ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【来迎会】奈良県宇陀市・慶恩寺 平成生まれの新しい手作りの練供養「菩薩と歩む夢行道~菩薩とはさとりをもとめて歩む人~」

2018年10月28日(日)
奈良県宇陀市大宇陀・慶恩寺(浄土宗鎮西派
「菩薩と歩む夢行道~菩薩とはさとりをもとめて歩む人~」
f:id:butsuzodiary:20181031093931j:plain

1) 偶然知って急きょ予定変更して出かける!

 奈良県宇陀市大宇陀の慶恩寺さまで、二十五菩薩の練供養が行われています。今回で第14回。つまりは平成生まれの新しい練供養です。
 実は、この練供養のことは、開催される35時間前までまったく知りませんでした。滋賀の仏像をのんびりめぐろうと夜行バスに乗った途端に、Twitterを開いたら、「菩薩さまとお散歩」というイベントの告知記事が目に飛び込んで来たのです。
 どのような練供養なのかほとんど知らないまま、急な予定変更をして、この練供養を見に行くことにしました。しかも、イベントの正式名は「菩薩と歩む夢行道」なのですが、夜行バスの中で頭がよく働かず、勝手に「菩薩さまとお散歩」と脳内変換したままで…。愛知県愛西市の練供養のように、菩薩さまとお散歩できるといいな…。そんな思いで出かけました。

2) 平成生まれの練供養は手作り!

 10月28日、二十五菩薩さまは朝10時に慶恩寺を出発。一時間ほどかけてのんびりと練り歩きました。練供養のルートは宇陀松山城の城下町、重要伝統的建造物群保存地区にある、静かでのどかな通りでした。
f:id:butsuzodiary:20190306133419j:plain
 (↑左の地図が広域図。東の山上にお城があり、その下に城下町が広がります。右の写真で手書きしたルートを菩薩さまは練り歩きました)

 上記のような経緯で出かけましたので、事前の情報はほとんどつかんでおりませんでした。 "手作り"と聞きましたし、「二十五菩薩」とか「来迎会」という言葉も見あたらなかったので、宗教行事というよりは、地域興し的なイベントなのかとも思っていました。(なにせ私の頭の中では、「菩薩さまとお散歩」というイベント名になっていたので、正式名称に「行道」という言葉が入っているという事実さえ欠落していたのです…)
 しかし、実際に間近で見ると、のどかなように見えて、実は強い思いとかなりの労力をかけた大変真面目な行事だとわかりました。
f:id:butsuzodiary:20190323121738j:plain
f:id:butsuzodiary:20190323121826j:plain
f:id:butsuzodiary:20190323121921j:plain
 菩薩面はなんと、厚紙に色紙を貼った手作りのものです。兵庫県小野市の浄土寺に快慶の手による見事な行道面が残っていますが、それとは真逆。菩薩の着物も持物もすべて、檀家さまらによる手作りなのだそうです。
f:id:butsuzodiary:20190323100144j:plain
f:id:butsuzodiary:20190323122058j:plain
f:id:butsuzodiary:20190323122126j:plain
 しかし、菩薩面も光背も、近くで拝見すると、写真の印象よりしっかりしていて、安定していました。菩薩さまの後頭部を布で包み、菩薩らしさを出しているところなどに、菩薩さまへの愛も感じます。どこか他のお寺から練供養のノウハウを得ているのではないでしょうか。持物は寄せ集め感があるとはいえ、きっちり二十五の菩薩さまがお揃いになるのは簡単なことではないと思います
f:id:butsuzodiary:20190323180947j:plain
f:id:butsuzodiary:20190323140054j:plain

3) なんと楽人は當麻寺練供養と同じ! だからシルクロードのテーマ曲なのか!?

 手作り感満載の練供養ですが、楽人も菩薩さまの列に加わって演奏しておりまして、この生演奏がかなり本格的でした。後で知ったのですが、當麻寺の練供養でも演奏されている「奈良葛城楽所雅遊会」の方々なのだそうです!

 さらに、雅楽の演奏に加えて、シルクロードのテーマ曲も流れていました。行道の列の先頭付近と末尾付近で、お坊さんがカセットデッキを抱えおり、そこからテーマ曲を流しているのには驚きました。
f:id:butsuzodiary:20190323100322j:plain
(↑はにかんだ笑顔がまぶしい)
 練供養ファンならご存知かと思いますが、シルクロードのテーマ曲は當麻寺の練供養の後半で流れる曲です。私はこの曲を聴くと、練供養の列が娑婆堂から本堂へと戻っていくシーンを思い出してしまいます。曲がかかった途端に条件反射的に思い出してしまうのです。
 ですので、大宇陀で、練供養の冒頭からシルクロードがかかっているのを聞いた時には、「えー、もう終わっちゃうのー」と反射的に思ってしまいました。
 大宇陀の行道の特異なところは、シルクロードのテーマ曲が最初から最後まで、終始流れていたことです。お坊さんがカセットデッキを持って歩くのは、なかなかシュールでした。一曲終わると、お坊さんがカセットデッキを操作して、また最初からかけ直すのです。そもそもこういうカセットデッキ自体、最近見かけません! こういう細かいこだわりに、担い手の心意気が見えました! とにかく愛が伝わってきます!
 この雅楽シルクロードの競演は、桃太郎のもとさんのTwitterでどうぞ!

4)「菩薩とはさとりをもとめて歩む人」

 練供養の後半で、ふと、のぼりを見ると、そこには「菩薩と歩む夢行道~菩薩とはさとりをもとめて歩む人~」と書いてありました。
 よい言葉です。じーんときました。
f:id:butsuzodiary:20190323100509j:plain

 最後に慶恩寺さんのお堂の前で記念撮影がありました。青空のもと、浄土感たっぷりの写真が撮れたことでしょう。
 この新しい行道が未来へ続くことを願っています

参拝案内

松山山菩提院 慶恩寺
奈良県宇陀市大宇陀春日262番地
近鉄榛原駅から6km タクシーで15分 榛原駅でタクシーが拾える
道の駅宇陀路大宇陀から1km

参考資料

NHK奈良のニュース(※テキスト部分を以下に貼ります。公開されたニュース映像は期間限定ですので)

菩薩(ぼさつ)のお面をかぶった人たちが古い町並みが残る地域を練り歩く行事が奈良県宇陀市で行われました。
この行事は、宇陀市にある慶恩寺や檀家が菩薩の思いやりの心を広めようと始めたもので、ことしで14回目となります。
28日は、金色の菩薩のお面をかぶって菩薩にふんした25人やその付き添いなどあわせておよそ100人が寺を出発し、古い町並みが残る宇陀松山地区を1時間ほどかけてゆっくりと練り歩きました。
菩薩のお面は、寺の檀家の人たちが厚紙などで作ったもので、色鮮やかな衣装も手作りだということです。
行列にはお稚児さんの衣装を着た子どもたちも参加し、訪れた人たちは写真を撮ったり、手を合わせたりしていました。
市内から訪れた20代の女性は「初めて見に来ましたが、手作り感があって、すばらしい行事だと思います」と話していました。


○奈良葛城楽所雅遊会のサイト
gayukai.net

【大阪】藤田美術館の快慶の地蔵菩薩立像~小さいものにこそ匠の技が際立つのか~

※2015年8月の拝観メモです

快慶の地蔵菩薩立像
拝観日=2015年8月15日
像高58.9cm 木造 彩色・載金 奈良興福寺伝来
f:id:butsuzodiary:20190321071053j:plain
f:id:butsuzodiary:20190321081809j:plain

 小さいものにこそ匠の技が際立つのか。

 その最たる例が今、サントリー美術館(※)にお出ましだ。鎌倉時代の仏師、快慶が作った地蔵菩薩立像である。

 大阪の藤田美術館が所蔵するお像で、同館でもなかなか公開されないと聞く。しかも、藤田美での展示とは違い、サントリー美術館では、お像のまわりをぐるっと回って、360度からの拝観が可能となっている。

 私は来迎立像の前傾具合に激しく反応する、いわゆる前傾フェチである。サン美での360拝観により、この快慶地蔵立像の控えめな前傾具合に完全ノックアウトされた。お像の後ろに流れる雲もかわいらしい。

 そうしたディテールの素晴らしさの一つ一つが合わさって、この小さな立像は私を夢中にさせるのだろう。

 あまりの美しさに卒倒しそうになり、通路に出て深呼吸し、また展示室に戻るというのを何度か繰り返した。

 お像拝観のポイントを記したパネル展示もオススメ。

 サントリー美術館藤田美術館の至宝 国宝 曜変天目茶碗と日本の美」は9月27日まで(※)

(写真は会場で購入したポストカードより)

注※ 本稿は2015年のサントリー美術館の展覧会の拝観記録です

【埼玉】「東国の地獄極楽」展(埼玉県立歴史と民俗の博物館)~東国の浄土宗の展開を学ぶ~

展覧会=「東国の地獄極楽」
会場=埼玉県立歴史と民俗の博物館
会期=2019年3月16日~5月6日
鑑賞日=2019年3月17日 (前期展示)
f:id:butsuzodiary:20190318090918j:plain

 埼玉県大宮市の博物館で「東国の地獄極楽」展という展覧会が開催されると聞き、早速出かけてきた。担当学芸員の西川真理子氏の会場解説も拝聴した。
 気になるところをいくつかご紹介したい。

