ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【展覧会】「みほとけのキセキー遠州・三河の寺宝展ー」は仏像展の夜空ノムコウ!?

浜松市美術館
みほとけのキセキ-遠州三河の寺宝展-
令和3年3月25日(木)~4月25日(日)

普門寺の阿弥陀如来坐像と釈迦如来坐像(2階会場)

 「みほとけのキセキ」という、なんとも物騒なタイトルの展覧会である。この仮名表記が私は気になってしまう。ひらがなの「みほとけ」は美しい。数年前の仁和寺展あたりから浸透した表記だと思う。しかし、なぜに「キセキ」がカタカナなのか。スガシカオか? 夜空ノムコウ
 「みほとけの奇跡と軌跡」なら、私のような捻くれ者でもすっと理解できる。カタカナにしてしまうと抽象的になってしまう。展覧会のタイトルとして、非常識だ!

 しかし、実際に会場を訪れると、展覧会自体が非常識極まりなかった! ゆったりスペースを取って仏像を配置し、しかも、すべて写真撮影できるのである!

 仏像を出陳された寺院の中には、お寺での仏像の撮影が可能なところもあり、実際に私も撮影させていただいたことがある。しかし、この展覧会では、お寺では拝めないお背中の撮影もできてしまう。幸せをかみしめながら、お背中を見上げてきた。摩訶耶寺の千手観音立像、普門寺の伝釈迦如来坐像と阿弥陀如来坐像がそれである。携帯電話での撮影ではあったが、変な汗をかいた。間近で拝し、写真を撮ることへの畏れ多さを感じたのだと思う。

 会場内には、仏像に馴染みのない一般の人に向けて、易しい言葉で解説がある。一方、図録には仏像に関する専門的な論文が掲載されており、写真も豊富だ。仏像に詳しい人もそうでない人も存分に楽しめるような配慮がある。

 地域限定の仏像展であるという点もありがたい。仏像を通して地域の歴史を知ることができるからだ。

 私が大好きなのは、普門寺の阿弥陀如来だ。2階の会場に入った瞬間に、伝釈迦如来像とお並びで目の中に入ってきた。おいおい、心の準備をさせてくれよ、と思った。お隣の釈迦如来像が絵にかいたような端正な容姿であるのに対し、阿弥陀様はお顔の輪郭がぼてっとしていて、耳の下が外側にはねている。そこが好き。下から見上げている私は恋する乙女以外の何者でもなくなってしまう。摩訶耶寺の千手観音立像は一つのスペースに1点展示で、360度から拝観可能。ピュアでイノセントなお姿に打ちのめされる。長楽寺の馬頭観音は初めてお会いしたと思うのだが、写真で見ていたより、お顔の表現がずっと立体的で力強く、とても良いと思った。

 結論。夜空ノムコウは名曲だ。「みほとけのキセキ」展は仏像の展覧会の夜空ノムコウだ。


妄想拝観ツアー〜春の夜の十一面観音立像編〜

床に突っ伏して妄想拝観

 3月半ばのある夜。洗濯物を干さないといけないのに、疲れて床(ゆか)に倒れたまま、立ち上がれなくなってしまった。なんだかつらい。そういえば、去年の春のお彼岸は三連休だったのに、大阪で感染者が急増したというニュースが入り、関西への秘仏の旅を直前にキャンセルしたのだった。今年は緊急事態宣言が長引き、はなから諦めていたのだが、この時なぜか急にせつない思いが込み上げてきた。
 この混乱と苦しみはいつ終わるのか。洗濯機は仕事を終えて止まっているのに、私には立ち上がって洗濯機まで歩く力が湧いてこなかった。 
 要するに、眠いし、疲れていた。できることは妄想だけ。カーペットに突っ伏して、半分うとうとしながら、十一面観音立像を巡る旅をしてみた。緊急事態宣言だろうがなんだろうが、私の妄想を止めることはできないのだ。
 妄想拝観は地理的制約を受けない。瞬時にお寺からお寺へと移動できる。北海道から九州まで縦横無尽に美仏を堪能した。とにかく、平安の十一面観音立像を巡りたいのだ!
 さっき携帯電話の中を探ってみると、その時のメモ書きが残っていたので、ここに自らの赤恥を晒してみる。春先の夜、うとうとしながら、私の脳裏によぎった十一面観音菩薩様たち。よろしければ、皆様も思い浮かべてくださいませ。

妄想拝観
平安の十一面観音立像巡礼

旅した日=2021.3.17

法華寺→嵯峨遍照寺→北海道苫前→當麻寺織姫→長野千曲智識寺→横浜弘明寺城崎温泉寺→斑鳩勝林寺(奈良博)→島根安来清水寺→岐阜美江寺→福岡鞍手長谷寺→再び奈良の法華寺六波羅蜜寺本尊→尾道浄土寺本尊→和歌山慈光円福院→薬師寺東博)→白洲正子旧蔵→河津善光庵→秋田小沼神社→四国のどこだっけ→奈良の法輪寺→羽賀寺→聖林寺→また法華寺

 …と奈良の法華寺に3回お参りしたところで、私は力尽きた…。

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(↑ 智識寺)
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(↑ 慈光円福院)
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(↑ 善光庵)

妄想旅を振り返って

 今、見返してみると、素敵な観音様ばかりで、つい口元がゆるんでしまう。少しだけスッキリした頭で、少し補足したい。

1)「四国のどこだっけ」は、翌朝検索してみたら、愛媛県松山市太山寺だった。平安の十一面観音立像が6躯。堂内の大きな厨子に3躯ずつ安置される。仏像リンクのオフ会でお参りした記憶あり。下記サイトに「後冷泉天皇以降の歴代天皇が勅納の仏像」とあるが、天皇直々というのも納得できるほど、pureでinnocent でgracefulなお姿であられた。日本語にしにくいのだが、うぶで無垢で優しい気品に満ちていた…と言えるだろうか。いやいや、つまりは、私の語彙力では表現できない感動なのであった。
木造 十一面観音立像 6躯 松山市公式スマートフォンサイト

2) 平安仏で埋め尽くそうと思ったのに、北海道苫前の観音様だけ鎌倉仏。死ぬまでにどうしてもお会いしたいので、確信犯的に組み込んでしまった。私は北海道生まれだが、苫前町は聞いたことがなかった! とんでもない僻地(苫前の皆さんごめんなさい)にこのような美仏がおられるとは。羨ましくて涎が止まらない! 
木造十一面観音立像 文化遺産オンライン

3) 法華寺が3回入っているのはタイプミスではない。妄想拝観では何度でも拝観が可能なのだ! 

4) あ、聖林寺は平安仏ではなく、天平仏? まあ、いいか、大好きだから。

5) よくよく見直すと、うとうとしながら思い浮かべていたのにメモに残っていないお像があることに気づいた。会津の明光寺のかわいらしい十一面観音立像が入っていない。寝ぼけてたので、お寺の名前を思い出せなかったのかも。兵庫や大阪、福井などの十一面観音立像も思い浮かべてたのに、お寺の名前が思い出せない。調べ直して、第二弾の妄想拝観ツアーを断行せねば。

 はぁー、妄想旅楽しい! でも、少しずつでも現地でお参りしたい!!


