ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

ぶつぞうな日々Part II (バックナンバー)はこちらです!

仏像のブログを書き始めたのは、2005年の年末でした。最初の投稿はこんな感じ。

f:id:butsuzodiary:20180212015258j:plain


10年以上が過ぎてもこの気持ちに変わりありません。ますます仏像に魅了されています。

上記のブログは「ココログ」で書いていたのですが、投稿に無駄な手間暇がかかるのが悩みでした。

これからこちらの「はてなブログ」でお世話になろうと思います。

過去の記録は以下からご覧ください。

hiyodori-art2.cocolog-nifty.com




ブログを書いている「はらぺこヒヨドリ」さんのプロフィールは

はらぺこヒヨドリ をご覧ください。


素人の雑文ですが、これからも仏像への愛を叫んでいければと思っています。平凡な中にも山あり谷ありの人生ですが、仏像が好きなおかげでとても救われています。

仏像好きなみなさん、一緒に「仏像大好き~♪」と叫びましょう。仏像とそれを守られてきた皆様に感謝を伝えたいのです。

どうぞよろしくお願いいたします。

【受講】山本勉氏「伊豆函南・桑原薬師堂の仏像」

清泉ラファエラ講座
「伊豆函南・桑原薬師堂の仏像 かんなみ仏の里美術館へのいざない」
講師 山本勉
日時 2018年7月14日13:30~15:40
f:id:butsuzodiary:20180715104543j:plain

はじめに

>
 山本先生の講義を初聴講。大学のコミニュティ講座はかくもレベルが高いのかと驚く。浅学の身としてはなはだ消化不良ではあるが、メモ書きを残す。
f:id:butsuzodiary:20180715114238j:plain

受講内容のメモ

 伊豆の桑原薬師堂に伝わり、現在はかんなみ仏の里美術館に安置される仏像群について、歴史的文化的に解説された。

○平安後期の薬師如来坐像箱根神社万巻との関わり)
○平安後期の地蔵菩薩立像・横川式の聖観音立像(薬師の脇侍であったか)
○平安後期の毘沙門天立像(不動明王と一対だったか。江戸の不動明王は後の再建か)
○上記の五尊で1セットだったのか(天台の影響か)

○実慶の阿弥陀三尊(鎌倉初期1210年以前。北条宗時墳墓堂との関わり? 上げ底式内ぐり)

十二神将
 ・丑神が13世紀前半か(量感あり、動きや細部の彫出が建治3年グループより優れる。髻は後補で、元は兜を被っていたのでは?)
 ・亥神に建治3年(1277年)の銘があり、卯神、辰神、申神も同時期か
 ・亥神は「仏師土佐法橋誠□」
 ・子、寅、巳、午、酉および戌が鎌倉末期から南北朝か(胸甲の中央に丸いくぼみ)
 ・戌神は室町か
 ・十二神将は十二の時の守護神。造像の作業もそれぞれの時刻に行った。
 ・横須賀の曹源寺と同様に、鎌倉永福寺の運慶の十二神将の影響の下で造像されたか

○江戸時代の観音勢至菩薩立像(しばらく実慶の阿弥陀の脇侍となっていた)
○江戸時代の不動明王立像(上記の毘沙門天の項目を参照)
○江戸時代の伝弘法大師坐像(憤怒の表情から、慈恵大師(良源)像か)
○江戸時代の伝経巻坐像(経巻とは聞かないので、ひょっすると、箱根神社を創建した僧、万巻の像か)

○上記の桑原薬師堂の仏像群は、古代以来の箱根文化圏と中世における北条氏文化圏が重なる地域にあって、仏教文化が重層したことを示す

平安時代から鎌倉時代にかけて、異なる時代の規準作品が含まれる

○地域の人びとの信仰が守った仏像群を現代の行政が継承し、あらたかな文化発信の場をつくった(レジュメ原文のとおり)

感想

 私はかんなみ仏の里美術館を今年3月末に訪れたばかり。実慶の観音菩薩さまが奈良で左腕を直されてお戻りになった直後だった。
 感想を3点ほど記したい。

感想1) 薬師様が実寸以上に大きく感じられるのは

f:id:butsuzodiary:20180715191501j:plain
 今回、個人的に印象的だったのは、薬師如来坐像をめぐる話である。像高106センチであるが、それ以上に大きく見えるのが、私はとても不思議だった。山本先生もその点を指摘され、その理由として、脚部に比して体部が大きいことを挙げられた。さらに、造像をめぐる背景として、次の話をされた。
 桑原の薬師如来については、以下の縁起が残っている。「箱根神社を建立した僧の万巻が都に行く途中で亡くなった。万巻の徒弟が師の遺骨とともに、丈六薬師と経巻を運んでいたところ、桑原の地で動かなくなってしまい、一堂建立して安置した(新光寺)。しかし、大伽藍とするには祟りがあるとされたので、丈六薬師を本山に戻したところ、霧が晴れ、桑原の民に平安に戻った」。山本先生は、丈六薬師をお戻しした後で、これを模して小像が造られたのではないかとおっしゃった。その小型版の"丈六薬師"が 現在の薬師如来坐像ではないかと。実寸より大きい印象を受けるのは、元々この丈六薬師の影響を受けているからではないか、との話であった。
 薬師如来坐像から自分が受けた印象は言葉にならないものだったが、このように解説していただき、言語化できることが、本当にありがたい。

感想2) 如来+観音地蔵の例としてなんと…

 もう一つ印象的だったのは、如来と観音地蔵菩薩の例示の中で、文化庁阿弥陀如来坐像と根津美術館地蔵菩薩立像が一具であったと考えられるという点だった。文化庁阿弥陀如来坐像は東京国立博物館で拝観していた(写真添付)が、まさか根津の地蔵菩薩立像と関係があったとは。仏師快助という名前も初めて伺い、ますます興味深い。 
f:id:butsuzodiary:20180715203139j:plain

感想3) 地元管理から自治体管理への賛否

 地元管理だった仏像群を函南町が買い取り、新しいミュージアムに収めて文化発信している点について、山本先生は特に強い敬意を示された。新しい美術館については、賛否両論があるので、その辺りを踏まえてのご発言だったと思う。
 地元の信仰が守った仏像群を行政が引き継ぐのは、過疎化高齢化の今、取り得る最善作の一つなのかもしれない。ただ、人があっての地方行政である。さらに過疎化が進めば、いつかは自治体としての町さえも消えかねない。都心一極集中を抑制して地方経済を活性化させることにより、各地域がその信仰として、また、誇りとして、仏像を守り続けることができるのであれば、それが一番よいのではないか…。一方、多文化共生が進めば信仰も多様化し、問題はますます複雑になる…。
 あまりの難問を前に私は頭を抱えることしかできずにいる。
 ただ一つ明らか対策は、今後も多くの人が関心を持ち続けることだと思う。今回の講義のタイトルにあるように、仏像群に「いざわなれ」て、函南ミュージアムを多くの人が訪れることを願う。ミュージアムの建物は栗生明さんの設計によるもので、建築ファンも足を運ばれたい。

おわりに

>
 以上、とにかく濃い内容だった。山本先生にはこれだけで本を一冊書いていただきたい。2時間の講義だけでは理解しきれないので、そう強く願っている。
 また、桑原薬師堂の仏像群だけで論文がいくつも書けそうなので、さらなる研究の進展を願う。
 最後に、一番大切なこと。民の祈りを受けとめてこられたみほとけの諸像が次世代へと継承されますように。


※勉強不足で、間違いもあるかと思います。お気づきの点がありましたら、お知らせください。
※写真の仏像フィギュアはかんなみ仏の里美術館で買ってきた薬師如来坐像です。マグネット付で冷蔵庫にも貼れます! この薬師さまとご一緒に聴講しました!!
f:id:butsuzodiary:20180715112903j:plain
※私がかんなみ仏の里美術館など、伊豆の仏像をお参りした時(2018年 3月)の記録は以下より。
伊豆の平安仏と"牧野仏"(龍音寺、国清寺、かんなみほとけの里) - ぶつぞうな日々 part III





 

【信濃仏】海岸寺(松本市)~ぶどう畑の中の千手観音立像~

海岸寺
拝観日=2018年6月17日
○千手観音(県宝 159cm 桂 一木造り 平安中期)
f:id:butsuzodiary:20180702061723j:plain
※世話役さまから特別に写真撮影の許可をいただきました。(観音様から見おろされるこのアングルが最も気にいりました!)

 海岸寺は、明治初年の廃仏毀釈の際に廃寺となったが、地元の方々により仏像群がお守りされている。
 県宝の千手観音立像は平安時代の作と見られる。1683年、松本城主水野忠直が京仏師浄仁の子清春に依頼して修復。修復の際に塗装され、頭上面と脇手の一部を欠くものの像容は整い、平安の様式を残した美しいお姿が残されている。
 何かの本で「大法寺の十一面観音さまとお顔が似ているのでは」と読んだ記憶があるのだが、実際にお会いしてみると、こちらの方がだいぶあか抜けているように感じた。面長で、二重顎だ。上の写真のように、左側を見下ろす感じがたまらない。私は仏像さんに見おろされるのが大好きなので、写真も左下から撮りたくなる。
 また、脇手も非常に印象的だった。両サイドに大きく張り出し、うねうねとした動きも感じられる。どこからどこまでが後補かは不明だが、もし脇手の大部分が江戸時代の修復によるものだったとしたら、清春はかなりの力量の仏師だったということになるだろう。
f:id:butsuzodiary:20180702062631j:plain
 千手の腕の一つに、ぶどうを掲げ持つものがあった。山梨の大善寺にぶどうを持つ薬師如来さまがおられるが、松本にもおられたとは。こういう細かい持物は後補のことが多い。この観音さまはいつからぶどうをお持ちなのだろう。
f:id:butsuzodiary:20180702061903j:plain
 ご案内くださった世話役さまも、ぶどう栽培をされているそうだ。日焼けしたお顔で観音さまを誇らしげに見上げておられたのが忘れられない! ぶどう畑の中の観音さまが末永く伝えられますように。
f:id:butsuzodiary:20180702062000j:plain
(↑最後に全身写真を。スリムで均整がとれており、大変美しい。左足の横に安置されているのが奪衣婆さま)

【信濃仏】栂尾毘沙門堂~盗難を乗り越えた信仰篤い毘沙門天さま~

栂尾(つがのお)毘沙門堂(長野県北安曇野郡池田町広津)
拝観日=2018年6月17日
毘沙門天立像(県宝、112㎝、桧、一木造り、平安後期)
f:id:butsuzodiary:20180701182025j:plain

拝観予約


 丸山さんの本で拝見し、これはお参りしたいと思った栂尾毘沙門堂毘沙門天さま。Google地図でざっくり確認したところ、ルート的にも問題ないと判断。池田町役場から管理者の方をご紹介いただき、拝観させていただけることになった。ちなみに、この「Google地図でざっくり確認」が後に自分を苦しめることになるのだが、このときの私はまだそれを知らない…。
 5月初めのとある遅めの昼休み、池田町役場にお電話したところ、「地区の方が管理されているので、その方に聞いてみます。お仕事をお持ちの方なので、すぐには連絡がつかないかもしれません。しばらくお待ちください」とのこと。やはり拝観のハードルは高いのか…。そう思って、お弁当に集中しようとすると、ほどなく役所から連絡があった。
 「世話役さんと連絡が取れました。ご希望の日時で今のところは問題ないそうですよ…。直接連絡取ってみますか?」とのこと。急な展開に慌てながらも、これは逃してはいけないチャンスかもと直感! すぐに管理者の方にお電話させていただいた。
 生来の人見知りなので、初めて電話するときは緊張する。ましてや、個人の方にご好意をお願いしようとするときはなおさらだ。役所や寺院よりハードルが高い。
 ところが、恐る恐る電話してみると、これまたあっけなく、世話役さまから許可が出た。ざっくりと6月17日の午前中ということでお願いし、旅程が固まり次第、改めて訪問時刻を連絡させていただくことに。
 さらに、丸山さんの本で拝見したことと、参加メンバーは仏像好きで礼儀正しい人ばかりだと言うことをお伝えした。つまりは、アヤシイ者デハゴザイマセンという趣旨を叫んで、電話を終えたのだった。

地図に載っていない!


