1) きっかけは本堂横の万目供養仏
Stay home期間中、「徒歩か自転車で」「人に会わない」という仏像拝観マイルールを決めて、ぼちぼちと地元のお寺に出かけていた。厚労省の勧告でも、体力維持のための最低限の外出は認められていたので、それをベースに、拝観マイルールを決めたのだ。つまりは、電車は使わず、予約拝観はせず、ご朱印も拝受しない、というスタイル。
このような限定的な拝観スタイルではあったが、それでも、思いもがけない感動的な出会いに恵まれた。日本の仏像レベルはやはり高いのだ!
特に心惹かれ、癒されたのが、相即寺(そうそくじ)本堂横の覆屋に安置される江戸時代の銅造の地蔵菩薩坐像だった(八王子市有形文化財)だった。通称、万目供養仏。像高116センチ。温かく穏やかなお姿から、すべての人を包み込むような包容力を感じた。
台座連弁の刻印から、安永3年(1774)、柚木落合(多摩市)の田中播磨義知(たなかはりまよしとも)という仏師が制作し、横川町滝原(八王子市)の加藤甚右衛門白鎧(かとうじんうえもんはくがい)という鋳物師が鋳造したことが分かっている。台座の完成は安永5年(1776)。
この万目供養仏についてブログに書いたところ、畏れ多くも山本勉先生からご助言いただき、仏師である播磨義知ついて調べることができた。播磨義知の子孫がまとめた資料(田中登「仏師 田中播磨義智について」『ふるさと多摩 No.8 多摩市史年報 平成9年』 編集 多摩市史編集委員会)を多摩市文化財課から送っていただき、播磨の他の作例が多摩地域に残ることを知ることができたのである。常久寺(東京都府中市)の不動明王及び童子像(宝暦13年(1763))などが現存する。
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2) 相即寺本堂
2-1) 黒本尊さまは鎌倉時代?
このように資料を少しずつ調べる中で、相即寺さまに連絡してみたところ、相即寺本堂に、黒本尊と呼ばれる阿弥陀如来坐像がまつられていることを教えていただいた。お送りいただいた写真を拝見すると、かなり古いもののように思われたので、お願いして拝観させていただいた。黒本尊といえば、増上寺の阿弥陀如来立像を思い出すが、八王子にも同じ通称の阿弥陀様がおられるとは知らなかった。
黒本尊様は本堂中央、ご本尊様の裏側で、大切におまつりされていた。間近でお会いすると、写真以上に凛々しい。厳かで、しかも、かっこいい。
そのお姿に見とれつつも、気になってくるのが制作時期である。
寺伝によると、天文15年(1546)、忍誉上人が相即寺を開創した際に、鎌倉光明寺の法誉上人から伝えられたのだという。そして、相即寺の現在のご本尊阿弥陀如来坐像が1745年に造立されるまでは、この黒本尊がご本尊だったと思われる、とのことだった。
寺伝通りであれば、本像は1546年かそれより前に造立されたということになる。素人目には、どんなにさかのぼっても鎌倉後期で、室町から江戸初期ぐらいが順当かなと漠然と思ったのだった。特に、螺髪のぐりぐり模様は江戸以降のような気がするのだが…。
ところが、相即寺様を出てから、八王子市郷土資料館で資料をみると、なんと鎌倉時代と書かれていた。驚いた!
『八王子の仏像ー八王子市仏像調査報告書/北部篇 1974ー』(八王子市教育委員会)には、以下のように記載されていた。
<引用始め>
阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)寄木造、玉眼嵌入、像高44.0 膝張34.0
白毫水晶嵌入。来迎印を結び、袈裟をつけ結跏趺坐する。布下地の上に漆を塗り、その上に箔を置いていたようである。現在、肩、腹部、膝部、背面などにその箔が残っている。
この像は、当時(原文ママ)の開山忍誉が鎌倉光明寺より持ち来ったものと伝えているが、「新編武蔵風土記稿」や「武蔵名勝図会」などには、忍誉がもってきたものとすれば、当然、当寺の建立当初より在したことになるが、先の二書にはこの阿弥陀像のことについては何も触れていない。この像は、唇の輪郭を明確にあらわし、衣文を複雑に彫出するなど、多分に宗風の影響がみられる。そして衣文の表現などは力強く、写実性に富んでおり、ひきしまった面相とともにこの像の優秀性を物語っている。(第1・2図)
<引用終わり>
また、相即寺様が出版された『相即寺 起立四百五十年記念写真集』(平成9年、発行=相即寺住職豊島康明、写真撮影=弟 豊島良信、調査=妹 山極和子)には、以下のように記載されていた。
<引用始め>
黒本尊(寺伝の名称)
当寺開山忍譽上人へ、鎌倉光明寺の法譽上人から、伝えられた阿弥陀如来坐像
相即寺起立以来の本尊様
十二主楽誉上人代に「秘仏」とし、新しい本尊を奉建した。
昭和六十三年九月 法印西村公朝師が来山、鑑定された結果<肉身部一体型>(頭、胸、腹が一続きの作り)という鎌倉時代中期の文永、建治年間の作で、天台系の仏像であることがわかる。なお、蓮台は室町時代、光背は江戸時代の作であるとのこと。
① 戦後、東京都文化財調査委員が視察に来られた時の写真を生前母ヤスからもらったもの 2枚
② 二十八世讃誉代にお身拭いし、台座光背を修理彩色した後の写真 1枚
③ 昭和六十三年の鑑定依頼の前に撮影した写真6枚
<引用終わり>
上記の二つの文献は、いずれも昭和の調査結果であり、最新の研究成果を踏まえたものではないとはいうものの、鎌倉時代という鑑定結果には驚いた次第である。
例えばだが、黒本尊の造立は鎌倉時代だったが、現本尊が造立される1745年頃までに一部が修復されたという可能性はないのだろうか?
