ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【埼玉】熊谷・源宗寺の木彫大仏坐像(地方仏最高と叫びたくなる平戸の大ぼとけさま)

2018年12月8日
埼玉県熊谷市平戸・源宗寺
木彫大仏坐像(平戸の大ぼとけ)=薬師如来坐像観音菩薩坐像
約350センチ
江戸時代
熊谷市指定文化財

 熊谷駅から東北に2キロ余り。小さなお堂の中に、大きな大きな仏さまがおられた。それも薬師如来さまと観音菩薩さまという不思議なラインナップのニ躯。お堂の中にぎゅうぎゅう詰めの感じで座られていた。もしも仏様が立ち上がられたら、天井が壊れてしまう…。
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 今年一年、各地を旅して仏像にお会いしてきたが、最後にこのような独特な仏様にお会いできるとは。写真には収まりきらない迫力。それでいて、ものすごく親しみのわくお姿。地方仏、最高です!!!
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 源宗寺は鴻巣市の勝願寺の末寺で、官の支援を受けずに所有者である藤井家が継承してきた。仏像の胎内にあった秘伝書によって調合した薬が「平戸の妙薬」として有名となり、かつては近隣から参詣者が絶えなかったそうだ。

 しかし、近年では大仏坐像の公開はされておらず、今回のような一般公開は戦後初だという。2019年、老朽化したお堂の修理を予定しており、市民の機運を高めるために公開に踏み切ったそうだ。

 確かに、お堂は床が傾いていて、観音さまも傾いておられた。いつ床が抜けるかわからない。仏像の重量を考えるとかなり心配である。
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(↑観音さまの床下が空いていた)

 浄財支援の詳細はこれから発表されるようだ。微力ではあるが、必ず協力したい。

【来迎会】これまでお参りした二十五菩薩練供養リスト

 

1) 阿弥陀仏と二十五菩薩の「練供養」「来迎会」とは

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(↑岡山県久米南町・誕生寺)

 阿弥陀さまが二十五菩薩を従えてお迎えに来てくださるー。聖衆来迎の様子を現世の私たちの目の前に出現させようとするのが二十五菩薩の練供養です。人々が菩薩の面を被り、きらびやかな菩薩の装束を着て、練り歩きます。「迎え講」「来迎会(らいごうえ)」などとも呼ばれます。正式名称はお寺によって様々です。

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(↑岡山県瀬戸内市牛窓弘法寺

 

2) 日本三大練供養

 誰が言い出したのか知りませんが、奈良の當麻寺、岡山の誕生寺と弘法寺で毎年行われているものが、日本三大練供養と呼ばれています。それぞれ歴史も運営体制も異なりますが、日本三大という呼び名も納得の素晴らしさです。最初に練供養を観に行きたい人には特にお勧めします。

 當麻寺の開催日はこれまで毎年5月14日でしたが、温暖化の影響もあり、2019年から4月14日の開催に変更されます。観音勢至菩薩の迫力ある歩みと中将姫さまのお迎えシーンが感動的です。護念院の住職がうたわれる極楽和讃が泣けます。

 牛窓弘法寺は毎年5月5日。こちらは木造の阿弥陀如来像の中に、地元の男性が入って、菩薩様を迎えてくれます。体内をくりぬき、着ぐるみのように中に人が入れる木彫像(「迎講阿弥陀如来」「被仏」と呼ばれている)が実際に使われているのは日本でここだけです。菩薩さまは二十五菩薩ではなく、六観音と呼ばれています。観音さまが両手を静かにこすって、中将姫さまを迎え入れるシーンは感動的です。

 岡山県の美作誕生寺は毎年4月の第3日曜日に開催されています。浄土宗の開祖、法然上人がお生まれになった場所に建てられたお寺です。練供養では、法然さまのお父様とお母様の像が毎年交代で運ばれます。中将姫さまは登場しません。練供養の列は境内を飛び出し、参道沿いの地蔵堂との間を往復します。

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(↑奈良県葛城市・當麻寺

 

3) 実は多種多様な練供養が存在します

 一方、それ以外の練供養もそれぞれ味があります。これまで感動しないものに出会ったことがありません。町のお祭り的な感じの練供養もあります。二十五菩薩が全員揃わないお寺もあります。雅楽の演奏もなくひたすら念仏を唱えながら歩くところもあります。太鼓のリズムが終始流れる練供養もあります。菩薩さまがエレガントで、ファッションショーかと見紛うものもあります。菩薩役を務めるのが小学生のみという練供養もあります。幼少のときから聡明で優しかった中将姫の徳にあやかろうという意図で、子どもが菩薩になるのだそうです。

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(↑兵庫県加古川市・教信寺)

 

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(↑和歌山県有田市・得生寺)

 

4) 夢中になってしまうんです

 私が阿弥陀来迎の練供養というものの存在を知ったのが、確か21世紀を迎えた前後。初めてお参りした奈良の當麻寺で、菩薩さまが練り歩く写真を見て心が震えました。最初に思ったのは、「これは大好きな仏像が動いちゃうやつだ~。どうしましょ~」でした。いつか実際に見に行かなければと思いました。

 仕事や子育てでバタバタしている間に月日は流れ、実際に練供養を見に行くようになったのは2011年以降です。

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(↑大阪市・大念仏寺)

 ほんの数年の間に阿弥陀来迎の練供養に完全にノックアウトされました。

 行けば行くほど深みにはまります。

 おごそかな菩薩面を被り、きらびやかな装束を身にまとった菩薩さま。思わず手を合わせてしまいます。ですが、近くで良く見ると、合掌した手の先が緊張で震えていたり、光背が安全ピンで留められていたりします。その「聖と俗の狭間」が垣間見られるのも、たまらない魅力なのであります。

 

5) 私がお参りした来迎会リスト

 そんなこんなで、今年はなんと6か寺もの練供養を観に行ってしまいました。

 練供養は大半が4月と5月に実施され、僅かですが秋に挙行されるものもあります。今年の秋の練供養シーズンも終了しましたので、これまでに出かけた練供養をリストアップしてみました。ブログにまとめたものはリンクを貼っています。

 本当はもっとうまくまとめて、阿弥陀来迎の練供養の素晴らしさを伝えたいです。追々修正したり、新たな記事をアップしていければと思います。

 
2011年
8月16日 東京都世田谷区・九品仏浄真寺

2012年
5月14日 奈良県當麻寺

2013年

(5月23日 奈良国立博物館當麻寺」展)
(11月23日 岡山県立美術館「極楽へのいざない」展)

2014年
8月16日 東京都世田谷区・九品仏浄真寺

2015年

4月5日 兵庫県加古川市・教信寺(50年に一度、教信上人のお首の像が観音菩薩によって運ばれる)
5月3日 奈良県久米寺
5月4日 大阪市・大念仏寺
5月5日 岡山県瀬戸内市牛窓弘法寺

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2016年
4月17日 岡山県久米南町・誕生寺

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10月16日 京都市・即成院

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2017年
3月19日 長野県小諸市十念寺小諸市主催・第6回郷土伝統芸能のつどい)

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4月16日 岡山県久米南町・誕生寺
5月3日 兵庫県加古川市・西方寺(浄土宗西山禅林寺派

 

5月4日 大阪府大阪市・大念仏寺 万部おねり

10月8日 福島県喜多方市・願成寺

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2018年
4月29日 奈良県當麻寺練初め
4月30日 大阪府八尾・常光寺

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5月12日 兵庫県神戸市・太山寺
5月14日 和歌山県有田市・得生寺

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9月2日  愛知県愛西市・勝軍延命地蔵菩薩堂

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10月28日 奈良県宇陀市大宇陀 慶恩寺

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6) 練供養で最も大切なこと「信じるから強くなれる!」

 最後に大事なことを書きます。

 臨終のとき、阿弥陀さまが雲に乗ってお迎えに来てくださるーー。そう信じるための手段が練供養です。そして、そう信じることで、日々を強く生きていけるのだと思います。

 

【静岡】河津町・善光庵の十一面観音立像

2018年11月23日
善光庵 (河津町
 十一面観音立像(158センチ 針葉樹 一木造り 10世紀 県指定文化財

 伊豆半島の南部、静岡県河津町。河津川の河口から川沿いに2キロ余りの丘陵の中に、善光庵という小さなお堂がある。すぐ近くに「峰温泉大噴湯公園」「伊豆踊り子会館」という温泉施設があるが、少しだけ坂を登った先のお堂の周辺には、観光客も温泉客も見当たらない。とても静かなお堂である。