 電話を終え、ふーっと一息をつき、改めてGoogle地図を見直した。しかし、広津地区の場所までは分かったのだが、お堂の場所を地図上で見つけることはできなかった。お堂の住所は県のサイトを見ても「池田町広津」とあるだけで、番地は見つからなかった。まあ、その点については、後で問い合わせればと思っていたのだが、なんと運転担当の仲間が見事なGoogle航空写真さばきでお堂の場所を「発見」してくれた(この方の調査能力はほんとに半端ない!)
 ただ、覚音寺の記事に書いたように、Googleナビには、遠回りのルートしか出てこないのを、私たちは当日まで知らなかった。覚音寺を発つ際に、ご住職に教えてもらい、約束の時間より30分も早く現地に到着したのだった。この辺りの時間調整で難儀したことは、覚音寺拝観の記事に詳しく書いたとおりである。(今こうして書いてても胃が痛くなる。無事にたどり着けて本当によかった!)
f:id:butsuzodiary:20180701185415j:plain
(↑毘沙門堂周辺の四季の景色。世話役さまが参加者全員に写真をくださった。あまりのご好意に泣ける)

篤い信仰の毘沙門天さま


 30分早く到着したのだが、世話役さまも間もなく到着され、すぐにお堂を開けてくださった。
 狭い堂内に入ると、世話役さまから「まずは般若心経をお唱えしましょう」との一言。世話役さまとご一緒に、参加者全員でお唱えさせていただいた。
 お唱えを終えると、世話役さまから短くお話があった。近くに住んでいたおばあさんが毎日この毘沙門天さまをお参りし、92歳で亡くなるまで元気でおられた、という話だった。亡くなる前に入院したが、病院からも毘沙門天さまの方向に祈りを欠かさなかったそうだ。亡くなる直前まで意識もはっきりし、長患いしなかったと言う。つまりは、ぴんぴんころりは毘沙門天さまのおかげなのだという話である。世話役さまはとても誇らしげであり、毘沙門天さまへの信心深さが伝わってきた。
 この小さなお堂の毘沙門天さまは大きな信仰の対象であるーー。その事実を拝観して数分間で、この世話役さまから教わったのだった。

彫像としての毘沙門天さま


 改めて毘沙門天さまのお姿を拝してみよう。いかめしいご尊顔。左手に法灯を掲げ、右手に法棒を握る。引き締まった全身にはまったく隙がない。1メートル強の決して大きな像ではないが、とてつもなく大きな力が込められた彫像であった! 左太もも辺りに残る彩色文様も印象的だ。
 当日は池田町教育委員会の方もおいでくださり、説明してくださった。この毘沙門天さまは長尾という場所にまつられてきたが、地滑りや火災等により何度か移動し、昭和46年から現在のお堂にまつられているとのことだった。
f:id:butsuzodiary:20180701183423j:plain
f:id:butsuzodiary:20180701183603j:plain

2011年の盗難事件!

 実はこの毘沙門天さまはなんと、2011年2月に、盗難に遭っている。盗難にすぐに気づき、テレビ等で報道されたところ、数日後に奇跡的に発見されたそうだ。世話役さまいわく、「テレビのニュースに出たもんで、新潟あたりで見つかっただよ」。
 毘沙門天像はしばらくの間、池田町の預かりとなり、その間にお堂の改修工事が行われた。2011年5月3~15日には、北アルプス展望台美術館(池田町立美術館)で毘沙門天像を公開。毎年5月3日に行われる例祭もこの年は美術館で実施された。翌2012年4月28日、防犯対策を施したお堂に毘沙門天さまがお戻りになり、6月10日には、町長や県議、教育長、奉賛会長など30名が集まって、法要例祭が執り行われた。
 よくぞお戻りになられた。そして、私たちの拝観をよくぞお許しくださった。2018年6月、仏友さんと共にお会いできたことが奇跡のように思えてくる。

池田町の他の盗難被害


 池田町の文化財サイトはとても充実しており、各地区のお像の写真が文化財未指定のものまで掲載されている。その陰で気づくのは、行方不明になっている仏像の存在である。
 池田町の調べによると、2005~08 年にかけて、5件の盗難があり、37体の被害あったそうだ。広津地区の日野で十二神将10体、南足沼で十王像など16体、郷志窪で薬師如来坐像など9体、菅ノ田で聖徳太子立像1体、日影山は勢至菩薩坐像1体の各集落から被害報告があったとのこと。いずれも盗難の日時は不明だという。

今後のお守りのしかた~町立仏像センターという選択肢~


 2011年の盗難後、お堂には防犯対策が施された。現在のお堂は頑丈な鍵付でセコムも完備。お像にピアノ線も張られている。それでいて、毘沙門天さまを照らす電灯のスイッチが堂外の壁に取り付けてられており、鉄格子の間から毘沙門天さまのお姿を拝観することも可能なのである。なんと優しい環境なのだろう!
 しかし、それでも池田町全体の問題は払拭されないのであろう。町教育委員会の方のお話では、町内の仏像を集めて保管、公開する施設を造ることを検討されているそうだ。過疎化と高齢化が進むなか、そうした対応はやむなく、むしろありがたいことなのかもしれない。盗難被害など二度とごめんだ!
 しかし、この地に伝えられてきた熱い信仰心はどうなるのだろうと少し不安も感じたのだった。亡くなる直前まで毘沙門天さまに捧げたおばあちゃまの祈りを私は忘れたくない。
f:id:butsuzodiary:20180701190539j:plain
(↑小さな堂内に今も大切にお守りされる毘沙門天さま)

【信濃仏】覚音寺(大町)~「藤尾の観音さま」に家族の愛を想う~

藤尾山覚音寺(大町)
拝観日=2018年6月17日
千手観音菩薩立像(重文 168.2cm、桧材、寄木造、1179年造立)
持国天(重文 161.5cm、桧、寄木造、1194年造立)
多聞天(重文 157.6cm 桧、寄木造、1195年造立)

f:id:butsuzodiary:20180626191452j:plain
(写真はお寺のリーフレットより)

藤尾の観音さまへの想い

 覚音寺の千手観音さま(通称、藤尾の観音さま)にお会いできた幸せは、私の語彙では伝えきれない。理知的で優しいご尊顔。重量感のある体躯からは、木に込められたパワーがみなぎっているようだった。
 強さとか優しさとか聡明さとか、そういう言葉だけでは表現しきれない、もっと超越した何かを私は感じた。近づきたいのだが、近づきがたい。今の私に必要な何かを観音さまからいただいたように思う。
 平安末期、仁科盛家の妻が、戦乱でいつ命を落とすかわからない夫を思って祀った像なのではないかーー。そう丸山尚一さんが書かれているのを帰宅後に読み、すっと納得できる気がした。私は家族を支えながら働いており、日々の難問を前に、わが身の至らなさを常に感じている。だからこそ、強さと優しさと聡明さを結集させたこの千手観音さまに惹かれるのだろう。盛家の妻も家族を思って観音様に手を合わせたのだろうか。

覚音寺の寺歴とご住職


 覚音寺は平安中期、快尊上人によって創建され、一時は十二坊を擁する大寺院だった。もともと天台密教だったが、江戸時代に曹洞宗に変わり、明治維新後に廃寺に。昭和8年の調査で千手観音・多聞天持国天の三尊の立像が発見され、まもなく国宝に指定された(戦後の法改正により、重要文化財に変更)。平成2年に新御堂が建立され、現在は、奈良県吉野の金峯山寺を本山とする金峯山修験本宗の末寺として法灯をつなぐ。

 覚音寺は、大町八坂地区(旧八坂村)にあり、お寺の案内書によると「安曇野の東に連なる大峯に抱かれて立つ」。この麗しい言葉のとおり、私は、覚音寺をお参りする途中、付近の大いなる自然に心を奪われた。しかし、運転する仏友さんはかなり気をもんだようだ。拝観予約を担当した仲間が住職から教えてもらった山道を進むと、やっと覚音寺にたどり着いた。Googleなどのナビでは、遠回りの道しか出てこないそうで、住職が最適なルートを事前に教えてくださったそうだ。このご配慮が本当にありがたい。

 帰宅後にお寺のリーフレットを熟読したのだが、簡潔にして美しい名文だった。おそらく住職のお人柄と聡明さがにじみ出ているのだと思う。こういう文章は、古文書を写したような難解なものでもいけないし(そういうものは割と多い)、かといって、軽薄すぎても、読み手を見下しているようで反感を買う。帰宅して振り返り、住職の偉大さをかみしめている。自分も文章を書く仕事をしてきたが、リーフレットの美しく簡潔な表現を心から見習いたいと思った(しかし、現実には、以下のように、駄文が続きます...。すみませんが、覚音寺さんが大好き大好きと叫んでいきますので、よろしければお付き合いください...)。

