- 1) 甲府盆地の真ん中に優雅な観音立像
- 2) 国の重要文化財
- 3) 災難をくぐりぬけた観音様
- 4) コロナ禍での公開
- 5) 普化禅師坐像
- 6) 愛染明王と摩利支天の石仏像
- 7) 天白伊豫大権現さま
- 【拝観案内】
永源寺(山梨県中央市)
聖観音菩薩立像
重要文化財
平安10世紀
像高97cm
1) 甲府盆地の真ん中に優雅な観音立像
甲府盆地の真ん中に不思議な一画がある。わずか1キロ圏内に、国の重要文化財指定を受ける平安時代の木彫仏が2駆もおわす。しかし、なぜかコンビニはない。最寄りの小井川駅は無人駅で、PASMOも使えない。のどかな風景のなか、一流の仏像がおわす、夢のような地区である。
2躯ある重文の平安仏のうち、永源寺の聖観音菩薩立像を拝観させていただいた。
永源寺では、毎年3月の第1日曜日に初午観音祭りがあり、聖観音菩薩様が公開される。観音様のお姿を拝めるのは年に一回、この日だけだ。
緊急事態宣言が延長されるなか、東京の西端から出かけるのは気が引けたが、事前にお寺にお電話すると、どうぞとおっしゃってくださった。蜜を避けるため、中央本線の鈍行電車に揺られ、お参りしてきた。本堂でご挨拶すると、住職が「お電話くださったかたですね。解説します」とおっしゃってくださり、観音堂にご案内くださった。
聖観音菩薩様は小さな観音堂の奥にまつられていた。お厨子自体が、大きな保管庫に収められているため、お像まで少し距離がある。しかし、明るいので、お姿はよく拝める。とても優美なお姿だ。右腕を下にし、左手で蓮花を持つ。わずかに腰を捻る。腹部から足先へ向かう衣文の流れは、彫りが薄く、優美で穏やかだ。一瞬にして私はとろけてしまった。駅から甲府盆地ののどかな風景のなかを歩き、京都におられるような雅なお姿の観音様に出会うーーそのギャップにも心が震えた。
2) 国の重要文化財
この優美な観音様は重要文化財に指定されており、山門前に中央市教育委員会が設置した看板には、次のように記される。
本像は、側面で縦矧ぎされた頭体部に、耳後前後矧ぎの頭部を挿入、両臂(ひじ)、両手首、両足先、天衣等を矧ぎ付けた檜材寄木造、漆箔の立像である。像高は、九七cm、二段框座(後補)上の蓮華座の上に、光心に八葉をとどめる日輪後光(後補)の光背を背にして立つ。
掌(てのひら)を前にした右手を下に伸ばし、左手は屈臂(くっぴ)している。往時はその手に蓮華を持していたが昭和二十四年の盗難で紛失した。左肩から右に条(じょうはく)をかけ、裳をつけ、わずかに腰を左にひねる姿は豊かで引き締まり、鷹揚は乏しいが、静的で優しく、落ち着いた気品があって、藤原時代造顕を思わせる。
藤原時代に、京都周辺で制作されたのだろうか。腰をわずかに捻る姿勢から、単独像ではなく、如来の脇侍だった可能性も考えうる。聖観音立像は100センチ弱なので、半丈六の坐像と合わせるのにぴったりのサイズだ。藤原時代の阿弥陀三尊であれば、さぞかし優美であったことだろう。せめてどこかのお寺に片割れの脇侍が隠れていないのだろうか。
3) 災難をくぐりぬけた観音様
永源寺はもともと真言宗で、さらに現在の曹洞宗となったそうだ。真言宗の前は華厳宗だったという伝承もあるという。つまりは、古い歴史のあるお寺だ。この地域は、笛吹川、釜無川、荒川に挟まれ、水害が多かったそうで、この観音様も水害にあったことをうかがわせる伝承があるそうだ。その昔、現在の下河東と三之条の境に、人や馬が突然転んだり、足がつったりする場所があった。そこを掘ってみると、この観音様が出てきたという。住職がおっしゃるには、おそらく川の氾濫で流されて、土の中に埋もれてしまったのではないかということだった。発掘された観音様は、永源寺の末寺、普明寺にまつられていたという。『甲斐国志』(1814年、甲府勤番松平定能による歴史書)には「永源寺末普明寺の観音は、弘法作で本州巡礼第二番の札所」と記載される。普明寺が廃寺になり、永源寺に遷座されたという。
また、昭和24年9月には、観音様が盗み出された。犯人は自転車の荷台に観音様を載せて運ぶ途中、足の甲が腫れあがって動くなくなってしまった。国母まで来たところで、近くの家に「質屋から買ったものだ」と預けたが、新聞報道で盗難事件を知った家の者が警察に通報し、無事に永源寺に戻された。甲府から列車で横浜まで運び、そこから外国船に載せる計画だったという。70万円で売り渡す三段はついていたそうで、まさに危機一髪の生還だった。この際に、左手薬指と蓮華の花が失われてしまったが、今は無事に修復されている。観音様は左頬の金箔がはがれている。甲府警察署に観音様を引き取りに行った当時の檀家総代は、それを「まるで、お観音さんがうれしくて泣いているように見えた」と語ったという。
