ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【信濃仏】智識寺(千曲市)~3メートルの立木仏 十一面観音立像~

智識寺とは

智識寺(千曲市)(真言宗智山派
拝観日=2018年6月16日
〇十一面観音(重文 306cm、ケヤキ、一木)
〇釈迦如来坐像(室町)

 智識寺の開創時期は定かでないが、天平年間(729~748)に、聖武天皇の勅願により冠着山(かむりきやま)麓に建立されたといわれる。慶長10年(1605年)に現在の地に移る。室町時代末期に建造された大御堂とその堂内の十一面観音立像が重要文化財に指定。

智識寺の十一面観音立像

 去年お参りしようと電話したのだが、お堂の改修中のため拝観できず、今回念願かなってやっとお参りできた。白洲正子の『十一面観音』に登場する3メートル超の一木造りの観音さまである。葺き替えを昨年度に終えたばかりの茅葺の大御堂に観音さまはおられた。
 かわいらしい大きな童顔と、それに比して細い両肩。すくっと伸びた長い手足。霊木を使って彫り出されたのだろう。はかりしれない霊験を感じさせる観音像だった。
 それにしても、身の丈3メートルとはかなりの長身である。どれだけ巨大なケヤキを使ったのだろう。私の普段の散歩コースにあるケヤキの巨木は驚くほど固い。コンクリートかと思うほどだ。固いケヤキの巨木から、このように柔らかく温もりのある観音像が生まれるとは。
 もちろん智識寺の観音像に直接触れたわけではない。しかし、見た目には明らかに柔らかで、温もりが感じられる。それはゆるやかな身体のラインや浅い衣の彫りだけでは説明しきれない。おそらくそれが霊木から生れ出た霊像というものなのだろう。写真では何度も拝見したが、そうした感覚というのは現地でしか感じることができない。単なる彫刻ではない。言葉にできない何かが観音さまから発せられ、堂内に満ちるのを感じた。お会いできた幸せをかみしめた。

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 白洲正子は『十一面観音巡礼』の中でこの観音さまと対面した時の感動を記している。大法寺参拝のおり人づてに大御堂の観音さまのことを聞き、夕方遅くに到着。ろうそくの火影のもとに浮かび出た十一面観音を「想像していたよりはるかに美しい」と絶賛している。「地方作ではあるが、平安初期のしっかりした鉈彫りである。この観音は、もと女沢川の上流に祀ってあったと聞くが、背後の神体山と、何らかのつながりがあるに違いない」。
 背後の神体山の山の名前を帰宅後に地図で調べ、それが冠着山(かむりきやま)であることを白洲は知る。地図では、冠着山に括弧して「姥捨山」とあるのを見た白洲は「私は探していた言葉にめぐり合ったような心地がした」という。篠ノ井線の姥捨駅の近くに山がなく、不思議に思っていたということらしい。
 さて、冠着山(姥捨山)とこの観音さまとの間にどのような関係があるのだろう。私はその辺りが気になってしかたがない。神仏習合と立木仏の勉強をしたい。

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他の仏像はどこに

 過去のブログなどを見ると、堂内には大きな仏像がひしめき合っていたようだが、今回はお会いできなかった。お堂の改修後にどこかに移られたのだろうか。自分がまとめた拝観予定リストには以下のお像も含まれていたのだが、今回はお会いできなかった。
聖観音(市指定、168cm ヒノキ、12c末~13c初)
地蔵菩薩立像(市指定、159cm、ヒノキ、江戸中期)

釈迦如来坐像と仁王像


 境内の小さなお堂に、丈六規模の釈迦如来坐像がおられた。お堂が小さいので、堂内をのぞき込んだ瞬間、あまりの像の大きさに驚いた。室町時代の作だそうだが、穏やかなお姿に癒された。仁王門の仁王も室町時代

拝観情報


観音さまの拝観には予約が必要。住所=長野県千曲市大字上山田八坂1197

【信濃仏】大法寺(青木村)~瞳を閉じた十一面観音さまは何を感じ取ろうとされているのだろう~

大法寺(青木村)(天台宗
拝観日=2018年6月16日
○十一面観音立像(重文 170.9cm、カツラの一木、平安)
普賢菩薩立像(重文 106.3cm、カツラの一木、平安)

大法寺とは

 信州の大法寺は、大宝年間(701~704年)に創建された天台の古刹。藤原鎌足の子、僧定恵によって創建され、大同年間(801~810年)に坂上田村麻呂の祈願で僧義真(初代天台座主)によって再建されたと伝わる。
 飯縄山の麓にあり、「見返りの塔」と呼ばれる国宝の三重塔(1333年)が美しい。参拝した日には本堂の前にキセキレイの親子が見られた。
 この大法寺の本堂で、丸山尚一と白洲正子の両方の書籍に登場する十一面観音さまにお会いした。

木造十一面観音立像

 ご本尊である観音さまは両目を閉じ、小さな口元からそっと息をしておられた。その静かな表情に引き込まれる。横からのぞき込むと、腰から下にかなりの重量感があり、正面から見たときの可愛らしさとの違いにますます魅了された。
 それにしても、この観音さまはなぜ目を閉じておられるのか。目を閉じることで、全身の感覚を研ぎ澄ませ、何かを必死に感じ取ろうとしているように私には思えた。信濃の山の聖霊をその御身に取り込もうとしているのか。それとも衆生の悲しみを慈しみの御心で受けとめようとしているのか…。
 いずれにしても、この素朴な観音像には体温さえ感じてしまう。もちろん仏の像であるし、文化財であるから、実際に触れたわけではない。でも、その全身から温もりと祈りを感じたことは確かである。
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 丸山尚一は『地方仏を歩く三』で、この十一面観音像を「一見して地方色の濃い彫像」だと評している。「穏やかな体軀の肉どりは抑揚少なく、ずんどうに近い素朴な作り」「ことさら優れた像とはいえないかも知れないが、この土地のにおいを感じさせる、親しみを感じさせる像」だと丸山は言う。地方仏を愛した人の讃辞なのだろう。
 一方、白洲正子も荒削りな地方仏らしさを指摘し、絶賛している。白洲は『十一面観音巡礼』で大法寺の本尊に言及し、「材は桂で、台座に木の根の部分を使ってあるのも、立木観音の伝統を踏襲していることに気がつく」と指摘する。平安中期の作だと紹介したうえで、「蓮弁なども荒けずりで、実際の年代より、ゆったりと古様にみえるのが、地方作らしくていい」と述べている。大法寺は江戸時代まで戸隠山の末寺だったことから、山岳信仰の仏師の作であることは間違いないと白洲は言う。「一木造りというのは、技術が未熟だったわけではなく、信仰上の制約だったことが、こういう仏像に接すると納得が行く」という一文に心が震える。

木造普賢菩薩立像

 十一面観音の隣に立つ普賢菩薩さまは、身の丈は十一面観音よりも小さいものの、お顔の表情などから、同じ仏師の作であろうことが想像できる。丸山は十一面観音とこの菩薩像について、「土着色の強い一木彫りの少ない信濃にあって、大法寺の木彫像は、ぼくの感じる信濃を体現している彫像といっていいだろう」と書いている。
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重要文化財厨子および須弥壇

 十一面観音さまは、今はお堂の奥に並んで安置されているが、以前は本堂中央のお厨子にまつられていた。今回、特別に厨子を開けていただき、前立の観音立像も拝ませていただいた。可愛らしい観音さまでおられたが、文化財の指定はないようだ。鎌倉か室町頃だろうか。
 重要文化財厨子須弥壇禅宗様。制作年代ははっきりしないが、三重塔より時代がくだって室町ではないかとのこと。

拝観情報

 お寺は固定の拝観料で一般参拝客に解放されているが、堂内の観音様の拝観には予約が必要(0268-49-2256)。住所=長野県小県郡青木村当郷
 塩田平には、先の記事に書いた中禅寺のほか、別所の北向き観音や安楽寺の国宝の八角三重塔などもある。もし再訪できるのなら、温泉込みでのんびりしたい。
 
※写真は青木村のホームページより。
大法寺の文化財 | 青木村役場

【信濃仏】中禅寺(上田市)~こういう上品なお堂にはこういう上品な如来像がいらしてほしい~

塩田平の中禅寺とは

中禅寺(上田市)(真言宗智山派
参拝日=2018年6月16日
薬師堂 
薬師如来坐像(97.7cm、カツラ、前後二材寄木、平安末期、重要文化財) 
○神将立像(68.2cm、上記薬師如来の附として重要文化財指定)
仁王門
金剛力士像(平安末期、県宝)
※写真撮影はお寺より特別に許可いただきました。

 丸山尚一さんの本で読んだ中禅寺は、独鈷山の麓、塩野平にある大変美しいお寺だった。
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(↑独鈷山。密教法具の名をもつ岩山だ)

