ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【栃木】鹿沼まるごと博物館「とちぎの宝 医王寺の至宝」~市が主催して寺で開催する画期的な展覧会~


鹿沼まるごと博物館第6回企画展「とちぎの宝 医王寺の至宝」
会場 東高野山 医王寺
会期 2020年10月31日~11月8日
観覧料 500円(中学生以下無料)
主催 鹿沼市鹿沼市教育委員会・とぎの宝医王寺展実行委員会

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医王寺の至宝展チラシ表
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医王寺の至宝展チラシ裏

1) 市が主催して寺で開催する画期的な展覧会

 「鹿沼まるごと博物館」とは、「市域全体を博物館として捉え、中央館を中心に各地の地域資源をネットワーク化し、様々な分野で活用を図ることで、地域の教育・文化の向上などに活かしていくもの」(市のサイトより)。
 仏像ファンの間でよく話題になるのは、「仏像は展覧会だと明るい照明で間近で拝める。でも、信仰の対象なのだから、お寺で拝むのが一番」というジレンマだ。それを難なく克服したのが、今回の医王寺の「まるごと博物館」なのではないだろうか。
 医王寺は山門、金堂、唐門、講堂と縦長にのびる境内を歩くだけでも神聖な気持ちになる。鎌倉時代の仁王さんにご挨拶したあと、金堂に入ると、たくさんの仏像にお会いできる。どのお像にも間近でお会いできる。ガラスケースもない。
 今回の「鹿沼まるごと博物館 医王寺の至宝」展では、金堂が第一会場、講堂が第二会場と呼ばれている。第一会場の入り口でチケット(500円)を購入すると、詳細な作品解説とカラー写真が掲載された冊子(全14ページ)がもらえる。この冊子を読み込みながら、間近で仏像を拝観できるのだ。お寺なので、躊躇なく合掌もできる。まずは仏様に手を合わせる。そして、冊子の解説を読みながら、お姿を鑑賞できる。なんと幸せなことだろう。前述の仏像ファンのジレンマを解消する手段として、画期的だと思う。

2) 金堂の薬師三尊~月光菩薩様に心奪われる~

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写真は当日配布の冊子より

薬師如来及び両脇侍像 薬師如来 83.0com 左脇侍107.8cm 右脇侍110.1cm 鎌倉時代13世紀 県指定文化財

 仏像の多くは第一会場である金堂に集められている。実は目当ての平安仏があって出かけたのだが、最も心を奪われたのは、金堂の内陣の宮殿にまつられた薬師三尊だった。こちらの月光菩薩に心を奪われてしまった。
 金堂本尊であるこの薬師三尊は、江戸時代には、金堂宮殿の薬師如来(現在の講堂本尊で、60年に一度の秘仏。県指定文化財)のお前立として、宮殿前に安置されていたという。これほどの鎌倉仏がお前立だったとは。
 特に、月光菩薩は身体を斜めに傾け、衆生を見下ろす感じがたまらない。宮殿厨子内の高い位置におられる薬師三尊の真下に屈むと、薬師如来月光菩薩と目が合うポイントがあるので、ぜひ現地で体感してほしい。
 十二神将は後補の塗装をはがす保存修理が行われたそうで、ビフォーアフターの写真が掲示されていた。奈良・室生寺十二神将像に似たポーズのものがあるそうだ。室生寺像よりは小さめだし、動きもかたい感じがしたが、それでも十二体そろって堂内に並ぶさまは壮観。

3) 十一面観音立像~大津の聖観音菩薩立像に似ている!?~

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間近で拝観できた。写真は当日配布の冊子より

十一面観音立像 146.6㎝ 平安時代 県指定有形文化財

 平安中期の十一面観音立像。普段は講堂の収蔵庫におられ、非公開だと伺った。本展では、間近で拝観できた。冊子によると、滋賀県大津の九品寺の聖観音立像(10世紀後半)との類似が多く認められるという。同じ時期に近畿地方でつくられた可能性が指摘されていた。大津の九品寺の聖観音像といえば、去年の秋の大津歴博の展覧会に参考展示され、撮影可能だったお像である。さっそく写真を引っ張り出してみると、像の優劣は感じてしまうものの、確かに雰囲気は似ている。医王寺のほうが少し表現がかたいような気がしたが、平安中期に遡る等身大の立像が関東で拝めるとはありがたい。

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【参考】九品寺(滋賀県大津市聖観音立像 2019年に大津歴博にて筆者撮影

 九品寺像と異なるのは、聖観音ではなく、十一面観音立像だということ。医王寺像は化仏の菩薩面がお顔を彫り出さず、のっぺらぼうになっていた。私の好きな表現であり、胸がきゅんきゅんした。係の方に伺ったところ、正面の如来立像は後補であろうが、菩薩面は当初のものである可能性があるとのことだった。

4) その他の諸像

 そのほか、平安後期の不動明王立像(像高96.5cm)と鎌倉初期の二童子像(矜羯羅46.7cm、制吒迦45.2cm)は小さいながら、表現豊かで見入ってしまった。鎌倉時代弥勒菩薩坐像の両脇には、やはり鎌倉時代毘沙門天と吉祥天の立像を安置。毘沙門天と吉祥天は普段は栃木県立博物館に寄託されており、今回の展覧会のために特別に里帰りされたのだそう。今回だけの特別な三尊構成ということらしい。
 また、特別展示として、同じ鹿沼市の宝城寺の阿弥陀如来立像が金堂の脇に置かれていた。前述の十二神将と同じく、明古堂で修理されたのだという。修復前の痛々しいお姿の写真が横に掲示されていた。修理してもなお、右腕の位置がおかしい感じがするが、それさえもいとおしい。
 なお、山門の仁王像は鎌倉時代(13世紀)のもの。シャトルバスから直行してしまうと見逃してしまうので、ご注意ください。山門に至るアプローチも素敵なので、少しだけ足をのばして、山門をくぐってからお参りすることをお勧めしたい。
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仁王さんは鎌倉時代。ガラス越しなので写真は難しいが、お姿はよく拝見できる

 

【滋賀】岩間寺(大津市)の諸像~ご本尊は千手観音・吉祥天・婆藪仙人の三尊~

石山寺からのシャトルバスは毎月17日ではなく、第3日曜に変更になったようです。参拝の前に最新情報をご確認ください!( 22/11/13追記)

岩間寺文化財指定のある仏像(写真は湖信会HPより)

湖信会サイト→岩間寺(岩間山正法寺) 湖信会

1) 岩間山正法寺

 
 岩間寺は大津と宇治との間の岩間山(標高445m)の山腹にあり、アクセスが厳しい。毎年17日に石山駅からシャトルバスが出るので、これを利用してお参りした(※22/11/13現在、シャトルバスの運行は毎月第3日曜日)。2020年10月17日、朝から冷たい雨が降っていた。秋雨で霞む山の中に、静かに岩間寺はあった。早朝の山寺の空気を胸いっぱいに吸い込み、堂内へ上がらせていただいた。雨にも関わらず、多くの参拝者が訪れていた。

2) 本堂

2-1) 千手観音と吉祥天・婆藪仙人という組み合わせ

 ご本尊(金銅仏)は秘仏で、お前立として、小さめ(60cm?)の千手観音立像をまつる。脇侍が等身大の吉祥天(大弁功徳天)と婆藪仙人で驚いた。千手観音の眷属である二十八部衆の中の二人だ。リアルな表現で、彫刻としても優れていると感じた。
 こういうマニアックな尊格が気になるのは、2年前に三十三間堂二十八部衆の配置替えが行われたことと関係する。三十三間堂では、千体の千手観音の国宝指定を機に二十八部衆の配置を見直し、中央の千手観音坐像(湛慶)の両脇に大弁功徳天と婆藪仙人がまつられることになったのだった。新たな配置で拝観すると、二十八部衆の一部に過ぎなかった二尊が、一気に表舞台に出たような感覚になる。私は大弁功徳天様びいきなので、なんとも晴れ晴れしい気持ちになった。その一方で、婆藪仙人というおじいちゃまの像と組み合わせられたことに仰天したのだった。二人の関係が気になってしかたない。
 そんな二尊が、ここ岩間寺では、千手観音立像との三尊でまつられている。二十八部衆の他のメンバーはおられないようだ。あとで調べてみると、この二尊について、大津市歴史博物館ニュースの記事が見つかった。最初から千手・吉祥天・婆藪仙人の三尊だった可能性も考えうるとのこと。2002年と昔の記事なので、ここにスクショを貼っても許されるだろうか。興味深いのでぜひご一読を。

寺島典人「学芸員のノートからー岩間寺の脇侍についてー」(大津歴博だより2002No.48)
三十三間堂の中央の千手観音坐像の両脇に大弁功徳天と婆藪仙人が並ぶ(写真は『千体仏国宝指定記念 無畏』より)

2-2) 地蔵菩薩立像(重要文化財

 本堂の奥、正面右脇に地蔵菩薩立像をまつる。雨の日の朝の堂内は暗く、照明もなく、ほとんど見えなかった。拝観位置からさほど遠くないので、明るささえあれば、目視で拝観できたはず。像高69.1㎝。12世紀初め。重要文化財。2018年秋、大津歴博の企画展「神仏のかたち ―湖都大津の仏像と神像―」に出陳。図録をながめていたら、頭部が大きめなお姿だったことを思い出した。

2-3) 十一面観音立像(大津市指定文化財

 本堂におられたようだが、確認できず。あとで調べたところ、前述の「神仏のかたち ―湖都大津の仏像と神像―」展に出陳されていた観音様だった。像高89.0cm。12世紀。お寺でもお会いしたかった。

写真は『大津市制100周年記念 大津の文化財』(平成10年)より

3) 不動堂

 不動護摩供が毎月17日に行われ、不動三尊のお厨子が開く。私が訪れた早朝の時間帯は、不動堂は開いているものの、人はほとんどおらず、以下の仏像をすぐそばで拝観できた。

岩間寺不動堂内を堂外からのぞむ。正面左から薬師如来坐像不動明王童子立像、阿弥陀如来坐像
写真は『大津市制100周年記念 大津の文化財』(平成10年)より

3-1) 不動明王童子像(重要文化財

 不動明王 97.6cm 矜羯羅童子66.4cm 制吒迦童子63.4cm 平安中期?
 上の写真では全体が黒っぽくてわかりにくいが、お堂で拝観すると、お厨子の中の金色を背景にして、各像の自然な表情が見て取れる。不動明王には赤い火炎光背。二童子は上の写真よりもっと不動明王に近い位置に立つ。

3-2) 薬師如来坐像大津市文化財

 像高84.5cm 不動明王以外に事前情報がなかったので、これほど穏やかで美しい平安仏がおられるとは知らず、うれしい驚きだった。像の横の説明書きによると、享保年間に完成した『近江輿地志略』に、薬師堂に奉安される薬師如来について記載があり、この像がそれに当たるということだった。何かの理由で薬師堂がなくなり、不動堂に安置されるようになったということなのだろうか。
 定印を結んだ両手に薬壺をもつ。この少し変わったポーズが気になる。『大津の文化財』では、両手の肘から先と薬壺は後補のため、当初は釈迦如来阿弥陀如来として造立された可能性あると指摘する。
 阿弥陀様ファンの私としては、もはや阿弥陀如来でよいのでは、と思ってしまう。それほど素敵なのだ。下から見上げると、薬壺を抱えているような感じに見え、その安定感と気品にさらに惹かれる私なのだった。(※阿弥陀如来以外の美しい如来像を拝するとき、私は時々「もはや阿弥陀如来」と申し上げるが、それは最上級の誉め言葉である。その旨ここに申し添えるw)

