藤尾山覚音寺(大町市)
拝観日=2018年6月17日
○千手観音菩薩立像(重文 168.2cm、桧材、寄木造、1179年造立)
○持国天(重文 161.5cm、桧、寄木造、1194年造立)
○多聞天(重文 157.6cm 桧、寄木造、1195年造立)
(写真はお寺のリーフレットより)
藤尾の観音さまへの想い
覚音寺の千手観音さま(通称、藤尾の観音さま)にお会いできた幸せは、私の語彙では伝えきれない。理知的で優しいご尊顔。重量感のある体躯からは、木に込められたパワーがみなぎっているようだった。
強さとか優しさとか聡明さとか、そういう言葉だけでは表現しきれない、もっと超越した何かを私は感じた。近づきたいのだが、近づきがたい。今の私に必要な何かを観音さまからいただいたように思う。
平安末期、仁科盛家の妻が、戦乱でいつ命を落とすかわからない夫を思って祀った像なのではないかーー。そう丸山尚一さんが書かれているのを帰宅後に読み、すっと納得できる気がした。私は家族を支えながら働いており、日々の難問を前に、わが身の至らなさを常に感じている。だからこそ、強さと優しさと聡明さを結集させたこの千手観音さまに惹かれるのだろう。盛家の妻も家族を思って観音様に手を合わせたのだろうか。
覚音寺の寺歴とご住職
覚音寺は平安中期、快尊上人によって創建され、一時は十二坊を擁する大寺院だった。もともと天台密教だったが、江戸時代に曹洞宗に変わり、明治維新後に廃寺に。昭和8年の調査で千手観音・多聞天・持国天の三尊の立像が発見され、まもなく国宝に指定された(戦後の法改正により、重要文化財に変更)。平成2年に新御堂が建立され、現在は、奈良県吉野の金峯山寺を本山とする金峯山修験本宗の末寺として法灯をつなぐ。
覚音寺は、大町市八坂地区(旧八坂村)にあり、お寺の案内書によると「安曇野の東に連なる大峯に抱かれて立つ」。この麗しい言葉のとおり、私は、覚音寺をお参りする途中、付近の大いなる自然に心を奪われた。しかし、運転する仏友さんはかなり気をもんだようだ。拝観予約を担当した仲間が住職から教えてもらった山道を進むと、やっと覚音寺にたどり着いた。Googleなどのナビでは、遠回りの道しか出てこないそうで、住職が最適なルートを事前に教えてくださったそうだ。このご配慮が本当にありがたい。
帰宅後にお寺のリーフレットを熟読したのだが、簡潔にして美しい名文だった。おそらく住職のお人柄と聡明さがにじみ出ているのだと思う。こういう文章は、古文書を写したような難解なものでもいけないし(そういうものは割と多い)、かといって、軽薄すぎても、読み手を見下しているようで反感を買う。帰宅して振り返り、住職の偉大さをかみしめている。自分も文章を書く仕事をしてきたが、リーフレットの美しく簡潔な表現を心から見習いたいと思った(しかし、現実には、以下のように、駄文が続きます...。すみませんが、覚音寺さんが大好き大好きと叫んでいきますので、よろしければお付き合いください...)。
胎内資料より読み解く千手観音立像、多聞天立像、持国天立像
覚音寺の本堂の裏に収蔵庫があり、千手観音、多聞天、持国天の三尊がまつられている。朝早く到着したところ、すでに住職が扉を開けていてくださった。足元に気を取られながらお堂の前まで進み、ふと顔を上げると、なんの前ぶれもなく、突然に目の前に、この三尊が飛び込んできた。私は、千手観音さまの聡明で強くて優しいお姿に、一瞬にして打ちのめされてしまった。冒頭記載のとおり、もう言葉にならない感動であった!!
(↑写真は『めくるめく信州仏像巡礼』より)
住職が寺歴と三尊像について優しく分かりやすく説明してくださった。実は、観音様を前にした感動と、幹事として厳しい旅程を管理しなければならい重圧とのはざまで、いつもなら行うメモ取りをし損ねてしまった。(住職のお話が優しく明快だった印象だけははっきりと残っている!)
記憶の中の住職のお話と、帰宅後改めて調べた内容とをあわせると、千手観音、多聞天、持国天の各像について以下のとおり説明ができるかと思う。
○覚音寺は明治45年(1912年)に火災にあい、この三尊は再建された小さなお堂に人知れず安置されていた。
○昭和8年(1933年)に、この地域一帯に文化財調査が入り、これら三尊の像を発見。翌年にお像の解体修理が行われ、千手観音像の胎内から墨書木札1枚、紙本千手観音摺仏28枚、白銅鏡1面が見つかった。
○これらの資料から千手観音像造立の詳細が明らかになった。観音像の施主はこの地域を治めていた仁科盛家とその妻子。盛家は源平合戦に出陣した武将だが、妻子ともども深く仏道に帰依し、この観音像を造立して覚音寺を再興した。その後、盛家は木曽義仲に従軍。戦地で亡くなったと考えられている。(盛家が家族で造立した観音像だが、そこには妻の想いが強く影響したのではないか。素人の考えだが、そう感じさせる観音さまだった)
○観音像の造立は平安時代末期の治承3年(1179年)。仏師は慶円六郎坊で、本格的な寄木など彫技の巧みさから、中央で修行した仏師と推測される。
○お寺のリーフレットによると、観音像に納入された白銅鏡は、木札に「伴氏の出自」と記される、仁科盛家の妻によるものとみられる。この女性は、のちに出家して仏母尼と称し、高野山遍照光院に阿弥陀堂を建立し、快慶の阿弥陀三尊を施入した人物だという(まさか、いかにも平安らしいこの三尊の御前で、快慶の名前を聞くとは。なんとも驚愕である!)
