ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【来迎会】得生寺「中将姫大会式」前編~中将姫寺=得生寺とは~

得生寺練供養レポート前編~得生寺と中将姫~

 和歌山県有田市糸我町、雲雀山得生寺。このお寺の二十五菩薩練供養「中将姫大会式」をお参りした。
 雲雀山は、継母に命を狙われた中将姫さまが13~15歳まで隠れて過ごされた土地と伝わる。このお寺の二十五菩薩来迎会は、子どものときから聡明であられた中将姫さまの徳にあやかろうと、お子さんが菩薩に扮するのが特徴。中将姫和讃を唱えるのも少女たち。阿弥陀様の像を御輿に載せてお運びするのも、お子さんたち。
 中将姫さまへの愛とリスペクトに満ちた練供養で、私も幸せに満たされた。
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 得生寺練供養のレポートは、前編「中将姫寺=得生寺とは」と後編「中将姫への愛がいっぱい」の二回に分けて、お伝えしたい。

 それでは、まずは前編! 得生寺とはどのようなお寺なのか。どのような寺宝が残るのか。その辺りを書きたい。



得生寺とは

 得生寺(とくしょうじ)は、JR紀勢本線紀伊宮原駅から1.6キロほどの場所にある。有田川にかかる300メートルの橋を渡り、川沿いの熊野古道を散歩すると、あっという間に到着する。川沿いは野鳥が多く、ホオジロがさえずり、キジの声も聞こえた。
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(↑この橋が300メートル。歩いて渡ったけど、もちろん誰ともすれ違いませんでした! ちなみに、岡山県の誕生寺の練供養は、菩薩さまの移動の片道が300メートル。得生寺は片道30メートル。いや、特に関係ないですが…、自分も練供養の菩薩さまの気分でこの橋を渡ったことは確か‥。いや、本当にすみませんm(_ _)m)
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(↑熊野古道っぽくない案内だけど、有田川沿いの道は確かに熊野古道らしい)

 得生寺はもともとは近くの雲雀山(ひばりやま)の山中にあった。お寺の山号になっているこの山は、奈良時代に、右大臣藤原豊成の娘、中将姫さまが、継母から命を狙われ、隠れて暮らしたと伝わる場所だ。
 寺伝によると、中将姫さまは13歳から15歳までを雲雀山で過ごされた。奈良の當麻寺で蓮糸の浄土曼荼羅を織り上げ、聖衆来迎により極楽往生される前の話である。
 寺名の得生(とくしょう)は、雲雀山で中将姫さまの生活を支えた豊成の家臣、伊藤春時の出家後の名前である。春時が雲雀山に結んだ庵を起源とする得生寺は、その長い歴史の中で何度か移転し、17世紀初めに、雲雀山のふもとにある現在の場所に落ち着いた。



得生寺境内

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(中将姫会式の幟が立つ)
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(↑正面に見えるのが開山堂)
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(↑左端の建物が開山堂。開山堂の隣の大きな建物が本堂。お堂の前に赤い来迎橋が延びるのが見える。練供養当日はこの橋が本堂まで続いていた)

 ひばり山の伝説は奈良県宇陀、和歌山県橋本と、ここ有田の3か所に残っているそうだ。真実はどうあれ、得生寺をお参りすると、中将姫さまはここに必ずいらしたという気持ちになる。それはきっと、中将姫さまを尊敬する気持ちがここ得生寺に今も息づいているからだ。その大きな証となるのが、この得生寺の練供養「中将姫大会式」なのだと思う。

○開山堂

 開山堂には、中将姫さま、伊藤春時とその妻、妙生の三つの坐像がまつられている。中尊の中将姫像は江戸時代の初め(1686年)の像で、2013年の「極楽へのいざない」展に出展された。脇侍の春時、妙生の両像は、中将姫像より10年ほど後の作で、奈良の當麻寺護念院から譲り受けたことが銘文から明らかになっている。本家、當麻寺との関わりの中で中将姫伝説が受け継がれた証拠といえるだろう。
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(↑奥が開山堂のご本尊。中央の中将姫像は本堂に移されており、お厨子が空になっていた。空のお厨子の手間に二つの坐像が見えるだろうか。これが上記の春時と妙生の像である。さらに手前の立像は「通いの弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来で、普段は開山堂の奥の厨子はまつられる)

 開山堂の向かって左側から奥にかけてスペースがあり、寺宝が並ぶ。その一つが、中将姫さまが写経されたという称讃浄土経。これは実際には平安後期の写経なのだそうだ。中将姫伝説の残る得生寺に伝えられた意義は大きいのではないだろうか。
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 開山堂の本尊の裏側には、5つの小像がまつられる。一つは「通いの弥陀」と呼ばれる30センチほどの阿弥陀如来立像。練供養で活躍される像なのである。
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 「通いの弥陀」は練供養の列に参加するため、お厨子を出て御輿に乗られ、準備万端であられた! (後編で詳述する)

 さらに、中将姫の坐像が2躯。一つは、本尊と同じ15歳のときのお姿で、経典を手に持ち、凛とした表情が印象的だ。
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 もう一つは、29歳のときのお姿で、15歳像とは異なり、どこか遠くを見るような、うっとりとした表情だ。極楽往生される直前のお姿なのだろうか。
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 この二つの中将姫像を挟むようにして、春時と妙生の像がまつられていた。
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 春時は中将姫を殺害するよう継母に命じられたが、信心深い姫を殺めることができず、妻とともに中将姫を匿ったとされる。悲劇を思い起こさせる厳しい表情だ。

○本堂

 本堂は開山堂よりかなり広い。
 本堂の本尊は阿弥陀三尊。阿弥陀、観音、勢至すべてが立像で、観音菩薩は腰を下げて蓮台を掲げ、勢至菩薩も腰をかがめて合掌する。来迎の阿弥陀三尊である。
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 練供養のこの日、本堂の阿弥陀三尊の前に、開山堂の中将姫像が安置されていた。経典を持つその手には、五色の糸が結ばれ、境内の外の柱へとつながっていた。優しい。なんとも優しい演出だ!
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 中将姫さまの前には、百味御膳といって、色鮮やかでユニークなお食事がお供えされていた。これまた優しい。そして、かわいらしい。中将姫さまへの愛に満ちた演出に心が弾む!
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(↑百味御膳の一つ。かわいらしい!)

 本尊阿弥陀三尊の厨子の裏側に、大きな當麻曼荼羅がまつられていた。国の重要美術品に指定されているという。見とれているうちに写真を取り損ねた。
 本堂の向かって左側には、半丈六ほどの大きな地蔵菩薩坐像が目を引く。立派なお姿に胸がきゅんきゅんした。調べたところ、文化財指定は受けていないようだ。なぜだろう!? 地獄に亡者を救いにいく地蔵菩薩さま。悲しみと強さがにじみ出たお姿に泣きそうになる。
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 さらに、中将姫さまの作とされる「蓮糸繍三尊」も。
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 本当に蓮糸なのか、はたまた、本当に刺繍なのか、私の目視では正直わからなかった。しかし、中将姫さまにインスパイアされた三尊像であるからこそ、得生寺に伝わったのだろう。
 今年の夏に奈良国立博物館で「糸のみほとけ」という展覧会が開催されるのだが、このような中将姫さまにまつわるものが多く出展されるのだろうか。


 後編では、5月14日の練供養「中将姫大会式」の模様を熱烈レポートいたします!!
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