3-3) 阿弥陀如来坐像

 薬師如来とほぼ同じ大きさの坐像。文化財指定はないようだが、お堂前の看板の説明によると、こちらも藤原時代の作。
 岩間寺の不動堂は、重文の不動明王両脇侍像を中心として、その両脇に定朝様の坐像をまつる、なんとも素敵な場所だった。

不動堂前の看板

拝観案内

岩間山正法寺 
住所 大津市石山内畑町82
tel 077-534-2412
 岩間山正法寺岩間寺)は養老6年(722) 、加賀の白山を開いた泰澄(たいちょう)法師が元正天皇の病を法力で治したことから、泰澄を開基として建立。寺伝では、泰澄が感得し、自ら刻んだ桂の木の千手観音像を本尊とし、元正天皇の金銅製の念持仏をその胎内に納めたという(寺伝の木彫仏は現存せず)。
 毎月17日の午前中、石山駅(JRと京阪)から無料のシャトルバスが出る。私が訪れた2020年10月はコロナ対策も取ってくださっていた。乗る前に手指消毒。そして、バス内の混雑を避けるよう、全員着席したところでバスは出発した。(22/11/13現在、シャトルバス運行は毎月第3日曜)

参考資料

岩間寺ホームページ 【岩間寺】
〇『大津歴博だより 2002 No.48』寺島典人「学芸員のノートからー岩間寺の脇侍についてー」
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/file/tayori/tayori_048_2002.pdf
〇『大津市制100周年記念 大津の文化財大津市教育委員会(平成10年)
○ 「神仏のかたち ―湖都大津の仏像と神像―」展覧会図録(大津市歴史博物館、
2018年)
〇湖信会ホームページ 岩間寺(岩間山正法寺) 湖信会

【展覧会】西七条のえんま堂ー十王と地獄の美術ー(龍谷ミュージアム)

特集展示「西七条のえんま堂 -十王と地獄の美術-」
龍谷ミュージアム(2020.9.12-11.3)
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えんま堂の諸仏は実際に間近で拝むべし

 龍谷ミュージアムの近く、西七条えんま堂から諸仏がお出ましである。メイン展示は、このお堂の閻魔坐像(鎌倉時代)、十王坐像(南北朝室町時代)および不動明王立像(鎌倉時代。閻魔像も不動明王像もそれほど大きくはないが、写真より実物のほうが断然いい。写真よりもっと凹凸があるし、動きもあり、怒りの表情に力もある。えんま堂の木造檀荼幢と木造浄玻璃鏡はいずれも昭和10年の作。近年にも新たな仕掛けを加えた人々がいたのだ。その熱意に脱帽である。

 さらに、展覧会場では、これらえんま堂の諸仏と同じスペースに、京都・鍛冶町町内会の木造地蔵菩薩立像(平安後期)を配置する。これがよくマッチし、好印象。地蔵菩薩様は閻魔様の化身なのだ。このお像も写真より実物のほうが素敵だった。写真ではわかりにくいが、側面からみると、前傾した姿勢を取っていた。来迎の地蔵菩薩なのだろう。

 十王像や地獄絵を観るとき、私は少し気構える。その時の自分の体調によっては、観るだけで体力と気力を消耗してしまうことがあるからだ。その点を心配しつつ鑑賞したのだが、この展覧会では、地蔵来迎図(後期展示は岡山・安養寺のもの)阿弥陀三尊来迎十仏図(岡山・木山寺、後期展示)も一緒に展示してくれていたので、助かった。やはり地獄と極楽はセットでないと。

 また、地蔵盆の設えを再現展示(京京都・壬生寺しているのも興味深い。私は京都の地蔵盆に憧れる田舎者である。

 なお、この特集展示は、シリーズ展8「仏教の思の想と文化 -インドから日本へ-」の一部という位置づけのようだ。このシリーズ展は、大きなテーマの中で、ガンダーラから法然上人や親鸞上人まで網羅。美しい阿弥陀如来像や来迎図も登場する、癒し空間だった。

ぼっちに優しい

 最後に、もう1点追記したい。会場内に、閻魔様のポスターをバックに写真が撮れるコーナーがある。私は基本的にいつも一人で行動するので、こういうのは使えない。展覧会スタッフが近くにいてくれれば、シャッターを押してもらえる。しかし、会場が混み合っていたりすると、スタッフさんにお手間をかけられない。そもそも人見知りなので、スタッフさんに声をかけるのも気が引ける。
 それがなんと、ここ龍谷ミュージアムでは、一人でも写真が撮れるように、スマホを置く台を設置してくれていた。なんと素敵なギミックだろう。このおかげで、今回初めて高度な自撮りに成功した。おひとり様(通称”ぼっち”)へのお心遣いに心より感謝を申し上げる。(自撮り写真の掲載は自重w)

【和歌山】慈光円福院の十一面観音立像

慈光円福院(和歌山県和歌山市)十一面観音立像
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 平安前期の美しく強い観音様。像高149.7cm 。重要文化財和歌山市文化財サイト
木造十一面観音立像 | 和歌山市の文化財
には次のような説明がある。

(引用始め)
 慈光円福院は戦災で焼失した円福院を再建する際に、無住になっていた和佐八幡宮別当寺であった観音院慈光寺を移築し現在の寺名に改称したもので、本像もその際に移されました。
 本像(像高149.7cm)は内刳りを持たない檜の一木造の十一面観音立像です。装飾的な天冠台や翻波式衣文、目鼻立ちがはっきりと表した面貌、わずかに残る彩色からいわゆる彩色檀像であったと考えられます。肉感的でありながら瑞々しいその面貌表現は大阪府観心寺如意輪観音像等とも共通することから、平安時代前期の真言密教との関わりが伺われます。(引用終わり)


 観心寺河内長野)の如意輪観音像との類似性が指摘されている。垂直に下げた右腕が長めで、法華寺(奈良)の十一面観音立像に似ているようにも思う。同じ頃に、同じ工房で造られたのだろうか。上記サイトには檜とあるが、せきどさんをはじめ、カヤと明記するサイトも少なくない。観心寺像も法華寺像もカヤの一木造。

 前回、仏像リンクのオフ会でお参りした。夕方遅く、すでに日が落ちたあとでの拝観だった。今回、二度目の拝観は、秋の日の昼間。約束の時間に訪れると、年配の女性がお厨子を開けてくださった。昼間に一人で訪れると、思っていたより堂内が広く感じた。
 そして、一人で観音様に対面していると、なんだか叱られているような気がしてきた。叱られつつも、励まされる。叱咤激励されてような感じだった。はい、観音さま、私もう少しがんばります。
 貞観の香り漂う美しい観音像。またいつか再訪したい。その時は何を感じるのだろう。

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近くで拝ませていただく
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見事な翻波式衣文

拝観案内

慈光円福院
〒640-8012 和歌山県和歌山市北新金屋丁31
JR和歌山駅または南海和歌山市駅から徒歩20分ほど。(JR紀和駅が一番近い)
予約拝観

【和歌山】紀三井寺秘仏本尊特別開帳~感動を伝える言葉が見つからない~

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ご開帳のリーフレット 秘仏の写真は掲載されていない
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写真は公式Facebookより 秘仏本尊にはぼかしが

紀三井寺開創1250年
秘仏本尊・十一面観音菩薩立像
秘龕仏・千手観音菩薩立像
50年に一度 特別ご開帳
2020.3.18-6.28 / 9.20-12.20

 紀三井寺本堂の裏手の大光明殿で、中央の大きなお厨子が開いていた。堂内へと続く廊下からそれが垣間見えた瞬間、胸が熱くなった。お厨子の中には、秘仏本尊・十一面観音立像と秘龕仏・千手観音立像(いずれも重文)が並び立つ。

 秘仏本尊の十一面観音は思ったより大きかった。大きな頭部。大きな鼻に大きな耳。どっしりした体部。平安前期は強めのお像が多いが、この秘仏本尊には、どこかのんびりとした、おおらかさも感じられた。10世紀初めの作だという。強く惹かれる。

 秘龕仏の千手観音立像は、もう少し時代が下る。10世紀後半から11世紀。秘仏本尊より小顔で、洗練された感がある。尖った山型の眉。小さく整った鼻。きゅっと閉じた小さな口元。そして、よく見ると、大きな腕だけでなく、小さな無数の腕もついていた。真数千手ということか。

 昨年の春、紀三井寺をお参りした際、この二観音の写真を拝見し、これは必ずお会いしなければと思っていた。しかし、目の前に現れた御仏は、写真以上だった。生きて、息をしているようにさえ感じる。

 秘仏以外の諸仏も特筆に値する。厨子の正面左には、平安後期の毘沙門天立像と帝釈天立像。右手には梵天立像。

 いつもは右手にもう一体の十一面観音立像もおられるのだが、私が訪れた時にはご不在だった。先月まで京都国立博物館の西国観音展に出陳されていた。さらに、今月末から和歌山市立博物館で開催される紀三井寺展にもお出ましなのだそうだ。
 この十一面観音立像もかなりの力で私を惹きつける。今回、秘仏本尊とご一緒のところをお堂で拝観できなかったことだけが残念だ。しかし、この観音様は、50年に一度の特別開帳をPRするため、特別な任務に出ておられるのだ。あんなに清楚な観音様が営業をがんばっておられるとは。涙がこぼれそうだ。京博でお会いできたのは嬉しかったが、私はやはり、お堂のあの空間で秘仏とともにお会いしたかった。

 それにしても、紀三井寺の本堂奥の諸仏になぜこれほど感じ入ってしまうのだろう。世の中には神聖な何かを感じられる場所があるもので、紀三井寺のあの空間は確かにその一つなのだろう。そっと息づく平安諸仏をどう形容したらよいのか。その言葉を私は探している。

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1日33枚限定の特別御朱印

参拝日 2020.10.16

紀三井寺公式Facebookのお知らせ

www.facebook.com

【展覧会】「相模川流域のみほとけ」神奈川県立歴史博物館は必見

相模川流域のみほとけ」神奈川県立歴史博物館 2020年10月10日(土)~11月29日(日)

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龍峰寺千手観音立像(写真は展覧会サイトより) 間近で拝観できる! 凛々しい!!
公式サイト=【特別展】相模川流域のみほとけ Buddhist Statues Along Sagami River | 神奈川県立歴史博物館
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展覧会チラシ 普門寺(旧城山町聖観音立像が美しい!
 相模川流域にこれほど重要な仏像が残されているとは。自宅からそう遠くないので、ご開帳や文化財公開などで比較的よくお参りしている地域だと思っていたのだが、本展では檀家寺の秘仏も多く出陳され、ほとんどが初見の仏像だった。全国の仏像ファン必見の展覧会である。

