ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

ぶつぞうな日々Part II (バックナンバー)はこちらです!

仏像のブログを書き始めたのは、2005年の年末でした。最初の投稿はこんな感じ。

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10年以上が過ぎてもこの気持ちに変わりありません。ますます仏像に魅了されています。

上記のブログは「ココログ」で書いていたのですが、投稿に無駄な手間暇がかかるのが悩みでした。

これからこちらの「はてなブログ」でお世話になろうと思います。

過去の記録は以下からご覧ください。

hiyodori-art2.cocolog-nifty.com




ブログを書いている「はらぺこヒヨドリ」さんのプロフィールは

はらぺこヒヨドリ をご覧ください。


素人の雑文ですが、これからも仏像への愛を叫んでいければと思っています。平凡な中にも山あり谷ありの人生ですが、仏像が好きなおかげでとても救われています。

仏像好きなみなさん、一緒に「仏像大好き~♪」と叫びましょう。仏像とそれを守られてきた皆様に感謝を伝えたいのです。

どうぞよろしくお願いいたします。

【多摩の仏像】大塚の御手観音と都文化財の十一面観音(八王子市・清鏡寺)

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大塚御手観音(八王子市・清鏡寺さま)



 2011年の武相観音ご開帳のとき以来、二度目のお参りをしてきた。今回は副住職さまにご案内いただき、大きな金庫に安置された貴重な観音さまを拝観させていただいた。
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ご本尊千手観音さま


 ご本尊の千手観音さまには、びっくりな伝説がある。長寛2年(1164年)、播州赤穂高藤守藤原阿尊が関東巡礼のおり、夢枕に観音さまが立ち、手を一つ差し出して、「この手を持って鎌倉の仏師を訪ね、私の身体を作ってほしい」と告げられたのだそう。作者は不明だが、卯年卯月16日に観音さまができあがり、山頂にお堂を建立して奉安したと伝わる。それ以来、「御手観音」さまと呼ばれ、あつく信仰されてきた。
 「手を一つ差し出して…」と最初に聞いたときは恐ろしさを感じたのだが、実際にお参りすると、お寺の長閑な雰囲気にそんな気持ちは一気に吹き飛んでしまう。特に、私が2011年に最初に訪れたときは、ご開帳記念でカラオケ大会が始まろとするときで、その温かさに心が和んだことを覚えている。御手観音さまを中心に老若男女が集うさまは、恐ろしさとは程遠かった。

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(↑前回お参りしたのは2011年4月16日、武相観音の卯年ご開帳のときでした。観音さまが完成した記念日である卯年卯年16日にお参りしてたのです。ちなみにこのポスターはAndroid v1で撮影)

 さて、そんな伝承とは裏腹に、現在お寺に残るご本尊さまは、江戸中期のお像である。とても精巧な真数千手の観音坐像だ。
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 実際には腕は1000本はなく、980本程度だと伺った。いずれにしても、千手の付き方は実に見事で、江戸仏らしい技巧を感じる。勝手な想像ではあるが、江戸期に観音像を再建する際、「御手観音」の名にふさわしいお姿に仕上げようと仏師が意気込んだのではないだろうか。
 脇仏は不動明王立像と毘沙門天立像で、天台様式である。大塚御手観音堂は現在は清鏡寺の所属だが、元々は村人が管理するお堂に伝えられたそうだ。清鏡寺は現在は曹洞宗寺院だが、かつてはこの地に密教の信仰があったのだろう。

十一面観音立像


 都の文化財に指定される十一面観音さまは、明治初期に廃寺になった近くのお寺(八王子市松木の教福寺)から難を逃れた客仏。像高91.5センチ。寄木造り。
 鎌倉初期、運慶または安阿弥の作とされているが、私の素人目には平安後期の特徴を示しているように思えた…。つり上がった両目と穏やかな衣紋が特徴的で、慶派より静かなその佇まいに私はむしろ惹かれた。
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 階段下の石仏群は十一面観音さまと一緒に教福寺から移ってきたと伺った。腕のよい仏師によるものと見えた。
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不動明王さまの謎



 古文書によると、昔、この地に疫病が流行った際、ある修験者が「私の亡骸と共に不動明王をまつってほしい。そうすれば疫病は去る」と言い残して息絶えたそうだ。修験者の遺言通りにしたところ、実際に疫病が収まったそうだ。
 副住職さまによると、近年になって大塚観音堂の裏手の山を工事した際、なんと本当に不動明王像が見つかったそうだ。なんだか胸がきゅーんとなった。昔話を見くびってはならない。

 

拝観案内

 

塩釜山清鏡寺(曹洞宗
192-0352 東京都八王子市大塚378
多摩モノレール大塚・帝京大学駅より徒歩10分

拝観は要予約。正月三が日のほか、毎月16日にも開扉されているそうだが、いずれにしても事前に電話で確認されることをお勧めしたい。

※まるきょうさんがもっとかっこよい写真でブログにまとめておられますので、ぜひお読みください! オススメです!

真数千手観音その12 多摩の清鏡寺 - 和顔愛語 古寺と古仏を訪ねて

【大阪】特別公開・和光寺の仏像群~あみだが行けと言いました~

拝観寺院=大阪市西区和光寺(浄土宗)
拝観日=2018年8月5日
拝観した仏像=
〇ご本尊 善光寺阿弥陀如来鎌倉時代)と両脇侍(江戸時代)(三尊で大阪市文化財
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〇木造 釈迦涅槃像(17世紀、大阪市文化財)(像長167.0センチ)
地蔵堂地蔵菩薩立像(10世紀、大阪市文化財
〇紙本着色釈迦誕生図(1817年、大阪市文化財
 

和光寺との出会い

 大阪の和光寺というお寺を知ったのは、昨年の春、大阪市立美術館の「木×仏像」展のとき。つい最近だ。この展覧会は、大阪を中心に木の仏像ばかりを年代順に集めた、大変貴重な展覧会だった。昨年度は東京で運慶展、奈良で快慶展があり、「慶派イヤー」とも呼ぶ人もいたが、振り返ってみると、昨年度の仏像の展覧会の中で私が最も惹かれたのは、島根の平安仏を集めた「島根の仏像」展であり、また、大阪の「木×仏像」展だった。平安以前の木彫仏に惹かれていることの証だと思う。

 前書きが長くなってしまったが、この「木×仏像」展で特に魅了されたのが、宝誌菩薩像の周りに、平安時代地蔵菩薩立像を4躯並べた、いわゆる”地蔵コーナー”(私が勝手にそう呼んでいるだけですが…)だった。4躯の像はそれぞれ、奈良・薬師寺(写真、手前のお背中が見える像)、大阪・蓮花寺、大阪・三津寺(写真、右奥)、そして、大阪・和光寺(写真では、三津寺の横)のもので、どれも10世紀に遡る像だった。10世紀という時代の像が放つパワーに当てられてしまい、私はこの一室から離れることができなくなってしまった。
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 このとき、音声ガイドを聴いていたのだが、和光寺の説明のときに、落語の阿弥陀池の話があった。和光寺の境内には阿弥陀池と呼ばれる池がある。和光寺に侵入した泥棒が「誰にそそのかされて盗みに来たんや」と尼様から聞かれ、「あみだが行けと言いましてん」と答えるという話だった。まあ、「阿弥陀池」と「あみだが行け」をかけたダジャレである。それ以外の詳しい話は忘れてしまったのだが(爆)、音声ガイドを担当していたのが上方落語噺家さんだったこともあり、「あみだが行け」というセリフとともに、地蔵菩薩立像を記憶していたのだった。そして、ご本尊が阿弥陀如来であるという和光寺をいつかお参りしたいと思い続けてきた。

 そんなおり、奇しくも、私が奈良へ行く日に、大阪市による和光寺の特別公開が行われることがわかった。何ともラッキーな偶然だと思い、急きょ、和光寺をお参りすることにした。

和光寺の創建

  和光寺にある阿弥陀池は、仏教伝来の際に朝鮮半島から渡ってきた阿弥陀如来像が排仏派の物部氏によって沈められた「難波の堀江」にあたると伝わる。のちに、信濃の本田善光が救い出したその像が、信濃善光寺の本尊となったとされている。こうした由緒から、和光寺は元禄11年(1698年)、善光寺の特別末寺として創建。現在のご本尊である阿弥陀如来は創建時に信濃善光寺から譲り受けたものだという。
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 和光寺の建立の背景として、1) 信濃善光寺阿弥陀如来像が1692~1694年に江戸、京都、大坂(四天王寺)で出開帳が行われるなど、善光寺信仰の盛り上がりがあったこと、また、 2) その当時、阿弥陀池のある堀江の地を南北に分ける人口運河の堀川が開削され、阿弥陀池周辺が大坂市中の市街地の一部となったことが挙げられる。

和光寺のご本尊は善光寺阿弥陀如来

 和光寺のご本尊は普段は本堂中央の厨子の中にまつられているそうだ。今回の大阪市の特別公開では、阿弥陀三尊はお厨子の前に出され、間近にお姿を拝むことができた。厨子には帳がかけられており、普段はお姿を拝観するのは難しいのだと思った。
 和光寺の尼様いわく、「このような形で公開するのは、おそらく前例がない」。大変貴重な機会をいただけたのだ!

