【来迎会】得生寺の練供養「中将姫大会式」
後編「得生寺の練供養は中将姫への愛がいっぱい」
やっと本題である練供養の話に入りたい。得生寺の二十五菩薩来迎会は、「中将姫大会式」と呼ばれる。その名に違わず、中将姫さまへのリスペクトと愛にあふれた練供養だった。
できれば、前編(【来迎会】得生寺~中将姫さまへの愛に満ちた練供養~前編 - ぶつぞうな日々 part III)を流し読みしてから、後編に目を通していただくと、中将姫リスペクトの練供養をより立体的に感じていただけるのではないかと思う。
(↑写真は2018年5月14日付産経新聞より。プロの写真はさすが。私の隣で脚立に乗って撮っていた人がいたのだが、その人の作品に間違いない。あの場で一般人は脚立は使えないです! なお、この写真を除き、本記事のすべての写真は私ヒヨドリの撮影です!)
※写真について お子様が活躍する練供養なので、お子様のお顔と名札の部分にモザイクを入れた。和讃の少女、重そうに御輿を担ぐ表情、練供養が終わってほっとして友達をのぞき込む表情など、大変愛らしい写真が何枚かあるのだが、今のご時世悪い人もいるので、あえて加工したことを書き添えておく。
基本情報
開催日
毎年5月14日(私が訪れたのは2018年5月14日)お渡りの時間
15時30分頃から(終了まで1時間ほど)来迎橋
高さ約1.5メートル、長さ約30メートル。朱色の回廊が開山堂から本堂にまで結ばれる。お渡りの橋のうち、半分ほどは常設のようだ。お練り(お渡り)ルート
開山堂を出て来迎橋を渡り、本堂へ。本堂で浄土経をお唱えした後(菩薩さまたちは休憩)、また開山堂へ戻り、終了となる。菩薩面
練供養が始まる直前の菩薩面。なぜか緊張しているようにも見える。菩薩の持ち物
来迎は華麗な音楽を伴うとされ、菩薩さまの持ち物には楽器が多い。実際に使われた楽器
得生寺の練供養では、最初に中将講による和讃が響く。それに合わせて、鉦(かね)講による念仏鉦が荘厳な音色を奏でる。楽器を奏でる人達のスペースは開山堂の向かって右側に設けられているが、このように目隠しされていて、演奏の様子を見ることはできない。素晴らしい演奏で、来迎の感動を高めていた。
特徴
1) 登場する菩薩とその順序
練供養のお渡りは15:30過ぎに始まった。菩薩の装束を付けた子どもたちが開山堂に集まるのが15:00頃。堂内で菩薩面を付け、持物を手渡されるなどの準備に30分ほど要するようだ。
練供養の列は次の順に続いた。
○僧侶。お水を散らしてお清めをする。
(↑練供養が始まるのを待つうちに日が西に傾き、気がついたら、思いっきり逆光に。慌ててるうちに、お坊さんが近づいてくるので、合掌してお清めを受けたら、こんな写真しか撮れなかった!)
↓
○中将姫和讃(少女12人+成人女性2人。和讃の先頭と最後を成人女性が務め、あとはみな少女)
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○地蔵菩薩さま(地蔵さまだけ大人が務める)
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○鳥のお面をかぶった少年たちが歩く。カルラなのだろうか。
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○二十五菩薩の登場。蓮台を手に持つ観音菩薩、合掌する勢至菩薩と続く。
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○御輿(「通いの弥陀」)
二十五菩薩さまが半分ほど通り過ぎると、御輿がやってくる。御輿には、阿弥陀如来立像、通称「通いの弥陀」が担がれる。
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○御輿の後、残りの菩薩が続く。
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○最後に僧侶が散華を巻く
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○お渡りの列が本堂に到着すると、本堂で法要が始まる
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○法要のあと、再びお渡りがあり、本堂から開山堂へ戻る。僧侶、和讃、カルラ、菩薩、御輿(通いの弥陀)、菩薩、地蔵菩薩の順。二十五菩薩の順は往路と逆のようで、最後に勢至→観音→地蔵菩薩だった。
2) 子どもによる練供養
得生寺の練供養の一番の特徴は、お子さんが二十五菩薩に扮すること。中将姫さまがこの地で少女時代を過ごされたことから、その聡明さと美しさにあやかろうということらしい。地元の小学校の児童だと聞く。
今回訪れて驚いたのだが、子どもが活躍するのは菩薩さまだけではなかった。
練供養の列で和讃を歌うのは少女達。興しに載せた「通いの弥陀」を運ぶのも子ども達。今回は女子2名、男子2名の4人で元気に運んでいた。鳥のお面を付けるのも子ども達だった。
思った以上に子どもが活躍する。しかも、途中泣いたりぐずる子がいない。教育が行き届いているのを感じた。
3) 地蔵菩薩だけ成人女性
菩薩のうち唯一、地蔵菩薩だけが、毎年地元の大人の女性が務めるそうで、開山堂の前に「地蔵菩薩渡御者 (地名)(お名前)様」と、堂々と張り出してあった。さぞかし名誉ある職務なのだろう。
4) 「通いの弥陀」
練供養で登場する阿弥陀如来立像は、もともと雲雀山の麓に住む西方清太夫(さいほうせいだゆう)の念持仏だったと伝わる。中将姫さまが雲雀山で称讃浄土経を写されるたび、麓から通われ、中将姫さまに付き添われたことから、「通いの弥陀」と呼ばれる。像高30センチほどだろうか。左足を前に踏み出し、歩かれるお姿だ。西方清太夫の邸宅は現在の得生寺の寺域に含まれるという。
得生寺開山堂の奥に阿弥陀仏のお厨子があった。普段はここにまつられているのだろう。私が訪れたときには、お厨子は空っぽで、「通いの弥陀」は御輿の上に安置されていた。そして、練供養がはじまると、菩薩さまの列に加わった。緑色の装束を身につけたお子さんによって、御輿ごと運ばれるのである。登場される順番は二十五菩薩さまのちょうど真ん中あたり。元気な男の子2人と女の子2人ががんばって運ぶ。だいぶ重そうだったが、元気に運んでいた。このような阿弥陀仏のお渡りがとても微笑ましい!
