ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【展覧会】真教と時衆-遊行寺宝物館と神奈川歴博

 目次

 時宗二祖上人七百年御遠忌記念「真教と時衆」展がとても楽しかったので、ご紹介したい。

1. 神奈川県の二か所で開催

 神奈川県藤沢市遊行寺の宝物館(第1会場)と横浜・神奈川県立歴史博物館(第2会場)の二か所で開催。国宝一遍聖絵や遊行上人縁起絵、個性的な上人像が楽しく、阿弥陀様のお像に癒される展覧会だった。どちらも11月10日まで。遊行寺会場は開館日が金土日月祝日のみなのでご注意を。
f:id:butsuzodiary:20191007092950g:plain ↑遊行寺会場
f:id:butsuzodiary:20191007093054j:plain ↑歴博会場

2. 京都の展覧会も良かったけど!

 時宗二祖他阿真教上人の御遠忌を記念した展覧会は、今年の春に京都国立博物館でも、「国宝一遍聖絵時宗の名宝」として開催されている。一遍聖絵はもちろん、遊行の道具や衣、上人像のほか、時宗寺院ゆかりの仏像があまりに興味深く、京都開催ながら東京から二回も行ってしまった。一遍聖絵一遍上人の信仰と布教の記録であると同時に、熊野や奈良の當麻など日本各地をめぐった紀行の記録でもある。これを円伊作の国宝の原本と後世の写しを並べることで、すべてを通しで見ることができた。さらに、関西の時宗寺院に伝わる9世紀の仏像や、この展示のための調査で行快の銘が見つかった阿弥陀三尊像(京都・聞名寺)など、仏像もかなりハイレベルだった。京都の展示は本当に楽しかった!

 しかし、京都の展示によだれを垂らす一方で、時宗の総本山は神奈川県の藤沢ではないか、という思いもあった。京都にいながら、心の片隅には藤沢の遊行寺があった。

 それゆえに、今回、時宗の名宝を遊行寺で拝見できることのありがたみを感じざるをえない。遊行寺宝物館は小さいし、開館日は限られているが、それでも遊行寺で開催することに大きな意味があると思う。

3. 神奈川の展示も負けてない!

 京博の規模に劣るものの、神奈川2会場の展示も決して負けてはいない。遊行寺など神奈川県内のほか、千葉や埼玉、静岡など関東周辺からの出展も多く、京都とはまた違った良さがあった! 阿弥陀如来像も並んでいた!!

4. お気に入りをご紹介!

 一遍聖絵や遊行上人縁起絵の展示が素晴らしい展覧会ではあるが、そちらの解説は仏画の専門家やブロガーさんにお任せするとして、ここでは、仏像を中心に、私のお気に入りをいくつかご紹介したい。

遊行寺宝物館】

遊1) 真教上人坐像(神奈川県小田原市蓮台寺 重文 87cm 1318年)

 京博の展示のとき、「おそらく病気をされた後なのか、お顔が歪んでいるが、お人柄が偲ばれる」という趣旨の解説が添えられており、仏友Mさんを感動させた尊像である。小田原市蓮台寺に伝わり、神奈川開催の本展のメインビジュアルとなった。左右歪んだ両目の奥から、優しさが伝わる。
 胎内墨書により、真教上人82歳の寿像であることがわかっており、同じく胎内に残る南無阿弥陀仏の文字は真教上人の自筆ではないかと指摘もあるとのこと。

遊2) 阿弥陀如来立像(77.5cm 13世紀 文化財未指定)

 遊行寺阿弥陀如来立像。初公開なのだそうだ! 穏やかで可愛いご尊顔。親指と人差し指で来迎印を結ぶ。ヒノキ材で、前後割り矧ぎし、内刳りを施してから、頭部と両足部を割りはなす構造。玉眼。細かく分かれた部材を固定するため、全身の表面に布貼りし、漆で固める。衣には金箔が残る。顔や胸や手足には金泥が施されていたと考えられる。
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遊3) 鉦鼓(千葉県松戸市本福寺