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 中尊の阿弥陀如来さまは鎌倉時代の作と考えられ、丸顔で優しい笑顔が魅力的。
 像高は中尊が18.2センチ、両脇侍は各13.7センチ。小さいながら、彫技がさえわたり、存在感がある。子どものように可愛らしい笑みに、拝観する私の頬もゆるんだ。冒頭記載の写真を見ると、猫背の背中に広がる衣文が美しい。
 和光寺阿弥陀さまの左手は、第2指と第3指を伸ばし、他の指を捻じた、いわゆる、チョキの形。善光寺阿弥陀如来の特徴を示す。脇侍の菩薩立像は右手と左手を交互に重ね合わせており、これも善光寺阿弥陀三尊の特徴だ。
 大阪市文化財課の方がこれを「異形の阿弥陀如来」と呼んでいたのが印象的だった。異形というと、密教仏のこわいお姿が思い浮かぶが、こちらの善光寺阿弥陀三尊は穏やかに微笑んでおられた。

地蔵菩薩立像

 冒頭の「木×仏像」展に出展された地蔵菩薩立像は、本堂裏の地蔵堂におまつりされていた。面部は彫り直しが認められ整っているが、体部は木肌がかなり荒れており、焼けた痕跡も残っている。頭頂部から底部まで一材から掘り出す。材はケヤキと推定。内刳りなし。寺伝によれば、隠岐国の海辺に流れ着いた仏像で、大坂の豪商・鴻池家により奉安され、1855年に開扉法要が執り行われたという。通称「あごなし地蔵」。今はあごはあるので、いつの時代か、あごを欠いていたのだろう。海から漂着したという寺伝に関係があるのかもしれない。ご尊顔にかなりの後補が入っているのだろう。
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 地蔵菩薩立像は普段は地蔵堂の堂外からガラス越しに拝観できるようになっているそうだ。特別公開のこの日は、同じ堂外からの拝観ではあったものの、お堂の扉が開けられ、ライトが当てられていて、通常よりはお姿がよく見えるように工夫してくださっていた。正直な話をすると、「木×仏像」展では、ガラスケースなしの360で、しかも、間近でお姿を拝めたので、それに比べると、拝観環境は厳しかった。しかし、町中のお寺の小さなお堂で、誰もがいつでもお参りできる環境であることが分かり、とてもうれしく思った。平安時代10世紀の木彫仏が平成の庶民の信仰を受ける。その重みを感じた。

釈迦誕生図と釈迦涅槃図

 以下の写真は特別公開のチラシを写したもの。
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 サタデーナイトフィーバーのような赤ちゃんの絵は一体なんなのだろう。そう誰もがツッコミたくなるだろう。お寺に入ってみると、一瞬で正解がわかる。なんと釈迦誕生図の一部(中央の誕生釈迦仏)なのである。紙本着色釈迦誕生図は1817年、小柴蘭渓によるもので、大阪市文化財。掛軸装で、本紙の大きさが縦315.7センチ、横257.3センチ。かなり巨大な誕生図である。
 これとほぼ同サイズの紙本着色釈迦涅槃図(縦256.2センチ、横207.2センチ)(1711年、長谷川金右衛門)も、誕生図と一対のようにして本堂内にかけられており、壮観だった。

感想

 善光寺の由緒のある場所に建てられたお寺に残る善光寺阿弥陀如来を拝観できたこと、大変ありがたい。阿弥陀様の追っかけなので、阿弥陀ワールド全開の善光寺さまも大好きなのであります! 善光寺信仰は中世以降、日本各地に広まったと聞いており、善光寺阿弥陀如来はよく見かけるように思うのだが、大阪市文化財課の方によると、関西では珍しいのだそうだ。
 また、「木×仏像」展の"地蔵コーナー"の地蔵菩薩さまをお寺に訪ねたいと思ってきたが、実は、今回の和光寺だけではなく、大阪難波の三津寺の地蔵菩薩さまも今年4月の大阪市の特別公開でお参りできた。大阪市の特別公開は公開日が限定的であり、なかなか遠くて行けないが、今回のように機会があれば、ぜひまた参加したい。和光寺地蔵菩薩さまの存在感は遠目であっても半端なかった。
 この”地蔵コーナー”のうち、大阪の蓮花寺さんの地蔵菩薩立像だけがまだお寺で拝めていない。いつかお参りしたい!

拝観案内

 和光寺西長堀駅から徒歩2分ほど。大阪市西区北堀江3-7-27。


※参考資料
〇『密教関係の仏教美術の保存と活用事業 調査報告書 和光寺の仏像について』大阪密教美術保存会(2018.8.5発行)
〇『木×仏像』展図録(2017年)

※写真
阿弥陀如来阿弥陀三尊の写真は『和光寺の仏像について』より。
地蔵菩薩の写真は『木×仏像』展図録より。
阿弥陀池とチラシの写真は筆者撮影。
〇木×仏像展の”地蔵コーナー”の写真は展覧会の公式サイトより。

【展覧会】ついに半蔵門ミュージアムに行ってきました!

半蔵門ミュージアムとは

 今年の4月にオープンした半蔵門ミュージアムについに行ってきた。
 運慶の大日如来坐像をニューヨークのオークションで落札した宗教法人真如苑が、運慶仏を展示公開するための施設である。
 運慶仏を落札したとき、真如苑は、1) 文化財指定に協力することと、2) 一般公開をすることの二つを公言していたと私は記憶する。
 文化財指定はすぐに実現し、しばらく東京国立博物館に預けられていた。落札当初は、武蔵村山日産自動車工場の跡地に真如苑の施設を造って安置するという話もあったが、最終的には、都心の半蔵門駅近くのビルを改修してミュージアムとし、そこに展示されることとなった。落札当初の公約は見事に実現した。
 ミュージアムの改修設計は平等院鳳翔ミュージアムかんなみ仏の里美術館を手がけた栗生明さん。初代館長は仏像研究の大家、水野敬三郎さん。ビッグネームが揃った。淡い色合いの大理石を使った室内は落ち着いており、常駐する職員の数や対応も高級ホテル並みだった。新興宗教団体の財務状況は想像の域を越えているようだ。だが、経済事情について中途半端な意見を述べるよりも、このような形で運慶仏を公開してくれたことに感謝と敬意を伝えたい。布教の色合いは薄く、誰もが安心して足を運べる環境だと思う。

 運慶の大日如来については、東京国立博物館で何度もお会いしているので、初めてお目にかかった以下の仏像と仏画について、少しだけ書かせていただきたい。

会津の法用寺の梵王像


 仏像で驚いたのは、福島県会津美里町・法用寺の三十三応現身の一つのされる梵王像が間近で拝めたことである。
 運慶仏と不動明王坐像は公式サイトで知っていたが、このお像のことはまったくのノーマークだった。
 前に法用寺をお参りしたときは、堂外からの拝観で、仏像一つ一つのお姿までよく見えなかった記憶がある。半蔵門ミュージアムでは、三十三応現身のうちの一体のみだが、ガラスケースなしで、間近で拝める。目のつり上がり具合やお顔の木目など、眺めているだけで喜びに満たされる。
 半蔵門ミュージアムはどのような経緯でこのお像を所有したのだろう。
 会津では、法用寺に加えて、西会津町の鳥追観音にも三十三応現身が伝えられているそうだ。三十三のすべてがお揃いではないそうで、焼失したのか、どこかに流出したのか不明なのだそうだ。さらなる解明が進むことを願う。

