ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【受講】山本勉氏「伊豆函南・桑原薬師堂の仏像」

清泉ラファエラ講座
「伊豆函南・桑原薬師堂の仏像 かんなみ仏の里美術館へのいざない」
講師 山本勉
日時 2018年7月14日13:30~15:40
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はじめに

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 山本先生の講義を初聴講。大学のコミニュティ講座はかくもレベルが高いのかと驚く。浅学の身としてはなはだ消化不良ではあるが、メモ書きを残す。
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受講内容のメモ

 伊豆の桑原薬師堂に伝わり、現在はかんなみ仏の里美術館に安置される仏像群について、歴史的文化的に解説された。

【旧新光寺?】
○平安後期の薬師如来坐像箱根神社万巻との関わり)
○平安後期の地蔵菩薩立像・横川式の聖観音立像(薬師の脇侍であったか)
○平安後期の毘沙門天立像(不動明王と一対だったか。江戸の不動明王は後の再建か)
○上記の五尊で1セットだったのか(天台の影響か)

北条宗時墳墓堂?】
○実慶の阿弥陀三尊(鎌倉初期1210年以前。北条宗時墳墓堂との関わり? 上げ底式内ぐり)

十二神将
 ・丑神が13世紀前半か(量感あり、動きや細部の彫出が建治3年グループより優れる。髻は後補で、元は兜を被っていたのでは?)
 ・亥神に建治3年(1277年)の銘があり、卯神、辰神、申神も同時期か
 ・亥神は「仏師土佐法橋誠□」
 ・子、寅、巳、午、酉および戌が鎌倉末期から南北朝か(胸甲の中央に丸いくぼみ)
 ・戌神は室町か
 ・十二神将は十二の時の守護神。造像の作業もそれぞれの時刻に行った。
 ・横須賀の曹源寺と同様に、鎌倉永福寺の運慶の十二神将の影響の下で造像されたか

○江戸時代の観音勢至菩薩立像(しばらく実慶の阿弥陀の脇侍となっていた)
○江戸時代の不動明王立像(上記の毘沙門天の項目を参照)
○江戸時代の伝弘法大師坐像(憤怒の表情から、慈恵大師(良源)像か)
○江戸時代の伝経巻坐像(経巻とは聞かないので、ひょっすると、箱根神社を創建した僧、万巻の像か)

○上記の桑原薬師堂の仏像群は、古代以来の箱根文化圏と中世における北条氏文化圏が重なる地域にあって、仏教文化が重層したことを示す

平安時代から鎌倉時代にかけて、異なる時代の規準作品が含まれる

○地域の人びとの信仰が守った仏像群を現代の行政が継承し、あらたかな文化発信の場をつくった(レジュメ原文のとおり)

感想

 私はかんなみ仏の里美術館を今年3月末に訪れたばかり。実慶の観音菩薩さまが奈良で左腕を直されてお戻りになった直後だった。
 感想を3点ほど記したい。

感想1) 薬師様が実寸以上に大きく感じられるのは

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 今回、個人的に印象的だったのは、薬師如来坐像をめぐる話である。像高106センチであるが、それ以上に大きく見えるのが、私はとても不思議だった。山本先生もその点を指摘され、その理由として、脚部に比して体部が大きいことを挙げられた。さらに、造像をめぐる背景として、次の話をされた。
 桑原の薬師如来については、以下の縁起が残っている。「箱根神社を建立した僧の万巻が都に行く途中で亡くなった。万巻の徒弟が師の遺骨とともに、丈六薬師と経巻を運んでいたところ、桑原の地で動かなくなってしまい、一堂建立して安置した(新光寺)。しかし、大伽藍とするには祟りがあるとされたので、丈六薬師を本山に戻したところ、霧が晴れ、桑原の民に平安に戻った」。山本先生は、丈六薬師をお戻しした後で、これを模して小像が造られたのではないかとおっしゃった。その小型版の"丈六薬師"が 現在の薬師如来坐像ではないかと。実寸より大きい印象を受けるのは、元々この丈六薬師の影響を受けているからではないか、との話であった。
 薬師如来坐像から自分が受けた印象は言葉にならないものだったが、このように解説していただき、言語化できることが、本当にありがたい。

感想2) 如来+観音地蔵の例としてなんと…

 もう一つ印象的だったのは、如来と観音地蔵菩薩の例示の中で、文化庁阿弥陀如来坐像と根津美術館地蔵菩薩立像が一具であったと考えられるという点だった。文化庁阿弥陀如来坐像は東京国立博物館で拝観していた(写真添付)が、まさか根津の地蔵菩薩立像と関係があったとは。仏師快助という名前も初めて伺い、ますます興味深い。 
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感想3) 地元管理から自治体管理への賛否

 地元管理だった仏像群を函南町が買い取り、新しいミュージアムに収めて文化発信している点について、山本先生は特に強い敬意を示された。新しい美術館については、賛否両論があるので、その辺りを踏まえてのご発言だったと思う。
 地元の信仰が守った仏像群を行政が引き継ぐのは、過疎化高齢化の今、取り得る最善策の一つなのかもしれない。ただ、人があっての地方行政である。さらに過疎化が進めば、いつかは自治体としての町さえも消えかねない。都心一極集中を抑制して地方経済を活性化させることにより、各地域がその信仰として、また、誇りとして、仏像を守り続けることができるのであれば、それが一番よいのではないか…。一方、多文化共生が進めば信仰も多様化し、問題はますます複雑になる…。
 あまりの難問を前に私は頭を抱えることしかできずにいる。
 ただ一つ明らかな対策は、今後も多くの人が関心を持ち続けることだと思う。今回の講義のタイトルにあるように、仏像群に「いざわなれ」て、函南ミュージアムを多くの人が訪れることを願う。ミュージアムの建物は栗生明さんの設計によるもので、建築ファンも足を運ばれたい。

おわりに

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 以上、とにかく濃い内容だった。山本先生にはこれだけで本を一冊書いていただきたい。2時間の講義だけでは理解しきれないので、そう強く願っている。
 また、桑原薬師堂の仏像群だけで論文がいくつも書けそうなので、さらなる研究の進展を願う。
 最後に、一番大切なこと。民の祈りを受けとめてこられたみほとけの諸像が次世代へと継承されますように。


※勉強不足で、間違いもあるかと思います。お気づきの点がありましたら、お知らせください。
※写真の仏像フィギュアはかんなみ仏の里美術館で買ってきた薬師如来坐像です。マグネット付で冷蔵庫にも貼れます! この薬師さまとご一緒に聴講しました!!
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※私がかんなみ仏の里美術館など、伊豆の仏像をお参りした時(2018年 3月)の記録は以下より。
伊豆の平安仏と"牧野仏"(龍音寺、国清寺、かんなみほとけの里) - ぶつぞうな日々 part III