東京国立博物館、「名作誕生」展(創刊記念『國華』130周年)の冒頭に、一木造りの薬師如来立像が林立する。唐招提寺から、和様の兆しを見せる春光寺まで、平安前期の一木像の違いを堪能できる。
特に、先週お参りしたばかりの孝恩寺の薬師如来立像の破壊力にやられた。奈良の元興寺の薬師さまは背中の板が外され、内ぐりを観られた。もうどうしましょう。奈良県桜井市笠区の薬師さまも、淡路島の薬師さまも、迫力ありすぎて、身動きできなくなる。開催期間中に再訪しなければ。
お参りした仏像: 大悲願寺の伝阿弥陀三尊(重要文化財)
訪ねた日: 2018年4月22日(日)
写真はお寺のパンフレットより
東京多摩西部、
お寺の周りは豊かな自然が保たれている。立川駅からJR五日市線に乗り継ぎ30分ほどの場所に、のどかな光景が広がる。お寺の裏が横沢入の里山保全地域。昔ながらの里山が意図的に保全されている。横沢入りには日本野鳥の会奥多摩支部の探鳥会に出かけたことも懐かしい。春には少し遠い時期の探鳥会で、アオゲラのほか、ヒレンジャクも見られた。
大悲願寺は建久2年(1191年)に源頼朝の命を受けた平山季重(すえしげ)によって創建。これまで火災にあったことがないそうだ。秀吉の八王子城攻めのときも、第二次世界大戦、関東大震災のときも被害がなかったという。
阿弥陀三尊がおられるお堂は写真のとおりである。無畏閣(観音堂)と呼ばれ、あきる野市の文化財に指定されている。
寄棟造り、茅葺き型の板葺き。1794年に建立され、1834~1842年に羽目板などの彫刻部分が付け加えられたとみられる。2005年1月から2006年12月にわたって半解体修復工事が行われ、堂の彫刻部分に鮮やかな色彩がよみがえった。
屋根の下に浮き彫り彫刻が見えるだろうか。これが四面の壁にめぐらされている。日光東照宮や熊谷の聖天堂を思わせる素晴らしさだ。正面向かって左側に極楽図、右側の彫刻は地獄図だ。修復後10年余り経っても、色彩は健在だ。
阿弥陀三尊の撮影は禁止だが、堂内は撮影許可がでた。堂内の大きくて立派な厨子の中に三尊さまはまつられていた。
実は、大悲願時の伝阿弥陀三尊のご開帳に行くのは初めてではない。2009年にお参りした。そのときに若気の至りで書いたのがこちらのブログである。
hiyodori-art2.cocolog-nifty.com
寺の歴史など調べて書いたとは思うのだが、なにぶん若気の至りで、自分の無知への配慮がない。恥ずかしい部分とは、「一体いつ頃の作品なのか」と投げかける部分である。2018年4月22日、9年ぶりに拝観した私は、この部分を全力で訂正したい。
私は特に、「平安期の仏像を模した江戸時代の作品かも」と書いたことを気にかけてきた。毎年4月のご開帳が近づくと、上記の記事へのアクセスが増える。そのたびに申し訳ない気持ちだった。
制作年代については、詳しいことは分かっていない。これは事実である。しかし、専門家の意見では平安後期から鎌倉初期であろうということである。これも紛れもない事実である! この事実にもっと謙虚であるべきだった。
また、「三尊の形式や表現が一致している」と書いてしまっていることについても、「あほか!」と当時の自分を激しくしかりたい。
これを踏まえ、製作時期について、今回9年ぶりに自分の目で感じたことを以下に記す。
まず、住職のお話では、伝阿弥陀三尊の制作年代は不明だが、
阿弥陀如来は彫りが薄く、ご尊顔穏やかで、
勢至菩薩坐像はご尊顔が鎌倉初期の慶派っぽく、髻も若干高め。
脇侍の観音さまはなんと千手観音坐像。頬に力がみなぎるが、制作年代になると私の能力では、わからないとしか言いようがない。頭上の化仏や複数の腕が後補かもしれないし、腰付近の衣の一部だけがひらひらしており、脚まわりのおとなしい彫りとは異なっている。後の手が入っているのを感じる。一言で言うと、よくわからない。
※各三尊の写真は冒頭の写真のトリミング(見にくいかと思うが、参考まで)
うーん。上記のように9年後の感想を書いてみたが、改めて読み返すと、あまり成長していないような気がしてきた...。ブログを書くとは、自分の恥をさらすことでもある。
お寺の公式写真では、細かい点はわかりにくい。帰ってから、手元の資料と細かい点を見比べることができなずにいる。もやもやは残ったままだ。また私は大悲願寺をお参りしないといけない。来年になるか、再来年になるかわからないが、また拝観する機会がほしい。そのときまでに、もっと成長した自分になっていなければならない。仏像拝観の道はときに修業なのだ。
なお、文化財指定が伝阿弥陀と、「伝」がついていることについて、住職は、阿弥陀さまとしては珍しい法界定印を結んでいることを挙げていた。一方、光背には、それぞれ、観音、阿弥陀、勢至の種字が書かれているそうだ。光背の製作時期はわからない。お像の製作時期はどうあれ、光背の製作時には阿弥陀三尊としてまつられていたということなのだろう。
わからないことばかりである。私にはわからなくても、美しい三尊は平成の世まで伝えられた。非常にありがたい!