龍峰寺の千手観音立像

 会場に入ると、まず、龍峰寺の清水式千手観音立像がどーんとお出ましになる。年に2回ご開帳日があるが、現地ではお堂が狭いせいもあり、堂外から拝むことしかできない。それが、本展では、間近で、しかも、背面までしっかりと拝むことができる。展示台もガラスケースのないので、かなり近くで拝める印象だ。間近で拝観すると、実に神々しく、凛々しい!  しかし、驚くのはそれだけではない。図録を読むと、鎌倉時代の擬古作説を否定し、奈良時代後期に遡る可能性を示唆している。数年前にご開帳で伺ったときの情報では、玉顔の入ったご尊顔は鎌倉彫刻の特徴を示し、膝には翻波式衣文や渦文があることから、鎌倉時代に古い仏像を模して造られたものか、あるいは、後世に大幅な修復が加えられたかのいずれかだ、という話だったように思う。仏像研究は日々進んでいる。図録より引用したい。
相模川流域で最も古い仏像は、海老名市龍峰寺の千手観音立像(No24)であろうか。疑問符がつくのは、この龍峰寺像は長らく鎌倉時代の作例とされており、奈良時代の仏像とは認識されていなかった。しかし、本展の事前調査において、像の像を熟覧したところ、カヤ材を用いた一木造りの構造や裾の衣文に翻波式衣文が認められる点に奈良時代後期の木彫像との共通点が多く見受けられたのである。脇手は全て後補とみられ、現状の目の部分に平安時代後期以降の技法である玉眼が用いられるのは、鎌倉時代に面部を割り離して玉眼に改造されたからではないだろうか。奈良時代造像の可能性についても考えていかねばならないだろう。(展覧会図録の冒頭「相模川流域の仏像」海野祐太より)
 もうこれを読むだけでドキドキする。図録の図版解説では、奈良時代後期と考える根拠について、さらに詳しく記載されているので、ぜひお読みいただきたい。

津久井郡の顕鏡寺と普門寺

 旧津久井群の顕鏡寺(相模原市緑区、旧津久井町)の阿弥陀如来坐像と普門寺(同、旧城山町)の聖観音立像。コロナ禍となり、自宅から自転車圏内で仏像を調べ出したのだが、この二つの尊像は、そうした活動の中でその存在を知り、最もお会いしたかった秘仏である。なんと、どちらも出展されている! どちらも平安後期。  顕鏡寺の阿弥陀如来坐像は定朝様。弥陀定印の人差し指のわずかな捻りにしびれてしまう!  普門寺の観音立像は小顔の神秘的な表情と体部の穏やかな衣文が印象的だ!  顕鏡寺は石老山の中腹にあり、柳原白蓮の墓がある。普門寺は津久井湖を見下ろす高台に位置し、現在、観音堂を修復中。この神秘的な観音様は武相観音霊場に当たり、卯年ご開帳(次回は2023年)。つまり12年に一度の秘仏。展覧会終了後には、お寺をお参りしたい。

宝積院薬師堂(平塚市薬師如来立像と十二神将巳神立像

 本展のメインビジュアルになっている薬師如来。宝積院薬師堂の秘仏本尊なのだそうだ。十二神将巳神像(伝酉神像)は曹源寺(横須賀市)のそれとよく似ている。先日、山本勉先生に教えていただいた先生の著書『東国の鎌倉彫刻』に曹源寺像の写真が載っていたので、会場で本を出して、見比べてみた。すると偶然にも、山本先生が展覧会場に入って来られた。あまりの偶然に驚いて、失礼かと思いつつもご挨拶させていただく。短く感謝をお伝えするだけつもりが、巳神像と薬師如来立像の耳の形がよく似ることなど、教えていただいた。養命寺(藤沢)薬師三尊と光明寺(平塚)三十三応現身立像についても、教えていただき、ありがたくて言葉にならない。  なお、十二神将は鎌倉永福寺の運慶像をモデルとしたものが数多く造られているようで、興味深い。前回ここに書いた新開院(あきる野)の巳神像もよく似ているのだが、それを以前教えてくださったのも山本先生だった。

多くの秘仏、そして、在地仏師の仏像も

 上記以外にも秘仏が多く出陳される。井原寺(相模原市緑区聖観音立像、正覚寺相模原市緑区聖観音立像、慈眼寺(藤沢)十一面観音立像など、いずれも秘仏で、鎌倉時代の作。  さらに、12世紀の在地仏師の造立例として、延命寺(厚木)の菩薩立像二躯と法照寺(藤沢)の十一面観音立像が並ぶ。この緩い感じがまたよい!  ここまでで、展示の最初の3~4割。素晴らしい仏像の連続で、書き出すと止まらなくなる。続きはまたのちほど。この展覧会、これから何度か通いたい。

参考文献

1) 『特別展 相模川流域のみほとけ』神奈川県立博物館2020 2) 山本勉『東国の鎌倉時代彫刻』(『日本の美術』537、2011年)

関連ブログ記事

a) 龍峰寺ご開帳寺の参拝記録 butsuzodiary.hateblo.jp b) 普門寺(相模原市緑区)に行ったら、観音堂がシースルーだった butsuzodiary.hateblo.jp 2020.10.11鑑賞

【多摩の仏像】新開院(東京都あきる野市)に鶴岡八幡宮から遷座した薬師如来と十二神将

鶴岡八幡宮旧蔵の薬師三尊と十二神将が東京都あきる野市に現存。9月11日にご開帳

1) きっかけは愛染明王五島美術館

 世田谷の五島美術館に時々立ち寄る。鎌倉の鶴岡八幡宮寺におられた愛染明王像(重文)が常設展示されている。明治維新廃仏毀釈により、流転の歴史を持つ仏像だ。鶴岡八幡宮寺→鎌倉寿福寺→東京普門寺→小泉策太郎→原富太郎(三溪)→清水建設五島慶太五島美術館と持ち主が変わった。

運慶風のムチムチの愛染明王(写真は五島美術館Facebookより)

 名だたる持ち主のうち、初めて聞くのが東京の普門寺だった。調べてみると、多摩西部、あきる野市のお寺だった。しかも、この普門寺には、愛染明王像と同じ寿福寺経由で、薬師三尊と十二神将も譲渡され、現存するのだという。愛染明王にお会いすればするほど、普門寺の薬師ファミリーにお会いしたくなり、自転車で出かけてきた。

2) 東京西部の新開院にも鶴岡八幡宮寺旧蔵の仏像が!

 鶴岡八幡宮寺旧蔵の薬師三尊が現在安置されるのは、普門寺(臨済宗建長寺派)の塔頭、新開院。飛地境内に建つ薬師堂にまつられていた。この薬師堂は、大通りに背を向け、東向きに建っていた。江戸中期に建てられたと見られる薬師堂はかなり古ぼけていたが、SECOMの遠隔監視で強力に守られていた。

新開院薬師堂。セコム厳重警備の堂内にまさかの仏像群!

 お堂正面に回り込むと、格子の一部のすりガラスが外されており、そこから確かに薬師三尊を拝むことができた。覗き込んだ瞬間に驚いた。穏やかで気品あふれる薬師三尊。両脇侍の古風な佇まい。その両脇に迫力ある十二神将がお堂の両端まで並ぶ。動きのある表現はかなりの腕前の仏師によるのでは。これだけの仏像群を鎌倉からあきる野まで運んだのか…。よくぞ今まで残ってくださった…!
薬師如来坐像 像高86.5cm 十二神将 像高95.2-105.3cm 文化財未指定

鶴岡八幡宮におられた薬師三尊
薬師三尊と十二神将が所狭しと並ぶ

 そして、さらに驚いたのは、薬師三尊の後ろにもう1組、小ぶりの十二神将もおられたことだ。よくみると、閻魔大王と奪衣婆様もおられる。どこまでが鶴岡八幡宮寺由来なのだろう。堂内は仏像が密集する密閉空間だった。それはもう小池知事に怒られそうなほどの仏像による三密状態。
 冗談はさておき、あまりに見事な仏像群に圧倒された。薬師堂の前に座り込んで、一息つきながら、改めてネットで調べてみた。やはり、文化財は未指定だった。市の指定さえ受けていない。なぜなのだろう。
 後日教えていただいたのだが、薬師三尊と十二神将鎌倉時代の作である可能性は十分にあるようだ。『日本の美術No.537 東国の鎌倉彫刻 鎌倉とその周辺』(山本勉、2011年)に、次のように記載される。「元和5年(1619)の大修復を経て像容を損ね、室町時代頃の作とみるむきもあるが、やはりこの期の運慶派仏師の作であろう。十分な調査がなされていないが、薬師如来像の上げ底式内刳りの像底の形が[五島美術館の]愛染明王像によく似ること、また十二神将の一躯(巳神)(第71図下)が、横須賀市・曹源寺の巳神と同様に実人のごとき容貌で体勢もこれとよく似ることなど、注目すべき点は少なくない」とのこと([ ]部分は筆者追記)。なお、引用文中の「この期」とは、運慶の没年(貞応2年、1223)から鎌倉大仏の造形が完成したとみられる寛元元年(1243)までの期間を指す。
 鶴岡八幡宮寺から浅草寺に渡った四天王像は昭和の戦火で焼失した。新開院の仏像群は信仰の証として、歴史資料として、後世に伝えたい。そう思った。

引用した山本先生の著作。表紙は曹源寺(横須賀市)の巳神像
同著に掲載された新開院の諸像の写真

3) ご開帳は9月11日

 私が訪れたのは2020年9月13日。晴れた日の日曜日の朝。お堂が東向きなので、太陽の向きとしてはベストなタイミングでお参りできたのではないかと思う。堂内になんとなく入り込んだ薄い光のもと、みほとけの群像を感じることができた。基本的に堂外からの拝観となるので、晴れた日の午前中をお勧めしたい。
 それにしても、気になるのが、特定のご開帳日の有無である。参拝日はお寺様とお話する機会が得られなかったので、後日、普門寺様にお電話してみた。するとなんと衝撃の一言が。「毎年9月11日にお薬師さんの法要を行い、ご開帳をしている」とのこと。まさか、私が訪問する2日前だったとは。しかし、よくお話を伺うと、「毎年お参りの方が多く、堂内が結構な密になるので、今年はご開帳は行わず、関係者で法要のみ厳修した」とのことだった。
 そうだったのか...。残念だが、致し方あるまい。
 来年は安心してご開帳が行えるよう願うばかりだ。来年の9月11日は土曜日。間近で拝観したいものだ。仏像群の「三密」に加えて、参拝者の賑わいも味わいたい。(※2021/9/8追記: 2021年9月11日の一般公開はコロナ感染状況に鑑み中止だそうです)

(参拝日:2020年9月13日)

【拝観案内】

a) 新開院薬師堂

JR東秋留駅近く(普門寺から大通りを越えた東側。新開院は普門寺の塔頭で、普門寺のご住職が兼務されている)
毎年9月11日にご開帳。それ以外はお堂正面の格子からのぞき込むことができる。お堂が東向きなので、晴れた日の午前中がお勧め。
goo.gl
近くに二宮神社と二宮考古館(室町時代薬師如来立像の懸け仏を展示)がある。

b) 近くの玉泉寺にも流転の仏像

また、玉泉寺の本堂には、廃仏毀釈の際にどこかの成田山の別院から大八車で運ばれてきたという不動明王坐像と二童子像が客仏としてまつられる。不動明王坐像は等身大で、すごみをきかせた迫力の像。制作年代は不明とのこと。鳩さんと赤ちゃん(誕生仏)を手にした仁王さんも珍しい。



【参考資料】

i) 山本勉『東国の鎌倉時代彫刻』(『日本の美術』537、2011年)
ii) 五島美術館Facebook
Facebook
iii) 秋川高校図書館作成の冊子『秋川の寺社をめぐる』(二宮考古館で閲覧)
iv) 『秋川市文化財 第二集』(昭和43年) (二宮考古館で閲覧)
v) 貫達人鶴岡八幡宮寺―鎌倉の廃寺』(有隣新書、1997年)