5) 中将姫さまへの敬意
前編にも書いたが、得生寺は中将姫さまへの愛とリスペクトに満ちている。その感動を伝えるのに、どこをどう切り取ればよいのかー。そんな思いでここまで長々と書いてきた。それでも書ききれなかった愛のかけらをお伝えしたい。
○本堂の中将姫さまと百味御膳
中将姫大会式の際には、開山堂のご本尊である中将姫様のお像が、本堂の阿弥陀三尊のお厨子の前に移されていた。中将姫さまの手には五色の糸が結ばれ、境内の回向柱へとつながっていた。柱を触ることで中将姫さまと結びつくことができる。
また、中将姫の前には、百味御膳と言って、色鮮やかでユニークなお食事が備えられていた。琴を奏でる中将姫さまも。
○ブラックシアター『中将姫物語』
お渡り開始の前に境内を拝観していると、アナウンスが流れた。「2時から、わいがや娘による『中将姫物語』の公演があります。皆様ご覧ください」
私は「わいがや娘って何(笑)?」と思いながら見始めた。写真のとおり、黒いパネルが使った紙芝居のようなものなのだが、音響も絵も力作で、引き込まれた。中将姫の一生が15分間に見事にまとめられていた。「わいがや娘」のお揃いのポロシャツも最高。
わいがや娘の会は、有田市で活躍しているボランティアグループらしい。公式サイトには、「女性の視点で次世代の子どもや地域のために、まちの誇りを発掘し、継承すること、および女性がいきいきと活躍していくことを目的とし、和歌山県有田市で活動しています」と記載されていた。たぶん会の名称は「わいわい、がやがや」の略なのだろう。
○中将もち
奈良の當麻寺近くに「中将餅」屋さんがある。得生寺の境内でも「中将もち」が売っていて驚いた。こちらは餅でなく、「もち」とひらがな表記で、屋台で販売されていた。荷物になるし、後で買おうと思っていたら、お渡りが始まる前に売り切れていた…! 當麻寺で「中将餅は練供養の前に購入」という教訓を得たのだが、それは得生寺で生かされなかった…。
まとめ
中将姫さまが隠れ住んだ「ひばり山」は、ここ得生寺の他にも、奈良県宇陀と和歌山県橋本に伝承が残る。どこが本物なのかという点について、私は興味がない。各地に移り住んだことも考えられ、どこも正解なのかもしれない。
ここ得生寺では、想像していた以上に、中将姫さまの足跡と息づかいが感じられた。堂内に残る浄土経の写経や蓮糸繍の阿弥陀三尊像、中将姫さまのお像、當麻曼荼羅…。これらに加えて、子どもたちによる二十五菩薩練供養がある。人や費用が必要な練供養が今日まで伝えられてきたことに大きな意味と価値があると思う。
しかも、子どもが菩薩を務めさせることの意味は大きいと思う。大人が大人だけでお祭りを取り仕切ることは日本でも世界どこでもあるだろう。しかし、得生寺の練供養のように、子どもが主役を務める祭事は珍しいのではないだろうか。
中将姫さまが少女時代を過ごされた土地で、その徳にあやかろうと現代の子どもたちが菩薩に扮し、来迎の場面を演じる。菩薩面をかぶり、橋を歩くのは、視界も悪いし恐怖心もあるだろう。そんな中、得生寺のお子さんたちは立派に菩薩の役を務めていた。泣き出す子もおらず、とても立派であった。どのように教育がなされているのだろう。長年に渡り粛々と続いてきた伝統なのだろうか。
中将姫さまを通して、地域が一つになる瞬間を見ることができた。かわいらしく、美しい練供養だった。もうその事実だけで、出かけた甲斐があった。得生寺の練供養が末永く続くことを願っている。