善光庵・十一面観音立像

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 仏友さんが予約してくれて、管理人の正木さんが鍵を開けてくださった。手慣れた様子でお香をたき、厨子を開けてくださると、黒く神々しい観音さまが目の前に現れた。
 等身大だが、それ以上に大きく見える。
 左右の眉毛がつながる不思議で優しいご尊顔。頭上の化仏はお顔をはっきりと彫り出さない。一番上の化仏は女神像のように見え、目を奪われる。
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 脚部の下の方が少し寸足らずな感じがするが、そんなアンバランス感も素敵に思えてしまう。
 江戸時代に火災で本尊を失ったため、近くの南禅寺から移されたという説もあるそうだ。「南禅寺から持ち込む際にお堂に入りきらず、脚を切った。切断した者の目におがくずが入り、失明した…」という恐ろしい話も伝わるそうだが、平成30 年秋のこの観音像からは、静かな慈愛しか感じられなかった。
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 腹部から脚部にかけての衣文が美しい。
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 背面は、前面の印象とは異なり、驚くほどのっぺりとしていた。彫りのあとがないのである。表情のない化仏と背面。霊験を感じてしまうのは、そうした仕掛けによるのだろうか。(↑上の写真は上原美術館の過去の図録より)
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南禅寺から流出したのか

 気になるのは、もともと南禅寺におられた仏像なのかという点である。
 善光庵のあと、「伊豆ならんだの里 河津平安の仏像展示館」に行き、南禅寺の仏像群を拝観した。地蔵菩薩立像と眉毛の感じなどが似ているように感じたのだが、実際のところはどうなのだろう?
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(↑南禅寺地蔵菩薩立像。写真は特別に許可いただいた)
 なお、南禅寺から流出したとされる仏像には、京都西往寺の宝誌和尚像や仙台の成覚寺の観音立像、沼津の龍音寺の観音立像、千葉県山武市称念寺聖観音立像などがあるそうだ。他にもどこかにあるのだろうか。写真(↓)は仙台・成覚寺の観音像(2016年11月に参拝)。
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 私は仙台と沼津を一度お参りしており、宝誌和尚像は展覧会でお会いしているが、そうした流出仏を一度に拝観できる機会があるとありがたい。一度に見比べないと相違点がよく理解ができないので…。素人の素朴な願いである。


 最後に、拝観の機会をいただけたことが大変ありがたく、感謝申し上げたい。管理人の正木さんは先祖代々お堂をお守りされているそうで、うらやましい限りである。
 厨子の中に、防虫剤が吊してあった。小さな気遣いに、観音さまへの大きな愛が垣間見えた。お線香の香りの向こうに漂う防虫剤の匂いが、これほど愛おしく感じられたことはない。


参考
静岡県の仏像めぐり ほとけ道里あるき』(平成17年、静岡新聞社

【山梨】大善寺ぶどう薬師さまのご開帳(2018年)

大善寺のご開帳!

 山梨県甲州市勝沼大善寺で5年ぶりの秘仏薬師三尊ご開帳があり、お参りしてきた。
 大善寺は養老2年(718年)、ぶどうを手にした薬師如来を感得した行基がその姿を刻み安置したと伝わる古刹である。今年は開山1300年のメモリアルイヤーでもあった。2018年のご開帳は10月1~14日の二週間。私は7日の朝一番にお参りした。

秘仏はご本尊の薬師三尊!

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(↑写真は大善寺リーフレットより)
薬師如来坐像86.7cm、日光菩薩立像102.6cm、月光菩薩立像101.8cm。三尊ともにサクラの一木造りで、重要文化財

 私はとにかくこの三尊が大好きだ! 平安時代の優しさと安定感を放つ秘仏薬師三尊。にこやかに、ゆったりと坐す薬師さま。どっしりした威厳がありながら、かわいらしくもある。
 片手を下に垂らし、手の甲を翻す日光月光菩薩立像はチャーミング。リズミカルなその動きに私の心も踊り出す。
 5年ぶりのご縁が本当にありがたい。
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(↑写真は大善寺HPより。にこやかゆったりの薬師さま! 大好き~)
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(↑某書籍に掲載の写真をコラージュ。かわいい!)

蓮慶の十二神将と日光月光菩薩立像!

十二神将(1227年 145.9~138.2cm 桧の一木造り及び寄木造り 玉眼)
日光月光菩薩立像(1227年 日光菩薩248.0cm、月光菩薩 247.0cm 桧の寄木造り 玉眼)

 秘仏薬師三尊のおられる堂内には、さらに、140センチ前後の十二神将と250センチ弱のもう一組の日光月光菩薩立像が一直線に並ぶ。なんとも壮観だ! 秘仏三尊を含め、これら17躯すべてが重要文化財。諸仏の住まわれるお堂は国宝である。
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 (↑写真は甲州市観光協会Twitter 2018.10.3より)
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(国宝の薬師堂は1286年に建立。堂内の厨子も国宝で1355年のもの)

 秘仏本尊の両側に並ぶこれらの十二神将と日光月光菩薩立像は、鎌倉時代1227年、慶派の影響を受けた蓮慶という仏師によるものと考えられている。
 近年の十二神将の調査で、江戸時代の修復による塗装を取り除いたところ、武田信玄の時代の赤い彩色が現れた。通常の保存修理では、制作当時の状態に戻すのが基本だが、この十二神将はそのようにせず、戦国時代の彩色を残すことにしたのだそうだ。したがって、大善寺十二神将は今も、武田軍と同じ赤色を身にまとっている。鎌倉時代の彫刻に戦国時代の甲冑の赤色という組み合わせは感動的だ。
 十二神将はそれぞれ個性的だが、仏像ファンに特に人気なのが因達羅大将だ。この像だけなぜかノースリーブで、筋骨隆々の腕をさらけ出している。

 2メートル超の長身の日光月光菩薩両立像は、文永7年(1270年)に火災で堂とともに焼失した「新丈六仏」の脇侍像であった可能性が指摘されている。丈六薬師が坐像であれば、脇侍の立像としてふさわしい大きさである。

 仏師の蓮慶は、甲斐で活躍した仏師なのだろうか。他の作例としては、山梨県笛吹市・福光園寺の吉祥天坐像と持国天多聞天立像の三尊像が知られる。以前、予約して拝観させていただいたのだが、吉祥天さまは強くて優しく、それを支える二天像もまた強くてかっこよかった。元気をくれる三尊なのである。
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(↑2014年11月参拝時。写真ボケボケですみません)
 大善寺の蓮慶仏は秘仏ではないので、いつかまた、開帳以外の静かなときに、のんびりお参りしたい。その時は福光園寺も合わせてお参りし、蓮慶仏を堪能したいものだ。

大善寺と言えばぶどう!

 勝沼行基が薬としてぶどうの栽培を始めた場所とされ、本尊の薬師さまもぶどうの房を手に持っておられる。勝沼駅から臨む盆地には幾つものぶどう園が広がり、大善寺でもぶどうの栽培とワイン醸造も行っている。私はワインは飲めないが、ぶどうが大好きで、ぶどうをぜいたくに使ってスムージーにしたりする。つまり、大好きな仏像と大好きなぶどうが存分に楽しめるのが大善寺勝沼なのである。秋に大善寺を参拝できるのであれば、近くのぶどう園で新鮮で美味のぶどうを安く買い、行基さんを思いながらいただくことを提案したい。
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(↑インスタ映えをねらったのか、ぶどうがオブジェのように並べられていた)

ご朱印ご朱印

 今回、特別ご朱印が授与されていたが、そこにもぶどうが描かれている。
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 前回のご開帳のとき、一目惚れして購入した大善寺ご朱印帳にも、当然のごとく、ぶどうがデザインされている。
 特別ご朱印は書き置きのみなので、さっそくこの大善寺ご朱印帳に貼り付けた。
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 このご朱印帳には、山梨県限定でご朱印を受けるというマイルールを課している。山梨は仏像を宝庫。これからものんびりと巡りたい。

5年という時間

 個人的なことを少し書くと、5年前のご開帳のとき、我が家は何かと大変だった。大切な家族が前年に病に倒れ、長期入院していた。看病する私も心身の過労でしばらく動けなくなり、やっと立ち直りつつある時だった。5年前、無理して出かけた大善寺で、この薬師三尊さまと近くのぶどう畑の光景と香りに癒やされ、元気づけられた。今もとてつもなく感謝している。私が立ち直るきっかけだったように思う。(今でも書きながら涙ぐんでしまう…)
 そして、今回、5年前に入院していた家族と一緒に大善寺のご開帳にお参りすることができた。大善寺のあと、放光寺と恵林寺をお参りし、ほうとうをいただいて、ぶどうをたくさん買って帰ったのだが、その間ずっと夢をみているような不思議な感覚だった。それほど家族の病気はつらかったし、ご開帳日の勝沼の空はどこまでも青かった。家族の笑い声が青空に吸い込まれていく。それがとても不思議だった。人知の及ばない何かを感じずにはいられなかった。
 5年ごとのご開帳は人生を振り返る機会にもなる。

 なお、5年前の拝観記録はこちら(↓)から。
ぶどう寺、大善寺のご開帳: ぶつぞうな日々 PARTII

【滋賀】米原市・西圓寺(西円寺)の秘仏聖観音さまご開帳

2018年10月27~28日
滋賀県米原市・西圓寺(黄檗宗
 秘仏ご本尊の聖観音さま。33年に一度、しかも二日間のみのご開帳でした。
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 間近で拝ませていただきました。美しいお姿です!
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 お寺の案内に鎌倉時代とありましたが、磨耗もあるのか全体の彫りは薄く、それでいて胴から腰にかけてメリハリがありました。ウエストがぎゅっとくびれていて、どきどきしてしまいます。拝観した瞬間に「来てよかった!」と思いました。
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(↑厨子に隠れて見えなかった御足元)

 なお、私個人のFBに複数の写真を上げたところ、某先生より平安中期ではとのコメントをいただきました。大変僭越ながら、私も鎌倉という説には違和感を覚えまして、しばらくモヤモヤしておりました。平安と言われると納得します。全体に浅い彫りでありながら、この胴のキレと腰の張り出し。大変魅力的なお像です!