※ 写真はすべて許可を得て筆者撮影

【石仏】徳本名号塔をめぐる〜八王子編5 小仏山宝珠寺〜

八王子市・徳本上人名号塔No.18
仏山寶珠寺(宝珠寺)(八王子市裏高尾町)
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小仏トンネルの近く、宝珠寺に徳本名号塔

 久しぶりに市内の徳本上人名号塔の調査へ。旧甲州街道沿い、小仏山宝珠寺でまた一つ見つけることができた。これまで市内18か所を巡って、15基目を確認できた。
 宝珠寺に徳本名号塔があるらしいという情報は得ていたのだが、ネットで調べても一切情報がなく、近くの常林寺では見つからなかったことから、宝珠寺の徳本名号塔も今は存在しなくなってしまったのだろうと思っていた。ないことを確認するために訪ねてみたのだが、なんと、お寺の前に1メール超の立派な徳本上人名号塔がおわした。
 嬉しい誤算である。瓢箪から駒ならぬ、小仏山に徳本名号塔だ。
 小仏山宝珠寺の徳本名号塔は、ごつごつした大きな自然石に刻まれたもので、温かみを感じる。石碑の背面の緑の苔が愛おしい。徳本独特の流麗な文字はやや摩耗しているが、南無阿弥陀佛とはっきりと読み取れる。「徳本(花押)」はかなり見えにくいが、「陀佛」の横あたりにうっすらと確認できた。制作年度などの銘文は私では確認できなかったので、さらに調査が必要だ。
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八王子市内の徳本名号塔をなんとかしたい!

 裏高尾町の旧甲州街道沿いでは、小仏関所跡近くの念珠坂にも同規模の徳本上人名号塔がある。西八王子駅から高尾山の西、小仏山までの間の甲州街道沿いだけで9基(※注)もある。徳本上人の亡くなられた後、文政年間のものが多い。
 宝珠寺は交通渋滞で有名な中央道小仏トンネルの近く。そもそも小仏という地名は宝珠寺のご本尊様にちなむと聞く。高尾山から足を伸ばせる距離であり、今も登山客が通り過ぎて行く場所であるためか、ネット検索すると、宝珠寺の写真もいくつか上がっている。しかし、徳本名号塔を写したものは見当たらなかった。こんなに美しく温かみのおる石塔なのに!
 市内では、徳本名号塔を管理されているのに、それを徳本名号塔と知らずにおられる方々ともお会いした。徳本名号塔の知名度が低いのは、なんとももったいない。八王子の文化遺産として保護すべきではないか。まとめて文化財指定した相模原市が羨ましい。八王子では30年前の石仏調査を頼りに、素人の私が訪ね歩いている。それも楽しいが、文化財保護の観点では非常に心許ない。
 徳本上人は八王子の大善寺のあと、相模原の無量光寺に向かわれた。21世紀の今、なぜこんなに差が開いてしまったのか。

【拝観案内】

仏山寶珠寺(宝珠寺)
臨済宗南禅寺派
八王子市裏高尾町1785
入り口の風景(↓)


徳本名号塔の前の馬頭観音碑は小仏宿と銘があり、興味深い。


甲州街道”沿い”の範囲を定めるのは難しいが、ここでは長安寺、長泉寺、船田会館、真覚寺、めじろ台墓地、原家墓地、原宿会館、念珠坂、宝珠寺の9か所とした。

【山梨県】永源寺(中央市下河東)聖観音立像~都の香りのする穏やかな観音さま~

永源寺山梨県中央市
聖観音菩薩立像

重要文化財
平安10世紀
像高97cm
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1) 甲府盆地の真ん中に優雅な観音立像

 甲府盆地の真ん中に不思議な一画がある。わずか1キロ圏内に、国の重要文化財指定を受ける平安時代の木彫仏が2駆もおわす。しかし、なぜかコンビニはない。最寄りの小井川駅は無人駅で、PASMOも使えない。のどかな風景のなか、一流の仏像がおわす、夢のような地区である。
 2躯ある重文の平安仏のうち、永源寺聖観音菩薩立像を拝観させていただいた。
 永源寺では、毎年3月の第1日曜日に初午観音祭りがあり、聖観音菩薩様が公開される。観音様のお姿を拝めるのは年に一回、この日だけだ。
 緊急事態宣言が延長されるなか、東京の西端から出かけるのは気が引けたが、事前にお寺にお電話すると、どうぞとおっしゃってくださった。蜜を避けるため、中央本線の鈍行電車に揺られ、お参りしてきた。本堂でご挨拶すると、住職が「お電話くださったかたですね。解説します」とおっしゃってくださり、観音堂にご案内くださった。
 聖観音菩薩様は小さな観音堂の奥にまつられていた。お厨子自体が、大きな保管庫に収められているため、お像まで少し距離がある。しかし、明るいので、お姿はよく拝める。とても優美なお姿だ。右腕を下にし、左手で蓮花を持つ。わずかに腰を捻る。腹部から足先へ向かう衣文の流れは、彫りが薄く、優美で穏やかだ。一瞬にして私はとろけてしまった。駅から甲府盆地ののどかな風景のなかを歩き、京都におられるような雅なお姿の観音様に出会うーーそのギャップにも心が震えた。

2) 国の重要文化財

 この優美な観音様は重要文化財に指定されており、山門前に中央市教育委員会が設置した看板には、次のように記される。

 本像は、側面で縦矧ぎされた頭体部に、耳後前後矧ぎの頭部を挿入、両臂(ひじ)、両手首、両足先、天衣等を矧ぎ付けた檜材寄木造、漆箔の立像である。像高は、九七cm、二段框座(後補)上の蓮華座の上に、光心に八葉をとどめる日輪後光(後補)の光背を背にして立つ。
 掌(てのひら)を前にした右手を下に伸ばし、左手は屈臂(くっぴ)している。往時はその手に蓮華を持していたが昭和二十四年の盗難で紛失した。左肩から右に条(じょうはく)をかけ、裳をつけ、わずかに腰を左にひねる姿は豊かで引き締まり、鷹揚は乏しいが、静的で優しく、落ち着いた気品があって、藤原時代造顕を思わせる。

 藤原時代に、京都周辺で制作されたのだろうか。腰をわずかに捻る姿勢から、単独像ではなく、如来の脇侍だった可能性も考えうる。聖観音立像は100センチ弱なので、半丈六の坐像と合わせるのにぴったりのサイズだ。藤原時代の阿弥陀三尊であれば、さぞかし優美であったことだろう。せめてどこかのお寺に片割れの脇侍が隠れていないのだろうか。

3) 災難をくぐりぬけた観音様

 永源寺はもともと真言宗で、さらに現在の曹洞宗となったそうだ。真言宗の前は華厳宗だったという伝承もあるという。つまりは、古い歴史のあるお寺だ。この地域は、笛吹川釜無川、荒川に挟まれ、水害が多かったそうで、この観音様も水害にあったことをうかがわせる伝承があるそうだ。その昔、現在の下河東と三之条の境に、人や馬が突然転んだり、足がつったりする場所があった。そこを掘ってみると、この観音様が出てきたという。住職がおっしゃるには、おそらく川の氾濫で流されて、土の中に埋もれてしまったのではないかということだった。発掘された観音様は、永源寺の末寺、普明寺にまつられていたという。『甲斐国志』(1814年、甲府勤番松平定能による歴史書)には「永源寺末普明寺の観音は、弘法作で本州巡礼第二番の札所」と記載される。普明寺が廃寺になり、永源寺遷座されたという。
 また、昭和24年9月には、観音様が盗み出された。犯人は自転車の荷台に観音様を載せて運ぶ途中、足の甲が腫れあがって動くなくなってしまった。国母まで来たところで、近くの家に「質屋から買ったものだ」と預けたが、新聞報道で盗難事件を知った家の者が警察に通報し、無事に永源寺に戻された。甲府から列車で横浜まで運び、そこから外国船に載せる計画だったという。70万円で売り渡す三段はついていたそうで、まさに危機一髪の生還だった。この際に、左手薬指と蓮華の花が失われてしまったが、今は無事に修復されている。観音様は左頬の金箔がはがれている。甲府警察署に観音様を引き取りに行った当時の檀家総代は、それを「まるで、お観音さんがうれしくて泣いているように見えた」と語ったという。
 盗難事件を受けて、昭和32年に国の補助で鉄筋コンクリート製の防火保管庫が完成。昭和59年には、檀信徒・近隣の人々の手により、観音堂全体の改築が行われている。
 平成25年10月、山梨県立博物館で展示されるに伴い、観音像の補修の話が持ち上がり、平成27年5~10月に京都美術院国宝修理所で保存修理が施された。盗難前の写真がなく、失われた左手薬指と蓮華の復元は難しいと思われていたが、昭和5年の修理時の記録(詳細なスケッチ)が美術院に残っていたことから、現在のように無事に復元が可能となった。