【山梨】甲州放光寺に法隆寺金堂壁画の最古の模写(染色作家古屋絵菜の展示も素敵)

 山梨県甲州市塩山の放光寺は、言わずと知れた仏像の宝庫である。平安時代大日如来、天弓愛染明王不動明王、そして、仁王像。しかし、放光寺にはまだ私の知らない寺宝があった。法隆寺金堂壁画を模写した阿弥陀浄土図である。この仏画が2020年8月22日から30日の一週間、放光寺で特別公開されると聞きつけ、お参りしてきた。

1) 放光寺「阿弥陀浄土図」

法隆寺金堂壁画模写。祐参(ゆうさん)筆。嘉永5年(1852)。甲州市指定有形文化財(歴史資料)
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 浄土宗初代管長・知恩院75世、養鸕徹定(うがいてつじょう)が、嘉永5年(1852)に法隆寺を訪れ、法隆寺妙音院の僧千純の協力を得て、侍者の祐参に模写させたもの。礼拝用として三幅に仕上げた。飛鳥時代の色彩を考慮しつつ、補作した部分もある。
 塩山出身の幕臣・真下晩菘(ましもばんすう)が放光寺羅漢堂の再建を発願した際、養鸕徹定が感動のあまり、羅漢堂本尊として晩菘に寄贈したのだという。浄土図の裏にその旨の墨書が残る。
 明治17年(1884)頃に桜井香雲が法隆寺壁画を模写した際にはほぼ見えなくなっていた化生菩薩ら(阿弥陀如来の下の部分)が、放光寺所有の模写でははっきりと描かれる。
 養鸕徹定の関わった模写の存在自体は前から知られていたが、それが実際にどこにあるのかは長年不明だった。法隆寺が行方を探しているという話が放光寺の前住職の耳に届き、改めて寺宝の阿弥陀浄土図を確かめてみると、徹定ゆかりの模写であることが確認できたのだそうだ。判明したのは昭和の終わり頃だという。
 この阿弥陀浄土図は、現存する最古の模写として、今年の春、「法隆寺金堂壁画と百済観音」展(東京国立博物館)に出展されるはずだった。しかし、コロナのため展覧会は開催されないまま中止となってしまった。放光寺で今年8月に、染色作家・古屋絵菜の個展を行うに際し、放光寺での公開に踏み切ったのだそうだ。
 私は公開最終日に訪れた。次々と訪れる参拝者を前に、住職が直接、上記の内容の解説をしてくださった。法隆寺壁画の最古の模写が甲州に残ることを甲州の誇りとして、地域の皆様に知っていただきたいとのことだった。

2) 染色作家・古屋絵菜の個展「古今蓮葉

 放光寺の仏像群と今回公開の阿弥陀三尊をお目当てに出かけたのだが、古谷絵菜さんの展示がとてもよかった。
 ろうけつ染めの蓮の花がお寺の空間にとても合う。特別公開された阿弥陀浄土図とも、とても相性がよい! 古刹と現代作家の作品との対峙と融合。その美しさに心が癒され、身体の細胞が喜ぶような感じがした。
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3) 放光寺は仏像の宝庫

 冒頭でも述べたが、放光寺は仏像の宝庫だ。
 まず山門の仁王さんが愛嬌抜群で、風を浴びて力む姿がたまらない。なんと、奈良仏師の成朝の作とされ、国の重要文化財に指定されている。
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 さらに、収蔵庫に入ってびっくり。ご本尊大日如来坐像、天弓愛染明王、そして、不動明王立像。すべて平安後期の作で、重要文化財。弓と矢を構えた天弓愛染明王は、高野山金剛峰寺と京都木津川の神童寺の3駆のみが重文。
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 そして、安田義定をモデルにしたとされる毘沙門天立像(甲州市指定文化財)。今年、奈良国立博物館の「毘沙門天」展に出展されて話題になった。後補の彩色があるものの、こちらも成朝が手掛けた可能性があるのだとか。
 私は特に、大日如来のかわいらしく優しいお姿が好き!! 茶目っ気ある仁王さんも大好き!! 吽形像のはなぺちゃのお顔が癖になりそう!!! 大変重要な点なので、最後に付け加えておく。

拝観案内

高橋山放光寺
〒404-0054 山梨県甲州市塩山藤木2438
TEL 0553-32-3340
拝観料300円/抹茶かコーヒー付き拝観は900円
拝観時間 9-17時
上記3)の仏像が予約なしで拝観可能。阿弥陀浄土図は次の公開の機会を待ちたい。

参考資料

a) 『法隆寺金堂壁画と百済観音』展図録(東京国立博物館、2020年)
b) 放光寺ホームページ 真言宗智山派高橋山放光寺。初詣、縁結びは山梨県甲州市塩山の放光寺まで。
c) 山梨県文化財ホームページ 山梨県/山梨の文化財ガイド(データベース)彫刻02
※掲載写真のうち、大日如来様の写真のみお寺のパンフより。それ以外はすべて筆者撮影。
※放光寺を初めてお参りしたときの興奮はこちらより。
山梨県甲州市、放光寺を参拝&仏像搬出作業に萌え!: ぶつぞうな日々 PARTII

【展覧会】「相模川流域のみほとけ」展(神奈川歴博)に普門寺の聖観音立像が!!

コロナ禍のため、関西など遠方への仏像めぐりは断念している。その代わりに、私のベンツ(電動自転車)で行ける範囲内でお寺をめぐり、資料館で仏像の本を漁る、ということを続けている。そんな身近な範囲内で思いもかけない仏像に出会える。これは楽しい!
 最初は八王子市内だけだった。八王子の面積は186km2と広いので、コロナ禍が長引こうが、相手として不足はない。しかし、それでも飽き足らず、町田の北の方まで遠征。さらに、この酷暑の中、相模原市までひたすら漕ぎ出してしまった。もう冒険である。楽しい!!

 先日は緑区(旧城山町)の普門寺をお参りした。観音堂のご本尊聖観音菩薩立像は平安後期の見目麗しい木彫仏で、市の文化財であることは知っていた。12年に一度の秘仏(次のご開帳は2023年)なので、今訪ねてもお会いできないことも知っていた。なので、まずは「下見」のつもりで乗り込んだのだった。
 津久井湖の近くの急な坂を登り、やっとお寺にたどり着くと、まあびっくり! 本堂とその横の観音堂が改修工事中だった。本堂は修理がほぼ完成していたが、観音堂はお堂の壁がすべて取り払われた状態。こんなシースルーのお堂、初めて見た!!
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 そして、そんな工事現場の横には、観音菩薩立像を説明する市の掲示板があった。写真も掲載されている。ああ…なんと優美な美しさでしょう! もう写真だけで泣けた!
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 そして、そして、工事現場の看板には、お堂の改修工事と整備事業は2023年のこの観音様のご開帳に間に合うよう進めている、と書いてあった。さらに、泣けてくる…。
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 そんなエモーショナルな私に吉報が届いた。

 この普門寺の観音菩薩立像、今年の秋の横浜の展覧会に出展されるそうです!!!!!!
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 実は、普門寺を訪れる一週間前、相模原市立博物館で仏像の本を調べていた。その時、係の人から「この秋に相模川流域の仏像の展覧会が横浜で開催されるんですよー。市の文化財指定になっている仏像も出しますよー」と聞いていた。少し自慢げな話ぶりを私は見逃さなかったが、どちらの仏像が出展されるのかまでは教えてもらえなかった。それが、それが、普門寺の観音様だったとは!

 楽しみすぎて、こわい!
 あとは、旧津久井町の顕鏡寺の阿弥陀如来坐像(平安後期の定朝様)(非公開)も出展していただければ…。
 それから、龍峰寺の千手観音様の後ろ姿も拝みたい…!(つまり私は煩悩の塊…)

「東京からですが、拝観させていただけますか」と言えません

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中井観音堂静岡市の山奥にある。こういう静かな場所の古仏を拝める日は戻ってくるのか

 コロナ禍が始まって、仏像拝観が思うようにできなくなってしまった。緊急事態宣言発令後しばらくは「電車に乗らない」「人に会わない(予約拝観なし。御朱印拝受しない)」というマイルールで、近場のお寺をまわってきた。6月末頃からおそるおそる予約拝観や遠征を始めようと思っていた矢先、7月に入ってから都内の新規感染者数が右肩上がりで増え続けてしまっている。
 正直つらい。そろそろ予約拝観を再開したいのだが、「東京からですが、拝観させていただけますか」と言えなくなってしまった。

1) 予約拝観とは

 私の仏像拝観は、予約拝観がメイン。自治体の文化財サイトなどを調べて、お会いしたい仏像をピックアップし、地図で移動経路も調べたうえで、お寺様にお電話する。「東京の〇〇(本名)と申します。初めてお電話いたします。私、仏像が大好きで、、、」とまずは簡単に自己紹介。そのうえで、「△△寺様の阿弥陀如来様を拝観させていただけませんでしょうか」とお願いする。
 地域により温度差はあるが、秘仏である場合や日程が合わない場合を除き、あまりお断りされることはない。むしろ、「東京の人が関心をもってわざわざ訪ねてくださった」と歓待していただけることが多い。
 拝観者である私も、観光寺院を参拝する気軽さとは異なり、かなりの注意と敬意を払ってお参りさせていただいている。
 そうした努力を惜しまないのは、ひとえに、仏像にお会いしたいからだ。写真で見るだけでは話にならないのだ。実際に間近で拝観することでしかわからないものがある。それが仏像拝観なのである。
 さらに、予約拝観では、お寺様や奥様、世話役の方々とお話をする。それが本当に楽しいのだ。予約拝観については、よい思い出しかない。例えば、こんな感じ(↓)である。
butsuzodiary.hateblo.jp
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2) 東京から予約拝観をお願いできない!

 しかし、コロナ禍が始まって、予約拝観ができなくなってしまった。東京都内の新規感染者数が7月に入って3桁になり、100人台から200人台、そして、300台へと、増え続けている。
 ”ウィズコロナ”の時代(←この言い方好きではないが)には、自分は無症状の感染者かもしれないという意識をもって行動すべきだと思っている。大切な行動指針だとは思うのだが、それを仏像拝観にあてはめてしまうと、まったく身動きが取れなくなってしまう。
 特に、予約拝観は難しくなる。私がお会いするのは、仏像だけではないからだ。訪問した先のご住職や奥様、地元の世話役様とお会いしなければ、拝観はできない。皆様よい人ばかりだ。仏像を通して私に感動を与えてくださる人々を万が一感染させてしまったら。。。そう考えてしまうと、私は、本当に動けなくなる。まして今の段階で、東京から地方のお寺や収蔵庫の拝観をお願いするなど、私にはできない。
 愛があるからお会いできなくなってしまう、というこの矛盾。つらい。つらい。つらい。
 いつになったら、堂々と言えるのだろう。「東京からですが、拝観させていただけますか」と。

※原文はnoteに掲載した仏像エッセー。noteの時とは写真を変えて、本ブログに掲載する。

【多摩の仏像】相即寺(八王子市)本堂~鎌倉時代とされる黒本尊様と江戸仏師による現ご本尊阿弥陀如来坐像と焼仏の阿弥陀如来立像~

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凛々しい黒本尊様

1) きっかけは本堂横の万目供養仏

 Stay home期間中、「徒歩か自転車で」「人に会わない」という仏像拝観マイルールを決めて、ぼちぼちと地元のお寺に出かけていた。厚労省の勧告でも、体力維持のための最低限の外出は認められていたので、それをベースに、拝観マイルールを決めたのだ。つまりは、電車は使わず、予約拝観はせず、ご朱印も拝受しない、というスタイル。
 このような限定的な拝観スタイルではあったが、それでも、思いもがけない感動的な出会いに恵まれた。日本の仏像レベルはやはり高いのだ!

