
善光寺住妙海と名乗る仏師
仏師妙海をご存知だろうか。鎌倉時代の終わり頃、彗星のように突如として信濃に現れ、40代という若さで亡くなったかもしれない、伝説の仏師である…。(←プロジェクトX の感じで書き始めてみるw)
長野県麻績村、福満寺の日光・月光菩薩立像は、1332年、善光寺住妙海と名乗る仏師の40代にして最後の作。妙海は長野県内に5件、9躯の仏像を残し、そのすべてに仏師名と制作年度が記される(注1)。
文保元 |
1317 |
日光・月光菩薩立像 |
光久寺(安曇野市) |
県宝 |
元享2 |
1322 |
金剛力士像 |
上波田地区仁王門(松本市) |
県宝 |
元享3 |
1323 |
十一面観音菩薩立像 |
上島区(辰野町) |
重文 |
元享3 |
1323 |
日光・月光菩薩立像 |
光輪寺(朝日村) |
県宝 |
元徳4 正慶元 |
1332 |
日光・月光菩薩立像 |
福満寺(麻績村) |
重文 |
上記のように、全9躯のうち、日光月光菩薩立像が3組を占める。どれも三尺ほどの素地仕上げ。高い髻に、左右の眉がつながる、いわゆる、連眉が特徴。
仏師が老いると仏像も老いる?
恥ずかしながら告白すると、私は、安曇野の光久寺の日光菩薩・月光菩薩像がとにかく愛らしくて、大好きなのである。仏像なのに、こんなにかわいらしくていいのーー(♡♡)と叫びたくなる。それほどに愛らしい。若かりし日の妙海さんが、あふれでる若さを存分に注ぎ込んで彫り上げたに違いない。お像に若々しさが満ちている。

一方、今回拝観したこちら福満寺の日光月光さまは、記録に残る限り、妙海の最後の作。最後と言っても、その時の妙海はまだ40代で、そんなにお爺さんではない。(注3)


しかし、福満寺のお像は、15年前の光久寺のそれと比べると、明らかに静かで、落ち着いている。はっちゃけたような元気さも、ほとばしるような若さもない。仏師が歳をとるにつれて、仏像も歳をとるーーー。そんなこともあるのだろう。よくみると、光久寺像のような見事な毛彫もない。
かといって、福満寺のお像が劣るわけでは決してない。福満寺の菩薩像は、元気と若さでは光久寺に及ばないが、その巧みな彫技が確かに残っている。いや、むしろ円熟みを増して、慈悲深く、独特の魅力を放っている。
正直なところ、私は光久寺の妙海仏への想いが強いがために、福満寺に着くまでは、福満寺の妙海仏に失望してしまったらどうしよう…という気持ちが、わずかながらあった。期待200%、不安2%という感じだった(動揺が激しすぎて、百分率がおかしい…w)。尊敬する武笠先生も、光久寺の日光月光菩薩像や波田の仁王像のような愛くるしさこそ、妙海の本領発揮だというようなことを書かれている(注2)。
しかし、福満寺さまで、妙海仏に拝顔した瞬間、そんな不安は一気に消え去った。さっきまで光久寺のお像がかわいくて、かわいくて最高、と思っていた私が、福満寺のお堂に入った瞬間、ああーー、この妙海の菩薩像も、とんでもなく素敵ではないかーーー(!!!)と思ってしまった。うれしさ500%!(百分率の勉強やりなおそう...w)
つまりは、宋風な表現に落ち着きと気品がプラスされた、妙海さまの技に、私は感嘆したのだった!! 妙海さま、あなたの仏像に私は夢中です!