 貴重なご開帳の機会に、間近で拝ませていただき、大変ありがたく存じます。
 写真撮影もお許しいただけたので、何度も見直すことができますし、FBやブログで共有できます。

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(↑画僧である住職が描かれた天井の龍も見事なんです!!)

 二日間のご開帳では、二胡演奏と中国式獅子舞の奉納もありました。二胡のアンコールで「琵琶湖周遊の唄」が流れると、観客の方々が一緒に口ずさんでいたのが、印象的でした。
 獅子舞も盛り上がりましたー。神戸中華街から出張された獅子舞だそうで、観客の頭を食べようとするユニークな動きが人気でした。
 ご開帳はこういう楽しみもありますね!
 奉納行事に観音さまもお喜びのことでしょう!!

 次のご開帳が33年後とは…。またお会いできる機会があるでしょうか。またお会いしたいです!


※仏友である長浜の観音ガールさんの記事もぜひ! 今回の開帳情報も観音ガールさんに教えていただきました。
www.kannongirl.com

【多摩の仏像】大塚の御手観音と都文化財の十一面観音(八王子市・清鏡寺)

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大塚御手観音(八王子市・清鏡寺さま)



 2011年の武相観音ご開帳のとき以来、二度目のお参りをしてきた。今回は副住職さまにご案内いただき、大きな金庫に安置された貴重な観音さまを拝観させていただいた。
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ご本尊千手観音さま


 ご本尊の千手観音さまには、びっくりな伝説がある。長寛2年(1164年)、播州赤穂高藤守藤原阿尊が関東巡礼のおり、夢枕に観音さまが立ち、手を一つ差し出して、「この手を持って鎌倉の仏師を訪ね、私の身体を作ってほしい」と告げられたのだそう。作者は不明だが、卯年卯月16日に観音さまができあがり、山頂にお堂を建立して奉安したと伝わる。それ以来、「御手観音」さまと呼ばれ、あつく信仰されてきた。
 「手を一つ差し出して…」と最初に聞いたときは恐ろしさを感じたのだが、実際にお参りすると、お寺の長閑な雰囲気にそんな気持ちは一気に吹き飛んでしまう。特に、私が2011年に最初に訪れたときは、ご開帳記念でカラオケ大会が始まろとするときで、その温かさに心が和んだことを覚えている。御手観音さまを中心に老若男女が集うさまは、恐ろしさとは程遠かった。

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(↑前回お参りしたのは、2011年4月16日、武相観音の卯年ご開帳のときでした。なんと、観音さまが完成した記念日である卯年卯月16日にお参りしてたのでした! ちなみにこのポスターはAndroid v1で撮影…。時の流れを感じます)

 さて、そんな伝承とは裏腹に、現在お寺に残るご本尊さまは、江戸中期のお像である。とても精巧な真数千手の観音坐像だ。
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 実際には腕は1000本はなく、980本程度だと伺った。いずれにしても、千手の付き方は実に見事で、江戸仏らしい技巧を感じる。勝手な想像ではあるが、江戸期に観音像を再建する際、「御手観音」の名にふさわしいお姿に仕上げようと仏師が意気込んだのではないだろうか。
 脇仏は不動明王立像と毘沙門天立像で、天台様式である。大塚御手観音堂は現在は清鏡寺の所属だが、元々は村人が管理するお堂に伝えられたそうだ。清鏡寺は現在は曹洞宗寺院だが、かつてはこの地に密教の信仰があったのだろう。

十一面観音立像


 都の文化財に指定される十一面観音さまは、明治初期に廃寺になった近くのお寺(八王子市松木の教福寺)から難を逃れた客仏。像高91.5センチ。寄木造り。
 鎌倉初期、運慶または安阿弥の作とされているが、私の素人目には平安後期の特徴を示しているように思えた…。つり上がった両目と穏やかな衣紋が特徴的で、慶派より静かなその佇まいに私はむしろ惹かれた。
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 階段下の石仏群は十一面観音さまと一緒に教福寺から移ってきたと伺った。腕のよい仏師によるものと見えた。
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不動明王さまの謎



 古文書によると、昔、この地に疫病が流行った際、ある修験者が「私の亡骸と共に不動明王をまつってほしい。そうすれば疫病は去る」と言い残して息絶えたそうだ。修験者の遺言通りにしたところ、実際に疫病が収まったそうだ。
 副住職さまによると、近年になって大塚観音堂の裏手の山を工事した際、なんと本当に不動明王像が見つかったそうだ。なんだか胸がきゅーんとなった。昔話を見くびってはならない。

 

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拝観案内

 

塩釜山清鏡寺(曹洞宗
192-0352 東京都八王子市大塚378
多摩モノレール大塚・帝京大学駅より徒歩10分

拝観は要予約。正月三が日のほか、毎月16日にも開扉されているそうだが、いずれにしても事前に電話で確認されることをお勧めしたい。

※まるきょうさんがもっとかっこよい写真でブログにまとめておられますので、ぜひお読みください! オススメです!

真数千手観音その12 多摩の清鏡寺 - 和顔愛語 古寺と古仏を訪ねて

【追記】 ※2020.01.02に三度目のお参り。裏手の不動明王像をご案内いただいたので、写真を追加した。なお、この際、堂内で、箱に入った千手観音立像も拝ませていただいた。箱には紐が付いていて、背負えるようになっている。千手観音様を町内の各家庭に回して崇める習慣があったそうだ。地域の歴史を物語る貴重な遺物である。

【大阪】特別公開・和光寺の仏像群~あみだが行けと言いました~

拝観寺院=大阪市西区和光寺(浄土宗)
拝観日=2018年8月5日
拝観した仏像=
〇ご本尊 善光寺阿弥陀如来鎌倉時代)と両脇侍(江戸時代)(三尊で大阪市文化財
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〇木造 釈迦涅槃像(17世紀、大阪市文化財)(像長167.0センチ)
地蔵堂地蔵菩薩立像(10世紀、大阪市文化財
〇紙本着色釈迦誕生図(1817年、大阪市文化財
 

和光寺との出会い

 大阪の和光寺というお寺を知ったのは、昨年の春、大阪市立美術館の「木×仏像」展のとき。つい最近だ。この展覧会は、大阪を中心に木の仏像ばかりを年代順に集めた、大変貴重な展覧会だった。昨年度は東京で運慶展、奈良で快慶展があり、「慶派イヤー」とも呼ぶ人もいたが、振り返ってみると、昨年度の仏像の展覧会の中で私が最も惹かれたのは、島根の平安仏を集めた「島根の仏像」展であり、また、大阪の「木×仏像」展だった。平安以前の木彫仏に惹かれていることの証だと思う。

 前書きが長くなってしまったが、この「木×仏像」展で特に魅了されたのが、宝誌菩薩像の周りに、平安時代地蔵菩薩立像を4躯並べた、いわゆる”地蔵コーナー”(私が勝手にそう呼んでいるだけですが…)だった。4躯の像はそれぞれ、奈良・薬師寺(写真、手前のお背中が見える像)、大阪・蓮花寺、大阪・三津寺(写真、右奥)、そして、大阪・和光寺(写真では、三津寺の横)のもので、どれも10世紀に遡る像だった。10世紀という時代の像が放つパワーに当てられてしまい、私はこの一室から離れることができなくなってしまった。
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 このとき、音声ガイドを聴いていたのだが、和光寺の説明のときに、落語の阿弥陀池の話があった。和光寺の境内には阿弥陀池と呼ばれる池がある。和光寺に侵入した泥棒が「誰にそそのかされて盗みに来たんや」と尼様から聞かれ、「あみだが行けと言いましてん」と答えるという話だった。まあ、「阿弥陀池」と「あみだが行け」をかけたダジャレである。それ以外の詳しい話は忘れてしまったのだが(爆)、音声ガイドを担当していたのが上方落語噺家さんだったこともあり、「あみだが行け」というセリフとともに、地蔵菩薩立像を記憶していたのだった。そして、ご本尊が阿弥陀如来であるという和光寺をいつかお参りしたいと思い続けてきた。

 そんなおり、奇しくも、私が奈良へ行く日に、大阪市による和光寺の特別公開が行われることがわかった。何ともラッキーな偶然だと思い、急きょ、和光寺をお参りすることにした。