 特に心惹かれ、癒されたのが、相即寺(そうそくじ)本堂横の覆屋に安置される江戸時代の銅造の地蔵菩薩坐像だった(八王子市有形文化財だった。通称、万目供養仏。像高116センチ。温かく穏やかなお姿から、すべての人を包み込むような包容力を感じた。
 台座連弁の刻印から、安永3年(1774)、柚木落合(多摩市)の田中播磨義知(たなかはりまよしとも)という仏師が制作し、横川町滝原(八王子市)の加藤甚右衛門白鎧(かとうじんうえもんはくがい)という鋳物師が鋳造したことが分かっている。台座の完成は安永5年(1776)。
 この万目供養仏についてブログに書いたところ、畏れ多くも山本勉先生からご助言いただき、仏師である播磨義知ついて調べることができた。播磨義知の子孫がまとめた資料(田中登「仏師 田中播磨義智について」『ふるさと多摩 No.8 多摩市史年報 平成9年』 編集 多摩市史編集委員会)を多摩市文化財課から送っていただき、播磨の他の作例が多摩地域に残ることを知ることができたのである。常久寺(東京都府中市)の不動明王及び童子像(宝暦13年(1763))などが現存する。
butsuzodiary.hateblo.jp

2) 相即寺本堂

2-1) 黒本尊さまは鎌倉時代

 このように資料を少しずつ調べる中で、相即寺さまに連絡してみたところ、相即寺本堂に、黒本尊と呼ばれる阿弥陀如来坐像がまつられていることを教えていただいた。お送りいただいた写真を拝見すると、かなり古いもののように思われたので、お願いして拝観させていただいた。黒本尊といえば、増上寺阿弥陀如来立像を思い出すが、八王子にも同じ通称の阿弥陀様がおられるとは知らなかった。
 
 黒本尊様は本堂中央、ご本尊様の裏側で、大切におまつりされていた。間近でお会いすると、写真以上に凛々しい。厳かで、しかも、かっこいい。

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相即寺の黒本尊。寺伝では、相即寺創建時、鎌倉光明寺から伝えられた

 そのお姿に見とれつつも、気になってくるのが制作時期である。
 寺伝によると、天文15年(1546)、忍誉上人が相即寺を開創した際に、鎌倉光明寺の法誉上人から伝えられたのだという。そして、相即寺の現在のご本尊阿弥陀如来坐像が1745年に造立されるまでは、この黒本尊がご本尊だったと思われる、とのことだった。

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相即寺・忍誉上人像

 寺伝通りであれば、本像は1546年かそれより前に造立されたということになる。素人目には、どんなにさかのぼっても鎌倉後期で、室町から江戸初期ぐらいが順当かなと漠然と思ったのだった。特に、螺髪のぐりぐり模様は江戸以降のような気がするのだが…。
 ところが、相即寺様を出てから、八王子市郷土資料館で資料をみると、なんと鎌倉時代と書かれていた。驚いた!

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こういう螺髪はいつ頃なのか(ちなみに、私はこの螺髪に胸きゅんです)
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凛々しい黒本尊様


 『八王子の仏像ー八王子市仏像調査報告書/北部篇 1974ー』(八王子市教育委員会)には、以下のように記載されていた。

<引用始め>

 阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)寄木造、玉眼嵌入、像高44.0 膝張34.0
 白毫水晶嵌入。来迎印を結び、袈裟をつけ結跏趺坐する。布下地の上に漆を塗り、その上に箔を置いていたようである。現在、肩、腹部、膝部、背面などにその箔が残っている。
 この像は、当時(原文ママ)の開山忍誉が鎌倉光明寺より持ち来ったものと伝えているが、「新編武蔵風土記稿」や「武蔵名勝図会」などには、忍誉がもってきたものとすれば、当然、当寺の建立当初より在したことになるが、先の二書にはこの阿弥陀像のことについては何も触れていない。この像は、唇の輪郭を明確にあらわし、衣文を複雑に彫出するなど、多分に宗風の影響がみられる。そして衣文の表現などは力強く、写実性に富んでおり、ひきしまった面相とともにこの像の優秀性を物語っている。(第1・2図)

<引用終わり>

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印象的な衣文

 また、相即寺様が出版された『相即寺 起立四百五十年記念写真集』(平成9年、発行=相即寺住職豊島康明、写真撮影=弟 豊島良信、調査=妹 山極和子)には、以下のように記載されていた。

<引用始め>

黒本尊(寺伝の名称)
当寺開山忍譽上人へ、鎌倉光明寺の法譽上人から、伝えられた阿弥陀如来坐像
相即寺起立以来の本尊様
十二主楽誉上人代に「秘仏」とし、新しい本尊を奉建した。
昭和六十三年九月 法印西村公朝師が来山、鑑定された結果<肉身部一体型>(頭、胸、腹が一続きの作り)という鎌倉時代中期の文永、建治年間の作で、天台系の仏像であることがわかる。なお、蓮台は室町時代、光背は江戸時代の作であるとのこと。
① 戦後、東京都文化財調査委員が視察に来られた時の写真を生前母ヤスからもらったもの 2枚
② 二十八世讃誉代にお身拭いし、台座光背を修理彩色した後の写真 1枚
③ 昭和六十三年の鑑定依頼の前に撮影した写真6枚

<引用終わり>

 上記の二つの文献は、いずれも昭和の調査結果であり、最新の研究成果を踏まえたものではないとはいうものの、鎌倉時代という鑑定結果には驚いた次第である。
 例えばだが、黒本尊の造立は鎌倉時代だったが、現本尊が造立される1745年頃までに一部が修復されたという可能性はないのだろうか?
 西村公朝さんの調査記録が気になるところである。仏像の鑑定は研究の進展に応じて変わることもあるので、令和の時代の鑑定を仰ぎたいとも思った。

2-2) 現在のご本尊阿弥陀如来坐像

 現在のご本尊阿弥陀三尊は大きな本堂の中央におられる。上記の黒本尊様に代わり、1745年、新たに造立されたものと伝わる。本堂が大きいので、相応する大きさの本尊が求められたからではないか、とご住職から伺った。
 八王子市の資料によると、黒本尊様の像高は44センチで、現在のご本尊様の像高は100センチ。脇侍のおられない黒本尊様に対し、現本尊様は観音菩薩勢至菩薩の両脇侍を従え、確かに、大きな本堂と調和しているように見えた。
 銘文から、江戸浅草の仏師によるものであることが分かっている。制作年度と仏師名が判明する、江戸中期の貴重な作例なのだそうだ。
 大きくて穏やかにほほ笑まれており、見上げていると心がほくほくしてくる阿弥陀三尊様だった。極楽浄土に迷い込んだような感覚になる。

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相即寺のご本尊 阿弥陀三尊さま

 この中尊阿弥陀様については、1974年の市の仏像調査報告書に詳しい記述があるので、引用したい。

 『八王子の仏像ー八王子市仏像調査報告書/北部篇 1974ー』(八王子市教育委員会)より引用する。

<引用始め>

阿弥陀如来坐像(江戸時代中期)寄木造、玉眼嵌入、像高約100.0
 上品上生印を結び、蓮台上に結跏趺坐する。当寺の本尊である。この像については「新編武蔵風土記稿」などにも記載があるが、先年、当像の胎内より墨書銘のある木札が発見され、それによってこの像の造立年代及び作者を明確にすることができる。
(胎内納入札墨書銘)(木札竪17.0横9.2)
(表)(縦書)
東原山相即寺十二主
信蓮社楽誉鎮□生阿代
江戸浅草新寺町大仏師
高木内■作
延亭二丑年十月朔日入仏
(裏)(同)
開眼大導師増上寺
大僧正尊誉大上人
願主覚峯建立者也
 察□ 遵問
当寺弟子専登 論問
 この銘により、江戸浅草の仏師高木内■によってつくられ、延亭二年(1745)に入仏されたことがわかる。そしてこの像の造立の願主は覚峯と記されており、覚峯が造立の発願者であることが知られるのであるが、この覚峯については詳細なことは不明である。しかし同じく当寺地蔵堂より発見された位牌にも、覚峯がこの阿弥陀像を造立したことが記されており、覚峯が発願者となっていたことを確実にし得るのである。すなわち
(表)(縦書)(位牌総高45.5)
専覚浄心信士 願主
奉建立阿弥陀如来 覚峯徳岸
 亨岳如元信女
(裏)(同)
武州八王子田中相即寺
本尊
六十六部供養新鳥越四丁目徳岸
とある。また同じく銘文中、相即寺十二主蓮社楽誉は、後述の安永五年(1776)造立の金堂地蔵菩薩坐像の台座刻銘にその名が見えており、この地蔵菩薩造立の願主となっている。
 また、この像は、制作年代及び作者を明確にしていることで貴重なものであり、八王子に存する江戸中期頃の江戸仏師の代表的作例とすることができる。面貌、胸部の肉付きなどに平板さが目につくが、盛り上がった膝にかかる衣文、また左肩より垂下する衣褶は複雑に変化し、彫りも深く、その彫技には熟達したものが認められる。なお光背はやや大に過ぎるようであるが、台座ともに本尊と一ぐのものと思われる。

<引用終わり>

※□はPCで入力できない文字。■はしんにょうに、斤と似た文字。

2-3) 阿弥陀如来立像(江戸時代)

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火災による焼け跡の残る阿弥陀如来立像

 近くの喜願寺という時宗のお寺にあったお像だという。明治6年に火災にあい、お身体の両側面に炭化した焼け跡が残る。素朴で味わいのあるお姿である。
 『八王子の仏像ー八王子市仏像調査報告書/北部篇 1974ー』(八王子市教育委員会)より引用する。

<引用始め>

阿弥陀如来立像(江戸時代)一木造
 来迎印を結ぶ弥陀の立像であるが、両手首を矧ぐほかは、台座まで一木である。そして素木像であり、目や唇に僅に彩色があるに過ぎない。なおこの像には、右側面に大きな焼痕と思われる損傷がある。一見して素人作と思われる像である。頭部は円筒状で、長く、また両手首や両足先は大きく、粗雑につくられている。衣文の彫りなどにも稚拙なところが見え、けっして優れた出来とはいえないが、この拙いところに形式化されない一種の力強さを感じるのである。

<引用終わり>

2-4) その他の諸像

 本堂には、これ以外にも印象的な諸像がまつられている。調査しきれていないため、写真のみ掲載する。

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地蔵菩薩立像
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法然上人・善導上人
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法然上人・善導上人

3) 相即寺 拝観情報

東原山浄土院相即寺(そうそくじ)
浄土宗鎮西派
東京都八王子市泉町1132

地蔵堂も拝観させていただいたのだが、こちらがまたとてつもない祈りの空間だった。地蔵堂については、別ポストで掲載したい。

有形文化財になっている銅造地蔵菩薩坐像(万目供養仏)については、こちらをご覧ください
【多摩の仏像】正真正銘の八王子ブランド、相即寺の地蔵菩薩坐像(万目供養仏)!!~地元の仏師と鋳物師による温かみあるお姿~ - ぶつぞうな日々 part III

【多摩の仏像】八王子の大久保長安の陣屋のあった町で信仰された石仏の五智如来様はなんと立像で、しかも、あだ名はとうもろこし地蔵!