4) コロナ禍での公開

 私がお参りしていると山梨日日新聞が取材に来られた。コロナ禍において聖観音様を公開したことについて、住職は、「人の努力ではどうにもならないことがある。だからこそ、多くの人に観音様を拝んでいただきたい。お参りに来られる方のために、お堂を開けてあげたい」と答えられた。八王子から訪ねてきた私を温かく迎えてくださった裏に、そういう思いがあったのだと知った。ありがたくて、泣きそうになった。例年では、13:30から本堂で大般若経の転読を行っているそうだが、今年はそれは中止となった。永源寺の初午観音祭りは江戸時代から続く。来年以降は通常通り初午祭りが執り行われますように。多くの方々が観音様とご縁を結べますように。

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秘仏と住職と私…

5) 普化禅師坐像

 普化宗の開祖、普化(ふけ)禅師の坐像が本堂に安置される。毎年11月3日の中央市ふるさとまつりの際にご開帳。明暗寺、通称、虚無僧寺に安置されていたのだが、明暗寺が明治に廃寺となったため、永源寺でまつられるようになった。虚無僧さんにあやかって、ご開帳日には尺八の演奏も行われるのだそうだ。中央市文化財サイトに虚無僧さんのイラストが出てくるので、不思議に思っていたのだが、そういう歴史があったのだと知り納得した次第である。ふるさとまつりの時には、虚無僧さんの行列も行われるのだとか。ご開帳と合わせて、またこの地を訪ねたい。

6) 愛染明王と摩利支天の石仏像

 永源寺山門の前、向かって左手に、大きな石仏がまつられる。元禄年間1697年の愛染明王と摩利支天の立像である。愛染明王の立像は珍しいのではないだろうか。生彩に富むお姿で、とても魅力的である。永源寺の本堂も元禄年間に建てられたものなので、その時に一緒に造立されたお像なのかもしれない。山門をくぐると、人手不足の際に田植えを手伝ってくれたという石仏の地蔵菩薩像「田植え地蔵」もおられた。

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正面左が愛染明王、右が摩利支天

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7) 天白伊豫大権現さま

 山門の右手には、小さな石の祠がある。江戸時代、疫病が蔓延し、多くの人が亡くなり、特に子供の被害が大きかった。ある時、白衣の老人が現れ、「疫病神を退散させ、日頃の信仰に応えよう。余は天白伊豫大権現である」と言い残し、姿を消した。その後、疫病は消え、子供たちも元気で育つようになった。白キツネが石の祠に現れ、地区を眺めたあと、消えて去った。人々はあの白キツネこそ天白伊豫大権現様の化身だといって、キツネの好物を祠に捧げ、感謝の祭礼を続けてきたと言われる。明治に入って、祠が永源寺に移されたあとも毎年祭礼は行われている。天白祭は毎年9月第1土曜日の夜。祭りの夜には、誕生した子供の健やかな成長を願い、子供の名前を書いた提灯が奉納されるのだそうだ。コロナ終息を願って、小さな祠にそっと手を合わせた。
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【拝観案内】

豊田山永源寺
山梨県中央市下河東880
身延線小井川駅または東花輪駅から2キロほど
甲斐国音霊場第2番札所
聖観音菩薩立像(重文)は毎年3月第1日曜日9~15時に観音堂にて公開。この日は初午祭りで、13:30-14:30に本堂で大般若会がある。
www.city.chuo.yamanashi.jp
普化(ふけ)禅師坐像(中央市指定有形文化財)は11月3日の中央市ふるさと祭りの際に公開。虚無僧にあやかって、尺八の演奏も。
木造普化禅師座像(永源寺) [市指定]/山梨県中央市公式ホームページ

なお、永源寺のすぐ近く(1キロ圏内)に
富田山歓盛院(かんせいいん)がある。
永源寺と同じ曹洞宗。注目すべきは藤原時代の薬師如来坐像重要文化財)で、毎年10月に公開日があるそうだ。なんとしてもお参りしたい。
www.city.chuo.yamanashi.jp
なお、ご本尊は宝冠釈迦如来坐像で、中央市指定有形文化財
木造釈迦如来坐像(歓盛院) [市指定]/山梨県中央市公式ホームページ

【山梨県】立川不動尊(笛吹市春日居町熊野堂)~2月28日の特別公開~


立川不動尊山梨県笛吹市春日居町熊野堂)
平成4年、春日居町文化財に指定。
平成14年、山梨県指定有形文化財に指定。
檜材。一木造り。像高255センチ。髪際高231センチ。
体幹部を直径160cmの巨材から彫り出し、両脚部にも一材を使用。
平安時代11世紀の作と推定。
[参拝日=2021年2月28日など]

立川不動尊。2月28日は格子戸が開かれ、紅白幕がひかれている






2月28日のお祭りで格子扉が開く

 中央本線石和温泉駅と春日居駅の真ん中あたり、熊野堂という名の桃の里に、開けっ放しの小さなお堂がある。中に入るとまあびっくり。丈六の大きなお不動さまが坐しておられる。思わず「ごめんなさい」と呟いてしまうほど恐ろしいお姿。それでいて、太い腕やお体を見ていると、心がほくほくしてくる。地方の木彫仏はあたたかい。私はこのお不動さまが大好きで、何度かお参りしている。昨年夏にもお会いしたばかりだが、毎年2月28日にお祭りがあると聞き、再び出かけてきた。

 お不動様はいつもは大きな木製の格子扉の中におられる。しかし、2月28日の公開では、この扉が開かれていた。紅白幕を背に、堂々したお姿が目の前に現れた。いつもと違って、正装のお不動さまと言ってよいのか。格子に阻まれず、いつもと違うアングルでじっくりとお姿を拝むことができた。撮影許可もいただき、何枚も撮らせていただいた。
 地元の人々に愛される大きな木彫仏は素敵だ。傷みや摩耗、拙い補修の跡さえも愛おしい。大きな腕にかすかに残る臂釧に心が震える。

近隣の仏像と関係性はあるのか?

 春日居駅の反対側、桑戸地区には、やはり平安後期の五大明王像(県指定文化財)がまつられる。等身大の迫力ながら、平安後期の気品も漂うお像だ。平成に入って修理されたあと、しばらく東京国立博物館におられたが、今は桑戸地区の新しい建物に戻られ、地元の民を護っておられる。熊野堂の立川不動尊は今は単独像だが、かつては桑戸と同様、五尊でまつられていたのだろうか。春日居駅を挟んだ数キロ圏内にこれほど大規模な力強い不動明王像と五大明王像が残るとは、興味深い。
 そして、立川不動尊を見上げていると、東京都日野市の高幡不動尊不動明王像(重要文化財)が想起される。こちらも丈六の大きな木彫仏で、平安後期の作とされている。像の規模をみると立川不動尊はまったく遜色がない。
 そもそも立川不動尊という名前は、東京西部・立川市の立川氏と関係があるのだろうか。多摩地区とのつながりはあるのだろうか。

笛吹市春日居町桑戸の五大明王像(2020年9月)