和光寺の創建

  和光寺にある阿弥陀池は、仏教伝来の際に朝鮮半島から渡ってきた阿弥陀如来像が排仏派の物部氏によって沈められた「難波の堀江」にあたると伝わる。のちに、信濃の本田善光が救い出したその像が、信濃善光寺の本尊となったとされている。こうした由緒から、和光寺は元禄11年(1698年)、善光寺の特別末寺として創建。現在のご本尊である阿弥陀如来は創建時に信濃善光寺から譲り受けたものだという。
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 和光寺の建立の背景として、1) 信濃善光寺阿弥陀如来像が1692~1694年に江戸、京都、大坂(四天王寺)で出開帳が行われるなど、善光寺信仰の盛り上がりがあったこと、また、 2) その当時、阿弥陀池のある堀江の地を南北に分ける人口運河の堀川が開削され、阿弥陀池周辺が大坂市中の市街地の一部となったことが挙げられる。

和光寺のご本尊は善光寺阿弥陀如来

 和光寺のご本尊は普段は本堂中央の厨子の中にまつられているそうだ。今回の大阪市の特別公開では、阿弥陀三尊はお厨子の前に出され、間近にお姿を拝むことができた。厨子には帳がかけられており、普段はお姿を拝観するのは難しいのだと思った。
 和光寺の尼様いわく、「このような形で公開するのは、おそらく前例がない」。大変貴重な機会をいただけたのだ!

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 中尊の阿弥陀如来さまは鎌倉時代の作と考えられ、丸顔で優しい笑顔が魅力的。
 像高は中尊が18.2センチ、両脇侍は各13.7センチ。小さいながら、彫技がさえわたり、存在感がある。子どものように可愛らしい笑みに、拝観する私の頬もゆるんだ。冒頭記載の写真を見ると、猫背の背中に広がる衣文が美しい。
 和光寺阿弥陀さまの左手は、第2指と第3指を伸ばし、他の指を捻じた、いわゆる、チョキの形。善光寺阿弥陀如来の特徴を示す。脇侍の菩薩立像は右手と左手を交互に重ね合わせており、これも善光寺阿弥陀三尊の特徴だ。
 大阪市文化財課の方がこれを「異形の阿弥陀如来」と呼んでいたのが印象的だった。異形というと、密教仏のこわいお姿が思い浮かぶが、こちらの善光寺阿弥陀三尊は穏やかに微笑んでおられた。

地蔵菩薩立像

 冒頭の「木×仏像」展に出展された地蔵菩薩立像は、本堂裏の地蔵堂におまつりされていた。面部は彫り直しが認められ整っているが、体部は木肌がかなり荒れており、焼けた痕跡も残っている。頭頂部から底部まで一材から掘り出す。材はケヤキと推定。内刳りなし。寺伝によれば、隠岐国の海辺に流れ着いた仏像で、大坂の豪商・鴻池家により奉安され、1855年に開扉法要が執り行われたという。通称「あごなし地蔵」。今はあごはあるので、いつの時代か、あごを欠いていたのだろう。海から漂着したという寺伝に関係があるのかもしれない。ご尊顔にかなりの後補が入っているのだろう。
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 地蔵菩薩立像は普段は地蔵堂の堂外からガラス越しに拝観できるようになっているそうだ。特別公開のこの日は、同じ堂外からの拝観ではあったものの、お堂の扉が開けられ、ライトが当てられていて、通常よりはお姿がよく見えるように工夫してくださっていた。正直な話をすると、「木×仏像」展では、ガラスケースなしの360で、しかも、間近でお姿を拝めたので、それに比べると、拝観環境は厳しかった。しかし、町中のお寺の小さなお堂で、誰もがいつでもお参りできる環境であることが分かり、とてもうれしく思った。平安時代10世紀の木彫仏が平成の庶民の信仰を受ける。その重みを感じた。

釈迦誕生図と釈迦涅槃図

 以下の写真は特別公開のチラシを写したもの。
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 サタデーナイトフィーバーのような赤ちゃんの絵は一体なんなのだろう。そう誰もがツッコミたくなるだろう。お寺に入ってみると、一瞬で正解がわかる。なんと釈迦誕生図の一部(中央の誕生釈迦仏)なのである。紙本着色釈迦誕生図は1817年、小柴蘭渓によるもので、大阪市文化財。掛軸装で、本紙の大きさが縦315.7センチ、横257.3センチ。かなり巨大な誕生図である。
 これとほぼ同サイズの紙本着色釈迦涅槃図(縦256.2センチ、横207.2センチ)(1711年、長谷川金右衛門)も、誕生図と一対のようにして本堂内にかけられており、壮観だった。

感想

 善光寺の由緒のある場所に建てられたお寺に残る善光寺阿弥陀如来を拝観できたこと、大変ありがたい。阿弥陀様の追っかけなので、阿弥陀ワールド全開の善光寺さまも大好きなのであります! 善光寺信仰は中世以降、日本各地に広まったと聞いており、善光寺阿弥陀如来はよく見かけるように思うのだが、大阪市文化財課の方によると、関西では珍しいのだそうだ。
 また、「木×仏像」展の"地蔵コーナー"の地蔵菩薩さまをお寺に訪ねたいと思ってきたが、実は、今回の和光寺だけではなく、大阪難波の三津寺の地蔵菩薩さまも今年4月の大阪市の特別公開でお参りできた。大阪市の特別公開は公開日が限定的であり、なかなか遠くて行けないが、今回のように機会があれば、ぜひまた参加したい。和光寺地蔵菩薩さまの存在感は遠目であっても半端なかった。
 この”地蔵コーナー”のうち、大阪の蓮花寺さんの地蔵菩薩立像だけがまだお寺で拝めていない。いつかお参りしたい!

拝観案内

 和光寺西長堀駅から徒歩2分ほど。大阪市西区北堀江3-7-27。


※参考資料
〇『密教関係の仏教美術の保存と活用事業 調査報告書 和光寺の仏像について』大阪密教美術保存会(2018.8.5発行)
〇『木×仏像』展図録(2017年)

※写真
阿弥陀如来阿弥陀三尊の写真は『和光寺の仏像について』より。
地蔵菩薩の写真は『木×仏像』展図録より。
阿弥陀池とチラシの写真は筆者撮影。
〇木×仏像展の”地蔵コーナー”の写真は展覧会の公式サイトより。

【展覧会】ついに半蔵門ミュージアムに行ってきました!

半蔵門ミュージアムとは

 今年の4月にオープンした半蔵門ミュージアムについに行ってきた。
 運慶の大日如来坐像をニューヨークのオークションで落札した宗教法人真如苑が、運慶仏を展示公開するための施設である。
 運慶仏を落札したとき、真如苑は、1) 文化財指定に協力することと、2) 一般公開をすることの二つを公言していたと私は記憶する。
 文化財指定はすぐに実現し、しばらく東京国立博物館に預けられていた。落札当初は、武蔵村山日産自動車工場の跡地に真如苑の施設を造って安置するという話もあったが、最終的には、都心の半蔵門駅近くのビルを改修してミュージアムとし、そこに展示されることとなった。落札当初の公約は見事に実現した。
 ミュージアムの改修設計は平等院鳳翔ミュージアムかんなみ仏の里美術館を手がけた栗生明さん。初代館長は仏像研究の大家、水野敬三郎さん。ビッグネームが揃った。淡い色合いの大理石を使った室内は落ち着いており、常駐する職員の数や対応も高級ホテル並みだった。新興宗教団体の財務状況は想像の域を越えているようだ。だが、経済事情について中途半端な意見を述べるよりも、このような形で運慶仏を公開してくれたことに感謝と敬意を伝えたい。布教の色合いは薄く、誰もが安心して足を運べる環境だと思う。

 運慶の大日如来については、東京国立博物館で何度もお会いしているので、初めてお目にかかった以下の仏像と仏画について、少しだけ書かせていただきたい。

会津の法用寺の梵王像


 仏像で驚いたのは、福島県会津美里町・法用寺の三十三応現身の一つのされる梵王像が間近で拝めたことである。
 運慶仏と不動明王坐像は公式サイトで知っていたが、このお像のことはまったくのノーマークだった。
 前に法用寺をお参りしたときは、堂外からの拝観で、仏像一つ一つのお姿までよく見えなかった記憶がある。半蔵門ミュージアムでは、三十三応現身のうちの一体のみだが、ガラスケースなしで、間近で拝める。目のつり上がり具合やお顔の木目など、眺めているだけで喜びに満たされる。
 半蔵門ミュージアムはどのような経緯でこのお像を所有したのだろう。
 会津では、法用寺に加えて、西会津町の鳥追観音にも三十三応現身が伝えられているそうだ。三十三のすべてがお揃いではないそうで、焼失したのか、どこかに流出したのか不明なのだそうだ。さらなる解明が進むことを願う。