一尊天得如来


 半蔵門ミュージアムの企画展示では、数多くの仏画が展示されていた。その中に、融通念仏宗を開いた良念が感得したとされる阿弥陀来迎図、一尊天得如来像もあった。融通念仏宗大本山、大阪の大念仏寺では、毎年5月に二十五菩薩練供養が行われている。中将姫の極楽往生を描いた奈良の當麻寺の二十五菩薩練供養とは異なり、大念仏寺の練供養では、ご本尊である一尊天得如来像の巻物が大切に運ばれる。その時の様子を思い出した。大念仏寺の練供養のときには、この仏画の内容までよく見えないので、一尊天得如来像をじっくりと間近で拝めたのは実は今回が初めて。大変ありがたい。

その他の仏画


 その他、仏画青面金剛像は、少し斜め目線で、迫力満点の表情が印象的だった。真如苑真言密教に近いと思うのだが、上記の一尊天得如来以外にも、清海曼荼羅図など、浄土系の仏画もあり、阿弥陀来迎ファンである私を癒してくれた。

 上記のいずれも写真がないのが残念。画像検索しても出てこなかったし、館内はもちろん撮影禁止だった。半蔵門ミュージアムさんのサイトに公式写真を上げていただけるとうれしい。

半蔵門ミュージアムは月曜と火曜が休館日なので、要注意! 入館料はなんと無料。

高崎市・万日堂のみかえり阿弥陀さま(+善念寺阿弥陀三尊)と新田義貞と…

※仏像の写真撮影は管理人様から許可を得ています。

はじめに


 みかえり阿弥陀さまと言えば、京都の永観堂が有名です。
 東大寺別当まで務めた高僧・永観が、1082年の寒い冬の夜、阿弥陀如来像の周りを念仏を唱えながら行道していると、阿弥陀さまが須弥壇から降りて永観の前に立ち、左肩越しに振り返って、「永観、遅し」と言われたーー。その時のお姿を留めたお像が、永観堂のみかえり阿弥陀さまです。阿弥陀さまファンでなくても、胸がきゅんとなるこの伝説と、平安後期の優しく気品のあるお姿が、多くの人の心をつかんでいます。
 みかえり阿弥陀像と言えば、この永観堂だけかと思いきや、なんと、群馬県高崎市にもおられると聞き、お参りしてきました。
 お寺ではなく、地元の方々が管理される万日堂という小さなお堂に、その阿弥陀如来立像はおられました。
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万日堂とは


 万日堂は高崎駅から西へ3~4キロ 。君が代橋を渡ってすぐです。元々国道18号(旧中山道)南側に建っていたものを、豊岡バイパス開設のため、昭和56年に移設したそうです。
 高崎市文化財課から管理人さんの連絡先を教えていただき、拝観の予約をしていたところ、元管理人(90歳)と現管理人のお二人がお堂を開けて待っていてくださいました。恐縮しつつ、お堂にあげていただきました。
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(↑川の向こう岸に小さく見える万日堂)
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(↑猛暑の中、橋を徒歩で渡ると、堂内を開けていてくださっているのが見えてきました)


ご本尊みかえり阿弥陀さま


 高崎市のみかえり阿弥陀さまは、桧の寄木造りで、玉眼を嵌めます。室町以前までの作と見られ、永観堂阿弥陀像よりも時代は新しいですが、近くでお会いすると、写真で見る以上に美しかったです。
 像高83センチ。永観堂より大きめです。みかえり阿弥陀さまの作例は珍しく、他に山形・善光寺、富山・安居寺が知られるのみとのことでした。
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 上の写真をご覧ください。みかえり阿弥陀さまのお足元に額入りの写真があります。よく見ると、来迎印を結んだ両手が付け足されています。お像の現状では、両手が失われているので、かわいそうに思ってこのような試みをしたのでしょう。「新たに手を加えると文化財としての価値が下がってしまうので、それは難しいらしい」と管理人さんは言われました。ただ、信仰の対象でありますし、何より普通の人間の感情として、手がないことは寂しいですよね。そんな心理的な隙間を埋めようとしたのが、お足元の写真なのだと思いました。
 このみかえり阿弥陀には、盗難を免れた話が伝わっています。明治の頃、転売目的で盗み出そうとした男が、君が代橋を渡る途中で急死したのだとか。さらに、大正時代にも、盗み出した男が君が代橋で雷に打たれ、死亡したのだとか。いずれの時も、阿弥陀さまはご無事でお堂に戻られたそうです。美しいお姿からは想像しえない、勇ましいエピソードです。
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 私は衣の金色の模様も気になりました。こういう金色の模様は近世の頃の特徴なのですか。都内の他の像でも見たことがあります。美しいです。この模様は江戸時代以降に追加された可能性もあるかもと考えました。
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万日堂の他の二像


 万日堂には、みかえり阿弥陀さまの両脇に、如来立像がまつられています。私にはどちらも阿弥陀さまに見えましたが、いかがでしょう。阿弥陀ファンなので、バイアスがかかっていますか!?
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 向かって右のお像は見るからに江戸以降でしょうか。現世話役さまはこちらのお像のお顔が好きだとおっしゃっていました。確かになかなかの美男子です。
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 左の如来像は衣がつるつるです。引き締まった凛々しいお顔です。修復が入っているのかわかりません。
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高崎市内の他の阿弥陀如来


 高崎市には善念寺と来迎寺にも市や県の文化財になっている阿弥陀如来立像がおられます。善念寺さまをお参りしました。堂外からの拝観となりましたが、写真を載せておきます。
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 また機会があれば、来迎寺さまもお参りしたいです。

新田義貞阿弥陀如来立像が東京・府中に


 高崎の阿弥陀さまをめぐりながら、東京・府中市の上染谷不動堂に伝わる新田義貞阿弥陀如来立像(国の重要文化財)を思い出していました。義貞が鎌倉幕府の倒幕を目指し挙兵する際、故郷の上州から持ってきたと伝わる像です。善光寺式の小さな銅像です。私は阿弥陀さまの大ファンなので、旅先で阿弥陀さまにお会いすることが多いのですが、このように各地の点と点がつながる瞬間が時々あり、大変興味深く思います。
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 義貞ほど激しくはなくても、私たちは何かと戦い・闘いながら生きているわけで、阿弥陀さまへの祈りは昔も今もあまり変わらないのではないかと思います。府中の分倍河原駅前にある新田義貞像は私には馴染みのある像でして、なおのこと感じるものがありました。
 東京都府中市の義貞の阿弥陀様を拝観したときの記録は下記リンクより。
app.m-cocolog.jp

 

感謝


 万日堂拝観の機会をくださった管理人さんに感謝いたします。一期一会に感謝いたします。

【仏教行事】東京・護国寺の四万六千日法要~私の夏の始まり~

 護国寺さん四万六千日法要。今年もお参りしてきました。
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 灯りに荘厳された夜の本堂で、ご本尊如意輪観音さまの帳も開かれ、お姿を拝むことができます。
 天蓋、ご本尊さま、そのお厨子、その奥の三十三身像…。静かな光のもとで、内陣のすべてが美しさを増します。念彼観音力のお唱えが力強く、大僧正さまのお話が優しく心にしみます。
 とにかく美しくてありがたい!

 毎年この時期に私は体調を崩すのですが、この美しい法要は私の心身を癒やし、溶かしてくれます。

 ご本尊さまのお近くで合掌してから、お堂を出る瞬間。それが私にとっての夏の始まりです。

【読書メモ】碧海寿広『仏像と日本人』を読んで

碧海寿広『仏像と日本人 宗教と美の近現代』(中公新書2018年)
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 7月25日に出たばかりの新刊書を一気に読了。あまりに面白すぎた。

 仏像が好きと言うと、「美術として好きなのか、それとも信仰心からなのか」と聞かれることが多い。そのたびに答えに窮してきた。どちらも嘘ではなく、二者択一できるものではない。美術的に優れているから、仏教の教えがすっと伝わることもあるだろう。でも、だからといって、現世利益を願ってやみくもに神仏に頼りきる訳でもない。

 そんな私の根底に、明治以降のフェノロサ岡倉天心和辻哲郎亀井勝一郎白洲正子といった論陣の考え方があったのだと、初めて気づくことができた。

 この本によると、江戸時代までは仏像はあくまで信仰の対象として捉えられ、美術として論じられることはなかった。美的価値が認められるようになったのは、明治元年神仏分離令のあと、フェノロサが登場して日本の古仏像の美術的価値を指摘してからだった。この本では、フェノロサ以降、和辻や亀井、白洲といった論客や、土門拳や入江といった写真家、さらにはみうらじゅんいとうせいこうまで、さまざまな人の活動を紹介し、それぞれの仏像との関わり方を明らかにしている。

 仏像という彫刻を見に行ったのに、その神々しさを前に合掌せざるをえなくなる現象。それが私がかつて経験したことであり、多くの日本人も経験していることなのではないだろうか。

 この本で残念なのは、奈良や京都の中央仏への視点に留まっていて、地方仏が抱える問題に言及していない点である。丸山尚一にも言及すべきであった。地方にも優れた仏像が多数あり、過疎化で継承が難しくなっている現状も分析して欲しかった。著者は1981年生まれの若手であり、仏像の本を書こうと思ったのも、一昨年の奈良の「忍性」展のときだという。つい最近ではないか! 続編を期待したい!
 
