ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【茨城】平安末の阿弥陀如来像は"義侠"により修復され、令和の今も神々しく優しくひっそりと立たれる(水戸市吉沼町)

吉沼観音堂茨城県水戸市
阿弥陀如来立像
像高97.5cm 12世紀 市指定


阿弥陀如来立像は水戸市吉沼の小さなお堂の客仏

うれしい出会い

平安末期の如来立像が好きだ。丸顔で、全身の力を抜き、穏やかに立つ御姿に惹かれる。しかし、作例はさほど多くないように感じる。関東であれば、行元寺の阿弥陀如来立像(千葉県いすみ市)、天徳寺の薬師如来立像(神奈川県秦野市)、医王寺の薬師如来立像(神奈川県横浜市)ぐらいしか思いつかない。鎌倉時代に入ると三尺の阿弥陀立像が増えてくるが、その直前の時代の雰囲気をもった立像にはなかなかお目にかかれない。

 そんななか(どんななか?)、オフ会で出かけた茨城県で、同時代の雰囲気をもつ稀有な如来立像に出会ってしまった!

 場所は水戸市吉沼町にある小さな観音堂。お堂の中央には、平成に入って再興された本尊千手観音立像を安置。

 阿弥陀如来立像は、その観音像の斜め後ろ、シンプルなケースの中に、ひっそりとまつられていた。ひっそりとと言うか、隠れるようにと言っがほうがよいかもしれない。まったく目立っていない。"シンプルなケース"と書いたものは、本当は厨子と呼ぶべきなのかもしれないが、あまりに素朴な造りだったので、そのような表現となってしまった。しかも、そのケースは正面がガラス張りになっているため、堂内の照明の反射がきつく、ぱっと見る限りでは尊像の全容が見えにくい。しかし、目を凝らしてみると、まさに私が魅了される穏やかな如来立像の御姿が浮かび上がってきた!!

肩の力を抜いた穏やかな立ち姿

神々しくて、でも、親しみやすい、そんな優しさに満ちて

 水戸市文化財サイトによると、像高97.5㎝で、彫眼、漆箔。丸顔で穏やかな面相、粒の細かい螺髪、浅くおとなしい衣文などから、平安時代末期、12世紀末の制作と考えられる。檜材の頭部と体部を前後二材矧ぎつけ、割首とする。水戸市指定文化財

 お身体前面のひび割れなど痛々しい点もあるが、適切な保存修理を施せば、見違えるようになるだろう。造立当時の御姿を想像し、胸を熱くした。神々しさに親しみやすさを掛け合わせたような、そんな優しさに満ちていたのではないだろうか!

明治の暴風被害から”義侠”により修復

 優しい微笑みをたたえるこの阿弥陀如来像は、実は大変なご苦労をされている。もともと近くの吉沼阿弥陀院にまつられていたのだが、明治35年(1902)8月、暴風によりお堂が倒壊。阿弥陀像も大破してしまったのだ。

 なすすべもなく月日は過ぎ、人々に焦りが募るなか、水戸出身の彫刻家の後藤清一(1893-1984年)が「義侠的に」修復を申し出る。「阿弥陀尊の霊を慰めよう」と。一年かけて修復は完了。「破損個所は悉く補修」された。

 しかし、阿弥陀院の堂宇の復興は叶わず、大正15年(1926)8月15日(旧暦7月10日縁日)、一時的に観音堂に奉安することになったのだという。後藤清一、この時33歳。

 堂内に大正15年の文書『弥陀像修理奉安記』(以下に写真あり)が額装で掲げられており、上記の事情が記されていた。原文を改めて読み直すと、特に胸を打つのが次の一節である。「特志彫刻家後藤清一君之ヲ慨シ霊像ノ為メニ義侠的ニ之ヲ修理シ阿弥陀尊ノ霊ヲ慰セント請ハル」。破損した阿弥陀如来像を目にした若き彫刻家のいてもたってもいられない気持ちが伝わってくる。そして、後藤の申し出を「義侠的」と称するところに時代が垣間見え、興味深い。今時使わない言葉なので、辞書を引いてみる」と、「義侠=正義を重んじて、強い者をくじき、弱い者を助けること。おとこだて。 [類語]男気・侠気・任侠・一本気・きっぷ」(デジタル大辞泉)とあった。「おとこだて」とか「男気」とか、ジェンダーフリーの現代では使わない言葉がオンパレードで出てきて、頭がふらふらする(笑)。が、ともあれ、後藤に対する尊敬と感謝は大きく伝わる。この場合の”義侠”を今の言葉に翻訳をすると、「修理できずに困っている尊像を心ある彫刻家が慈しみの心で修理してくださるなんて! かっこいいです、後藤くん! 心から感謝です!!」という感じになるのだろうか。修理費用について言及はないが、文面から拝察する限り、ほぼほぼボランティアだったのではないだろうか。この文書自体が、ことの経緯を記しつつ、後藤への感謝状となっている点に注目したい。

 また、文中の「阿弥彌院ノ堂宇ハ之ヲ復スルヲ得ズ・・・一時観音堂ニ奉安」という言葉が私の胸を締め付ける。阿弥陀院のお堂は令和の今も復興されておらず、阿弥陀如来像は今も、こんな風に観音堂に安置されたままだからだ。

 しかし、そんな逆境のなかであっても、この阿弥陀如来像は令和の今まで伝えられてきた。その事実が私の胸を熱くする。ひっそりと立ち続ける阿弥陀様に静かに手を合わせたい。阿弥陀様のお像をこれまで伝えてこられた人々の行動と祈りに、心からの敬意を捧げたい。

堂内に掲げられた阿弥陀像修復の経緯が泣ける

【拝観案内】
吉沼観音堂
中世、この地には、水戸十寺の一つ、光明院観音院があったが、水戸光圀公の時代に廃寺に。その跡地に川崎(※水戸市内の古い地名だろうか)から観音寺が移されるも、幕末に火災で焼失し、仮堂のまま現在に至る。現在は無住で、地域の方々が管理されている。現本尊は千手観音菩薩立像で、平成に入って開眼。本稿記載の阿弥陀如来立像は客仏で、近くの阿弥陀院から大正15年に遷座した。(無住のお堂なので、住所等の連絡先はあえて省略)

【参考文献】
水戸市文化財サイト 木造阿弥陀如来立像(吉沼観音堂)
水戸商工会議所「吉沼観音寺跡
・『開館三十周年記念特別展I 茨城の仏教遺宝ーみほとけの情景とまなざしー』編集・発行 茨城県立歴史館 2004年10月
(※ちなみに、この本の序文「茨城仏像彫刻の流れ」を書かれた後藤道雄氏は、"義侠"をもって阿弥陀像を修復された後藤清一氏のご子息)
【参照】
本稿冒頭で言及した平安後期の如来立像については、(もしとんでもなくお暇でしたら)以下の拙文をご参照ください。
・行元寺阿弥陀如来立像(千葉県いすみ市
butsuzodiary.hateblo.jp

・天徳寺薬師如来立像(神奈川県秦野市
butsuzodiary.hateblo.jp

・旧医王寺薬師如来立像(神奈川県横浜市青葉区
※写真は『特別展 横浜の仏像ーしられざるみほとけたちー』横浜市立歴史博物館2021年より。
※医王寺薬師堂は12年に一度、寅年にご開帳される武相寅歳薬師如来霊場の第15番。前回のご開帳は2022/4/9/5/8で、お像のすぐそばで拝観できた

横浜市青葉区恩田にまつられる薬師如来立像。写真ではわかりにくいが、側面から見ると体躯が薄かったように思う