平安の仁王像


 仁王門には、京都醍醐寺および峯定寺のと並び評される平安後期の仁王像が睨みをきかせる。品のある仁王さまだ。
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 そして、仁王門の向こうに茅葺きの美しいお堂が音もなく静かに建つ。鎌倉時代初期に遡る方三間の阿弥陀堂形式のお堂である。ため息の出る美しさだ。
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薬師堂と薬師如来坐像~美しすぎる組み合わせ~


 堂内には、定朝様の薬師如来坐像がおられる。彫りが浅く、この上なく上品な佇まいだった。堂内の中央、四天柱の中に安置されており、それがさらに美しさを引き立てているように感じる。みほとけの像が堂の中央に置かれるのは古い形式なのだそうだ。時代がくだると内陣はお堂の奥へと移動する。
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 このような上品で静かなお堂には、このように上品で静かなお像がいらしてほしいーー。そういう私の勝手な願いを見事に叶えてくれる建物と如来像だった!
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神将立像に泣きそう


 手前の神将立像もたまらない。かつては十二神将がお揃いだったのだろうか。今はたったお一人で、しかも、両腕を失ったお姿である。それでもなお、私たちを救おうと、凛としてお立ちであった。十二神将ならぬ、一神将の強い思いが伝わってくる。もし私一人でお参りしていたら、きっと泣いていただろう。
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光と薬師さま


 丸山尚一さんの『地方仏を歩く三』によると、丸山さんが参拝された際、住職が「この薬師さんは周りの戸を閉めて南の戸を少し開けた光で見るのが一番素晴らしい」とおっしゃり、そのように戸を開けてくださったそうだ。わずかに差し込む光の中の薬師如来坐像に感動したことを丸山さんは綴っている。
 驚いたのは、今回私たちが訪れた際も、住職が一度すべての戸を閉め、神将に近い側の戸を少しだけ開けてくださったことだ。その戸が丸山さんのときと同じだったのかはわからない。だが、確かに、わずかな光の中で拝む薬師さまはより神々しかった。感動したのは私だけではない。堂内にはどよめきのような感嘆の声があがった。光は大切だ。
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 天候や時間帯によって光の入り方が異なることもあり、丸山が見たのと同じ光景を見たとは言えない。しかし、本と同じように戸の開閉をしていただけるとは思ってなかったので、大変ありがたかった。住職にお礼を申し上げたい。

【信濃仏】福王寺(佐久市)の力強い阿弥陀さまと雨ごい邪鬼の毘沙門天さま

 
福王寺(佐久市)(真言宗智山派
拝観日=2018年6月16日
収蔵庫
阿弥陀如来坐像(138.3cm、カツラの一木 1203年 国重文)
〇観音勢至菩薩(脇侍、大和座り)江戸初期
弥陀堂
月光菩薩聖観音とも伝承)平安 市文化財
日光菩薩 鎌倉 市文化財
聖徳太子立像(雨宝童子)鎌倉 市指定
本堂
〇絹本著色愛染明王像(県宝、鎌倉後期~南北朝、92.5 x 51.5 cm)
※写真撮影はお寺より特別に許可いただきました

福王寺とは

 長野県の文化財指定されている仏像をリストアップしたとき、一番先に惹かれたのが福王寺の重要文化財阿弥陀如来坐像だった。彫刻+重要文化財で検索をかけると、あいうえお順で出てくるようで、阿弥陀様が真っ先に出てきたということもあるが、なにより阿弥陀様らしからぬ力強さに目が留まった。
 初めて拝観のお願いの電話をしたとき、住職の対応があまりに素っ気なくて、とても不安だった福王寺さま。思い返せば、公式サイトからの問い合わせメールにはまったく応答がなく、1か月ほどあとに電話して、ようやく拝観予約をいただけたのだった。
 参加人数の確定後、ご朱印の対応などで、何度かお電話させていただくうちに、徐々に自然に会話ができるようになった…ような気がする。
 しかし、そんな不安もなんのその。実際に訪れると、とても気さくで優しい住職だった。お茶とお菓子で歓待いただき、寺歴等を詳しく伺うことができた。お話がとてもわかりやすかった。

 福王寺は大同2年(807年)の開山と伝えられる。新幹線佐久平駅から車で30分ほどの至便な場所でありながら、南に蓼科山、東に浅間山があり、周辺は豊かな自然に囲まれている。訪れた日は、本堂横でキビタキがさえずっていた。かつては塔堂六坊を構えたが、寛永年間の山火事より資料や重宝の多くを焼失。宝永6年までに方丈、庫裡、仁王門、本堂、阿弥陀堂、不動堂などが再建された。福王寺に残された寺宝の数々を拝観させていただいた。

重文の力強い阿弥陀如来坐像

 収蔵庫には、お会いしたかった鎌倉初期の阿弥陀如来坐像(重文)がおられる。鎌倉初期とは言っても、がちがちの慶派からは程遠い。がっしりした田舎の男っぽさがある。一方、脇侍は江戸時代の美しい大和座りの観音勢至菩薩。これがまた、非常によい組み合わせ。いつまでも拝んでいたい三尊だった。

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弥陀堂の市指定文化財の諸仏

 弥陀堂の日光菩薩、月光(聖観音)菩薩、毘沙門天は等身大に近く、かなり傷みがあったものの、存在感があった。やや小ぶりの雨宝童子(聖徳太子)像を含め、すべて佐久市の指定文化財毘沙門天の邪鬼は雨ごいの儀式に使われたこともあったそうだ。雨ごいについて伺うと、住職は、「邪鬼を近くの池に放り投げて、棒でつついたんだよ」と朗らかにお答えくださった。お像の傷みは庶民の信仰の証でもある。

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(↑これが池でつつかれた邪鬼さん。ぼろぼろ…)

 

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(↑平安の月光菩薩聖観音の可能性あり。光背の化仏は飛天なのか菩薩か。雲に乗っておられるのか。素敵である)

 

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(↑日光菩薩像。衣がひらひら)

 

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 (↑聖徳太子像。雨宝童子だった可能性あり。雨で少ない地域なのだろうか)

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(↑髪型が素敵)

県宝の仏画愛染明王像(目の前でご開帳!)

 また、特別に、県宝の仏画愛染明王像を拝観させていただいた。寺歴の説明のあと、「仏画見たいって言ってたよね。取ってくるわ」と住職。どこからかビニール製のスポーツバッグを手に戻ってこられ、その中から、掛け軸を取り出された。本堂の中に、高さ2メートル弱ほどの大きな厨子(頑丈な鍵付き)があり、その中に掛けてくださった。典型的な図様の愛染明王画像で、真っ赤に怒って迫力があった。鎌倉時代に遡る密教絵画は長野では珍しいそうだ。
 

 住職のご案内のおかげで、楽しく学びながらお参りできた。慌ただしい拝観になってしまったので、またのんびりお参りしたい。仏像群はもとより、住職にまたお会いしたい。
 
 

多摩仏像研フィールドワークで信濃仏をめぐる!

 2018年6月16日(土)~17日(日)の二日間にわたり、長野県を駆け抜けてきた。多摩仏像研究会の企画により、総勢10名で、ただひたすら仏像をめぐる旅。
 主に丸山尚一の本でピックアップしたので、丸山仏が中心のラインアップ。私が尊敬してやまない白洲正子の『十一面観音巡礼』に登場の観音さま2像、さらに、長野が誇る善光寺仏師妙海の仏像を加えた。
 多くの方々のご支援とご協力を得て、以下の10か寺を無事にお参りできた。
 関わってくださった皆様へ改めて心からのお礼を申し上げたい。一人だけの力ではなしえなかったことは火を見るより明らかである。
 みほとけの像をめぐりながら、人との出会いもあった。
 感謝の気持ちを込めて、これから1か寺ずつレポートを上げていきたい。(と書いてしまったが、本当に10か寺全部レポートできるかな。もし書くのが止まっていたら、誰か私をたたいてください)

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2018年6月16日(土)

1) 福王寺(佐久市)(真言宗智山派
収蔵庫
阿弥陀如来坐像(138.3cm、カツラの一木 1203年 国重文)
〇観音勢至菩薩(脇侍、大和座り)江戸初期
弥陀堂
月光菩薩聖観音とも伝承)平安 市文化財
日光菩薩 鎌倉 市文化財
聖徳太子立像(雨宝童子) 市文化財
毘沙門天 市文化財
本堂
〇絹本著色愛染明王像(県宝、鎌倉後期~南北朝、92.5 x 51.5 cm)


2) 中禅寺(上田市)(真言宗智山派
薬師堂 
薬師如来坐像(97.7cm、カツラ、前後二材寄木、平安末期、重要文化財) 
〇神将立像(68.2cm、上記薬師如来の附として重要文化財指定)
仁王門
金剛力士像(平安末期、県宝)


3) 大法寺(青木村)(天台宗
〇十一面観音立像(重文 170.9cm、カツラの一木、平安)
普賢菩薩立像(重文 106.3cm、カツラの一木、平安)


4) 智識寺(千曲市)(真言宗智山派
大御堂
〇十一面観音(重文 306cm、ケヤキ、一木)
境内の小さなお堂
〇釈迦如来坐像(室町)