 1303年 松戸市文化財 青銅製 外径21.0cm 高5.0cm
 昭和35年本福寺の檀家の屋根裏から発見。口縁裏に、嘉元元年という年号と「本福寺開祖他阿弥陀佛」と刻印がある。この鉦鼓(しょうこ)は、本福寺が他阿すなわち真教上人の創建だったことの証拠(しょうこ)である。決してダジャレではない!
 鉦鼓を鳴らしながら念仏を唱える行は空也上人が始めたとされ、一遍の踊り念仏に引き継がれた。
 私も自分の鉦鼓がほしい。鉦鼓を打ち鳴らして、お念仏申したい!

【神奈川県立歴史博物館】

歴博1) 神奈川県鎌倉市・教恩寺 阿弥陀三尊立像

 (中尊98.8 左脇侍70.8 右脇侍70.3 13世紀 県指定文化財
 前に鎌倉国宝館と金沢文庫でお会いしているが、その時より美しく見えるのはなぜだろう。
 私が注目したのは、阿弥陀様の胸元の衣がU字型に開いて、左右にたるみのないこと。快慶さんの無位時代の特徴だ。そして、観音勢至の膝のかがめ方や前傾加減がおとなしめなこと。つまりは、来迎像として、比較的早めの時期の造像ではないかと...。
 阿弥陀様の若々しくお優しいご尊顔。観音勢至両菩薩の膝にかかるリボンのような結び目。細身で繊細な立ち姿。もう、もう、大好きです!
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歴博2) 神奈川鎌倉市材木座・来迎寺 阿弥陀三尊立像

 (中尊66.0 左脇侍40.0 右脇侍38.0 13世紀 鎌倉市文化財
 材木座の来迎寺のご本尊様。お堂の外から双眼鏡で覗き込み、うっとりしたことがある。今回間近で拝すると、金泥に截金が美しかった! そして、観音勢至菩薩の激しい前傾姿勢。腰の衣が風に翻る。腰下の衣、くんが長目で、蓮台にかかることも特徴なのだとか。法衣垂下の坐像が流行ったので、その影響なのかもしれないが、立像では珍しいとこと。
 ちなみに、鎌倉の西御門にも来迎寺があることは仏像ファンの間では有名だが、どちらの来迎寺も時宗寺院であることは今回初めて知った。
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歴博3) 神奈川県小田原市蓮台寺 阿弥陀三尊立像

 (中尊97.2 左脇侍60.5 右脇侍60.5 1239年 文化財未指定)
 修理後、寺外初公開。図録に掲載の写真とはまったく違う。おそらく修理前の写真のようだ。図録写真ではお顔や胸のなどに金箔が残るが、展覧会場の三尊は真っ黒く光っていた。金箔を剥がして、黒く塗ったのだろう。
 冒頭の写真の真教上人坐像はこの蓮台寺の所蔵。

歴博4) 静岡県沼津市・西光寺 阿弥陀三尊立像

 (中尊78.9 左脇侍49.8 右脇侍52.0 13世紀 沼津市文化財
 西光寺本堂の須弥壇にまつられるご本尊様。左胸前の渦文はこの時代としては珍しい。割り矧ぎ、内刳りして、玉眼嵌入。金泥塗りの上に、胡粉で盛り上げた紋様が美しい。時宗寺院に伝わる鎌倉後期から南北朝阿弥陀如来像には、このような表面仕上げがまま見られる。
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歴博5) 京都・金蓮寺 阿弥陀如来立像

 (78.6cm 13世紀 文化財未指定)
 割り矧ぎして玉眼嵌入。左胸前、膝下、袖下方の各部に渦文。行快の滋賀・阿弥陀寺阿弥陀如来立像等に類似する。写真、鉛筆で矢印つけたところ(左胸と膝下)に、小さなかわいい渦文見えるだろうか。なお、滋賀の阿弥陀寺の行快の阿弥陀如来立像は京博の時宗展にお出ましだったが、さすがに神奈川では展示なし。
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持蓮華がほしい