一尊天得如来


 半蔵門ミュージアムの企画展示では、数多くの仏画が展示されていた。その中に、融通念仏宗を開いた良念が感得したとされる阿弥陀来迎図、一尊天得如来像もあった。融通念仏宗大本山、大阪の大念仏寺では、毎年5月に二十五菩薩練供養が行われている。中将姫の極楽往生を描いた奈良の當麻寺の二十五菩薩練供養とは異なり、大念仏寺の練供養では、ご本尊である一尊天得如来像の巻物が大切に運ばれる。その時の様子を思い出した。大念仏寺の練供養のときには、この仏画の内容までよく見えないので、一尊天得如来像をじっくりと間近で拝めたのは実は今回が初めて。大変ありがたい。

その他の仏画


 その他、仏画青面金剛像は、少し斜め目線で、迫力満点の表情が印象的だった。真如苑真言密教に近いと思うのだが、上記の一尊天得如来以外にも、清海曼荼羅図など、浄土系の仏画もあり、阿弥陀来迎ファンである私を癒してくれた。

 上記のいずれも写真がないのが残念。画像検索しても出てこなかったし、館内はもちろん撮影禁止だった。半蔵門ミュージアムさんのサイトに公式写真を上げていただけるとうれしい。

半蔵門ミュージアムは月曜と火曜が休館日なので、要注意! 入館料はなんと無料。

【群馬】高崎市・万日堂のみかえり阿弥陀さま(+善念寺阿弥陀三尊)と新田義貞と…

※仏像の写真撮影は管理人様から許可を得ています。

はじめに


 みかえり阿弥陀さまと言えば、京都の永観堂が有名です。
 東大寺別当まで務めた高僧・永観が、1082年の寒い冬の夜、阿弥陀如来像の周りを念仏を唱えながら行道していると、阿弥陀さまが須弥壇から降りて永観の前に立ち、左肩越しに振り返って、「永観、遅し」と言われたーー。その時のお姿を留めたお像が、永観堂のみかえり阿弥陀さまです。阿弥陀さまファンでなくても、胸がきゅんとなるこの伝説と、平安後期の優しく気品のあるお姿が、多くの人の心をつかんでいます。
 みかえり阿弥陀像と言えば、この永観堂だけかと思いきや、なんと、群馬県高崎市にもおられると聞き、お参りしてきました。
 お寺ではなく、地元の方々が管理される万日堂という小さなお堂に、その阿弥陀如来立像はおられました。
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万日堂とは


 万日堂は高崎駅から西へ3~4キロ 。君が代橋を渡ってすぐです。元々国道18号(旧中山道)南側に建っていたものを、豊岡バイパス開設のため、昭和56年に移設したそうです。
 高崎市文化財課から管理人さんの連絡先を教えていただき、拝観の予約をしていたところ、元管理人(90歳)と現管理人のお二人がお堂を開けて待っていてくださいました。恐縮しつつ、お堂にあげていただきました。
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(↑川の向こう岸に小さく見える万日堂)
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(↑猛暑の中、橋を徒歩で渡ると、堂内を開けていてくださっているのが見えてきました)


ご本尊みかえり阿弥陀さま


 高崎市のみかえり阿弥陀さまは、桧の寄木造りで、玉眼を嵌めます。室町以前までの作と見られ、永観堂阿弥陀像よりも時代は新しいですが、近くでお会いすると、写真で見る以上に美しかったです。
 像高83センチ。永観堂より大きめです。みかえり阿弥陀さまの作例は珍しく、他に山形・善光寺、富山・安居寺が知られるのみとのことでした。
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 上の写真をご覧ください。みかえり阿弥陀さまのお足元に額入りの写真があります。よく見ると、来迎印を結んだ両手が付け足されています。お像の現状では、両手が失われているので、かわいそうに思ってこのような試みをしたのでしょう。「新たに手を加えると文化財としての価値が下がってしまうので、それは難しいらしい」と管理人さんは言われました。ただ、信仰の対象でありますし、何より普通の人間の感情として、手がないことは寂しいですよね。そんな心理的な隙間を埋めようとしたのが、お足元の写真なのだと思いました。
 このみかえり阿弥陀には、盗難を免れた話が伝わっています。明治の頃、転売目的で盗み出そうとした男が、君が代橋を渡る途中で急死したのだとか。さらに、大正時代にも、盗み出した男が君が代橋で雷に打たれ、死亡したのだとか。いずれの時も、阿弥陀さまはご無事でお堂に戻られたそうです。美しいお姿からは想像しえない、勇ましいエピソードです。
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 私は衣の金色の模様も気になりました。こういう金色の模様は近世の頃の特徴なのですか。都内の他の像でも見たことがあります。美しいです。この模様は江戸時代以降に追加された可能性もあるかもと考えました。
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万日堂の他の二像


 万日堂には、みかえり阿弥陀さまの両脇に、如来立像がまつられています。私にはどちらも阿弥陀さまに見えましたが、いかがでしょう。阿弥陀ファンなので、バイアスがかかっていますか!?
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 向かって右のお像は見るからに江戸以降でしょうか。現世話役さまはこちらのお像のお顔が好きだとおっしゃっていました。確かになかなかの美男子です。
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 左の如来像は衣がつるつるです。引き締まった凛々しいお顔です。修復が入っているのかわかりません。
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高崎市内の他の阿弥陀如来


 高崎市には善念寺と来迎寺にも市や県の文化財になっている阿弥陀如来立像がおられます。善念寺さまをお参りしました。堂外からの拝観となりましたが、写真を載せておきます。
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 また機会があれば、来迎寺さまもお参りしたいです。

新田義貞阿弥陀如来立像が東京・府中に


 高崎の阿弥陀さまをめぐりながら、東京・府中市の上染谷不動堂に伝わる新田義貞阿弥陀如来立像(国の重要文化財)を思い出していました。義貞が鎌倉幕府の倒幕を目指し挙兵する際、故郷の上州から持ってきたと伝わる像です。善光寺式の小さな銅像です。私は阿弥陀さまの大ファンなので、旅先で阿弥陀さまにお会いすることが多いのですが、このように各地の点と点がつながる瞬間が時々あり、大変興味深く思います。
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 義貞ほど激しくはなくても、私たちは何かと戦い・闘いながら生きているわけで、阿弥陀さまへの祈りは昔も今もあまり変わらないのではないかと思います。府中の分倍河原駅前にある新田義貞像は私には馴染みのある像でして、なおのこと感じるものがありました。
 東京都府中市の義貞の阿弥陀様を拝観したときの記録は下記リンクより。
app.m-cocolog.jp

 

感謝


 万日堂拝観の機会をくださった管理人さんに感謝いたします。一期一会に感謝いたします。

【仏教行事】東京・護国寺の四万六千日法要~私の夏の始まり~

 護国寺さん四万六千日法要。今年もお参りしてきました。
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 灯りに荘厳された夜の本堂で、ご本尊如意輪観音さまの帳も開かれ、お姿を拝むことができます。
 天蓋、ご本尊さま、そのお厨子、その奥の三十三身像…。静かな光のもとで、内陣のすべてが美しさを増します。念彼観音力のお唱えが力強く、大僧正さまのお話が優しく心にしみます。
 とにかく美しくてありがたい!

 毎年この時期に私は体調を崩すのですが、この美しい法要は私の心身を癒やし、溶かしてくれます。

 ご本尊さまのお近くで合掌してから、お堂を出る瞬間。それが私にとっての夏の始まりです。

【読書メモ】碧海寿広『仏像と日本人』を読んで

碧海寿広『仏像と日本人 宗教と美の近現代』(中公新書2018年)
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 7月25日に出たばかりの新刊書を一気に読了。あまりに面白すぎた。

 仏像が好きと言うと、「美術として好きなのか、それとも信仰心からなのか」と聞かれることが多い。そのたびに答えに窮してきた。どちらも嘘ではなく、二者択一できるものではない。美術的に優れているから、仏教の教えがすっと伝わることもあるだろう。でも、だからといって、現世利益を願ってやみくもに神仏に頼りきる訳でもない。

 そんな私の根底に、明治以降のフェノロサ岡倉天心和辻哲郎亀井勝一郎白洲正子といった論陣の考え方があったのだと、初めて気づくことができた。

 この本によると、江戸時代までは仏像はあくまで信仰の対象として捉えられ、美術として論じられることはなかった。美的価値が認められるようになったのは、明治元年神仏分離令のあと、フェノロサが登場して日本の古仏像の美術的価値を指摘してからだった。この本では、フェノロサ以降、和辻や亀井、白洲といった論客や、土門拳や入江といった写真家、さらにはみうらじゅんいとうせいこうまで、さまざまな人の活動を紹介し、それぞれの仏像との関わり方を明らかにしている。

 仏像という彫刻を見に行ったのに、その神々しさを前に合掌せざるをえなくなる現象。それが私がかつて経験したことであり、多くの日本人も経験していることなのではないだろうか。

 この本で残念なのは、奈良や京都の中央仏への視点に留まっていて、地方仏が抱える問題に言及していない点である。丸山尚一にも言及すべきであった。地方にも優れた仏像が多数あり、過疎化で継承が難しくなっている現状も分析して欲しかった。著者は1981年生まれの若手であり、仏像の本を書こうと思ったのも、一昨年の奈良の「忍性」展のときだという。つい最近ではないか! 続編を期待したい!
 