5) 光久寺(安曇野市
〇日光・月光菩薩立像(善光寺仏師妙海1317年、県宝、桧材、寄木造)

 

 2018年6月17日(日)

6) 覚音寺(大町)(真言宗智山派
千手観音菩薩立像(重文 168.2cm、桧材、寄木造)
持国天像(重文 161.5cm、桧、寄木造)
多聞天像(重文 157.6cm 桧、寄木造)


7) 栂の尾(つがのお)毘沙門堂(池田町広津)
毘沙門天立像(県宝、112㎝、桧、一木)

 

8) 海岸寺松本市
〇千手観音立像(県宝 159cm 桂 一木、平安中期)

 

9) 牛伏寺(松本市)(真言宗
収蔵庫
不動明王立像(重文 12世紀)
毘沙門天立像(重文 12世紀)
〇釈迦如来坐像(重文 12世紀)
文殊菩薩騎獅像(重文 13世紀)
普賢菩薩騎象像(重文 13世紀)
薬師如来坐像(重文 13世紀)
大威徳明王像(重文 11世紀)
蔵王権現立像(県宝 10世紀)
〇奪衣婆坐像(県宝 1422年)
〇女神像、男神像(市重文 12世紀)など
※近くの円城寺の十一面観音立像(平安77.2cm 針葉樹の一木、市指定)が牛伏寺の収蔵庫にお預けされており、お姿を拝むことができた
如意輪堂
如意輪観音坐像(県宝、13世紀)

 

10) 辰野町・上島観音堂
〇十一面観音(重文89.4cm、榧材、一木造、妙海1323年)


以上

【来迎会】長野県小諸市・十念寺の二十五菩薩来迎会を思い出しました

 先日、信濃仏をめぐった際、長野県上田市で小泉大日堂の近くを通った。小泉大日堂では、60年ごとの本開帳と30年ごとの中開帳の際、小諸市十念寺の二十五菩薩来迎会が行われてきた。前回の開帳が2011年だった。

 その当時は、そのような貴重な機会が存在することをまったく知らなかった。2013年以降、二十五菩薩来迎会を調べる中で小諸の十念寺を知り、さらに小泉大日堂を知ったという流れである。

 30年おきの開催であれば、もう観られないかもと諦めかけたのだが、ダメ元で2016年末頃から小諸市に何度か問い合わせたところ、5年おきに開催される市主催の郷土芸能のイベントで、十念寺の二十五菩薩来迎会が演じられることを知った。イベント開催日は2017年3月の三連休の中日。実はこの頃、少し体調を崩していたのだが、その直前に十念寺二十五菩薩来迎会保存会の会長と電話でお話させていただくことができ、さまざまなお話を伺ったところ、この機会は逃すべきではないと判断。慌てて新幹線をおさえ、出かけたのだった。
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 市民会館で演じられたものとはいえ、十念寺の二十五菩薩来迎会は観る価値の高いものだった。練供養の列の前に極楽鳥の舞などがあるほか、練供養の先頭に不動明王が立ち、最後尾が毘沙門天を務めるいう、他では例のない並びであった。
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 恵心僧都源信が始めたとされる二十五菩薩の練供養は関西を中心に今もいくつか残っているが、江戸時代以降に始められたもののが多い。十念寺の練供養はもっと古い形が残されているという説もあるそうだ。火炎太鼓のシンプルなリズムで繰り広げられる十念寺の練供養は一度観ると脳内から離れず、やみつきになる。當麻寺や大念仏寺のような華やかさはないが、十念寺に継承されてきた独自の練供養は大変貴重である。

 イベント司会者が「西の當麻寺、東の十念寺」と紹介した一言が今も記憶に残っている。この言葉を小諸だけでなく、全国的に広めたい!

 小諸市のケーブルテレビで、この2017年3月の郷土芸能イベントを収めたDVDが今も販売されているはずなので、ご興味のある方は問い合わせてほしい。私は通販で購入させていただいた。非常に鮮やかな映像であり、未来に伝えていきたい貴重な記録である。

 十念寺は昭和の火事でお堂が焼け、二十五菩薩のお面だけが残された。お寺はすでに廃寺となり、二十五菩薩保存会の方が毎年3月に、お面を広げて、念仏の会を開いていると伺った。毎年定期的に練供養を行う予定はないとのこと。市のイベントだけでもよいので、なんとか次世代につなげてほしい。

 2017年のイベントでは、小学生ぐらいのお子さんも菩薩面を被られていた。このお子さんが将来、自分の子どもや孫へと、この貴重な信仰の形を受け継いでいかれることを願ってやまない。

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※小諸を訪れてから1年。長野県を再訪し、小泉大日堂の近くを通り、あのときの二十五菩薩来迎会の模様を思い出した。2017年3月のイベントのレポートはこちらをご覧ください。
app.m-cocolog.jp

【来迎会】得生寺「中将姫大会式」 後編~中将姫への愛がいっぱい~

【来迎会】得生寺の練供養「中将姫大会式」


後編「得生寺の練供養は中将姫への愛がいっぱい」

 やっと本題である練供養の話に入りたい。得生寺の二十五菩薩来迎会は、「中将姫大会式」と呼ばれる。その名に違わず、中将姫さまへのリスペクトと愛にあふれた練供養だった。

 できれば、前編(【来迎会】得生寺~中将姫さまへの愛に満ちた練供養~前編 - ぶつぞうな日々 part III)を流し読みしてから、後編に目を通していただくと、中将姫リスペクトの練供養をより立体的に感じていただけるのではないかと思う。

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(↑写真は2018年5月14日付産経新聞より。プロの写真はさすが。私の隣で脚立に乗って撮っていた人がいたのだが、その人の作品に間違いない。あの場で一般人は脚立は使えないです! なお、この写真を除き、本記事のすべての写真は私ヒヨドリの撮影です!)
※写真について お子様が活躍する練供養なので、お子様のお顔と名札の部分にモザイクを入れた。和讃の少女、重そうに御輿を担ぐ表情、練供養が終わってほっとして友達をのぞき込む表情など、大変愛らしい写真が何枚かあるのだが、今のご時世悪い人もいるので、あえて加工したことを書き添えておく。

基本情報

開催日

 毎年5月14日(私が訪れたのは2018年5月14日)

お渡りの時間

 15時30分頃から(終了まで1時間ほど)

来迎橋

 高さ約1.5メートル、長さ約30メートル。朱色の回廊が開山堂から本堂にまで結ばれる。お渡りの橋のうち、半分ほどは常設のようだ。
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お練り(お渡り)ルート

 開山堂を出て来迎橋を渡り、本堂へ。本堂で浄土経をお唱えした後(菩薩さまたちは休憩)、また開山堂へ戻り、終了となる。

菩薩面

 練供養が始まる直前の菩薩面。なぜか緊張しているようにも見える。
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菩薩の持ち物

 来迎は華麗な音楽を伴うとされ、菩薩さまの持ち物には楽器が多い。
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実際に使われた楽器

 得生寺の練供養では、最初に中将講による和讃が響く。それに合わせて、鉦(かね)講による念仏鉦が荘厳な音色を奏でる。
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 楽器を奏でる人達のスペースは開山堂の向かって右側に設けられているが、このように目隠しされていて、演奏の様子を見ることはできない。素晴らしい演奏で、来迎の感動を高めていた。

特徴

1) 登場する菩薩とその順序

 練供養のお渡りは15:30過ぎに始まった。菩薩の装束を付けた子どもたちが開山堂に集まるのが15:00頃。堂内で菩薩面を付け、持物を手渡されるなどの準備に30分ほど要するようだ。
 練供養の列は次の順に続いた。
○僧侶。お水を散らしてお清めをする。
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(↑練供養が始まるのを待つうちに日が西に傾き、気がついたら、思いっきり逆光に。慌ててるうちに、お坊さんが近づいてくるので、合掌してお清めを受けたら、こんな写真しか撮れなかった!)
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○中将姫和讃(少女12人+成人女性2人。和讃の先頭と最後を成人女性が務め、あとはみな少女)
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地蔵菩薩さま(地蔵さまだけ大人が務める)
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○鳥のお面をかぶった少年たちが歩く。カルラなのだろうか。
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○二十五菩薩の登場。蓮台を手に持つ観音菩薩、合掌する勢至菩薩と続く。
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 ↓
○御輿(「通いの弥陀」)
二十五菩薩さまが半分ほど通り過ぎると、御輿がやってくる。御輿には、阿弥陀如来立像、通称「通いの弥陀」が担がれる。
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 ↓
○御輿の後、残りの菩薩が続く。
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 ↓ 
○最後に僧侶が散華を巻く
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 ↓
○お渡りの列が本堂に到着すると、本堂で法要が始まる
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 ↓
○法要のあと、再びお渡りがあり、本堂から開山堂へ戻る。僧侶、和讃、カルラ、菩薩、御輿(通いの弥陀)、菩薩、地蔵菩薩の順。二十五菩薩の順は往路と逆のようで、最後に勢至→観音→地蔵菩薩だった。
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2) 子どもによる練供養

