国清寺毘沙門堂(伊豆の国市奈古谷/臨済宗円覚寺派)
2025/9/14
毘沙門天さま50年に一度のご開帳
- はじめに: 奈古谷の国清寺とは
- 「およげ!たいやきくん」以来のご開帳に行かねば!
- さて、たどり着けるのか!?
- 胸アツ仁王門!
- ご縁をつなぐ毘沙門天さま
- ついに秘仏毘沙門天さまを拝む!
- 仏殿の釈迦如来坐像
- 最後に 50年後はシャトルバスで(笑)
- 【拝観案内】
- 【参考資料】
はじめに: 奈古谷の国清寺とは
運慶仏で有名な願成就院のある旧韮山町(現在の伊豆の国市)に、国清寺はある。仏殿の釈迦如来坐像は鎌倉時代の凛々しいお像で、市の指定文化財。仁王門の金剛力士像は鎌倉時代で県指定。そして、数えきれないほどたくさんの仏像の破片・欠片が残る。それらの一部を上原美術館でご覧になった方も多いのでは。
これほどの古仏がおられるのに、あまり知名度は高くない。寺名の読み方も資料によって「コクセイジ」と「コクショウジ」があり、難しい。
そんな国清寺で、毘沙門堂の本尊秘仏毘沙門天さまが50年ぶりにご開帳されるという。釈迦如来像の修復を手がけられた牧野先生から教えていただき、お参りしてきた。
伺ってみるとなんと、たくさんの人の集まるご開帳だった。知名度が低いなんて、私の思い込みに過ぎなかったようだ! 50年ぶりのご開帳の賑わいと楽しさをここに記したい。

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「およげ!たいやきくん」以来のご開帳に行かねば!
牧野先生の著書を読んで国清寺をお参りしたのが7年前。仏殿から文覚上人ゆかりの山道を登った仁王門の先に毘沙門堂があるのは知っていたが、その堂内に上げていただくのは、今回が初めて。
50年ぶり、令和7年(2025)のご開帳は、9/14(日)の一日のみ。一般に、秘仏は、7年や33年に一度など、開扉の周期が決まっていることが多い。それでも、実際には、晋山式や堂宇の改修、展覧会への出展などで、特別に拝観できる機会もなくはない。しかし、この伊豆の国市奈古谷の毘沙門天さまは、前回のご開帳が昭和50年(1975)だったというから、かなり”ガチでマジな”秘仏ということになる。
1975年といえば、年末に名曲「およげ! たいやきくん」が発売された年である。令和のよい子たちは知らないかもしれないが、店のおじさんと喧嘩して海に飛び込む「たいやきくん」は昭和のよい子たちのヒーローだった。子門真人の歌声は優しさと悲哀に満ち、その髪型はなぜかモジャモジャだった。このレコードジャケットを一目見れば、50年という時の長さを実感していただけるのではないか。「だんご三兄弟」(1999年)でもだいぶ前なのに、こちとら「たいやきくん」である。気が遠くなるほどの時を経て、やっと毘沙門天さまはご開帳されのである! (だんご三兄弟のヒットを機に「中開帳」とはならなかったらしいw ←当たり前か^^)

そう、これはもう、行かなければならない。そもそも牧野先生に教えていただいたご開帳なのだから、行かない選択肢はない。海に飛び込んだ「たいやきくん」のように、自由に泳いで、伊豆へ参上せねばらない!
さて、たどり着けるのか!?

