
要予約(出雲市文化財課に聞くと世話役さまの連絡先を教えていただけるかと思います。ちなみに、私は出雲市平田町の極楽寺さまにお電話した際に詳細教えていただきました。世話役さまにご迷惑とならないようご配慮お願いいたします)


【補足】
以下、大寺薬師さまの風景です。
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(↑境内のお不動さま)
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(↑最寄り駅のホームから見える景色。もちろん駅は無人。単線)
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(↑近くに出雲地方最古とされる古墳あり)
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(大寺薬師の近くの道)

豊橋の普門寺と八角裳懸座の阿弥陀さま

八角裳懸座(はっかくもかけざ)の阿弥陀さまを調べています。どこのお寺におられるのかご存知でしたら教えてください。

<愛知県豊橋市・普門寺の阿弥陀如来坐像>

八角裳懸座が気になったきっかけは、先週、愛知県豊橋の普門寺をお参りしたこと。普門寺の収蔵庫には、四天王や不動三尊とともに、伝釈迦如来坐像と阿弥陀如来坐像がおられます。これらの如来坐像は140センチほどの半丈六なのですが、その寸法以上に大きく感じられ、立派で雅な印象を受けます。
その理由の一つが見事な台座にあるのではないかと思うのです。

※写真の撮影は許可を得ています。



写真でご覧いただけるかと思いますが、如来さまの台座は八角形。台に布を懸け、下に流れる模様が優しく美しいです。普門寺の場合は裳懸が二重になっています。
特に、阿弥陀如来坐像は、脚の辺りの衣紋が台座の裳懸へときれいに流れるように続いています。なんとも美しいです。
ちなみに、破綻なく見事なプロポーションの伝釈迦如来さまに対し、阿弥陀さまは頭部が身体に比して大きめ。このアンバランスが私の乙女心をわしづかみにしました。普門寺の阿弥陀さまに魅了されました!

お耳が垂れてるところ、高い肉髻、静かに閉じた目と口元。三角形を描く全体のシルエット。とにかく大好きです。結跏趺坐さえかわいらしく見えてきます。

八角裳懸座は他にどちらに?>

そして、気になるのが八角裳懸座です。他にどのような例があるのでしょう。

八角裳懸座でGoogle検索してみると、以下の例が見つかりました。
岡山の弘法寺常行堂阿弥陀さま)
奈良県大和郡山の矢田寺(阿弥陀さま)
京都大原三千院(国宝阿弥陀三尊の中尊)
大阪府堺市の法道寺(阿弥陀さま)
山口県周防大島町西長寺の阿弥陀堂阿弥陀さま)
滋賀県栗東市の金胎寺(ご本尊阿弥陀さま)
法隆寺西円堂(薬師如来さま)

これまでお会いしたことがあるのが矢田寺、三千院、そして金胎寺です。

岡山の弘法寺は二十五菩薩来迎会でお参りしたのですが、常行堂は遍明院のさらに山の上でお参りできていません。あの山の奥に丈六の阿弥陀さまはおられるのでしょうか? (※追記 なんと2018年11月17日にお参りできました! 常行堂阿弥陀さま、感動的でした!! ※2019年5月5日の二十菩薩来迎会、踟(ねり)供養の模様はこちら

(↑写真は瀬戸内市のサイトより)

堺市の法道寺のお像は数年前の堺市博物館の法道寺展にお出ましだったそうです。堺市文化財サイトによると、普段は非公開とのこと。詳しくはお友達のカルマさんのサイトをご覧ください! 
大阪府・堺市博物館「法道寺の至宝展の巻き」 : ひたすら仏像拝観

山口県周防大島は二十五菩薩来迎会を行っているお寺もあるので、できれば会わせてお参りしたいところです。地図で見るとあまりに遠い…! 気力と財力が整い、機が熟すのを待ちます。それにしても、写真を拝見する限り、かなりの迫力です。丈六だそうです。

(↑写真は山口県文化財サイトより)