 得生寺の練供養の一番の特徴は、お子さんが二十五菩薩に扮すること。中将姫さまがこの地で少女時代を過ごされたことから、その聡明さと美しさにあやかろうということらしい。地元の小学校の児童だと聞く。
 今回訪れて驚いたのだが、子どもが活躍するのは菩薩さまだけではなかった。
練供養の列で和讃を歌うのは少女達。興しに載せた「通いの弥陀」を運ぶのも子ども達。今回は女子2名、男子2名の4人で元気に運んでいた。鳥のお面を付けるのも子ども達だった。
 思った以上に子どもが活躍する。しかも、途中泣いたりぐずる子がいない。教育が行き届いているのを感じた。
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3) 地蔵菩薩だけ成人女性

 菩薩のうち唯一、地蔵菩薩だけが、毎年地元の大人の女性が務めるそうで、開山堂の前に「地蔵菩薩渡御者 (地名)(お名前)様」と、堂々と張り出してあった。さぞかし名誉ある職務なのだろう。
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4) 「通いの弥陀」

 練供養で登場する阿弥陀如来立像は、もともと雲雀山の麓に住む西方清太夫(さいほうせいだゆう)の念持仏だったと伝わる。中将姫さまが雲雀山で称讃浄土経を写されるたび、麓から通われ、中将姫さまに付き添われたことから、「通いの弥陀」と呼ばれる。像高30センチほどだろうか。左足を前に踏み出し、歩かれるお姿だ。西方清太夫の邸宅は現在の得生寺の寺域に含まれるという。
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 得生寺開山堂の奥に阿弥陀仏のお厨子があった。普段はここにまつられているのだろう。私が訪れたときには、お厨子は空っぽで、「通いの弥陀」は御輿の上に安置されていた。そして、練供養がはじまると、菩薩さまの列に加わった。緑色の装束を身につけたお子さんによって、御輿ごと運ばれるのである。登場される順番は二十五菩薩さまのちょうど真ん中あたり。元気な男の子2人と女の子2人ががんばって運ぶ。だいぶ重そうだったが、元気に運んでいた。このような阿弥陀仏のお渡りがとても微笑ましい!
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5) 中将姫さまへの敬意

 前編にも書いたが、得生寺は中将姫さまへの愛とリスペクトに満ちている。その感動を伝えるのに、どこをどう切り取ればよいのかー。そんな思いでここまで長々と書いてきた。それでも書ききれなかった愛のかけらをお伝えしたい。

 

○本堂の中将姫さまと百味御膳

 中将姫大会式の際には、開山堂のご本尊である中将姫様のお像が、本堂の阿弥陀三尊のお厨子の前に移されていた。中将姫さまの手には五色の糸が結ばれ、境内の回向柱へとつながっていた。柱を触ることで中将姫さまと結びつくことができる。
 また、中将姫の前には、百味御膳と言って、色鮮やかでユニークなお食事が備えられていた。琴を奏でる中将姫さまも。
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○ブラックシアター『中将姫物語』

 お渡り開始の前に境内を拝観していると、アナウンスが流れた。「2時から、わいがや娘による『中将姫物語』の公演があります。皆様ご覧ください」
 私は「わいがや娘って何(笑)?」と思いながら見始めた。写真のとおり、黒いパネルが使った紙芝居のようなものなのだが、音響も絵も力作で、引き込まれた。中将姫の一生が15分間に見事にまとめられていた。「わいがや娘」のお揃いのポロシャツも最高。
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 わいがや娘の会は、有田市で活躍しているボランティアグループらしい。公式サイトには、「女性の視点で次世代の子どもや地域のために、まちの誇りを発掘し、継承すること、および女性がいきいきと活躍していくことを目的とし、和歌山県有田市で活動しています」と記載されていた。たぶん会の名称は「わいわい、がやがや」の略なのだろう。

 

○中将もち

 奈良の當麻寺近くに「中将餅」屋さんがある。得生寺の境内でも「中将もち」が売っていて驚いた。こちらは餅でなく、「もち」とひらがな表記で、屋台で販売されていた。荷物になるし、後で買おうと思っていたら、お渡りが始まる前に売り切れていた…! 當麻寺で「中将餅は練供養の前に購入」という教訓を得たのだが、それは得生寺で生かされなかった…。


まとめ

 中将姫さまが隠れ住んだ「ひばり山」は、ここ得生寺の他にも、奈良県宇陀と和歌山県橋本に伝承が残る。どこが本物なのかという点について、私は興味がない。各地に移り住んだことも考えられ、どこも正解なのかもしれない。
 ここ得生寺では、想像していた以上に、中将姫さまの足跡と息づかいが感じられた。堂内に残る浄土経の写経や蓮糸繍の阿弥陀三尊像、中将姫さまのお像、當麻曼荼羅…。これらに加えて、子どもたちによる二十五菩薩練供養がある。人や費用が必要な練供養が今日まで伝えられてきたことに大きな意味と価値があると思う。
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 しかも、子どもが菩薩を務めさせることの意味は大きいと思う。大人が大人だけでお祭りを取り仕切ることは日本でも世界どこでもあるだろう。しかし、得生寺の練供養のように、子どもが主役を務める祭事は珍しいのではないだろうか。
 中将姫さまが少女時代を過ごされた土地で、その徳にあやかろうと現代の子どもたちが菩薩に扮し、来迎の場面を演じる。菩薩面をかぶり、橋を歩くのは、視界も悪いし恐怖心もあるだろう。そんな中、得生寺のお子さんたちは立派に菩薩の役を務めていた。泣き出す子もおらず、とても立派であった。どのように教育がなされているのだろう。長年に渡り粛々と続いてきた伝統なのだろうか。
 中将姫さまを通して、地域が一つになる瞬間を見ることができた。かわいらしく、美しい練供養だった。もうその事実だけで、出かけた甲斐があった。得生寺の練供養が末永く続くことを願っている。

【来迎会】得生寺「中将姫大会式」前編~中将姫寺=得生寺とは~

得生寺練供養レポート前編~得生寺と中将姫~

 和歌山県有田市糸我町、雲雀山得生寺。このお寺の二十五菩薩練供養「中将姫大会式」をお参りした。
 雲雀山は、継母に命を狙われた中将姫さまが13~15歳まで隠れて過ごされた土地と伝わる。このお寺の二十五菩薩来迎会は、子どものときから聡明であられた中将姫さまの徳にあやかろうと、お子さんが菩薩に扮するのが特徴。中将姫和讃を唱えるのも少女たち。阿弥陀様の像を御輿に載せてお運びするのも、お子さんたち。
 中将姫さまへの愛とリスペクトに満ちた練供養で、私も幸せに満たされた。
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 得生寺練供養のレポートは、前編「中将姫寺=得生寺とは」と後編「中将姫への愛がいっぱい」の二回に分けて、お伝えしたい。

 それでは、まずは前編! 得生寺とはどのようなお寺なのか。どのような寺宝が残るのか。その辺りを書きたい。



得生寺とは

 得生寺(とくしょうじ)は、JR紀勢本線紀伊宮原駅から1.6キロほどの場所にある。有田川にかかる300メートルの橋を渡り、川沿いの熊野古道を散歩すると、あっという間に到着する。川沿いは野鳥が多く、ホオジロがさえずり、キジの声も聞こえた。
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(↑この橋が300メートル。歩いて渡ったけど、もちろん誰ともすれ違いませんでした! ちなみに、岡山県の誕生寺の練供養は、菩薩さまの移動の片道が300メートル。得生寺は片道30メートル。いや、特に関係ないですが…、自分も練供養の菩薩さまの気分でこの橋を渡ったことは確か‥。いや、本当にすみませんm(_ _)m)
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(↑熊野古道っぽくない案内だけど、有田川沿いの道は確かに熊野古道らしい)

 得生寺はもともとは近くの雲雀山(ひばりやま)の山中にあった。お寺の山号になっているこの山は、奈良時代に、右大臣藤原豊成の娘、中将姫さまが、継母から命を狙われ、隠れて暮らしたと伝わる場所だ。
 寺伝によると、中将姫さまは13歳から15歳までを雲雀山で過ごされた。奈良の當麻寺で蓮糸の浄土曼荼羅を織り上げ、聖衆来迎により極楽往生される前の話である。
 寺名の得生(とくしょう)は、雲雀山で中将姫さまの生活を支えた豊成の家臣、伊藤春時の出家後の名前である。春時が雲雀山に結んだ庵を起源とする得生寺は、その長い歴史の中で何度か移転し、17世紀初めに、雲雀山のふもとにある現在の場所に落ち着いた。



得生寺境内

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(中将姫会式の幟が立つ)
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(↑正面に見えるのが開山堂)
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(↑左端の建物が開山堂。開山堂の隣の大きな建物が本堂。お堂の前に赤い来迎橋が延びるのが見える。練供養当日はこの橋が本堂まで続いていた)