1) 千葉県横芝光町の鬼来迎の映像

 埼玉で地獄極楽の展示ということなので、熊谷直実(蓮生)ゆかりの展示や熊谷市で発見された阿弥陀如来立像を楽しみに会場に入った。
 ところが、到着して仰天した。会場入ってすぐのスペースで、千葉県の鬼来迎(きらいごう)の映像が上映されているではないか。埼玉に到着するなり、千葉県の話題とは…。
 実は私は、一週間前に千葉県鴨川市まで二十五菩薩来迎の行道面を見に行ったばかり。千葉の行道面つながりで、鬼来迎のことを調べたばかりだった。仰天はしたものの、自分の中では実にタイムリーな展開となった。
 前置きが長くなった…。
 鬼来迎とは、千葉県山武郡横芝光町虫生(むしょう)の広済寺に伝わる仏教演劇である。虫生地区の二十数世帯に引き継がれ、毎年8月16日に行われている。
 上映されている映像は、ポーラ伝統文化振興財団による2014年の作品。練習風景から当日の施餓鬼会法要、実際の舞台の様子まで、丹念に取材を重ねた力作だった。
youtu.be
(↑こちらは予告編。全編は本展会場でぜひ。4/14まで)
 虫生の鬼来迎では、普段地元で普通に働き、普通に学校に通う人々が、鬼や閻魔や亡者や菩薩の役で登場する。音声や和讃も虫生の人々が担う。虫生で生まれ育った男性だけでなく、虫生の女性と結婚した男性も鬼来迎の担い手となっているのが印象的だった。
 劇のストーリーはシンプルだ。鬼来迎という名前の通り、女性の亡者が地獄に落ち、鬼に苦しめられるが、最後は観音さまが現れて救ってもらう。劇の途中には、賽の河原で石を積む子どもが地蔵菩薩さまに助けられる場面もあり、目頭が熱くなった。
 ナレーションは女優の草笛光子さん。穏やかな語り口が静かな感動を呼ぶ。
 大変貴重な映像を観る機会がいただけた。
 
 なお、この博物館での当映像の上映は3月16日~4月14日。期間限定なので、気になる方はお見逃しなく。
 4月16日からは埼玉県鴻巣の「箕田の百万遍」が上映されるそうだ。

2) まずは恵心僧都源信

 鬼来迎の話が長くなってしまった。映像コーナーを進むと、ついに本展の展示が始まる。
 最初はやはり、仏画の恵心僧都坐像(熊谷市寂光院、江戸時代)。その横に、寛政2年(1702)のゑ入往生要集(埼玉県立図書館所蔵。前期はパネル、後期は原本展示)。源信が描いた地獄極楽の世界が、江戸時代にも世の中に浸透していた証なのだろう。
 さらにその横には、雲に乗って来迎する絹本着色地蔵菩薩立像(久喜市吉祥院鎌倉時代、県指定文化財)。地獄に助けにきてくれる頼もしい地蔵菩薩さまの絵が美しかった。

3) 熊谷直実のおかげで、国宝『法然上人行状絵図』が埼玉にやってくる!

 そして、埼玉の浄土信者と言えば、熊谷直実である。直実は埼玉県熊谷出身の武将で、法然上人に帰依した人物。出家後の名前は蓮生。
 私は子どもの頃、埼玉県南東部で過ごしたが、直実の名前は聞いた記憶がない。熊谷市は北部なので地域も違うし、そもそも単に私が不勉強だったという可能性もあるが…。
 どちらかというと、関西以西のお寺で名前を聞くことが多い。法然上人25霊場でめぐった京都の光明寺、岡山の美作誕生寺、京都嵯峨の熊谷山法然寺などは、蓮生ゆかりの寺である
 そんな中途半端な知識の私でも、この展覧会では、熊谷直実について、ゆかりの作品を通じて学ぶことができる。
 展示されているのは、直実が平敦盛と向き合う一の谷の合戦図屏風(埼玉県立歴史と民俗の博物館、前期展示)山梨県甲斐善光寺に伝わる木造の蓮生法師坐像(南北朝甲府市文化財迎接曼荼羅(京都清涼寺、重要文化財、正本は前期展示のみ)など。源平合戦で活躍した無骨な武士が阿弥陀如来の上品上生の来迎を予告し、往生していくさまが見えてくる。
 注目すべきは、国宝の「法然上人行状絵図」(京都知恩院)の一部が後期に展示されることだろう。私が訪れたのは前期展示期間だったが、「法然上人行状絵図」のうち、蓮生が来迎図を前に往生を遂げるシーンが大きなパネルで展示されていた。
f:id:butsuzodiary:20190319013031j:plain
 後期には、この場面の実物が展示されるのだろう。
 埼玉の小さな博物館に、京都から国宝の「法然上人行状絵図」がやってくるのだ! これは直実の800年後の功績と言えるのではないか。浄土宗における熊谷直実の重要性がここに示されているように思える。
 なお、前期には、同じシーンを模写した江戸時代の「熊谷蓮生坊絵詞」(埼玉県立熊谷図書館、前期展示)が展示されている。国宝のパネル写真と比べるのも楽しい。

4) 浄土宗第三祖良忠と関東三派(藤田派、名越派、白旗派

 
 西川真理子学芸員が特に力を入れて解説していたのが、東国における知られざる浄土宗の広まりだった。「知られざる」と言うときのわずかな声のうわずりを私は聞き逃さなかった。
 浄土宗を開いた法然の弟子たちは複数の流派にわかれ、特に強い勢力となったのが浄土宗第二祖、弁長坊聖光(しょうこう)の鎮西派である。そして、聖光の弟子、記主禅師良忠(きしゅぜんじりょうちゅう)は、鎌倉光明寺を開山し、東国での布教に大きな影響力を持った。
 さらに、良忠の数多くの弟子のうち、寂恵良暁(りょうえりょうぎょう)、唱阿性心(しょうあしょうしん)、および尊観良弁(そんかんろうべん)は、それぞれが我らこそは良忠の教えを正しく継承していると主張しあうことで、東国に教線を広げていった。良暁の派閥が白旗派、性心が藤田派、良弁が名越派で、関東三派と呼ばれる。この辺りが「知られざる東国への浄土宗の広まり」ということらしい。
 本展では、良忠と関東三派にゆかりの作品が展示されている。
 藤田派の性心は現在の埼玉県寄居町出身。藤田派の作品として、福島会津高巌寺旧蔵の阿弥陀二十五菩薩来迎図(鎌倉、重要文化財)や埼玉県寄居町蓮光寺の當麻曼荼羅図(江戸)が出陳。
 名越派の良弁は信濃善光寺との結びつきが密で、名越派ゆかりの作品として、善光寺阿弥陀三尊像が三つ並んで展示されている。
 白旗派は良忠の実子である良暁を派祖とする。増上寺の観智国師(存応)が、江戸入りした徳川家康の信頼を得て、白旗派は力を強める。一方、京都では知恩院知恩寺の間に勢力争いがあったのだが、知恩院が家康の庇護を得て総本山の地位を不動のものとした。白旗派知恩院と、藤田派は知恩寺と結びつきがあったため、白旗派は勢いづき、藤田派は急速に勢力を弱める。幡随意や呑龍といった藤田派の僧侶が白旗派に転派し、藤田派は消滅してしまう。白旗派は現在の浄土宗鎮西流の主流派である。
 ちなみに、関東三派の名称は、各派が起こった地名に由来するそうだ。藤田は現在の埼玉県寄居町、名越と白旗は神奈川の地名。
 正直なところ、こうした流派の違いや展開は私には馴染みがなく、難しかった。上記内容に理解不足な点があると思うので、お許しいただければ…。西川学芸員のあの説明がなければ、ここまで書こうという気にならなかったと思う。勉強の機会をいただき、大変ありがたい。
 この関東三派のコーナーでは、春日部市・圓福寺の来迎阿弥陀三尊(これは仏像!)が美しかった。中尊のみ鎌倉で、両脇侍は江戸。観音は低く身をかがめ、勢至は合掌して立つ。このリズム感が素晴らしく、雲に乗って来迎するスピードも感じた。
f:id:butsuzodiary:20190320072309j:plain
(↑写真は圓福寺のサイトより)
 圓福寺は子育て呑龍さまの生誕地に立つ。江戸時代の木造立体當麻曼荼羅や木造釈迦涅槃図があり、前から気になっていたお寺である。當麻曼荼羅を木彫で立体的に作ってしまったとは、どれだけ當麻曼荼羅が好きなのだろう! 私も當麻曼荼羅は大好きだが、とてつもなく當麻曼荼羅を愛した人々がいたのだろう。4月第1日曜日に公開と聞く。いつかお参りしたい。
 なお、圓福寺の大きな地獄図のコピーが博物館の入り口に展示されており、写真撮影できる。圓福寺さまでは、木彫當麻曼荼羅と同時に公開されるようだ。
f:id:butsuzodiary:20190320074449j:plain
f:id:butsuzodiary:20190320074519j:plain
f:id:butsuzodiary:20190320074556j:plain
f:id:butsuzodiary:20190320074626j:plain

5) 新発見! 熊谷に快慶の阿弥陀如来立像か!?