さて、ご開帳当日、私は朝早くに、勢いよく自宅を飛び出した。友人の運転する車に乗せていただき、朝9時前に国清寺観音堂の前に到着。毘沙門堂はここから2キロほど山道を登った中腹にある。山道とはいっても、舗装された道で、歩きやすいことは知っている。だが、この日は毘沙門堂の近くの臨時駐車場まで車で行き、そこから歩くつもりだった。
が、ここで問題発生。観音堂前にて、トランシーバーを握りしめた交通案内員の方2名に行手を阻まれたのである。毘沙門堂までの山道は車が行き交うことができない。「もうすぐ上から車が一台降りてくるので、それまであと2-3分待ってほしい」とのこと。トランシーバーで上の係の方と連絡を取りあっておられるようだ。朝からお疲れ様です、という気持ちで、とりあえず車内で待った…。そして、待った…。そして…、さらに、待った…。
10分間が静かに経過したところで、案内員の方が、「あのー、上の駐車場がもう満杯なんで。そっちの駐車場に停めて、そこからシャトルバスに乗ってください」と。ががーん。折しも、ワゴン車1台とセダンのタクシー1台が山上から降りてきた。どうやらこの2台が”シャトルバス”らしい。そして、指定された「そっちの駐車場」(仏殿前の公民館そば)に行くと、もうすでにシャトルバスを待つ人の列ができていた…。これでは乗車できるまでに30分ほどかかりそうだ…。
とういわけで、はからずも毘沙門堂の手前2キロの地点で出遅れてしまった!
なにせ50年に一度のご開帳である。多少の問題の発生は想定しなければ。むしろ、それを喜んで受け入れるのが、参拝者としての正しい作法である。
だが、しかし。私には、国清寺の次に、別のお寺様で拝観のお約束があった。できれば遅滞なく毘沙門堂まで到達したい….。しかも、事前情報によると、10時30分から法要があり、一時的に拝観できなくなってしまうという…。その前にたどり着かなければならない!
そういうわけで、シャトルバスを待つより歩いた方が早いだろうと判断。蒸し暑い中、山道を歩き始めた。初めて海に泳ぎ出した「たいやきくん」のように、一歩を踏み出したのである。「たいやきくん」は「♪おなかのあんこは重いけど」と歌ったが、拙者はお腹の贅肉が重い(苦笑)。でも、秘仏毘沙門天さまにお会いするため、先に進まなければ!
前に来た時は、誰ともすれ違わなかった静かな坂道。今日は友人と一緒がありがたく、心強い。そして、朝早いというのに、多くの参拝者の方々もどんどん坂を登っていくから驚いた。家族連れも多く、まさに老若男女が次々と集まってくる。道沿いには、御仏のお姿や種字が刻まれた巨石が並ぶ。韮山の古来からの信仰が偲ばれる。
胸アツ仁王門!

毘沙門堂に至る石段の途中に仁王門がある。その門いっぱいに金剛力士像が立つ。この仁王さまに再会できて、やっと少しほっとした。ここから毘沙門堂まではもうすぐだ。
仁王像は両目が飛び出し、元気いっぱい。屈強ながら、威圧感がなく、私のような粗忽者も両手で迎えてくださるような温かみがある。鎌倉時代、永慶3年(1310)の銘があるという。阿形206.4cm、吽形204.8cm。県指定文化財。
先月お参りした、信濃の仏師妙海による仁王さま(長野県松本市波田)を思い出した。こちらも頑強な憤怒のお姿であるのに、不思議とぬくもりがある。友達になりたくなるような優しさがある。妙海の仁王さまは元亨2年(1322)の銘があり、国清寺毘沙門堂の仁王さまと制作年代は近い。地域は異なるものの、同じ時代の雰囲気というのがあるのだろうか。多分関係ないだろう(苦笑)。詳しいことはわからなくても、このように、あれこれ想いを馳せる瞬間は幸せだ。
ここ奈古谷の仁王門では、天井近くにスプリンクラーが付いていることを付記しておきたい。悪から衆生を護る仁王さまと、その仁王さまを火災から守ろうする衆生。その関係性が胸アツなのである。全国に数ある仁王門の中でも、特に印象に残る、大好きな空間である!
この仁王さまはかつて、東京藝大で修復を受けている。当時藝大生だった牧野先生が仏像修復の道に進むきっかけとなったお像であり、その辺りの経緯は、先生の著書『仏像再興〜仏像修復をめぐる日々〜』につづられる。まだお読みでない方はぜひぜひお読みいただきたい。
ご縁をつなぐ毘沙門天さま
仁王門からさらに石段を上り、ようやく毘沙門堂にたどり着いた! 毘沙門堂の前はお参りの人たちであふれていた!
50年ぶりのご開帳であるのに、いや、50年ぶりだからこそ、このように参拝者を呼び寄せるだろうか。毘沙門堂の歴史は古く、9世紀、東海の巨刹「安養浄土院」(別名 奈古谷寺)が起源とされる。古代山岳密教系の寺院がこの地にあったと考えられている。ご本尊の秘仏毘沙門天像は寺伝では、平安時代、天台の僧、慈覚大師円仁の作。この地に配流された源頼朝に文覚上人が源氏再興を進言した土地とされる。大願成就を成し得た源頼朝が瑞夢をえて、文覚上人に多聞堂(=毘沙門堂)建立を命じたとも伝わる。800年余りのち、令和に入ると、今回のご開帳に向けてクラウドファンディングで資金を集め、お堂の整備をしたそうだ。
つまりは、平安から令和にかけて、御仏(みほとけ)と衆生とのご縁が続いているのである。ご開帳の参拝者が続々とやってくるのを見ると、ご縁が今まさに繋がっていく、その現場に立ち会えたように感じた。地域の信仰。それは大きな力であり、外野の私にはとても眩しく、羨ましい。仏像愛好家のお友達も多数、遠方から来られていた。たくさんの人が集まり、過去から現在、未来へとつながるご縁。その中心に毘沙門天さまがおられるのである!
ついに秘仏毘沙門天さまを拝む!