愛知県西尾市・海蔵寺の阿弥陀如来坐像

愛知県西尾市吉良(きら)町。阿弥陀様を訪ねて3か寺めぐりました。
 
きらの阿弥陀さま その1
 
阿弥陀如来坐像(県指定)
鎌倉初期 95.5センチ、一木割矧造、彫眼
 
お寺の方にご挨拶し、本堂へ。
外陣より拝観させていただきました。暗くて遠く、お姿はよく拝めず。堂内にあった写真はこんな感じでした。

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かわいらしくも、威厳のあるお姿ではありませんか!
西尾市文化財サイトには、「胎内背面の銘文に、平安時代の高僧恵心僧都(えしんそうず)の作で、元禄12年(1699)に大檀那である糟谷縫右衛門の寄進によって修理が行なわれたと記されている」とあります。恵心僧都源信の作かどうかという判断は難しいかと思いますが、少なくとも17世紀末頃には、「恵心僧都の作」と伝承されていたことになります。
また、同サイトには、「穏やかな体躯や整った衣のひだの表現は、平安時代後期に流行した定朝様の特徴を備えるが、表情が引き締まり、部材が厚手に作られている点から、鎌倉時代に入ってからの作と考えられる」とありました。
間近で拝観できる機会を待ちたく存じます。
 

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下陣からだと遠く、写真もぼけてしまいます。しかし、荘厳ある内陣に三尊がおそろいのさまに胸がきゅんとしました。阿弥陀さまを感じることは十分にできます!

 

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境内の前、石仏の五智如来が優しかったです。

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【参拝案内】
萩原山 海蔵寺
愛知県西尾市吉良町萩原大道通5
 

2018年1月の仏像拝観リスト

2018年は都内の元旦仏からスタートし、そのまま鎌倉へ。宝戒寺の地蔵尊梵天帝釈天さまにひたすら見とれました。

川崎の影向寺では、収蔵庫の係のおじさまがおられず、心配しています。ここ数年、毎年お正月にお参りしているのですが、いつも同じおじさまがおられ、その方とのおしゃべりが楽しかったのです。亡くなられた奥様のことや、現役時代のお仕事のことをいつも聞かせてくださいました。おじさま、どうかお元気でおられますように。
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金沢文庫の運慶展

金沢文庫の運慶展は評判がよいようですが、私は展示方法に違和感がありました。出展されている仏像の大半をかつて他で拝観しているのですが、そのときの方がずっと美しく見えました。展示方法もう少しなんとかならないものでしょうか。ガラスケースはやむなしとしても、あの照明はきつい。修禅寺の大日さまの置かれ方が特にショックで、トラウマになりそうです。初日に行ったら、展示リストすらなかったです(受付にあったのは図録の一覧表のコピーのみ。前期後期の展示の違いがわからないままでした。出展リストが金沢文庫Twitterに掲載されたのは私の帰宅後でした)
そんななか、鎌倉の光触寺と教恩寺の阿弥陀三尊を近くで見比べられたのはありがたかったです。光触寺の頬焼阿弥陀さまにやっとお会いできました。滝山寺聖観音さまの装飾金具と永福寺の遺物のコーナーにも鳥肌立ちました。諏訪の仏法紹隆寺の不動明王さまと埼玉県川口市不動明王さまもお並びなのが嬉しすぎました! 
こういう見比べができるのは展覧会ならでは。本当にありがたいです。
仏法紹隆寺の不動さまが特に好きです。住職さまから出展にかける意気込みを伺っておりましたので、そのときのことを思い出しました。

仁和寺

仁和寺展については、あまりに素晴らしすぎて、すでに2つ記事を書き、愛を叫びました。仁和寺展は第2会場が仏像コーナー。入ってすぐに大阪金剛寺五智如来が見え、その奥に仁和寺阿弥陀三尊が見えたとき、「あー、生きててよかった」と思いました。2月14日から葛井寺の千手さまと仁和寺の薬師さまもお出ましです。また行かなければ!


前書きが長くなりました…。
拝観リストは以下のとおりです。


2018年1月1日

○世田谷区宇奈根・観音寺
ご本尊十一面観音立像
元旦と8月1日にご開扉
桧一木造り 平安後期 区文化財
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鎌倉市大船観音
慈光堂の聖観音立像
正月三が日のご開扉
一木造 平安後期 市文化財
堂外からガラス越しの拝観
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鎌倉市・宝戒寺
地蔵菩薩坐像(重文)
梵天帝釈天立像(県指定)
本堂中央に十王のうち9躯と奪衣婆
本堂の向かって右手に閻魔大王

1月2日

影向寺
収蔵庫
 薬師如来三尊(平安後期)、二天像(平安後期)、十二神将南北朝
太子堂
 聖徳太子孝養像( 鎌倉時代後期)

※能満寺(影向寺の近くなので立ち寄るも、仏像拝観できず。以下の秘仏がおられる)
ご本尊虚空蔵菩薩立像(1390年、朝祐の作、宋風、寄せ木、玉眼、市重要歴史記念物)
聖観音菩薩立像(一木、平安初期、市重要歴史記念物)