 熊谷市が市史編纂のため、寺社で調査を行う中で発見された阿弥陀如来立像が、出展されている。快慶の特徴があるとして、新聞報道され、話題を集めるお像である。
 熊谷市・東善寺 阿弥陀如来立像
 木造 寄木造り 69cm

f:id:butsuzodiary:20190319092239j:plain
(↑展覧会図録の写真より)
 

f:id:butsuzodiary:20190320191727j:plain
東京新聞の記事より(左は熊谷市提供、右のCT写真は東京国立博物館提供)
 図録によると、小ぶりで引き締まった丸顔、小さく結んだ唇、左腕から垂れる衣文などに、快慶の特徴が認められるとのこと。
 快慶は三尺の阿弥陀如来立像を得意としたが、こちらは像高69cm。少し小さめである。奈良の快慶展で三尺阿弥陀立像が並び立ったのと比べてはいけないが、確かに小さい感じは否めない。藤田美術館の快慶の地蔵菩薩(58.9cm)も大きくないが、きらびやかなあちらの像に比べてしまうと、本像はだいぶくたびれている。来迎像に見られる身体の前傾もない。
 東京国立博物館でCTを撮ったところ、胎内に紙を巻いたようなものが見つかったそうだ。快慶の阿弥陀如来立像に時々見られるように、数多くの結縁者の名前を記した文書を胎内に納めた、いわゆる結縁合力の阿弥陀さまなのだろうか…。そうであってほしいと私は思ってしまった。勝手な個人的希望である。
 また、本像は、後補の部材はなく、釘等の金属も確認されなかったそうだ。つまり、 剥落や手の欠損などかなりの傷みはあるものの、後補のあとがなく、造立当時に近いお姿であると考えられるとのことだった。
 解体修理ができれば、胎内納入品の確認によって研究も進み、お像の面目もあらたになるだろう。 未来への希望を秘めた阿弥陀如来立像 なのだと感じた。


 以上、思ったより長文になってしまったが、本展覧会のレポートとする。

参考資料

「東国の地獄極楽」展図録(埼玉県立歴史と民俗の博物館、2019年)

【千葉】いすみ市・行元寺の本尊阿弥陀如来立像と海雄寺の釈迦涅槃像

 千葉県いすみ市郷土資料館で「清水寺の仏像」展を鑑賞したあと、レンタサイクルをひたすらこいで、行元寺、海雄寺、清水寺(坂東32番)、宝勝院夷隅不動尊とめぐった。
 行元寺の本尊阿弥陀如来立像と海雄寺の寝釈迦さまについて、拝観できた感動を書き留めたい。
拝観日=2019年3月9日

1) いすみ市・行元寺

1-1) ご本尊阿弥陀如来立像

阿弥陀如来立像(平安末~鎌倉初 97cm 檜の一木造り 県指定文化財
肉髻が高く、気品と威厳にあふれたお姿。
平重盛の守り本尊だったと伝わる。
f:id:butsuzodiary:20190317111851j:plain

 この阿弥陀さまは前から気になっていて、一度拝観予約をしたものの、悪天候で諦めたことがあった。念願叶ってやっとお会いできた。想像していた以上に、気品と威厳にあふれた阿弥陀さまだった。
 行元寺は波の伊八の欄間彫刻が有名だ。お寺に何度か電話したのだが、そのたびに「阿弥陀さま? 伊八の彫刻は見なくてよいのですか」と言われてしまったほどだ。行元寺にある初代伊八の「波に宝珠」は、葛飾北斎の「神奈川沖波浦」にそっくりである。伊八と北斎は交流があり、行元寺にお参りしたこともあるそうだ。北斎に影響を与えた彫刻ということらしい。お寺のリーフレットには、伊八を称えるエバレット・ブラウンの文章が誇らしげに掲げられている。
f:id:butsuzodiary:20190317222131j:plain
(↑境内のパネル写真)
 確かに、伊八の波の彫刻は素晴らしい。ただ、この阿弥陀如来さまが、その影に霞むことがあってはならない!!

 f:id:butsuzodiary:20190317112647j:plain
 ポイントはまず、肉髻が大きく高いこと。お顔は穏やか。どれだけ素晴らしいかは、天台南総教区研修所の研究紀要※の次の説明をお読みいただきたい。
 引用>>典型的な定朝様阿弥陀如来の三尺立像で、それもかなりの美作と云うことが出来る。全体にやや写実味を増した立体的な肉付けから、平安時代末、あるいは鎌倉期にかかる頃の制作かどうか推測される。千葉県内にはこの頃の仏像が少なくないが、これほど洗練された作例は稀と言わねばならない <<引用終わり

 阿弥陀さまは、大きな本堂の内陣の中央、高い場所に安置されている。少し離れた両サイドに、室町時代とされる玉眼の不動明王立像(56.7cm )と毘沙門天立像(61.5cm)を従える。非常に神々しくまつられている。
 ただ、お姿を拝むには少し遠目となってしまう。双眼鏡か単眼鏡の用意をお勧めする。

1-2) 善光寺阿弥陀三尊像

金銅、鎌倉後期、県指定文化財
阿弥陀51.8cm 観音33.4cm 勢至30.0cm  
f:id:butsuzodiary:20190317121554j:plain
f:id:butsuzodiary:20190317121918j:plain
 行元寺には、鎌倉時代善光寺阿弥陀三尊も伝えられており、こちらも県指定文化財となっている。肉髻の高い阿弥陀さまがとても気になるのだが、公開していないとのことで、拝顔は叶わなかった。残念である。いつか拝観の機会を待ちたい。

2) いすみ市・海雄寺 釈迦涅槃像

(江戸中期 516cm 銅造 県指定文化財)通称、万木の寝釈迦
f:id:butsuzodiary:20190317124641j:plain
f:id:butsuzodiary:20190317124727j:plain
f:id:butsuzodiary:20190317124851j:plain
 万木城の山の下、誰もいない静かなお堂で、静かにお休みであった。大きな釈迦涅槃像。堂外からのぞくことができる。穏やかなお顔でのんびりお昼寝しているようにも見える。
 幾つかに分割したものをつないだ構造なのだそうだ。像の内部の一部と、衣の着衣部の前面と左腕の一部に、結縁者名などの刻銘が見られる。正徳6年(1716)2月28日の日付や勧進僧をはじめとした千人以上の名前が刻まれているそうだ。当日の信仰の篤さがしのばれる。
 寺の前の看板には、市指定文化財と書いてあるが、平成2年に千葉県指定文化財となっている。(訂正できるとよいのにね)
 

参考資料

○『南総天台の仏像・仏画 I』天台宗南総教区研修所編、2017年
(※上記文章の引用は本書より)
いすみ市文化財サイト

写真キャプション

 行元寺の写真は、波の伊八のパネル写真を除き、すべて上記の『南総天台の仏像・仏画 I』より転載。海雄寺の写真は筆者撮影(2枚目は国吉駅前の看板を撮影)

拝観案内

 【行元寺】土日祝日の10:00から15:30頃まで、伊八の彫刻と本堂の阿弥陀如来さまを公開している。ボランティアガイド付き。拝観料500円
 【海雄寺】普段は堂外から窓越しに拝観できる。ご開帳は5月3日の万木城祭りのとき。
 

【千葉】「清水寺の仏像」展(いすみ市歴史資料館)観音像の残欠から全体像を想像しよう!

千葉県いすみ市郷土資料館の企画展
清水寺の仏像~坂東三十二番札所の歴史と美術~」(2019年2月23日~4月14日)
拝観日=2019年3月9日

展覧会の概要

 坂東32番札所である音羽山清水寺いすみ市岬町)は1000年以上の歴史をもつ古刹。本展覧会は、2017年に文化財調査を行った天台宗南総教区研修所の協力により実現。これほど多くの資料が寺外で公開されるのは初めて。
 出展された仏像は、清水寺秘仏本尊の前立千手観音立像(鎌倉時代)、二十八部衆立像のうち現存する24躯すべて(市指定文化財鎌倉時代)、奥の院本尊の十一面観音立像(県指定文化財鎌倉時代)、景清御身代観音と呼ばれる十一面観音の残欠(市指定文化財平安時代)、そして、銅造の聖観音立像(室町)である。
 すべてガラスケースでの展示ではあるが、ほどよい照明のもと、間近で拝観できる。

十一面観音さまの残欠(市指定文化財

 本展示で私が特に惹かれたのは、十一面観音さまの残欠である。

十一面観音像(景清御身代観音)(市指定、平安)
木造 素地 彫眼 頭部残欠30.8cm 右腕73.8cm 左腕75.2cm
f:id:butsuzodiary:20190313073940j:plain
f:id:butsuzodiary:20190313074026j:plain
 写真のとおり、全体像は残っていない。頭部と両腕が残るのみ。
 この欠仏さまを拝するために、いすみ市まで出かけた。頭部の写真を拝見し、それに引き寄せられてしまった次第である。

 展覧会場では、ガラス越しであるものの、ほどよい照明のもと、間近でよく拝める。

 少し歪んだお顔は静かに微笑んでいるようだ。頭頂の化仏は面相を表さない。シンプルな造形が想像をかき立てる。

 頭部のすぐ隣に、二つの腕が置かれている。この頭部と両腕を目の前にした瞬間、私の脳内で、十一面観音の立像がすくっと立ち上がった! 目の前の残欠から、失われた胴体や脚部を想像し、在りし日の全体像がおぼろげに浮かびあがるように感じた。鳥肌が立つような感覚だった!