コロナ禍での祭りと拝観について

 今回のお参りにあたり、事前に笛吹市観光課に問い合わせたところ、「コロナ禍のため、いつものように露店の出店はない。前日の2月27日に神事のみを行い、28日の9~15時に不動明王像の公開を行う」ということだった。28日の"公開"というのは、"格子扉を開ける"という意味のなのか聞いてみたが、観光課ではそこまではわからないと言われてしまった。そこは仏像ファンとしては重要なポイントである。半信半疑ではあったが、2月28日が日曜日だったので、とりあえず出かけてみたところ、写真のような見事な「公開」であった。
 私の住む東京の西端は緊急事態宣言下であったので、登山客で混みあう時間帯を避け、中央本線を鈍行電車で移動した。八王子からさほど遠くない。
 現地に着くと、十数名ほどの人が集まっていた。皆さん地元の関係者のようだった。コロナ禍なので、地元の方々とおしゃべりするのは気が引けた。それでも、明らかに私だけ部外者の感じだった(小規模なご開帳ではよくある)ので、「市役所に電話で伺って、お参りにきました」と小声で伝えたところ、「あー、聞いてましたよー。おいでくだっさって、ありがとうございます」と大きな声でおっしゃってくださった。少し気まずい。でも、ありがたかった。お土産にお餅とみかんを手渡された。そして、「あとお札もあるのですが、いりますか?」と言われた。ありがたくいただいたこのお札が、私にはとてもとてもうれしかった。このお不動様のたくましくもかわいらしいお姿がたまらない。このお札は今、自室に大切におまつりしている。本当にありがとうございました。

 地元の民に愛され、衆生を勇気づける大きなお不動さま。そんな光景に出会えるこの国はやはり素敵だ。来年の2月28日はもっと盛大にお祭りが開催されますように。またお参りさせてください。

【拝観案内】

立川不動尊
〒406-0012 山梨県笛吹市春日居町熊野堂135-1
上記は2021年の情報です。2月28日に公開状況については、笛吹市観光協会等でご確認ください。
2月28日以外でも、格子戸越しの拝観は可能です!



2021.2.28は晴天。白い雪を被った富士山が見えた。桃の花はまだつぼみだった

【多摩の仏像】高尾山不動堂の不動明王と二童子像~28日の朝に拝めるかも~

高尾山薬王院不動堂 不動明王および二童子

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薬王院不動堂の不動明王像(写真は東京都文化財サイトより)


 東京の西の端、高尾山に登る人は多い。身近な観光地だ。しかし、山頂近くに、東京都文化財の木彫仏がまつられることは知られていない。高尾山薬王院奥の院、不動堂のご本尊、不動三尊である。高尾山の日本遺産認定に奔走した八王子市も広報していない。不動堂の扉はいつも閉まっている。

 拝観が可能なのか何度かお寺にお電話してみたが、すっきりした返答が得られないまま時が過ぎてしまった。お不動さんのご縁日である28日の午前中に開くと聞いて出かけたこともあるが、11時に到着するとお堂は既に閉まっていた。八王子市内に都文化財の仏像は多くない。市民の誇りとして、なんとか拝観したいと思ってきた。

 今回、偶然による幸運が重なり、初めて不動三尊のお姿を拝むことができた東京都の文化財ホームページには以下のように記述される。

構造及び形式 寄木造・彩色・玉眼 不動明王112.7cm 矜羯羅童子56.4cm 制吨迦童子 57.6cm

時代/年代 中世・室町時代以前(推定)

解説文  3像とも寄木造り、彩色、玉眼。像高は不動明王像が112.7cm、左脇侍の矜羯羅童子(こんがらどうじ)像56.4cm、制吒迦童子(せいたかどうじ)像57.6cm。作者は不詳。不動像と両脇侍像とは別手の作であり、制作年代は室町時代以前と思われます。三尊構成として、童子像の形に興趣が多分になっているあたり、鎌倉期を下降した年代様を示しながら、童子像に優る中尊像においての技巧によく三尊の価値を保持している点は称揚され、優秀な作です。(昭和37年指定説明書)

 実際の不動明王立像は、この東京都のサイトの写真より、ずっと立派なお像だった。中尊不動明王立像は112.7cmとあるが、もっと大きく力強く感じた。前に飛び出すような迫力。体躯はがっしりするが、衣文は薄くひらひらと優美に動く。写真より何倍もかっこよい。

 昭和37年に都宝に指定された時の説明では室町以前の作となっているが、遠目から拝した印象では、鎌倉時代を念頭に検討してもよいのではと思った(地元民の期待も込めて)。文化財指定から60年も経っているのだから、再調査し、新たな知見のもとに制作年代を考えていただければと願う。
拝観日2021.2.28

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不動堂の不動三尊 ※写真は東京都の文化財サイトより

【拝観案内】

高尾山薬王院不動堂
不動明王のご縁日、28日の午前中(本堂護摩9:30か11:00のいずれかの後)に法要がある。法要前の朝早く、準備をする間だけ扉が開くということだった。法要が始まると扉は閉まってしまう。基本的に秘仏扱いとなっているようで、ご開帳とか公開という感じではない。何度かお電話しても、なかなか具体的な拝観情報が得られにくかったのは、そういう事情によるのだろう。またいつか28日の朝に高尾山に登ってみたい。

【参考資料】

薬王院不動堂の木造不動明王及び二童子立像(東京都指定有形文化財
https://bunkazai.metro.tokyo.lg.jp/jp/search_detail.html?page=1&id=266
本稿の仏像写真2枚はこのサイトから
薬王院の木造地蔵菩薩立像(東京都指定有形文化財
https://bunkazai.metro.tokyo.lg.jp/jp/search_detail.html?page=1&id=267
この地蔵菩薩様もいつか拝観したい。
〇日本遺産「霊気満山 高尾山」ストーリーの構成文化財
https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/takaosann/p026874.html
「構成文化財(11)御前立御本尊 飯縄大権現像」(文化財未指定)は本堂の奥にまつられており、護摩法要に参列すると最後に近くで拝むことができる。ただ、今はコロナ感染予防のため、護摩参列者の人数を減らしているようだったので(護摩を申し込んだ人のみ)、今回は参列をご遠慮した。

【おまけ=不動堂周辺の写真】

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2月28日朝9時半頃に到着すると、普段閉まっているお堂の扉が開いていた。中ではお護摩の準備をされていた。
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不動堂の前に建物に関する説明はあるが、不動三尊だけを開設する看板は設置されていない。
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不動堂からもう少し登ると高尾山の山頂。きれいな富士山が拝めた
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白雪に覆われる富士山♡
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山頂から戻ると、不動堂の扉が閉められ、法要が始まっていた。堂内をのぞけるのは法要前の準備の間だけ

【福島】会津・勝常寺の薬師如来坐像に圧倒される私(トーハクみちのくの仏像展にて)

※2015.4.13投稿記事を再掲します

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写真=『勝常寺の仏たち』(平成28年)より

  東京国立博物館「みちのくの仏像」展(2015年1月14日~4月5日)を2度観覧(というか拝観)した。

 小規模ながら、天台寺のなた彫りの観音様、成島毘沙門堂の伝吉祥天、小沼神社の観音像、円空仏など、見どころ満載の展覧会だった。

 しかし、私は勝常寺薬師如来さまの前から一歩も動けなくなってしまった。

 世界にどれだけ立派な男性がいたとしても、目の前のたった一人の人に心を奪われて動けない、そんな感覚。いや、そんな陳腐な表現ではまったくもって物足りない。いったい何なのだろう、私の胸を激しくつかむものは。

 勝常寺薬師如来坐像は、とにかくお体全体がどっしり、ボリューム感たっぷり。頭のらほつもお顔つきも安定感がある。

 施無畏を差し出す右の腕が少しだけ衣からのぞくのだが、その腕がまた太くて力強い。

 力強いだけではない。美しさも半端ない。ゆっくりとドレープを描く衣文はその流れの最後に左足に巻き付く。その巻き付き方のあまりのチャーミングさに胸が弾む。

 ここまで絶対的な安定感と美しさを示しているのに、左手のあの薬壷の持ち方は何なのか。斜めに下げた手のひらにちょこんと薬壷を載せているだけではないか。まるで「ほら、さっさと飲みなさい」と薬壷ごと患者に放り投げるかのようだ。