胎内資料より読み解く千手観音立像、多聞天立像、持国天立像

 覚音寺の本堂の裏に収蔵庫があり、千手観音、多聞天持国天の三尊がまつられている。朝早く到着したところ、すでに住職が扉を開けていてくださった。足元に気を取られながらお堂の前まで進み、ふと顔を上げると、なんの前ぶれもなく、突然に目の前に、この三尊が飛び込んできた。私は、千手観音さまの聡明で強くて優しいお姿に、一瞬にして打ちのめされてしまった。冒頭記載のとおり、もう言葉にならない感動であった!! 
f:id:butsuzodiary:20180626192036j:plain
(↑写真は『めくるめく信州仏像巡礼』より)
 住職が寺歴と三尊像について優しく分かりやすく説明してくださった。実は、観音様を前にした感動と、幹事として厳しい旅程を管理しなければならい重圧とのはざまで、いつもなら行うメモ取りをし損ねてしまった。(住職のお話が優しく明快だった印象だけははっきりと残っている!)
 記憶の中の住職のお話と、帰宅後改めて調べた内容とをあわせると、千手観音、多聞天持国天の各像について以下のとおり説明ができるかと思う。
 ○覚音寺は明治45年(1912年)に火災にあい、この三尊は再建された小さなお堂に人知れず安置されていた。
 ○昭和8年(1933年)に、この地域一帯に文化財調査が入り、これら三尊の像を発見。翌年にお像の解体修理が行われ、千手観音像の胎内から墨書木札1枚、紙本千手観音摺仏28枚、白銅鏡1面が見つかった。
 ○これらの資料から千手観音像造立の詳細が明らかになった。観音像の施主はこの地域を治めていた仁科盛家とその妻子。盛家は源平合戦に出陣した武将だが、妻子ともども深く仏道に帰依し、この観音像を造立して覚音寺を再興した。その後、盛家は木曽義仲に従軍。戦地で亡くなったと考えられている。(盛家が家族で造立した観音像だが、そこには妻の想いが強く影響したのではないか。素人の考えだが、そう感じさせる観音さまだった)
 ○観音像の造立は平安時代末期の治承3年(1179年)。仏師は慶円六郎坊で、本格的な寄木など彫技の巧みさから、中央で修行した仏師と推測される。
 ○お寺のリーフレットによると、観音像に納入された白銅鏡は、木札に「伴氏の出自」と記される、仁科盛家の妻によるものとみられる。この女性は、のちに出家して仏母尼と称し、高野山遍照光院に阿弥陀堂を建立し、快慶の阿弥陀三尊を施入した人物だという(まさか、いかにも平安らしいこの三尊の御前で、快慶の名前を聞くとは。なんとも驚愕である!) 
 ○観音像には千手観音の摺仏28枚も納入されていた。こうした手法が京都周辺で流行し始めて間もない頃に、信濃に同じ例が残っていることが貴重である。
 ○多聞天持国天は少し時代がくだり、それぞれ1195年と1194年に造立。鎌倉時代に入っているが、作風は平安時代の古風なもの。
 ○多聞天立像は全身の均衡に優れ、完成度が高いとされる。(確かにかっこよかった!)
f:id:butsuzodiary:20180627222819j:plain
(↑写真は『めくるめく信州仏像巡礼』より)
 ○持国天立像は大修理の跡があるが、手を腹前で交差するのは珍しく、他には、奈良興福寺北円堂の持国天に例がある。(多聞天さまとは別の味わいがある! ナイスコンビではないか!)
f:id:butsuzodiary:20180627222842j:plain
(↑写真は『めくるめく信州仏像巡礼』より)
 ○千手観音に納入された木札に以下の文言がある。「治承三年十月廿五日始之 十一月廿八日供養 大仏師武蔵講師慶円六郎坊 小仏師重源 小仏師香飯」
 この「小仏師 重源」は、後に東大寺再建の陣頭指揮をとることになる、あの重源と同一人物ではないかと住職は考えておられるそうだ。専門家には否定されているのだが、しかし、重源は東大寺勧進になるまで無名だったので、まったくありえない話とは言えないのではとのこと。いやいやいや…、本当だったら大ニュースである! 調べてみたところ、1180年の南都焼き討ちのあと、重源が大勧進に就任したのは1181年で、重源が61歳の頃だった。覚音寺の観音さまの造立からわずか2年後である。実際どうだったのだろう…。重源は快慶との結びつきも強いので、ひょっとすると、先に述べた遍照光院の快慶と結びつく可能性も…。(ひょっとするとひょっとするのだろうか。住職の少しだけ前のめり気味の説明を伺っていると、重源説を信じたくなる! 今後の研究が進みますように!)

お参りできてよかった…!

 ここからは少し今回の旅の裏話をしたい。今回の旅程を組む過程で、拝観寺院をあまりに詰め込みすぎなのではないかの声が上がり、実は、覚音寺を外すことが検討されたことがあった。再検討のうえ、当初の予定で行くことにしたのだが、幹事としては、覚音寺から次の栂尾毘沙門堂にかけての時間がタイトなので、ここをなんとかクリアしなければと思っていた。胃薬の必要な難関であった。
 実際に訪れてみると、これほどまでに感動的な三尊と住職にお会いでき、あの時踏ん張って本当によかったと思っている。運転を引き受けてくださった仏友さんに改めて感謝を伝えたい。
 さらに、覚音寺さまを去る際に、住職が栂尾毘沙門堂への近道を教えてくださり、当初予定していた移動時間(60分)の半分もかからずに栂尾に到着してしまったという顛末も。これまたナビでは出ないルートらしい。なぜかGoogleナビとは反対方向の道から、早々と栂尾に到着した。
 私はこれまで、お寺の参拝の際には、どの駅で降りてどの道で行って…という行き方をお寺の方に聞かないことをマイルールとしてきた。私が訪れるのは観光寺院ばかりではない。仏像拝観だけでもお寺のご好意で受け付けていただいているのに、さらにつまらないことでムダな時間をとらせたくないからである。Google地図などで、何でもぱぱっと調べられるではないか。地元のバス路線などが面倒でも、参拝者の責任で調べるべきだと思っている。気軽に電話して相手の時間を奪うことを私は好まない。
 しかし、今回のように、山の中のお寺の際には、少しだけご好意に甘えてみるのもありかと思った。山は危険と隣り合わせだ。今これを書きながら、京都愛宕山月輪寺さんをお参りする際、一人で登山予定だと伝えたときに、電話口で登山ルートと注意事項を詳しく教えてくださったことを思い出した。愛宕山では時々、お家に帰れなくなる登山者がおられるらしい。月輪寺は足で登るしか道がないので、少し事情は異なるが、例え車だったとしても、細い山道で立ち往生する可能性がないとは言い切れない。覚音寺さんへの道はいわゆる林道のような細い道だった。山では時々電波も届かなくなる。その土地の方にもう少し頼ってもよいのかもしれない。
 感動の拝観をさせていただきつつ、大切なことを学ばせていただいた。いろいろと未熟な私である。返す返すも、藤尾の観音さまにお会いできたことがありがたい。
 観音さまをお慕いしつつ、その聡明さと強さと優しさに少しでも近づけますように。

【信濃仏】光久寺(安曇野市)若き妙海の日光月光菩薩像はかわいらしい双子のようだった!

光久寺(安曇野市
拝観日=2018年6月16日
○日光・月光菩薩立像(県宝、桧材、寄木造、妙海1317年)
※写真撮影については管理者より許可を得ています
f:id:butsuzodiary:20180624220106j:plain

光久寺とは


 寺伝によると、光久寺は大同2 年(802年)に高野山遍照光院の末寺として創建され、行基菩薩作の薬師如来を祀ったとされる。専門家は空海の入唐が804年なので、ありえない話だと述べているが、少なくともそのように伝わっているそうだ。高野山遍照光院については、覚音寺でも縁がある旨を聞いたので、まんざら無関係とは言い切れないのではないかと思った。
 光久寺は今では無住になっており、地区の方々が管理されている。安曇野市のサイトによると、毎月第三土曜日が公開日となっているが、それでも事前に安曇野市役所への連絡が必要である。
 安曇野市を通じて予約をお願いしていたところ、当日は地元の方が待っていてくださった。市の方から伺ったところでは、地区の集会の際に私たちの受け入れについて話し合ってくださったそうだ。大変ありがたく、頭の下がる思いだ。

妙海の日光月光菩薩


 日光月光菩薩像は、光久寺薬師堂のすぐそばの建物に安置されている。現在の建物はお寺というより、地域の古民家を集会所に改修したような場所だった。畳敷きの部屋の奥に、両菩薩像はおられた。
f:id:butsuzodiary:20180624220245j:plain
(↑光久寺薬師堂。かつてはこのお堂にお祀りされていた。今は↓の建物に他の諸像とともに安置されている)
f:id:butsuzodiary:20180624220206j:plain

 善光寺仏師妙海の仏像は長野県内5か所に9体残っており、制作時期もすべて明らかになっている。安曇野の光久寺の日光月光菩薩は1317年で、最も古い。記録上分かっている限りで、妙海が最も若い時に作った仏像である。
 妙海仏の特徴は両方の眉毛がつながっているところだ。宋風のひらひらした衣も両菩薩に共通するが、月光菩薩の方が細かくうねっており、意図的に日光菩薩と差別化を図ったのかが気になるところである。日光菩薩はお顔の左側の傷が痛々しい。いずれにしても、両像ともかわいらしい。みほとけの像なのに、こんなにかわいらしくてだいじょうぶなのかと思えてくる。
f:id:butsuzodiary:20180624220610j:plain
(↑月光菩薩さまがこんなにかわいくてよいのか! 最もかわいらしく見えるアングルで撮らせていただきました(泣))
f:id:butsuzodiary:20180624220720j:plain
(↑この口元かわいすぎる!)
f:id:butsuzodiary:20180624220910j:plain
(↑髻が高くて上品)
f:id:butsuzodiary:20180624221036j:plain
(↑おへそもかわいらしい!)
f:id:butsuzodiary:20180624221137j:plain
(↑なぜか背中の衣が厚め。翌日にお参りした辰野町の妙海の十一面観音立像も背中の衣が厚かった)
f:id:butsuzodiary:20180624221501j:plain
(↑月光菩薩の方が下半身の衣がうねうねしている。日光菩薩が普通の宋風なのと対照的だ。日光菩薩と比べ、月光菩薩は妙海さんがより自由に、いろいろ試しながら彫ったような気がする。きっと独自に工夫するのが好きだったのだろう←妙海ファンの勝手な妄想!)
f:id:butsuzodiary:20180624222116j:plain
(↑日光菩薩さまはお顔に傷がある。長い年月の間に転倒したのだろうか。かわいそうでならない。それでも、日光月光菩薩どちらもかわいらしいことに変わりない。かわいらしい双子の菩薩像である!)