最後に、境内で咲いていたボタンの花の写真を貼って終わることにする。ボタンがきれいなのは、大悲願寺が真言宗豊山派で、奈良の長谷寺の末寺だからか。
ボタンもきれいだが、秋に咲く白萩は伊達政宗に献上したものだそう。15世住職が政宗の弟、秀雄だったのだとか。9月頃またお参りにきてほしいと住職がおっしゃっていた。野鳥観察と桧原村の温泉を兼ねて、のんびりお参りしたい。
大悲願寺
〒190-0141 東京都あきる野市横沢134
重要文化財の伝阿弥陀三尊は毎年4月21日と22日にご開帳。開帳時間が決まっているので、事前に要確認。
楼門とその天井画は市の文化財。仁王像が睨みをきかせる。本堂には金剛界の大日如来坐像をまつる。
毎年この時期に東京国立博物館で開催される新指定文化財展。2018年度の彫刻の部を急ぎ拝観してきました。初めてお会いして興奮した2尊と、何度かお会いしたけどやっぱり大好きな快慶仏1尊をご紹介します。いずれも今回、重要文化財に指定されました。
文化庁の説明によると、「穏やかな作風に平安末期の彫刻様式を示す。奥州平泉で藤原三代による寺院造営に携わった仏師の手によると推定。吊り気味の目など新しい傾向もみられ、1170~80年代頃の製作と考えられる」。中尊寺金色堂の諸像と比べるとがっしりした印象をもった。上品だが、威厳と力強さも感じる。お寺で拝観できるだろうか。
運慶周辺の仏師による。最近行われた保存修理により納入品が発見され、1187 ~1193 年頃にかけて行われた諸国勧進により多くの結縁者を得て製作されたことが判明。たくさん押された印仏など、胎内納入文書の一部も公開されている。力を合わせてみほとけを造立するとはなんと尊いことだろう。
六波羅蜜寺の鬘掛(かつらかけ)地蔵菩薩立像と同じく、左手に頭髪を持った珍しいお姿とのこと。しかし、六波羅蜜寺の鬘掛地蔵尊が平安時代なのに対し、西光寺の地蔵尊は明らかに慶派の影響がみられる。六波羅蜜寺の鬘掛地蔵と運慶地蔵坐像や康慶の地蔵坐像(富士市瑞林寺)が混ざり合ったような不思議な感覚で拝んだ。
トーハクのあの場所で三尺阿弥陀を幾つか拝んでいるが、この快慶仏は一目で他とは違う。別格だと思った。「比類なき」とはこういう時につかう言葉だと実感した次第。快慶さんが大好き!
なお、京都の東寺食堂の火災にあった四天王像が、修復後の状態が安定したという理由で、重要文化財の再指定を受けたのはうれしかった。この展覧会にはお出回しではないが、東寺で何度かお会いし、四天王さまの迫力と火災による被害のいたましさを実感した記憶がある。
同じく東寺からは、夜叉神堂の一対の夜叉神像が重要文化財に指定。現在、東夜叉神像がこの展覧会に出展中である。破損が著しいが、9世紀末にさかのぼるとされる一木の霊験仏である。
写真は文化庁プレスリリースのものをお借りしました。
詳細を解説したPDFが以下のサイトからダウンロードできます。勉強になります。
www.bunka.go.jp
仏像リンクDeep大阪ツアー。2日目にお参りした仏像につきまして、スピード重視でお伝えします。
(16:20 初掲載。21:50に尊延寺を追記)
2018年4月15日(日)
1) 孝恩寺(大阪府貝塚市)浄土宗
平安時代中期の本尊阿弥陀如来などの仏像群19体と板絵1枚が収蔵庫に安置。いずれも重要文化財。
(虚空蔵菩薩立像は60年ほど前から大阪市立美術館に寄託。また、薬師如来立像は現在トーハクの国華展にお出まし中)
周辺に榧の原木が多くあったと考えられ、ほとんどすべてが榧の一木造り。平安の一木像が林立する収蔵庫内はあまりに圧巻。「榧の一木造り、さ、い、こ、う…!」とつぶやいて、そのまま息絶えてしまいそう。
ご本尊脇侍の伝観音菩薩立像は金色の引き締まった上半身。下半身には黒漆の衣をまとう。この美的センスに魅了される。
孝恩寺には2015年の仏像リンク以来、二度目だが、今回は本堂(国宝釘無堂)の内陣もお参りできた。来迎阿弥陀三尊と法然善導両上人。阿弥陀さまが美仏。仏教大学で教鞭をとられた住職のお話も伺え、ありがたかった。
2) 千原大師堂(大阪府泉大津市)
十一面観音立像
123.8センチ。10世紀頃。大阪府指定文化財。
独特なご尊顔から、泉州の地方仏師によるとみられる。同様のお顔をされた例は、堺市に、大平寺阿弥陀如来坐像と金福字地蔵菩薩立像があるのみ。
3) 天野山金剛寺(大阪府河内長野市)
木造大日如来坐像(平安末期)、木造不動明王坐像、木造降三世明王坐像(鎌倉時代)