追記
もし続編があれば、よっくんと仏像リンクさんの活動にも言及してください。地方仏の魅力をわかりやすく楽しく伝えようとする活動は、SNS時代の新しい動きとしてもっと注目されてしかるべきだと思います。

【受講】山本勉氏「伊豆函南・桑原薬師堂の仏像」

清泉ラファエラ講座
「伊豆函南・桑原薬師堂の仏像 かんなみ仏の里美術館へのいざない」
講師 山本勉
日時 2018年7月14日13:30~15:40
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はじめに

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 山本先生の講義を初聴講。大学のコミニュティ講座はかくもレベルが高いのかと驚く。浅学の身としてはなはだ消化不良ではあるが、メモ書きを残す。
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受講内容のメモ

 伊豆の桑原薬師堂に伝わり、現在はかんなみ仏の里美術館に安置される仏像群について、歴史的文化的に解説された。

【旧新光寺?】
○平安後期の薬師如来坐像箱根神社万巻との関わり)
○平安後期の地蔵菩薩立像・横川式の聖観音立像(薬師の脇侍であったか)
○平安後期の毘沙門天立像(不動明王と一対だったか。江戸の不動明王は後の再建か)
○上記の五尊で1セットだったのか(天台の影響か)

北条宗時墳墓堂?】
○実慶の阿弥陀三尊(鎌倉初期1210年以前。北条宗時墳墓堂との関わり? 上げ底式内ぐり)

十二神将
 ・丑神が13世紀前半か(量感あり、動きや細部の彫出が建治3年グループより優れる。髻は後補で、元は兜を被っていたのでは?)
 ・亥神に建治3年(1277年)の銘があり、卯神、辰神、申神も同時期か
 ・亥神は「仏師土佐法橋誠□」
 ・子、寅、巳、午、酉および戌が鎌倉末期から南北朝か(胸甲の中央に丸いくぼみ)
 ・戌神は室町か
 ・十二神将は十二の時の守護神。造像の作業もそれぞれの時刻に行った。
 ・横須賀の曹源寺と同様に、鎌倉永福寺の運慶の十二神将の影響の下で造像されたか

○江戸時代の観音勢至菩薩立像(しばらく実慶の阿弥陀の脇侍となっていた)
○江戸時代の不動明王立像(上記の毘沙門天の項目を参照)
○江戸時代の伝弘法大師坐像(憤怒の表情から、慈恵大師(良源)像か)
○江戸時代の伝経巻坐像(経巻とは聞かないので、ひょっすると、箱根神社を創建した僧、万巻の像か)

○上記の桑原薬師堂の仏像群は、古代以来の箱根文化圏と中世における北条氏文化圏が重なる地域にあって、仏教文化が重層したことを示す

平安時代から鎌倉時代にかけて、異なる時代の規準作品が含まれる

○地域の人びとの信仰が守った仏像群を現代の行政が継承し、あらたかな文化発信の場をつくった(レジュメ原文のとおり)

感想

 私はかんなみ仏の里美術館を今年3月末に訪れたばかり。実慶の観音菩薩さまが奈良で左腕を直されてお戻りになった直後だった。
 感想を3点ほど記したい。

感想1) 薬師様が実寸以上に大きく感じられるのは

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 今回、個人的に印象的だったのは、薬師如来坐像をめぐる話である。像高106センチであるが、それ以上に大きく見えるのが、私はとても不思議だった。山本先生もその点を指摘され、その理由として、脚部に比して体部が大きいことを挙げられた。さらに、造像をめぐる背景として、次の話をされた。
 桑原の薬師如来については、以下の縁起が残っている。「箱根神社を建立した僧の万巻が都に行く途中で亡くなった。万巻の徒弟が師の遺骨とともに、丈六薬師と経巻を運んでいたところ、桑原の地で動かなくなってしまい、一堂建立して安置した(新光寺)。しかし、大伽藍とするには祟りがあるとされたので、丈六薬師を本山に戻したところ、霧が晴れ、桑原の民に平安に戻った」。山本先生は、丈六薬師をお戻しした後で、これを模して小像が造られたのではないかとおっしゃった。その小型版の"丈六薬師"が 現在の薬師如来坐像ではないかと。実寸より大きい印象を受けるのは、元々この丈六薬師の影響を受けているからではないか、との話であった。
 薬師如来坐像から自分が受けた印象は言葉にならないものだったが、このように解説していただき、言語化できることが、本当にありがたい。

感想2) 如来+観音地蔵の例としてなんと…

 もう一つ印象的だったのは、如来と観音地蔵菩薩の例示の中で、文化庁阿弥陀如来坐像と根津美術館地蔵菩薩立像が一具であったと考えられるという点だった。文化庁阿弥陀如来坐像は東京国立博物館で拝観していた(写真添付)が、まさか根津の地蔵菩薩立像と関係があったとは。仏師快助という名前も初めて伺い、ますます興味深い。 
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感想3) 地元管理から自治体管理への賛否

 地元管理だった仏像群を函南町が買い取り、新しいミュージアムに収めて文化発信している点について、山本先生は特に強い敬意を示された。新しい美術館については、賛否両論があるので、その辺りを踏まえてのご発言だったと思う。
 地元の信仰が守った仏像群を行政が引き継ぐのは、過疎化高齢化の今、取り得る最善策の一つなのかもしれない。ただ、人があっての地方行政である。さらに過疎化が進めば、いつかは自治体としての町さえも消えかねない。都心一極集中を抑制して地方経済を活性化させることにより、各地域がその信仰として、また、誇りとして、仏像を守り続けることができるのであれば、それが一番よいのではないか…。一方、多文化共生が進めば信仰も多様化し、問題はますます複雑になる…。
 あまりの難問を前に私は頭を抱えることしかできずにいる。
 ただ一つ明らかな対策は、今後も多くの人が関心を持ち続けることだと思う。今回の講義のタイトルにあるように、仏像群に「いざわなれ」て、函南ミュージアムを多くの人が訪れることを願う。ミュージアムの建物は栗生明さんの設計によるもので、建築ファンも足を運ばれたい。

おわりに

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 以上、とにかく濃い内容だった。山本先生にはこれだけで本を一冊書いていただきたい。2時間の講義だけでは理解しきれないので、そう強く願っている。
 また、桑原薬師堂の仏像群だけで論文がいくつも書けそうなので、さらなる研究の進展を願う。
 最後に、一番大切なこと。民の祈りを受けとめてこられたみほとけの諸像が次世代へと継承されますように。


※勉強不足で、間違いもあるかと思います。お気づきの点がありましたら、お知らせください。
※写真の仏像フィギュアはかんなみ仏の里美術館で買ってきた薬師如来坐像です。マグネット付で冷蔵庫にも貼れます! この薬師さまとご一緒に聴講しました!!
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※私がかんなみ仏の里美術館など、伊豆の仏像をお参りした時(2018年 3月)の記録は以下より。
伊豆の平安仏と"牧野仏"(龍音寺、国清寺、かんなみほとけの里) - ぶつぞうな日々 part III





 

【信濃仏】海岸寺(松本市)~ぶどう畑の中の千手観音立像~

海岸寺
拝観日=2018年6月17日
○千手観音(県宝 159cm 桂 一木造り 平安中期)
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※世話役さまから特別に写真撮影の許可をいただきました。(観音様から見おろされるこのアングルが最も気にいりました!)