実は再会でした


 自分の過去の記録を遡ったところ、2009年に信濃美術館でお会いしていたようだ。善光寺ご開帳に合わせた特別展で、松本市波田の仁王像(ただし一躯のみ)とともに出展されていた。妙海という仏師を知ったのはその時である。妙海仏を訪ねたいと思いながら、再会するまでに9年もかかってしまった。

 最後に、繰り返しになるが、安曇野市役所を通じた拝観依頼を受けて、地区の皆様は集会の際に私たちの受け入れについて相談してくださった。大変ありがたく、改めて感謝の気持ちを申し上げたい。この地に伝えられた菩薩像。この地で末永くお守りされることを願っている。

参考資料


 光久寺で閲覧できた資料を貼っておく。
f:id:butsuzodiary:20180624223035j:plain
f:id:butsuzodiary:20180624223116j:plain

【信濃仏】智識寺(千曲市)~3メートルの立木仏 十一面観音立像~

智識寺とは

智識寺(千曲市)(真言宗智山派
拝観日=2018年6月16日
〇十一面観音(重文 306cm、ケヤキ、一木)
〇釈迦如来坐像(室町)

 智識寺の開創時期は定かでないが、天平年間(729~748)に、聖武天皇の勅願により冠着山(かむりきやま)麓に建立されたといわれる。慶長10年(1605年)に現在の地に移る。室町時代末期に建造された大御堂とその堂内の十一面観音立像が重要文化財に指定。

智識寺の十一面観音立像

 去年お参りしようと電話したのだが、お堂の改修中のため拝観できず、今回念願かなってやっとお参りできた。白洲正子の『十一面観音』に登場する3メートル超の一木造りの観音さまである。葺き替えを昨年度に終えたばかりの茅葺の大御堂に観音さまはおられた。
 かわいらしい大きな童顔と、それに比して細い両肩。すくっと伸びた長い手足。霊木を使って彫り出されたのだろう。はかりしれない霊験を感じさせる観音像だった。
 それにしても、身の丈3メートルとはかなりの長身である。どれだけ巨大なケヤキを使ったのだろう。私の普段の散歩コースにあるケヤキの巨木は驚くほど固い。コンクリートかと思うほどだ。固いケヤキの巨木から、このように柔らかく温もりのある観音像が生まれるとは。
 もちろん智識寺の観音像に直接触れたわけではない。しかし、見た目には明らかに柔らかで、温もりが感じられる。それはゆるやかな身体のラインや浅い衣の彫りだけでは説明しきれない。おそらくそれが霊木から生れ出た霊像というものなのだろう。写真では何度も拝見したが、そうした感覚というのは現地でしか感じることができない。単なる彫刻ではない。言葉にできない何かが観音さまから発せられ、堂内に満ちるのを感じた。お会いできた幸せをかみしめた。

f:id:butsuzodiary:20180624203958j:plain

 

f:id:butsuzodiary:20180624204036j:plain

 白洲正子は『十一面観音巡礼』の中でこの観音さまと対面した時の感動を記している。大法寺参拝のおり人づてに大御堂の観音さまのことを聞き、夕方遅くに到着。ろうそくの火影のもとに浮かび出た十一面観音を「想像していたよりはるかに美しい」と絶賛している。「地方作ではあるが、平安初期のしっかりした鉈彫りである。この観音は、もと女沢川の上流に祀ってあったと聞くが、背後の神体山と、何らかのつながりがあるに違いない」。
 背後の神体山の山の名前を帰宅後に地図で調べ、それが冠着山(かむりきやま)であることを白洲は知る。地図では、冠着山に括弧して「姥捨山」とあるのを見た白洲は「私は探していた言葉にめぐり合ったような心地がした」という。篠ノ井線の姥捨駅の近くに山がなく、不思議に思っていたということらしい。
 さて、冠着山(姥捨山)とこの観音さまとの間にどのような関係があるのだろう。私はその辺りが気になってしかたがない。神仏習合と立木仏の勉強をしたい。

f:id:butsuzodiary:20180624204126j:plain

他の仏像はどこに

 過去のブログなどを見ると、堂内には大きな仏像がひしめき合っていたようだが、今回はお会いできなかった。お堂の改修後にどこかに移られたのだろうか。自分がまとめた拝観予定リストには以下のお像も含まれていたのだが、今回はお会いできなかった。
聖観音(市指定、168cm ヒノキ、12c末~13c初)
地蔵菩薩立像(市指定、159cm、ヒノキ、江戸中期)

釈迦如来坐像と仁王像


 境内の小さなお堂に、丈六規模の釈迦如来坐像がおられた。お堂が小さいので、堂内をのぞき込んだ瞬間、あまりの像の大きさに驚いた。室町時代の作だそうだが、穏やかなお姿に癒された。仁王門の仁王も室町時代

拝観情報


観音さまの拝観には予約が必要。住所=長野県千曲市大字上山田八坂1197

【信濃仏】大法寺(青木村)~瞳を閉じた十一面観音さまは何を感じ取ろうとされているのだろう~

大法寺(青木村)(天台宗
拝観日=2018年6月16日
○十一面観音立像(重文 170.9cm、カツラの一木、平安)
普賢菩薩立像(重文 106.3cm、カツラの一木、平安)

大法寺とは

 信州の大法寺は、大宝年間(701~704年)に創建された天台の古刹。藤原鎌足の子、僧定恵によって創建され、大同年間(801~810年)に坂上田村麻呂の祈願で僧義真(初代天台座主)によって再建されたと伝わる。
 飯縄山の麓にあり、「見返りの塔」と呼ばれる国宝の三重塔(1333年)が美しい。参拝した日には本堂の前にキセキレイの親子が見られた。
 この大法寺の本堂で、丸山尚一と白洲正子の両方の書籍に登場する十一面観音さまにお会いした。

木造十一面観音立像

 ご本尊である観音さまは両目を閉じ、小さな口元からそっと息をしておられた。その静かな表情に引き込まれる。横からのぞき込むと、腰から下にかなりの重量感があり、正面から見たときの可愛らしさとの違いにますます魅了された。
 それにしても、この観音さまはなぜ目を閉じておられるのか。目を閉じることで、全身の感覚を研ぎ澄ませ、何かを必死に感じ取ろうとしているように私には思えた。信濃の山の聖霊をその御身に取り込もうとしているのか。それとも衆生の悲しみを慈しみの御心で受けとめようとしているのか…。
 いずれにしても、この素朴な観音像には体温さえ感じてしまう。もちろん仏の像であるし、文化財であるから、実際に触れたわけではない。でも、その全身から温もりと祈りを感じたことは確かである。
f:id:butsuzodiary:20180624132947j:plain
f:id:butsuzodiary:20180624133102j:plain
 丸山尚一は『地方仏を歩く三』で、この十一面観音像を「一見して地方色の濃い彫像」だと評している。「穏やかな体軀の肉どりは抑揚少なく、ずんどうに近い素朴な作り」「ことさら優れた像とはいえないかも知れないが、この土地のにおいを感じさせる、親しみを感じさせる像」だと丸山は言う。地方仏を愛した人の讃辞なのだろう。
 一方、白洲正子も荒削りな地方仏らしさを指摘し、絶賛している。白洲は『十一面観音巡礼』で大法寺の本尊に言及し、「材は桂で、台座に木の根の部分を使ってあるのも、立木観音の伝統を踏襲していることに気がつく」と指摘する。平安中期の作だと紹介したうえで、「蓮弁なども荒けずりで、実際の年代より、ゆったりと古様にみえるのが、地方作らしくていい」と述べている。大法寺は江戸時代まで戸隠山の末寺だったことから、山岳信仰の仏師の作であることは間違いないと白洲は言う。「一木造りというのは、技術が未熟だったわけではなく、信仰上の制約だったことが、こういう仏像に接すると納得が行く」という一文に心が震える。

木造普賢菩薩立像

 十一面観音の隣に立つ普賢菩薩さまは、身の丈は十一面観音よりも小さいものの、お顔の表情などから、同じ仏師の作であろうことが想像できる。丸山は十一面観音とこの菩薩像について、「土着色の強い一木彫りの少ない信濃にあって、大法寺の木彫像は、ぼくの感じる信濃を体現している彫像といっていいだろう」と書いている。
f:id:butsuzodiary:20180624133127j:plain

重要文化財厨子および須弥壇

 十一面観音さまは、今はお堂の奥に並んで安置されているが、以前は本堂中央のお厨子にまつられていた。今回、特別に厨子を開けていただき、前立の観音立像も拝ませていただいた。可愛らしい観音さまでおられたが、文化財の指定はないようだ。鎌倉か室町頃だろうか。
 重要文化財厨子須弥壇禅宗様。制作年代ははっきりしないが、三重塔より時代がくだって室町ではないかとのこと。

拝観情報

 お寺は固定の拝観料で一般参拝客に解放されているが、堂内の観音様の拝観には予約が必要(0268-49-2256)。住所=長野県小県郡青木村当郷
 塩田平には、先の記事に書いた中禅寺のほか、別所の北向き観音や安楽寺の国宝の八角三重塔などもある。もし再訪できるのなら、温泉込みでのんびりしたい。
 
※写真は青木村のホームページより。
大法寺の文化財 | 青木村役場

【信濃仏】中禅寺(上田市)~こういう上品なお堂にはこういう上品な如来像がいらしてほしい~

塩田平の中禅寺とは

中禅寺(上田市)(真言宗智山派
参拝日=2018年6月16日
薬師堂 
薬師如来坐像(97.7cm、カツラ、前後二材寄木、平安末期、重要文化財) 
○神将立像(68.2cm、上記薬師如来の附として重要文化財指定)
仁王門
金剛力士像(平安末期、県宝)
※写真撮影はお寺より特別に許可いただきました。

 丸山尚一さんの本で読んだ中禅寺は、独鈷山の麓、塩野平にある大変美しいお寺だった。
f:id:butsuzodiary:20180623223222j:plain
(↑独鈷山。密教法具の名をもつ岩山だ)

平安の仁王像


 仁王門には、京都醍醐寺および峯定寺のと並び評される平安後期の仁王像が睨みをきかせる。品のある仁王さまだ。
f:id:butsuzodiary:20180623223814j:plain
 そして、仁王門の向こうに茅葺きの美しいお堂が音もなく静かに建つ。鎌倉時代初期に遡る方三間の阿弥陀堂形式のお堂である。ため息の出る美しさだ。
f:id:butsuzodiary:20180623223147j:plain

薬師堂と薬師如来坐像~美しすぎる組み合わせ~


 堂内には、定朝様の薬師如来坐像がおられる。彫りが浅く、この上なく上品な佇まいだった。堂内の中央、四天柱の中に安置されており、それがさらに美しさを引き立てているように感じる。みほとけの像が堂の中央に置かれるのは古い形式なのだそうだ。時代がくだると内陣はお堂の奥へと移動する。
f:id:butsuzodiary:20180623223859j:plain
 このような上品で静かなお堂には、このように上品で静かなお像がいらしてほしいーー。そういう私の勝手な願いを見事に叶えてくれる建物と如来像だった!
f:id:butsuzodiary:20180623224121j:plain