平成の大修理を経て、昨年、国宝に指定。金堂の修理も終了し、今年3月末から4月18日にかけて、金堂落慶記念の特別拝観が行われた。大日如来、不動明王、降三世明王の三尊は尊勝(そんしょう)曼荼羅に描かれる特殊な形式。
胎内にあった墨書から、1234年に完成したことや、3体がそろうまで約50年という歳月がかかっていたことが判明。また、不動明王の胎内に快慶の弟子、行快(ぎょうかい)の名前が見つかった。作風から降三世明王も行快の作と考えられる。
金堂落慶までのここ数年、大日さまと不動さまは京都国立博物館に、降三世明王の奈良国立博物館に安置されてきたが、ついに三尊が金堂におそろいになった。奈良と京都の博物館でお会いした仏像ファンは多いと思う。
私は特に、奈良国立博物館に行く度に、降三世明王さまに睨まれるのが好きだった。奈良博の一室を占拠し、大きな力を放っていた降三世明王さま。金剛寺金堂で三尊が並ぶと、奈良の時のような窮屈さはまったくない。金堂がいかに広い空間なのかを、奈良博との比較で感じる。
やはりこの三尊はこの空間にあるべき三尊なのだ。それは間違いない。しかし、降三世さまに間近で存分に睨まれた奈良博の環境も愛おしく、懐かしく感じた。
三尊お並びになると、降三世明王に特に動きと迫力があり、際立ってうまいと感じる。
なお、尊勝曼荼羅(仏画)は今年初めの仁和寺展(東京国立博物館)で拝見。同じく仁和寺展にお出ましだった平安後期の五智如来像が五仏堂におられ、堂外から覗き込み、拝観できた。五智如来さまの後ろに、真数千手観音立像がなにげなくお立ちで、仏像リンク参加者の注目を集めた。
4) 日野観音寺(河内長野市日野)
木造大日如来坐像
147センチ。檜の寄木造り。12世紀 。重要文化財。
日野観音寺は、金剛寺と同じ頃に創建され、金剛寺の奥院だったが、秀吉の根来攻めの際、一堂のみ残して全焼。
現存する大日如来坐像は、本体、台座、後背とも当初のもの。よくぞ残られた。平成26年に保存修理。
5) 観福寺(和泉市)
弥勒菩薩坐像
胸から腹へが引き締まり、若々しい筋肉が露出する。木造だが、表面に乾漆仕上げあり。これらの特徴から、天平時代にさかのぼる像だと考えられる。左腕の飾りの文様が造立当初のもの。
観福寺本堂の正面から斜め左に見える山に、今も春日神社がある。その神宮寺だった宗福寺(そうふくじ)が明治の初めに廃寺になり、仏像がすべて観福寺に移された。弥勒菩薩坐像はそのうちの一体。他に五大明王(ただし、一体を欠く)、七仏薬師(六体は雲に乗る)および弘法大師像。
6) 正伝寺(大阪府四条畷市)融通念仏宗
薬師如来立像
181.1センチ。近くの森福寺にまつられていたが、明治の初めに廃寺に。その後、村人が管理してきたが、堂の老朽化に伴い、正伝寺に移された。
一木の古様な造り。彫りは浅い。
ぷっくりあんよは後補。
融通念仏宗の大本山は大阪市平野の大念仏寺。大念仏寺と言えば、5月の華麗な練供養を思い出してしまう。本堂入って左の壁の上に来迎図があった!
堂内で優しい住職からお話をいただく。
五大明王のうち、降三世明王立像(158.0センチ)と軍茶利明王立像(158.9センチ)が重要文化財。平安時代後期(11世紀前半)。中央の仏師の手になる等身大の明王像。寄木造。
左脚を上げた軍茶利明王の躍動感が好き。脚や腕に執拗なまでに蛇さんを巻き付け、やる気満々。
不動明王立像(161.3センチ)、大威徳明王坐像(92.7センチ)、金剛夜叉明王立像(157.0センチ)は枚方市指定文化財。
文化財指定に差があるとはいえ、この尊延寺さまの空間に、この五大明王さまが並ばれると、なんだか自分の中でテンションが上がってくる。コミカルで力強い。多少の失敗はやらかしそうだが、いつでも必ず庶民の味方になってくれる。そんな感じの五大明王さまである!
同じく枚方市指定文化財の地蔵菩薩立像は修理中で、お会いできず。93.3センチの一木造り。10世紀頃か。枚方市の文化財サイトによると、奈良県室生寺近くの安産寺の地蔵菩薩立像(重文)や、法隆寺の地蔵菩薩立像(国宝)に類似するお姿なのだとか。どちらも大変美しく神々しいみほとけではないか。大変気になる!
一方、尊延寺さまでは「雨乞い地蔵さん」として、お寺周辺の田んぼに置かれていたと伺った。文化史的には日本を代表するお像と比較されながら、地元で庶民の信仰を集めてきたことに、胸が熱くなる。
本堂入口の寺務スペース的なところに、地蔵菩薩さまの台座が残されていた…。かなり衝撃的な光景である。修理が済んだら、必ずお会いしにいきたい!