盗難事件を受けて、昭和32年に国の補助で鉄筋コンクリート製の防火保管庫が完成。昭和59年には、檀信徒・近隣の人々の手により、観音堂全体の改築が行われている。
平成25年10月、山梨県立博物館で展示されるに伴い、観音像の補修の話が持ち上がり、平成27年5~10月に京都美術院国宝修理所で保存修理が施された。盗難前の写真がなく、失われた左手薬指と蓮華の復元は難しいと思われていたが、昭和5年の修理時の記録(詳細なスケッチ)が美術院に残っていたことから、現在のように無事に復元が可能となった。
4) コロナ禍での公開
私がお参りしていると山梨日日新聞が取材に来られた。コロナ禍において聖観音様を公開したことについて、住職は、「人の努力ではどうにもならないことがある。だからこそ、多くの人に観音様を拝んでいただきたい。お参りに来られる方のために、お堂を開けてあげたい」と答えられた。八王子から訪ねてきた私を温かく迎えてくださった裏に、そういう思いがあったのだと知った。ありがたくて、泣きそうになった。例年では、13:30から本堂で大般若経の転読を行っているそうだが、今年はそれは中止となった。永源寺の初午観音祭りは江戸時代から続く。来年以降は通常通り初午祭りが執り行われますように。多くの方々が観音様とご縁を結べますように。
5) 普化禅師坐像
普化宗の開祖、普化(ふけ)禅師の坐像が本堂に安置される。毎年11月3日の中央市ふるさとまつりの際にご開帳。明暗寺、通称、虚無僧寺に安置されていたのだが、明暗寺が明治に廃寺となったため、永源寺でまつられるようになった。虚無僧さんにあやかって、ご開帳日には尺八の演奏も行われるのだそうだ。中央市の文化財サイトに虚無僧さんのイラストが出てくるので、不思議に思っていたのだが、そういう歴史があったのだと知り納得した次第である。ふるさとまつりの時には、虚無僧さんの行列も行われるのだとか。ご開帳と合わせて、またこの地を訪ねたい。
6) 愛染明王と摩利支天の石仏像
永源寺山門の前、向かって左手に、大きな石仏がまつられる。元禄年間1697年の愛染明王と摩利支天の立像である。愛染明王の立像は珍しいのではないだろうか。生彩に富むお姿で、とても魅力的である。永源寺の本堂も元禄年間に建てられたものなので、その時に一緒に造立されたお像なのかもしれない。山門をくぐると、人手不足の際に田植えを手伝ってくれたという石仏の地蔵菩薩像「田植え地蔵」もおられた。
7) 天白伊豫大権現さま
山門の右手には、小さな石の祠がある。江戸時代、疫病が蔓延し、多くの人が亡くなり、特に子供の被害が大きかった。ある時、白衣の老人が現れ、「疫病神を退散させ、日頃の信仰に応えよう。余は天白伊豫大権現である」と言い残し、姿を消した。その後、疫病は消え、子供たちも元気で育つようになった。白キツネが石の祠に現れ、地区を眺めたあと、消えて去った。人々はあの白キツネこそ天白伊豫大権現様の化身だといって、キツネの好物を祠に捧げ、感謝の祭礼を続けてきたと言われる。明治に入って、祠が永源寺に移されたあとも毎年祭礼は行われている。天白祭は毎年9月第1土曜日の夜。祭りの夜には、誕生した子供の健やかな成長を願い、子供の名前を書いた提灯が奉納されるのだそうだ。コロナ終息を願って、小さな祠にそっと手を合わせた。
【拝観案内】
豊田山永源寺
山梨県中央市下河東880
身延線小井川駅または東花輪駅から2キロほど
甲斐国観音霊場第2番札所
聖観音菩薩立像(重文)は毎年3月第1日曜日9~15時に観音堂にて公開。この日は初午祭りで、13:30-14:30に本堂で大般若会がある。
www.city.chuo.yamanashi.jp
普化(ふけ)禅師坐像(中央市指定有形文化財)は11月3日の中央市ふるさと祭りの際に公開。虚無僧にあやかって、尺八の演奏も。
木造普化禅師座像(永源寺) [市指定]/山梨県中央市公式ホームページ
なお、永源寺のすぐ近く(1キロ圏内)に
富田山歓盛院(かんせいいん)がある。
永源寺と同じ曹洞宗。注目すべきは藤原時代の薬師如来坐像(重要文化財)で、毎年10月に公開日があるそうだ。なんとしてもお参りしたい。
www.city.chuo.yamanashi.jp
なお、ご本尊は宝冠釈迦如来坐像で、中央市指定有形文化財。
木造釈迦如来坐像(歓盛院) [市指定]/山梨県中央市公式ホームページ