神将立像に泣きそう


 手前の神将立像もたまらない。かつては十二神将がお揃いだったのだろうか。今はたったお一人で、しかも、両腕を失ったお姿である。それでもなお、私たちを救おうと、凛としてお立ちであった。十二神将ならぬ、一神将の強い思いが伝わってくる。もし私一人でお参りしていたら、きっと泣いていただろう。
f:id:butsuzodiary:20180623224153j:plain

光と薬師さま


 丸山尚一さんの『地方仏を歩く三』によると、丸山さんが参拝された際、住職が「この薬師さんは周りの戸を閉めて南の戸を少し開けた光で見るのが一番素晴らしい」とおっしゃり、そのように戸を開けてくださったそうだ。わずかに差し込む光の中の薬師如来坐像に感動したことを丸山さんは綴っている。
 驚いたのは、今回私たちが訪れた際も、住職が一度すべての戸を閉め、神将に近い側の戸を少しだけ開けてくださったことだ。その戸が丸山さんのときと同じだったのかはわからない。だが、確かに、わずかな光の中で拝む薬師さまはより神々しかった。感動したのは私だけではない。堂内にはどよめきのような感嘆の声があがった。光は大切だ。
f:id:butsuzodiary:20180623224318j:plain
 天候や時間帯によって光の入り方が異なることもあり、丸山が見たのと同じ光景を見たとは言えない。しかし、本と同じように戸の開閉をしていただけるとは思ってなかったので、大変ありがたかった。住職にお礼を申し上げたい。

【信濃仏】福王寺(佐久市)の力強い阿弥陀さまと雨ごい邪鬼の毘沙門天さま

 
福王寺(佐久市)(真言宗智山派
拝観日=2018年6月16日
収蔵庫
阿弥陀如来坐像(138.3cm、カツラの一木 1203年 国重文)
〇観音勢至菩薩(脇侍、大和座り)江戸初期
弥陀堂
月光菩薩聖観音とも伝承)平安 市文化財
日光菩薩 鎌倉 市文化財
聖徳太子立像(雨宝童子)鎌倉 市指定
本堂
〇絹本著色愛染明王像(県宝、鎌倉後期~南北朝、92.5 x 51.5 cm)
※写真撮影はお寺より特別に許可いただきました

福王寺とは

 長野県の文化財指定されている仏像をリストアップしたとき、一番先に惹かれたのが福王寺の重要文化財阿弥陀如来坐像だった。彫刻+重要文化財で検索をかけると、あいうえお順で出てくるようで、阿弥陀様が真っ先に出てきたということもあるが、なにより阿弥陀様らしからぬ力強さに目が留まった。
 初めて拝観のお願いの電話をしたとき、住職の対応があまりに素っ気なくて、とても不安だった福王寺さま。思い返せば、公式サイトからの問い合わせメールにはまったく応答がなく、1か月ほどあとに電話して、ようやく拝観予約をいただけたのだった。
 参加人数の確定後、ご朱印の対応などで、何度かお電話させていただくうちに、徐々に自然に会話ができるようになった…ような気がする。
 しかし、そんな不安もなんのその。実際に訪れると、とても気さくで優しい住職だった。お茶とお菓子で歓待いただき、寺歴等を詳しく伺うことができた。お話がとてもわかりやすかった。

 福王寺は大同2年(807年)の開山と伝えられる。新幹線佐久平駅から車で30分ほどの至便な場所でありながら、南に蓼科山、東に浅間山があり、周辺は豊かな自然に囲まれている。訪れた日は、本堂横でキビタキがさえずっていた。かつては塔堂六坊を構えたが、寛永年間の山火事より資料や重宝の多くを焼失。宝永6年までに方丈、庫裡、仁王門、本堂、阿弥陀堂、不動堂などが再建された。福王寺に残された寺宝の数々を拝観させていただいた。

重文の力強い阿弥陀如来坐像

 収蔵庫には、お会いしたかった鎌倉初期の阿弥陀如来坐像(重文)がおられる。鎌倉初期とは言っても、がちがちの慶派からは程遠い。がっしりした田舎の男っぽさがある。一方、脇侍は江戸時代の美しい大和座りの観音勢至菩薩。これがまた、非常によい組み合わせ。いつまでも拝んでいたい三尊だった。

f:id:butsuzodiary:20180623171319j:plain

 

f:id:butsuzodiary:20180623171441j:plain

 

弥陀堂の市指定文化財の諸仏

 弥陀堂の日光菩薩、月光(聖観音)菩薩、毘沙門天は等身大に近く、かなり傷みがあったものの、存在感があった。やや小ぶりの雨宝童子(聖徳太子)像を含め、すべて佐久市の指定文化財毘沙門天の邪鬼は雨ごいの儀式に使われたこともあったそうだ。雨ごいについて伺うと、住職は、「邪鬼を近くの池に放り投げて、棒でつついたんだよ」と朗らかにお答えくださった。お像の傷みは庶民の信仰の証でもある。

f:id:butsuzodiary:20180623171528j:plain

 

f:id:butsuzodiary:20180623171602j:plain

(↑これが池でつつかれた邪鬼さん。ぼろぼろ…)

 

f:id:butsuzodiary:20180623171639j:plain

(↑平安の月光菩薩聖観音の可能性あり。光背の化仏は飛天なのか菩薩か。雲に乗っておられるのか。素敵である)

 

f:id:butsuzodiary:20180623172036j:plain

 

f:id:butsuzodiary:20180623172115j:plain

(↑日光菩薩像。衣がひらひら)

 

f:id:butsuzodiary:20180623172255j:plain

 (↑聖徳太子像。雨宝童子だった可能性あり。雨で少ない地域なのだろうか)

f:id:butsuzodiary:20180623172451j:plain

(↑髪型が素敵)

県宝の仏画愛染明王像(目の前でご開帳!)

 また、特別に、県宝の仏画愛染明王像を拝観させていただいた。寺歴の説明のあと、「仏画見たいって言ってたよね。取ってくるわ」と住職。どこからかビニール製のスポーツバッグを手に戻ってこられ、その中から、掛け軸を取り出された。本堂の中に、高さ2メートル弱ほどの大きな厨子(頑丈な鍵付き)があり、その中に掛けてくださった。典型的な図様の愛染明王画像で、真っ赤に怒って迫力があった。鎌倉時代に遡る密教絵画は長野では珍しいそうだ。
 

 住職のご案内のおかげで、楽しく学びながらお参りできた。慌ただしい拝観になってしまったので、またのんびりお参りしたい。仏像群はもとより、住職にまたお会いしたい。
 
 

多摩仏像研フィールドワークで信濃仏をめぐる!

 2018年6月16日(土)~17日(日)の二日間にわたり、長野県を駆け抜けてきた。多摩仏像研究会の企画により、総勢10名で、ただひたすら仏像をめぐる旅。
 主に丸山尚一の本でピックアップしたので、丸山仏が中心のラインアップ。私が尊敬してやまない白洲正子の『十一面観音巡礼』に登場の観音さま2像、さらに、長野が誇る善光寺仏師妙海の仏像を加えた。
 多くの方々のご支援とご協力を得て、以下の10か寺を無事にお参りできた。
 関わってくださった皆様へ改めて心からのお礼を申し上げたい。一人だけの力ではなしえなかったことは火を見るより明らかである。
 みほとけの像をめぐりながら、人との出会いもあった。
 感謝の気持ちを込めて、これから1か寺ずつレポートを上げていきたい。(と書いてしまったが、本当に10か寺全部レポートできるかな。もし書くのが止まっていたら、誰か私をたたいてください)

f:id:butsuzodiary:20180623163851j:plain

f:id:butsuzodiary:20180623163920j:plain


2018年6月16日(土)

1) 福王寺(佐久市)(真言宗智山派
収蔵庫
阿弥陀如来坐像(138.3cm、カツラの一木 1203年 国重文)
〇観音勢至菩薩(脇侍、大和座り)江戸初期
弥陀堂
月光菩薩聖観音とも伝承)平安 市文化財
日光菩薩 鎌倉 市文化財
聖徳太子立像(雨宝童子) 市文化財
毘沙門天 市文化財
本堂
〇絹本著色愛染明王像(県宝、鎌倉後期~南北朝、92.5 x 51.5 cm)


2) 中禅寺(上田市)(真言宗智山派
薬師堂 
薬師如来坐像(97.7cm、カツラ、前後二材寄木、平安末期、重要文化財) 
〇神将立像(68.2cm、上記薬師如来の附として重要文化財指定)
仁王門
金剛力士像(平安末期、県宝)


3) 大法寺(青木村)(天台宗
〇十一面観音立像(重文 170.9cm、カツラの一木、平安)
普賢菩薩立像(重文 106.3cm、カツラの一木、平安)


4) 智識寺(千曲市)(真言宗智山派
大御堂
〇十一面観音(重文 306cm、ケヤキ、一木)
境内の小さなお堂
〇釈迦如来坐像(室町)

5) 光久寺(安曇野市
〇日光・月光菩薩立像(善光寺仏師妙海1317年、県宝、桧材、寄木造)

 

 2018年6月17日(日)

6) 覚音寺(大町)(真言宗智山派
千手観音菩薩立像(重文 168.2cm、桧材、寄木造)
持国天像(重文 161.5cm、桧、寄木造)
多聞天像(重文 157.6cm 桧、寄木造)


7) 栂の尾(つがのお)毘沙門堂(池田町広津)
毘沙門天立像(県宝、112㎝、桧、一木)

 

8) 海岸寺松本市
〇千手観音立像(県宝 159cm 桂 一木、平安中期)

 

9) 牛伏寺(松本市)(真言宗
収蔵庫
不動明王立像(重文 12世紀)
毘沙門天立像(重文 12世紀)
〇釈迦如来坐像(重文 12世紀)
文殊菩薩騎獅像(重文 13世紀)
普賢菩薩騎象像(重文 13世紀)
薬師如来坐像(重文 13世紀)
大威徳明王像(重文 11世紀)
蔵王権現立像(県宝 10世紀)
〇奪衣婆坐像(県宝 1422年)
〇女神像、男神像(市重文 12世紀)など
※近くの円城寺の十一面観音立像(平安77.2cm 針葉樹の一木、市指定)が牛伏寺の収蔵庫にお預けされており、お姿を拝むことができた
如意輪堂
如意輪観音坐像(県宝、13世紀)

 

10) 辰野町・上島観音堂
〇十一面観音(重文89.4cm、榧材、一木造、妙海1323年)


以上

【来迎会】長野県小諸市・十念寺の二十五菩薩来迎会を思い出しました

 先日、信濃仏をめぐった際、長野県上田市で小泉大日堂の近くを通った。小泉大日堂では、60年ごとの本開帳と30年ごとの中開帳の際、小諸市十念寺の二十五菩薩来迎会が行われてきた。前回の開帳が2011年だった。

 その当時は、そのような貴重な機会が存在することをまったく知らなかった。2013年以降、二十五菩薩来迎会を調べる中で小諸の十念寺を知り、さらに小泉大日堂を知ったという流れである。