仏像リンクさんのdeep大阪ツアーに参加中。以下、一日目の速報。間違いあるかもしれませんが、スピード重視でお届けします。後ほど追記と訂正すると思います。
ご本尊薬師如来坐像(重文)
日光菩薩・月光菩薩立像(市指定文化財)
比叡山の真西、朝日山の麓にある。790 年、最澄創建。比叡山から見て朝日が昇る場所に最澄が薬師如来をまつった。
1575年、織田信長の命により、明智光秀の兵火で寺内のほとんどが延焼。本尊薬師如来坐像は布にくるんで逃げ、生き延びた。脇侍の日光月光菩薩立像は、やはり同じ戦火の被害を受けた別の寺から譲り受けた。
定朝様の薬師如来坐像は貫禄があり、優美。脇侍は髻が高く、鎌倉か。
豊かな自然に囲まれ、大変美しいお寺。お池の名前は大正池。水面のグリーンに息をのむ。
大威徳明王坐像
102.7センチ。一木割はぎ。平安12世紀頃。六面六臂六足の憤怒形。能勢町指定文化財
(平安後期とされてきたが、平成13年から14 年の京都美術院国宝修理所の修復時に、平安初期9世紀の作かもと言われた)
多宝如来坐像
94.8センチ檜寄木造り。彫眼。平安後期12世紀。大阪府重文。仏師「経深」の銘あり。
釈迦如来坐像
86センチ。檜寄木造り。彫眼。平安後期から鎌倉初期。
もと真言宗のお寺で、大威徳明王坐像、阿弥陀如来坐像および薬師如来坐像という密教系の三尊だった。
日蓮宗に改宗する際に、阿弥陀如来を多宝如来に、薬師を釈迦如来に作り変えたのだとか。ご住職のお話がユニークかつ優しくて、「如来さんのお姿はどれもよく似ているから、手の形を変えるだけで簡単に変更できた。でも、大威徳明王はお姿が独特すぎて、変えようがなかった」とのこと。
東向き十一面観音菩薩立像
106.7メートル。四臂の十一面観音菩薩立像。檜、寄木造り。彫眼。12世紀。大阪府重要文化財。恵心僧都源信の作と伝わる。
応和二年(962)に建立された観音堂が安穏寺の開創と伝わる。四臂(腕が4本)の十一面観音立像は、わが国に7例しか残っていない貴重な遺品。平安時代1躯、鎌倉時代4躯、南北朝1躯。
1314年に「村内安穏」のため修理したとの記録あり。火除けの観音さまと伝わる。
4) 慶瑞寺(大阪府高槻市)黄檗宗
木造菩薩坐像
昭和61年に本堂から見つかる。8~9世紀頃または平安初期の作。重要文化財
5) 高槻市山手町の薬師堂(大泉寺の境内)
6) 安岡寺(大阪府高槻市)
木造千手観音坐像
10世紀後半とみられる。重文。もと真上にあった安正寺の本尊と伝えられ、安岡寺の客仏。
兵庫県普門寺、香川県屋島寺と並び評される、迫力と重量感あるお姿。
2018年3月は仏像リンクさんで一日千葉へ。
その後、神奈川と静岡で、それぞれ半日かけて仏像めぐり。
まったくの偶然ではあったが、静岡に行く前日に牧野隆夫さんから『伊豆の仏像修復記』が届いた。クラウドファンディングのリターンである(牧野隆夫さんのクラウドファンディング(ぜひご検討ください!) - ぶつぞうな日々 part III)
牧野さんが修復された国清寺と旧桑原薬師堂の仏像を訪ね、感動もひとしお。今後は"牧野仏" をめぐりたい。
3月の拝観リストは以下のとおり。
2018年
3月3日
仏像リンク
千葉県
○市原市 日光寺 木造聖観音立像
県指定 像高3.32メートル、10世紀後半か。彫眼、桜、一木造。大きな内ぐりがあり、観音像の背面より覗くことができる。
○富津市 東明寺
・木造薬師如来立像
(県指定文化財、カヤの一木造り、2.16メートル)
・お前立ち薬師如来立像
(ご本尊薬師のすぐ横に、お顔と前面しかない破損仏。ご本尊さまより100年ほど新しい)
・お前立ち薬師の後ろの厨子に地蔵尊(秘仏。開扉なし)
・十二神将
○館山市立博物館
・千祥寺所蔵の木造如来形坐像
館山市指定文化財
10世紀末、73センチ
・不動さま明王坐像
南房総市文化財
1588年、里見義康の銘あり
○南房総市 小松寺
木造薬師如来立像特別開帳
平安時代の不動明王立像、他
○南房総市 真野寺
木造千手観音立像(覆面観音)
木造二十八部衆立像
風神雷神像
大黒天
3月17日
神奈川県西部
○鎌倉国宝館
常設 鎌倉から仏像
特別展 「仏像入門~のぞいてみよう!ウラとワザ」
○高徳院(鎌倉大仏)
○海老名市・龍峰寺(千手観音ご開帳)
3月31日
静岡県
○沼津市大平・龍音寺 聖観音立像(市指定、平安)
○伊豆の国市・国清寺 仏殿 釈迦如来坐像(市指定、鎌倉)
○伊豆の国市・国清寺 毘沙門堂仁王門の仁王像(県指定、鎌倉)
○毘沙門堂への参道 巨岩の線刻の大日如来など
○かんなみほとけの里美術館
・阿弥陀三尊(実慶、重文)
・薬師如来坐像(平安、県指定、一木)
・十二神将(鎌倉、県指定)
・聖観音立像(平安、県指定)
・地蔵菩薩立像(平安、県指定)
・毘沙門天立像(平安、県指定)
・不動明王立像(室町以降、町指定)
・空海上人像(江戸時代以降、町指定)
・経巻上人像(江戸時代以降、町指定)
butsuzodiary.hateblo.jp
以上
円福寺(東茨城郡茨城町)というお寺はクラブツーリズムさんに教えてもらうまで知らなかった。寺伝では、弘仁3年(812年)創建。天台宗のお寺である。
本堂の内陣奥におられるご本尊阿弥陀三尊立像は、1307年造立。かなりの美仏ではないか!