 天台宗南総教区研修所の調査報告書が会場で販売されていたので、それを購入し、読みながら拝観した。私なりにまとめると、以下のようになる。

 「この観音の頭部は小鼻を表現せず、目の付け根の高さがずれているなど、プリムティブな造形。同様のプリムティブな例として、木更津市金勝寺聖観音立像(平安後期・市指定文化財)と館山市那古寺千手観音立像(平安後期・市指定文化財)があるが、本像はそれよりも原初的。秋田県小沼神社の聖観音立像、神奈川県宝城坊の鉈彫り薬師三尊の脇侍菩薩像に似る。ついては、本像は本格的な平安仏の造形が房総に伝わる以前の制作ではないか。

 右腕は頭部と同じ榧材。左腕は杉材と見られ、後補と考えられる。肩に穿たれた孔から、右腕が前に出て、左腕は垂下していたと見られる。この形から、千手観音ではなく、十一面観音だったと推測される」

 かっての自分であれば、こうした原初的な造形にはあまり惹かれなかったかもしれない。好みの変化というものがあるのだろうか。不思議である。

十一面観音立像(県指定、鎌倉中期)

木造 素地 玉眼 110.3cm 榧の寄木造り 
f:id:butsuzodiary:20190314224358j:plain
 清水寺奥の院の本尊で、四臂の十一面観音さまだ。衣文は肥後定慶に似るが、お顔はつり目で独特。山武市蓮台寺の十一面観音さまの方が肥後定慶に近いのだそうだ。会場では、京都の大報恩寺の十一面観音さまの写真が参考用に掲示されていた。
 見比べると確かに、こちらの観音さまは衣文は翻っているものの、お顔や全体の印象は大報恩寺像よりおとなしめで、かわいらしいと感じた。

御前立千手観音立像(鎌倉中期)

木造 古色 玉眼 47.0cm  榧材 秘仏本尊の御前立
f:id:butsuzodiary:20190313143424j:plain
 本展のメインビジュアルになっている観音さま。清水寺は勝軍地蔵菩薩毘沙門天二十八部衆風神雷神と、京都の清水寺と同じ構成であるのに、こちらの前立の千手観音さまは清水寺式ではないのが気になった。秘仏本尊さまはどのようなお姿なのだろう。

二十八部衆(市指定、鎌倉)

24躯が残る 木造 古色 彫眼 35.5~42.9cm  榧

 小像ながら、鎌倉らしい生き生きとしたお姿だった。
f:id:butsuzodiary:20190316092425j:plain
那羅延堅固王。「背面まで手を抜かない力作」と解説があった。

f:id:butsuzodiary:20190314225408j:plain
 難陀龍王。「情けなげな表情が楽しい」との解説文は展示会場にも掲示されており、つい吹き出してしまった。那羅延堅固王と比べると、こちらは腰もひけていて…。

f:id:butsuzodiary:20190314230032j:plain
 満善車王。このヘアスタイルがたまらない。迫力ある造形に仏師の力量が伺える。

銅造聖観音立像

 室町時代15世紀の作とみられる小さな銅像。体全体に残るバリが印象的。写真がないのが残念。

出展されなかった仏像

 清水寺には、勝軍地蔵菩薩愛宕権現)立像と毘沙門天立像(各60.8 cm 、70.2cm ともに1857年)もおられるそうだ。本展覧会にはお出ましでなかったので、いつか拝観の機会を待ちたい。特に、勝軍地蔵菩薩の立像には関心がある。京都の清水寺と同じ構成であることも興味深く感じた。

参考資料

『南総天台の仏像・仏画 II 星応寺・圓頓寺清水寺』(天台宗南総教区研修所 2018年)
f:id:butsuzodiary:20190314233136j:plain
 写真の左が、冒頭に記載した2017年の調査記録である。表紙写真は清水寺二十八部衆五部浄居天)で、本展覧会に出展されている。
 『南総天台の仏像・仏画 I』『南総天台の仏像・仏画 II』とも、写真が豊富で、ていねいな解説もわかりやすい。詳しく勉強されたい方にお勧めします! 各1000円。私はいすみ市郷土資料館で購入。

写真キャプション

 本ブログ記事の写真は、県指定文化財の十一面観音像をのぞき、上記参考資料からの転載。県指定の観音さまの写真は展覧会チラシより。

【千葉】【来迎会】鴨川市・心巌寺の行道面~二十五菩薩練供養の証~

鴨川市郷土資料館 「鴨川のたからもの~指定文化財集合~」展にて
鴨川市・心巌寺の行道面6面(県指定文化財)を拝観
拝観日=2019年3月9日
f:id:butsuzodiary:20190311220052j:plain

行道面を見て練供養を想像する幸せ!

 二十五菩薩来迎会を訪ね歩くうちに、菩薩様が被る行道面も好きになった。愛知県岡崎市滝山寺兵庫県太子町の斑鳩寺、大分県豊後高田市の富貴寺では、今は練供養は行われていないものの、菩薩面だけは残っている。現地でお面を拝し、練供養の様子を妄想すると、頬が緩み、興奮すら覚えるようになってしまった。

 梅干しを見たら唾液が出てくるように、菩薩面を見たら幸せを感じてしまうー。そのように体質が変化したのが、このワタクシである。パブロフの犬も仰天である。

 そんな中、尊敬する仏友さんから、千葉県の鴨川市郷土資料館で行道面が展示されてると伺った。千葉は遠い。しかも、鴨川は果てしなく遠い。千葉県南西部、外房と呼ばれる地域だ。行くべきかどうか一瞬ひるんだ。しかし、電車にのんびり揺られさえすれば日帰りできるので、思いきって出かけることにした。情報を得てから一週間後のことだった。

心巌寺とは

 心巌寺(しんがんじ)は鴨川市貝渚にある浄土宗寺院である。文永2年(1265)に鴨川市北風原(ならいはら)に創建。天正5年(1577)里見氏の一族・正木石見守道俊とその妻(里見義弘の女)が、禅師の髙風に帰依し、磯村に移転。寛政11年の火災や、大正の関東大震災等により、本堂内陣から月が見えるほど荒廃した。昭和5年(1930)、第二四世の達穏上人が、現在地に移転し、今日に至る。
 本題の行道面(県指定文化財)のほかにも、浄土三曼荼羅(市指定文化財)が伝わる。
 この浄土三曼荼羅は次の3枚で構成される。本企画展では、行道面と合わせて展示されている。
○當麻曼荼羅當麻寺の文亀本の模写)185 x 199 cm
清海曼荼羅(京都聖光寺や奈良浄土寺と同系、室町時代の模写)95 x 72 cm
智光曼荼羅(奈良元興寺の模写、享保5年(1720)頃)72 x 49 cm

心巌寺の行道面とは

 心巌寺には行道面23面が伝わる。心巌寺は複数に及ぶ火災被害や二度の移転があり、記録は残っていないものの、これらの行道面は二十五菩薩来迎の練供養で使用されたものと推測される。
 23面のうち、21面が菩薩面で、2面が比丘面。縦22~25cm、幅13~19cmで、大きさはほぼ同じ。 すべて檜に錆地漆箔仕上げで、裏地は布貼り漆塗り。目は全体をくり抜いて、鼻孔を貫通させる作りも共通する。
 行道面はその特徴などから4つのグループに分けられる。最も古いAグループは室町と考えられ、7面が現存する。C、Dグループは江戸時代か。欠けた面が順次補充されたと考えられる。
 この展覧会では、A1、A5、B6、B7、C2およびD5 の合計6面が展示される。B7は比丘面で、地蔵菩薩または龍樹菩薩と考えられる。

 私が拝見したところ、A1、A5、B6およびB7は、C2 とD5と比べると、鼻幅が大きく、お顔も丸みを帯びていた。最も古いAグループの造りを踏襲しつつ、C、Dグループにはこのように別の特徴も見えるのが興味深い。

 千葉県教育委員会のウェブサイトに行道面すべての写真が掲載されている。
f:id:butsuzodiary:20190312061729j:plain
f:id:butsuzodiary:20190312062131j:plain

寺外初公開!

 資料館の方に伺ったところ、行道面23面は普段は心巌寺さまが保管されており、一般公開はされていないとのこと。時々お檀家さまが拝する機会があるだけで、今回が寺外初公開だそうだ。
 6面だけの展示とはいえ、貴重な機会をいただけた。
 二十五菩薩来迎会が好きすぎて、菩薩面を目の前にしただけで、練供養の興奮が蘇る。頬が緩んだまま(つまりは、顔がにやけた状態で)、「すごい、すごい」とつぶやきながら拝観した。他に来館者もおらず、狭い展示コーナーを独占させていただいた。
 浄土三曼荼羅と合わせての展示で、まさに極楽浄土が展開されていた。

心巌寺の行道面はなぜ素晴らしいのか!

 心巌寺の行道面が素晴らしいのは、室町から江戸にかけて、二十五菩薩のお面を順次作り直していった形跡があることではないだろうか。
 これだけ長い期間、練供養の伝統が続いたことを行道面は無言で示している。
 心巌寺の練供養については、文書による記録が残っておらず、菩薩役が身にまとう装束や持ち物も残っていない。この行道面のみが心巌寺の歴史の一端を今に伝えている。
 前述のとおり、心巌寺には三種類の浄土曼荼羅も残る。阿弥陀信仰が盛んだったことの表れであり、二十五菩薩来迎の練供養もそうした流れの中で挙行されていたのだろう。
 鴨川と言えば、波の伊八の生誕地。しかし、伊八だけではないことを心巌寺の行道面は教えてくれる。

 寺外公開という貴重な機会をいただけたこと、関係者の皆様に心からお礼申し上げたい。

参考資料

○『鴨川市の指定文化財』(鴨川市教育委員会、平成22年)
f:id:butsuzodiary:20190312055358j:plain
○千葉県教育委員会ウェブサイト
www.pref.chiba.lg.jp
○浄土宗千葉教区ウェブサイト(心巌寺の説明)
www.jodo-chiba.jp

【埼玉県】霊樹寺に唐招提寺伝来の古仏あり

 唐招提寺の古仏が江戸時代に埼玉に迎えられ、廃仏毀釈を乗り越えて現存します。量感があり、像高以上に大きく感じられました。威厳あるお釈迦さまを間近で拝ませていただきました。
(拝観日=2019年2月11日 )
f:id:butsuzodiary:20190228094656j:plain

霊樹寺の釈迦如来坐像

ケヤキの一木造り(内ぐり)
彫眼
像高87.2cm
平安時代
県指定文化財
f:id:butsuzodiary:20190228090729j:plain

明治初めに鷲宮神社別当寺から買い受けた

 霊樹寺の釈迦如来坐像は、近くの鷲宮神社別当寺、大乗院の本尊でした。明治初めに大乗院が取り壊しになり、売りに出されたところを霊樹寺の当時の住職(二十七世高峰宦道)が購入。これほどの仏様さまがよそに渡るのは忍びないと、代金30両のうち15両は、寺の田畑を売却するなどして工面したそうです。残りは琴寄村(現加須市大利根地区)の大地主小林官吉氏から借り受けました。
 大変なご苦労をなさって、お仏像を守られたこと、頭の下がる思いです。

もとは唐招提寺

 さらに、注目すべきは、もとは奈良の唐招提寺におられたとされる点です。大乗院の再興に際し、隆光僧正によって唐招提寺の古仏が寄付された旨が、『大乗院由緒書』(宝永5年=1708)に記されています。隆光は徳川綱吉桂昌院に仕えた、奈良出身の高僧。当時の鷲宮神社の力具合が伺えます。
f:id:butsuzodiary:20190228090808j:plain
(↑両サイドからの写真。ボケボケですみません)

後補は?