追記
もし続編があれば、よっくんと仏像リンクさんの活動にも言及してください。地方仏の魅力をわかりやすく楽しく伝えようとする活動は、SNS時代の新しい動きとしてもっと注目されてしかるべきだと思います。

【受講】山本勉氏「伊豆函南・桑原薬師堂の仏像」

清泉ラファエラ講座
「伊豆函南・桑原薬師堂の仏像 かんなみ仏の里美術館へのいざない」
講師 山本勉
日時 2018年7月14日13:30~15:40
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はじめに

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 山本先生の講義を初聴講。大学のコミニュティ講座はかくもレベルが高いのかと驚く。浅学の身としてはなはだ消化不良ではあるが、メモ書きを残す。
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受講内容のメモ

 伊豆の桑原薬師堂に伝わり、現在はかんなみ仏の里美術館に安置される仏像群について、歴史的文化的に解説された。

【旧新光寺?】
○平安後期の薬師如来坐像箱根神社万巻との関わり)
○平安後期の地蔵菩薩立像・横川式の聖観音立像(薬師の脇侍であったか)
○平安後期の毘沙門天立像(不動明王と一対だったか。江戸の不動明王は後の再建か)
○上記の五尊で1セットだったのか(天台の影響か)

北条宗時墳墓堂?】
○実慶の阿弥陀三尊(鎌倉初期1210年以前。北条宗時墳墓堂との関わり? 上げ底式内ぐり)

十二神将
 ・丑神が13世紀前半か(量感あり、動きや細部の彫出が建治3年グループより優れる。髻は後補で、元は兜を被っていたのでは?)
 ・亥神に建治3年(1277年)の銘があり、卯神、辰神、申神も同時期か
 ・亥神は「仏師土佐法橋誠□」
 ・子、寅、巳、午、酉および戌が鎌倉末期から南北朝か(胸甲の中央に丸いくぼみ)
 ・戌神は室町か
 ・十二神将は十二の時の守護神。造像の作業もそれぞれの時刻に行った。
 ・横須賀の曹源寺と同様に、鎌倉永福寺の運慶の十二神将の影響の下で造像されたか

○江戸時代の観音勢至菩薩立像(しばらく実慶の阿弥陀の脇侍となっていた)
○江戸時代の不動明王立像(上記の毘沙門天の項目を参照)
○江戸時代の伝弘法大師坐像(憤怒の表情から、慈恵大師(良源)像か)
○江戸時代の伝経巻坐像(経巻とは聞かないので、ひょっすると、箱根神社を創建した僧、万巻の像か)

○上記の桑原薬師堂の仏像群は、古代以来の箱根文化圏と中世における北条氏文化圏が重なる地域にあって、仏教文化が重層したことを示す

平安時代から鎌倉時代にかけて、異なる時代の規準作品が含まれる

○地域の人びとの信仰が守った仏像群を現代の行政が継承し、あらたかな文化発信の場をつくった(レジュメ原文のとおり)

感想

 私はかんなみ仏の里美術館を今年3月末に訪れたばかり。実慶の観音菩薩さまが奈良で左腕を直されてお戻りになった直後だった。
 感想を3点ほど記したい。

感想1) 薬師様が実寸以上に大きく感じられるのは

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 今回、個人的に印象的だったのは、薬師如来坐像をめぐる話である。像高106センチであるが、それ以上に大きく見えるのが、私はとても不思議だった。山本先生もその点を指摘され、その理由として、脚部に比して体部が大きいことを挙げられた。さらに、造像をめぐる背景として、次の話をされた。
 桑原の薬師如来については、以下の縁起が残っている。「箱根神社を建立した僧の万巻が都に行く途中で亡くなった。万巻の徒弟が師の遺骨とともに、丈六薬師と経巻を運んでいたところ、桑原の地で動かなくなってしまい、一堂建立して安置した(新光寺)。しかし、大伽藍とするには祟りがあるとされたので、丈六薬師を本山に戻したところ、霧が晴れ、桑原の民に平安に戻った」。山本先生は、丈六薬師をお戻しした後で、これを模して小像が造られたのではないかとおっしゃった。その小型版の"丈六薬師"が 現在の薬師如来坐像ではないかと。実寸より大きい印象を受けるのは、元々この丈六薬師の影響を受けているからではないか、との話であった。
 薬師如来坐像から自分が受けた印象は言葉にならないものだったが、このように解説していただき、言語化できることが、本当にありがたい。

感想2) 如来+観音地蔵の例としてなんと…

 もう一つ印象的だったのは、如来と観音地蔵菩薩の例示の中で、文化庁阿弥陀如来坐像と根津美術館地蔵菩薩立像が一具であったと考えられるという点だった。文化庁阿弥陀如来坐像は東京国立博物館で拝観していた(写真添付)が、まさか根津の地蔵菩薩立像と関係があったとは。仏師快助という名前も初めて伺い、ますます興味深い。 
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感想3) 地元管理から自治体管理への賛否

 地元管理だった仏像群を函南町が買い取り、新しいミュージアムに収めて文化発信している点について、山本先生は特に強い敬意を示された。新しい美術館については、賛否両論があるので、その辺りを踏まえてのご発言だったと思う。
 地元の信仰が守った仏像群を行政が引き継ぐのは、過疎化高齢化の今、取り得る最善策の一つなのかもしれない。ただ、人があっての地方行政である。さらに過疎化が進めば、いつかは自治体としての町さえも消えかねない。都心一極集中を抑制して地方経済を活性化させることにより、各地域がその信仰として、また、誇りとして、仏像を守り続けることができるのであれば、それが一番よいのではないか…。一方、多文化共生が進めば信仰も多様化し、問題はますます複雑になる…。
 あまりの難問を前に私は頭を抱えることしかできずにいる。
 ただ一つ明らかな対策は、今後も多くの人が関心を持ち続けることだと思う。今回の講義のタイトルにあるように、仏像群に「いざわなれ」て、函南ミュージアムを多くの人が訪れることを願う。ミュージアムの建物は栗生明さんの設計によるもので、建築ファンも足を運ばれたい。

おわりに

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 以上、とにかく濃い内容だった。山本先生にはこれだけで本を一冊書いていただきたい。2時間の講義だけでは理解しきれないので、そう強く願っている。
 また、桑原薬師堂の仏像群だけで論文がいくつも書けそうなので、さらなる研究の進展を願う。
 最後に、一番大切なこと。民の祈りを受けとめてこられたみほとけの諸像が次世代へと継承されますように。


※勉強不足で、間違いもあるかと思います。お気づきの点がありましたら、お知らせください。
※写真の仏像フィギュアはかんなみ仏の里美術館で買ってきた薬師如来坐像です。マグネット付で冷蔵庫にも貼れます! この薬師さまとご一緒に聴講しました!!
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※私がかんなみ仏の里美術館など、伊豆の仏像をお参りした時(2018年 3月)の記録は以下より。
伊豆の平安仏と"牧野仏"(龍音寺、国清寺、かんなみほとけの里) - ぶつぞうな日々 part III





 

【信濃仏】海岸寺(松本市)~ぶどう畑の中の千手観音立像~

海岸寺
拝観日=2018年6月17日
○千手観音(県宝 159cm 桂 一木造り 平安中期)
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※世話役さまから特別に写真撮影の許可をいただきました。(観音様から見おろされるこのアングルが最も気にいりました!)