中尊が160センチ。観音菩薩が137.2センチ、勢至菩薩が136.4センチ。三尊ともに檜材の一木造で、彫眼。県指定文化財。
この三尊にかなり魅了された。なぜだろう、とても魅力的だ。
三尺をゆうに超える阿弥陀立像は存在感たっぷり。肘から下にうねうねと流れる衣は宋風か。
両脇侍にも惹きつけられる。「最近修復したのかな、だとしたら、きれいに修復されてるな…」と思いながら、見入ってしまった。堂外に出ると、ご朱印を書き終えられた住職がこの三尊の説明をしておられた。なんと、修復には西村公朝さんが関わられたとのこと。なんと、なんと! なるほど納得である。
誰が修復するかによって、その後の印象が大きく変わるのではないか、と最近考える。公朝さん、さすがである。どこの辺りが修復されたのか知りたい。
この三尊は、もともと近くの浄土真宗寺院で造られ、守られてきた仏様だったが、その寺が廃寺になり、円福寺の所蔵となったのだそう。よくぞ今まで残ってくださった!
住職の話を聞き終えるなり、再び本堂に戻って、三尊に対面した。やはり美しかった。
2018年4月8日。クラブツーリズムの特別拝観で、楽法寺の秘仏本尊、通称、雨引観音さまにお会いできた。
普段は収蔵庫に安置され、秘仏となっている観音さまである。2014年にほぼ通年にわたり、本堂に移され開帳されたのだが、私は不覚にもその機会を逃していた。もうお会いできる機会はないかもと思っていたのだが、こんなにも早く拝観できるとは!
この日、楽法寺は午前中に「マダラ鬼祭」があるため、クラツーの拝観は午後に設定することになったと聞いた。マダラ鬼祭は毎年4月第2日曜日。先にポストした笠間の公開日は毎年4月8日。今年は偶然にも重なったのである。
私は鬼さんの祭りも好きなので、このマダラ鬼祭も気になる…。今年は染井吉野が早くて葉桜になってはいたとはいえ、本堂前のピンクのお花はこんな感じで美しい…。まさに春満開…!
しかし、しかしである。秘仏の雨引観音さまのお姿を目にした瞬間、鬼さんや桜でそわそわふわふわしてた気分が吹き飛んだ。
な、なんですか、この不思議なお姿は。
収蔵庫内の撮影は禁止なので、楽法寺の公式動画から写真を拾ってみた。公式動画に一瞬だけ映る画像がこちら。
収蔵庫内、向かって左から、前立の観音菩薩立像、秘仏本尊「観世音菩薩立像(寺伝延命観音像)」、不動明王像(県指定文化財の不動明王像か?)。
一番左の観音像は、中央の本尊の御前立の像だという。宋風の衣紋からわかるように、鎌倉時代の作である。本尊観音菩薩立像は国の重要文化財なのだが、この前立像が付属する形で重文指定されている。
同じく動画より、延命観音さまのご尊顔。
こちらの写真がわかりやすいだろうか。
(写真は『秘仏』毎日新聞編 1991年より)
秘仏延命観音さまを見てみよう。文化財サイトによると、榧の一木造で、内刳なし。
左右4本ずつの腕のくっつき方が独特だ。肩と肘が一度に現れるような不思議な表現。これを文化財のサイトは次のように記す。
「両側各臂(ひ)の上膊部(じょうはくぶ)をまとめて一材に刻み、肩に矧付け(はぎづけ)、各手の前膊部はそれぞれ手先と共木(ともぎ)に彫り、これを肘で矧付け」ている。
つまり、4本来の腕が肩と肘のところでひとまとめになっている。これがかなり異様な感じを醸し出す。隣の前立像も左右四臂ずつだが、もっとスマートにまとまっているではないか。本尊の無骨な表現に卒倒しそうになる。
下腹部の衣紋も萌える。翻波式をまじえた「衣褶(いしゅう)の鎬立(しのぎた)った彫法は、いわゆる平安初期一木彫像の風にならうもの」だと文化財サイトは言う。
私は特に、両脚の間に一本すとんと立った衣の線がとても気になった。また、お腹を辺りのひらひらした衣紋や、膝辺りでW字を描いてひねる衣も気になる。確か平安前期の特徴ではなかろうか。
また、天衣のふわふわに隠れて分かりにくいかもしれないが、真正面から見ると、観音さまのウエスト部分が異様に細いことに気付く。不思議な魅力を生み出すもう一つの要因だろう!