 ひばり山の伝説は奈良県宇陀、和歌山県橋本と、ここ有田の3か所に残っているそうだ。真実はどうあれ、得生寺をお参りすると、中将姫さまはここに必ずいらしたという気持ちになる。それはきっと、中将姫さまを尊敬する気持ちがここ得生寺に今も息づいているからだ。その大きな証となるのが、この得生寺の練供養「中将姫大会式」なのだと思う。

○開山堂

 開山堂には、中将姫さま、伊藤春時とその妻、妙生の三つの坐像がまつられている。中尊の中将姫像は江戸時代の初め(1686年)の像で、2013年の「極楽へのいざない」展に出展された。脇侍の春時、妙生の両像は、中将姫像より10年ほど後の作で、奈良の當麻寺護念院から譲り受けたことが銘文から明らかになっている。本家、當麻寺との関わりの中で中将姫伝説が受け継がれた証拠といえるだろう。
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(↑奥が開山堂のご本尊。中央の中将姫像は本堂に移されており、お厨子が空になっていた。空のお厨子の手間に二つの坐像が見えるだろうか。これが上記の春時と妙生の像である。さらに手前の立像は「通いの弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来で、普段は開山堂の奥の厨子はまつられる)

 開山堂の向かって左側から奥にかけてスペースがあり、寺宝が並ぶ。その一つが、中将姫さまが写経されたという称讃浄土経。これは実際には平安後期の写経なのだそうだ。中将姫伝説の残る得生寺に伝えられた意義は大きいのではないだろうか。
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 開山堂の本尊の裏側には、5つの小像がまつられる。一つは「通いの弥陀」と呼ばれる30センチほどの阿弥陀如来立像。練供養で活躍される像なのである。
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 「通いの弥陀」は練供養の列に参加するため、お厨子を出て御輿に乗られ、準備万端であられた! (後編で詳述する)

 さらに、中将姫の坐像が2躯。一つは、本尊と同じ15歳のときのお姿で、経典を手に持ち、凛とした表情が印象的だ。
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 もう一つは、29歳のときのお姿で、15歳像とは異なり、どこか遠くを見るような、うっとりとした表情だ。極楽往生される直前のお姿なのだろうか。
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 この二つの中将姫像を挟むようにして、春時と妙生の像がまつられていた。
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 春時は中将姫を殺害するよう継母に命じられたが、信心深い姫を殺めることができず、妻とともに中将姫を匿ったとされる。悲劇を思い起こさせる厳しい表情だ。

○本堂

 本堂は開山堂よりかなり広い。
 本堂の本尊は阿弥陀三尊。阿弥陀、観音、勢至すべてが立像で、観音菩薩は腰を下げて蓮台を掲げ、勢至菩薩も腰をかがめて合掌する。来迎の阿弥陀三尊である。
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 練供養のこの日、本堂の阿弥陀三尊の前に、開山堂の中将姫像が安置されていた。経典を持つその手には、五色の糸が結ばれ、境内の外の柱へとつながっていた。優しい。なんとも優しい演出だ!
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 中将姫さまの前には、百味御膳といって、色鮮やかでユニークなお食事がお供えされていた。これまた優しい。そして、かわいらしい。中将姫さまへの愛に満ちた演出に心が弾む!
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(↑百味御膳の一つ。かわいらしい!)

 本尊阿弥陀三尊の厨子の裏側に、大きな當麻曼荼羅がまつられていた。国の重要美術品に指定されているという。見とれているうちに写真を取り損ねた。
 本堂の向かって左側には、半丈六ほどの大きな地蔵菩薩坐像が目を引く。立派なお姿に胸がきゅんきゅんした。調べたところ、文化財指定は受けていないようだ。なぜだろう!? 地獄に亡者を救いにいく地蔵菩薩さま。悲しみと強さがにじみ出たお姿に泣きそうになる。
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 さらに、中将姫さまの作とされる「蓮糸繍三尊」も。
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 本当に蓮糸なのか、はたまた、本当に刺繍なのか、私の目視では正直わからなかった。しかし、中将姫さまにインスパイアされた三尊像であるからこそ、得生寺に伝わったのだろう。
 今年の夏に奈良国立博物館で「糸のみほとけ」という展覧会が開催されるのだが、このような中将姫さまにまつわるものが多く出展されるのだろうか。


 後編では、5月14日の練供養「中将姫大会式」の模様を熱烈レポートいたします!!
butsuzodiary.hateblo.jp

【来迎会】大阪・常光寺の八尾地蔵練供養~鬼さん登場の怖くて楽しい練供養!~

お参りしたお寺=大阪府八尾市の常光寺(八尾地蔵練供養)
お参りした日=2018年4月30日

 大阪の八尾市という、私のこれまでの人生とは一切接点のない場所へ出かけてきた。常光寺というお寺で、年に一度、練供養が行われるからだ。世間的には、河内音頭の発祥地ということで有名らしいが、そもそも河内音頭が何かさえ私は知らない。
 だが、しかし…! このお寺の練供養に私はとても感激した。それは下町のあたたかいお祭りだった。北海道生まれの練供養ファンが八尾常光寺の練供養をレポートする。
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常光寺とは

 奈良時代聖武天皇の勅願所として創建。平安中期には、本尊地蔵菩薩が霊験あらたかであることから、白河天皇が参詣。それまで新堂寺と称されていたが、足利義満が「常光寺」「初日山」の扁額を奉納したことから、初日山常光寺と呼ぶようになった。近鉄八尾駅から、昭和感満載のアーケード商店街を抜け、徒歩8分ほど。臨済宗南禅寺派


八尾常光寺の地蔵菩薩さま

 ご本尊地蔵菩薩さま(立像)は、寺伝によると、平安時代初期の820年頃、六道の辻衆生を救う地蔵菩薩にお会いした小野篁が作ったものとされる。
 等身大の木彫像で、「袖口の彫りが深く、衣文の表現にも古風な手法がうかがえる」(常光寺サイトより)が、八尾市の文化財サイトによると南北朝時代の作とされる。寄木造り。玉眼嵌入。市指定文化財
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(写真は八尾市のサイトより)


大般若会(八尾地蔵練供養)

 2018年4月30日の八尾地蔵練供養を振り返ってみよう。

15:00
 女性の司会者のアナウンスで練供養開始。まずは、市長挨拶を司会者が代読。その後、寺歴紹介。

15:02
 本堂横の部屋から、まずは赤鬼さんが登場。境内には、長さ50メートル、高さ2メートルの橋が渡されている。本堂の右端と左端をつなぐこの橋で、次々とお練りの列が進む。
 赤鬼と青鬼さんは歩きながら、うぉーっと声を張り上げ、かっこよくポーズを決める。
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 その後に続くのは恐ろしい閻魔大王…。のはずだが、なぜかこの閻魔さまは物腰が穏やかで、弱気な役人風。動きもなんだかふわふわしてて、思わず笑ってしまった。すみません、閻魔さま! 
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 閻魔さまに気を取られていると、練供養の見物に来ていた小さな男の子が泣き出していた。やはりお子さんには、鬼さんと閻魔さまがものすごくこわいようだ。パパに抱っこされて、かなり本気に泣いている坊やのかわいらしいこと。子どもには本当にこわいのだ! 自分は大人で本当によかった!!
 閻魔さまのすぐ後ろに、楽人が4人続く。それぞれ異なる種類の笛で演奏。雅楽の生演奏は気持ちがよい!
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 この後には、お子さんたちの列が続く。まずは、僧侶の格好をした少年が5人。八尾では、なぜか「親鸞さん」と呼ばれている。ちなみに、常光寺は臨済宗南禅寺派だ。なぜ親鸞さんが少年の姿で5人も必要なのだろう。その後には、「お稚児」さん(女の子)と「小坊主」さん(未就学児ぐらいのたぶん男の子)が何人も続く。
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(↑常光寺の公式サイトより)
 親鸞さん、お稚児さん、小坊主さんたちは、橋を渡りながら、少しずつ散華をまく。一人の親鸞さんが一枚ひらひらと散華を橋上から落とし、「おばあちゃん、拾えた?」と叫んだのには思わず吹き出した。おばあちゃんは「うん、ほら、拾えたよー」と嬉しそう。それを見ていた見物の人たちも嬉しそうだった。
 一方、小坊主さんは親鸞さんよりかなり幼い。パパとママに手を引かれながら、始終泣き通しで橋を渡る小坊主さんもいた。年齢は2、3歳だろか。
 お子さんたちはコスプレしてはいるものの、菩薩面をかぶってないので、写真掲載は自粛するが、このお子さんたちの列はかなりかわいい。見物人のほとんども、お稚児さんたちのご家族のようだ。車椅子のおばあちゃまもおられた。家族でよい思い出を刻まれたことだろう。

 そして、ついに、仏さまたちが登場する! 