 海岸寺は、明治初年の廃仏毀釈の際に廃寺となったが、地元の方々により仏像群がお守りされている。
 県宝の千手観音立像は平安時代の作と見られる。1683年、松本城主水野忠直が京仏師浄仁の子清春に依頼して修復。修復の際に塗装され、頭上面と脇手の一部を欠くものの像容は整い、平安の様式を残した美しいお姿が残されている。
 何かの本で「大法寺の十一面観音さまとお顔が似ているのでは」と読んだ記憶があるのだが、実際にお会いしてみると、こちらの方がだいぶあか抜けているように感じた。面長で、二重顎だ。上の写真のように、左側を見下ろす感じがたまらない。私は仏像さんに見おろされるのが大好きなので、写真も左下から撮りたくなる。
 また、脇手も非常に印象的だった。両サイドに大きく張り出し、うねうねとした動きも感じられる。どこからどこまでが後補かは不明だが、もし脇手の大部分が江戸時代の修復によるものだったとしたら、清春はかなりの力量の仏師だったということになるだろう。
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 千手の腕の一つに、ぶどうを掲げ持つものがあった。山梨の大善寺にぶどうを持つ薬師如来さまがおられるが、松本にもおられたとは。こういう細かい持物は後補のことが多い。この観音さまはいつからぶどうをお持ちなのだろう。
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 ご案内くださった世話役さまも、ぶどう栽培をされているそうだ。日焼けしたお顔で観音さまを誇らしげに見上げておられたのが忘れられない! ぶどう畑の中の観音さまが末永く伝えられますように。
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(↑最後に全身写真を。スリムで均整がとれており、大変美しい。左足の横に安置されているのが奪衣婆さま)

【信濃仏】栂尾毘沙門堂~盗難を乗り越えた信仰篤い毘沙門天さま~

栂尾(つがのお)毘沙門堂(長野県北安曇野郡池田町広津)
拝観日=2018年6月17日
毘沙門天立像(県宝、112㎝、桧、一木造り、平安後期)
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拝観予約


 丸山さんの本で拝見し、これはお参りしたいと思った栂尾毘沙門堂毘沙門天さま。Google地図でざっくり確認したところ、ルート的にも問題ないと判断。池田町役場から管理者の方をご紹介いただき、拝観させていただけることになった。ちなみに、この「Google地図でざっくり確認」が後に自分を苦しめることになるのだが、このときの私はまだそれを知らない…。
 5月初めのとある遅めの昼休み、池田町役場にお電話したところ、「地区の方が管理されているので、その方に聞いてみます。お仕事をお持ちの方なので、すぐには連絡がつかないかもしれません。しばらくお待ちください」とのこと。やはり拝観のハードルは高いのか…。そう思って、お弁当に集中しようとすると、ほどなく役所から連絡があった。
 「世話役さんと連絡が取れました。ご希望の日時で今のところは問題ないそうですよ…。直接連絡取ってみますか?」とのこと。急な展開に慌てながらも、これは逃してはいけないチャンスかもと直感! すぐに管理者の方にお電話させていただいた。
 生来の人見知りなので、初めて電話するときは緊張する。ましてや、個人の方にご好意をお願いしようとするときはなおさらだ。役所や寺院よりハードルが高い。
 ところが、恐る恐る電話してみると、これまたあっけなく、世話役さまから許可が出た。ざっくりと6月17日の午前中ということでお願いし、旅程が固まり次第、改めて訪問時刻を連絡させていただくことに。
 さらに、丸山さんの本で拝見したことと、参加メンバーは仏像好きで礼儀正しい人ばかりだと言うことをお伝えした。つまりは、アヤシイ者デハゴザイマセンという趣旨を叫んで、電話を終えたのだった。

地図に載っていない!


 電話を終え、ふーっと一息をつき、改めてGoogle地図を見直した。しかし、広津地区の場所までは分かったのだが、お堂の場所を地図上で見つけることはできなかった。お堂の住所は県のサイトを見ても「池田町広津」とあるだけで、番地は見つからなかった。まあ、その点については、後で問い合わせればと思っていたのだが、なんと運転担当の仲間が見事なGoogle航空写真さばきでお堂の場所を「発見」してくれた(この方の調査能力はほんとに半端ない!)
 ただ、覚音寺の記事に書いたように、Googleナビには、遠回りのルートしか出てこないのを、私たちは当日まで知らなかった。覚音寺を発つ際に、ご住職に教えてもらい、約束の時間より30分も早く現地に到着したのだった。この辺りの時間調整で難儀したことは、覚音寺拝観の記事に詳しく書いたとおりである。(今こうして書いてても胃が痛くなる。無事にたどり着けて本当によかった!)
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(↑毘沙門堂周辺の四季の景色。世話役さまが参加者全員に写真をくださった。あまりのご好意に泣ける)

篤い信仰の毘沙門天さま


 30分早く到着したのだが、世話役さまも間もなく到着され、すぐにお堂を開けてくださった。
 狭い堂内に入ると、世話役さまから「まずは般若心経をお唱えしましょう」との一言。世話役さまとご一緒に、参加者全員でお唱えさせていただいた。
 お唱えを終えると、世話役さまから短くお話があった。近くに住んでいたおばあさんが毎日この毘沙門天さまをお参りし、92歳で亡くなるまで元気でおられた、という話だった。亡くなる前に入院したが、病院からも毘沙門天さまの方向に祈りを欠かさなかったそうだ。亡くなる直前まで意識もはっきりし、長患いしなかったと言う。つまりは、ぴんぴんころりは毘沙門天さまのおかげなのだという話である。世話役さまはとても誇らしげであり、毘沙門天さまへの信心深さが伝わってきた。
 この小さなお堂の毘沙門天さまは大きな信仰の対象であるーー。その事実を拝観して数分間で、この世話役さまから教わったのだった。

彫像としての毘沙門天さま


 改めて毘沙門天さまのお姿を拝してみよう。いかめしいご尊顔。左手に法灯を掲げ、右手に法棒を握る。引き締まった全身にはまったく隙がない。1メートル強の決して大きな像ではないが、とてつもなく大きな力が込められた彫像であった! 左太もも辺りに残る彩色文様も印象的だ。
 当日は池田町教育委員会の方もおいでくださり、説明してくださった。この毘沙門天さまは長尾という場所にまつられてきたが、地滑りや火災等により何度か移動し、昭和46年から現在のお堂にまつられているとのことだった。
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2011年の盗難事件!

 実はこの毘沙門天さまはなんと、2011年2月に、盗難に遭っている。盗難にすぐに気づき、テレビ等で報道されたところ、数日後に奇跡的に発見されたそうだ。世話役さまいわく、「テレビのニュースに出たもんで、新潟あたりで見つかっただよ」。
 毘沙門天像はしばらくの間、池田町の預かりとなり、その間にお堂の改修工事が行われた。2011年5月3~15日には、北アルプス展望台美術館(池田町立美術館)で毘沙門天像を公開。毎年5月3日に行われる例祭もこの年は美術館で実施された。翌2012年4月28日、防犯対策を施したお堂に毘沙門天さまがお戻りになり、6月10日には、町長や県議、教育長、奉賛会長など30名が集まって、法要例祭が執り行われた。
 よくぞお戻りになられた。そして、私たちの拝観をよくぞお許しくださった。2018年6月、仏友さんと共にお会いできたことが奇跡のように思えてくる。

池田町の他の盗難被害


 池田町の文化財サイトはとても充実しており、各地区のお像の写真が文化財未指定のものまで掲載されている。その陰で気づくのは、行方不明になっている仏像の存在である。
 池田町の調べによると、2005~08 年にかけて、5件の盗難があり、37体の被害あったそうだ。広津地区の日野で十二神将10体、南足沼で十王像など16体、郷志窪で薬師如来坐像など9体、菅ノ田で聖徳太子立像1体、日影山は勢至菩薩坐像1体の各集落から被害報告があったとのこと。いずれも盗難の日時は不明だという。

今後のお守りのしかた~町立仏像センターという選択肢~


 2011年の盗難後、お堂には防犯対策が施された。現在のお堂は頑丈な鍵付でセコムも完備。お像にピアノ線も張られている。それでいて、毘沙門天さまを照らす電灯のスイッチが堂外の壁に取り付けてられており、鉄格子の間から毘沙門天さまのお姿を拝観することも可能なのである。なんと優しい環境なのだろう!
 しかし、それでも池田町全体の問題は払拭されないのであろう。町教育委員会の方のお話では、町内の仏像を集めて保管、公開する施設を造ることを検討されているそうだ。過疎化と高齢化が進むなか、そうした対応はやむなく、むしろありがたいことなのかもしれない。盗難被害など二度とごめんだ!
 しかし、この地に伝えられてきた熱い信仰心はどうなるのだろうと少し不安も感じたのだった。亡くなる直前まで毘沙門天さまに捧げたおばあちゃまの祈りを私は忘れたくない。
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(↑小さな堂内に今も大切にお守りされる毘沙門天さま)