 30年おきの開催であれば、もう観られないかもと諦めかけたのだが、ダメ元で2016年末頃から小諸市に何度か問い合わせたところ、5年おきに開催される市主催の郷土芸能のイベントで、十念寺の二十五菩薩来迎会が演じられることを知った。イベント開催日は2017年3月の三連休の中日。実はこの頃、少し体調を崩していたのだが、その直前に十念寺二十五菩薩来迎会保存会の会長と電話でお話させていただくことができ、さまざまなお話を伺ったところ、この機会は逃すべきではないと判断。慌てて新幹線をおさえ、出かけたのだった。
f:id:butsuzodiary:20180621125218j:plain

 市民会館で演じられたものとはいえ、十念寺の二十五菩薩来迎会は観る価値の高いものだった。練供養の列の前に極楽鳥の舞などがあるほか、練供養の先頭に不動明王が立ち、最後尾が毘沙門天を務めるいう、他では例のない並びであった。
f:id:butsuzodiary:20180621125253j:plain

 恵心僧都源信が始めたとされる二十五菩薩の練供養は関西を中心に今もいくつか残っているが、江戸時代以降に始められたもののが多い。十念寺の練供養はもっと古い形が残されているという説もあるそうだ。火炎太鼓のシンプルなリズムで繰り広げられる十念寺の練供養は一度観ると脳内から離れず、やみつきになる。當麻寺や大念仏寺のような華やかさはないが、十念寺に継承されてきた独自の練供養は大変貴重である。

 イベント司会者が「西の當麻寺、東の十念寺」と紹介した一言が今も記憶に残っている。この言葉を小諸だけでなく、全国的に広めたい!

 小諸市のケーブルテレビで、この2017年3月の郷土芸能イベントを収めたDVDが今も販売されているはずなので、ご興味のある方は問い合わせてほしい。私は通販で購入させていただいた。非常に鮮やかな映像であり、未来に伝えていきたい貴重な記録である。

 十念寺は昭和の火事でお堂が焼け、二十五菩薩のお面だけが残された。お寺はすでに廃寺となり、二十五菩薩保存会の方が毎年3月に、お面を広げて、念仏の会を開いていると伺った。毎年定期的に練供養を行う予定はないとのこと。市のイベントだけでもよいので、なんとか次世代につなげてほしい。

 2017年のイベントでは、小学生ぐらいのお子さんも菩薩面を被られていた。このお子さんが将来、自分の子どもや孫へと、この貴重な信仰の形を受け継いでいかれることを願ってやまない。

**** ***** *****

※小諸を訪れてから1年。長野県を再訪し、小泉大日堂の近くを通り、あのときの二十五菩薩来迎会の模様を思い出した。2017年3月のイベントのレポートはこちらをご覧ください。
app.m-cocolog.jp

【来迎会】得生寺「中将姫大会式」 後編~中将姫への愛がいっぱい~

【来迎会】得生寺の練供養「中将姫大会式」


後編「得生寺の練供養は中将姫への愛がいっぱい」

 やっと本題である練供養の話に入りたい。得生寺の二十五菩薩来迎会は、「中将姫大会式」と呼ばれる。その名に違わず、中将姫さまへのリスペクトと愛にあふれた練供養だった。

 できれば、前編(【来迎会】得生寺~中将姫さまへの愛に満ちた練供養~前編 - ぶつぞうな日々 part III)を流し読みしてから、後編に目を通していただくと、中将姫リスペクトの練供養をより立体的に感じていただけるのではないかと思う。

f:id:butsuzodiary:20180527144350j:plain
(↑写真は2018年5月14日付産経新聞より。プロの写真はさすが。私の隣で脚立に乗って撮っていた人がいたのだが、その人の作品に間違いない。あの場で一般人は脚立は使えないです! なお、この写真を除き、本記事のすべての写真は私ヒヨドリの撮影です!)
※写真について お子様が活躍する練供養なので、お子様のお顔と名札の部分にモザイクを入れた。和讃の少女、重そうに御輿を担ぐ表情、練供養が終わってほっとして友達をのぞき込む表情など、大変愛らしい写真が何枚かあるのだが、今のご時世悪い人もいるので、あえて加工したことを書き添えておく。

基本情報

開催日

 毎年5月14日(私が訪れたのは2018年5月14日)

お渡りの時間

 15時30分頃から(終了まで1時間ほど)

来迎橋

 高さ約1.5メートル、長さ約30メートル。朱色の回廊が開山堂から本堂にまで結ばれる。お渡りの橋のうち、半分ほどは常設のようだ。
f:id:butsuzodiary:20180527145045j:plain

お練り(お渡り)ルート

 開山堂を出て来迎橋を渡り、本堂へ。本堂で浄土経をお唱えした後(菩薩さまたちは休憩)、また開山堂へ戻り、終了となる。

菩薩面

 練供養が始まる直前の菩薩面。なぜか緊張しているようにも見える。
f:id:butsuzodiary:20180527095026j:plain
f:id:butsuzodiary:20180527095059j:plain

菩薩の持ち物

 来迎は華麗な音楽を伴うとされ、菩薩さまの持ち物には楽器が多い。
f:id:butsuzodiary:20180527095156j:plain
f:id:butsuzodiary:20180527095242j:plain

実際に使われた楽器

 得生寺の練供養では、最初に中将講による和讃が響く。それに合わせて、鉦(かね)講による念仏鉦が荘厳な音色を奏でる。
f:id:butsuzodiary:20180527181056j:plain
f:id:butsuzodiary:20180527181121j:plain
 楽器を奏でる人達のスペースは開山堂の向かって右側に設けられているが、このように目隠しされていて、演奏の様子を見ることはできない。素晴らしい演奏で、来迎の感動を高めていた。

特徴

1) 登場する菩薩とその順序

 練供養のお渡りは15:30過ぎに始まった。菩薩の装束を付けた子どもたちが開山堂に集まるのが15:00頃。堂内で菩薩面を付け、持物を手渡されるなどの準備に30分ほど要するようだ。
 練供養の列は次の順に続いた。
○僧侶。お水を散らしてお清めをする。
f:id:butsuzodiary:20180527145141j:plain
(↑練供養が始まるのを待つうちに日が西に傾き、気がついたら、思いっきり逆光に。慌ててるうちに、お坊さんが近づいてくるので、合掌してお清めを受けたら、こんな写真しか撮れなかった!)
 ↓
○中将姫和讃(少女12人+成人女性2人。和讃の先頭と最後を成人女性が務め、あとはみな少女)
f:id:butsuzodiary:20180527145711j:plain
 ↓
地蔵菩薩さま(地蔵さまだけ大人が務める)
f:id:butsuzodiary:20180527100001j:plain
 ↓
○鳥のお面をかぶった少年たちが歩く。カルラなのだろうか。
f:id:butsuzodiary:20180527100154j:plain
 ↓
○二十五菩薩の登場。蓮台を手に持つ観音菩薩、合掌する勢至菩薩と続く。
f:id:butsuzodiary:20180527100111j:plain
 ↓
○御輿(「通いの弥陀」)
二十五菩薩さまが半分ほど通り過ぎると、御輿がやってくる。御輿には、阿弥陀如来立像、通称「通いの弥陀」が担がれる。
f:id:butsuzodiary:20180527100343j:plain
 ↓
○御輿の後、残りの菩薩が続く。
f:id:butsuzodiary:20180527100500j:plain
f:id:butsuzodiary:20180527145945j:plain
 ↓ 
○最後に僧侶が散華を巻く
f:id:butsuzodiary:20180527145900j:plain
 ↓
○お渡りの列が本堂に到着すると、本堂で法要が始まる
f:id:butsuzodiary:20180527100842j:plain
 ↓
○法要のあと、再びお渡りがあり、本堂から開山堂へ戻る。僧侶、和讃、カルラ、菩薩、御輿(通いの弥陀)、菩薩、地蔵菩薩の順。二十五菩薩の順は往路と逆のようで、最後に勢至→観音→地蔵菩薩だった。
f:id:butsuzodiary:20180527155658j:plain
f:id:butsuzodiary:20180527101042j:plain

2) 子どもによる練供養

 得生寺の練供養の一番の特徴は、お子さんが二十五菩薩に扮すること。中将姫さまがこの地で少女時代を過ごされたことから、その聡明さと美しさにあやかろうということらしい。地元の小学校の児童だと聞く。
 今回訪れて驚いたのだが、子どもが活躍するのは菩薩さまだけではなかった。
練供養の列で和讃を歌うのは少女達。興しに載せた「通いの弥陀」を運ぶのも子ども達。今回は女子2名、男子2名の4人で元気に運んでいた。鳥のお面を付けるのも子ども達だった。
 思った以上に子どもが活躍する。しかも、途中泣いたりぐずる子がいない。教育が行き届いているのを感じた。
f:id:butsuzodiary:20180527101246j:plain
f:id:butsuzodiary:20180527101345j:plain

3) 地蔵菩薩だけ成人女性

 菩薩のうち唯一、地蔵菩薩だけが、毎年地元の大人の女性が務めるそうで、開山堂の前に「地蔵菩薩渡御者 (地名)(お名前)様」と、堂々と張り出してあった。さぞかし名誉ある職務なのだろう。
f:id:butsuzodiary:20180527101851j:plain
f:id:butsuzodiary:20180527101916j:plain

4) 「通いの弥陀」

 練供養で登場する阿弥陀如来立像は、もともと雲雀山の麓に住む西方清太夫(さいほうせいだゆう)の念持仏だったと伝わる。中将姫さまが雲雀山で称讃浄土経を写されるたび、麓から通われ、中将姫さまに付き添われたことから、「通いの弥陀」と呼ばれる。像高30センチほどだろうか。左足を前に踏み出し、歩かれるお姿だ。西方清太夫の邸宅は現在の得生寺の寺域に含まれるという。
f:id:butsuzodiary:20180527155922j:plain
 得生寺開山堂の奥に阿弥陀仏のお厨子があった。普段はここにまつられているのだろう。私が訪れたときには、お厨子は空っぽで、「通いの弥陀」は御輿の上に安置されていた。そして、練供養がはじまると、菩薩さまの列に加わった。緑色の装束を身につけたお子さんによって、御輿ごと運ばれるのである。登場される順番は二十五菩薩さまのちょうど真ん中あたり。元気な男の子2人と女の子2人ががんばって運ぶ。だいぶ重そうだったが、元気に運んでいた。このような阿弥陀仏のお渡りがとても微笑ましい!
f:id:butsuzodiary:20180527102024j:plain

5) 中将姫さまへの敬意

 前編にも書いたが、得生寺は中将姫さまへの愛とリスペクトに満ちている。その感動を伝えるのに、どこをどう切り取ればよいのかー。そんな思いでここまで長々と書いてきた。それでも書ききれなかった愛のかけらをお伝えしたい。

