ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【京都】ついに上徳寺阿弥陀如来立像を間近で拝む! 

 「令和5年新指定国宝・重要文化財展」(東京国立博物館)にて、憧れの上徳寺阿弥陀如来を拝む!! 生身信仰の阿弥陀仏は王子様だった!!

上徳寺で見入ってしまった新聞記事

1) 憧れの阿弥陀仏

 あれは2017年の春。朝早く、京都市内のお寺様の前を通り過ぎた。寺内に掲示された新聞記事(↑)によると、な、なんと、市の文化財に指定されたばかりの阿弥陀如来様がおられるという。なになに、ふむふむ。記事を読めば読むほど、お会いしたくなるではないか。お寺の前で15分ぐらい逡巡し、思い切ってお寺の呼び鈴を鳴らし、拝観のお願いしてみた。残念ながら、あっけなく断られた。”突然ピンポン”は失礼なのだから、致し方ない。非礼を詫びるしかなかった。そもそも、ご本尊阿弥陀如来様は非公開で、一般の拝観には対応していないとのことだった。

 それが上徳寺のご本尊阿弥陀如来立像との出会いだった。

 翌年の秋、京都浄土宗寺院公開があり、再訪した。ところが、公開と銘打ってはいたものの、実際に訪ねてみると、堂外から遠目にお姿をのぞくことしかできなかった。いつもの野鳥観察用の双眼鏡を取り出し、うつむいた穏やかなご尊顔をかろうじて拝することができた…。ありがたかった…。しかし…

2) 率直な感想「目の前に阿弥陀界の貴公子が!」

 しかし、できればいつか間近で拝観したい…。そう思って機会を伺っていたところ、突然に朗報がもたらされた。国の重要文化財に指定されたことから、東京国立博物館で展示されるというのである!

 喜び勇んで、出かけてみると、想像を大幅に上回る美しさだった!

 生身信仰の阿弥陀如来はぬるっとした感じの像が多いように思うのだが、こちらはシュッとして、まるで王子様のようではないか!!

 この喜びと感動を大声で表現したかったが、博物館でそんなことができるはずもない。代わりに、現地でノートにかきなぐったのが、以下の内容である。

上徳寺阿弥陀如来さま! 写真は京都市文化観光資源保護財団のサイトより

上徳寺 阿弥陀如来立像
像高97.3cm
鎌倉時代13世紀前半

 丁寧に積み上げられた螺髪の下に、つるっつるっのお肌の美しいご尊顔
 頬はふっくらと優しい線を描く。
 柔らかくほわっと彫り出したの下には、少しだけ目尻を上げた理知的な両眼が斜め下を見据えている。
 鼻筋の通った整った鼻。
 その下の小さな口は、わずかに開いて、何かを語りかけてきそうだ。唇を水晶で表す玉唇という手法が取られているという。ただ、下から見上げても、左右から凝視してみても、水晶らしき光は見当たらなかった。このため、残念ながら、玉唇を持つトーハクの菩薩像のような、濡れたような生々しさは感じられなかった。それでも、そこには、静かにすぼめた上品なお口があった。(照明の工夫があれば、玉唇はもっとわかりやすかったのではないだろうか)

 両手は通常の阿弥陀如来とは異なり、右手を下に、左手を上げる。いわゆる逆手の阿弥陀仏だ。左手は手首を上に指を少し下に向け、親指と人差し指の先をそっとふわっと合わせる。
 通肩である。そして、胸から下腹部へ下りる衣文は、静謐なご尊顔とは異なり、激しく、ドラマチックだ。胸元の衣はU字型で、それが同心円状に太く激しく下へと伸びる。そして、その流れは膝下へと向かうにつれ、穏やかになっていく。
 小さな足がすっぽり収まる程度の小さめの蓮台に立つ。全身はすっと前に傾く。左右両側面から見る衣文は激しすぎず、かと言って、単調ではなく、阿弥陀仏の気品を引き立てている。  

 …と、ここで私のメモは終わっている。頭から足元まで順に拝観していったことがわかる。行間には♡マークが飛び散っている。

3) 真面目に解説読む!

 ♡♡のお目目での拝観をいったん終了し、今度は真面目に解説を読み、勉強する。(参考資料は末尾に記載)

阿弥陀如来立像のいわれ

 上徳寺は慶長8年(1603)年、徳川家康によって建立され、側室の阿茶局を開基とする。『塩竃山上徳寺本尊縁起』(宝暦9年(1759))によれば、本尊である木造阿弥陀如来立像は、家康が鞭崎(むちさき)八幡宮(現在の滋賀県草津市矢橋)から招来したとされる。
 後鳥羽天皇の時代、木曾義仲による進軍に苦しむ近江の国主が八幡宮に参籠して祈ったところ、八幡神があらわれ、西方極楽浄土の教主である我を彫刻するよう告げた。国主は仏工安阿弥(つまり快慶さん)を呼び、安阿弥も八幡宮に参籠したところ、光明の中に西方の三尊があらわれ、これを写して彫刻した。人々は歓喜し、再びこの地が治まった。時を経て、慶長8年、徳川家康が鞭崎八幡宮に参詣した際にこの縁起を聞き、中尊を乞い求めて上徳寺に寄付をした。感動的な伝承である!

生身信仰の表現

 一方、彫刻史の観点からみると、本像の制作年代は上記の伝承とは異なり、木曾義仲より後の時代と考えられている。播磨の浄土寺と同様、右手を下に、左手を上にした、いわゆる逆手の阿弥陀如来であることなどから、宋代絵画の影響を受けた、鎌倉時代、13世紀前半の作とみられている。
 さらに、特徴的なのは、生身信仰の表現である。上記のように、朱を塗った唇の上に水晶を嵌める、玉唇の手法だけではない。螺髪の一つ一つが金属製の釘で留められている。また、脚下の構造をみると、衣に隠れて見えない足首から膝下までが造り出されており、それを像底にあけた孔に深く差し込む形となっている。こうした表現は、阿弥陀如来をより現実的な形で現れたものとしたもので、生身信仰を背景としたものとみられる。

拝観案内

上徳寺(世継地蔵)
京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町556
上記の通り非公開と聞いていたが、仏友さん情報によると、東京国立博物館からお戻り後、外陣から拝観可能のこともあるらしい。ただ、観光寺院ではないので、事前にお寺様に確認されたい。
上徳寺|【京都市公式】京都観光Navi