1月3日
高幡不動尊(重文不動明王三尊)

1月13日
金沢文庫「運慶~鎌倉幕府と霊験伝説~」展
静岡瑞林寺・地蔵菩薩坐像 (♡)
横須賀曹源寺・十二神将
藤沢養命寺・薬師如来坐像(1197年、90.7センチ)(大好き ♡ ♡ )
愛知瀧山寺・梵天立像(106.5センチ)
鎌倉光触寺・頬焼阿弥陀三尊立像(運慶風の三尺阿弥陀
 (阿弥陀97.0センチ、観音61.2センチ、勢至61.2センチ)
鎌倉教恩寺・阿弥陀三尊立像 (好き♡)
 (阿弥陀98.8センチ、観音70.8センチ、勢至70.3センチ)
伊豆山神社阿弥陀三尊(両脇侍が快慶)(好き♡)
埼玉県加須市 保寧寺・阿弥陀三尊(1196年)(宋慶)
個人蔵(埼玉保寧寺旧蔵)・不動明王三尊 (1196年)
 (不動76.4センチ、矜羯羅51.0センチ、制吒迦50.0センチ)
豆かんなみ仏の里美術館・勢至菩薩立像(実慶)(阿弥陀三尊の脇侍)
伊豆修禅寺大日如来坐像(宋慶)(1210年、103.6センチ) (♡)
神奈川県立歴史博物館・阿弥陀如来坐像(51.9センチ)
埼玉川口市 地蔵院・不動明王立像(53.3センチ)
諏訪仏法紹隆寺・不動明王立像(42.0センチ)(大好き ♡ )


1月20日
○トーハク「仁和寺と御室派のみほとけ~天平真言密教の名宝~」展
仁和寺観音堂・千手観音立像、風神雷神二十八部衆、降三世、不動(すべて17c)
大阪金剛寺五智如来(12c)
仁和寺・国宝阿弥陀三尊(888年)
仁和寺・吉祥天立像(10c)、愛染坐像(12c)、文殊菩薩坐像(13c、玉眼)、悉達太子坐像(院智、1252年、宋風)
宮城龍寶寺・釈迦如来立像(13c 清涼寺式、量感あり、にこやか)
香川長勝寺八幡神本地仏坐像(11c)
福井明通寺・降三世明王深沙大将(11 c)
三重蓮光院・大日如来坐像(10c)
京都遍照寺・十一面観音(10c)
大阪金剛寺大日如来坐像(12c)
大阪道明寺・十一面観音立像(8~9c)
広島大聖院・不動明王坐像(10c)
香川屋島寺・千手観音坐像(10c)
徳島雲辺寺
 千手観音菩薩坐像(経尋、12c)
 毘沙門天立像(慶尊、1184年)
 不動明王立像(慶尊、12c)
兵庫神呪寺・如意輪観音菩薩坐像(10c)
福井中山寺馬頭観音菩薩坐像(13c)

〇TNM & TOPPAN ミュージアムシアター
風神雷神図のウラ -夏秋草図に秘めた想い-

1月28日
○トーハク「仁和寺と御室派のみほとけ~天平真言密教の名宝~」展 2回目!
〇びわこ長浜観音ハウス 高月町西野・正妙寺の千手千足観音立像
ブリューゲル展(東京都美術館)(もちろん仏像なしw)

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以上

名古屋・栄国寺の丈六阿弥陀さま~悲しいから優しい~

 名古屋市中区の栄国寺。
 こちらのご本尊である丈六の阿弥陀如来さまを絶賛したいのだが、それにはまず、江戸幕府発足当初のキリシタン弾圧からひも解かなければならない。
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 栄国寺は処刑場の跡地に立つ。
 17世紀半ばには、罪人に混ざって、少なくともキリシタン200名がこの地で処刑されたそうだ。
 尾張藩二代藩主 徳川光友がその供養のため、犬山の薬師寺から丈六阿弥陀如来坐像を遷して建立した草庵が栄国寺の始まりだという。現在のご本尊である。

 境内の一角に今も切支丹塚が残る。異空間のようなその一角に立つと、ざわざわと恐怖が襲ってくる。
 罪状は窃盗でも詐欺でも、ましてや殺人でもない。ただ特定の信仰を捨てないという理由だけで、多くの人が処刑された。その史実の重さを一瞬にして感じたのだと思う。
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 その場を逃げるようにして、お寺のブザーを鳴らし、本堂の玄関に上げていただいた。しかし、それでもまだ許してくれないのが栄国寺だ。