 

○本堂の中将姫さまと百味御膳

 中将姫大会式の際には、開山堂のご本尊である中将姫様のお像が、本堂の阿弥陀三尊のお厨子の前に移されていた。中将姫さまの手には五色の糸が結ばれ、境内の回向柱へとつながっていた。柱を触ることで中将姫さまと結びつくことができる。
 また、中将姫の前には、百味御膳と言って、色鮮やかでユニークなお食事が備えられていた。琴を奏でる中将姫さまも。
f:id:butsuzodiary:20180527102404j:plain
f:id:butsuzodiary:20180527102655j:plain

 

○ブラックシアター『中将姫物語』

 お渡り開始の前に境内を拝観していると、アナウンスが流れた。「2時から、わいがや娘による『中将姫物語』の公演があります。皆様ご覧ください」
 私は「わいがや娘って何(笑)?」と思いながら見始めた。写真のとおり、黒いパネルが使った紙芝居のようなものなのだが、音響も絵も力作で、引き込まれた。中将姫の一生が15分間に見事にまとめられていた。「わいがや娘」のお揃いのポロシャツも最高。
f:id:butsuzodiary:20180527102833j:plain
f:id:butsuzodiary:20180527102756j:plain
 わいがや娘の会は、有田市で活躍しているボランティアグループらしい。公式サイトには、「女性の視点で次世代の子どもや地域のために、まちの誇りを発掘し、継承すること、および女性がいきいきと活躍していくことを目的とし、和歌山県有田市で活動しています」と記載されていた。たぶん会の名称は「わいわい、がやがや」の略なのだろう。

 

○中将もち

 奈良の當麻寺近くに「中将餅」屋さんがある。得生寺の境内でも「中将もち」が売っていて驚いた。こちらは餅でなく、「もち」とひらがな表記で、屋台で販売されていた。荷物になるし、後で買おうと思っていたら、お渡りが始まる前に売り切れていた…! 當麻寺で「中将餅は練供養の前に購入」という教訓を得たのだが、それは得生寺で生かされなかった…。


まとめ

 中将姫さまが隠れ住んだ「ひばり山」は、ここ得生寺の他にも、奈良県宇陀と和歌山県橋本に伝承が残る。どこが本物なのかという点について、私は興味がない。各地に移り住んだことも考えられ、どこも正解なのかもしれない。
 ここ得生寺では、想像していた以上に、中将姫さまの足跡と息づかいが感じられた。堂内に残る浄土経の写経や蓮糸繍の阿弥陀三尊像、中将姫さまのお像、當麻曼荼羅…。これらに加えて、子どもたちによる二十五菩薩練供養がある。人や費用が必要な練供養が今日まで伝えられてきたことに大きな意味と価値があると思う。
f:id:butsuzodiary:20180527152115j:plain
 しかも、子どもが菩薩を務めさせることの意味は大きいと思う。大人が大人だけでお祭りを取り仕切ることは日本でも世界どこでもあるだろう。しかし、得生寺の練供養のように、子どもが主役を務める祭事は珍しいのではないだろうか。
 中将姫さまが少女時代を過ごされた土地で、その徳にあやかろうと現代の子どもたちが菩薩に扮し、来迎の場面を演じる。菩薩面をかぶり、橋を歩くのは、視界も悪いし恐怖心もあるだろう。そんな中、得生寺のお子さんたちは立派に菩薩の役を務めていた。泣き出す子もおらず、とても立派であった。どのように教育がなされているのだろう。長年に渡り粛々と続いてきた伝統なのだろうか。
 中将姫さまを通して、地域が一つになる瞬間を見ることができた。かわいらしく、美しい練供養だった。もうその事実だけで、出かけた甲斐があった。得生寺の練供養が末永く続くことを願っている。

【来迎会】得生寺「中将姫大会式」前編~中将姫寺=得生寺とは~

得生寺練供養レポート前編~得生寺と中将姫~

 和歌山県有田市糸我町、雲雀山得生寺。このお寺の二十五菩薩練供養「中将姫大会式」をお参りした。
 雲雀山は、継母に命を狙われた中将姫さまが13~15歳まで隠れて過ごされた土地と伝わる。このお寺の二十五菩薩来迎会は、子どものときから聡明であられた中将姫さまの徳にあやかろうと、お子さんが菩薩に扮するのが特徴。中将姫和讃を唱えるのも少女たち。阿弥陀様の像を御輿に載せてお運びするのも、お子さんたち。
 中将姫さまへの愛とリスペクトに満ちた練供養で、私も幸せに満たされた。
f:id:butsuzodiary:20180522063616j:plain

 得生寺練供養のレポートは、前編「中将姫寺=得生寺とは」と後編「中将姫への愛がいっぱい」の二回に分けて、お伝えしたい。

 それでは、まずは前編! 得生寺とはどのようなお寺なのか。どのような寺宝が残るのか。その辺りを書きたい。



得生寺とは

 得生寺(とくしょうじ)は、JR紀勢本線紀伊宮原駅から1.6キロほどの場所にある。有田川にかかる300メートルの橋を渡り、川沿いの熊野古道を散歩すると、あっという間に到着する。川沿いは野鳥が多く、ホオジロがさえずり、キジの声も聞こえた。
f:id:butsuzodiary:20180522063707j:plain
(↑この橋が300メートル。歩いて渡ったけど、もちろん誰ともすれ違いませんでした! ちなみに、岡山県の誕生寺の練供養は、菩薩さまの移動の片道が300メートル。得生寺は片道30メートル。いや、特に関係ないですが…、自分も練供養の菩薩さまの気分でこの橋を渡ったことは確か‥。いや、本当にすみませんm(_ _)m)
f:id:butsuzodiary:20180522072051j:plain
(↑熊野古道っぽくない案内だけど、有田川沿いの道は確かに熊野古道らしい)

 得生寺はもともとは近くの雲雀山(ひばりやま)の山中にあった。お寺の山号になっているこの山は、奈良時代に、右大臣藤原豊成の娘、中将姫さまが、継母から命を狙われ、隠れて暮らしたと伝わる場所だ。
 寺伝によると、中将姫さまは13歳から15歳までを雲雀山で過ごされた。奈良の當麻寺で蓮糸の浄土曼荼羅を織り上げ、聖衆来迎により極楽往生される前の話である。
 寺名の得生(とくしょう)は、雲雀山で中将姫さまの生活を支えた豊成の家臣、伊藤春時の出家後の名前である。春時が雲雀山に結んだ庵を起源とする得生寺は、その長い歴史の中で何度か移転し、17世紀初めに、雲雀山のふもとにある現在の場所に落ち着いた。



得生寺境内

f:id:butsuzodiary:20180522072150j:plain
(中将姫会式の幟が立つ)
f:id:butsuzodiary:20180522063816j:plain
(↑正面に見えるのが開山堂)
f:id:butsuzodiary:20180522064114j:plain
(↑左端の建物が開山堂。開山堂の隣の大きな建物が本堂。お堂の前に赤い来迎橋が延びるのが見える。練供養当日はこの橋が本堂まで続いていた)

 ひばり山の伝説は奈良県宇陀、和歌山県橋本と、ここ有田の3か所に残っているそうだ。真実はどうあれ、得生寺をお参りすると、中将姫さまはここに必ずいらしたという気持ちになる。それはきっと、中将姫さまを尊敬する気持ちがここ得生寺に今も息づいているからだ。その大きな証となるのが、この得生寺の練供養「中将姫大会式」なのだと思う。

○開山堂

 開山堂には、中将姫さま、伊藤春時とその妻、妙生の三つの坐像がまつられている。中尊の中将姫像は江戸時代の初め(1686年)の像で、2013年の「極楽へのいざない」展に出展された。脇侍の春時、妙生の両像は、中将姫像より10年ほど後の作で、奈良の當麻寺護念院から譲り受けたことが銘文から明らかになっている。本家、當麻寺との関わりの中で中将姫伝説が受け継がれた証拠といえるだろう。
f:id:butsuzodiary:20180522064324j:plain
(↑奥が開山堂のご本尊。中央の中将姫像は本堂に移されており、お厨子が空になっていた。空のお厨子の手間に二つの坐像が見えるだろうか。これが上記の春時と妙生の像である。さらに手前の立像は「通いの弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来で、普段は開山堂の奥の厨子はまつられる)

 開山堂の向かって左側から奥にかけてスペースがあり、寺宝が並ぶ。その一つが、中将姫さまが写経されたという称讃浄土経。これは実際には平安後期の写経なのだそうだ。中将姫伝説の残る得生寺に伝えられた意義は大きいのではないだろうか。
f:id:butsuzodiary:20180522064530j:plain
f:id:butsuzodiary:20180522064629j:plain
 開山堂の本尊の裏側には、5つの小像がまつられる。一つは「通いの弥陀」と呼ばれる30センチほどの阿弥陀如来立像。練供養で活躍される像なのである。
f:id:butsuzodiary:20180522073145j:plain
f:id:butsuzodiary:20180522073212j:plain
 「通いの弥陀」は練供養の列に参加するため、お厨子を出て御輿に乗られ、準備万端であられた! (後編で詳述する)

 さらに、中将姫の坐像が2躯。一つは、本尊と同じ15歳のときのお姿で、経典を手に持ち、凛とした表情が印象的だ。
f:id:butsuzodiary:20180522064803j:plain
 もう一つは、29歳のときのお姿で、15歳像とは異なり、どこか遠くを見るような、うっとりとした表情だ。極楽往生される直前のお姿なのだろうか。
f:id:butsuzodiary:20180522064933j:plain
 この二つの中将姫像を挟むようにして、春時と妙生の像がまつられていた。
f:id:butsuzodiary:20180522065411j:plain
f:id:butsuzodiary:20180522065441j:plain
 春時は中将姫を殺害するよう継母に命じられたが、信心深い姫を殺めることができず、妻とともに中将姫を匿ったとされる。悲劇を思い起こさせる厳しい表情だ。

○本堂

 本堂は開山堂よりかなり広い。
 本堂の本尊は阿弥陀三尊。阿弥陀、観音、勢至すべてが立像で、観音菩薩は腰を下げて蓮台を掲げ、勢至菩薩も腰をかがめて合掌する。来迎の阿弥陀三尊である。
f:id:butsuzodiary:20180522065615j:plain
f:id:butsuzodiary:20180522065656j:plain
 練供養のこの日、本堂の阿弥陀三尊の前に、開山堂の中将姫像が安置されていた。経典を持つその手には、五色の糸が結ばれ、境内の外の柱へとつながっていた。優しい。なんとも優しい演出だ!
f:id:butsuzodiary:20180522065728j:plain
 中将姫さまの前には、百味御膳といって、色鮮やかでユニークなお食事がお供えされていた。これまた優しい。そして、かわいらしい。中将姫さまへの愛に満ちた演出に心が弾む!
f:id:butsuzodiary:20180522065530j:plain
f:id:butsuzodiary:20180522065757j:plain
(↑百味御膳の一つ。かわいらしい!)