 海岸寺は、明治初年の廃仏毀釈の際に廃寺となったが、地元の方々により仏像群がお守りされている。
 県宝の千手観音立像は平安時代の作と見られる。1683年、松本城主水野忠直が京仏師浄仁の子清春に依頼して修復。修復の際に塗装され、頭上面と脇手の一部を欠くものの像容は整い、平安の様式を残した美しいお姿が残されている。
 何かの本で「大法寺の十一面観音さまとお顔が似ているのでは」と読んだ記憶があるのだが、実際にお会いしてみると、こちらの方がだいぶあか抜けているように感じた。面長で、二重顎だ。上の写真のように、左側を見下ろす感じがたまらない。私は仏像さんに見おろされるのが大好きなので、写真も左下から撮りたくなる。
 また、脇手も非常に印象的だった。両サイドに大きく張り出し、うねうねとした動きも感じられる。どこからどこまでが後補かは不明だが、もし脇手の大部分が江戸時代の修復によるものだったとしたら、清春はかなりの力量の仏師だったということになるだろう。
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 千手の腕の一つに、ぶどうを掲げ持つものがあった。山梨の大善寺にぶどうを持つ薬師如来さまがおられるが、松本にもおられたとは。こういう細かい持物は後補のことが多い。この観音さまはいつからぶどうをお持ちなのだろう。
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 ご案内くださった世話役さまも、ぶどう栽培をされているそうだ。日焼けしたお顔で観音さまを誇らしげに見上げておられたのが忘れられない! ぶどう畑の中の観音さまが末永く伝えられますように。
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(↑最後に全身写真を。スリムで均整がとれており、大変美しい。左足の横に安置されているのが奪衣婆さま)

【信濃仏】栂尾毘沙門堂~盗難を乗り越えた信仰篤い毘沙門天さま~

栂尾(つがのお)毘沙門堂(長野県北安曇野郡池田町広津)
拝観日=2018年6月17日
毘沙門天立像(県宝、112㎝、桧、一木造り、平安後期)
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拝観予約


 丸山さんの本で拝見し、これはお参りしたいと思った栂尾毘沙門堂毘沙門天さま。Google地図でざっくり確認したところ、ルート的にも問題ないと判断。池田町役場から管理者の方をご紹介いただき、拝観させていただけることになった。ちなみに、この「Google地図でざっくり確認」が後に自分を苦しめることになるのだが、このときの私はまだそれを知らない…。
 5月初めのとある遅めの昼休み、池田町役場にお電話したところ、「地区の方が管理されているので、その方に聞いてみます。お仕事をお持ちの方なので、すぐには連絡がつかないかもしれません。しばらくお待ちください」とのこと。やはり拝観のハードルは高いのか…。そう思って、お弁当に集中しようとすると、ほどなく役所から連絡があった。
 「世話役さんと連絡が取れました。ご希望の日時で今のところは問題ないそうですよ…。直接連絡取ってみますか?」とのこと。急な展開に慌てながらも、これは逃してはいけないチャンスかもと直感! すぐに管理者の方にお電話させていただいた。
 生来の人見知りなので、初めて電話するときは緊張する。ましてや、個人の方にご好意をお願いしようとするときはなおさらだ。役所や寺院よりハードルが高い。
 ところが、恐る恐る電話してみると、これまたあっけなく、世話役さまから許可が出た。ざっくりと6月17日の午前中ということでお願いし、旅程が固まり次第、改めて訪問時刻を連絡させていただくことに。
 さらに、丸山さんの本で拝見したことと、参加メンバーは仏像好きで礼儀正しい人ばかりだと言うことをお伝えした。つまりは、アヤシイ者デハゴザイマセンという趣旨を叫んで、電話を終えたのだった。

地図に載っていない!


 電話を終え、ふーっと一息をつき、改めてGoogle地図を見直した。しかし、広津地区の場所までは分かったのだが、お堂の場所を地図上で見つけることはできなかった。お堂の住所は県のサイトを見ても「池田町広津」とあるだけで、番地は見つからなかった。まあ、その点については、後で問い合わせればと思っていたのだが、なんと運転担当の仲間が見事なGoogle航空写真さばきでお堂の場所を「発見」してくれた(この方の調査能力はほんとに半端ない!)
 ただ、覚音寺の記事に書いたように、Googleナビには、遠回りのルートしか出てこないのを、私たちは当日まで知らなかった。覚音寺を発つ際に、ご住職に教えてもらい、約束の時間より30分も早く現地に到着したのだった。この辺りの時間調整で難儀したことは、覚音寺拝観の記事に詳しく書いたとおりである。(今こうして書いてても胃が痛くなる。無事にたどり着けて本当によかった!)
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(↑毘沙門堂周辺の四季の景色。世話役さまが参加者全員に写真をくださった。あまりのご好意に泣ける)

篤い信仰の毘沙門天さま


 30分早く到着したのだが、世話役さまも間もなく到着され、すぐにお堂を開けてくださった。
 狭い堂内に入ると、世話役さまから「まずは般若心経をお唱えしましょう」との一言。世話役さまとご一緒に、参加者全員でお唱えさせていただいた。
 お唱えを終えると、世話役さまから短くお話があった。近くに住んでいたおばあさんが毎日この毘沙門天さまをお参りし、92歳で亡くなるまで元気でおられた、という話だった。亡くなる前に入院したが、病院からも毘沙門天さまの方向に祈りを欠かさなかったそうだ。亡くなる直前まで意識もはっきりし、長患いしなかったと言う。つまりは、ぴんぴんころりは毘沙門天さまのおかげなのだという話である。世話役さまはとても誇らしげであり、毘沙門天さまへの信心深さが伝わってきた。
 この小さなお堂の毘沙門天さまは大きな信仰の対象であるーー。その事実を拝観して数分間で、この世話役さまから教わったのだった。

彫像としての毘沙門天さま


 改めて毘沙門天さまのお姿を拝してみよう。いかめしいご尊顔。左手に法灯を掲げ、右手に法棒を握る。引き締まった全身にはまったく隙がない。1メートル強の決して大きな像ではないが、とてつもなく大きな力が込められた彫像であった! 左太もも辺りに残る彩色文様も印象的だ。
 当日は池田町教育委員会の方もおいでくださり、説明してくださった。この毘沙門天さまは長尾という場所にまつられてきたが、地滑りや火災等により何度か移動し、昭和46年から現在のお堂にまつられているとのことだった。
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2011年の盗難事件!

 実はこの毘沙門天さまはなんと、2011年2月に、盗難に遭っている。盗難にすぐに気づき、テレビ等で報道されたところ、数日後に奇跡的に発見されたそうだ。世話役さまいわく、「テレビのニュースに出たもんで、新潟あたりで見つかっただよ」。
 毘沙門天像はしばらくの間、池田町の預かりとなり、その間にお堂の改修工事が行われた。2011年5月3~15日には、北アルプス展望台美術館(池田町立美術館)で毘沙門天像を公開。毎年5月3日に行われる例祭もこの年は美術館で実施された。翌2012年4月28日、防犯対策を施したお堂に毘沙門天さまがお戻りになり、6月10日には、町長や県議、教育長、奉賛会長など30名が集まって、法要例祭が執り行われた。
 よくぞお戻りになられた。そして、私たちの拝観をよくぞお許しくださった。2018年6月、仏友さんと共にお会いできたことが奇跡のように思えてくる。

池田町の他の盗難被害


 池田町の文化財サイトはとても充実しており、各地区のお像の写真が文化財未指定のものまで掲載されている。その陰で気づくのは、行方不明になっている仏像の存在である。
 池田町の調べによると、2005~08 年にかけて、5件の盗難があり、37体の被害あったそうだ。広津地区の日野で十二神将10体、南足沼で十王像など16体、郷志窪で薬師如来坐像など9体、菅ノ田で聖徳太子立像1体、日影山は勢至菩薩坐像1体の各集落から被害報告があったとのこと。いずれも盗難の日時は不明だという。

今後のお守りのしかた~町立仏像センターという選択肢~


 2011年の盗難後、お堂には防犯対策が施された。現在のお堂は頑丈な鍵付でセコムも完備。お像にピアノ線も張られている。それでいて、毘沙門天さまを照らす電灯のスイッチが堂外の壁に取り付けてられており、鉄格子の間から毘沙門天さまのお姿を拝観することも可能なのである。なんと優しい環境なのだろう!
 しかし、それでも池田町全体の問題は払拭されないのであろう。町教育委員会の方のお話では、町内の仏像を集めて保管、公開する施設を造ることを検討されているそうだ。過疎化と高齢化が進むなか、そうした対応はやむなく、むしろありがたいことなのかもしれない。盗難被害など二度とごめんだ!
 しかし、この地に伝えられてきた熱い信仰心はどうなるのだろうと少し不安も感じたのだった。亡くなる直前まで毘沙門天さまに捧げたおばあちゃまの祈りを私は忘れたくない。
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(↑小さな堂内に今も大切にお守りされる毘沙門天さま)

【信濃仏】覚音寺(大町)~「藤尾の観音さま」に家族の愛を想う~

藤尾山覚音寺(大町市
拝観日=2018年6月17日
千手観音菩薩立像(重文 168.2cm、桧材、寄木造、1179年造立)
持国天(重文 161.5cm、桧、寄木造、1194年造立)
多聞天(重文 157.6cm 桧、寄木造、1195年造立)

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(写真はお寺のリーフレットより)

藤尾の観音さまへの想い

 覚音寺の千手観音さま(通称、藤尾の観音さま)にお会いできた幸せは、私の語彙では伝えきれない。理知的で優しいご尊顔。重量感のある体躯からは、木に込められたパワーがみなぎっているようだった。
 強さとか優しさとか聡明さとか、そういう言葉だけでは表現しきれない、もっと超越した何かを私は感じた。近づきたいのだが、近づきがたい。今の私に必要な何かを観音さまからいただいたように思う。
 平安末期、仁科盛家の妻が、戦乱でいつ命を落とすかわからない夫を思って祀った像なのではないかーー。そう丸山尚一さんが書かれているのを帰宅後に読み、すっと納得できる気がした。私は家族を支えながら働いており、日々の難問を前に、わが身の至らなさを常に感じている。だからこそ、強さと優しさと聡明さを結集させたこの千手観音さまに惹かれるのだろう。盛家の妻も家族を思って観音様に手を合わせたのだろうか。