 本堂手前の小さなスペースに、隠れキリシタンの遺物が展示されているコーナーがあり、ここを通過しないと阿弥陀さまのおられる本堂にたどり着けない仕組みになっている。
 いつもなら、周りに目を向けずに走って阿弥陀さまのもとに馳せ参じる私だが、この日はまずじっくり展示を拝見した。展示されていたのは、マリア観音のほか、梵字の中にジーザスのJとSの字を描いた不動明王の画像など。彼らはどのような気持ちで祈ったのだろう。
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 やっと本堂に入り、ご本尊阿弥陀如来さまにお会いした。像高223センチ、寄木造。定朝様の気品に、玉眼など鎌倉初期の若々しさも感じる麗しいお姿である。
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 つまり、私が好きで好きでたまらないお姿であられた!

 阿弥陀さまはいつもお優しい。
 しかし、栄国寺本堂のこの阿弥陀さまが特にお優しいのは、キリシタンの悲しい過去への共感と哀悼とともにおられるからではないだろうか。

 かつてのキリシタンの皆様はなぜ異教の神仏で供養されないといけないのかと思っておられるかもしれない。しかし、阿弥陀さまは地獄の苦しみへの理解が根底にあるからこそ、傷ついた衆生を極楽へ誘ってくださるのだと私は思う。だから、底抜けにお優しいのだ。

 阿弥陀さまのご慈悲に頼って、隠れキリシタンのご辛苦を想像するしかない私をどうかお許しいただけないだろうか。

※2015年11月の参拝記録です。
※写真は2018年6月に参拝した際に撮影したものです。テキストはそのままに、写真のみ差し替えました。

「仁和寺と御室派のみほとけ」展~優しい憤怒の降三世明王と深沙大将~

上野で開催中の仁和寺展では、福井県小浜市の明通寺さまから降三世明王立像と深沙大将立像がお出ましです。

降三世明王立像
平安時代11世紀
252.4センチ、一木造り、重要文化財
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(写真は明通寺さまのサイトより)

深沙大将立像
平安時代11世紀
256.6センチ、一木造り、重要文化財
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(写真は明通寺さまのサイトより)


<こわいけど優しい!>

大きな展示室の奥の壁を背景に、二体の巨大な憤怒の像が立ち並んでいました。

像高はどちらも250センチ超。ですが、もっと大きな印象を受けます。展示用の台の上に安置されているせいもあるのでしょうが、何よりも、巨大な材を使った一木造りであることが、像の迫力を増幅させているように思えます。どれだけの樹齢を経た巨木が使用されたのでしょう。しみじみと思いをはせてしまいます。特に、 深沙大将さまの堂々とした太い腰回りを会場でご確認ください。 斜め背面からじっくりと堪能できますので、ぜひ。

私が特に魅了されるのは、これだけ迫力がある憤怒の像でありながら、同時に平安後期の優しさと木彫の温かさが感じられる点です。平安前期の像のように、呪術的な恐ろしさがありません。迫力のお姿の奥に優しさが感じられるところが私は大好きです!

降三世明王さまは寺外初公開だそうです。頭の後ろのお顔も拝めますので、絶対にお見逃しなく。降三世明王さまの両手の組み方を真似するのも楽しいので、お勧めです。


深沙大将さまへの思い>

私は深沙大将さまが好きです。2015年、龍谷ミュージアムで「三蔵法師 玄奘」展が開催された際、薬師寺の村上定運さんのミニレクチャーを聴く機会があり、深沙大将さまについておもしろい話を伺いました。

孫悟空で有名な三蔵法師さまは、中国からインドに出かけ、多くのお経を持ち帰ったことで知られています。でも、それまでに何度も生まれ変わっているという話があるのだそうです。前世でも、前前世でも、さらに前前前世でも、とにかく生を受けるたびにインドに勉強に行こうとしたのですが、いつも同じ砂漠で遭難して命を落としてしまったのだとか。その都度、その砂漠で三蔵法師さまをお助けしようとしたのが、深沙大将さまだったというのです。

三蔵法師さまは何回目かのトライのときに、やっとその砂漠を突破でき、ついにインドに到着したのだそうです。深沙大将像は首からいくつもの髑髏(どくろ)をぶら下げていることが多いのですが、それはすべて三蔵法師さまのものなのだそうです。三蔵法師さまの前世、前前世、前前前世…の髑髏を身に付けることで、来世の三蔵法師を必ず助けようと誓いを新たにしたのではないか、という話でした。

孫悟空の話は諸説あるようで、上記の話も一つの物語に過ぎません。ただ、私は、この話を聞いてから、深沙大将さまの恐ろしいお姿の奥にある優しさがたまらなく好きになってしまいました。何度も何度もがんばったのに救えなくて、それでも何度も助けようとしたという、ディズニーのような美しい話です!