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金剛界大日如来様ですが、、、なんと立像なんです!

 コロナ感染拡大対策による外出自粛のため、緊急事態宣言が出てからは、あくまで「健康維持のための外出」の範囲で仏像拝観をしていている。具体的に言うと、移動手段は徒歩か自転車のみ。誰とも会わないというマイルールなので、予約拝観はなしで、御朱印も拝受しない。そして、このマイルールで拝観できるところといえば、こちらの八王子の五智如来像である。久しぶりにお会いすると新たな発見があった。

1. 直入院の五智如来

 八王子市緑町に大きな市営の霊園がある。霊園内に萬福寺真言宗智山派)と直入院(単立)があり、こちらの五智如来像は直入院の境内に安置されている。だいぶ昔に一度お参りしたのだが、お墓が怖くてそそくさと帰ってきたことしか覚えていない。
 その後、仏像拝観を重ねる中で墓地への恐怖心も薄れてしまい(畏怖はあります)、今回はのんびりとお参りできた。

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ソーシャルディスタンスを守る五智如来立像
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青空と緑に映える五智如来

五智如来立像
直入院(東京都八王子市)
釈迦如来阿弥陀如来大日如来は延宝8年(1680)
阿閦如来宝生如来は元禄4年(1691)
八王子市有形民俗文化財

市の文化財サイトには、以下のように記載される。

 五智如来はもともと小門町にあった蓮生院の住職によって建立されましたが、昭和20年(1945年)の戦災により蓮生院が焼失し、廃寺となったため、元横山町にあった帰西寺に移されました。しかし、その帰西寺も昭和29年(1949年)の区画整理にともない直入院と合併したため、現在地に移されました。
 まだ蓮生院にあったころ、ここで開催される縁日で、トウモロコシの露店が並び賑わったため「とうもろこし地蔵」とも呼ばれていました。
 釈迦如来阿弥陀如来大日如来は延宝8年(1680年)に、阿閦(あしゅく)如来宝生如来は元禄4年(1691年)に建てられました。釈迦、阿弥陀如来の台座には法号が刻まれていることから、供養塔であることがわかります。また、大日、阿閦、宝生如来の台座には、寄進者92名の姓名が刻まれ、江戸在住者もかなりいることがわかります。

1-1) 大久保長安の陣屋のあった町で信仰された五智如来。あだ名は「とうもろこし地蔵」

 一見して愛らしいお姿の五智如来立像である。江戸時代でも17世紀後半の造立だ。近所の石仏の制作年代を時々見るのだが、比較的新しいのではないだろうか。
 五智如来像は小門町(おかどまち)の蓮生院の住職によって建立され、1945年の戦災で廃寺となるまで、蓮生院で信仰を集めたことが伺える。小門町は江戸初期に大久保長安(1545-1613)が屋敷を構えていた場所で、今もJR八王子駅西八王子駅の間の中央線沿いに地名が残る。八王子城の落城後、八王子の中心となった地域のひとつで、小門宿という宿も置かれていた。今の八王子駅の北側、甲州街道沿いに整備された八王子十五宿の一つである。
 蓮生院で信仰を集めていた証が「とうもろこし地蔵」というニックネームだ。尊格は如来様なのに、地蔵とは。しかも、露店で人気のトウモロコシからあだ名がつくとは。なんとも愛らしいエピソードではないか!
 蓮生院から帰西寺(元横山町)へ、そして、さらに直入院へと移り、今は市営霊園の北側の高台に静かに安置されている。往時の賑わいを感じながら、愛らしいお姿を見上げたい。そして、今の私たちに必要なソーシャルディスタンスを確認したい!

1-2) 愛らしいお姿

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正面左端の如来様 おそらく宝生如来様かと(1691年)
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宝珠を両手で掲げ、お口を少しとがらせる
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左から二番目の如来様 おそらく阿閦如来様かと(1691年)
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一番左の如来様と同じ仏師が造ったのだろう。粒の大きな螺髪。小さな目や鼻。突き出した口。そっくりである。
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中尊は金剛界大日如来にして立像(1680年)

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阿弥陀如来立像 1680年
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阿弥陀様の御足
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阿弥陀様は立像なのに弥陀定印!

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正面右端はおそらく釈迦如来立像

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釈迦如来様も法界定印を結ぶ。立像でこの印はあまり見かけないと思う
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直入院境内に掲げられた市教育委員会の看板

2. 直入院 拝観案内

東京都八王子市緑町223 (緑町霊園内)
緑町霊園は南から北へと高くなる傾斜地にある。直入院は北側の高い場所にある。

2-1) 近くの広園寺もお勧め

 緑町霊園の近くの広園寺臨済宗南禅寺派)は仏殿や山門などが東京都文化財。通常は仏像拝観はできないが、鎌倉の禅寺に迷い込んだかのような格式を感じる境内を散策できる。

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兜率山広園禅師の境内

2-2) さらに足を伸ばして、五智如来像がもともと安置されていた小門町へ

 五智如来像が本来まつられていた蓮生院は八王子市の小門町にあった。小門町には、大久保長安の陣屋跡地とされる産千代稲荷神社が残る。

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産千代稲荷神社(大久保長安の陣屋跡地とされる)

※参考資料

〇八王子市文化財サイト
直入院石造五智如来立像|八王子市公式ホームページ
大久保長安と八王子の町(八王子こどもレファレンスシート)※PDF資料です
https://www.library.city.hachioji.tokyo.jp/pdf/kids/010.pdf
大久保長安の陣屋跡地とされる産千代稲荷神社について
goshuin.net

【多摩の仏像】観音院(東京都武蔵野市)~武蔵野プレイスの横に穏やかな来迎の石仏阿弥陀如来立像~

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1)武蔵野プレイスのそばです

 5月25日に緊急事態宣言が解除されても、電車に乗るのは仕事だけというマイルールは崩していない(2020.6.6現在)のだが、仕事で東京都武蔵野市に外出したので、その帰りに仏像を拝んできた。市の文化財サイトで見つけた石仏の阿弥陀如来様である。拝観予約は不要なので、お寺の方にはお会いせず、ただ石仏様に手を合わせてきた。自転車圏外の仏像拝観は久しぶりだ。
 石仏様のおられる観音院は、JR中央線武蔵境駅のすぐそばにありながら、静かな佇まいのお寺だった。すぐ横には、図書館やカフェの入ったコミュニティセンター、武蔵野プレイスがある。沖縄出身の比嘉武彦氏が設計を手掛け、2016年に日本建築学会賞を受賞した居心地のよい建物で、市民の集いの場となっている。私が訪れた5月末はまだ休館中だったが、隣接した広場には多くの人がくつろいでいた。賑やかだけど、穏やかな場所である。

2) 観音院の来迎の阿弥陀如来立像

 そんな場所のすぐ真横に、静かな曹洞宗寺院がある。今回ご紹介する観音院である。
 観音院は承応二年(1653)に盛岳栄見大和和尚により開創。松江藩松平直政(1601-1666)の屋敷西方に観音堂を建てたことが始まりとされる。直政の命を受け、下屋敷跡を開拓してのちの境村を切り開いた下田三右衛門の追善のため、天和2年(1682)に造立されたのが、この来迎阿弥陀如来像だ。市指定文化財のこの石仏は、境内の墓地の中、下田家の墓所内にまつられていた。

栄見山 観音院(東京都武蔵野市
来迎阿弥陀如来立像
天和2年(1682)
市指定文化財

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 穏やかなご尊顔。ごろごろとした大粒の螺髪。少し武骨な感じの指が来迎印を結ぶ。とても癒される。

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武蔵野市教育委員会の説明

この観音院の来迎阿弥陀如来像は、上保谷村(旧保谷市)から移り住み、松平家松江藩主の松平出羽守直政<1601-1666>、祖父は徳川家康、父は家康三男結城秀康)の下屋敷跡地を開拓して出雲新田(境新田、のちの境村)を開いた保谷三右衛門(下田)の追善のために、天和2年(1682)に造立されたものである。観音院は、下屋敷内西方に直政によって建立された観音堂とこの墓所から幕府公認の村の寺院として発展しており、境新田村の開発のいわれを語る重要な資料である。
美術的にみても螺髪・肉髯の単純化、尊顔の素朴な微笑、印相の表情の巧みな表現等の彫法は、本市所在の石仏としては最も古く、代表的な美しさを持っている。

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下田三右衛門の名前が読み取れる
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下田家の墓所内に今も安置される

観音院 拝観案内

栄見院観音院 武蔵野市境南町2-4-8
 早朝坐禅会や公開講座など、開かれたお寺だと感じる。駅近くの静かな一角。癒しの空間。

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門前の掲示板から活発な布教活動が伺える。家が近ければ、早朝の坐禅会に伺えるのに...
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参考資料

武蔵野市観光機構による観音院の紹介記事
musashino-kanko.com

【多摩の仏像】正真正銘の八王子ブランド、相即寺の地蔵菩薩坐像(万目供養仏)!!~地元の仏師と鋳物師による温かみあるお姿~

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穏やかで温かい地蔵菩薩さま
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相即寺・万目供養仏(地蔵菩薩坐像)


 コロナ禍で外出自粛となり、遠出はできなくなってしまった。そこで、拝観マイルール6か条を作り、自転車圏内で、誰とも会わずにお寺をめぐってみたところ、思いのほか楽しい出会いがあった(※マイルール6か条はこちらの記事→【コラム】コロナ自粛中の拝観マイルール6か条で、楽しい出会いがありました - ぶつぞうな日々 part III)
 特にうれしい出会いが、相即寺(東京都八王子市)の銅造地蔵菩薩坐像、通称、万目供養仏である。100年に一度とされるパンデミックのなか、地元仏師による仏像にこれほど癒される日が来るとは…。

1) 相即寺とは

 まずは、お寺のご紹介から。相即寺(そうこくじ)は八王子市泉町にある浄土宗のお寺で、本尊阿弥陀如来を本堂にまつる。天文15年(1546)、忍誉貞安によって開基。慶安元年(1648) 第3代将軍徳川家光から朱印状を拝受。明和8年(1771)、延命閣地蔵堂建立。地蔵堂には、八王子城落城の際の犠牲者を供養した150体の石仏の地蔵菩薩立像が安置されている。地元では、昭和20年の八王子空襲の被害を物語るランドル地蔵が有名である。

2) 地元八王子周辺の仏師と鋳物師による銅造地蔵菩薩坐像(万目供養仏)! 八王子市民はもっと注目しましょう!!