15:15
 最初の如来さまが登場。
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 如来さま7尊がそれぞれ異なる持物を手に、橋をわたられる。
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 他の練供養(二十五菩薩来迎会)とは異なり、常光寺さまに登場するみほとけは、最後の地蔵菩薩を除き、菩薩ではなく如来と呼ばれている。意匠的には菩薩かと思うのだが、如来と呼ばれるのには何か理由があるのだろう。常光寺のみの特徴と言えるのではないか。
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 如来さまのファッションはやや個性的だ。お面はお体に対して少し大きめ。上半身には、昔のブラウスを改良したようなものを身に付け、下半身にはやはり昔気質のロングスカートのようなものを履かれている。この手作り感がたまらない。
 ただ、如来さまの茶色の靴下と生足が時々見えてしまうのがかわいそうに思えてしまう。せめて長靴下にするのはどうだろう。いや、それは衆生のつまらないこだわりか…。
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 如来さまたちは介添え人もなく、ゆるゆると進む。みほとけのトリを務めるのは、白いお顔の地蔵菩薩さま。常光寺練供養の主役である。左手に錫杖、右手に如意宝寿を持ち、地獄へ亡者を救い行かれるお姿だ。
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 地蔵菩薩の後にはお坊様8人が散華しながら続き、練り行列の往路は終了した。
 加古川の西方寺や大阪平野の大念仏寺などのように、練り歩く各菩薩のお名前を紹介するアナウンスはなく、どの方がどの如来だったのかは分からなかった。七如来さまと地蔵菩薩さまということしか、わからなかった。

15:25
 練供養の列の最後の僧侶が本堂に到着。私も本堂に近づいてみると、堂内には稚児やみほとけの姿はなかった。本堂では、10名を超える僧侶による大般若会の法要が始まった。如来さまたちは、練り行列の復路(練り返し)に備え、控え室で休まれているのだろう。法要はまずは般若心経からスタートした。やや高速で般若心経が唱えられる。

15:30
 本堂前にて、般若経の教典を僧侶から肩に当てていただく加持祈祷が始まる。
 先ほどまで練り行列を見て、笑ったり泣いたりしていた人たちが、司会者のアナウンスに従い、本堂前に集まり、次々と加持祈祷を受けていく。「願い事のある方は本堂前にお集まりください」というアナウンスが印象的だった。厳粛な雰囲気の中、参拝者が次々と肩に経典を当ててもらっていた。
 その間、堂内では、僧侶が大般若経を扇子のように広げる仕草を続ける。
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15:40
参拝者への加持祈祷が終わり、堂内では僧侶による法要が続けられる。念彼観音力!
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15:50
練り行列の復路、いわゆる練り返しが始まる。赤鬼と青鬼、閻魔さま、如来さま、地蔵菩薩さま、稚児さんたち、という順番で列が続く。

16:05
練返しの途中、稚児さんたちが橋の全体に並んだ辺りで、餅巻きタイム開始。
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16: 07
餅巻きの終了をもって、練供養は終了となった。

感想

 
地蔵菩薩が主役の練供養。地蔵菩薩は地獄に落ちた人を救いに来てくださる仏さまだ。最初に地獄を代表する鬼と閻魔さまが登場し、みほとけが続くという構成から、地蔵菩薩のありがたさを目に見える形で伝えようとするものなのだと思う。その一方で、たくさんのお子さんが登場し、ご家族がお子さんを応援するという微笑ましい練供養でもあった。加持祈祷あり、餅巻きあり。地蔵菩薩さまを讃える信仰促進と庶民の楽しみが結びついた素晴らしい行事だと思った。八尾地蔵練供養の歴史は比較的新しく、明治末期以降だという。お子さんが泣いてしまう、鬼さん登場の練供養。これからも末長く続きますように。

【参拝案内】
初日山常光寺(臨済宗南禅寺派
〒581-0003 大阪府八尾市本町5-8-1
TEL 072-922-7749

名作誕生展(東京国立博物館)に一木造り薬師如来立像が林立!

東京国立博物館、「名作誕生」展(創刊記念『國華』130周年)の冒頭に、一木造りの薬師如来立像が林立する。唐招提寺から、和様の兆しを見せる春光寺まで、平安前期の一木像の違いを堪能できる。

特に、先週お参りしたばかりの孝恩寺の薬師如来立像の破壊力にやられた。奈良の元興寺の薬師さまは背中の板が外され、内ぐりを観られた。もうどうしましょう。奈良県桜井市笠区の薬師さまも、淡路島の薬師さまも、迫力ありすぎて、身動きできなくなる。開催期間中に再訪しなければ。

東京都あきるの市・大悲願寺の伝阿弥陀如来と両脇侍像(重要文化財)

 
お参りした仏像: 大悲願寺の伝阿弥陀三尊(重要文化財
訪ねた日: 2018年4月22日(日)

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 写真はお寺のパンフレットより

 

大悲願寺とは?

 東京多摩西部、あきる野市の大悲願寺には、平安末期から鎌倉初期とみられる伝阿弥陀三尊像がおられ、毎年4月21日と4月22日に開帳されている。といっても、終日開帳されるわけではなく、時間が決まっている。今年は21日が11時と15時、22日が13時と15時だった。

 お寺の周りは豊かな自然が保たれている。立川駅からJR五日市線に乗り継ぎ30分ほどの場所に、のどかな光景が広がる。お寺の裏が横沢入の里山保全地域。昔ながらの里山が意図的に保全されている。横沢入りには日本野鳥の会奥多摩支部の探鳥会に出かけたことも懐かしい。春には少し遠い時期の探鳥会で、アオゲラのほか、ヒレンジャクも見られた。

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 大悲願寺は建久2年(1191年)に源頼朝の命を受けた平山季重(すえしげ)によって創建。これまで火災にあったことがないそうだ。秀吉の八王子城攻めのときも、第二次世界大戦関東大震災のときも被害がなかったという。

 阿弥陀三尊がおられるお堂は写真のとおりである。無畏閣(観音堂)と呼ばれ、あきる野市文化財に指定されている。

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 寄棟造り、茅葺き型の板葺き。1794年に建立され、1834~1842年に羽目板などの彫刻部分が付け加えられたとみられる。2005年1月から2006年12月にわたって半解体修復工事が行われ、堂の彫刻部分に鮮やかな色彩がよみがえった。

 屋根の下に浮き彫り彫刻が見えるだろうか。これが四面の壁にめぐらされている。日光東照宮や熊谷の聖天堂を思わせる素晴らしさだ。正面向かって左側に極楽図、右側の彫刻は地獄図だ。修復後10年余り経っても、色彩は健在だ。

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 阿弥陀三尊の撮影は禁止だが、堂内は撮影許可がでた。堂内の大きくて立派な厨子の中に三尊さまはまつられていた。

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阿弥陀三尊の製作時期は?

 実は、大悲願時の伝阿弥陀三尊のご開帳に行くのは初めてではない。2009年にお参りした。そのときに若気の至りで書いたのがこちらのブログである。

hiyodori-art2.cocolog-nifty.com

 寺の歴史など調べて書いたとは思うのだが、なにぶん若気の至りで、自分の無知への配慮がない。恥ずかしい部分とは、「一体いつ頃の作品なのか」と投げかける部分である。2018年4月22日、9年ぶりに拝観した私は、この部分を全力で訂正したい

  私は特に、「平安期の仏像を模した江戸時代の作品かも」と書いたことを気にかけてきた。毎年4月のご開帳が近づくと、上記の記事へのアクセスが増える。そのたびに申し訳ない気持ちだった。
 制作年代については、詳しいことは分かっていない。これは事実である。しかし、専門家の意見では平安後期から鎌倉初期であろうということである。これも紛れもない事実である! この事実にもっと謙虚であるべきだった。

 また、「三尊の形式や表現が一致している」と書いてしまっていることについても、「あほか!」と当時の自分を激しくしかりたい。

 これを踏まえ、製作時期について、今回9年ぶりに自分の目で感じたことを以下に記す

 

 まず、住職のお話では、伝阿弥陀三尊の制作年代は不明だが、識者によると西暦1000年頃で、像によって100年ぐらいの時差があるのではとのこと。

 阿弥陀如来は彫りが薄く、ご尊顔穏やかで、脇からのぞくとお体が薄め。平安末期の穏やかさと気品が満ちている。

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 勢至菩薩坐像はご尊顔が鎌倉初期の慶派っぽく、髻も若干高め。身体つきも阿弥陀さまに比べると、引き締まって、若干、後の時代を感じさせる。ただし、衣文の彫りは薄め。おそらく阿弥陀さまより後に制作されたのだろう。(写真の角度だとわかりにくいが、目の切れ方などが慶派っぽく感じた)

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 脇侍の観音さまはなんと千手観音坐像。頬に力がみなぎるが、制作年代になると私の能力では、わからないとしか言いようがない。頭上の化仏や複数の腕が後補かもしれないし、腰付近の衣の一部だけがひらひらしており、脚まわりのおとなしい彫りとは異なっている。後の手が入っているのを感じる。一言で言うと、よくわからない。

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※各三尊の写真は冒頭の写真のトリミング(見にくいかと思うが、参考まで)

 

 

 
 うーん。上記のように9年後の感想を書いてみたが、改めて読み返すと、あまり成長していないような気がしてきた...。ブログを書くとは、自分の恥をさらすことでもある。

 お寺の公式写真では、細かい点はわかりにくい。帰ってから、手元の資料と細かい点を見比べることができなずにいる。もやもやは残ったままだ。また私は大悲願寺をお参りしないといけない。来年になるか、再来年になるかわからないが、また拝観する機会がほしい。そのときまでに、もっと成長した自分になっていなければならない。仏像拝観の道はときに修業なのだ。

 

 なお、文化財指定が伝阿弥陀と、「伝」がついていることについて、住職は、阿弥陀さまとしては珍しい法界定印を結んでいることを挙げていた。一方、光背には、それぞれ、観音、阿弥陀、勢至の種字が書かれているそうだ。光背の製作時期はわからない。お像の製作時期はどうあれ、光背の製作時には阿弥陀三尊としてまつられていたということなのだろう。

 

 わからないことばかりである。私にはわからなくても、美しい三尊は平成の世まで伝えられた。非常にありがたい!