 両腕と膝前が後補で、表面の金箔も後補のようです。住職は、金をはがしたいのだが、文化財指定があるので、勝手なことはできないのだとおっしゃっていました。
 確かに、金をはがしたら、平安時代らしい尊顔が現れる可能性もあるように思えます。制作年代ももっとはっきりするかもしれません。

ついにお会いできました

 手元にある青木忠雄『埼玉の仏像巡礼』(幹書房2011年)を開くと、ポストイットが貼ってあり、「お会いしたい!!」と自分のメモ書きがありました。
f:id:butsuzodiary:20190228091130j:plain
 今回、仏像リンクのオフ会に参加し、拝顔の機会が得られました。大変ありがたくお礼申し上げます。本の写真もなかなかですが、間近でお会いすると格段に立派でした! 奈良の空気を感じました!!
 

毘沙門天さま

 本堂には毘沙門天さまも。江戸時代のものだと伺いました。住職が購入されたものだそうです。
f:id:butsuzodiary:20190228091635j:plain


 なお、当初予定になかったのですが、霊樹寺のあとに鷲宮神社もお参りしました。霊樹寺の住職がおっしゃったように、やはり両方お参りしないといけません! 
 また拝観の機会があればと思います。ありがとうございました。

拝観案内

霊樹寺(曹洞宗
埼玉県久喜市鷲宮3-6-1 
東武伊勢崎線鷲宮駅から 1 km弱
※事前に連絡が必要かと思います

参考サイト

久喜市のサイト
www.city.kuki.lg.jp

今回の仏像リンクオフ会のガイド役、桃さんのブログ
momococks0505.blog106.fc2.com

【読書メモ】鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか 』が教えてくれること

 鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか 』(文春新書、2018年)を読みました。仏像好きの人間にはつらい内容です。簡単ですが、感想を書きました。

f:id:butsuzodiary:20190225205951j:plain

廃仏毀釈とは狂気の産物

 明治の初め、神仏分離令の発令により、日本各地で行われた廃仏毀釈。寺院や仏像、仏具が破壊された。
 その記録をまとめた本書を読み進めるうちに、ある思いがこみ上げてきた。

 「人は時々真面目に狂う」

 この思いは読了時に確信へと変わった。


1) 権力者の忖度
2) 富国策のための寺院利用
3) 熱しやすく冷めやすい日本人の民族性
4) 僧侶の堕落

 筆者は廃仏毀釈の要因をこの4点にまとめる。しかし、理由はどうあれ、信仰の対象である仏像を叩き壊し、寺院をつぶし、薪にしたり、校舎や橋の建材に転用したりというのは、どこかで何かが狂っていないとできないことだと思う。

 木の仏像を燃やして湯を沸かし、仏僧に湯につからせたという記録もあるそうだ。拷問ではないか。真面目な狂気によらず、どうしてそんなことができるだろう。物だけでなく、精神まで破壊しようとしたのだろう。

 著者は要因3) として、熱しやすく冷めやすい日本人の民族性を上げているが、それは日本人特有のものとは思えない。日本人というより、人間の特徴なのではないか。

 まるで戦争の記録を読んでいるようだった。

 人間は迷うし、時々真面目に狂う。だからこそ、祈りが必要なのだと思う。祈りの対象が狂気の対象となり、破壊された事実は重い。

生き延びた仏像

 廃仏毀釈によりたくさんの仏像が失われた。梅原猛氏は、廃仏毀釈がなければ国宝の数は三倍はあったと指摘する。
 だが、廃仏毀釈を生き延びた仏像ももちろん現存する。本書を読んで、そうした仏様のお像にお会いしに行きたくなった。
 生き延びてくださったお礼を申し上げに参りたい。失われた他の無数の仏像をしのびつつ、お参りしたい。

 本書の中から、廃仏毀釈を生き延びた仏像をいくつかリストアップした。(拝観に制限のある場合もあるかと思いますので、お参りされる場合は事前にご確認ください)

○鹿児島県日置郡日吉町・清浄寺 阿弥陀如来像 
(元は鹿児島市の不断光院にまつられていた。小松帯刀の妻お千賀が守った)

○長野県松本市・西善寺 阿弥陀三尊(江戸、市指定。市のサイトのよると公開日が決まっているようです)

○愛知県碧南市・海徳寺 阿弥陀如来坐像、通称、大濱大仏(元は伊勢の神宮寺、海路で運ばれた)

○愛知県西尾市・浄名寺 円空観音菩薩(270cm) (伊勢より移ったと言われている)

三重県菰野町・明福寺 円空両面仏(片面が阿弥陀で、もう片面が薬師。元は伊勢の常明寺にあった。横浜の円空展にお出ましだった)

京都市下京区因幡薬師=平等寺観音堂の十一面観音(元は北野天満宮。東寺観智院を経て平等寺へ。今年4月から龍谷ミュージアム因幡薬師展があるので、そこでお会いできないかと期待)

京都市誓願寺 阿弥陀如来坐像 (元は石清水八幡宮本地仏として別当寺の安楽寺に。こちらは基本的にいつでも拝観可能かと。丈六の阿弥陀さまです)

【埼玉】宝乗院愛染堂(熊谷市)の愛染明王さま

(2017年2月の拝観記録です)

 埼玉県熊谷市で、修理が終わった愛染堂の縁日にお参りしてきました。温かなコミュニティに支えられた、とても素敵な空間でした。
 江戸時代の150センチの大きな愛染明王さま。お堂の修復が終わり、お堂にお戻りの際には、地元の方々に引っ張られて遷座されたそうです。愛されるお仏像は素敵です!
f:id:butsuzodiary:20190223153628j:plain
f:id:butsuzodiary:20190223153646j:plain

愛染明王坐像>

 愛染堂のご本尊、愛染明王さまは像高150センチ、台座を含めると240センチ。かなり大きさがありながら、三目六臂の異形がうまくまとまっており、仏師の力量が伺えます。
 赤い六本の腕は、さわると温かくて弾力を感じるのではないか…と、思えるほど…。基本的に恐ろしいお姿なのに、温かさを感じました。
 また、あの細い線で描かれた髪の毛を見ると、仏師は慶派好きなのかな…と思ったりします。
 江戸初期の作と推定されていますが、調査したらもっと遡る可能性もあると伺いました。
f:id:butsuzodiary:20190223153801j:plainf:id:butsuzodiary:20190223153819j:plain
f:id:butsuzodiary:20190223153845j:plain

<仏像の保存とは>

 お堂の隣に、畳敷きの小さな自治会館があり、仏像修理の牧野隆夫先生の講演会が開かれました。仏像を"文化財" として保存することはもちろん大切です。しかし、保存が唯一の目的になってしまって、衆生から切り離すようなやり方は本末転倒なのでは…と考えさせる内容でした。

 地方の古仏を訪ね歩いていると、今後の保存が心配になることがあります。少子高齢化や地方の衰退など、個人の力ではどうにもできない問題を感じます。コミュニティが力を合わせ、地元の大学生や小学生まで巻き込んで愛染堂を復活させたこちらの事例は、他の地域の参考になるのではないでしょうか。修理を終えたお堂に愛染明王像を遷座する際、地元の人々がお練りで引っぱって移動したという話にはほろりとしました。
f:id:butsuzodiary:20190223153931j:plain


 熊谷といえば、利根川の向こう側(群馬)の光恩寺さま(鎌倉時代阿弥陀三尊)をお参りするために先月立ち寄ったばかりです。利根川のこちら側(つまり熊谷市)には、妻沼の国宝聖天堂もあり、昨日、初めてお参りできました。熊谷というか、利根川を挟んだ両地域の歴史的文化の高さを感じました。

拝観案内

【寺院名】宝乗院愛染堂
【住所】熊谷市下川上32付近
交通機関】熊谷駅北口から国際十王バス犬塚行き「下上川」下車徒歩8分

※写真はすべて筆者撮影(愛染様がボケボケですみません…)

【埼玉】保寧寺(加須市)宗慶の阿弥陀三尊像

 埼玉県加須市・保寧寺(臨済宗妙心寺派)。仏師宗慶による阿弥陀三尊を間近で拝観しました。阿弥陀三尊は、美しい境内の奥、阿弥陀堂にまつられていました。金沢文庫の運慶展(2018年)でお会いしたのですが、お堂でお会いするのは格別です。堂内の壁のタイルと静かな照明が三尊をさらに引き立てていました。

阿弥陀三尊(1196年、重要文化財

 阿弥陀如来坐像 87.4cm
 観音菩薩立像 105.5cm
 勢至菩薩立像 93.6cm
f:id:butsuzodiary:20190212073606j:plain

宗慶とは

 阿弥陀三尊を手がけたのは仏師宗慶。宗慶は、康慶の地蔵菩薩坐像(1177年、静岡県富士市・瑞林寺)の小仏師として参加したことがわかっています。康慶の弟子であり、運慶とは兄弟弟子の関係だったと考えられます。

阿弥陀如来坐像

 お顔や体に張りがあり、むちっとしています。阿弥陀の上印を結んでいます。
 この阿弥陀さまの特徴は、まるでリクライニングシートに座っているかのように、上半身が後ろに傾いていること。こういう態勢でいたら、きっと腰が痛くなるだろうなと心配になります。
f:id:butsuzodiary:20190212073304j:plain
(↑金沢文庫2018年運慶展の図録より)

観音勢至菩薩立像

f:id:butsuzodiary:20190212073652j:plain
 こちらもむちむちしてるように思いますが、衣文は穏やかかつ上品にまとまっています。肥後定慶のような極端にヒラヒラしたのも好きですが、この日の私には、このくらいの保守的な感じがしっくりきました。

不動三尊が脇仏だった?