さて、毘沙門堂につくと、そこはもうたくさんの人! まずはお堂の前で受付を済ませる。ご開帳の柱に触れて、今回のご結縁に感謝を申し上げると、早速、堂内へ上がらせていただいた!
毘沙門天さまは、堂内奥の中央に立っておられた!
ついに、ついに、毘沙門天さまにお会いできたー!


素人(私)の目視では、像高は130cmぐらい? 50年ぶりに光を浴びられ、いささか眩しそう…? お像の動きは穏やかななのだが、今にもお厨子を飛び出して、闘いに向かわれそうな臨場感もあった。長年にわたり毘沙門天さまに蓄えられた何かが、50年ぶりのご開帳で一気に放出されたのだろうか!?
彫り口は浅めだが、腰回りなど体部に厚みがある。噂通り、平安に遡る古像かな…? いや、鎌倉? 地方の作? 後補の部分も多い感じで、素人には諸々判断しがたい難しいお像でもあった。この「???」を解消したいので、ぜひ専門家の調査をお願いしたい!
思えば、1週間前にも、鎌倉市今泉の白山神社で、年に一度だけお姿を拝める秘仏の毘沙門天立像にお会いしたばかり。言い伝えでは、行基の作で、源頼朝が京都の鞍馬寺で譲り受けたものだという。だが、実際には、平安後期から鎌倉の地方作という感じだった。頼朝や北条氏のゆかりの二つの土地で、ひょっとすると同じ頃に毘沙門天立像が制作されたのだろうか....? 二つの像の関連性はわからない。だが、わからないことが多い分、興味もそそられるのである。
仏殿の釈迦如来坐像
毘沙門堂を出たあと、麓にある仏殿へ向かった。帰りこそシャトルバスをと思ったが、またしても人が並んでいて長時間待たされそうだったので、下りも歩くことにした。そのおかげで、帰り道でもまた、仏友さんと出くわした。さりげない会話がうれしい。こういうことがあるから、ご開帳は本当に楽しい。
帰り道は気持ちに余裕もあったせいか、あっという間に下山。無事に仏殿に到着した。


大きな仏殿の中央に、釈迦如来さまが正面を向いて坐しておられる。像高84.0cm。桧材による割り矧ぎ造り。この釈迦如来坐像は、後世の修理で別の部材を付け足されて太っちょになり、しかも、緑色になっていたのだが、平成に入って牧野先生が修復。当初部分だけに戻し、不足部分を新たに新調して付け足すことで、鎌倉仏の凛々しさが蘇った。その経緯も上記著書に詳しく書かれているので、ぜひお読みいただきたい。修理前や修理途中のカラー写真も豊富で、臨場感があり、手に汗握るレポートとなっている。
この日、なんとも幸運なことに、仏殿で牧野先生にお会いできた。ご自身が修復された釈迦如来坐像を見上げる牧野先生の瞳は美しすぎて、言葉で表しきれないほどだ。
仏像は過去と現在と未来をつなぎ、みほとけと衆生とをつなぐ、尊い存在だと私は思う。だからこそ、仏像修復の仕事は貴重だし、もっと注目され、敬意を払われるべきだと思う。
最後に 50年後はシャトルバスで(笑)
最後に、繰り返しになるが、奈古谷の毘沙門天さまについて、専門家の調査が行われますように。これからも末長く信仰が続きますように。令和7年の私はそう祈るのみ。
次のご開帳も50年後なのだろうか。その時、どんな世の中になっているのだろう。たいやきくん、だんご三兄弟に匹敵するヒット曲は生まれているのだろうか。私は100歳超えてヨボヨボなはずなので、今度こそシャトルバスに乗りたい! (^o^)/
【参考資料】
・牧野隆夫『仏像再興 仏像修復をめぐる日々』山と渓谷社2016年
・牧野隆夫『伊豆の仏像 修復記 ‐人と自然に護られた 仏と関わる日々‐』静岡学術出版2018年
・円覚寺横田南嶺管長が紹介する国清寺と毘沙門堂
伊豆の古刹 | 臨済宗大本山 円覚寺
【おまけ】
およげ!たいやきくん
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