 ぐたぐたと書いてしまった。

 一言でまとめるなら、絶対的な安定感と美しさと若干のやんちゃさを合わせもった、薬師の中の薬師だと思う。

 徳一上人が作らせたという、都ぶりのするお姿。会津の厳しい自然の中を生きる人々をどれだけ励ましたのか―――浅学の身には想像さえしかねる。

 けれど、私自身はとてつもなく励まされた。恋に落ちて、救われたとも言えるかも。南無薬師如来とはこういう心境を言うのだろうか。


【参考資料】
勝常寺の仏たち』勝常寺薬師如来三尊国宝指定20周年記念事業実行委員会・発行(平成28年10月)
(2017年秋に参拝した際、勝常寺で購入。若林繁氏監修。写真入りで各仏像の解説がある。勝常寺ファン必携の一冊)

【後記】
 2015年にこれを書いたあと、会津湯川村勝常寺を2度お参りした。大きくて武骨な本堂。その中央に坐す薬師如来様。間近で拝観し、恋心はさらに激しく燃え上がった。じっくりと時間を取って、またお参りしたい。収蔵庫の諸像も平安前期の素晴らしい仏像ばかり
 なお、現在、東京の八王子市夢美術館で「土門拳×藤森武 写真展 みちのくの仏像」が開催中(2021.2.11-3.28)。藤森武による勝常寺の仏像の写真も10点展示されている。お近くの方はぜひ。
 昨夜、東北でまた大きな地震があった。10年前の大震災の余震だという。10年たって、また震度6強とは。コロナもあるなかでの対応、考えただけで気が遠くなる。どうか神仏のご加護がありますように。どうか人々をお守りください。2021.2.14記。

【展覧会】横浜の仏像@横浜市歴史博物館〜地域限定の仏像展は素敵です!〜

横浜の仏像
横浜市歴史博物館
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 横浜はサイクリング拝観の圏外なのだが、会場である横浜市歴史博物館のすぐ近くで所用があり、出かけてきた。こんなに気持ちのいい博物館が都筑区にあるとは知らなかった。
 「横浜の仏像」展の会場では、ほどよい照明のもと、とてもよい距離を保って、魅力あふれる仏像が並んでおられた。一瞬にしてめまいがした。仏像に当てられてしまったのだ。展覧会場やお寺で仏像の迫力を強く感じてしまい、一時的に呼吸困難になったりする症状をなんと言ってよいかわからないので、私はそれを「仏像に当てられる」と呼んでいる。こういう症状は2017年の「島根の仏像」展以来だ。息絶え絶えに、まずは会場内を一周。そして、いったん会場外に出て一息ついた。やっと正気を取り戻し、また会場へ。結局3時間、ただただ興奮しながら仏像を観て過ごした。地域限定の仏像展は素敵だ!

 100年に一度のパンデミックで、目に見えないストレスを受けている。それが私の仏像の受け止めかたに何らかの形で影響を及ぼしているのかも。そんなことも思いつつ、みほとけを拝した。

 私が特に惹かれたのは、「12. 菩薩立像(伝千手観音像)真福寺青葉区)」である。
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 とにかく不思議なお姿だ。腕は8本で、後方の2臂は後補だという。腕2本を足したほうがかっこよいと思った人がいたのだろう。穏やかで素朴なように見えて、身体の奥底から不気味な力を発しているようだ。お顔は真ん丸で、安心感がある。一方で、口元は強い意志を秘めたように閉じており、両耳も固く張り出している。なにより特徴的なのは、瞳を閉じたかのような両目だと思う。薄めを開けているのか、それとも完全に目をつむっているのか。大法寺(長野)と千原観音堂大阪府泉大津市)の観音立像が目をつぶっておられたのを思い出した。いずれも静かな興奮を覚える観音像である。なぜ目をつぶる観音像が造られたのだろう。瞳を閉じた観音様は、視覚以外の五感を使って、何を感じようとしているのか。目をつむって何を観ようとしているのだろうか。そんなことを考えながら、しばらくこのお像を見上げていた。

 次に心を奪われたのは、「17.十一面観音立像 西方寺(港北区)」。とにかくかわいい。2011年の震災時に破損したのだが、その後修理の完了時に、西方寺観音堂でご開帳されたのを覚えている。その時は外陣からの拝観で、少し距離があった。近くで拝むと、想像していた以上に優しく、とにかくチャーミングであられた。近くで拝観できると、お像のよさがもっとよくわかるのだと実感する。若干腕が短めのように感じられるのだが、それがかわいらしさをさらに引き立てているのだろうか。また、気になっていた頭頂の化仏が後補らしいことも、今回目視で確認できた。化仏は目や鼻を彫り出さない、のっぺらぼうのお顔である。造立当初の化仏ものっぺらぼうだったのだろうか。気になる。子年開帳の秘仏だ。次はいつお会いできるだろうか。

 「33. 阿弥陀如来立像と装着面 永勝寺(戸塚区)」には驚いた。かわいい系の阿弥陀如来立像かと思いきや、その隣にお面が展示されており、来迎会練供養ファンの血が騒いだ。解説によると、戦国時代にお堂の前を通った人が落馬したり、失礼な態度を取った人が倒れたりしたことから、お面を被せたところ、そのような祟りがおさまったという。通称、面掛阿弥陀如来。なんと素敵なネーミングだろう。お面は僧形像の面部としてつくられた可能性があるとのこと。

 「22. 阿弥陀如来坐像および両脇侍像 真照寺(磯子区)」。1年前にお寺をお参りした際、「阿弥陀三尊はまだ一般拝観できる環境ができていない。展覧会に出すので、その時にぜひ」と言われた阿弥陀三尊についにお会いできた。近年の修理で金ピカのお姿ではある。その金色の下に、平安後期の特徴を見出せる専門家に敬意と感謝を捧げたい。2/7までの期間限定展示!

 「25. 薬師如来坐像 東光禅寺(金沢区)」。お会いしたかった薬師如来様についにお会いできた。私はコロナが始まってから、Zoom坐禅会に毎週参加しているのだが、その坐禅会に東光寺の住職が一度ご参加くださった。流暢な英語を話される方で、お寺のホームページも超絶にかっこよい。サイトに掲載された薬師如来様の写真もかっこよくて、いつか拝観できればと思っていた。像高28cmと小さいが、小さいものにこそ仏師の匠の技は引き立つもので、その最たる例だと思う。

 「30. 釈迦如来立像 真福寺青葉区)」。12番の菩薩立像と同じお寺からお出まし。本展覧会のメインビジュアルを務められる。162cmの堂々としたお姿。衣文の流れに見入ってしまう。お顔もなぜか惹きつけられる。この不思議な瞳はなんなのだろうと思っていたら、銅板が貼ってあるのだそうだ。何時間でも見上げていたくなるお姿である。(※その後、瞳は銅板ではなく、本体から彫り出したものと判明→https://twitter.com/hphiyodori/status/1359846128854790146?s=20 いずれにしても、不思議な瞳であることに変わりはない)
 個人的な話になるが、この釈迦如来立像を大きくデザインした本展覧会の広告を目にするたび、少し胸が苦しかった。このお寺のすぐ近くの病院に、父が入院していたからだ。救急車で運ばれたときのこと、手術を待つ間のことなど、つらい記憶が蘇ってしまうのだ。その当時は、そばにお寺があることも、こんなに立派な仏像がおられることも知らなかった。知っていたら、お見舞いの際にお散歩して、心が和らいだかもしれない。
 この釈迦如来様に実際にお会いでき、ここ数か月のもやもやは解消できた。そっと合掌した。

 そのほか、書きたいことは山ほどあるが、とりあえずここまで。魅了された仏像は他にもたくさんある!