西村公朝さんの調査記録が気になるところである。仏像の鑑定は研究の進展に応じて変わることもあるので、令和の時代の鑑定を仰ぎたいとも思った。
2-2) 現在のご本尊阿弥陀如来坐像
現在のご本尊阿弥陀三尊は大きな本堂の中央におられる。上記の黒本尊様に代わり、1745年、新たに造立されたものと伝わる。本堂が大きいので、相応する大きさの本尊が求められたからではないか、とご住職から伺った。
八王子市の資料によると、黒本尊様の像高は44センチで、現在のご本尊様の像高は100センチ。脇侍のおられない黒本尊様に対し、現本尊様は観音菩薩勢至菩薩の両脇侍を従え、確かに、大きな本堂と調和しているように見えた。
銘文から、江戸浅草の仏師によるものであることが分かっている。制作年度と仏師名が判明する、江戸中期の貴重な作例なのだそうだ。
大きくて穏やかにほほ笑まれており、見上げていると心がほくほくしてくる阿弥陀三尊様だった。極楽浄土に迷い込んだような感覚になる。
この中尊阿弥陀様については、1974年の市の仏像調査報告書に詳しい記述があるので、引用したい。
『八王子の仏像ー八王子市仏像調査報告書/北部篇 1974ー』(八王子市教育委員会)より引用する。
<引用始め>
阿弥陀如来坐像(江戸時代中期)寄木造、玉眼嵌入、像高約100.0
上品上生印を結び、蓮台上に結跏趺坐する。当寺の本尊である。この像については「新編武蔵風土記稿」などにも記載があるが、先年、当像の胎内より墨書銘のある木札が発見され、それによってこの像の造立年代及び作者を明確にすることができる。
(胎内納入札墨書銘)(木札竪17.0横9.2)
(表)(縦書)
東原山相即寺十二主
信蓮社楽誉鎮□生阿代
江戸浅草新寺町大仏師
高木内■作
延亭二丑年十月朔日入仏
(裏)(同)
開眼大導師増上寺
大僧正尊誉大上人
願主覚峯建立者也
察□ 遵問
当寺弟子専登 論問
この銘により、江戸浅草の仏師高木内■によってつくられ、延亭二年(1745)に入仏されたことがわかる。そしてこの像の造立の願主は覚峯と記されており、覚峯が造立の発願者であることが知られるのであるが、この覚峯については詳細なことは不明である。しかし同じく当寺地蔵堂より発見された位牌にも、覚峯がこの阿弥陀像を造立したことが記されており、覚峯が発願者となっていたことを確実にし得るのである。すなわち
(表)(縦書)(位牌総高45.5)
専覚浄心信士 願主
奉建立阿弥陀如来 覚峯徳岸
亨岳如元信女
(裏)(同)
武州八王子田中相即寺
本尊
六十六部供養新鳥越四丁目徳岸
とある。また同じく銘文中、相即寺十二主蓮社楽誉は、後述の安永五年(1776)造立の金堂地蔵菩薩坐像の台座刻銘にその名が見えており、この地蔵菩薩造立の願主となっている。
また、この像は、制作年代及び作者を明確にしていることで貴重なものであり、八王子に存する江戸中期頃の江戸仏師の代表的作例とすることができる。面貌、胸部の肉付きなどに平板さが目につくが、盛り上がった膝にかかる衣文、また左肩より垂下する衣褶は複雑に変化し、彫りも深く、その彫技には熟達したものが認められる。なお光背はやや大に過ぎるようであるが、台座ともに本尊と一ぐのものと思われる。
<引用終わり>
※□はPCで入力できない文字。■はしんにょうに、斤と似た文字。
2-3) 阿弥陀如来立像(江戸時代)
近くの喜願寺という時宗のお寺にあったお像だという。明治6年に火災にあい、お身体の両側面に炭化した焼け跡が残る。素朴で味わいのあるお姿である。
『八王子の仏像ー八王子市仏像調査報告書/北部篇 1974ー』(八王子市教育委員会)より引用する。
<引用始め>
阿弥陀如来立像(江戸時代)一木造
来迎印を結ぶ弥陀の立像であるが、両手首を矧ぐほかは、台座まで一木である。そして素木像であり、目や唇に僅に彩色があるに過ぎない。なおこの像には、右側面に大きな焼痕と思われる損傷がある。一見して素人作と思われる像である。頭部は円筒状で、長く、また両手首や両足先は大きく、粗雑につくられている。衣文の彫りなどにも稚拙なところが見え、けっして優れた出来とはいえないが、この拙いところに形式化されない一種の力強さを感じるのである。
<引用終わり>
2-4) その他の諸像
本堂には、これ以外にも印象的な諸像がまつられている。調査しきれていないため、写真のみ掲載する。
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