また、「天衣や裳の縁にうねうねと反りを設けた刀法など、一種の地方作風ともいうべき特色」を文化財サイトは指摘する。
つまり、平安時代の地方仏という意味なのか!? 仏像の教科書の基本が通用しないお姿に、とてつもないパワーを感じる。
この不思議な観音さまにまたお会いできる日はくるのだろうか。今、私は、雨引観音さまの独特の印(人差し指と小指を立て、中指と薬指を親指で押さえる)を自分の手で結び、それを眺めている…。
【参拝案内】
雨引観音(雨引山楽法寺)
〒309-1231 茨城県桜川市本木1
電話:0296-58-5009
※今回はクラブツーリズムのために収蔵庫を開けてくださった。一般個人が予約で開けていただけるのかは不明。2014年は通年にわたり本堂で開帳したが、同じことが今後も行われるかどうかは不明とのこと。
笠間市
楞厳寺(りょうごんじ)・千手観音立像
笠間六体仏の一つ。
重要文化財。 建長4年(1252)年造立。 像高207.5cm。檜材の寄木造り。漆箔。玉眼嵌入。髻が高く、衣紋の襞が複雑で、慶派の作風を示す。
(写真は笠間市のサイトより)
ふかふかの苔のカーペットの先に収蔵庫が。もうこの景色と苔のふかふかを感じただけでも来た価値あり。
十一面千手観音さまは寄木造りながら、お身体に量感あり。お顔はかわいらしいような優しいような複雑な表情。腰から下の衣紋が複雑で、宋風好きにはたまらない。
本堂のご本尊大日如来さまは笠間市の文化財だが、非公開。千手観音さまは予約拝観可能とのこと。
収蔵庫の前の桜がきれいでした。
茨城県茨城県
笠間市
弥勒教会・弥勒仏立像
鎌倉幕府の御家人だった宇都宮氏の一族、笠間時朝(かさまときとも)が造立した「笠間六体仏」のうち、現存する三つの像の一つ。
重要文化財。1247年造立。像高175センチ。寄木造り。漆箔。玉願嵌入。台座と後背も造立当初のまま。肉髻は低い。
像内に時朝と等身大の像であることを示す銘があるとのこと。
「衲衣の衣文は複雑で、この時代に流行した中国宋朝の様式と鎌倉彫刻の様式が確立された13世紀後半の一典型を示す」(茨城県の文化財サイトより)
衣紋の流れかたから、興福寺北円堂の無着世親像を思い出す一方で、下腹部から足元に同心円状に流れる衣紋が独特と感じた。私としては、肉髻が低いのが残念。玉眼が理知的に光っていた。
毎年4月8日の花祭りの日に公開される。収蔵庫の横に小さな誕生釈迦仏が安置され、甘茶をかけることができる。
収蔵庫を臨む。
今年は日曜日にあたるためか、参拝者が途切れることがなかった。
収蔵庫の脇に白山神社あり。また、周辺は畑が広がるのどかの場所。
(弥勒仏立像の写真は堂外から撮影したものをトリミング)
2018年3月31日。午後から半日かけて、伊豆の平安仏と"牧野仏"をめぐってきました。
修復後(現在のお姿)
(↑筆者撮影)
なお、国清寺の仏殿の拝観については、隣の高岩院に事前に連絡を。本などに載っている国清寺の電話番号は通じません。
館山市立博物館
拝観日=2018年3月3日
千祥寺所蔵の木造如来形坐像
千葉県指定文化財
10世紀末、73センチ、ヒノキの一木造り
木造如来形坐像は、薄く閉じた、つり上がり気味の両目が印象的。口元は小さく閉じる。一宮の安房神社に伝来か。
博物館預かりとなったのを機に、1987年に修復を行い、両手先を付け足した。腕の感じから、宝生如来の形に補作することにしたそう。
五智如来の一尊かと推測するが、安房神社に五智如来がまつられていたかどうかはまったくわかっていないとのこと。
平安初期の量感豊かな印象を残しつつ、穏やかな和様彫刻へと向かう感じもあり、大変魅力的。
狭い館内に仏像がもう一つ、不動明王坐像が展示されていた。南房総市文化財。1588年、里見義康の銘あり。
※千祥寺の如来形坐像の展示時期については、事前に博物館にお問い合わせください。
富津市 東明寺
参拝日=2018年3月3日
東明寺は718年の創建と伝わる。以前は海岸に位置して東足寺と称したが、1742年の大津波の後に現在地に移転したという。内房線上総湊駅から1キロほど。浦賀水道の向こうは三浦半島という地域に立つ、真言宗智山派のお寺である。
<ご本尊薬師さま!>