【信濃仏】覚音寺(大町)~「藤尾の観音さま」に家族の愛を想う~

藤尾山覚音寺(大町)
拝観日=2018年6月17日
千手観音菩薩立像(重文 168.2cm、桧材、寄木造、1179年造立)
持国天(重文 161.5cm、桧、寄木造、1194年造立)
多聞天(重文 157.6cm 桧、寄木造、1195年造立)

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(写真はお寺のリーフレットより)

藤尾の観音さまへの想い

 覚音寺の千手観音さま(通称、藤尾の観音さま)にお会いできた幸せは、私の語彙では伝えきれない。理知的で優しいご尊顔。重量感のある体躯からは、木に込められたパワーがみなぎっているようだった。
 強さとか優しさとか聡明さとか、そういう言葉だけでは表現しきれない、もっと超越した何かを私は感じた。近づきたいのだが、近づきがたい。今の私に必要な何かを観音さまからいただいたように思う。
 平安末期、仁科盛家の妻が、戦乱でいつ命を落とすかわからない夫を思って祀った像なのではないかーー。そう丸山尚一さんが書かれているのを帰宅後に読み、すっと納得できる気がした。私は家族を支えながら働いており、日々の難問を前に、わが身の至らなさを常に感じている。だからこそ、強さと優しさと聡明さを結集させたこの千手観音さまに惹かれるのだろう。盛家の妻も家族を思って観音様に手を合わせたのだろうか。

覚音寺の寺歴とご住職


 覚音寺は平安中期、快尊上人によって創建され、一時は十二坊を擁する大寺院だった。もともと天台密教だったが、江戸時代に曹洞宗に変わり、明治維新後に廃寺に。昭和8年の調査で千手観音・多聞天持国天の三尊の立像が発見され、まもなく国宝に指定された(戦後の法改正により、重要文化財に変更)。平成2年に新御堂が建立され、現在は、奈良県吉野の金峯山寺を本山とする金峯山修験本宗の末寺として法灯をつなぐ。

 覚音寺は、大町八坂地区(旧八坂村)にあり、お寺の案内書によると「安曇野の東に連なる大峯に抱かれて立つ」。この麗しい言葉のとおり、私は、覚音寺をお参りする途中、付近の大いなる自然に心を奪われた。しかし、運転する仏友さんはかなり気をもんだようだ。拝観予約を担当した仲間が住職から教えてもらった山道を進むと、やっと覚音寺にたどり着いた。Googleなどのナビでは、遠回りの道しか出てこないそうで、住職が最適なルートを事前に教えてくださったそうだ。このご配慮が本当にありがたい。

 帰宅後にお寺のリーフレットを熟読したのだが、簡潔にして美しい名文だった。おそらく住職のお人柄と聡明さがにじみ出ているのだと思う。こういう文章は、古文書を写したような難解なものでもいけないし(そういうものは割と多い)、かといって、軽薄すぎても、読み手を見下しているようで反感を買う。帰宅して振り返り、住職の偉大さをかみしめている。自分も文章を書く仕事をしてきたが、リーフレットの美しく簡潔な表現を心から見習いたいと思った(しかし、現実には、以下のように、駄文が続きます...。すみませんが、覚音寺さんが大好き大好きと叫んでいきますので、よろしければお付き合いください...)。

胎内資料より読み解く千手観音立像、多聞天立像、持国天立像

 覚音寺の本堂の裏に収蔵庫があり、千手観音、多聞天持国天の三尊がまつられている。朝早く到着したところ、すでに住職が扉を開けていてくださった。足元に気を取られながらお堂の前まで進み、ふと顔を上げると、なんの前ぶれもなく、突然に目の前に、この三尊が飛び込んできた。私は、千手観音さまの聡明で強くて優しいお姿に、一瞬にして打ちのめされてしまった。冒頭記載のとおり、もう言葉にならない感動であった!! 
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(↑写真は『めくるめく信州仏像巡礼』より)
 住職が寺歴と三尊像について優しく分かりやすく説明してくださった。実は、観音様を前にした感動と、幹事として厳しい旅程を管理しなければならい重圧とのはざまで、いつもなら行うメモ取りをし損ねてしまった。(住職のお話が優しく明快だった印象だけははっきりと残っている!)
 記憶の中の住職のお話と、帰宅後改めて調べた内容とをあわせると、千手観音、多聞天持国天の各像について以下のとおり説明ができるかと思う。
 ○覚音寺は明治45年(1912年)に火災にあい、この三尊は再建された小さなお堂に人知れず安置されていた。
 ○昭和8年(1933年)に、この地域一帯に文化財調査が入り、これら三尊の像を発見。翌年にお像の解体修理が行われ、千手観音像の胎内から墨書木札1枚、紙本千手観音摺仏28枚、白銅鏡1面が見つかった。
 ○これらの資料から千手観音像造立の詳細が明らかになった。観音像の施主はこの地域を治めていた仁科盛家とその妻子。盛家は源平合戦に出陣した武将だが、妻子ともども深く仏道に帰依し、この観音像を造立して覚音寺を再興した。その後、盛家は木曽義仲に従軍。戦地で亡くなったと考えられている。(盛家が家族で造立した観音像だが、そこには妻の想いが強く影響したのではないか。素人の考えだが、そう感じさせる観音さまだった)
 ○観音像の造立は平安時代末期の治承3年(1179年)。仏師は慶円六郎坊で、本格的な寄木など彫技の巧みさから、中央で修行した仏師と推測される。
 ○お寺のリーフレットによると、観音像に納入された白銅鏡は、木札に「伴氏の出自」と記される、仁科盛家の妻によるものとみられる。この女性は、のちに出家して仏母尼と称し、高野山遍照光院に阿弥陀堂を建立し、快慶の阿弥陀三尊を施入した人物だという(まさか、いかにも平安らしいこの三尊の御前で、快慶の名前を聞くとは。なんとも驚愕である!) 
 ○観音像には千手観音の摺仏28枚も納入されていた。こうした手法が京都周辺で流行し始めて間もない頃に、信濃に同じ例が残っていることが貴重である。
 ○多聞天持国天は少し時代がくだり、それぞれ1195年と1194年に造立。鎌倉時代に入っているが、作風は平安時代の古風なもの。
 ○多聞天立像は全身の均衡に優れ、完成度が高いとされる。(確かにかっこよかった!)
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(↑写真は『めくるめく信州仏像巡礼』より)
 ○持国天立像は大修理の跡があるが、手を腹前で交差するのは珍しく、他には、奈良興福寺北円堂の持国天に例がある。(多聞天さまとは別の味わいがある! ナイスコンビではないか!)
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(↑写真は『めくるめく信州仏像巡礼』より)
 ○千手観音に納入された木札に以下の文言がある。「治承三年十月廿五日始之 十一月廿八日供養 大仏師武蔵講師慶円六郎坊 小仏師重源 小仏師香飯」
 この「小仏師 重源」は、後に東大寺再建の陣頭指揮をとることになる、あの重源と同一人物ではないかと住職は考えておられるそうだ。専門家には否定されているのだが、しかし、重源は東大寺勧進になるまで無名だったので、まったくありえない話とは言えないのではとのこと。いやいやいや…、本当だったら大ニュースである! 調べてみたところ、1180年の南都焼き討ちのあと、重源が大勧進に就任したのは1181年で、重源が61歳の頃だった。覚音寺の観音さまの造立からわずか2年後である。実際どうだったのだろう…。重源は快慶との結びつきも強いので、ひょっとすると、先に述べた遍照光院の快慶と結びつく可能性も…。(ひょっとするとひょっとするのだろうか。住職の少しだけ前のめり気味の説明を伺っていると、重源説を信じたくなる! 今後の研究が進みますように!)

お参りできてよかった…!