虎屋といえば羊羹、妙海といえば日光・月光菩薩!
福満寺の日光・月光菩薩像は、福満寺の薬師如来坐像に比して小さめなため、千手観音菩薩坐像(現在、客殿安置)の両脇侍として造立されたのではないか、という説があるのだそうだ。
しかし、それについては、私は首を傾げざるをえない。以下、妙海ファンの妄想も混じってくるが、聞いてほしい。
前述のように、妙海による仏像9躯のうち6躯が日光・月光菩薩の立像なのである。妙海が薬師如来信仰と関わりがあったと考えてもよいのではないか?
ちなみに、福王寺(長野県佐久市)の菩薩像の一体は妙海だった可能性が指摘される。平安後期の地方作とされる阿弥陀如来(大好きな阿弥陀さま)の脇侍として、後から造立されたのだとされるが、それもなぜか「伝月光菩薩」である(お寺では、正面右側に安置されていてわかりにくかったが、こちらが伝月光菩薩らしい。しかも、頭部などに後の補修が入っていて、妙海仏とはわかりにくい。が、衣の薄いヒラヒラに妙海が垣間見える)。とにかく、虎屋と言えば羊羹、妙海といえば薬師如来の両脇侍、日光・月光菩薩なのだ(たぶん)
なにより、福満寺の薬師如来は平安後期に遡る古像だ。それにふさわしい脇侍像の造立にあたり、薬師信仰と関わりがあって腕も確かな妙海が抜擢されたのではないか。
また、銘の残る妙海の日光・月光菩薩立像3組がどれも三尺であることを考えると、福満寺像だけ薬師以外の脇侍だったとは考えにくくはないか…?
さらに、あえて妙海ファンの妄想を進めて吐露すると、おそらく病気で身体が弱った妙海が、体力の衰えをそれまでの彫技で補いつつ、制作したのではないだろうか。細かい毛彫がなされなかったのも、身体がしんどかったためではなかったか。しかし、自身の体調のつらさがあったからこそ、この深い慈悲に満ちた表情を木に写し出せたのではないだろうか。その根底に、薬師信仰があったに違いない…。弱っているからこそ、深い信心でなしうるものがきっとある。その一例が福満寺のこの菩薩像ではないか。
長々と書いてしまった。まだ、言いたいことや疑問はあるが、書き出すとと取り留めなくなくなりそうだ…。
そこで、結論。
若々しくて愛らしい光久寺像が大好き! そして、福満寺の円熟した菩薩像も大好き! どちらも良さがあって、本当に大好き!
日本の仏像史上に燦然と輝く仏師妙海さまを今後もお慕いしていくことをここに誓う! (プロジェクトX風に始まった本稿だが、なぜか選手宣誓で閉めることに…笑)
まだ拝観できていない妙海の仏像は長野県朝日村の日光・月光菩薩立像のみとなった! 拝観できるのだろうか!?
【拝観案内】
・仏像の宝庫
福満寺は仏像の宝庫で、収蔵庫には平安後期の薬師如来坐像を中心に、たくさんの仏像が安置される。妙海さまで興奮してしまって、ここでは書けなかったが、平安仏がこれまた素晴らしい。薬師如来坐像の他にも、千手観音の脇侍である不動明王立像と毘沙門天立像が平安後期、四天王のうち3躯が平安で1躯が鎌倉仏。拝観時間をたっぷり取って予定を組まれるのがよろしいかと。
なお、客殿の千手観音菩薩坐像は5月3日の祭礼の際に拝観できると伺った。平安時代の作だが、後補部分が多いとかで、村指定文化財だという。
薬師如来坐像 平安後期 147.0cm 桂 寄木造り 重文
日光菩薩立像 鎌倉時代 妙海 114.7cm 重文
月光菩薩立像 鎌倉時代 妙海 115.5cm 重文
不動明王立像 平安後期 159.5cm 桧 寄木造り 重文
毘沙門天立像 平安後期 169.0cm 桧 寄木造り 重文
四天王立像 平安3体、鎌倉1体 村指定
賓頭盧尊者坐像 村指定
十二神将
仁王像 村指定
千手観音菩薩坐像 平安後期 106.5cm 村指定(客殿秘仏で5月3日に公開)
【注と写真】
注1) 妙海の製作年度の表は、伊藤羊子「仏師 善光寺妙海はなぜ注目されるのか」『めくるめく信州仏像巡礼』の表を少しだけアレンジした。
注2) 詳しくは武笠朗「妙海」『鎌倉時代仏師列伝』(吉川弘文館)をぜひぜひお読みください。私はこの武笠先生の章を読んで以来、武笠先生のファン。
注3) 麻績村の文化財サイトには妙海48歳の作とあるが、本稿ではあえて「40代」とした。理由はお像の銘記によって微妙に妙海の年齢が異なるから。光久寺像に文保元年(1317)34歳とある一方で、波田と辰野町の像には元享3年(1323)34歳と記載される。まさか永遠の34歳のなのか(笑)。光久寺像が正しければ、1284年生まれとなり福満寺像は48歳の作となる。しかし、波田と辰野の銘記が正しければ、1290年生まれとなり、福満寺像は43歳の作となる。詳しくは、上記注2)に記載の武笠先生の章をご参照ください
【参考文献】
・『めくるめく信州仏像巡礼』 武笠朗 (監修) 長野県信濃美術館 (編集) 2015年
・『鎌倉時代仏師列伝』山本 勉 (著), 武笠 朗 (著) 吉川弘文館 2023年
・『善光寺御開帳記念"いのり”のかたち 善光寺信仰展 』長野県信濃美術館2009年特別展図録
・麻績村文化財サイト 彫刻|麻績村
・まるきょう氏 信州の福満寺(善光寺妙海仏を訪ねて) - 和顔愛語 古寺と古仏を訪ねて (仏像への接し方も写真も素敵だわぁと思ったら、お友達のブログだった!)
・ソゾタケ氏 光久寺(長野県安曇野市)—妙海による最初期の日光・月光菩薩像 – 祇是未在 (写真が最高)
・拙稿 【信濃仏】光久寺(安曇野市)若き妙海の日光月光菩薩像はかわいらしい双子のようだった! - ぶつぞうな日々 part III
・拙稿 【信濃仏】福王寺(佐久市)の力強い阿弥陀さまと雨ごい邪鬼の毘沙門天さま - ぶつぞうな日々 part III