ご本尊の薬師如来立像は、2013年「仏像半島」展(千葉市立美術館)のメインビジュアルを務めたほどの存在感あるお姿。仏像ファンならこのポスターに見覚えあるはず。
中尊の薬師如来立像は県指定文化財。カヤの一木造りで、像高2.16メートル。
お顔に特徴がある。
正面から拝むと、まるびたお顔に優しい目。幼子のように見える。
しかし、真横から拝むと、一瞬にして理知的でシャープなお顔に変身する。
お体も量感がある。また、間近で見ると、細かい亀裂の線が幾つも入っており、一木造りであることを実感する。一木造りの温かみが伝わる。
(写真は「仏像半島」展の図録より※)
<十二神将!>
十二神将は、薬師さまの裏側の戸棚のようなスペースに、二段に分かれて安置されていた。横須賀の曹源寺の十二神将と並び評される、鎌倉時代後期の作。十二神将さまのようにアクティブであるはずのほとけさまが、ガラスケースのような戸棚にしまわれているのは悲しい。
「仏像半島」展のときのように、薬師様の周りに円陣を組んで、スタンバイさせてあげられないものか。今にも出陣しそうな躍動感ある十二神将なのだから。
(2013年「仏像半島」展の会場写真。公式サイト
より)
<その他の仏像>
・お前立ち薬師如来立像
ご本尊薬師のすぐ横に、破損仏が立つ。ご本尊さまより100年ほど新しい前立像だが、傷みが激しい。像の近くにいき、横からのぞき込むと、お顔とお体の正面が板一枚のように残っているだけだった。背中もなにもない。びっくりした。正面が穏やかな表情なだけに、戦慄が走った。
・お前立ち薬師の後ろの厨子に地蔵尊
秘仏で、今回開扉なし。ただ、「仏像半島」展には出展。
※薬師如来のお顔の写真は、仏像半島展の図録の写真からお顔の部分だけ切り取ったもの。
千葉県市原市
日光寺
木造聖観音立像
県指定 像高3.32メートル
彫眼、桜、一木造。大きな内ぐりがあり、観音像の背面より覗くことができる。両腕は肩ではぎ付けし、左肘から先をさらにはぎ付ける。
発見当初は平安末期(12世紀後期)とされていたが、昭和61年の修理に伴う調査の結果、10世紀後期の作と推定されるに至る。
(↑ざっくりと空洞が! 霊木の木の洞を利用したとも考えられる)
(↑瓔珞(ようらく)や臂釧(ひせん)を金具で別に付けるのではなく、このように彫り出すのは古様なのだそう)
(↑観音様の後ろの棚に、新しい十王像と奪衣婆さま。古い像が盗難にあったのだと聞いた)
(↑観音様のおられる収蔵庫はこんな階段を登ったところにある)
(↑馬頭観音さまだろうか)
※写真はすべて筆者撮影
【参拝案内】
日光寺
住所:千葉県市原市風戸81
要予約
<序文>
この記事は、来迎阿弥陀三尊にお会いした感動を叫ぼうと書き始めた筆者が、書いてる途中で「制作年代に二つの説がある」ことに気づき、あたふたする様子を書き残したものです。しばらく下書きフォルダーに放置していた文章を書き直し、引用文書の画像も添付しました。自分の不出来をさらすようで正直恥ずかしいのですが、実は、このようにあたふたするのも仏像の楽しさだと思い、ここに掲載することにしました。市と県の文化財サイトで制作年代の説明が異なるのです! 詳しくご存知の方がおられましたら、教えてください。この阿弥陀三尊像は誰がいつ造ったのでしょう!?
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西尾市吉良(きら)町の阿弥陀さまめぐり。海蔵寺に続く2か寺目は金蓮寺(こんれんじ)です。
金蓮寺の創建は鎌倉幕府の成立の頃。1186年、源頼朝の命により、三河守護の安達盛長が建立した三河七御堂(しちみどう)のひとつと伝えられます。『東海美仏散歩』で拝見して以来お会いしたかった憧れの阿弥陀三尊さまは、国宝の弥陀堂の中におられました。
金蓮寺(曹洞宗、愛知県西尾市吉良町)
阿弥陀三尊
寄木造、玉眼、県指定文化財
阿弥陀80センチ、観音79.4センチ、勢至80.4センチ
なんとも麗しい来迎の阿弥陀三尊。中尊さまは上品下生の来迎印を結んでおられます。観音菩薩さまは両手で蓮の花を差し出し、勢至菩薩さまは合掌。両菩薩さまが腰をかがめて、死者を極楽へと迎え入れます。
来迎像はやはりこのアングルから。観音勢至菩薩が腰をかがめて救いにきてくださる様子に胸が震えます。
勢至菩薩さま側からだとこんな感じ。ますます胸が高鳴ります!