 遊行寺歴博の両会場で展示されていた持蓮華(じれんげ)というものが大変気になった。
 持蓮華とは、真教上人が別字念仏の時に手にしたという、木造の未敷蓮華である。花開く前の蓮華の花のつぼみだ。上述の真教上人像も、これを手にしている。観音様が手にするのはよく見るが、法要の仏具として使用するのは、時宗独特なのだそう。
 私も持蓮華が欲しい! そして、しつこいようだが、鉦鼓もほしい。

十二光筥に感動

 その他、歴博会場では、十二光筥や阿弥衣など、京博で観て感動した遊行の道具も、一部同じものが展示されていた。 十二光筥 は遊行上人が所持を許された身の回りの十二の持ち物を運ぶ箱である。箱の上は黒と白と赤が塗られていて、中央の白で二河白道を表すのだそうだ。
 持ち物が十二のみとは。こういうシンプルな生き方に憧れる自分がいる。仏像の図録で溢れかえる我が部屋を振り返り、自分にはない潔さを感じるのかもしれない。十二光筥を欲しがる前に、まずはせめて、もっと自分の部屋を片付けよう。

5.「時衆」と「時宗」はどう違うのか

 展覧会を夢中で見るうち、ふと気になったことがあった。京博の展覧会とは違って、神奈川では「時宗」ではなく、「時衆」という言葉が多様されている点である。この二つの言葉の違いについては、以下の時宗のサイトが分かりやすいので、そのまま引用したい。展覧会図録にも同じような説明があった。

時衆と時宗
 一遍上人も真教上人も教団に所属している僧尼を「時衆」と呼んでいます。この言葉は唐の善導大師の著書『観無量寿経疏』に記される「十四行偈」の一節「道俗時衆等 各発無上心(どうぞくじしゅうとう かくほつむじょうしん)」に由来します。
 一日24時間を4時間ごとに分割した勤行(六時礼讃)や不断念仏などの法要を一定期間行う時には、時間で僧尼を交代させる必要があり、交代要員の人数と時間は定められていました。その法要の次第書を「結番(けちばん)」あるいは「番帳」といい、その要員が時衆です。
 「時衆」は本来個々の僧尼を示す言葉ですが、他教団が使わなくなり、一遍上人の時衆だけが使用するようになって、教団の名称として通用するようになりました。
 江戸時代に入ると「衆」が「宗」に代わり、「時宗」が宗派の名として確定されます。そのため、一遍上人を祖とする僧尼衆を表すときに、江戸時代より前の場合は「時衆」、江戸時代以降は「時宗」と呼びます

時衆と時宗 - 時宗総本山 遊行寺

6. スケールが大きい!

 決して詳しい訳ではないが、鎌倉新興仏教の中でも、時宗は特におもしろいのではないかと思う。
 念仏札を配る活動(賦算)を始めた一遍上人は、ある時、信心がないという理由で札の受け取りを断られてしまう。一遍がこの先も賦算を続けるべきか悩んでいると、熊野権現が現れて、賦算を続けなさいと諭された。この神勅を受けたが時宗の始まりとされる。このエピソードがとても不思議で、おもしろいと思う。熊野権現阿弥陀様の化身なのだという。
 一遍上人は奈良の當麻寺で中将姫の写した称賛浄土教を譲り受けたり、長野跡部で踊り念仏を始めたりするのだが、その一部始終が一遍聖絵に残されていることが、さらにおもしろい。
 各地を歩き通した一遍の死後、各地に道場を作り、教団として組織をまとめたのが真教上人。カリスマ性ある開祖と組織力のある二祖。その組み合わせ自体も奇跡なのかもしれない。

【参考資料】
「真教と時衆」展図録

【写真】
仏像と鉦鼓の写真はすべて図録より。冒頭の遊行寺宝物館のチラシは同館のサイトより。神奈川県博の入り口写真は筆者撮影。