 保寧寺のこの阿弥陀三尊は、2018年の金沢文庫の運慶展に出展されていたのですが、この展覧会では、保寧寺に元々あったとされる不動明王と両脇侍像も出展されていました。この不動三尊は現在は個人蔵となっています。
f:id:butsuzodiary:20190212080441j:plain
(↑金沢文庫2018年運慶展の図録より)
 図録の説明によると、宗慶の阿弥陀三尊の脇仏として制作されたのではないか、とのこと。しかも、毘沙門天もおられたのではないかと。
 阿弥陀三尊を見上げながら、神奈川県横須賀市の浄楽寺の阿弥陀三尊(運慶)を思い出していたのですが、こちらも阿弥陀三尊と不動明王立像と毘沙門天立像が伝わっています。お姿が似ているだけでなく、尊像の組み合わせも似ていた可能性があるようです。浄楽寺の不動明王は単体の立像ですし、中尊の阿弥陀さまも来迎印なので、まったく同じとは言えませんが、大変興味深く思いました。こういう話に興奮してしまいます!

拝観情報

 保寧寺は東武伊勢崎線加須駅から2キロほど。時々ですがバスも出ています。
 阿弥陀三尊は境内の奥の阿弥陀堂にまつられています。この阿弥陀堂の正面の扉の上部がガラス張りになっており、扉の外にあるスイッチを付けると、堂内に温かな照明がともり、阿弥陀三尊のお姿がほんのりと浮かび上がります。今回は仏像リンクさんのオフ会で出かけたので、阿弥陀堂内に入らせていただくことができました。また機会があれば、お参りしたいです。

2018年の仏像拝観リスト

 2018年は各地に旅して、多くのみほとけの尊像に出会えました。大変幸せなことだと思っています。
 お会いすればするほど、またお会いしたくなる...。知れば知るほど、知らないことがあることに気づく...。仏像の世界は奥が深いです。
 大変恥ずかしくはありますが、2018年の拝観の記録をまとめました。記録をつけるのは好きなのですが、なにせ時間がなく、記事のほとんどは移動中にスマートフォンでまとめたものです。
 ここ数年、「法然上人」「阿弥陀如来」というテーマで旅をしてきましたが、2018年は平安中期や天平の仏像に特に惹かれる一年だったように思います。2017年の秋に法然上人霊場を成満したこともあり、少しフリーな感じで仏像めぐりをした結果かもしれません。
 特に印象に残っているのが、
京都・遍照寺の十一面観音、若狭・明通寺の深沙大将大阪府葛井寺の千手観音(いずれも1月の仁和寺展)、
豊橋市・普門寺の阿弥陀(2月)
滋賀県・金勝寺の軍茶利明王、大津・石山寺光堂の大日如来、高槻・慶瑞寺の菩薩坐像、泉大津・千原大師堂の十一面観音、桜井市笠区の薬師如来(4月)、
神戸・太山寺阿弥陀如来如意寺の仁王(5月)、
長野県青木村・覚音寺の千手観音、上田市・智識寺の十一面観音(6月)、
大分県宇佐市・龍岩寺奥の院、岩屋の木彫仏、天念寺の塑像、大楽寺の弥勒(8月)
愛知県稲沢市安楽寺船橋町)の阿弥陀如来・釈迦如来坐像(9月)、
滋賀県大津市・盛安寺の十一面観音、滋賀県米原市・西圓寺の聖観音(10月)、
品川区・海蔵寺の菩薩坐像、岡山県瀬戸内市弘法寺の丈六阿弥陀坐像、瀬戸内市宝光寺薬師如来坐像静岡県河津町・善光庵の十一面観音(11月)、
奈良県川西町・旧白米寺の地蔵菩薩立像、京都府木津川市・神童寺の日光菩薩立像、そして、二度目だけど東大寺法華堂の執金剛神像(12月)などです。

 書きたいのに書けていない参拝記録もあります。六郷満山や長野県の妙海の十一面観音、神戸の太山寺や宇陀の慶恩寺の練供養などです。下書きやメモ書きはあるので、いつか掲載できば…。

 またまた前置きが長くなってしまいました…。2018年は以下のように拝観させていただきました。ご縁をいただきましたこと誠にありがとうございました。合掌

butsuzodiary.hateblo.jp

butsuzodiary.hateblo.jp

butsuzodiary.hateblo.jp

butsuzodiary.hateblo.jp

butsuzodiary.hateblo.jp

butsuzodiary.hateblo.jp

butsuzodiary.hateblo.jp

butsuzodiary.hateblo.jp

butsuzodiary.hateblo.jp

butsuzodiary.hateblo.jp

butsuzodiary.hateblo.jp

butsuzodiary.hateblo.jp

以上

2018年12月仏像拝観リスト

 2018年12月はまず、埼玉県熊谷市、平戸の大仏(源宗寺)の戦後初の一般公開へ。これからお堂を修復するにあたり、市民の機運を高めるために一般公開に踏み切ったとのこと。2019年に浄財の募集が始まる予定らしいので、微力ながら協力したい。近くの泰蔵院の阿弥陀如来坐像は写真で見る以上に美しく、生き生きとしたお姿だった。午後は熊谷から利根川を渡し舟で渡り、群馬県千代田村の光恩寺で阿弥陀三尊を参拝。またまた感動。
 12月16日の東大寺良弁忌のご開帳は諦めていたのだが、12月に入ると去年初めて行ったときの感動がよみがえってきてしまい、今年も急きょ行くことにした。念のためホテルを押さえておいてよかった。無計画で出かけた割には、充実した仏像めぐりができた。やっぱり奈良は素晴らしい。
 15日に仏友さんと偶然会い、16日に同行させていただいたこと感謝に堪えない。中墓寺と神童寺は初拝で特に印象に残っている。
 そして、、、東大寺法華堂のご開帳は今年も泣けた。天平仏! こんなにみずみずしい彫刻群は他にあるだろうか! 今年は閉帳に立ち会うと決め、執金剛神像の前で待機していたら、若いお坊さんが現われた。お坊さんはまずは般若心経を唱えられ、お厨子の扉を閉めて施錠された。きゃしゃな若いお坊さんだったが、読経のお声が妙にダミ声だった。見た目からは想像できないダミ声につい笑ってしまい、あまり泣かずにすんだ。とにかくありがたいことである。合掌


12月2日
東京ディズニーランドミッキーマウスの練供養(つまり、俗に言う、クリスマスパレード。阿弥陀如来の化身であるミッキーが二十五菩薩を伴って影向し、幸せを分かちあう…。そのように私には見えました)。ショーとパレードを全制覇しました!

12月8日
埼玉県
熊谷市・源宗寺(平戸の大仏)
観音菩薩坐像と薬師如来坐像(ともに約350センチ、江戸時代、市指定文化財
【埼玉】熊谷・源宗寺の木彫大仏坐像(地方仏最高と叫びたくなる平戸の大ぼとけさま) - ぶつぞうな日々 part III
熊谷市・泰蔵院(105センチ、鎌倉時代、市指定文化財
鎌倉時代と市のサイトにあったが、平安後期の感じもする穏やかなお姿
群馬県千代田村・光恩寺
阿弥陀如来坐像と観音菩薩勢至菩薩立像(鎌倉時代、県指定文化財
熊谷市側から赤岩の渡し船でお参り。あまりに好きすぎて二度目のお参り
群馬県・光恩寺阿弥陀三尊(県指定)~だって、定朝様なのに玉眼なんですもの~: ぶつぞうな日々 PARTII
光恩寺阿弥陀さまへは赤岩の渡し船で! 川を渡ると極楽浄土です!: ぶつぞうな日々 PARTII
東京国立博物館
大報恩寺展(二度目) 
行快と肥後定慶は好きだったのだが、最近は平安中期の仏像にものすごく惹かれてしまうようで、展覧会の最初の観音立像の前にずっと立っていた。

12月15日
奈良市・唐招大寺
 金堂諸仏のお身拭い、講堂、身代わり鑑真和尚像、鑑真和尚ご廟お参り
奈良県川西町・旧白米寺収蔵庫
 かっこよすぎる地蔵菩薩立像(重文)
 その横におられる阿弥陀如来坐像(重文)にも惹かれてしまう
 不動明王三尊(確か、県指定文化財矜羯羅童子がやばい)


奈良県桜井市長谷寺(何度でもお参りしたい)
奈良県大和郡山市・西岳院
 千手観音立像(県指定文化財、305センチ)

12月16日
奈良県奈良市下狭川町・中墓寺
 収蔵庫に薬師如来坐像阿弥陀如来坐像2躯(いずれも平安、重文)
京都府木津川市・大智寺
文殊菩薩騎獅像(重文)、十一面観音立像(重文)
ハルカスの西大寺展で、安倍文殊院文殊像との近似性を指摘されていた文殊さまに再会。台風の被害でお堂が修理中のところ押しかけてしまい、申し訳なかった。早く復旧がかないますように。
木津川市・神童寺
本堂=蔵王権現(270センチ、室町)、観音菩薩立像、不動明王
収蔵庫=
不動明王立像(160センチ、重文)
阿弥陀如来坐像(137センチ、重文)
天弓愛染明王坐像(64.5センチ、重文)
日光菩薩立像(162.4センチ、平安、重文)

f:id:butsuzodiary:20190128010944j:plain
日光菩薩立像 この平安中期な感じに惹かれました 写真は神童寺で販売の図録より
f:id:butsuzodiary:20190128011105j:plain
この天弓愛染さまが写真より素晴らしかった 動きがあり上品 写真は神童寺の図録より
京田辺市・寿宝寺
千手観音立像
f:id:butsuzodiary:20190128011325j:plain
寿宝寺(写真は『南山城の古寺』平成28年飛鳥園より)
奈良市東大寺
俊乗堂=快慶阿弥陀如来立像、重源像、愛染明王坐像(平安)
開山堂=良弁像(12/16良弁忌のみのご開帳)
法華堂=執金剛神像(12/16のみご開帳)、不空羂索観音立像、四天王立像
※おちゃのこさんでクリスマスのかき氷(ラムレーズンが最高!)

