ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【神奈川県】高麗山(大磯町)の神像群〜残された神像群のチームプレイに感服〜

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展覧会チラシの表面に第1群の神像のうち3躯が掲載される

1) はじめに

 JR相模線に乗って、神奈川大磯町の神像群にお会いしてきた。20年前に高来神社で発見され、話題となった神像群だ。保存修理が完了し、大磯町郷土資料館で公開となったので、やっとお会いできた。高麗山(こまやま)にあった神仏習合の寺、高麗寺(こうらいじ)は、明治の神仏分離の際、高麗神社から高来(たかく)神社へと変わった。旧高麗寺の仏像は高麗山ふもとの慶覚院に移されたことは知られていたが、高来神社にも旧高麗寺の神像が残っていたのである。本展では、発見された神像11躯すべてを展示。さらに、慶覚院に残る旧高麗寺ゆかりの仏像も写真で紹介される。展示内容を以下でレポートしたい。

※大磯町郷土資料館のサイト 春季企画展「旧高麗寺ゆかりの神像・仏像修理」/大磯町ホームページ に展覧会チラシや解説資料、展示リストがPDFで公開されている。神像のお姿をご覧いただきたく、解説資料の一部を以下に貼らせていただいた。ただ、写真より本物の方が断然素晴らしいので、できれば実際に訪れていただきたい(こういうご時世なので、ぜひにとは言いにくいが...)。
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2) 大磯町郷土資料館の展示内容

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大磯町郷土資料館(神奈川県)
春季企画展
「旧高麗寺ゆかりの神像・仏像修理
ー出来! 高来神社神像保存修理ー」

2021.4.17-6.20
なんと入館無料!

2-1) 高来神社神像群

 平成12年(2000)、歴史的文化的に価値のある建造物について大磯町が建築調査を行った際、高来神社神輿堂から未調査の神像群が発見。20年かけて保存修理が完成し、大磯町郷土資料館でお披露目。やっとお会いできた。写真や動画より本物は断然よかった。まずは、本展のメインである神像群をご紹介したい。

 発見された11躯の神像はその構造や表現などから、3つのグループに分けられる。

2-1-1) 第1群は一木造の6躯

 第1群は一木造で、男神像2躯(その1と2)、女神像2群(その3と4)、僧形像2躯(その5と6)からなる。像高はいずれも1m程度。
 男神像の1躯(その1)は最も保存状況がよく、端正なご尊顔を拝むことができる。少し憂いを帯びたように見えるのが、仏像との違いだろうか。複雑な表情が大変印象的だ。男神像2躯とも袍衣を着ているが、その上から袈裟をかけることにより、神仏習合を表すのだという。薄井和夫先生は「袍衣の上に袈裟を懸ける服制は紛れもなく神仏習合の濃厚な表現といえるが、全国的にみても極めて稀で、この神像群でも最も注目される特徴である」と指摘する(参考1)
 女神像2躯は唐衣(からぎぬ)風の着衣に裳を付けた、宮中女官風の装束を身につける。裳には緋色の色彩が残る。肩にかける掛帯は「潔斎の掛帯」を表すと考えられる(神像は難しい ...)。
 僧形像2躯は、頭部を剃髪し、法衣を着る僧侶の姿。

2-1-2) 第2群は寄木造で弘安5年の銘あり

 第2群は第1群より大きく、しかも、第1群とは異なり寄木造だという。
 男神像(その7)は等身大より少し大きめの立像で、両眼のあたりが空洞になっていることから、玉眼が入っていたと見られる。
 女神像(その8)は頭部のみしか残っていないが、こちらも玉眼だったように見える。
 僧形像(その9)は頭部を欠くが、男神像と同じく、寄木造の長身の立像である。
 第2群で注目されるのは、女神像と男神像に、鎌倉時代弘安5年(1282)の墨書があることだ。神像群すべてが鎌倉時代の作と推測されている。

・女神像の首の裏側の墨書
     ■
弘安五年二月■
    人■
勧進聖玄西

男神像頭部の墨書

弘安五年二月四日
   大才■■
 勧進
  玄西

2-1-3) 第3群は寄木造の随神像

 第3群随神形立像(その10と11)。寄木造で第1群とはつくりかたが異なる。袍を着るが、裾をたくし上げていることから、主神をまもる随神と推測。

 なお、高来神社では、他にも神像の断片と思われるもの(本展で展示)が発見されており、上記11躯以外にも神像がまつられていた可能性がある。

2-1-4) 高麗山、箱根山、伊豆山の三社の結びつき

  渡来人といえば、埼玉県日高市の高麗神社と高麗山聖天院が思い浮かぶ。『続日本紀』には、霊亀2年(716)に駿河、甲斐、相模、上総、常陸、下野の高麗人を武蔵国に移し、高麗群を置いたという記載があり、高麗氏の祖、若光がまず相模の高麗を開拓し、武蔵国に移ったというのが一つの定説になっているのだとか。
 一方、高麗権現については、箱根権現と伊豆山走湯権現との結びつきも指摘される。薄井和夫先生は、箱根神社の「箱根権現縁起絵巻」(重文、鎌倉時代)に注目する。この縁起のストーリーが面白い。天竺の斯羅奈国の大臣源中将一が二人の娘とその婿とともに日本にわたり、相模国大磯に到着。一家は大磯の高麗寺に滞在したあと、中将と妹夫婦が箱根に行って箱根三社権現となり、姉夫婦が伊豆山権現となったという。詳しくは、薄井先生の文章がWebで読める(下記、参考1)ので、ぜひともお読みいただきたい。
 展示解説では、袍衣に袈裟をかける旧高麗寺の神像の表現は伊豆山権現と似ているとの指摘があったが、その背景に両社の結びつきがあったのだろうか。