仁和寺展にお出ましの深沙大将像は、怒ったお顔なのに、不思議と優しさを感じます。龍谷ミュージアムで伺った深沙大将さまのイメージにぴったりなように思うのです! 

ちなみに、龍谷ミュージアム玄奘」展にお出ましだった深沙大将さまはこんなお姿です↓
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三重県鈴鹿市の神宮寺のお像で、仁和寺展には出展されていないのですが、胸に髑髏がたくさん付いているのが見えるでしょうか!? 明通寺の深沙大将さまは頭部にちょこんと一つ髑髏が載っているだけですが、快慶さんの深沙大将像も胸に髑髏のネックレスがあります。

孫悟空に登場する沙悟浄は、深沙大将さまがモデルなのだとか。私はカッパさんよりも、髑髏とかヘビとか童子の頭を身につけた深沙大将さまが好きです!

余談ですが、私はお酒が飲めないので、飲み会では必ずジンジャエールを飲みます。つまり、ジンジゃ(深沙)に声援(エール)を送っているのです! 


<実は薬師さまの脇侍>

ところで、明通寺の降三世明王さまと深沙大将さまはなんと、薬師如来さまの脇侍なのだそうです。
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(↑写真は『わかさの古寺 みほとけ巡礼』より)

像高144.5センチ。寄木造り。彫眼。12世紀。重要文化財

これは若狭までお参りに行かなければなりません!


※ちなみに、この『わかさの古寺 みほとけ巡礼』(平成5年、若狭文化叢書刊行会)という本の表紙は、なんと、なんと、こちらの 降三世明王さまでした。きっと若狭を代表する仏像なのでしょうね!
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古本屋さんで買ったときの値札が付いたままで失礼いたしました。降三世さまのこのアングル、かっこよいですね!

※なお、降三世明王深沙大将両像の 制作時期は仁和寺展のリストには11世紀とありますが、小浜市教育委員会のサイトには12世紀後半と記載されていました。 諸説あるのでしょうかね。

「仁和寺と御室派のみほとけ」展~ああ、千手観音さま!~

仁和寺と御室派のみほとけ~天平真言密教の名宝~」展(東京国立博物館

会期最初の土曜日となる1月20日に行ってきました。

平安時代の仏像が多く出展されており、ゆっくりと拝観できました。
木彫の優しいみほとけを前にすると、自分の中の嫌な塊が溶けていきます。
感動した点を書いてみます。

<遍照寺の十一面観音立像>

京都嵯峨の遍照寺のご本尊、十一面観音さまがお出ましです。ガラス越しではありましたが、昨年の春の特別公開のときより、思いっきり間近で拝めました! 
像高124センチ、桧の一木造。平安時代10世紀の作(989年頃)。

このような優しいお姿に私は完全にとろけてしまいます。
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この写真は昨年の京都の文化財公開のときの新聞記事。定朝の父、康尚との関わりを指摘する一文に胸が高なります。平安後期の優美な表現にシフトする初期の例ということなのでしょうか。彫刻史における意味が知りたくなり、『日本仏像史』(美術出版社、2001年)を開いてみました。

なんと、この遍照寺の十一面観音さまは、『日本仏像史』の平安後期の章に、写真付きで掲載されていました! 彫刻史の観点から重要な像のようです。少し長くなりますが、どのように記載されているのかをまとめます。

『日本仏像史』では、平安後期という時代区分をさらに細かく前期、盛期、後期と区分しています。このうち、「平安後期の前期」を西暦1000年前後の康尚の活躍期と定義しています。
その作例の特徴として、京都六波羅蜜寺薬師如来坐像(977年までに造立)を挙げ、「体躯にボリューム感があって体奥も深く平安前期風を遺すが、その卵形輪郭で、伏し目がちでおちょぼ口のおっとりした面貌が特徴的である」と記します。
さらに、続けて、このような面貌の例として、嵯峨遍照寺の十一面観音菩薩立像が、滋賀善水寺秘仏薬師如来坐像(993年)などと並んで紹介されていました。