 本尊阿弥陀三尊の厨子の裏側に、大きな當麻曼荼羅がまつられていた。国の重要美術品に指定されているという。見とれているうちに写真を取り損ねた。
 本堂の向かって左側には、半丈六ほどの大きな地蔵菩薩坐像が目を引く。立派なお姿に胸がきゅんきゅんした。調べたところ、文化財指定は受けていないようだ。なぜだろう!? 地獄に亡者を救いにいく地蔵菩薩さま。悲しみと強さがにじみ出たお姿に泣きそうになる。
f:id:butsuzodiary:20180522065919j:plain
f:id:butsuzodiary:20180522070004j:plain
 さらに、中将姫さまの作とされる「蓮糸繍三尊」も。
f:id:butsuzodiary:20180522070049j:plain
f:id:butsuzodiary:20180522070112j:plain
 本当に蓮糸なのか、はたまた、本当に刺繍なのか、私の目視では正直わからなかった。しかし、中将姫さまにインスパイアされた三尊像であるからこそ、得生寺に伝わったのだろう。
 今年の夏に奈良国立博物館で「糸のみほとけ」という展覧会が開催されるのだが、このような中将姫さまにまつわるものが多く出展されるのだろうか。


 後編では、5月14日の練供養「中将姫大会式」の模様を熱烈レポートいたします!!
butsuzodiary.hateblo.jp

【来迎会】大阪・常光寺の八尾地蔵練供養~鬼さん登場の怖くて楽しい練供養!~

お参りしたお寺=大阪府八尾市の常光寺(八尾地蔵練供養)
お参りした日=2018年4月30日

 大阪の八尾市という、私のこれまでの人生とは一切接点のない場所へ出かけてきた。常光寺というお寺で、年に一度、練供養が行われるからだ。世間的には、河内音頭の発祥地ということで有名らしいが、そもそも河内音頭が何かさえ私は知らない。
 だが、しかし…! このお寺の練供養に私はとても感激した。それは下町のあたたかいお祭りだった。北海道生まれの練供養ファンが八尾常光寺の練供養をレポートする。
f:id:butsuzodiary:20180501063730j:plain

常光寺とは

 奈良時代聖武天皇の勅願所として創建。平安中期には、本尊地蔵菩薩が霊験あらたかであることから、白河天皇が参詣。それまで新堂寺と称されていたが、足利義満が「常光寺」「初日山」の扁額を奉納したことから、初日山常光寺と呼ぶようになった。近鉄八尾駅から、昭和感満載のアーケード商店街を抜け、徒歩8分ほど。臨済宗南禅寺派


八尾常光寺の地蔵菩薩さま

 ご本尊地蔵菩薩さま(立像)は、寺伝によると、平安時代初期の820年頃、六道の辻衆生を救う地蔵菩薩にお会いした小野篁が作ったものとされる。
 等身大の木彫像で、「袖口の彫りが深く、衣文の表現にも古風な手法がうかがえる」(常光寺サイトより)が、八尾市の文化財サイトによると南北朝時代の作とされる。寄木造り。玉眼嵌入。市指定文化財
f:id:butsuzodiary:20180501063758j:plain
(写真は八尾市のサイトより)


大般若会(八尾地蔵練供養)

 2018年4月30日の八尾地蔵練供養を振り返ってみよう。

15:00
 女性の司会者のアナウンスで練供養開始。まずは、市長挨拶を司会者が代読。その後、寺歴紹介。

15:02
 本堂横の部屋から、まずは赤鬼さんが登場。境内には、長さ50メートル、高さ2メートルの橋が渡されている。本堂の右端と左端をつなぐこの橋で、次々とお練りの列が進む。
 赤鬼と青鬼さんは歩きながら、うぉーっと声を張り上げ、かっこよくポーズを決める。
f:id:butsuzodiary:20180501063858j:plain
f:id:butsuzodiary:20180501063926j:plain
 その後に続くのは恐ろしい閻魔大王…。のはずだが、なぜかこの閻魔さまは物腰が穏やかで、弱気な役人風。動きもなんだかふわふわしてて、思わず笑ってしまった。すみません、閻魔さま! 
f:id:butsuzodiary:20180501063955j:plain
 閻魔さまに気を取られていると、練供養の見物に来ていた小さな男の子が泣き出していた。やはりお子さんには、鬼さんと閻魔さまがものすごくこわいようだ。パパに抱っこされて、かなり本気に泣いている坊やのかわいらしいこと。子どもには本当にこわいのだ! 自分は大人で本当によかった!!
 閻魔さまのすぐ後ろに、楽人が4人続く。それぞれ異なる種類の笛で演奏。雅楽の生演奏は気持ちがよい!
f:id:butsuzodiary:20180501064045j:plain
 この後には、お子さんたちの列が続く。まずは、僧侶の格好をした少年が5人。八尾では、なぜか「親鸞さん」と呼ばれている。ちなみに、常光寺は臨済宗南禅寺派だ。なぜ親鸞さんが少年の姿で5人も必要なのだろう。その後には、「お稚児」さん(女の子)と「小坊主」さん(未就学児ぐらいのたぶん男の子)が何人も続く。
f:id:butsuzodiary:20180501064125j:plain
(↑常光寺の公式サイトより)
 親鸞さん、お稚児さん、小坊主さんたちは、橋を渡りながら、少しずつ散華をまく。一人の親鸞さんが一枚ひらひらと散華を橋上から落とし、「おばあちゃん、拾えた?」と叫んだのには思わず吹き出した。おばあちゃんは「うん、ほら、拾えたよー」と嬉しそう。それを見ていた見物の人たちも嬉しそうだった。
 一方、小坊主さんは親鸞さんよりかなり幼い。パパとママに手を引かれながら、始終泣き通しで橋を渡る小坊主さんもいた。年齢は2、3歳だろか。
 お子さんたちはコスプレしてはいるものの、菩薩面をかぶってないので、写真掲載は自粛するが、このお子さんたちの列はかなりかわいい。見物人のほとんども、お稚児さんたちのご家族のようだ。車椅子のおばあちゃまもおられた。家族でよい思い出を刻まれたことだろう。

 そして、ついに、仏さまたちが登場する! 

15:15
 最初の如来さまが登場。
f:id:butsuzodiary:20180501064241j:plain
 如来さま7尊がそれぞれ異なる持物を手に、橋をわたられる。
f:id:butsuzodiary:20180501064317j:plain
f:id:butsuzodiary:20180501064345j:plain
 他の練供養(二十五菩薩来迎会)とは異なり、常光寺さまに登場するみほとけは、最後の地蔵菩薩を除き、菩薩ではなく如来と呼ばれている。意匠的には菩薩かと思うのだが、如来と呼ばれるのには何か理由があるのだろう。常光寺のみの特徴と言えるのではないか。
f:id:butsuzodiary:20180501064412j:plain
f:id:butsuzodiary:20180501064456j:plain
 如来さまのファッションはやや個性的だ。お面はお体に対して少し大きめ。上半身には、昔のブラウスを改良したようなものを身に付け、下半身にはやはり昔気質のロングスカートのようなものを履かれている。この手作り感がたまらない。
 ただ、如来さまの茶色の靴下と生足が時々見えてしまうのがかわいそうに思えてしまう。せめて長靴下にするのはどうだろう。いや、それは衆生のつまらないこだわりか…。
f:id:butsuzodiary:20180501064530j:plain
f:id:butsuzodiary:20180501064558j:plain
 如来さまたちは介添え人もなく、ゆるゆると進む。みほとけのトリを務めるのは、白いお顔の地蔵菩薩さま。常光寺練供養の主役である。左手に錫杖、右手に如意宝寿を持ち、地獄へ亡者を救い行かれるお姿だ。
f:id:butsuzodiary:20180501064645j:plain
 地蔵菩薩の後にはお坊様8人が散華しながら続き、練り行列の往路は終了した。
 加古川の西方寺や大阪平野の大念仏寺などのように、練り歩く各菩薩のお名前を紹介するアナウンスはなく、どの方がどの如来だったのかは分からなかった。七如来さまと地蔵菩薩さまということしか、わからなかった。

15:25
 練供養の列の最後の僧侶が本堂に到着。私も本堂に近づいてみると、堂内には稚児やみほとけの姿はなかった。本堂では、10名を超える僧侶による大般若会の法要が始まった。如来さまたちは、練り行列の復路(練り返し)に備え、控え室で休まれているのだろう。法要はまずは般若心経からスタートした。やや高速で般若心経が唱えられる。

15:30
 本堂前にて、般若経の教典を僧侶から肩に当てていただく加持祈祷が始まる。
 先ほどまで練り行列を見て、笑ったり泣いたりしていた人たちが、司会者のアナウンスに従い、本堂前に集まり、次々と加持祈祷を受けていく。「願い事のある方は本堂前にお集まりください」というアナウンスが印象的だった。厳粛な雰囲気の中、参拝者が次々と肩に経典を当ててもらっていた。
 その間、堂内では、僧侶が大般若経を扇子のように広げる仕草を続ける。
f:id:butsuzodiary:20180501064747j:plain
f:id:butsuzodiary:20180501064806j:plain

15:40
参拝者への加持祈祷が終わり、堂内では僧侶による法要が続けられる。念彼観音力!
f:id:butsuzodiary:20180501064826j:plain

15:50
練り行列の復路、いわゆる練り返しが始まる。赤鬼と青鬼、閻魔さま、如来さま、地蔵菩薩さま、稚児さんたち、という順番で列が続く。

16:05
練返しの途中、稚児さんたちが橋の全体に並んだ辺りで、餅巻きタイム開始。
f:id:butsuzodiary:20180501065028j:plain

16: 07
餅巻きの終了をもって、練供養は終了となった。

感想

 
地蔵菩薩が主役の練供養。地蔵菩薩は地獄に落ちた人を救いに来てくださる仏さまだ。最初に地獄を代表する鬼と閻魔さまが登場し、みほとけが続くという構成から、地蔵菩薩のありがたさを目に見える形で伝えようとするものなのだと思う。その一方で、たくさんのお子さんが登場し、ご家族がお子さんを応援するという微笑ましい練供養でもあった。加持祈祷あり、餅巻きあり。地蔵菩薩さまを讃える信仰促進と庶民の楽しみが結びついた素晴らしい行事だと思った。八尾地蔵練供養の歴史は比較的新しく、明治末期以降だという。お子さんが泣いてしまう、鬼さん登場の練供養。これからも末長く続きますように。

【参拝案内】
初日山常光寺(臨済宗南禅寺派
〒581-0003 大阪府八尾市本町5-8-1
TEL 072-922-7749