覚音寺の寺歴とご住職


 覚音寺は平安中期、快尊上人によって創建され、一時は十二坊を擁する大寺院だった。もともと天台密教だったが、江戸時代に曹洞宗に変わり、明治維新後に廃寺に。昭和8年の調査で千手観音・多聞天持国天の三尊の立像が発見され、まもなく国宝に指定された(戦後の法改正により、重要文化財に変更)。平成2年に新御堂が建立され、現在は、奈良県吉野の金峯山寺を本山とする金峯山修験本宗の末寺として法灯をつなぐ。

 覚音寺は、大町市八坂地区(旧八坂村)にあり、お寺の案内書によると「安曇野の東に連なる大峯に抱かれて立つ」。この麗しい言葉のとおり、私は、覚音寺をお参りする途中、付近の大いなる自然に心を奪われた。しかし、運転する仏友さんはかなり気をもんだようだ。拝観予約を担当した仲間が住職から教えてもらった山道を進むと、やっと覚音寺にたどり着いた。Googleなどのナビでは、遠回りの道しか出てこないそうで、住職が最適なルートを事前に教えてくださったそうだ。このご配慮が本当にありがたい。

 帰宅後にお寺のリーフレットを熟読したのだが、簡潔にして美しい名文だった。おそらく住職のお人柄と聡明さがにじみ出ているのだと思う。こういう文章は、古文書を写したような難解なものでもいけないし(そういうものは割と多い)、かといって、軽薄すぎても、読み手を見下しているようで反感を買う。帰宅して振り返り、住職の偉大さをかみしめている。自分も文章を書く仕事をしてきたが、リーフレットの美しく簡潔な表現を心から見習いたいと思った(しかし、現実には、以下のように、駄文が続きます...。すみませんが、覚音寺さんが大好き大好きと叫んでいきますので、よろしければお付き合いください...)。

胎内資料より読み解く千手観音立像、多聞天立像、持国天立像

 覚音寺の本堂の裏に収蔵庫があり、千手観音、多聞天持国天の三尊がまつられている。朝早く到着したところ、すでに住職が扉を開けていてくださった。足元に気を取られながらお堂の前まで進み、ふと顔を上げると、なんの前ぶれもなく、突然に目の前に、この三尊が飛び込んできた。私は、千手観音さまの聡明で強くて優しいお姿に、一瞬にして打ちのめされてしまった。冒頭記載のとおり、もう言葉にならない感動であった!! 
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(↑写真は『めくるめく信州仏像巡礼』より)
 住職が寺歴と三尊像について優しく分かりやすく説明してくださった。実は、観音様を前にした感動と、幹事として厳しい旅程を管理しなければならい重圧とのはざまで、いつもなら行うメモ取りをし損ねてしまった。(住職のお話が優しく明快だった印象だけははっきりと残っている!)
 記憶の中の住職のお話と、帰宅後改めて調べた内容とをあわせると、千手観音、多聞天持国天の各像について以下のとおり説明ができるかと思う。
 ○覚音寺は明治45年(1912年)に火災にあい、この三尊は再建された小さなお堂に人知れず安置されていた。
 ○昭和8年(1933年)に、この地域一帯に文化財調査が入り、これら三尊の像を発見。翌年にお像の解体修理が行われ、千手観音像の胎内から墨書木札1枚、紙本千手観音摺仏28枚、白銅鏡1面が見つかった。
 ○これらの資料から千手観音像造立の詳細が明らかになった。観音像の施主はこの地域を治めていた仁科盛家とその妻子。盛家は源平合戦に出陣した武将だが、妻子ともども深く仏道に帰依し、この観音像を造立して覚音寺を再興した。その後、盛家は木曽義仲に従軍。戦地で亡くなったと考えられている。(盛家が家族で造立した観音像だが、そこには妻の想いが強く影響したのではないか。素人の考えだが、そう感じさせる観音さまだった)
 ○観音像の造立は平安時代末期の治承3年(1179年)。仏師は慶円六郎坊で、本格的な寄木など彫技の巧みさから、中央で修行した仏師と推測される。
 ○お寺のリーフレットによると、観音像に納入された白銅鏡は、木札に「伴氏の出自」と記される、仁科盛家の妻によるものとみられる。この女性は、のちに出家して仏母尼と称し、高野山遍照光院に阿弥陀堂を建立し、快慶の阿弥陀三尊を施入した人物だという(まさか、いかにも平安らしいこの三尊の御前で、快慶の名前を聞くとは。なんとも驚愕である!) 
 ○観音像には千手観音の摺仏28枚も納入されていた。こうした手法が京都周辺で流行し始めて間もない頃に、信濃に同じ例が残っていることが貴重である。
 ○多聞天持国天は少し時代がくだり、それぞれ1195年と1194年に造立。鎌倉時代に入っているが、作風は平安時代の古風なもの。
 ○多聞天立像は全身の均衡に優れ、完成度が高いとされる。(確かにかっこよかった!)
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(↑写真は『めくるめく信州仏像巡礼』より)
 ○持国天立像は大修理の跡があるが、手を腹前で交差するのは珍しく、他には、奈良興福寺北円堂の持国天に例がある。(多聞天さまとは別の味わいがある! ナイスコンビではないか!)
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(↑写真は『めくるめく信州仏像巡礼』より)
 ○千手観音に納入された木札に以下の文言がある。「治承三年十月廿五日始之 十一月廿八日供養 大仏師武蔵講師慶円六郎坊 小仏師重源 小仏師香飯」
 この「小仏師 重源」は、後に東大寺再建の陣頭指揮をとることになる、あの重源と同一人物ではないかと住職は考えておられるそうだ。専門家には否定されているのだが、しかし、重源は東大寺勧進になるまで無名だったので、まったくありえない話とは言えないのではとのこと。いやいやいや…、本当だったら大ニュースである! 調べてみたところ、1180年の南都焼き討ちのあと、重源が大勧進に就任したのは1181年で、重源が61歳の頃だった。覚音寺の観音さまの造立からわずか2年後である。実際どうだったのだろう…。重源は快慶との結びつきも強いので、ひょっとすると、先に述べた遍照光院の快慶と結びつく可能性も…。(ひょっとするとひょっとするのだろうか。住職の少しだけ前のめり気味の説明を伺っていると、重源説を信じたくなる! 今後の研究が進みますように!)

お参りできてよかった…!

 ここからは少し今回の旅の裏話をしたい。今回の旅程を組む過程で、拝観寺院をあまりに詰め込みすぎなのではないかの声が上がり、実は、覚音寺を外すことが検討されたことがあった。再検討のうえ、当初の予定で行くことにしたのだが、幹事としては、覚音寺から次の栂尾毘沙門堂にかけての時間がタイトなので、ここをなんとかクリアしなければと思っていた。胃薬の必要な難関であった。
 実際に訪れてみると、これほどまでに感動的な三尊と住職にお会いでき、あの時踏ん張って本当によかったと思っている。運転を引き受けてくださった仏友さんに改めて感謝を伝えたい。
 さらに、覚音寺さまを去る際に、住職が栂尾毘沙門堂への近道を教えてくださり、当初予定していた移動時間(60分)の半分もかからずに栂尾に到着してしまったという顛末も。これまたナビでは出ないルートらしい。なぜかGoogleナビとは反対方向の道から、早々と栂尾に到着した。
 私はこれまで、お寺の参拝の際には、どの駅で降りてどの道で行って…という行き方をお寺の方に聞かないことをマイルールとしてきた。私が訪れるのは観光寺院ばかりではない。仏像拝観だけでもお寺のご好意で受け付けていただいているのに、さらにつまらないことでムダな時間をとらせたくないからである。Google地図などで、何でもぱぱっと調べられるではないか。地元のバス路線などが面倒でも、参拝者の責任で調べるべきだと思っている。気軽に電話して相手の時間を奪うことを私は好まない。
 しかし、今回のように、山の中のお寺の際には、少しだけご好意に甘えてみるのもありかと思った。山は危険と隣り合わせだ。今これを書きながら、京都愛宕山月輪寺さんをお参りする際、一人で登山予定だと伝えたときに、電話口で登山ルートと注意事項を詳しく教えてくださったことを思い出した。愛宕山では時々、お家に帰れなくなる登山者がおられるらしい。月輪寺は足で登るしか道がないので、少し事情は異なるが、例え車だったとしても、細い山道で立ち往生する可能性がないとは言い切れない。覚音寺さんへの道はいわゆる林道のような細い道だった。山では時々電波も届かなくなる。その土地の方にもう少し頼ってもよいのかもしれない。
 感動の拝観をさせていただきつつ、大切なことを学ばせていただいた。いろいろと未熟な私である。返す返すも、藤尾の観音さまにお会いできたことがありがたい。
 観音さまをお慕いしつつ、その聡明さと強さと優しさに少しでも近づけますように。