【石仏】徳本名号塔をめぐる~八王子編4~(寺田町)

八王子市・徳本上人名号塔 No. 11) ~寺田町路傍~

 八王子市の徳本名号塔 11番目として、寺田町で見つけたものをご紹介したい。

場所 八王子市寺田町(中寺田の美代田橋近く)
造立年 文政6年(1823)
銘文 正面=南無阿弥陀仏 徳本、右=文政六年癸未、左=七月吉日村講中(注※1)(注※2)
(調査日 2020年11月29日)
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1) 探すの大変! やはり地元の大家さんはさすが

1-1) 過去の調査記録にあたる

 グリーンヒル通りから分岐する小さな道沿いにある徳本名号塔。近所の方々に伺って、やっと見つけることができた。
 まずは、『旧横山村石仏調査報告書』(八王子石仏の会、1998年)の以下の記述を頼りに、調査を開始した。

87.9.13調査 
旧中寺田 
代田橋より上寺田方面道路わきにNo.18 19 20がブロック塀内に安置されている

 このNo.20が徳本上人名号塔である。No.18とNo.19は石仏の観音像と庚申塔だという。1987年の時点では、この3つが道路沿いのブロック塀の中に存在していたことになる。まだ同じ場所にあるのだろうか、また、あったとしても、見つけられるのだろうか。半信半疑で調査を開始した。

1-2) 橋オタクさんのサイトに感謝

 まずは、美代田橋を探した。実は、上記の記述を目にしたとき、これは大変だと思った。多摩川の支流の支流の支流みたいなのがいくつか流れている地域なので、橋もたくさん架かっている。一つ一つの橋の名前など地域の人も把握していないだろうと思っていた。しかし、橋の場所は思いのほか簡単に見つかった。「東京の橋」というマニアックなサイト(こちら東京の橋:美代田橋)に位置情報付きで紹介されていたのだ。橋オタクさんの作成されたであろうサイトに敬意と感謝を表したい。
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1-3) 最後は地元の方のご協力のおかげ

 美代田橋(ミヨタハシ)までいくと、すぐ近くに「中寺田」というバス停があった。バス停の時刻表を見ると、一日に数本しかバスの運行がない。大通りから一本入っただけなのだだが、かなり静かな住宅地だった。このあたりが確かに「中寺田」だったのだろう。上述の資料から「美代田橋より上寺田方面」の「道路わきのブロック塀内」を探す。しかし、「寺田町」という地名は今も残るが、「中寺田」「上寺田」という住所は今はない。
 したがって、上寺田方面がどちらの方向なのかわからない。やみくもに周辺を往復してみると、高台に榛名神社があって石仏や石碑があり、また、小さな牧場の片隅にも石仏が並んでいた。石仏密度がかなり高い地区のようだ。
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 しかし、徳本上人名号塔はなかなか見つからない!
 また美代田橋まで戻って、周辺をうろうろしていると、近くの方が外に出てきた。アヤシイ人がいると思ったのだろう。不審がらせてしまったのは大変申し訳ないが、これは私にとっては絶好のチャンス。私から話しかけてみた。そして、そのおかげで、ご近所の年配の男性にお話を伺うことができた。「200年前の石碑を探しているんです」と必死にアピールをしたところ、ふんふんと話を聞いてくださった。しかし、この男性も「上寺田方面」とはどの方角かわからないとのこと。「大家さんに聞いてみましょうか」とおっしゃった、ちょうどその時、なんと大家さんが車で通りかかった。大家さんいわく、「あー、それたぶんわかる。〇〇さん家のところだよ、たぶん。ちょうど上寺田方面だし。ここからすぐそばよ」とのこと。さすが大家さんは地域の事情に詳しい。「でも、石碑は3つもあったかなー」と首をひねりながら、大家さんは車で立ち去られた。
 私は、「わかりました、探してみます!」と言って、自転車を漕ぎだした。すると、少し離れた先で、大家さんが車を停めて、手を振ってくださっていた。「ここよ! 本当だ、三つあったわね」とおっしゃった。大家さんの指さす先に、探していた徳本上人の独特の文字があった!
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2) 自然石のゆがみの上に刻まれる南無阿弥陀仏の文字

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 小さな冒険のあと、私の目に飛び込んでくる徳本上人の南無阿弥陀仏の文字。この感動と幸せをどう表現すればよいのか。
 寺田町の名号塔は大きな太い自然石のもので、かなり黒ずんでいた。しかし、徳本上人の独特の文字ははっきりと読み取れる。幸せを感じさせる、流れるような六文字だ。
 ここ美代田橋近くの徳本名号塔の特徴は、凹凸のある正面に名号を刻んだ点だろう。南無阿弥陀仏の文字はかなりうねっている。
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 これまでに見つけた八王子の名号塔はすべて自然石に刻まれていたが、正面は比較的、平らになっていた。自然石のゆがみにも心惹かれてしまう。
 過去の石仏調査書を頼りに、地元の人のご協力を得て、200年前のお念仏の証を探し出せるとは、なんとありがたいことだろう。

注※
1) 『旧横山村石仏調査報告書』(八王子石仏の会、1998年)より
2) 住宅地のため、住所の記載は控えています。徳本名号塔を調査されている方で、正確な場所を知りたい方は、お問い合わせフォームからご連絡ください。
butsuzodiary.hateblo.jp

【石仏】徳本名号塔をめぐる~八王子編3~(めじろ台)

八王子の徳本上人名号塔 No.10
所在地 八王子市めじろ台1丁目(旧福泉寺跡地)
文政7年

 閑静な住宅街の片隅に、お寺の跡地が墓地として残る。その小さな一画の隅に、時間が止まったままのように、徳本上人名号塔があった。
 傾斜地に一本、木が立つ。その両脇に石仏の地蔵菩薩立像と徳本上人名号塔。木は育ち、名号塔を圧迫し、やがて包み込んでいくように見えた。
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 八王子市の横山地区と東浅川地区を中心に、徳本名号塔10基を巡ったが、この名号塔がおそらく最も大きい。高さ110cm、幅67cm、奥行き40cm(※ 八王子石仏の会『旧横山村石仏調査報告書』1998年 より)。保存状態も良好で、名号の文字もはっきりと目視できる。
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 造立年度などの銘文は私は確認できなかったが、前掲書によると、名号塔の左側に「文政甲甲四月 中散田」と銘があるそうだ。文政甲甲とは、調べてみると、文政7年。また、散田という地名は今も残るが、中散田という住所は今は聞かない。
 冒頭に現在の位置を「めじろ台」と書いたのは、現在の墓地がめじろ台一丁目の端にあるからで、そこは散田地区と接している。そもそも、めじろ台は、昭和40年代に京王電鉄が宅地造成して分譲した際に作られた地名であり、徳本上人が入られた頃には存在しない地名である。
 徳本上人名号塔を巡り始めたばかりの私だが、この名号塔には本当に感動した。次世代に承継したい遺産である。
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(↑ 横から見ると、かなり奥行きのある石であることがわかる)
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(↑ 裏手から見る)

【神奈川】足柄地蔵尊(南足柄市)150年ぶりのご開帳

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1) 足柄地蔵尊、150年ぶりのご開帳! さてお像は無事なのか!?