 
 相即寺というお寺にランドセル地蔵(後述)がおられることは知っていた。こちらがあまりに有名で、まったくノーマークだったのが、今回ご紹介する”八王子ブランド”の銅造地蔵菩薩坐像である。

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銅造。像高 116cm。膝張り 88cm。台座を含む総高 190cm。安永3年(1774)。八王子市指定文化財

 ランドセル地蔵は年に3回のご開帳日があるのだが、こちらの万目供養仏さまは、本堂近くに安置され、いつでも拝観できる。
 一見すると、どっしりした大らかな印象の地蔵菩薩さまだ。とりわけうまいとは言えないが、誰もをやさしく包むような温かみがある。実は、地元の仏師の手によるのだという。
 連弁の刻印によると、柚木落合の田中播磨義知(たなかはりまよしとも)という仏師が制作し、横川町滝原の加藤甚右衛門白鎧(かとうじんうえもんはくがい)という鋳物師が鋳造したことが分かっている。柚木、横川とも、現在の八王子市内の地名である。
 八王子ブランドの仏像が、しかも、こんなに癒し系の仏像が、地元に残されていたとは! 地元民として心が躍った。これはもう、Funky Monkey Babysが初めてミュージックステーションに出たとき以来の興奮である!!(※本稿の最後にYouTubeを貼ったので、ファンモン好きの方はどうぞ!)
 (※播磨義知の出身地として銘記された柚木落合について補足すると、八王子には今も「柚木」という地名があるのだが、「落合」は現在では多摩市内である)

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正面のすぐ横の連弁に加藤という鋳物師の名前と仏師の田中播磨義知の名前が読み取れる

2-1) 柚木落合の仏師、田中播磨義知

 柚木落合の仏師は初めて聞く名前なのだが、実は柚木地域には古い仏像が隠れているのではないかと思っている。2011年の武相観音霊場のご開帳のとき、住宅街の公民館に法衣垂下の観音像を拝見したときは、本当に驚いた。柚木地域を調査したら、きっと他にも発見できるかもしれない。田中播磨義知の他の作例もあるのだろうか。気になる!

2-1-1) なんと、田中播磨義知の他の例が町田市と府中にも!(2020.6.1追記)

 本記事を公開後、山本勉先生からTwitterで以下のご指摘をいただいた(2020年5月30日)。

中播磨義知は、「近世仏師事績データベース」では宝暦13(1763)の府中市常久寺不動三尊と明和7(1770)の町田市持宝院役行者像が採録されていますね。記録・記憶しておきたいと思います

 こういうご指摘いただけること、大変ありがたい。ファンモンのYouTubeを貼り付けているような仏像ブログなのに、、、申し訳なく、かたじけなく。。。
 この「近世仏師事績データベース」の存在も知らなかった。土曜日の夜で、うとうとし始めたところに、山本先生からリプライをいただき、一気に興奮して目が覚めてしまった。
 そういえば、前に古本屋で買った『町田市の仏像 町田市仏像調査報告書』(町田市立博物館、昭和63年)という本があったと思い出し、さっそく開いてみた。なんと、の、載っていた。。。!
 

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中播磨義知が修理したとの銘が残る役行者像(東京都町田市・持宝院)
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銘文の掲載がありがたい。これによると、相即寺の地蔵菩薩より前に、町田のこの役行者像の修理に携わったようだ。「運慶末流大佛師」という名乗り方にどきどきする
 思いもかげない展開に完全に目が覚めてしまった。(翌日は日曜日でたくさん寝たのだが...)
 「近世仏師事績データベース」に八王子の相即寺の地蔵菩薩様も掲載してもらいたいな。。と思う。

2-1-2) 平成の子孫が調べた田中播磨義知の軌跡(2020.6.27追記)

 その後さらに、山本先生から、播磨義知に関する資料を教えていただいた。田中登「仏師 田中播磨義智について」『ふるさと多摩 No.8 多摩市史年報 平成9年』(平成9年3月24日発行)という11ページの短い資料だ。著者の田中登氏は仏像の専門家ではないものの、子孫として播磨について調べた成果をまとめている。
 登氏は、田中家の系図をたどりつつ、播磨義知の作例を紹介している。
〇落合中組(現鶴牧)の峯岸正次家の釈迦如来坐像(座高12.5cm、台座14cm)と仏壇(仏壇の欄間が見事な鎌倉彫)
東福寺(多摩市落合)位牌堂 播磨の父母の位牌(裏面に大仏師田中播磨義智の銘あり)
〇常久寺(東京都府中市若松町不動明王及び童子像(宝暦13年、1763)不動明王44.7cm
〇持宝院(東京都町田市常盤町役行者像及び二鬼像(明和7年、1770)
 なお、相即寺の万目供養仏ももちろん記載されているが、その造立について田中家には記録も言い伝えも残っていないそうだ。これだけの大きさのある本像について、田中家に記録がないとは不思議である。むしろ播磨の代表作と言えるのではないかと思うほどなのだが。
※なお、この田中登氏の資料では、一貫して「播磨義智」と「智」の文字を使用している。

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常久寺(東京都府中市不動明王像(画像は田中登氏の資料より)
 田中家の資料により、播磨の没年は寛政元年(1789)と分かっている。多摩ニュータウンの開発までは、田中家の宅地裏の墓地内に五輪の墓石があり、それが播磨の墓石だった。田中家の墓地はニュータウン開発で買い取られ、昭和48年に東福寺(多摩市落合、青木葉)の共同墓地に移転。田中登氏は、移転前の播磨の五輪の中に小さな器が入っていたことを覚えており、造仏の時に漆か何かを入れた播磨の遺物だったのではないかと言う。もしそれが本当に播磨の遺物だったとしたら、ニュータウン開発のさなかに紛失したことは残念だ。

2-2) 横川の加藤鋳物師

 さらに注目したいのが鋳物師である。横川村(現在の八王子市横川町)には、戦国時代から代々、加藤姓を名乗る鋳物師集団が居住し、梵鐘などの鋳造に携わっていた。市の掲示板によると、ここ相即寺の北西には工房跡があるという。コロナ禍の外出自粛のなか、地元八王子のお寺をいくつか回ったが、加藤鋳物師の名は、相即寺以外でも耳にした。例えば、浄土宗関東十八檀林の一つ、大善寺(八王子市大谷町)。江戸初期に、賀藤(加藤)甚右衛門長重が、この古刹の梵鐘を手掛けている。

2-3) 地方仏、最高! 温かみのあるお姿があなたを癒してくれます!!

 長々と書いてしまったが、改めて、相即寺の地蔵菩薩さまのお姿を拝してみよう。

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どっしり安定感
 都に近い仏像とは異なり、決してうまいとは言えない。しかし、どっしりとした温かみがある。大きな鼻や目。丸みのある頬。宝珠をもつ左手には太くて大らかな指。量感ある体部で、どっしりと坐す。見上げているだけで心がほくほくしてくる。
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 お地蔵様の左右から回り込んだり、屈みこんで下から見上げたりして、その温かみを十二分に感じさせていただいた。コロナ禍でいつの間にか自分の中に鬱積していた嫌な塊を溶かしてくれるようだった。
 この温かみには既視感がある。埼玉県熊谷市の平戸の大仏を思い出していた。像の大きさは違うが、あちらも温かみのある江戸時代の仏像だ。(【埼玉】熊谷・源宗寺の木彫大仏坐像(地方仏最高と叫びたくなる平戸の大ぼとけさま) - ぶつぞうな日々 part III
 地方仏、最高! 江戸仏、最高! そう叫びたくなる仏像にまた出会うことができた。しかも、こちらは正真正銘の八王子ブランド。市民の誇りとして、もっと注目し、愛情を注いでいきたいものだ。
 地蔵菩薩さまの前には、木製のテーブルと椅子が置かれている。そこに腰をかけて、穏やかな地蔵菩薩さまとゆっくりのんびり対面させていただいた。拝むという行為でもあり、身の上話を聴いていただくようでもあった。周りには誰もいない。ただ5月初めの爽風だけが若葉を通り抜けていった。
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こうしてくつろぎながら、お地蔵さまと対面できる幸せ

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境内の看板

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2009年11月1日の八王子市の広報紙より

3) 相即寺 拝観情報

東原山浄土院相即寺(そうそくじ)
浄土宗鎮西派
東京都八王子市泉町1132

※実はランドセル地蔵のほうが有名

 八王子の相即寺といえば、ランドセル地蔵が有名である。第二次世界大戦の際、東京の品川から疎開してきた神尾明治くんが八王子空襲で亡くなってしまった。嘆き悲しんだ母親が、相即寺に多数ある石仏の地蔵菩薩像のうち、男の子によく似たお像に、その子のランドセルを背負わせたのだという。戦後、古世古和子さんが児童文学として紹介し、広く知られるようになった。古いランドセルを背負ったお地蔵様は今も相即寺の地蔵堂にまつられている。
 ちなみに、地蔵堂には150体もの石仏群が安置されているのだが、これは、八王子城落城の際、283人の相即寺縁の戦死者供養のため造立されたものだという。地蔵堂は毎年、6月23日、7月8日、8月8日にご開帳される。地蔵堂を外からのぞき込むと、中央内陣に大きな地蔵菩薩さまがまつられていた。これはご開帳のときにお参りせねばなるまい。

4) 参考資料

4-1) 田中登「仏師 田中播磨義智について」『ふるさと多摩 No.8 多摩市史年報 平成9年』(平成9年3月24日発行)編集 多摩市史編集委員会、発行 多摩市
播磨義知について調べる中で、多摩市文化財課にお世話になった。感謝申し上げたい。
4-2) 『町田市の佛像 町田市仏像調査報告書』(町田市博物館、昭和63年)

5) 追記

1) 制作年度:当初、某ネット記事に掲載されていた「天明9年(1789)」を制作年度と記載したが、その後の調べで「安永5年(1776年)」という記述が見つかったため、本稿もこちらに修正した(参考資料4-1より)。1776年に原型が制作され、1789年に鋳造された、ということなのだろうか???
さらに追記: その後さらに調べたところ、台座の連弁に安永3年とあるのを確認。お像本体の完成が安永3年で、台座の完成が安永5年ということのようです。八王子市の最近の資料でも安永3年を取っているため、こちらに変更しました。2020.07.13変更と追記
2) 播磨義知の出身地: 相即寺万目供養仏台座の連弁に記載された「柚木落合」という地名について、最初、八王子市内と書いてしまったが、調べたところ、「落合」は現在多摩市内にある。「柚木」という地名は現在八王子にあるのだが、当時の柚木の一部である「落合」が現在は多摩市内に当たるということらしい。八王子市民なので、柚木と聞いてつい八王子市内だと思い込んでしまった。多摩市民の皆様にお詫びしたい。

オマケ(八王子市出身 Funky Monkey BabysがMステ初出演のときに歌ったLoving' Life)



 

【来迎会】大念仏寺の万部おねり~きらびやかでおごそかな阿弥陀信仰の形~

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 大阪市平野の大念仏寺は融通念仏宗大本山。毎年5月1日から5日にかけて、練供養が営まれている。厳密にいうと、単なる練供養ではない。二十五菩薩の練供養と阿弥陀経一万部の読誦が組み合わさった一大イベントで、「万部(まんぶ)おねり」と呼ばれている。二十五菩薩の練供養は、菩薩様たちが美しく、とてもきらびやか。ここでは、大念仏寺・万部おねりの魅力に迫りたい。

1 万部おねりとは

 平安時代、人々の間に極楽浄土に往生したいという願望が広まり、来迎図が盛んに描かれるようになる。その欲求はさらに高まって、菩薩の面や衣装を身に着け、往生の様子を実際に演じるところまで発展した。いわゆる、聖衆来迎会である。大念仏寺における来迎会は、第七世法明(ほうみょう)上人(1279~1349年)が、その最晩年にあたる貞和5年(1349)の春、當麻寺の練供養を模して、菩薩の面と衣装をしつらえ、自ら行者となって来迎の儀式を執り行ったことに始まる。
 さらに、江戸時代に入り、明和6年(1769)、第四十九世尭海(ぎょうかい)上人のとき、阿弥陀経を一万部読誦して、檀信徒と有縁無縁諸霊の追善も行うようになった。万部会(まんぶえ)である。
 この聖衆来迎会と万部会という二つの法会が合体したものが「万部おねり」である。今日まで続く大念仏寺独自のスタイルであり、正式には阿弥陀経万部読誦・二十五菩薩聖衆来迎会」という。現在、大阪市の無形民俗文化財に指定。
 来迎の練供養は他のお寺でも行われているが、二十五菩薩聖衆来迎会と阿弥陀経万部会を融合した大々的なイベントは大念仏寺だけだろう。しかも、練供養は年に一度、一日のみの開催であることがほとんどなのに対し、大念仏寺の万部おねりは毎年5月1日から5日までの5日間、毎日厳修される。練供養の常識を覆す、破格の一大イベントなのである。