2-2) 慶覚院

 高来(たかく)神社の神像はもともと高麗山(こまやま)にあった旧高麗寺(こうらいじ)に伝来したもの。展示説明によると、高麗寺は神功皇后朝鮮半島を制圧した際に、もともと信仰の対象であった高麗山に高麗権現社を創建したのが始まりとされる。明治の初めに高麗寺は廃寺となり、仏像は慶覚院に移された。一方、神像が高来神社で人知れず保管されてきたということになる。
 本展では、慶覚院の諸像のうち、以下の写真が展示されている。
仁王像(町指定、江戸)
地蔵菩薩坐像(県指定、鎌倉)
秘仏本尊千手観音立像(町指定、平安)
白山大権現立像(室町)
毘沙門天像(平安)

 なお、慶覚院の仏像は、秘仏本尊千手観音立像を除き、予約拝観が可能である。一度お参りしたことがあるが、大きな本堂に地蔵菩薩坐像(県指定、鎌倉)ほか、多数の仏像がまつられていた。今回の展示では、地蔵菩薩坐像の修理前の写真も展示。後補の金箔が剥がされ、かしげた頭部が正常な位置に戻されたことにより、全体的に若々しさを取り戻したように見えた。
 本尊千手観音様は2020年4月にご開帳が予定されていたが、コロナのため延期となっている。今回初めて、写真でお姿を拝見したが、プリミティブでかわいらしい印象だった。関東圏では、平安期に地元仏師によると思われるこのようなお像を見かけるが、これもそうした分類となるのだろうか? ご開帳となればぜひともお会いしに行きたい!
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(↑旧高麗寺の仁王像は修理を経て、現在慶覚院におられる。2019年10月に筆者撮影)
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(↑右側に見えるのが慶覚院の仁王さんがおられる山門)
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(↑高麗山を背にして建つ慶覚院本堂)

3) 感想~残された神像群のチームプレイ~

 ここまで書いてきて、改めて展示全体を振り返り、ふと思ったことがある。
 神像その1は、頭部がしっかりと残っており、前述のとおりかなり端正なご尊顔である。一方、第2群の神像その7と8は、頭部が欠けて痛々しいお姿ではあるが、なんと弘安5年の銘が残っている。この銘によって神像全体の制作年代の裏付けられる一方、頭部を欠く他の神像もきっと端正なお顔立ちだったであろうと想像できる。
 これはまるで、お互いの欠落を補い合うかのようなチームプレイではないか。残された神像群のチームプレイに拍手喝采を送りたい!
 また、かつて国際政治専攻だった者として、高麗という名称が「こうらい」「こま」「高来(たかく)」と変化する点が気になる。その呼び名はいつ、なぜ変わったのか。そうした視点で歴史を見つめなおすことに意味があるような気がしてならない。

参考資料

1) 薄井和夫「新発見の大磯町高来神社の木造神像群」情報紙『有鄰』平成14年6月10日第415号P4(Web版:https://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/415_4.html
※特に興味深かった部分を引用する↓

 大磯高麗山・箱根山・伊豆山の三社の濃密な関係を示す縁起
(中略)
  しかし、高麗権現の縁起類として注目すべきは、当社と箱根権現、走湯(伊豆山)権現の三社に関わる深い結びつきである。現在も箱根神社に伝わる「箱根権現縁起絵巻」(重要文化財)は、鎌倉時代の成立で、高麗権現別当、高麗寺と箱根権現・伊豆山権現を一つの物語で結びつけたものである。その縁起の大略は以下のようなものである。
 昔、天竺の斯羅奈国の大臣源中将には、姫の常在御前と、その義妹、霊鷲御前の異母の二娘があったが、継母は性悪で常在を無きものにしようとした。そうした義姉を妹霊鷲が事あるごとに気遣っていたが、中将が不在中に危難に遭った二人は波羅奈国の王子、太郎と二郎に救われ、おのおのその妃となる。その後、帰宅した中将は、人生をはかなみ入道して二人を捜し、波羅奈国で二娘と再会、やがて後世の願いのため五人で日本に渡海することを決心、五人が海を渡り到着したのは相模国大磯の浜であった。 上陸した五人は高麗寺にいったん止まったが、箱根山という霊験あらたかな場所のあると聞き、そこに至った。父中将入道と霊鷲・二郎夫妻が箱根に永く止まることとなり、一方、常在・太郎夫妻は伊豆山に入ることとなった。中将ら三人が神となったのが箱根三社権現、常在・太郎夫妻が神となったのが伊豆山二所権現である、と。
 この縁起は、大磯高麗山・箱根山・伊豆山の三社の濃密な関係を示すものといえる。また、箱根権現・伊豆山権現を高麗権現の分霊とする説も生まれる。

2) 安倍美香「本地物語の変貌 ―箱根権現縁起絵巻をめぐって―」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/49/0/49_49_67/_article/-char/ja/

箱根神社所蔵『箱根権現縁起絵巻』(重文、鎌倉時代)、『神道集』「二所権現事」(南北朝)および神奈川県山北町の箱根正覚院由来『箱根権現縁起絵巻』(町指定文化財、1582)の相違点を比較した論文。


3) 仏像リンク慶覚院リポート https://butsuzolink.com/oisobura/
2019年10月のブラ参り。私も参加させていただいた。確か大きな台風の直後だった。