ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【埼玉】「東国の地獄極楽」展(埼玉県立歴史と民俗の博物館)~東国の浄土宗の展開を学ぶ~

展覧会=「東国の地獄極楽」
会場=埼玉県立歴史と民俗の博物館
会期=2019年3月16日~5月6日
鑑賞日=2019年3月17日 (前期展示)
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 埼玉県大宮市の博物館で「東国の地獄極楽」展という展覧会が開催されると聞き、早速出かけてきた。担当学芸員の西川真理子氏の会場解説も拝聴した。
 気になるところをいくつかご紹介したい。

1) 千葉県横芝光町の鬼来迎の映像

 埼玉で地獄極楽の展示ということなので、熊谷直実(蓮生)ゆかりの展示や熊谷市で発見された阿弥陀如来立像を楽しみに会場に入った。
 ところが、到着して仰天した。会場入ってすぐのスペースで、千葉県の鬼来迎(きらいごう)の映像が上映されているではないか。埼玉に到着するなり、千葉県の話題とは…。
 実は私は、一週間前に千葉県鴨川市まで二十五菩薩来迎の行道面を見に行ったばかり。千葉の行道面つながりで、鬼来迎のことを調べたばかりだった。仰天はしたものの、自分の中では実にタイムリーな展開となった。
 前置きが長くなった…。
 鬼来迎とは、千葉県山武郡横芝光町虫生(むしょう)の広済寺に伝わる仏教演劇である。虫生地区の二十数世帯に引き継がれ、毎年8月16日に行われている。
 上映されている映像は、ポーラ伝統文化振興財団による2014年の作品。練習風景から当日の施餓鬼会法要、実際の舞台の様子まで、丹念に取材を重ねた力作だった。
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(↑こちらは予告編。全編は本展会場でぜひ。4/14まで)
 虫生の鬼来迎では、普段地元で普通に働き、普通に学校に通う人々が、鬼や閻魔や亡者や菩薩の役で登場する。音声や和讃も虫生の人々が担う。虫生で生まれ育った男性だけでなく、虫生の女性と結婚した男性も鬼来迎の担い手となっているのが印象的だった。
 劇のストーリーはシンプルだ。鬼来迎という名前の通り、女性の亡者が地獄に落ち、鬼に苦しめられるが、最後は観音さまが現れて救ってもらう。劇の途中には、賽の河原で石を積む子どもが地蔵菩薩さまに助けられる場面もあり、目頭が熱くなった。
 ナレーションは女優の草笛光子さん。穏やかな語り口が静かな感動を呼ぶ。
 大変貴重な映像を観る機会がいただけた。
 
 なお、この博物館での当映像の上映は3月16日~4月14日。期間限定なので、気になる方はお見逃しなく。
 4月16日からは埼玉県鴻巣の「箕田の百万遍」が上映されるそうだ。

2) まずは恵心僧都源信

 鬼来迎の話が長くなってしまった。映像コーナーを進むと、ついに本展の展示が始まる。
 最初はやはり、仏画の恵心僧都坐像(熊谷市寂光院、江戸時代)。その横に、寛政2年(1702)のゑ入往生要集(埼玉県立図書館所蔵。前期はパネル、後期は原本展示)。源信が描いた地獄極楽の世界が、江戸時代にも世の中に浸透していた証なのだろう。
 さらにその横には、雲に乗って来迎する絹本着色地蔵菩薩立像(久喜市吉祥院鎌倉時代、県指定文化財)。地獄に助けにきてくれる頼もしい地蔵菩薩さまの絵が美しかった。

3) 熊谷直実のおかげで、国宝『法然上人行状絵図』が埼玉にやってくる!

 そして、埼玉の浄土信者と言えば、熊谷直実である。直実は埼玉県熊谷出身の武将で、法然上人に帰依した人物。出家後の名前は蓮生。
 私は子どもの頃、埼玉県南東部で過ごしたが、直実の名前は聞いた記憶がない。熊谷市は北部なので地域も違うし、そもそも単に私が不勉強だったという可能性もあるが…。
 どちらかというと、関西以西のお寺で名前を聞くことが多い。法然上人25霊場でめぐった京都の光明寺、岡山の美作誕生寺、京都嵯峨の熊谷山法然寺などは、蓮生ゆかりの寺である
 そんな中途半端な知識の私でも、この展覧会では、熊谷直実について、ゆかりの作品を通じて学ぶことができる。
 展示されているのは、直実が平敦盛と向き合う一の谷の合戦図屏風(埼玉県立歴史と民俗の博物館、前期展示)山梨県甲斐善光寺に伝わる木造の蓮生法師坐像(南北朝甲府市文化財迎接曼荼羅(京都清涼寺、重要文化財、正本は前期展示のみ)など。源平合戦で活躍した無骨な武士が阿弥陀如来の上品上生の来迎を予告し、往生していくさまが見えてくる。
 注目すべきは、国宝の「法然上人行状絵図」(京都知恩院)の一部が後期に展示されることだろう。私が訪れたのは前期展示期間だったが、「法然上人行状絵図」のうち、蓮生が来迎図を前に往生を遂げるシーンが大きなパネルで展示されていた。
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 後期には、この場面の実物が展示されるのだろう。
 埼玉の小さな博物館に、京都から国宝の「法然上人行状絵図」がやってくるのだ! これは直実の800年後の功績と言えるのではないか。浄土宗における熊谷直実の重要性がここに示されているように思える。
 なお、前期には、同じシーンを模写した江戸時代の「熊谷蓮生坊絵詞」(埼玉県立熊谷図書館、前期展示)が展示されている。国宝のパネル写真と比べるのも楽しい。