○観音像には千手観音の摺仏28枚も納入されていた。こうした手法が京都周辺で流行し始めて間もない頃に、信濃に同じ例が残っていることが貴重である。
○多聞天と持国天は少し時代がくだり、それぞれ1195年と1194年に造立。鎌倉時代に入っているが、作風は平安時代の古風なもの。
○多聞天立像は全身の均衡に優れ、完成度が高いとされる。(確かにかっこよかった!)
(↑写真は『めくるめく信州仏像巡礼』より)
○持国天立像は大修理の跡があるが、手を腹前で交差するのは珍しく、他には、奈良興福寺北円堂の持国天に例がある。(多聞天さまとは別の味わいがある! ナイスコンビではないか!)
(↑写真は『めくるめく信州仏像巡礼』より)
○千手観音に納入された木札に以下の文言がある。「治承三年十月廿五日始之 十一月廿八日供養 大仏師武蔵講師慶円六郎坊 小仏師重源 小仏師香飯」
この「小仏師 重源」は、後に東大寺再建の陣頭指揮をとることになる、あの重源と同一人物ではないかと住職は考えておられるそうだ。専門家には否定されているのだが、しかし、重源は東大寺勧進になるまで無名だったので、まったくありえない話とは言えないのではとのこと。いやいやいや…、本当だったら大ニュースである! 調べてみたところ、1180年の南都焼き討ちのあと、重源が大勧進に就任したのは1181年で、重源が61歳の頃だった。覚音寺の観音さまの造立からわずか2年後である。実際どうだったのだろう…。重源は快慶との結びつきも強いので、ひょっとすると、先に述べた遍照光院の快慶と結びつく可能性も…。(ひょっとするとひょっとするのだろうか。住職の少しだけ前のめり気味の説明を伺っていると、重源説を信じたくなる! 今後の研究が進みますように!)
お参りできてよかった…!
ここからは少し今回の旅の裏話をしたい。今回の旅程を組む過程で、拝観寺院をあまりに詰め込みすぎなのではないかの声が上がり、実は、覚音寺を外すことが検討されたことがあった。再検討のうえ、当初の予定で行くことにしたのだが、幹事としては、覚音寺から次の栂尾毘沙門堂にかけての時間がタイトなので、ここをなんとかクリアしなければと思っていた。胃薬の必要な難関であった。
実際に訪れてみると、これほどまでに感動的な三尊と住職にお会いでき、あの時踏ん張って本当によかったと思っている。運転を引き受けてくださった仏友さんに改めて感謝を伝えたい。
さらに、覚音寺さまを去る際に、住職が栂尾毘沙門堂への近道を教えてくださり、当初予定していた移動時間(60分)の半分もかからずに栂尾に到着してしまったという顛末も。これまたナビでは出ないルートらしい。なぜかGoogleナビとは反対方向の道から、早々と栂尾に到着した。
私はこれまで、お寺の参拝の際には、どの駅で降りてどの道で行って…という行き方をお寺の方に聞かないことをマイルールとしてきた。私が訪れるのは観光寺院ばかりではない。仏像拝観だけでもお寺のご好意で受け付けていただいているのに、さらにつまらないことでムダな時間をとらせたくないからである。Google地図などで、何でもぱぱっと調べられるではないか。地元のバス路線などが面倒でも、参拝者の責任で調べるべきだと思っている。気軽に電話して相手の時間を奪うことを私は好まない。
しかし、今回のように、山の中のお寺の際には、少しだけご好意に甘えてみるのもありかと思った。山は危険と隣り合わせだ。今これを書きながら、京都愛宕山の月輪寺さんをお参りする際、一人で登山予定だと伝えたときに、電話口で登山ルートと注意事項を詳しく教えてくださったことを思い出した。愛宕山では時々、お家に帰れなくなる登山者がおられるらしい。月輪寺は足で登るしか道がないので、少し事情は異なるが、例え車だったとしても、細い山道で立ち往生する可能性がないとは言い切れない。覚音寺さんへの道はいわゆる林道のような細い道だった。山では時々電波も届かなくなる。その土地の方にもう少し頼ってもよいのかもしれない。
感動の拝観をさせていただきつつ、大切なことを学ばせていただいた。いろいろと未熟な私である。返す返すも、藤尾の観音さまにお会いできたことがありがたい。
観音さまをお慕いしつつ、その聡明さと強さと優しさに少しでも近づけますように。