12月22日
〇東京都八王子市・長安寺、薬師如来坐像
〇東京都八王子市・龍見寺、大日如来坐像
優美な大日如来さま、八王子にあり!@龍見寺: ぶつぞうな日々 PARTII

12月30日
東京都日野市 高幡不動尊(今年も一年ありがとうございました)

以上

【随想】3月11日、被災仏像に祈る(いわき市長福寺の地蔵菩薩坐像)(2014年3月11日付記事を再掲)

  2014年3月11日に掲載した記事を再掲します。変更箇所は、1) いつか貼っていたリンクが切れたので、それを削除し、2) 新しくできたサイト「文化遺産オンライン」(木造地蔵菩薩坐像院誉作 文化遺産オンライン)の写真を使用させていただいた、の2点です。
 2019年1月26日、山本勉先生の「院派仏師」という講座を受講した際、こちらのいわきの地蔵菩薩像を思い出しました。1334年、院派の仏師、院誉の作です。

*********************************************************************


 去年、都内で、東日本大震災で被災した仏像を拝観する機会がありました。

 最初にお会いしたのは、4月、東京両国の回向院で行われた信濃善光寺の出開帳のときでした。震災復興を目的としたこの出開帳で、津波の被害を受けた仏像数躯もお祀りされたのです。
 土砂の中から救出され、修理を受けて、形と命を取り戻した仏様のお姿を見て、私ははからずも涙が止まらなくなりました。関わられた方々のご苦労を思うと同時に、このように形と命を取り戻せなかった方々がおられることに思いが及びました。


 被災を契機に新たな発見につながった仏像もいらっしゃいます。
 福島県いわき市、長福寺の地蔵菩薩坐像です。
 震災で破損し、修理を受けたところ、製作年や作者、願主などが明らかになったことから、昨年、国の重要文化財に指定されました。

f:id:butsuzodiary:20190127135617j:plain
福島県いわき市、長福寺の地蔵菩薩坐像(院誉 作) 写真は文化遺産オンラインより)

 私は東京国立博物館で行われた「平成25年新指定文化財」展(25年5月)で、このお地蔵さまにお会いしました。

 彫刻としての注目点は、納衣が台座にかかり、土紋もあること。神奈川県鎌倉でよく見かける形式です。長福寺が鎌倉市極楽寺の末寺であったことから、鎌倉で製作された可能性が指摘されています。

 たまたま私は、極楽寺の釈迦如来ご開帳(同年4月)に行ってきたばかりで、親近感を覚えました。「被災→文化財指定」という流れに「転んでもただで起きない」雑草魂みたいなものも感じます。

 さらに、先月の報道によると、胎内納入品を解読した結果、法華経を記した用紙の裏に日常のやりとりを書き記した手紙が書かれていたことが分かったそうです。さらに、味噌の前身(醤=ひさお)のレシピも入っていたとのこと。

 震災を経て、タイムカプセルが開いたと言えるでしょう!
 悲しい事実からうれしい展開となりました。


 3月11日とその後の数か月間は私にとってかなり辛い記憶です。都内在住で大きな被害のなかった自分ですらそうなのですから、東北や関東北部にお住いの方々の痛みや苦しみはいかばかりか、想像もできないほどだと思います。

 震災記念日の今日、まずは亡くなられた方々を悼んで、黙祷したいと思います。

 それと同時に、残された命を喜び、慈しむ一日としたいと思います。

 被災仏像のお姿を思い出しながら、黙祷することにします。


[関連資料] 

〇 いわき市広報(25年8月)に重要文化財指定に関する説明が掲載されました(2019/1/27現在、該当のPDFはリンク切れで見つからず)。概要は以下のとおり

いわき市 長福寺
木造地藏菩薩坐像
院誉(作)
 納衣の裾が蓮華座にかかる形式や、着衣の土紋などに、関東地方の鎌倉彫刻の特色を示しています。
 また、東日本大震災で破損、修理中に銘記と納入品(印仏、法華経真言陀羅尼類、髪・爪ほか)が確認され、製作年(元亨4年、1324年)と作者院誉、願主尼慈仙ほかの名が判明しました。
 京都の主流仏師の一派である院派の東国における土着化した活動を示す遺品として注目され、また在地領主による鎌倉文化の受容形態をうかがわせる例としても重要です。

【受講】山本勉氏「院派仏師~近世まで生きのびたもうひとつの老舗ブランド~」2019年1月26日

 2019年1月26日、清泉女子大学の一般向け一日講座で山本勉先生の講義を受講しました。タイトルは「院派仏師~近世まで生きのびたもうひとつの老舗ブランド~」。
  f:id:butsuzodiary:20190127221353j:plain
 「もうひとつの老舗ブランド」という言葉の裏に、運慶や快慶の活躍した慶派だけではなく、院派も注目すべき仏師の系譜だという思いを感じます。私のわずかな仏像めぐりの経験の中でも、院派仏師の名前は近畿(京都の法金剛院や蓮華王院、六道珍皇寺など)のみならず、関東(横浜称名寺や浜松方広寺など)でも耳にしました。しかも、その時代も平安末から江戸まで長期間に及びます。
 とはいえ、これまで院派についてまとめて学ぶ機会がなかったので、この講座を聴講することにしました。濃密な2時間でした!
 復習を兼ねて、受講内容を以下のとおりまとめした。※注意!)私の理解不足や聞き間違いなどにより、大小問わず間違いがあるかと思うので、その旨申し添えます。間違いがありましたら、お知らせいただけますとうれしいです。

山本勉氏「院派仏師」受講メモ

1 仏師と定朝流

 講義ではまず、「仏師」という言葉の変遷について説明があった。
 奈良時代までは、「司馬鞍作首止利仏師」(法隆寺金堂釈迦三尊像銘記、623年)、興福寺西金堂を手がけた「仏師将軍万福」(造仏所作物帳、734年)など、「仏師」とは、工人組織の長を指す言葉だったと考えられ、官僚組織に属していた。両者は渡来系一族の出身だったことも特徴である。奈良時代末頃には「仏師武蔵村主多利丸」(日本霊異記)など、民間にも「仏師」の使用例が見られるが、いずれも俗名に過ぎなかった。
 平安時代前期に入ると、仏師は僧名となり、僧籍を持つ者に限られるようになる。「仏師明定」(830年、叡岳要記)、「仏師妙広」(833年、知恩院本瑜伽師地論 奥書)、「仏師仁算」(863年、叡岳要記)などの例があり、当初は寺院に属したと見られる。
 平安中期10世紀に至って、康尚(こうじょう)が初めて独立した仏師工房を立ち上げる。康尚は998年、土佐講師(講師とは地方の僧官。必ずしもその地方に在住したわけではない)に任命されたあと、藤原道長のために浄妙寺三昧堂普賢菩薩像(1005年)のほか、法性寺五大堂五大明王像(1006年)を造立した。法性寺の不動明王坐像は京都の同聚院に現存する。
 康尚を引き継いた定朝(?~1057年)は、藤原道長、頼道親子のために法成寺や平等院の造仏を行うなかで、法橋、法眼という僧綱(そうごう)を得た。僧綱とは、仏教行政を統括するために国家が任命する僧官を指し、学識や年臈(受戒してからの年数)を積んだ僧の高い位として貞観6年(864年)に制定されたもの。上から法印(ほういん)、法眼(ほうげん)、法橋(ほっきょう)がある。仏師に僧綱が付与されたのは前例のない破格のことだった。
 定朝は、法橋として法成寺の諸仏を造り(法成寺の金堂大日如来、五大堂五大明王、薬師堂七仏薬師。1022~1023年)、法眼となってから平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像(1053年)を造った。天皇家の出身ではない道長にとって、法成寺には摂関家の神聖化を強調する役割があった。仏師である定朝に僧綱を与えた背景として、摂関家が仏像と寺の権威強化を狙ったと考えられる。

2 院派の創始

 康尚と定朝のあと、仏師の系図は覚助と長勢を経て三つに分かれ、奈良仏師、院派、円派の三派が成立する。

       | ーー頼助ー康助(奈良仏師)
定朝ーー覚助ー
   |    | ーーー院助ー院覚(院派)
   |    
   |
   | ー長勢ーーー円勢ー長円(円派)

 定朝の子、覚助は法橋(1067年)、法眼(1070年)となり、1077年に没した後、そのグループは奈良仏師と院派とに分かれた。
 一方、定朝の弟子だった長勢は法橋(1065年)、法眼(1070年)、法印(1077年)と進み、1091年に没した後、その派閥は円勢、長円へと引き継がれ、円派となる。長勢の遺作に京都・広隆寺の日光月光菩薩十二神将がある(※スライドで写真が提示されたのだが、広隆寺宝物館の入り口付近におられる像だったように思う...薬師如来秘仏のはず)。
 なお、これまでは奈良仏師が定朝の直系とされ、院派と円派は傍系とされることが多かったが、院助の系統(院派)を定朝嫡流(直系)とした武笠朗の研究(『週刊朝日百科国宝の美』25彫刻9所収2010年)は注目に値する。