 最後に、境内で咲いていたボタンの花の写真を貼って終わることにする。ボタンがきれいなのは、大悲願寺が真言宗豊山派で、奈良の長谷寺の末寺だからか。

 ボタンもきれいだが、秋に咲く白萩は伊達政宗に献上したものだそう。15世住職が政宗の弟、秀雄だったのだとか。9月頃またお参りにきてほしいと住職がおっしゃっていた。野鳥観察と桧原村の温泉を兼ねて、のんびりお参りしたい。

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 【参拝案内】

大悲願寺

 〒190-0141 東京都あきる野市横沢134 

重要文化財の伝阿弥陀三尊は毎年4月21日と22日にご開帳。開帳時間が決まっているので、事前に要確認。

楼門とその天井画は市の文化財。仁王像が睨みをきかせる。本堂には金剛界大日如来坐像をまつる。

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2018年の新指定文化財展(東京国立博物館)

毎年この時期に東京国立博物館で開催される新指定文化財展。2018年度の彫刻の部を急ぎ拝観してきました。初めてお会いして興奮した2尊と、何度かお会いしたけどやっぱり大好きな快慶仏1尊をご紹介します。いずれも今回、重要文化財に指定されました。

東川院(岩手県一関市大東町

木造観音菩薩坐像(114 .3 cm)

文化庁の説明によると、「穏やかな作風に平安末期の彫刻様式を示す。奥州平泉で藤原三代による寺院造営に携わった仏師の手によると推定。吊り気味の目など新しい傾向もみられ、1170~80年代頃の製作と考えられる」。中尊寺金色堂の諸像と比べるとがっしりした印象をもった。上品だが、威厳と力強さも感じる。お寺で拝観できるだろうか。
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西光寺(愛知県津島市

木造地蔵菩薩立像(159.6cm)

運慶周辺の仏師による。最近行われた保存修理により納入品が発見され、1187 ~1193 年頃にかけて行われた諸国勧進により多くの結縁者を得て製作されたことが判明。たくさん押された印仏など、胎内納入文書の一部も公開されている。力を合わせてみほとけを造立するとはなんと尊いことだろう。
六波羅蜜寺の鬘掛(かつらかけ)地蔵菩薩立像と同じく、左手に頭髪を持った珍しいお姿とのこと。しかし、六波羅蜜寺の鬘掛地蔵尊平安時代なのに対し、西光寺の地蔵尊は明らかに慶派の影響がみられる。六波羅蜜寺の鬘掛地蔵と運慶地蔵坐像や康慶の地蔵坐像(富士市瑞林寺)が混ざり合ったような不思議な感覚で拝んだ。
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圓常寺(滋賀県彦根市

木造阿弥陀如来立像(快慶、98.8cm)

トーハクのあの場所で三尺阿弥陀を幾つか拝んでいるが、この快慶仏は一目で他とは違う。別格だと思った。「比類なき」とはこういう時につかう言葉だと実感した次第。快慶さんが大好き!
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なお、京都の東寺食堂の火災にあった四天王像が、修復後の状態が安定したという理由で、重要文化財の再指定を受けたのはうれしかった。この展覧会にはお出回しではないが、東寺で何度かお会いし、四天王さまの迫力と火災による被害のいたましさを実感した記憶がある。
同じく東寺からは、夜叉神堂の一対の夜叉神像が重要文化財に指定。現在、東夜叉神像がこの展覧会に出展中である。破損が著しいが、9世紀末にさかのぼるとされる一木の霊験仏である。


写真は文化庁プレスリリースのものをお借りしました。
詳細を解説したPDFが以下のサイトからダウンロードできます。勉強になります。
www.bunka.go.jp

仏像リンクDeep大阪2日目速報

仏像リンクDeep大阪ツアー。2日目にお参りした仏像につきまして、スピード重視でお伝えします。
(16:20 初掲載。21:50に尊延寺を追記)

2018年4月15日(日)
1) 孝恩寺(大阪府貝塚市)浄土宗

平安時代中期の本尊阿弥陀如来などの仏像群19体と板絵1枚が収蔵庫に安置。いずれも重要文化財
虚空蔵菩薩立像は60年ほど前から大阪市立美術館に寄託。また、薬師如来立像は現在トーハクの国華展にお出まし中)

周辺に榧の原木が多くあったと考えられ、ほとんどすべてが榧の一木造り。平安の一木像が林立する収蔵庫内はあまりに圧巻。「榧の一木造り、さ、い、こ、う…!」とつぶやいて、そのまま息絶えてしまいそう。
ご本尊脇侍の伝観音菩薩立像は金色の引き締まった上半身。下半身には黒漆の衣をまとう。この美的センスに魅了される。
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木造跋難陀龍王立像、阿弥陀の説法印を結ぶ弥勒菩薩坐像など。
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孝恩寺には2015年の仏像リンク以来、二度目だが、今回は本堂(国宝釘無堂)の内陣もお参りできた。来迎阿弥陀三尊と法然善導両上人。阿弥陀さまが美仏。仏教大学で教鞭をとられた住職のお話も伺え、ありがたかった。


2) 千原大師堂(大阪府泉大津市) 
十一面観音立像
123.8センチ。10世紀頃。大阪府指定文化財
独特なご尊顔から、泉州の地方仏師によるとみられる。同様のお顔をされた例は、堺市に、大平寺阿弥陀如来坐像と金福字地蔵菩薩立像があるのみ。
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3) 天野山金剛寺大阪府河内長野市
木造大日如来坐像(平安末期)、木造不動明王坐像、木造降三世明王坐像(鎌倉時代
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平成の大修理を経て、昨年、国宝に指定。金堂の修理も終了し、今年3月末から4月18日にかけて、金堂落慶記念の特別拝観が行われた。大日如来不動明王降三世明王の三尊は尊勝(そんしょう)曼荼羅に描かれる特殊な形式。

胎内にあった墨書から、1234年に完成したことや、3体がそろうまで約50年という歳月がかかっていたことが判明。また、不動明王の胎内に快慶の弟子、行快(ぎょうかい)の名前が見つかった。作風から降三世明王も行快の作と考えられる。

金堂落慶までのここ数年、大日さまと不動さまは京都国立博物館に、降三世明王奈良国立博物館に安置されてきたが、ついに三尊が金堂におそろいになった。奈良と京都の博物館でお会いした仏像ファンは多いと思う。

私は特に、奈良国立博物館に行く度に、降三世明王さまに睨まれるのが好きだった。奈良博の一室を占拠し、大きな力を放っていた降三世明王さま。金剛寺金堂で三尊が並ぶと、奈良の時のような窮屈さはまったくない。金堂がいかに広い空間なのかを、奈良博との比較で感じる。
やはりこの三尊はこの空間にあるべき三尊なのだ。それは間違いない。しかし、降三世さまに間近で存分に睨まれた奈良博の環境も愛おしく、懐かしく感じた。
三尊お並びになると、降三世明王に特に動きと迫力があり、際立ってうまいと感じる。

なお、尊勝曼荼羅仏画)は今年初めの仁和寺展(東京国立博物館)で拝見。同じく仁和寺展にお出ましだった平安後期の五智如来像が五仏堂におられ、堂外から覗き込み、拝観できた。五智如来さまの後ろに、真数千手観音立像がなにげなくお立ちで、仏像リンク参加者の注目を集めた。


