名古屋市中区の栄国寺。
こちらのご本尊である丈六の阿弥陀如来さまを絶賛したいのだが、それにはまず、江戸幕府発足当初のキリシタン弾圧からひも解かなければならない。
栄国寺は処刑場の跡地に立つ。
17世紀半ばには、罪人に混ざって、少なくともキリシタン200名がこの地で処刑されたそうだ。
尾張藩二代藩主 徳川光友がその供養のため、犬山の薬師寺から丈六阿弥陀如来坐像を遷して建立した草庵が栄国寺の始まりだという。現在のご本尊である。
境内の一角に今も切支丹塚が残る。異空間のようなその一角に立つと、ざわざわと恐怖が襲ってくる。
罪状は窃盗でも詐欺でも、ましてや殺人でもない。ただ特定の信仰を捨てないという理由だけで、多くの人が処刑された。その史実の重さを一瞬にして感じたのだと思う。
その場を逃げるようにして、お寺のブザーを鳴らし、本堂の玄関に上げていただいた。しかし、それでもまだ許してくれないのが栄国寺だ。
本堂手前の小さなスペースに、隠れキリシタンの遺物が展示されているコーナーがあり、ここを通過しないと阿弥陀さまのおられる本堂にたどり着けない仕組みになっている。
いつもなら、周りに目を向けずに走って阿弥陀さまのもとに馳せ参じる私だが、この日はまずじっくり展示を拝見した。展示されていたのは、マリア観音のほか、梵字の中にジーザスのJとSの字を描いた不動明王の画像など。彼らはどのような気持ちで祈ったのだろう。
やっと本堂に入り、ご本尊阿弥陀如来さまにお会いした。像高223センチ、寄木造。定朝様の気品に、玉眼など鎌倉初期の若々しさも感じる麗しいお姿である。
つまり、私が好きで好きでたまらないお姿であられた!
阿弥陀さまはいつもお優しい。
しかし、栄国寺本堂のこの阿弥陀さまが特にお優しいのは、キリシタンの悲しい過去への共感と哀悼とともにおられるからではないだろうか。
かつてのキリシタンの皆様はなぜ異教の神仏で供養されないといけないのかと思っておられるかもしれない。しかし、阿弥陀さまは地獄の苦しみへの理解が根底にあるからこそ、傷ついた衆生を極楽へ誘ってくださるのだと私は思う。だから、底抜けにお優しいのだ。
阿弥陀さまのご慈悲に頼って、隠れキリシタンのご辛苦を想像するしかない私をどうかお許しいただけないだろうか。
※2015年11月の参拝記録です。
※写真は2018年6月に参拝した際に撮影したものです。テキストはそのままに、写真のみ差し替えました。