4) 浄土宗第三祖良忠と関東三派(藤田派、名越派、白旗派

 
 西川真理子学芸員が特に力を入れて解説していたのが、東国における知られざる浄土宗の広まりだった。「知られざる」と言うときのわずかな声のうわずりを私は聞き逃さなかった。
 浄土宗を開いた法然の弟子たちは複数の流派にわかれ、特に強い勢力となったのが浄土宗第二祖、弁長坊聖光(しょうこう)の鎮西派である。そして、聖光の弟子、記主禅師良忠(きしゅぜんじりょうちゅう)は、鎌倉光明寺を開山し、東国での布教に大きな影響力を持った。
 さらに、良忠の数多くの弟子のうち、寂恵良暁(りょうえりょうぎょう)、唱阿性心(しょうあしょうしん)、および尊観良弁(そんかんろうべん)は、それぞれが我らこそは良忠の教えを正しく継承していると主張しあうことで、東国に教線を広げていった。良暁の派閥が白旗派、性心が藤田派、良弁が名越派で、関東三派と呼ばれる。この辺りが「知られざる東国への浄土宗の広まり」ということらしい。
 本展では、良忠と関東三派にゆかりの作品が展示されている。
 藤田派の性心は現在の埼玉県寄居町出身。藤田派の作品として、福島会津高巌寺旧蔵の阿弥陀二十五菩薩来迎図(鎌倉、重要文化財)や埼玉県寄居町蓮光寺の當麻曼荼羅図(江戸)が出陳。
 名越派の良弁は信濃善光寺との結びつきが密で、名越派ゆかりの作品として、善光寺阿弥陀三尊像が三つ並んで展示されている。
 白旗派は良忠の実子である良暁を派祖とする。増上寺の観智国師(存応)が、江戸入りした徳川家康の信頼を得て、白旗派は力を強める。一方、京都では知恩院知恩寺の間に勢力争いがあったのだが、知恩院が家康の庇護を得て総本山の地位を不動のものとした。白旗派知恩院と、藤田派は知恩寺と結びつきがあったため、白旗派は勢いづき、藤田派は急速に勢力を弱める。幡随意や呑龍といった藤田派の僧侶が白旗派に転派し、藤田派は消滅してしまう。白旗派は現在の浄土宗鎮西流の主流派である。
 ちなみに、関東三派の名称は、各派が起こった地名に由来するそうだ。藤田は現在の埼玉県寄居町、名越と白旗は神奈川の地名。
 正直なところ、こうした流派の違いや展開は私には馴染みがなく、難しかった。上記内容に理解不足な点があると思うので、お許しいただければ…。西川学芸員のあの説明がなければ、ここまで書こうという気にならなかったと思う。勉強の機会をいただき、大変ありがたい。
 この関東三派のコーナーでは、春日部市・圓福寺の来迎阿弥陀三尊(これは仏像!)が美しかった。中尊のみ鎌倉で、両脇侍は江戸。観音は低く身をかがめ、勢至は合掌して立つ。このリズム感が素晴らしく、雲に乗って来迎するスピードも感じた。
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(↑写真は圓福寺のサイトより)
 圓福寺は子育て呑龍さまの生誕地に立つ。江戸時代の木造立体當麻曼荼羅や木造釈迦涅槃図があり、前から気になっていたお寺である。當麻曼荼羅を木彫で立体的に作ってしまったとは、どれだけ當麻曼荼羅が好きなのだろう! 私も當麻曼荼羅は大好きだが、とてつもなく當麻曼荼羅を愛した人々がいたのだろう。4月第1日曜日に公開と聞く。いつかお参りしたい。
 なお、圓福寺の大きな地獄図のコピーが博物館の入り口に展示されており、写真撮影できる。圓福寺さまでは、木彫當麻曼荼羅と同時に公開されるようだ。
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5) 新発見! 熊谷に快慶の阿弥陀如来立像か!?

 熊谷市が市史編纂のため、寺社で調査を行う中で発見された阿弥陀如来立像が、出展されている。快慶の特徴があるとして、新聞報道され、話題を集めるお像である。
 熊谷市・東善寺 阿弥陀如来立像
 木造 寄木造り 69cm

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(↑展覧会図録の写真より)
 

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東京新聞の記事より(左は熊谷市提供、右のCT写真は東京国立博物館提供)
 図録によると、小ぶりで引き締まった丸顔、小さく結んだ唇、左腕から垂れる衣文などに、快慶の特徴が認められるとのこと。
 快慶は三尺の阿弥陀如来立像を得意としたが、こちらは像高69cm。少し小さめである。奈良の快慶展で三尺阿弥陀立像が並び立ったのと比べてはいけないが、確かに小さい感じは否めない。藤田美術館の快慶の地蔵菩薩(58.9cm)も大きくないが、きらびやかなあちらの像に比べてしまうと、本像はだいぶくたびれている。来迎像に見られる身体の前傾もない。
 東京国立博物館でCTを撮ったところ、胎内に紙を巻いたようなものが見つかったそうだ。快慶の阿弥陀如来立像に時々見られるように、数多くの結縁者の名前を記した文書を胎内に納めた、いわゆる結縁合力の阿弥陀さまなのだろうか…。そうであってほしいと私は思ってしまった。勝手な個人的希望である。
 また、本像は、後補の部材はなく、釘等の金属も確認されなかったそうだ。つまり、 剥落や手の欠損などかなりの傷みはあるものの、後補のあとがなく、造立当時に近いお姿であると考えられるとのことだった。
 解体修理ができれば、胎内納入品の確認によって研究も進み、お像の面目もあらたになるだろう。 未来への希望を秘めた阿弥陀如来立像 なのだと感じた。


 以上、思ったより長文になってしまったが、本展覧会のレポートとする。

参考資料

「東国の地獄極楽」展図録(埼玉県立歴史と民俗の博物館、2019年)