4) 日野観音寺(河内長野市日野)
木造大日如来坐像
147センチ。檜の寄木造り。12世紀 。重要文化財

日野観音寺は、金剛寺と同じ頃に創建され、金剛寺の奥院だったが、秀吉の根来攻めの際、一堂のみ残して全焼。
現存する大日如来坐像は、本体、台座、後背とも当初のもの。よくぞ残られた。平成26年に保存修理。
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5) 観福寺(和泉市
弥勒菩薩坐像
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胸から腹へが引き締まり、若々しい筋肉が露出する。木造だが、表面に乾漆仕上げあり。これらの特徴から、天平時代にさかのぼる像だと考えられる。左腕の飾りの文様が造立当初のもの。
観福寺本堂の正面から斜め左に見える山に、今も春日神社がある。その神宮寺だった宗福寺(そうふくじ)が明治の初めに廃寺になり、仏像がすべて観福寺に移された。弥勒菩薩坐像はそのうちの一体。他に五大明王(ただし、一体を欠く)、七仏薬師(六体は雲に乗る)および弘法大師像。


6) 正伝寺(大阪府四条畷市融通念仏宗
薬師如来立像
181.1センチ。近くの森福寺にまつられていたが、明治の初めに廃寺に。その後、村人が管理してきたが、堂の老朽化に伴い、正伝寺に移された。
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一木の古様な造り。彫りは浅い。
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ぷっくりあんよは後補。
融通念仏宗大本山大阪市平野の大念仏寺。大念仏寺と言えば、5月の華麗な練供養を思い出してしまう。本堂入って左の壁の上に来迎図があった! 
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堂内で優しい住職からお話をいただく。

7) 尊延寺(大阪府枚方市
五大明王大日如来坐像

五大明王のうち、降三世明王立像(158.0センチ)と軍茶利明王立像(158.9センチ)が重要文化財平安時代後期(11世紀前半)。中央の仏師の手になる等身大の明王像。寄木造。
左脚を上げた軍茶利明王の躍動感が好き。脚や腕に執拗なまでに蛇さんを巻き付け、やる気満々。
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不動明王立像(161.3センチ)、大威徳明王坐像(92.7センチ)、金剛夜叉明王立像(157.0センチ)は枚方市指定文化財

文化財指定に差があるとはいえ、この尊延寺さまの空間に、この五大明王さまが並ばれると、なんだか自分の中でテンションが上がってくる。コミカルで力強い。多少の失敗はやらかしそうだが、いつでも必ず庶民の味方になってくれる。そんな感じの五大明王さまである!

同じく枚方市指定文化財地蔵菩薩立像は修理中で、お会いできず。93.3センチの一木造り。10世紀頃か。枚方市文化財サイトによると、奈良県室生寺近くの安産寺の地蔵菩薩立像(重文)や、法隆寺地蔵菩薩立像(国宝)に類似するお姿なのだとか。どちらも大変美しく神々しいみほとけではないか。大変気になる!
一方、尊延寺さまでは「雨乞い地蔵さん」として、お寺周辺の田んぼに置かれていたと伺った。文化史的には日本を代表するお像と比較されながら、地元で庶民の信仰を集めてきたことに、胸が熱くなる。
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本堂入口の寺務スペース的なところに、地蔵菩薩さまの台座が残されていた…。かなり衝撃的な光景である。修理が済んだら、必ずお会いしにいきたい!

仏像リンクDeep大阪1日目速報

仏像リンクさんのdeep大阪ツアーに参加中。以下、一日目の速報。間違いあるかもしれませんが、スピード重視でお届けします。後ほど追記と訂正すると思います。

1) 朝日山神蔵寺(京都府亀岡市臨済宗妙心寺派

ご本尊薬師如来坐像(重文)
日光菩薩月光菩薩立像(市指定文化財

比叡山の真西、朝日山の麓にある。790 年、最澄創建。比叡山から見て朝日が昇る場所に最澄薬師如来をまつった。
1575年、織田信長の命により、明智光秀の兵火で寺内のほとんどが延焼。本尊薬師如来坐像は布にくるんで逃げ、生き延びた。脇侍の日光月光菩薩立像は、やはり同じ戦火の被害を受けた別の寺から譲り受けた。
定朝様の薬師如来坐像は貫禄があり、優美。脇侍は髻が高く、鎌倉か。
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豊かな自然に囲まれ、大変美しいお寺。お池の名前は大正池。水面のグリーンに息をのむ。

2) 涌泉寺(大阪府豊能郡能勢町
日蓮宗

大威徳明王坐像
102.7センチ。一木割はぎ。平安12世紀頃。六面六臂六足の憤怒形。能勢町指定文化財
(平安後期とされてきたが、平成13年から14 年の京都美術院国宝修理所の修復時に、平安初期9世紀の作かもと言われた)
多宝如来坐像
94.8センチ檜寄木造り。彫眼。平安後期12世紀。大阪府重文。仏師「経深」の銘あり。
釈迦如来坐像
86センチ。檜寄木造り。彫眼。平安後期から鎌倉初期。

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もと真言宗のお寺で、大威徳明王坐像、阿弥陀如来坐像および薬師如来坐像という密教系の三尊だった。
日蓮宗に改宗する際に、阿弥陀如来多宝如来に、薬師を釈迦如来に作り変えたのだとか。ご住職のお話がユニークかつ優しくて、「如来さんのお姿はどれもよく似ているから、手の形を変えるだけで簡単に変更できた。でも、大威徳明王はお姿が独特すぎて、変えようがなかった」とのこと。

3) 安穏寺(大阪府豊能郡能勢町

東向き十一面観音菩薩立像
106.7メートル。四臂の十一面観音菩薩立像。檜、寄木造り。彫眼。12世紀。大阪府重要文化財。恵心僧都源信の作と伝わる。

応和二年(962)に建立された観音堂が安穏寺の開創と伝わる。四臂(腕が4本)の十一面観音立像は、わが国に7例しか残っていない貴重な遺品。平安時代1躯、鎌倉時代4躯、南北朝1躯。

1314年に「村内安穏」のため修理したとの記録あり。火除けの観音さまと伝わる。
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4) 慶瑞寺(大阪府高槻市黄檗宗
木造菩薩坐像
昭和61年に本堂から見つかる。8~9世紀頃または平安初期の作。重要文化財
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5) 高槻市山手町の薬師堂(大泉寺の境内)

薬師如来坐像
86.0センチ。平安後期。高槻市文化財
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6) 安岡寺(大阪府高槻市
木造千手観音坐像
10世紀後半とみられる。重文。もと真上にあった安正寺の本尊と伝えられ、安岡寺の客仏。
兵庫県普門寺、香川県屋島寺と並び評される、迫力と重量感あるお姿。
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2018年3月の仏像拝観リスト

 2018年3月は仏像リンクさんで一日千葉へ。
 その後、神奈川と静岡で、それぞれ半日かけて仏像めぐり。
 まったくの偶然ではあったが、静岡に行く前日に牧野隆夫さんから『伊豆の仏像修復記』が届いた。クラウドファンディングのリターンである(牧野隆夫さんのクラウドファンディング(ぜひご検討ください!) - ぶつぞうな日々 part III
 牧野さんが修復された国清寺と旧桑原薬師堂の仏像を訪ね、感動もひとしお。今後は"牧野仏" をめぐりたい。
 3月の拝観リストは以下のとおり。

2018年
3月3日
仏像リンク
千葉県
市原市 日光寺 木造聖観音立像
県指定 像高3.32メートル、10世紀後半か。彫眼、桜、一木造。大きな内ぐりがあり、観音像の背面より覗くことができる。

富津市 東明寺
・木造薬師如来立像
(県指定文化財、カヤの一木造り、2.16メートル)
・お前立ち薬師如来立像
(ご本尊薬師のすぐ横に、お顔と前面しかない破損仏。ご本尊さまより100年ほど新しい)
・お前立ち薬師の後ろの厨子地蔵尊秘仏。開扉なし)
十二神将

館山市立博物館
千祥寺所蔵の木造如来形坐像
館山市指定文化財
10世紀末、73センチ
・不動さま明王坐像
南房総市文化財
1588年、里見義康の銘あり

南房総市 小松寺
木造薬師如来立像特別開帳
平安時代不動明王立像、他

南房総市 真野寺
木造千手観音立像(覆面観音)
木造二十八部衆立像
風神雷神
大黒天

3月17日
神奈川県西部
○鎌倉国宝館
 常設 鎌倉から仏像
 特別展 「仏像入門~のぞいてみよう!ウラとワザ」
高徳院鎌倉大仏
海老名市・龍峰寺(千手観音ご開帳)

3月31日
静岡県
沼津市大平・龍音寺 聖観音立像(市指定、平安)
伊豆の国市・国清寺 仏殿 釈迦如来坐像(市指定、鎌倉)
伊豆の国市・国清寺 毘沙門堂仁王門の仁王像(県指定、鎌倉)
毘沙門堂への参道 巨岩の線刻の大日如来など
かんなみほとけの里美術館
阿弥陀三尊(実慶、重文)
薬師如来坐像(平安、県指定、一木)
十二神将(鎌倉、県指定)
聖観音立像(平安、県指定)
地蔵菩薩立像(平安、県指定)
毘沙門天立像(平安、県指定)
不動明王立像(室町以降、町指定)
空海上人像(江戸時代以降、町指定)
・経巻上人像(江戸時代以降、町指定)
butsuzodiary.hateblo.jp


以上