 定朝の仕事はこれら三派にどのように引き継がれたのか。院派は摂関家藤原氏)に関係する平安京と周辺の寺院の造仏を引き継ぎ、奈良仏師は摂関家の氏寺である興福寺を担った。円派は、院政政権の樹立(白河上皇1086年~)によって大きな権力を持ち始めた宮廷関係の仕事を手掛けた。初期の円派(円勢、長円)の隆盛にはそうした背景がある。(ちなみに、円勢と長円の作として仁和寺の国宝薬師如来坐像がある)

 平安後期の院派の系譜は次のとおり。

院助ーー院覚ーーー院朝
       |
       | ー院尊

院助(1077法橋、1105法眼)
院覚(1130法橋、1132法眼)
院朝(1161以前に法印、桓武平氏の一党、院覚の猶子?)
院尊(1178以前に法印、1198没)

 この時期にどのような仏像が造られたのか。
醍醐寺閻魔天像(待賢門院御仏、93.9センチ)は院覚周辺の作と推定される(※サントリー美術館醍醐寺展で感動したお像だ!)。
〇確実なところでは、京都・法金剛院の阿弥陀如来坐像(待賢門院発願、1130年に供養、224センチ)が院覚の作。
〇また、後白河上皇の時代、1164年に供養された京都・妙法院蓮華王院(三十三間堂)の千手観音菩薩像は、奈良仏師康助の主宰のもと、三派仏師が参加したと考えられる。

f:id:butsuzodiary:20190127170241j:plain
法金剛院の阿弥陀如来坐像(写真は法金剛院さま公式サイトより)

3 南都復興と院派

 1180年、南都炎上により、大仏を始め東大寺興福寺の堂宇が焼失する。南都の復興が開始される時点で優位に立っていたのが院派だと考えられる。興福寺の講堂と金堂(中金堂)の造像を院尊が独占しようとしたところ、1181年6月、円派の明円と奈良仏師嫡流成朝が訴え出て、同年7月、以下のような分担により造像が開始された。
興福寺 金堂=明円(円派)、講堂=院尊(院派)、食堂=成朝(奈良仏師)、南円堂=康慶
 院尊が南都で優位だった背景として、造興福寺長官である藤原兼光が院派仏師と姻戚関係にあったことが関係するのではないか。東大寺大仏の復興において、鋳造を手掛けたのは宋出身の陳和卿だが、頭部の原型を手掛けたのは院尊ではなかったか。この頃までは院尊が南都復興の中心だったのではないか。
 また、院尊が手掛けたと考えられる像に以下がある。
〇京都・長講堂の阿弥陀如来と両脇侍像(1183~1185頃。阿弥陀174.2cm、左脇侍96.9cm、右脇侍95.1cm)
後白河院の六条洞院の仏堂にあったが、文治4年(1188年)に六条殿焼亡。再興時に院尊が安置した。

f:id:butsuzodiary:20190127174648j:plain
長講堂の阿弥陀三尊(写真はhitabutsuさんのブログより)

4 鎌倉時代の院派

鎌倉前期
1198 院尊没
1199 院実が法印に(※運慶が法印になったのは1203年)
1207 最勝四天王院供養。院賢の舞楽面(現存する=東大寺最勝四天王院遺物)
1215 後鳥羽院逆修(本尊仏師は院実、湛慶、院賢、快慶。つまりは、院派仏師の中に慶派仏師が紛れ込んで仕事をしていた...)
1221 承久の乱

鎌倉中期
1223 院範(いんぱん) 宝積寺(京都府大山崎町)十一面観音立像(182.2cm)※やさしく眠っているような表情。保守的な表現
1252 院智(いんち) 仁和寺京都市)悉達太子坐像(53.6cm)※昨年の仁和寺展に出展
1266 院恵・院承・院継ら 蓮華王院本堂供養 ※1249年の焼亡による再建(中尊は1254年、湛慶による)
 蓮華王院千体仏の造像においては、以下のように院派が最も人数が多い。作風の観点からは、慶派は新様式をとりいれ、院派は保守的。円派はその中間の作風である。
 慶派=仏師4人、像数22
 院派=仏師12人、像数104
 円派=仏師4人、増数43 

鎌倉後期 1(地方や奈良へ)
1268 院快 釈迦・阿弥陀(山口 二尊院
1269 院快・院静・院禅 阿弥陀如来(滋賀 来迎寺)
1270 院豪・院快・院静・院禅 阿弥陀如来(島根 清泰寺)など
1277 院恵・院道 聖徳太子(奈良 達磨寺)
1289 院湛 奈良秋篠寺の仏像4躯(伎芸天など、頭部は乾漆のもの)

鎌倉後期 2(真言律宗とのかかわり)(東国へ)
1308 院保・院吉・院興 釈迦如来立像(横浜・称名寺)※金沢文庫で時々展示される清涼寺式のもの
1319 院えん(「えん」はさんずい+宛)・院吉・院教など 十一面観音(京都の法金剛院)

f:id:butsuzodiary:20190127213544j:plain
法金剛院の十一面観音坐像(写真はお寺のサイトより)
1332 院誉 十一面観音(慶珊寺 神奈川)

5 南北朝時代の院派

足利将軍家の仏師、院吉・院広

1352 院吉・院広・院遵 釈迦如来および両脇侍像(浜松 方広寺

f:id:butsuzodiary:20190127214406j:plain
方広寺の釈迦三尊(写真は方広寺のサイトより)

6 その他の院派

別系統の「覚」字をもつ院派の仏師
1451 覚伝 愛染明王像(京都・西正寺)
1543 覚継・覚吉 足利義殖像(冬持院昭堂)など

江戸時代の「院吉末裔」院達
1653~1673の事績の知られる藤原種次(=吉野右京)と1677~1696の事績の知られる院達は同一人物らしい。湛海(1629~1716)の助作もつとめる。
1689年の小野篁・冥官・獄卒像(京都・六道珍皇寺)が代表作。篁像が220センチ、冥官・獄卒像は140センチ。

以上

【多摩仏】深大寺の毘沙門天立像と元三大師坐像

拝観日=2019年1月19日
お寺=深大寺(東京都調布市
仏像=毘沙門天立像(平安、市指定文化財
その他=元三大師坐像のポスター

平安の毘沙門天立像

 調布の深大寺で、1月に公開される毘沙門天立像にお会いしてきました。
 深大寺といえば、国宝の白鳳仏、釈迦如来椅像が有名ですが、他にも調布市指定文化財の仏像が3躯おられます。本堂におられる本尊の宝冠阿弥陀如来坐像、元三大師坐像(秘仏)、そして、毘沙門天立像です。

 毘沙門天さまは、1月の間に限り、釈迦堂で、国宝の釈迦如来さまと並んで公開されています。調布の七福神としてのご開帳のようです。ガラス越しでしたが、よく拝めました。

 毘沙門天さまは40センチ強の小像ながら、大変素晴らしいお像でした!
 ずんぐりむっくりでありながら、動きのある立ち姿。お顔の表情も、くしゃっとして独特です。目つきも最高。深く窪んだ目から、遠くを睨みつけていました。
 堂内の説明に平安後期と書いてありましたが、胴回りの厚みからもう少し古風な感じもします。

 実は、この毘沙門天さまにお会いするのは初めてではありません。ずいぶん前に、釈迦堂の内部に入れる機会があり、その時にお会いしてるはずなのです。しかし、その際には、この毘沙門天さまの素晴らしさが分からなかったのだと思います。

 今回改めてお姿を拝し、白鳳仏とはまた別の素晴らしさがあると感じました!

 毘沙門天さまの画像を探したところ、こちらが見つかりました。調布市郷土博物館による資料です。少し見づらいですが、現地では撮影禁止でしたので、この写真でどうかご勘弁ください...(2019.01.21追記)
f:id:butsuzodiary:20190121072924j:plain

 この資料にあるように、2011年に東京藝術大学大学院保存修復研究室(藪内佐斗司教授)で修復されたそうです。資料の左の写真が修復前、右手が修復後です。後世の修理で損なわれていた尊容の回復を目的に修復したと記載されていますが、見比べると確かに、勢いのあるお姿となったと思います! そして、私が以前お会いしたのは修復前だったこともわかりました。(2019.01.21追記)

 修復された貴重な平安仏です。1月以外にもご開帳の機会があればと思いました。



元三大師坐像

 今回、深大寺をお参りして、とても驚いたことがありました。それは、境内に貼られていたこのポスターです!
f:id:butsuzodiary:20190119223119j:plain
 えええっー、と声を上げそうになりました。厳重なる秘仏であり、写真でさえ出回っていないと思っていたからです。
 この元三大師坐像は、比叡山から移された自刻像と伝わり、像高はなんと2メートル。上人の坐像としては異例な大きさです。
 元三大師さまの50年ごとのご遠忌に開帳されており、25年の半開帳が2009年に行われました。その時のポスターがこちらです。
f:id:butsuzodiary:20190119224351j:plain
 2009年のポスターでは、お顔が完全に隠されています。これでは表情が分かりません。開帳期間も一週間のみ。つまりは、厳しいご開帳です。私は多忙にかまけて行けなかったのですが、後日、お参りした人の話を聞くと、皆さん口をそろえて「とんでもないお像だった。大きくてびっくりした」とおっしゃいました。
 こういう経緯から、よっぽど霊力の強い秘仏なのだろうと思っていた訳です。それゆえに、お顔やお姿をたやすく人目にさらさないというのが深大寺さまの方針なのだと思っていました。
 ですので、今回のポスターには驚きました。斜め後方からのショットながら、元三大師さまのお顔の表情が伺える写真が、境内に堂々と掲示されていたのですから! この方針変更は何なのでしょう。深大寺さまに何があったのでしょう。誰がいつ写真を撮られたのでしょう。
 そして、次のご開帳はいつなのでしょう!? 25年ごとだとすると、次は2034年…。かなり先です。その前に特別開帳があることを願うばかりです。