遍照寺の観音さまは一木造りで、膝下には翻波式衣紋も見られます。しかし、その一方で、上記の説明にあるように、時代のベクトルが和様へと向かっていることを表す重要な一例なのだと思いました。


屋島寺の千手観音坐像>

香川県高松市屋島寺の千手観音さまも、お寺の宝物館でお会いしたときより、かなり間近で拝めました。

お寺の宝物館とは違って、ガラスケースに入っておらず、照明も柔らか。東京国立博物館さまの演出力、さすがです。

今回、間近で拝した屋島寺の観音さまは、私の記憶の中のそれとはだいぶ異なっていました。榧の一木造り。10世紀でも初頭の作と考えられるそうで、密教仏の妖しさに満ちています。今回、ガラスなしの展示なので、密教仏パワーをさらに強く感じられるのかもません。

よく見ると、腕が前方に飛び出しています。お顔は小さくまとまっていて、かわいらしくも、神秘的な印象を受けます。

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写真は高松市のサイトより。仁和寺展では台座はありません。

実は、昨年11月、兵庫県赤穂市、普門寺の千手観音さまをお参りしたときに、屋島寺の千手さまを思い出しました。同じ平安中期の千手観音さまです。
11月に私が撮った写真を貼っておきます。
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(↑普門寺の千手さま。仁和寺展には出展されていません!)
確かに似てはいるのですが、思っていたよりは印象が異なるように思いました。ご尊顔の印象が違うし、調べてみると、普門寺が像高120センチに対し、屋島寺は93センチと小さめでした。

同じ時期の千手観音坐像。似てるところと違うところを探すのはとても楽しいです。今回、調べてみると、この2つの像と大阪高槻の安岡寺の千手観音坐像が近似するという指摘を見つけました。安岡寺もお参りしたくなりました。

なお、トーハク会場では、屋島寺の観音さまの斜め後ろから、お背中を拝むことができます。光背はありますが、たくさんの腕をまとめる工夫が見て取れます。会期中にまたお会いしに行かなくては!

※なお、この記事を書くにあたり、屋島寺の千手さまの写真を探したのですが、写真によって大きく印象が異なるように感じられ、なんだかよくわからなくなったので、1月28日に仁和寺展を再訪しました。仁和寺展会場でお会いした屋島寺の千手さまは、どの写真とも違っていました。仁和寺展の図録の写真とも違いました。どう表現すればよいのでしょう。とにかく、かわいらしくて、力強いお姿でした。写真と実物の印象の違いはどこからくるのでしょう。屋島寺の千手さまだけで、かなり振り回されました…。本当に仏像は奥が深いです。


雲辺寺秘仏三尊>

徳島から雲辺寺秘仏がお出ましです。
ご本尊千手観音菩薩坐像は12世紀の作。像内の墨書により、「女大施主中原氏」という女性が施主となり、岡山出身の仏師、経尋(きょうじん)が作ったことが明らかになっているそうです。
屋島寺と比べると、かなり穏やかです。千手の腕も細くて、脇の下から控えめに横に突き出す感じ。
優しくて、でも、何かを訴えてくるようなご尊顔。
見ているだけで、ドキドキしてきます。
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(↑写真は仁和寺展の公式サイトより)

千手観音さまの像内に、「目アヘラカニナシタマエ」との墨書があるそうです。目を患った仏師がこっそり書き込んだのでしょうか? しかし、この観音さまは、目の病気に限らず、衆生の大きな苦しみに耳を傾けてくださるように私には感じられました。

仁和寺展では、屋島寺の千手さまと展示場所が近く、見比べができます。本当にありがたいです。勉強になりますし、そもそも楽しいです。

雲辺寺の千手観音さまは、不動明王立像と毘沙門天立像が脇侍です。徳島で活躍した仏師、慶尊により、12世紀に造られたと考えられるとのこと。
不動さまも毘沙門天さまも、本来はこわいお姿のはずなのに、平安後期の表現が優しいので、こわさがが中和されるのでしょうか。その辺りのバランスが私は好きです。



仁和寺展では、これ以外他にも素晴らしすぎる仏像だらけでしたが、今日のところはここまで。

それにしても、千手観音さまにはまってしまいそうです。どうしましょう!? どうしましょう!?



葛井寺千手観音菩薩坐像と仁和寺薬師如来坐像は2月14日からお出ましです。
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(駅のポスターから合掌手の部分だけを撮影しました! なんて美しいのでしょう!!)