 「♪まさかりかついで金太郎〜」こと、坂田金時の生地の近く、足柄地蔵堂でご開帳があり、お参りしてきた。

足柄山誓光寺 足柄地蔵堂(神奈川県南足柄市
秘仏地蔵菩薩様ご開帳
ご開帳日 2020.11.21-22

 足柄地蔵尊のご開帳は150年ぶりだという。150年も開扉しないで、お像の傷みはないのだろうか。そう思って調べてみると、1979年に神奈川県の文化財に指定された木彫像だとわかった。少なくとも誰か専門家が像の状態を確認した証である。しかも、ご開帳日を前にした神奈川新聞の報道によると、昨年11月に、東京国立博物館の浅見先生が調査されたのだという。
 事前に写真でお姿を拝することはできなかったが、きっと立派なお像であろう。期待に胸を躍らせながら出かけた。

2) 温かみのあるご開帳

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 2020年11月22日、朝9時に現地に到着。早くも多くの参拝者がおられた。朝8:30からの開帳法要が終わった直後のためか、団体参拝の方々がちょうど帰られるところだったようだ。
 受付で検温を済ませ、お檀家様が手作りされた説明の冊子(200円)、お地蔵様のブロマイド(確か300円)、書き置きのご朱印(確か500円)を購入。文化財保護の支援の気持ちも込めて、すべて拝受させていただいた。
 小さなお寺のご開帳といえば、地元の方々が手弁当で準備され、善男善女がにこやかに集う印象がある。秘仏を中心にした、そうしたご縁つなぎのイベントがご開帳なのだと私は認識している。足柄地蔵尊のご開帳はまさにそうした温かみのあるものだった。今年はコロナでご開帳の中止や規模縮小が多かったため、こういう光景を見るのは、ものすごく久しぶりな感じがする。泣けてくる!
 おりしも、ご開帳をお祝いするような快晴。澄み渡った青空のもと、モミジの葉は黄色から紅色への見事なグラデーションで参拝者を歓迎する。お地蔵様のご真言が流れる中、秘仏本尊地蔵菩薩様の拝観の列に並んだ。

3) 土下座拝観!? みんなで膝をつき、かがみ込んで見上げる!

 小さな本堂の裏手に、秘仏本尊地蔵菩薩立像を収める収蔵庫が立つ。収蔵庫の中には入れず、外から拝観させていただく。お地蔵様は、収蔵庫内の大きなお厨子に安置されているため、お顔がよく見えない。
 このため、参拝者は3人ずつ収蔵庫の前に並んで膝をつき、かがみ込んだ上で、お地蔵様を見上げる形での参拝となった。大きな地蔵菩薩様に見下ろされるこの状況、私は決して嫌いではない。もはや土下座拝観と名付けてもよいだろうか?

4) 秘仏 足柄地蔵尊

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(ご開帳時に有料配布された、いわば公式写真)
神奈川県指定文化財
像高160.5cm
13世紀後半
檜の寄木造
玉眼
頭部と肉身部は黒漆塗り
着衣は朱漆塗地に銀泥で文様を描く

 土下座の姿勢で見上げてみると、地蔵菩薩様は、たくましく、がっしりとした印象だった。160cmという像高もさることながら、体躯も太い。力強いお姿だ。若干むちっとした感じもある。おそらく運慶好きな人にはたまらないのではないだろうか。
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(↑檀家様手作りの冊子より)

 この冊子の写真のほうが、先に貼った"公式写真"よりも実際のイメージに近いような気がする。大きな頭部に嵌められた玉眼は鋭いが、私達を威圧するわけではない。太い体躯と複雑な衣文もあいまって、安心して頼りたくなるお姿だった。いずれにしても、写真より数百倍素敵であるので、その旨力説しておきたい!

 なお、今年の春、箱根の正眼寺曽我堂で、鎌倉時代地蔵菩薩立像2躯が並び立つのを拝観させていただいたので、そちらとの比較も実は楽しみにしていた。正眼寺地蔵菩薩ツイントップもとても素敵なので、ぜひともお参りされたい。こちらは春と秋のお彼岸にご開帳である。

 足柄地蔵堂では、次のご開帳は考えていないと伺った。もったいないことである。ご尊像の安否確認も兼ねて、年一ぐらいで拝ませていただけないだろうか。

5) 拝観案内

足柄山誓光寺 地蔵堂
大雄山駅から1時間に一本ぐらいでバスがある。足柄山への登山者も多く利用するバスのようである。
地方のお寺はアクセスが厳しいことが多いが、今回のご開帳は南足柄市がホームページでバスの時間まで案内してくださり、大変助かった。法要時間も記載されており、拝観スケジュールを立てるのに役立った。
goo.gl

参考資料

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【石仏】徳本名号塔をめぐる〜八王子編2〜

徳本上人名号塔
場所 八王子市長房町・船田町会会館
調査日 2020.11.21

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1) 調査番号5) の長房町・船田町会会館の徳本名号塔、ついに発見!

 11/15の調査で見つからなかった船田町会会館を再訪。私のFacebookをご覧くださったお近くの龍泉寺副住職様から情報を得て、低木の中に隠れていた徳本上人名号塔を見つけることができた。発見というか、発掘というか、そういう仰々しい言葉を使いたくなるほどの感動である。

2) 植栽カットでinvisibleからvisibleへ!

 新たな進展もあった。たまたま通りかかった地元の方が、低木を少しだけカットしてくださったのである。以下の写真1枚目が植栽カット前で、2枚目がカット後。小さな祠の正面向かって右側に低木の植栽がある。写真1枚目では植栽しか見えないが、2枚目では小さな石碑が見えるのがお分かりいただけるだろうか。それが徳本名号塔である。
 高さ60cmほどの小さな名号塔で、文字もかなり薄れている。しかし、徳本上人の独特な筆跡で南無阿弥陀仏と書かれており、左下の徳本という文字も見える。
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 植栽を切っていただいた経緯はこうだ。
 私が再訪した11月21日、船田会館では、研ぎ師の方々が出張に来られて、ひたすら刃物を研いでおられた。私はそのすぐそばで、低木の茂みを必死でかき分けていた。すると、一人の男性が通りかかった。偶然にも、手には大きな植木鋏を持っている。後から冷静になって思い返すと、研ぎ師さんに預けていた刃物類を取りに来られたのだろう。
 「町会会館前の茂みに座り込むアヤシイ女性」と「大きな植木鉢を持った地元の男性」。この構図に潜む危険性をとっさに嗅ぎ取った私は、自分の「アヤシイ」部分を払拭しようと、思わず男性に話しかけた。まず飛び出した言葉が「徳本上人名号塔をご存知ですか?」だった!!
 「はっ?」と首を捻る男性に私は話し続けた。「200年前の石碑を調べているんです。徳本上人という方が200年前に八王子に来られて、その方の独特な文字を刻んだ御念仏の石碑なんです。植木に隠れて、見えなくなっているんです」。
 変なテンションで話す私に対して、その男性はいたって冷静だった。「あー、そういうことでしたか。そういう歴史的価値があるものだとは認識してませんでした」と静かにおっしゃった。そして、研がれたばかりの植木鉢で、ざくざくと名号塔の周りの低木を刈り込んでくださったのだった。
 丸腰のおばさん(=私)のほうが興奮気味で、危険な武器(=植木鋏)を持った男性のほうが冷静だった! なんともありがたい。そして、なんと未熟な自分だろう。
 船田会館は年に2回、地元の方々が整備をされているそうで、写真を見返しても、きれいに植木の管理がなされていることがわかる。
 船田町会会館は、近くの慈眼寺の隠居庵の跡地に建つと聞いた。徳本上人名号塔がこの地に残るのことの意義は大きいと思う。

参考資料

この徳本名号塔については、八王子石仏の会『旧横山村石仏調査報告書』1998年に記載がある。
前回の拙調査の報告は下記のポストのとおり。
butsuzodiary.hateblo.jp

【山梨】逍遥院(甲府市)地蔵菩薩立像と東禅寺(甲府市)宝冠釈迦如来坐像

向富山逍遥院(山梨県甲府市

地蔵菩薩立像
市指定 91cm 一木造り 
 だいぶ磨耗している。両手・両方の袖先、両足先は後補。正面から拝観しても素敵だが、私はこのお背中に惹かれた。木は朽ちても、それでもなお、すっとお立ちで、胸が熱くなる。
 普段は庫裡に安置し、非公開だという。甲府市による特別公開が2020年10月30日と31日に行われ、その際に拝観させていただいた。
 逍遥院本堂の端っこが公文の教室になっていた。寺子屋は公文なのである。こんな公文なら通いたい。
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※写真は許可を得て撮影