そばで拝見しますと、思った以上に両菩薩さまは肉付きがよいのです。鎌倉初期の阿弥陀仏と言えば、快慶さんが美しいお像をたくさん作られています。しかし、金蓮寺の三尊は快慶の阿弥陀さまたちとは少し違う感じを受けました。素人考えではありますが、快慶流であれば、もう少し繊細で華奢な感じに仕上げるのではないかと思いました。特に腰回りはかなりふくよかです。
もちもちとした量感豊かなお姿から、鎌倉市の光触寺の頬焼阿弥陀さまを思い出しました。運慶流の阿弥陀とも言われる三尺の立像です。似ているように思えるのは、どちらもお肌が黒いせいもあるかもしれません。でも、あえて二者択一とするなら、快慶風といえより、運慶風なのかなあと思いました。(このパラグラフを書いたことを後悔することになるのですが、その理由は本記事の後半に記しています)
(参考画像 鎌倉市の光触寺の頬焼阿弥陀如来さま。写真は2018年金沢文庫運慶展図録より)
金蓮寺の阿弥陀三尊さまは、平成19年から20年にかけて修復されたそうです。江戸時代の修理の際に塗られた塗膜が除去され、みずみずしいお姿が現れました。観音菩薩さまの両肘より先や台座の最下部など、欠損部分も補われました。お姿が黒っぽく見えるのは、このときの修理により黒漆層が露出したためだそうです。元々は漆箔で、螺髪は群青、台座の蓮弁は緑に彩色されていたとのこと。目を閉じて、造立当時の華やかなお姿を想像してみました。
と、ここまで書いたところで、制作年代について衝撃の事実を発見しました!
西尾市のサイトでは、三尊とも鎌倉時代と明記しています。それを頼りにお寺で拝観し、妄想膨らませてここまで書いてきました。
西尾市の文化財サイト↓
しかし、愛知県のサイトを見たところ、観音勢至菩薩は江戸初期の再興像だと書いてあるではありませんか!!
愛知県のサイト
愛知県のサイトから、以下、肝心のポイントを引用します。
「両脇侍像は、特に服装において鎌倉時代的な要素を示しながらも、形式化が進んでおり、江戸時代初め頃の復古的な作例と考えられる。
一方、台座は三組とも鎌倉時代のものと認められ、当初から三尊像として制作されたことは間違いない。のち、両脇侍の本体が失われ、現脇侍が補作されたと考えられる。
平成21年(2009)に両脇侍像が追加指定された」
つまり、鎌倉時代に三尊そろって造立されたものの、脇侍の観音勢至両菩薩は傷んだため、江戸時代初期に、元々の像のお姿をまねて新たに作り直した、という説を愛知県は採っておられるのです。
まさか…。そう思って、あらためて金蓮寺さまのリーフレットを読み直してみました。
このリーフレットでは、三尊像について、まず、「江戸時代の修理の際に塗られた塗膜が取り除かれたことで、像の印象が一新され、阿弥陀三尊像の瑞々しい表情がよみがえ」ったことを指摘し、さらに、制作年代については、「三尊像の台座の蓮肉部分及び光背は鎌倉時代の製作との評価で専門家の見解は一致していますが、三尊像本体の年代は弥陀堂と同時期の鎌倉時代とする意見と、やや時代が下るとの指摘もあり一致をみていません」と書いています。
つまり、鎌倉時代という説とやや時代が下るという説の二つが明記されています。脇侍だけ新しいという記述はありません。
(↑金蓮寺リーフレットより)
まとめますと、
愛知県サイト=阿弥陀は鎌倉、両脇侍は江戸初期
金蓮寺リーフレット=「鎌倉説」と「それよりやや時代が下る説」を併記(ただし、本尊と脇侍の制作時期が異なるかどうかには言及なし)
ということになります。
さらに、冒頭で言及した書籍『東海美仏散歩』を見直すと「平安時代」と書いてありました。これはさすがに誤植だと思います。そして、この本のブレーンだった方が運営する仏像ワンダーランドさんのサイトには、愛知県のサイトと同じく、脇侍は江戸とありました。
(↑『東海美仏散歩』はなぜ平安時代と記述したのか…)
愛知県サイトの記述を冷静になって何度も読み返しますと、快慶風だの運慶風だのと、わくわくしながら書いていた自分はなんとも間抜けに思えてきます。運慶の頃ではないとしても、慶派の影響を受けた仏師の作だろうと思いこんでいました。どんなに時代が下っても、鎌倉後期ぐらいかと。
そして、二つの説を明記したお寺のリーフレットがとても誠実なように思えてきます。
文献によって制作年代が違うとは。しかも、市と県で違うとは……!
三尊そろって鎌倉なのか、脇侍だけが江戸初期の作り直しなのか…。今後、新たな資料の発見などにより、さらに研究が進むことを願います。
なお、余談となりますが、東京の調布市に江戸時代初期の観音三十三身像(調布市指定文化財)が伝わります。鎌倉時代の慶派を模したことが一目でわかります。鎌倉時代の仏師を見本に江戸時代の仏師が鑿をふるったことでしょう。江戸の仏師に思いをはせ、感動したことを思い出しました。
(↑参考画像 調布市、西光寺の観音三十三身像の一部。毎月18日にご開帳なので、お近くの方はぜひ!)
もし金蓮寺の観音菩薩と勢至菩薩が江戸時代初期の作り直しだったとしたら…。きっと鎌倉時代の仏像を必死で勉強したのでしょう。それも尊いと思います。