2 大念仏寺「万部おねり」の流れ

 それでは、万部おねりの流れをもっと詳しくみていこう。
 万部おねりは「入御(にゅうぎょ)」「本堂内法要」「還御(かんぎょ)」の三つで構成される。

2-1) 入御(にゅうぎょ)

 万部おねりでは、大念仏寺の大きな本堂の右手奥から正面にかけて、来迎橋がかけられる。「入御」とは、この来迎橋を二十五菩薩などが渡って本堂へ練り込むことで、「練り込み」とも呼ばれる。「苦しみと悩みに満ちた娑婆世界から仏の知恵かがやく喜びと感謝に満ちた幸せの世界へと至る儀式」(大念仏寺リーフレットより)である。
 まずは稚児行列、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の念仏、詠讃歌舞(えいさんかぶ)などが橋を渡られ、本堂に入る。この中で、私が特に好きなのが、小さな鐘を手に「融通念仏なみあみだー」と歌うように称えながら橋を渡る男性陣である。禅門講の方々なのだそうだ。こういうのは他の来迎会では見かけない。
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 これら渡御の先払いを経て、雅楽に先導されて登場するのが二十五菩薩である。
 大念仏寺の二十五菩薩の特徴は何と言っても、そのお姿がエレガントであること。厳かな金色のお面に大きな宝冠。優雅できらびやか衣装。そして、特筆すべきは、背中から足元までに伸びる、長い黒髪である。最初に見たときは驚いた。さらに、菩薩様はみなさん背が高く、一部を除いて細身の方が多い。しかも、二十五菩薩様お一人お一人が登場されるたびに、会場アナウンスで、「続いてのお出ましは〇〇菩薩さまです!」と紹介される。まるでファッションショーのモデルさんのようだ。私は思う。こうした徹底した美意識が極楽浄土を具現化するのだと。極楽浄土からお出ましの菩薩様たちは美しくあってほしい。

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青空のもと橋を渡って堂内に向かう菩薩さま
 融通念仏宗の某寺で伺ったところ、お練供養で菩薩様になられるのは宗内の僧侶の方々なのだそうだ。他のお寺では、講員や檀家様、一般の方々がお面を被るのが一般的であることを考えると、融通念仏宗の力の入れようがわかる。しかも、重要な役どころである観音菩薩様と勢至菩薩様については、本山の許可がいるのだそうだ。極楽浄土を本気で再現しようとされているのだ。だからこそ、美しいだけなく、厳かさも同時に感じるのだろう。
 二十五菩薩様すべてが渡御されると、続いて、ご本尊である十一尊天得如来様、法主猊下、法要出仕僧などが順に渡御される。十一尊天得如来様は融通念仏宗のご本尊様で、阿弥陀如来と十菩薩を描いた仏画である。これを入れた細長い箱を僧侶らが抱え、来迎橋を渡って、堂内に入る。十一尊天得如来は本堂の内陣に安置される。
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屈みこむ僧侶が床をたたき、菩薩様を誘導する。菩薩面を被ると視界は限られる

2-2) 本堂内法要

2-2-1) 菩薩伝供(ぼさつでんぐ)

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 菩薩さまたちが来迎橋を渡って堂内に入られると、仏徳を讃える声明の流れるなか、菩薩様らによる「伝供(でんぐ)」が始まる。伝供とは、堂内に入られた菩薩様たちが供物(お花)を次々に手渡しして、仏前にお供えするものである。供物は最初、本堂正面の入り口に置かれている。このそばにおられる菩薩様がお花を持ち、楚々とした歩みで堂内に進まれる。そして、堂内の少し奥で待っていた別の菩薩様にお花を手渡しする。この動きがなんとも上品でエレガントなのである。菩薩様たちはいくつかのグループに分かれて移動されるので、まるでフォーメーションダンスのように見えてしまう。
 菩薩様によるファッションショーの次は、フォーメーションダンスが始まるのだ。最初に観たときは本当に驚いた。素晴らしい。万部おねりならではの感動である。見物客のなかには、菩薩様による来迎橋の渡御が終わると帰ってしまう人も多い。しかし、ぜひとも、そこで帰らず、本堂内で行われる伝供を観てほしい。他のお寺のお練供養では見られない、大念仏寺独特のものなのだから。

2-2-2) 法要

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 伝供が終わると、菩薩様はお堂の奥に入られ、いったん退席される。ここからが法要の始まりだ。内陣エリアでたくさんの僧侶による阿弥陀経の読誦が始まる。阿弥陀経による先祖諸霊追善回向に加えて、世界平和、万民快楽、交通安全等の祈願を行うのだそうだ。
 私はお経に詳しいわけではなく、何を読んでおられるのか正直わからない。しかし、大念仏寺の大きな本堂にあまねく響き渡るお経を聞いてると、多幸感に包まれる。美しく荘厳された堂内を見上げると、読誦された音の一つ一つが天井に向かって舞い上がっていくようだ。法要は宗教的な意味のある儀式ではあるが、私はむしろその美しさに感じ入る。
 また、僧侶の皆さまによる読経の合間に、お子さんによる迦陵頻伽の舞もあった。毎日行われているかどうかは不明だが、私がこれまで訪れた3回いずれも迦陵頻伽ちゃんは登場した。これがもう可愛くてしかたない。過去の動画を何度見たことか。演じられるのは檀家さんのお子さんなのだろうか。よく練習してえらい。ご両親がビデオを撮られているのもほほえましい。

2-2-3) 還御(かんぎょ)

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読経が終わると、堂内の奥から再び菩薩様がお一人ずつ登場。堂外の橋を渡り、お帰りになる

 さて、長い法要が終わると、本堂の奥から再び菩薩さまや僧衆が一人一人順番に登場し、また来迎橋を渡って帰っていかれる。これが「還御」である。俗に「練りかえし」とも呼ばれる。これは、「極楽にたどり着いた者は再び娑婆世界へ帰り来て、苦界に沈む人々を救済しなければならない」という教えに基づいて行われるものである。

 入御から還御まで、すべてが終わるまで3時間弱。菩薩さまの優雅な動きも、堂内の天井に昇るように響いていく読経も、美しい。夢のような時間を過ごせる。
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(↑観音菩薩様は腰をかがめて蓮台を掲げ、歩まれる。堂内の奥から、勢至菩薩様が合掌して登場。あまりに恐れ多くて手が震え、一瞬でカメラをオフにしてしまった結果がこの一瞬の動画)

3 改元記念で地蔵菩薩さまがお出ましに

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改元記念で特別に登場された地蔵菩薩様!

 2019年の万部おねりの初日である5月1日は、偶然にも、令和元年の最初の日。今年の初日には、改元を記念して特別に地蔵菩薩さまもお渡りされたそうだ。地蔵菩薩さまはご遠忌や改元など、よっぽどのときしか登場なさらない。
 私はその情報を事前に得ておらず、初日が雨天だったため、翌日の5月2日の万部おねりをお参りしてしまった。地蔵菩薩様は初日の1回のみと決まっているそうで、2日目以降は地蔵菩薩さまはお渡りされない。
 ところが、5月2日の練供養が終わって、人々が去り始めた頃、突如として地蔵菩薩様が橋を渡って来られるではないか。あとで伺ったのだが、1日が雨天だったため、写真撮影のためだけにお出ましになったのだそうだ。登場されて立ち去られるまで、わずか数分間。白いお顔の地蔵菩薩様は、ぱしゃぱしゃと何枚か写真撮影に応じたあと、風のようにさわやかに去っていかれた。ファンとのツーショット撮影などは望むべくもなかった。
 とはいえ、偶然にも地蔵菩薩さまを拝見してできるとは、なんとも幸運だった。

4 當麻寺との違いと融通念仏宗らしさ

 お練供養といえば、奈良の當麻寺。當麻の練供養をご存知の方であれば、「あれ、中将姫さまがおられないじゃない」と思うのではないだろうか。當麻寺では、中将姫さまのお像が橋を渡られる。まさに、練供養の主役なのだが、大念仏寺の練供養では、中将姫さまはお出ましにならない。
 中将姫の代わりというわけではないが、大念仏寺では、融通念仏宗のご本尊十一尊天得如来様が渡御される。これは彫刻ではなく、仏画である。黄色の布で包まれた細長い箱に収められている。来迎橋を渡って、本堂に運ばれ、法要の間は内陣中央に鎮座される。法要が終わると、十一尊天得如来様も菩薩様とともに橋を渡って帰られる。
 融通念仏宗ではご回在といって、十一尊天得如来様が檀家を回られる制度がある。大阪地区では毎年3月から7月、奈良では9月から12月にかけて、ご本尊様が各家を訪問されるのである。普通、仏像や仏画としてのご本尊様はお寺の外を出歩かれることはない。それがおうちまでおいでくださるというのだから、うらやましく思える。檀信徒の皆様にとっては、練供養においてご本尊様が渡御されるのは、当然のことなのかもしれない。来迎の練供養といっても、お寺によって特徴があり、どれも魅了される。

5 被仏の阿弥陀如来

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大念仏寺に現存する被仏さま。写真は展覧会「極楽へのいざないー練り供養をめぐる美術ー」(2013年)図録より。關信子先生の解説もぜひお読みください!

 大念仏寺の練供養では、かつて、木彫の阿弥陀如来像の中に人が入って菩薩様たちを出迎えるという演出がなされた時期もあった。迎講阿弥陀如来、いわゆる、被仏である。
 この被仏様は今でこそ使われていないものの、そのお姿は大念仏寺の宝物館で拝むことができる。万部おねりの日、宝物館は開いている(無料)ので、ぜひ拝観されたい(宝物館は4時に閉まってしまうので、ご注意を)。ガラス越しながら間近で拝める。とても大ぶりで、中に人が入ることを意図したお像だとわかる。
 被仏様が今も現役で登場されるのは弘法寺岡山県瀬戸内市)のみ。かつて使われていた証である阿弥陀如来像が残るのは、當麻寺本堂(奈良県葛城市)、米山寺(広島県三原市)、美作誕生寺(岡山県久米南町)と、ここ大念仏寺だけのようである。
 このほか、宝物館には、亀鉦などの寺宝も展示されている。亀鉦の話もおもしろいのだが、長くなるのでまた別の機会に。

6 参考資料

〇『月間大和路ならら 融通念仏宗のすべて』(2015年4月号)
〇大念仏寺「万部おねり」リーフレット
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〇冊子『融通念仏宗 第十一教区強化活動』(平成27年11月)※奈良の某寺でお分けいただいた一冊がとても勉強になった。ありがとうございます。

7 参拝案内

融通念仏宗総本山 大念仏寺
大阪市平野区平野上町1-7-26 TEL 06-6791-0026 / FAX 06-6793-3050
午前9時30分から午後4時30分まで(午後5時閉門)
JR大和路線「平野」駅より 南へ徒歩5分
または 大阪メトロ谷町線「平野」駅 ①②出口より 北へ徒歩8分