 ここからは少し今回の旅の裏話をしたい。今回の旅程を組む過程で、拝観寺院をあまりに詰め込みすぎなのではないかの声が上がり、実は、覚音寺を外すことが検討されたことがあった。再検討のうえ、当初の予定で行くことにしたのだが、幹事としては、覚音寺から次の栂尾毘沙門堂にかけての時間がタイトなので、ここをなんとかクリアしなければと思っていた。胃薬の必要な難関であった。
 実際に訪れてみると、これほどまでに感動的な三尊と住職にお会いでき、あの時踏ん張って本当によかったと思っている。運転を引き受けてくださった仏友さんに改めて感謝を伝えたい。
 さらに、覚音寺さまを去る際に、住職が栂尾毘沙門堂への近道を教えてくださり、当初予定していた移動時間(60分)の半分もかからずに栂尾に到着してしまったという顛末も。これまたナビでは出ないルートらしい。なぜかGoogleナビとは反対方向の道から、早々と栂尾に到着した。
 私はこれまで、お寺の参拝の際には、どの駅で降りてどの道で行って…という行き方をお寺の方に聞かないことをマイルールとしてきた。私が訪れるのは観光寺院ばかりではない。仏像拝観だけでもお寺のご好意で受け付けていただいているのに、さらにつまらないことでムダな時間をとらせたくないからである。Google地図などで、何でもぱぱっと調べられるではないか。地元のバス路線などが面倒でも、参拝者の責任で調べるべきだと思っている。気軽に電話して相手の時間を奪うことを私は好まない。
 しかし、今回のように、山の中のお寺の際には、少しだけご好意に甘えてみるのもありかと思った。山は危険と隣り合わせだ。今これを書きながら、京都愛宕山月輪寺さんをお参りする際、一人で登山予定だと伝えたときに、電話口で登山ルートと注意事項を詳しく教えてくださったことを思い出した。愛宕山では時々、お家に帰れなくなる登山者がおられるらしい。月輪寺は足で登るしか道がないので、少し事情は異なるが、例え車だったとしても、細い山道で立ち往生する可能性がないとは言い切れない。覚音寺さんへの道はいわゆる林道のような細い道だった。山では時々電波も届かなくなる。その土地の方にもう少し頼ってもよいのかもしれない。
 感動の拝観をさせていただきつつ、大切なことを学ばせていただいた。いろいろと未熟な私である。返す返すも、藤尾の観音さまにお会いできたことがありがたい。
 観音さまをお慕いしつつ、その聡明さと強さと優しさに少しでも近づけますように。

【信濃仏】光久寺(安曇野市)若き妙海の日光月光菩薩像はかわいらしい双子のようだった!

光久寺(安曇野市
拝観日=2018年6月16日
○日光・月光菩薩立像(県宝、桧材、寄木造、妙海1317年)
※写真撮影については管理者より許可を得ています
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光久寺とは


 寺伝によると、光久寺は大同2 年(802年)に高野山遍照光院の末寺として創建され、行基菩薩作の薬師如来を祀ったとされる。専門家は空海の入唐が804年なので、ありえない話だと述べているが、少なくともそのように伝わっているそうだ。高野山遍照光院については、覚音寺でも縁がある旨を聞いたので、まんざら無関係とは言い切れないのではないかと思った。
 光久寺は今では無住になっており、地区の方々が管理されている。安曇野市のサイトによると、毎月第三土曜日が公開日となっているが、それでも事前に安曇野市役所への連絡が必要である。
 安曇野市を通じて予約をお願いしていたところ、当日は地元の方が待っていてくださった。市の方から伺ったところでは、地区の集会の際に私たちの受け入れについて話し合ってくださったそうだ。大変ありがたく、頭の下がる思いだ。

妙海の日光月光菩薩


 日光月光菩薩像は、光久寺薬師堂のすぐそばの建物に安置されている。現在の建物はお寺というより、地域の古民家を集会所に改修したような場所だった。畳敷きの部屋の奥に、両菩薩像はおられた。
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(↑光久寺薬師堂。かつてはこのお堂にお祀りされていた。今は↓の建物に他の諸像とともに安置されている)
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 善光寺仏師妙海の仏像は長野県内5か所に9体残っており、制作時期もすべて明らかになっている。安曇野の光久寺の日光月光菩薩は1317年で、最も古い。記録上分かっている限りで、妙海が最も若い時に作った仏像である。
 妙海仏の特徴は両方の眉毛がつながっているところだ。宋風のひらひらした衣も両菩薩に共通するが、月光菩薩の方が細かくうねっており、意図的に日光菩薩と差別化を図ったのかが気になるところである。日光菩薩はお顔の左側の傷が痛々しい。いずれにしても、両像ともかわいらしい。みほとけの像なのに、こんなにかわいらしくてだいじょうぶなのかと思えてくる。
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(↑月光菩薩さまがこんなにかわいくてよいのか! 最もかわいらしく見えるアングルで撮らせていただきました(泣))
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(↑この口元かわいすぎる!)
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(↑髻が高くて上品)
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(↑おへそもかわいらしい!)
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(↑なぜか背中の衣が厚め。翌日にお参りした辰野町の妙海の十一面観音立像も背中の衣が厚かった)
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(↑月光菩薩の方が下半身の衣がうねうねしている。日光菩薩が普通の宋風なのと対照的だ。日光菩薩と比べ、月光菩薩は妙海さんがより自由に、いろいろ試しながら彫ったような気がする。きっと独自に工夫するのが好きだったのだろう←妙海ファンの勝手な妄想!)
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(↑日光菩薩さまはお顔に傷がある。長い年月の間に転倒したのだろうか。かわいそうでならない。それでも、日光月光菩薩どちらもかわいらしいことに変わりない。かわいらしい双子の菩薩像である!)

実は再会でした


 自分の過去の記録を遡ったところ、2009年に信濃美術館でお会いしていたようだ。善光寺ご開帳に合わせた特別展で、松本市波田の仁王像(ただし一躯のみ)とともに出展されていた。妙海という仏師を知ったのはその時である。妙海仏を訪ねたいと思いながら、再会するまでに9年もかかってしまった。

 最後に、繰り返しになるが、安曇野市役所を通じた拝観依頼を受けて、地区の皆様は集会の際に私たちの受け入れについて相談してくださった。大変ありがたく、改めて感謝の気持ちを申し上げたい。この地に伝えられた菩薩像。この地で末永くお守りされることを願っている。

参考資料


 光久寺で閲覧できた資料を貼っておく。
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【信濃仏】智識寺(千曲市)~3メートルの立木仏 十一面観音立像~

智識寺とは

智識寺(千曲市)(真言宗智山派
拝観日=2018年6月16日
〇十一面観音(重文 306cm、ケヤキ、一木)
〇釈迦如来坐像(室町)

 智識寺の開創時期は定かでないが、天平年間(729~748)に、聖武天皇の勅願により冠着山(かむりきやま)麓に建立されたといわれる。慶長10年(1605年)に現在の地に移る。室町時代末期に建造された大御堂とその堂内の十一面観音立像が重要文化財に指定。

智識寺の十一面観音立像

 去年お参りしようと電話したのだが、お堂の改修中のため拝観できず、今回念願かなってやっとお参りできた。白洲正子の『十一面観音』に登場する3メートル超の一木造りの観音さまである。葺き替えを昨年度に終えたばかりの茅葺の大御堂に観音さまはおられた。
 かわいらしい大きな童顔と、それに比して細い両肩。すくっと伸びた長い手足。霊木を使って彫り出されたのだろう。はかりしれない霊験を感じさせる観音像だった。
 それにしても、身の丈3メートルとはかなりの長身である。どれだけ巨大なケヤキを使ったのだろう。私の普段の散歩コースにあるケヤキの巨木は驚くほど固い。コンクリートかと思うほどだ。固いケヤキの巨木から、このように柔らかく温もりのある観音像が生まれるとは。
 もちろん智識寺の観音像に直接触れたわけではない。しかし、見た目には明らかに柔らかで、温もりが感じられる。それはゆるやかな身体のラインや浅い衣の彫りだけでは説明しきれない。おそらくそれが霊木から生れ出た霊像というものなのだろう。写真では何度も拝見したが、そうした感覚というのは現地でしか感じることができない。単なる彫刻ではない。言葉にできない何かが観音さまから発せられ、堂内に満ちるのを感じた。お会いできた幸せをかみしめた。

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 白洲正子は『十一面観音巡礼』の中でこの観音さまと対面した時の感動を記している。大法寺参拝のおり人づてに大御堂の観音さまのことを聞き、夕方遅くに到着。ろうそくの火影のもとに浮かび出た十一面観音を「想像していたよりはるかに美しい」と絶賛している。「地方作ではあるが、平安初期のしっかりした鉈彫りである。この観音は、もと女沢川の上流に祀ってあったと聞くが、背後の神体山と、何らかのつながりがあるに違いない」。
 背後の神体山の山の名前を帰宅後に地図で調べ、それが冠着山(かむりきやま)であることを白洲は知る。地図では、冠着山に括弧して「姥捨山」とあるのを見た白洲は「私は探していた言葉にめぐり合ったような心地がした」という。篠ノ井線の姥捨駅の近くに山がなく、不思議に思っていたということらしい。
 さて、冠着山(姥捨山)とこの観音さまとの間にどのような関係があるのだろう。私はその辺りが気になってしかたがない。神仏習合と立木仏の勉強をしたい。

