<序文>
この記事は、来迎阿弥陀三尊にお会いした感動を叫ぼうと書き始めた筆者が、書いてる途中で「制作年代に二つの説がある」ことに気づき、あたふたする様子を書き残したものです。しばらく下書きフォルダーに放置していた文章を書き直し、引用文書の画像も添付しました。自分の不出来をさらすようで正直恥ずかしいのですが、実は、このようにあたふたするのも仏像の楽しさだと思い、ここに掲載することにしました。市と県の文化財サイトで制作年代の説明が異なるのです! 詳しくご存知の方がおられましたら、教えてください。この阿弥陀三尊像は誰がいつ造ったのでしょう!?
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<吉良町の金蓮寺さま!>
西尾市吉良(きら)町の阿弥陀さまめぐり。海蔵寺に続く2か寺目は金蓮寺(こんれんじ)です。
金蓮寺の創建は鎌倉幕府の成立の頃。1186年、源頼朝の命により、三河守護の安達盛長が建立した三河七御堂(しちみどう)のひとつと伝えられます。『東海美仏散歩』で拝見して以来お会いしたかった憧れの阿弥陀三尊さまは、国宝の弥陀堂の中におられました。
<来迎の阿弥陀三尊!>
金蓮寺(曹洞宗、愛知県西尾市吉良町)
阿弥陀三尊
寄木造、玉眼、県指定文化財
阿弥陀80センチ、観音79.4センチ、勢至80.4センチ
なんとも麗しい来迎の阿弥陀三尊。中尊さまは上品下生の来迎印を結んでおられます。観音菩薩さまは両手で蓮の花を差し出し、勢至菩薩さまは合掌。両菩薩さまが腰をかがめて、死者を極楽へと迎え入れます。
来迎像はやはりこのアングルから。観音勢至菩薩が腰をかがめて救いにきてくださる様子に胸が震えます。
勢至菩薩さま側からだとこんな感じ。ますます胸が高鳴ります!
そばで拝見しますと、思った以上に両菩薩さまは肉付きがよいのです。鎌倉初期の阿弥陀仏と言えば、快慶さんが美しいお像をたくさん作られています。しかし、金蓮寺の三尊は快慶の阿弥陀さまたちとは少し違う感じを受けました。素人考えではありますが、快慶流であれば、もう少し繊細で華奢な感じに仕上げるのではないかと思いました。特に腰回りはかなりふくよかです。
もちもちとした量感豊かなお姿から、鎌倉市の光触寺の頬焼阿弥陀さまを思い出しました。運慶流の阿弥陀とも言われる三尺の立像です。似ているように思えるのは、どちらもお肌が黒いせいもあるかもしれません。でも、あえて二者択一とするなら、快慶風といえより、運慶風なのかなあと思いました。(このパラグラフを書いたことを後悔することになるのですが、その理由は本記事の後半に記しています)
(参考画像 鎌倉市の光触寺の頬焼阿弥陀如来さま。写真は2018年金沢文庫運慶展図録より)
金蓮寺の阿弥陀三尊さまは、平成19年から20年にかけて修復されたそうです。江戸時代の修理の際に塗られた塗膜が除去され、みずみずしいお姿が現れました。観音菩薩さまの両肘より先や台座の最下部など、欠損部分も補われました。お姿が黒っぽく見えるのは、このときの修理により黒漆層が露出したためだそうです。元々は漆箔で、螺髪は群青、台座の蓮弁は緑に彩色されていたとのこと。目を閉じて、造立当時の華やかなお姿を想像してみました。
<いつ造立されたのですかっ!?>
と、ここまで書いたところで、制作年代について衝撃の事実を発見しました!
西尾市のサイトでは、三尊とも鎌倉時代と明記しています。それを頼りにお寺で拝観し、妄想膨らませてここまで書いてきました。
西尾市の文化財サイト↓
しかし、愛知県のサイトを見たところ、観音勢至菩薩は江戸初期の再興像だと書いてあるではありませんか!!
愛知県のサイト
愛知県のサイトから、以下、肝心のポイントを引用します。
「両脇侍像は、特に服装において鎌倉時代的な要素を示しながらも、形式化が進んでおり、江戸時代初め頃の復古的な作例と考えられる。
一方、台座は三組とも鎌倉時代のものと認められ、当初から三尊像として制作されたことは間違いない。のち、両脇侍の本体が失われ、現脇侍が補作されたと考えられる。
平成21年(2009)に両脇侍像が追加指定された」
つまり、鎌倉時代に三尊そろって造立されたものの、脇侍の観音勢至両菩薩は傷んだため、江戸時代初期に、元々の像のお姿をまねて新たに作り直した、という説を愛知県は採っておられるのです。
まさか…。そう思って、あらためて金蓮寺さまのリーフレットを読み直してみました。
このリーフレットでは、三尊像について、まず、「江戸時代の修理の際に塗られた塗膜が取り除かれたことで、像の印象が一新され、阿弥陀三尊像の瑞々しい表情がよみがえ」ったことを指摘し、さらに、制作年代については、「三尊像の台座の蓮肉部分及び光背は鎌倉時代の製作との評価で専門家の見解は一致していますが、三尊像本体の年代は弥陀堂と同時期の鎌倉時代とする意見と、やや時代が下るとの指摘もあり一致をみていません」と書いています。
つまり、鎌倉時代という説とやや時代が下るという説の二つが明記されています。脇侍だけ新しいという記述はありません。
(↑金蓮寺リーフレットより)
まとめますと、
愛知県サイト=阿弥陀は鎌倉、両脇侍は江戸初期
金蓮寺リーフレット=「鎌倉説」と「それよりやや時代が下る説」を併記(ただし、本尊と脇侍の制作時期が異なるかどうかには言及なし)
ということになります。
さらに、冒頭で言及した書籍『東海美仏散歩』を見直すと「平安時代」と書いてありました。これはさすがに誤植だと思います。そして、この本のブレーンだった方が運営する仏像ワンダーランドさんのサイトには、愛知県のサイトと同じく、脇侍は江戸とありました。
(↑『東海美仏散歩』はなぜ平安時代と記述したのか…)
愛知県サイトの記述を冷静になって何度も読み返しますと、快慶風だの運慶風だのと、わくわくしながら書いていた自分はなんとも間抜けに思えてきます。運慶の頃ではないとしても、慶派の影響を受けた仏師の作だろうと思いこんでいました。どんなに時代が下っても、鎌倉後期ぐらいかと。
そして、二つの説を明記したお寺のリーフレットがとても誠実なように思えてきます。
文献によって制作年代が違うとは。しかも、市と県で違うとは……!
三尊そろって鎌倉なのか、脇侍だけが江戸初期の作り直しなのか…。今後、新たな資料の発見などにより、さらに研究が進むことを願います。
なお、余談となりますが、東京の調布市に江戸時代初期の観音三十三身像(調布市指定文化財)が伝わります。鎌倉時代の慶派を模したことが一目でわかります。鎌倉時代の仏師を見本に江戸時代の仏師が鑿をふるったことでしょう。江戸の仏師に思いをはせ、感動したことを思い出しました。
(↑参考画像 調布市、西光寺の観音三十三身像の一部。毎月18日にご開帳なので、お近くの方はぜひ!)
もし金蓮寺の観音菩薩と勢至菩薩が江戸時代初期の作り直しだったとしたら…。きっと鎌倉時代の仏像を必死で勉強したのでしょう。それも尊いと思います。