鳳凰山東禅寺山梨県甲府市

宝冠釈迦如来坐像
県指定
105cm 檜の寄木造り。玉眼。宝髻の矧目の墨書を「辛亥」と読めば建長3年(1251)のものと想像できる。ただ、そこまで古いものかどうかは不明。(甲府市の配布資料より)
堂内外陣から拝観させていただいたが、ご尊顔が美しく、衣文も流麗。「畿内の仏師によると想定」(甲府市)というもの納得
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※写真は甲府市のサイトより
甲府市/木造釈迦如来坐像

【石仏】徳本名号塔をめぐる〜八王子編1〜


 先日、相模原市立博物館で、相模原市内に徳本名号塔が多数残っており、すべて市の文化財に指定されていることを知った。八王子市内にも残っているようなので、八王子郷土資料館に行き、下調べしたうえで、市内を巡ってみた。

徳本上人が八王子にやってきた

 徳本上人(1758-1818年)は、文化14年(1817)11月15日からの19日の5日間、八王子の大善寺に滞在したことが、『石川日記』に記されている。当時の大善寺は現在の大横町にあり、関東十八壇林の一つだった。『桑都日記』(巻之十四下編)には、「念仏行者徳本、桑都に来たり強化大いに行はる。徳本は紀州の人、念仏を専修し、郡国を周流し大善寺に寄寓すること数日。土人大いに化す。爾来、徳本講と称し、一派の念仏会あり」とある。
 徳本上人に因んだ念仏講の際に造立されたのが徳本念仏塔で、自然石の正面に「南無阿弥陀仏」と刻む。徳本上人の流れるような筆跡が特徴である。石の裏側には、造立年度や講の名称が刻まれる。

 私が八王子の徳本名号塔を巡ったのは2020年11月15日。徳本上人が桑都、八王子に入られてからちょうど203年後のことだった。旧暦と新暦の違いはあるものの、この偶然に胸が震える私である。

1) 八王子市裏高尾町(駒木野の小仏関所跡近く)

文政4年
35°38'28.0"N 139°15'52.3"E

 旧浅川町の石仏をまとめた資料において、裏高尾町駒木野514神明社の欄に掲載されていた名号塔である。神明社は見つからなかったが、幸いなことに、徳本名号塔は道端で偶然見つかった。当該資料の写真と同じ場所に今も安置されているようだ。保存状態もよい。
 小仏関所跡前のこの細い道は、高尾駅北口から出発する路線バスの通り道になっている。高尾山への登山者が使うバス という印象である。駅から蛇滝の登山口まで歩く人もいるようで、この日も登山客が何人か、徳本名号塔の前を通り過ぎていった。小仏関所を過ぎると、この石仏群の辺りから緩い下り坂になっており、これを念珠坂と呼ぶようである。
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2) 八王子市東浅川町・原宿会館前

文政4年
35°38'46.9"N 139°17'19.7"E

 資料に比べると、徳本名号塔も木喰正観もだいぶ摩耗してしまっていることがわかる。甲州街道の銀杏並木に面した、車の往来の多い場所にある。何度も通っているはずだが、これまでまったく気づかなかった。
 ちなみに、この石仏群のすぐ後ろは個人のお宅。徳本名号塔のすぐ後ろに、黒いスニーカーが干してあった。
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3) 八王子市東浅川町・原家墓地内

文政4年
35°38'31.3"N 139°17'33.2"E

 資料の「東浅川町三田775古道脇(原家墓地)」という情報のみを頼りに探した。この墓所の裏手は急な坂になっており、今は大きなマンションが立っている。最初そのマンションの方を探したが見つからなかったので、再度坂を下りて、西側のスターレーン(ボーリング場)の方に回り込むと、この墓所が見つかった。ちなみに、三田という地名は今はないが、近くに「三田町会」の掲示板はあった。
 原家墓所内、メインの墓石のすぐ横(正面右)に、この徳本名号塔は立っていた。墓所への畏怖と敬意から、墓地全体の写真は自粛し、徳本名号塔のみ写真を掲載する。
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4) 長泉寺(八王子市長房町1258)

文政7年
 長泉寺は多摩御陵の近くの高台にある、臨済宗南禅寺派のお寺。徳本名号塔は本堂前に静かに安置されていた。境内は狭いが清潔で、静かに落ち着いてお参りできる。一番下の「徳本」というところがかわいい。
 石平道人坐像(正三坐像)が市の文化財に指定されている。拝観させていただけるのだろうか。今度伺ってみたい。
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5) 船田町会会館(八王子市長房町)

 船田町会会館の敷地内にあるようなのだが、それらしきものが見つからなかった。事前に調べた資料に最も近いのがこの写真。今ひとつ文字が読み取れないし、しかもなぜか、今流行りのフィギュアがお供えしているようだった。
 資料のNo.68の徳本名号塔をご存知の方がおられたら、ぜひ所在を教えてください。よろしくお願いします。
(No.69-71の石仏は会館横の社に祀られていた)
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6) 長安寺(八王子市並木町)

文化14年
 今日お参りした徳本名号塔の中で最も古く、唯一徳本上人の存命中のものである。
長安寺は甲州街道沿い、西八王子駅高尾駅の間に位置する。曹洞宗のお寺であり、武相観音霊場の札所である。秩父から移されたと伝わる観音像がおられ、武相観音霊場のご開帳の際にお参りさせていただいた記憶がある。
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7) 真覚寺(八王子市散田町)

 境内の池の手前、石仏の並ぶ一角に安置。名号の上に円形の刻印があるが、これはなんだろう。しかも、造立年度がわからないので、また資料館に調べに行かなくては。現地では、塔の裏側に覆いがあるため、塔の裏側は確認できなかった。
なお、真覚寺の白鳳仏、薬師如来椅像(八王子市文化財)は、八王子郷土資料館で拝める。せっかくなので、薬師如来様の写真も合わせて添付する。
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8) 八王子郷土資料館(八王子市千人町・興岳寺)

文政10年
 興岳寺(八王子市千人町)の徳本名号塔が八王子郷土資料館の庭に安置されている。昭和25年以降に登場した赤い郵便ポストの前に置かれていて、少しシュールではある。郷土資料館は来年3月に移転する。資料館の庭には、これ以外にも庚申塔二宮金次郎像などが展示されているので、すべて無事にお引越しされることを願う。
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9) 龍見寺(八王子市館町)

文政4年
 龍見寺といえば、大日如来坐像(東京都文化財)が大好きで何度もお参りしている。しかし、まさにその大日堂に登る階段の手前にあるのが、徳本名号塔だとは知らなかった。手入れの行き届いた、美しい名号塔である。
 こちらの名号塔の写真は、さる10月30日に大日如来坐像が公開された際、撮影したもの。せっかくなので、大日如来様の凛々しいお姿も貼りつけておく。その美しさに唸るべし。
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また調査に行きたい

 南無阿弥陀仏と書かれた石をただ巡るだけ。それだけなのだが、とても癒された。あの流れるようなお茶目な名号を見ると、思わずにっこりしてしまう。そして、十円玉をお供えし、お十念をつぶやく。
 八王子市内にはまだこれ以外にも徳本名号塔は存在する。○○橋の近く、というような曖昧な情報もキャッチしている。なんとか見つけたい。
 今度はできれば少しのお花をお供えしたい。そして、メジャーを持っていって、石の採算をしたい。

参考資料

○紺野英二「屋外展示の石造物”徳本念仏塔”」
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○縣敏夫 編著『八王子市 旧浅川町の石仏と地誌』
○八王子石仏の会『旧横山村石仏調査報告書』1998年
相模原市文化財には、市内の徳本名号塔が詳しく紹介されている。例えば、このサイトを見ると、上人が1817年11月19日に原当麻無量光寺に到着したことがわかる。八王子市の資料とよみあわせると、八王子の大善寺を出立して、無量光寺に向かったことがわかる。
38.無量光寺の徳本念仏塔(むりょうこうじのとくほんねんぶつとう)|相模原市