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他の仏像はどこに

 過去のブログなどを見ると、堂内には大きな仏像がひしめき合っていたようだが、今回はお会いできなかった。お堂の改修後にどこかに移られたのだろうか。自分がまとめた拝観予定リストには以下のお像も含まれていたのだが、今回はお会いできなかった。
聖観音(市指定、168cm ヒノキ、12c末~13c初)
地蔵菩薩立像(市指定、159cm、ヒノキ、江戸中期)

釈迦如来坐像と仁王像


 境内の小さなお堂に、丈六規模の釈迦如来坐像がおられた。お堂が小さいので、堂内をのぞき込んだ瞬間、あまりの像の大きさに驚いた。室町時代の作だそうだが、穏やかなお姿に癒された。仁王門の仁王も室町時代

拝観情報


観音さまの拝観には予約が必要。住所=長野県千曲市大字上山田八坂1197

【信濃仏】大法寺(青木村)~瞳を閉じた十一面観音さまは何を感じ取ろうとされているのだろう~

大法寺(青木村)(天台宗
拝観日=2018年6月16日
○十一面観音立像(重文 170.9cm、カツラの一木、平安)
普賢菩薩立像(重文 106.3cm、カツラの一木、平安)

大法寺とは

 信州の大法寺は、大宝年間(701~704年)に創建された天台の古刹。藤原鎌足の子、僧定恵によって創建され、大同年間(801~810年)に坂上田村麻呂の祈願で僧義真(初代天台座主)によって再建されたと伝わる。
 飯縄山の麓にあり、「見返りの塔」と呼ばれる国宝の三重塔(1333年)が美しい。参拝した日には本堂の前にキセキレイの親子が見られた。
 この大法寺の本堂で、丸山尚一と白洲正子の両方の書籍に登場する十一面観音さまにお会いした。

木造十一面観音立像

 ご本尊である観音さまは両目を閉じ、小さな口元からそっと息をしておられた。その静かな表情に引き込まれる。横からのぞき込むと、腰から下にかなりの重量感があり、正面から見たときの可愛らしさとの違いにますます魅了された。
 それにしても、この観音さまはなぜ目を閉じておられるのか。目を閉じることで、全身の感覚を研ぎ澄ませ、何かを必死に感じ取ろうとしているように私には思えた。信濃の山の聖霊をその御身に取り込もうとしているのか。それとも衆生の悲しみを慈しみの御心で受けとめようとしているのか…。
 いずれにしても、この素朴な観音像には体温さえ感じてしまう。もちろん仏の像であるし、文化財であるから、実際に触れたわけではない。でも、その全身から温もりと祈りを感じたことは確かである。
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 丸山尚一は『地方仏を歩く三』で、この十一面観音像を「一見して地方色の濃い彫像」だと評している。「穏やかな体軀の肉どりは抑揚少なく、ずんどうに近い素朴な作り」「ことさら優れた像とはいえないかも知れないが、この土地のにおいを感じさせる、親しみを感じさせる像」だと丸山は言う。地方仏を愛した人の讃辞なのだろう。
 一方、白洲正子も荒削りな地方仏らしさを指摘し、絶賛している。白洲は『十一面観音巡礼』で大法寺の本尊に言及し、「材は桂で、台座に木の根の部分を使ってあるのも、立木観音の伝統を踏襲していることに気がつく」と指摘する。平安中期の作だと紹介したうえで、「蓮弁なども荒けずりで、実際の年代より、ゆったりと古様にみえるのが、地方作らしくていい」と述べている。大法寺は江戸時代まで戸隠山の末寺だったことから、山岳信仰の仏師の作であることは間違いないと白洲は言う。「一木造りというのは、技術が未熟だったわけではなく、信仰上の制約だったことが、こういう仏像に接すると納得が行く」という一文に心が震える。

木造普賢菩薩立像

 十一面観音の隣に立つ普賢菩薩さまは、身の丈は十一面観音よりも小さいものの、お顔の表情などから、同じ仏師の作であろうことが想像できる。丸山は十一面観音とこの菩薩像について、「土着色の強い一木彫りの少ない信濃にあって、大法寺の木彫像は、ぼくの感じる信濃を体現している彫像といっていいだろう」と書いている。
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重要文化財厨子および須弥壇

 十一面観音さまは、今はお堂の奥に並んで安置されているが、以前は本堂中央のお厨子にまつられていた。今回、特別に厨子を開けていただき、前立の観音立像も拝ませていただいた。可愛らしい観音さまでおられたが、文化財の指定はないようだ。鎌倉か室町頃だろうか。
 重要文化財厨子須弥壇禅宗様。制作年代ははっきりしないが、三重塔より時代がくだって室町ではないかとのこと。

拝観情報

 お寺は固定の拝観料で一般参拝客に解放されているが、堂内の観音様の拝観には予約が必要(0268-49-2256)。住所=長野県小県郡青木村当郷
 塩田平には、先の記事に書いた中禅寺のほか、別所の北向き観音や安楽寺の国宝の八角三重塔などもある。もし再訪できるのなら、温泉込みでのんびりしたい。
 
※写真は青木村のホームページより。
大法寺の文化財 | 青木村役場

【信濃仏】中禅寺(上田市)~こういう上品なお堂にはこういう上品な如来像がいらしてほしい~

塩田平の中禅寺とは

中禅寺(上田市)(真言宗智山派
参拝日=2018年6月16日
薬師堂 
薬師如来坐像(97.7cm、カツラ、前後二材寄木、平安末期、重要文化財) 
○神将立像(68.2cm、上記薬師如来の附として重要文化財指定)
仁王門
金剛力士像(平安末期、県宝)
※写真撮影はお寺より特別に許可いただきました。

 丸山尚一さんの本で読んだ中禅寺は、独鈷山の麓、塩野平にある大変美しいお寺だった。
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(↑独鈷山。密教法具の名をもつ岩山だ)

平安の仁王像


 仁王門には、京都醍醐寺および峯定寺のと並び評される平安後期の仁王像が睨みをきかせる。品のある仁王さまだ。
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 そして、仁王門の向こうに茅葺きの美しいお堂が音もなく静かに建つ。鎌倉時代初期に遡る方三間の阿弥陀堂形式のお堂である。ため息の出る美しさだ。
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薬師堂と薬師如来坐像~美しすぎる組み合わせ~


 堂内には、定朝様の薬師如来坐像がおられる。彫りが浅く、この上なく上品な佇まいだった。堂内の中央、四天柱の中に安置されており、それがさらに美しさを引き立てているように感じる。みほとけの像が堂の中央に置かれるのは古い形式なのだそうだ。時代がくだると内陣はお堂の奥へと移動する。
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 このような上品で静かなお堂には、このように上品で静かなお像がいらしてほしいーー。そういう私の勝手な願いを見事に叶えてくれる建物と如来像だった!
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神将立像に泣きそう


 手前の神将立像もたまらない。かつては十二神将がお揃いだったのだろうか。今はたったお一人で、しかも、両腕を失ったお姿である。それでもなお、私たちを救おうと、凛としてお立ちであった。十二神将ならぬ、一神将の強い思いが伝わってくる。もし私一人でお参りしていたら、きっと泣いていただろう。
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光と薬師さま


 丸山尚一さんの『地方仏を歩く三』によると、丸山さんが参拝された際、住職が「この薬師さんは周りの戸を閉めて南の戸を少し開けた光で見るのが一番素晴らしい」とおっしゃり、そのように戸を開けてくださったそうだ。わずかに差し込む光の中の薬師如来坐像に感動したことを丸山さんは綴っている。
 驚いたのは、今回私たちが訪れた際も、住職が一度すべての戸を閉め、神将に近い側の戸を少しだけ開けてくださったことだ。その戸が丸山さんのときと同じだったのかはわからない。だが、確かに、わずかな光の中で拝む薬師さまはより神々しかった。感動したのは私だけではない。堂内にはどよめきのような感嘆の声があがった。光は大切だ。
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 天候や時間帯によって光の入り方が異なることもあり、丸山が見たのと同じ光景を見たとは言えない。しかし、本と同じように戸の開閉をしていただけるとは思ってなかったので、大変ありがたかった。住職にお礼を申し上げたい。